濁った水
「六道春奈………まだ一度も登校して来ない………」
職員室でそう呟いたのは緑山鏡華。1年B組の担任だ。
ここは北海道の市立中学校。28歳の緑山鏡華は4月の終わりになっても登校して来ない生徒のことを、出席簿を見る度に嫌でも考えざるを得ず、ため息交じりに呟く日々が続いていた。もう既に家庭訪問を始めた。回るスケジュールを組み、生徒には訪問日を事前に伝え、粛々と回っている。どの家庭に行っても滞在するのはせいぜい10分か15分程度だ。それ以上の時間は割けない。中学教師というのはとにかく忙し過ぎるのだ。だから早く終わらせてしまいが、六道春奈をどうするか。悩ましく、ずっと頭から離れない。
家庭訪問の目的は、保護者がどんな人物で、どのような家庭環境なのかを知り、生徒の学校での様子を伝へ、担任である私のことを保護者に知ってもらうことがメインだが、他にも、食べ物アレルギー、習い事、朝食、睡眠時間、友人関係、休日の過ごし方など、担任として知っておかなければならない事がーーー全てが機微な個人情報のせいで、必要以上に知ってしまうと底なし沼にハマることになる。だからサラっとだが、知っておくことが山ほどある。が、一度も学校に来てない生徒ととなると、考えざるを得ない。
六道春奈という生徒。情報が少なすぎる。今年の3月に本州の栃木から越してきたらしい。
不登校のまま中学入学となる子はいるが、その情報は事前に知らされる。六道春奈にはそんな事前情報はないが、小学卒業と同時に他の校区に転入となると適切に伝達されるのだろうか……
「青山卓也君…………井川蘭さん………」
1年B組の朝のホームルームで出席を取り始めた。
「ーーーー六道春奈さん」
出席番号の一番最後。今日も来てない……え? 何か聞こえたような……
「六道春奈さん!」
「……………はい」
見渡すと、廊下側の一番後ろの席で、おずおずと片手を挙げている女子がいた。そうだった。グループ決めは私が全てを決めたんだった。2つの小学校の卒業生がこの中学に入学して来る。どうしても出身小学同士で固まってしまう。それがイジメに繋がる恐れがあるから出席番号通りの席順とし、その席順でグループを機械的に分けたのだ。だから男子が多いグループもあれば、その逆もあるが、すくなくとも半年はこのままでいくつもりだ。だから出席番号が最後の六道春奈は、廊下側の一番後ろの席なのだが、今となっては失敗だった。まるで「学校に来ない奴は端っこだ」と言ってるような席だ。
初めて見る六道春奈。遠くてよく解らない。クラスの誰もが初めて会ったはず。自己紹介をさせようか……いや、止そう。どんな理由で休んでいたのか分からない。初めての土地に来たことが原因で不登校ってことも考えられる。給食を食べた後に職員室に呼ぶしかないか。
1年B組の給食は担任も教室で一緒に食べるが、机をくっつけ合って食べることを禁止にしている。だから緑山鏡華は教壇で生徒全員の様子を見ながら食べる。それでも隣や後ろの席の子と喋りながら食べる子が大半だ。そんな騒めいた教室で六道春奈だけがポツンと浮いてるように見える。遅れてきた転校生の初日。しかたがないか………
六道春奈は意外なほど食べるのが早く、鏡華がまだ食べ終える前に食器をかたずけに来た。
「あっ………六道さん、ちょっと待っててくれる。先生も直ぐに食べ終えるから。家庭訪問のこともあるから、職員室に来て欲しいの」
「………はい」
そのとき初めて六道春奈を間近で見た。暗い、というのが第一の印象だ。そして清潔感がない。どこという訳ではないが、汚れているように感じた。それに発する言葉が極端に少なく、はい、としか言わない。思春期だし、意味もなく反抗的な態度を取る子も多いが、六道春奈の場合は何か違うような気がする。
職員室は都合よく人が少なかった。六道春奈を隣に座らせ、鏡華は単刀直入に聞いた。
「休んでた理由を教えて」
鏡華は今までも転校生を受け持ったことがあるが、家の電話番号や親の連絡先が一切解らないなんてことはなかった。それが六道春奈の場合はどういう訳か全てが分からず、そして休んでいる間に親からの連絡は一度もなかったのだ。いわば無断欠席だ。
