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美しき冒涜者

葬儀社『黄泉路(よみじ)ホール』の面会室は清潔だった。  


 白い壁。磨かれた床。消毒液の匂いがわずかに鼻を刺す。  

それでも、空気は重い。湿度ではなく、感情の重さで満ちていた。


 部屋の中央に、白い棺が一つ。

 蓋には小さな窓があるが、今日は閉じられたままだ。 その前に、年老いた夫婦が椅子を並べて座っている。母親はハンカチを握りしめ、父親は膝の上で両手を組んでいた。指先が血の気を失って白い。


「警察の方に……言われたんです」  


 母親が、喉の奥を擦るような声で言った。


「顔の損傷が激しいから……棺の窓は、開けない方がいいって……」  


 父親も、視線を落としたまま小さく頷く。


 交通事故。若い女性。顔面損傷。  

 ——その単語の列は、想像だけで遺族の心を壊すには十分だった。


 扉が、静かにノックされた。


「失礼いたします」  


 入ってきたのは黒いスーツの男だった。

 喪服のように見えるが、体に合わせた仕立ての良いものだ。襟元から袖口まで隙がなく、髪も丁寧に撫でつけられている。

 年齢は二十代前半ほど。目の下に薄い隈があるのに、声と物腰は驚くほど柔らかかった。


「担当の棺屋(ひつぎや)アツトと申します。本日は、お辛い中お越しいただき……ありがとうございます」

 深々と頭を下げる。

 その所作だけで、この場の張り詰めた空気に“礼節”という覆いがかけられる。


 母親が、縋るように尋ねた。


「……見るべきじゃないんでしょうね。あの子の顔……」


 アツトは一拍置いて、穏やかに微笑んだ。


「ご安心ください。彼女は今、とても安らかに眠っておられます」


 それは慰めの言葉だ。しかし、不思議な説得力があった。単なる気休めではない、現場を知る者だけが持つ確信。


 アツトは棺の側へ歩み寄り、窓の留め具に手を添える。

 遺族の表情が強張った。


「……よろしいでしょうか」


 父親が、かすれた声で言う。


「お願いします……」


 留め具が外れ、窓が音もなく開いた。

 母親が、恐る恐る棺の中を覗き込む。息が止まるのが分かった。瞳が大きく見開かれ、次の瞬間——涙が溢れた。


「……あぁ……」


 声が、崩れる。

 棺の中の娘は、傷一つない顔をしていた。生前のままの、柔らかな頬。整った唇。閉じた瞼の影まで、深い眠りのように自然だ。事故で激しく損傷したはずの顔が、そこにはあった。


 母親は、膝から崩れ落ちた。


「嘘みたい……ただ眠っているだけじゃないの……」


 父親も、堪えきれずに涙を落とす。

 二人は棺の縁に手を置いて、何度も何度も娘の名前を呼んだ。


「ありがとうございます……ありがとうございます、棺屋さん……!」


 あふれ出る感謝。それは遺族にとって、これ以上ない救いだった。


 アツトは、静かに頭を下げる。


「お力になれたのであれば、何よりでございます」


 言葉は丁寧。

 けれど、その目は——棺の中の顔を、遺族とは別の角度から見ていた。

(右頬の皮膚の緊張が、〇・五ミリ足りない)  


 アツトの視線が、頬のラインを測るように冷徹に滑る。

(ファンデーションの厚みで誤魔化した。だが、次は修正が必要だ)


 涙に濡れる遺族の背中の向こうで、アツトの思考だけが異質に研ぎ澄まされている。


 死体は、悲しみの対象ではない。彼にとってそれは——完璧を求めるべき“作品”だった。


 面会が終わると、アツトは裏方へ戻った。

 一般客が決して踏み込まない、ホールの最奥。遺体処置室——エンバーミングルームの扉を開けると、金属と薬品の匂いが肺を満たす。器具は整然と並び、ステンレスの台が白い蛍光灯を冷たく跳ね返していた。


「アツト君、また君指名だよ」


 上司が、苦笑いしながら言った。手には書類の束がある。


「さっきの遺族もさ、“娘の顔がそのままだ”って泣いてた。ほんと、魔法でも使ってるんじゃないか?」  


アツトは、ゴム手袋を外しながら淡々と答える。


「丁寧な処置を心がけているだけです。魔法ではございません」


「その丁寧さが魔法なんだよ」


 同僚が笑い、空気が少しだけ軽くなる。


 しかし、その軽さは長く続かなかった。  壁掛けのテレビが、不穏なニュースを流していたからだ。


『——市内で行方不明者が相次いでいます。警察は広域指定事件として捜査を——』 『——近頃、“異能”を用いた犯罪が増加。治安維持機関『管理局(オーダー)』は警戒レベルを引き上げ——』


