第1話:灰色の日常
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夜明け前の東京は、まだ眠っている。
ビルの谷間を縫うように伸びる路地裏。街灯の光すら届かない薄闇の底で、男が壁に背をつけて座り込んでいた。
スーツは破れ、口元から血が垂れている。だが男の目は死んでいない。右手に淡い紫色の光が渦巻いている——異能の残り火だ。
「く、来るな……ッ!」
男が叫んだ。声は路地裏の壁に跳ね返り、虚しく夜空に溶けた。
その前に、一つの人影が立っていた。
黒い外套。フードの奥に、表情のない目だけが覗いている。身長はそこそこ。体格も特別大きくはない。だが、その佇まいには——異質な静けさがあった。まるで、人間の形をした「空白」のように。
「俺を誰だと思ってる……! B級異能者だぞ! お前みたいな——」
男が右手を突き出す。紫色の光が膨張し、路地裏の空気が軋んだ。重力を歪める異能——直撃すれば人間の骨など粉々になる。
だが、外套の人影は一歩も退かなかった。
無造作に、前へ出る。
男の右手に——触れた。
それだけだった。
紫色の光が、ろうそくの火を吹き消すように消えた。
「——は?」
男の顔が凍りついた。指先に力を込める。何も起きない。もう一度。何も。異能の気配が、微塵も感じられない。
「な……なんだ、これ……俺の、異能が——」
その言葉が終わる前に、視界が揺れた。
鳩尾への一撃。音もなく、予備動作もなく放たれた拳が、正確に急所を抉った。男は声も出せずに崩れ落ち、濡れたアスファルトに倒れ伏した。
外套の人影は、男を一瞥もしなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を指で叩く。送信されたメッセージは一言。
『完了』
それだけ済ませると、外套を脱いだ。
その下にあったのは——どこにでもあるような、紺色のブレザー。胸元には校章。左襟には「2年」のクラスバッジ。
黒瀬零は外套を丸めて鞄に押し込み、路地裏を後にした。
東の空が、薄く白み始めていた。
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朝の聖嶺学園は、どこにでもある普通の高校と変わらない。
校門前に溜まる生徒たち。自転車を停める者、友人と談笑しながら歩く者。桜の季節はとうに過ぎ、初夏の風が校庭の木々を揺らしている。
黒瀬零は、その風景の中を影のように歩いていた。
誰とも目を合わせない。誰にも話しかけない。周囲の生徒たちも、彼に注意を払わない。窓際最後列の席に座る、いつも寝ているか本を読んでいるだけの——存在感のない男子生徒。クラスメイトの大半は、彼の名前すら覚えていない。
二年三組の教室に入ると、黒瀬はまっすぐ自分の席へ向かった。窓際、最後列。壁に一番近い角の席。四方のうち二方が壁と窓に守られた、彼にとって最も安全な場所。
鞄を机のフックにかけ、腕を組んで目を閉じる。数時間前に路地裏で人を殴った右手が、制服の袖の下でかすかに痛んだ。
——まだ三十分もある。寝よう。
意識が沈みかけた、その時。
教室の空気が変わった。
廊下から聞こえてくるざわめき。足音が近づく。男子生徒たちの声が弾み、女子生徒たちの囁きが重なる。教室の扉が開く前から、誰が来るのか全員がわかっていた。
ガラッ、と引き戸が開く。
「おはようございます」
凛とした声。春の陽光のように透き通った声だった。
白石凛。
聖嶺学園二年三組——いや、全学年を見渡しても並ぶ者のいない美少女。艶やかな黒髪はウエストまで真っ直ぐに流れ、白い肌は陶磁器のように滑らかだ。切れ長の瞳は深い紺碧で、見つめられた者は一様に息を呑む。
成績は常に学年首席。運動神経も抜群。生徒会長として学園を取り仕切り、教師からの信頼も厚い。完璧という言葉がそのまま人の形を取ったような存在。
「白石さん、おはよう!」
「凛ちゃん、今日も可愛い〜!」
「おい見ろよ、今日も天使だぜ……」
教室が華やいだ。白石が一歩踏み入れるだけで、空間の色が変わる。