「……………お葬式に………」
「えっ、誰か亡くなったの?」
「…………お婆ちゃんが………最初に死んで………」
「最初? ………他にも誰か………」
「…………次にお爺ちゃんが………死んで……」
なにをどう聞いてよいのか戸惑ってしまった。
「そっ、それは大変だったね…………ご愁傷さまです。お葬式……栃木で?」
「……………こっちで」
どうにも要領を得ない。自分から全てを説明しようとはせずに、聞かれた事だけに答えている。鏡華はイラつく気持ちを抑えて聞き出したところ、父親の両親ーーー春奈にしてみれば祖父母と一緒に住んでいて、北海道にも、祖父、祖母、父、母、それと春奈の5人で超してきたのだそうだ。春奈は1人っ子だということも解った。
「ーーーーー家庭訪問……大丈夫かな? まだ四十九日も済んでないだろうから………家に帰ったら、お父さんかお母さんに聞いてもらえる?」
「…………今………聞きます」
「え? あ~~携帯電話持ってきちゃてんだ。うちの学校は携帯持ち込み禁止なんだよ。………まぁいいか。………うん、聞けるんなら、今、聞いてみ……え?」
ポヶットから携帯を取り出した春奈はーーー担任である鏡華の言葉を最後まで聞かずに、既に親と喋っている。相手は父親のようだ。父親は休んでるのだろうか?
「………………今日が………いいって」
「ええ? 今日は………」
頭の中で今日の予定を思い返した。うん、なんとかいける。
今日は3軒の家庭訪問を予定していたから六道春奈を4軒目として、夕方5時半頃には行けそうだと春奈に伝えた。
鏡華は家庭訪問を自家用車で回る。校区が意外と広いのだ。最も遠い所から通っている生徒は通学に小一時間も掛かる。中学校を増やした方が良いのでは、と思う事もあるが、うちの学校を校区としているエリアは20年前頃の新興住宅街らしく、当時は若い夫婦が一斉に家を建てたエリアだ。その影響で小学校が1校増えたが、元々あった小学校の生徒数を減らしていることもあって中学校の増設までにはいかなかったという。
昔の新興住宅街。似たような年代の夫婦が住む住宅街。子供たちの声に溢れ、活気のあった住宅街は親の年代が似ているせいで10年も経てば子供の姿を見掛けることすら珍しくなる。全てが年老いてしまうのだ。町内毎にある公園で遊ぶ子の姿を見掛ける事も少なくなり、それが余計に虚しさみたいなものを醸し出す。少子化が社会問題となる前から、このエリアの子供の数は減り続け、2つある小学校は維持が難しくなり合併が囁かれていた。
5時を少し過ぎた頃に鏡華は3軒の家庭訪問を終え、六道春奈の家に向かっていた。4階建ての市営住宅、桜棟403号室。
4階建ての市営住宅が複数建っているエリア。そこは20年前頃の新興住宅街とは離れた場所にあり、建てられたのはもっと古い。きっと築50年は経っているだろう。そして住んでいるのは高齢の人が大半で、鏡華はこの市営住宅に住む子供を受け持ったことがない。初めてこのエリアに入った。
「……ここからの通学は、1時間以上かかりそう……」
棟毎に名前がついている市営住宅。その名前が外壁の上の方に大きく書かれていた。六道春奈が住んでいるのは桜棟だ。車をゆっくりと走らせながら読んでいった。
「松…………柏…………桂………楓………杉………あった、桜。………ふ~ん、一文字で書ける樹木の名前か……全部北海道にある樹木……」
左折をして桜棟の前に入っていった。市営住宅には入口が2つあった。その入り口が階段に繋がっているのだろう。きっと階段の左右に1軒ずつ玄関ドアがあるだろうから、2つの入り口×2軒×4階、1棟に16家族が入居できる計算になるが、歩いている人を見掛けなかった。まだ夕方の5時を少し過ぎた頃で電気を点けるには少し早いが、どの棟を見ても窓から明かりが漏れている部屋がポツン、ポツンとあるぐらいだ。半分以上、いや、殆どが空室なのかもしれない。
「どこに駐車すれば………」