 “異能”。“管理局(オーダー)”。

 その単語が、部屋の空気をピリつかせる。画面の端には、黒塗りの映像と警告文。上司が眉をひそめる。


「物騒だなぁ……最近ほんと増えたよな。オーダーが出るほどの事件なんて」


 アツトは、テレビに視線を向けない。手を洗い、器具を点検し、消耗品の残量を確認する。その動作の正確さに、一切の乱れがない。


「生者は騒がしいものです」


 ぽつりと言う。まるで、他人事を語るように。


「お前、ほんと興味ねぇよな。まあ……仕事が仕事だしな」


 その時、廊下側の扉が開いた。ストレッチャーが運び込まれる。布で覆われた遺体。職員の顔が青ざめ、強張っていた。


「新しい搬入です。……飛び降り」


 上司が布をめくり、すぐに顔をしかめる。


「……これは、無理だ」


 遺体は中年男性だった。頭蓋骨が粉砕され、顔のパーツの半分が欠損している。皮膚も裂け、白い骨片が覗く。目を背けたくなるような光景だった。

 上司が首を振った。


「納体袋のまま棺に入れよう。遺族にも説明する。これは……仕方ない」


 “仕方ない”。現場が何度も飲み込んできた言葉。だが、アツトは静かに否定した。


「いいえ」


 上司が顔を上げる。


「……アツト君?」


 アツトは遺体を見つめていた。怯えでも、嫌悪でもない。ただ素材を測るような視線。


「私が直します」


 一言が、重く落ちた。


「……明日の葬儀までに、必ず」


 


 深夜二時。  黄泉路ホールは眠っている。表の照明は落とされ、廊下の非常灯だけが赤く滲んでいた。エンバーミングルームの中で、アツトだけが起きている。時計の秒針が、耳に刺さるほど大きい。


 遺体台の上には、粉砕された頭部。


 アツトはパテを練り、ワックスを削り、欠損を埋めて形を作る。だが——違う。指先が止まる。


「……これではダメだ」


 独り言が、部屋に吸われる。質感が出ない。皮膚の張り、骨格の硬さ、重力の落ち方。どうやっても“作り物”の匂いが消えない。


「遺族が見たら気づく……」


 額に脂汗が滲む。


 完璧主義という言葉では足りない。彼の中には、強迫に近い執念がある。葬儀は、遺族にとって最後の時間だ。最後に見る顔が、偽物であっていいはずがない——彼はそう信じている。狂信的に。


 アツトはふと、視線を上げた。部屋の隅に、大型冷蔵庫があった。


 中には、身元不明の遺体が保管されている。行旅死亡人。引き取り手のない者たち。彼は吸い寄せられるように近づき、ロックを外した。

 扉を開けると、冷気が白い息となって漏れる。ビニール袋に包まれた遺体が、棚に横たわっていた。


『身元不明』。

 タグが、無機質に揺れる。

 中身は老人だった。しわの刻まれた顔。骨ばった頬。明日、行政の手で火葬される予定——ただそれだけの、この世から消える存在。


 アツトは、遺体袋の縁に手を置いた。迷いがない。あるのは、判断だけ。


「申し訳ありません」


 静かに言う。


「ですが、あなたは誰にも見送られない。ならば……その一部を、彼に貸してあげてはいただけませんか?」


 言葉は、祈りに似ていた。


 だが行おうとしているのは、明らかな冒涜だ。


 アツトはメスを取り、老人の頭部へ刃を向けた。切開は恐ろしいほど鮮やかだった。躊躇の刃ではない。熟練した職人の刃だ。

 骨の一部。皮膚の一部。必要な分だけ。  奪うのではなく、借りるという態度で——淡々と切り取る。


 そして、粉砕された中年男性の頭部へ、それを合わせた。本来なら繋がるはずがない。他人の骨。他人の皮膚。拒絶反応以前に、形が合うわけがない。


 だが、アツトは強く“こうあるべきだ”と念じながら、それに触れた。


 その瞬間。  ぬるり、と。  硬いはずの骨が、粘土のように軟化した。


 アツトの指の動きに合わせて変形し、欠損部に吸い込まれるように馴染んでいく。皮膚も、同じように癒着する。縫合糸など必要ない。素材同士が“同じもの”として溶け合う。


 アツトは目を細めた。


(……ああ、いい具合だ)


 手元の感触に、確信が灯る。


(これなら——完璧に仕上がる)


 彼は、それが特異な『異能』だとは思わなかった。自分の手先が器用すぎるだけだ、と心底信じている。だから恐れない。

 倫理の境界を越えている自覚がないまま、彼は愛おしげに死体を撫で回した。


 朝日が差し込んだ。  エンバーミングルームの窓から、薄い金色の光が床を切る。


 作業台の上には、完璧に修復された中年男性の遺体が横たわっていた。 顔は整っている。皮膚の張りも自然。骨格のラインも破綻がない。

 “生前のその人”が、そこにいる。


 一方で、冷蔵庫の棚には、顔の一部を失った老人の遺体が残った。誰にも見られないまま、火葬される予定のまま。


 アツトは血のついた手袋を外す。指先に、かすかな震えすらない。ただ、職務を全うした満足感だけがある。 「美しい」

 ぽつりと、心からの言葉が漏れた。 「これでこそ、弔いだ」


 純粋すぎる善意。完璧を求める優しさ。

 それが、社会の倫理を一足飛びに踏み越えていることに——彼はまだ気づいていない。


 外では朝の街が動き始めている。  サイレンの音が、遠くで微かに響いた気がした。  『管理局(オーダー)』の影が、すぐそこまで迫っていることも知らず、葬儀屋は静かに“美しい死体”を完成させた。

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