教壇の前で足を止めた白石は、いくつもの挨拶に微笑みを返しながら、ふと——教室の奥に目をやった。
窓際最後列。腕を組んで眠っている——あるいは、眠ったふりをしている男子生徒。
クラスで唯一、自分の登場に反応しない人間。
白石はわずかに首を傾げたが、それ以上は気にせず自分の席に向かった。
黒瀬は薄目を開けて、それを確認した。
——よし。今日も無関心ポジションは維持できた。
掃除屋にとって、目立つことは死を意味する。日常に紛れ、誰の記憶にも残らないこと。それが黒瀬零の処世術であり、生存戦略だった。
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「——で、お前は今日も寝てたわけだ」
昼休み。屋上のフェンス際に座り込んだ黒瀬の隣で、大柄な男子生徒が呆れた声を出した。
鋼田鉄心。
身長百八十五センチ、体重九十キロ。柔道部のエースで、見た目だけなら完全にヤンキーだが、中身は面倒見のいい人情家。そして黒瀬零の——おそらく、唯一の友人だった。
なぜこの二人が友人なのか。クラスメイトの誰もが不思議に思っている。陰キャの極致と体育会系の巨漢という、これ以上ないほど水と油の組み合わせ。だが当人たちにとっては、互いに「余計な詮索をしない」という暗黙の了解が心地よかっただけの話だ。
「寝てない。目を閉じて思考を整理していた」
「それを世間では寝てるって言うんだよ」
鉄心がコロッケパンを豪快に頬張りながら笑う。黒瀬は自分で作った弁当——白米、卵焼き、ほうれん草のおひたし、鶏の唐揚げ——を黙々と食べている。
「にしてもさぁ」
鉄心が校舎の方を見ながら、にやけた顔をした。
「白石さん、マジで可愛いよな。今日の朝もヤバかった。あの笑顔、もはや兵器だろ」
「……興味ない」
「出たよ、『興味ない』。お前さぁ、本当に高校生か? 血通ってんのか? あの白石凛だぞ? 全校男子の九割が惚れてる真性の美少女だぞ?」
「残りの一割に俺がいるだけだ」
「いや、残りの一割は女子に興味ない連中か、白石さんの存在を知らないモグリだ。お前はどっちでもないだろ」
黒瀬は唐揚げを箸で摘まみながら、淡々と答えた。
「目立つ人間の近くにいると、こっちまで目立つ。迷惑だ」
「お前の価値基準、全部『目立つか目立たないか』だよな。もうちょっと青春しろよ」
鉄心はそう言って笑ったが、黒瀬は表情を変えなかった。
青春。普通の高校生活。
それは黒瀬零が——この世で最も手に入れたくて、最も手に入れにくいものだった。
屋上から見下ろす校庭では、昼休みを楽しむ生徒たちの声が風に乗って聞こえてくる。サッカーボールを蹴る者、日向でおしゃべりをする者、ベンチで漫画を読む者。
当たり前の光景。何の変哲もない日常。
数時間前、薄暗い路地裏で男の意識を刈り取った手で、今は弁当を食べている。
この落差を、黒瀬はもう何年も前から受け入れていた。受け入れるしかなかった。
「……唐揚げ、うまいな」
小さく呟いた言葉は、風に紛れて鉄心には届かなかった。
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六時間目が終わり、帰りのHRが始まる前の短い休憩時間。
黒瀬は鞄を肩にかけ、教室を出た。HRには毎回出ているが、終了と同時に誰よりも早く姿を消す。それが彼の日課だった。
下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かう。
夕方の風が頬を撫でた。西日が校舎のガラスに反射して、廊下をオレンジ色に染めている。
ふと、視線を感じた。
黒瀬が顔を上げると——生徒会室の窓が目に入った。
三階の端。開け放たれた窓の向こうに、白石凛が立っていた。
書類を手にしたまま、こちらを見ている。
目が合った——ような気がした。
白石が微笑んだ。風に黒髪がなびき、夕日の光が彼女の横顔を金色に縁取った。
黒瀬は即座に視線を逸らした。何の感情も浮かべずに、足を速めて校門を出る。振り返らない。目を合わせない。関わらない。
——俺の日常に、あの手の人間は不要だ。
背中が校門の向こうに消えていくのを、白石は窓辺に頬杖をついて見送っていた。
「……変わった人」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
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黒瀬のアパートは、学園から電車で二駅、さらに徒歩十五分の住宅街にあった。
築四十年の木造二階建て。外壁のペンキは剥げ、階段の手すりは錆びている。家賃三万八千円。風呂トイレ別なのが唯一の取り柄。
一〇二号室の鍵を開け、中に入る。
六畳一間。必要最低限の家具しかない。折り畳みテーブル、布団、小さな本棚、安物の冷蔵庫。壁には何も飾られていない。生活感があるのに、どこか空疎な部屋。
黒瀬は制服を脱いでハンガーにかけ、ジャージに着替えた。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。テーブルの前に座り、一口飲んで息をつく。
静かだった。
隣の部屋のテレビの音がかすかに聞こえる。窓の外では、夕焼けが街を赤く染めていた。
これでいい、と黒瀬は思った。この何もない部屋で、何もない時間を過ごす。誰にも干渉されず、誰にも知られない。それが自分にとっての——幸福に最も近い形だった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。非通知の着信ではない。特定のアプリを経由した暗号化メッセージ。差出人は登録されていないが、黒瀬にはわかる。仲介人——灰原からだ。
メッセージを開く。
高台の火事のような、赤と黒の配色のインターフェース。無機質な文字が並んでいた。
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**依頼通知**
ターゲット:A級犯罪異能者『毒蛾』
能力:毒霧生成・操作
危険度:A
特記事項:異能ドラッグ『ネクター』の密売元。特務機関エージェント3名を殺害。
報酬:500万
期限:48時間
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黒瀬は画面を見つめた。
A級。毒霧。エージェント三人を殺している。
面倒な相手だ。毒系の異能者は、能力を無効化する前に毒を吸い込めば終わる。事前準備が通常より多く必要になる。
「……面倒だな」
呟きは独り言の癖だった。面倒だと言いながら、断るという選択肢は最初から頭にない。掃除屋を辞めたいとは常々思っているが、辞めるためには金がいる。高校を卒業して、どこか遠い街で——異能も裏社会も関係ない場所で、普通に生きるために。
黒瀬はテーブルの下に手を伸ばし、畳の一枚を持ち上げた。その下に隠された金属製の収納ケース。暗証番号を入力して蓋を開けると、中には黒い装備一式が収まっていた。
外套。手袋。軽量の防刃ベスト。小型の通信機器。そして——いくつかの小瓶。解毒剤や麻酔薬など、任務ごとに調合する特殊な薬品。
黒瀬は装備を一つ一つ確認し、丁寧にテーブルの上に並べた。
「報酬五百万か」
悪くない額だ。今の貯金と合わせれば、卒業後の生活資金にかなり近づく。
窓の外では、夕焼けが夜に飲まれようとしていた。
オレンジ色の最後の一筋が消え、街に闇が降りてくる。
スマートフォンを手に取り、返信を打つ。
『受諾。準備に12時間。明日の夜、動く』
送信。画面が暗くなる。
黒瀬零は装備をケースに戻し、畳を元に戻した。そして布団を敷き、電気を消した。
明日も朝から学校がある。一限目は数学。予習はしていないが、テストで赤点を取るほどでもない。問題ない。
目を閉じる。
数時間前に叩きのめした男の顔など、もう思い出せない。明日の弁当のおかずを何にするか——そっちの方がよほど重要だ。
静かな部屋に、微かな血の匂いが鼻を掠めた。
それが自分の手から染み付いたものなのか、それともこの夜が沈殿させた悪臭なのか。
黒瀬零は深く息を吐き、無数に這い寄る影の気配から逃れるように、ただ「普通」の眠りへと身を沈めた。