2つの玄関から数メートル離れた場所に住む人の車を停めるスペースがあるが、まだ夕方の6時前ということもあってか、停まっている車は1台しかない。随分と外観が汚れた車。その前を通りナンバーを見ると、こっちのナンバーだ。本州から越してきて間もない六道家の車ではないのだろう。
「あの~~すみません………」
一人の腰の曲がった老人の後ろ姿を見掛けた鏡華は、車の窓を開けて声を掛けた。膝まであるまるでガウンのようなモノを羽織った素足にスリッパ履きの老人。短パンを穿いているのか膝から下の素肌が見える。
「あのーーーー!!」
来訪者の車はどこに停めたらよいのか、それだけを聞きたかったのだが、耳が遠いのか聞こえていないようだ。鏡華はそれ以上その老人に声をかけるのを止め、その老人を追い越し、来た時とは逆の方向の道路に出た。見渡すと、駐停車禁止の標識はない。路駐で構わないだろう。助手席に置いてあった鞄を手に車から降りた鏡華の目に飛び込んで来たのは、さっきの老人だった。声が出掛かるほどに驚いた。距離が異様に近く、それでいて何かを言う訳でもなく鏡華の顔をじっと見ている。思わず後ずさってしまった。後ろ姿では判らなかったがお爺さんだ。白い無精ひげが顎にまだらに生えている。
「あっ……ここに停めても……」
そこまで言いかけた鏡華だったが、息を飲み、頭が真っ白になった。老人が羽織っているガウンのようなモノは前がはだけ、瘦せこけた素肌の胸が見えているのは分っていたが、素っ裸に羽織っているのだと知るのに時間が掛かったのだ。そして垂れ下がった男性器から視線を剥がせなかった。見えているものが咄嗟に理解できなかった。
「え? ………え…………なに………」
その爺さんは、癖なのか、股間に手をやり擦りながらじっと鏡華の顔を見る事を止めない。
「ひっ…………」
後ろにひっくり返るように路上に腰を落としてしまった。それでも爺さんは何かをする訳でもなく、そして何かを言う訳でもなく、相変わらず擦りながら鏡華を見降ろしている。
「なっ、なんなんですか! けっ、警察を呼びますよ!」
そう叫んでも反応しない。
腰を落としたままでズルように後ろに下がる鏡華の横を誰かが通った。50くらいの女の人だ。けっして老婆という年代には見えない。だがその女は歩くのを止めない。急いでいる風でもなく普通に通り過ぎ、その際、爺さんの方と、路上に腰を落とす鏡華に視線を向けたが、表情を変えることもなく桜棟の玄関の方へと歩き去っていく。鏡華は慌てて立ち上がると走ってその女の傍に行き、腕を取った。
「待って! 待ってください!」
女はゆっくりと振り向いた。
「あれは………あれは………その~………放っておいていいんですか?」
他の住人と思われる女性を見掛けたせいで少し落ち着いてきた鏡華は、あのお爺さんはきっと認知症が進んだ挙句の奇行なのだろうと思い至り、そう聞いた。
「……………アレって?」
「え………? …………あなたも見ましたよね? あのお爺さんが……裸なのを……」
「…………男のアレ……見た事ないの?」
「……………ええ??」
話しが噛み合わない。この女もおかしいの? 鏡華は掴んでいたその女の腕を離した。すると何事も無かったように女は前を向き、再び歩き始め、桜棟の入り口へと消えて行った。一人残された鏡華。振り返るとさっきのお爺さんの姿は見えなかった。どうしよう? 警察に連絡? でもここの住人は見慣れてるみたいだ。きっといつものことなんだ。そう考えた鏡華は自分が車のキーを握りしめているのに気が付いた。カギ掛けたっけ? 恐る恐る道路に戻った鏡華は、向こうの方に歩いているガウンのようなものを羽織った爺さんの後ろ姿が見えた。そのまま見ていると楓棟の方に曲がって行った。きっと楓棟の住人なのだろう。
車はやっぱり未施錠だった。
車の鍵を掛け、桜棟の入り口に向かった。さっきの女の人が入っていった入口だったら嫌だな。もしもバッタリ出くわしたら何となくバツが悪い。そんな事を思いながら入って行くと、この入口からはどの階も1号室と2号室だ。六道さんは403号室だからもう一つの入り口だと分かり、ほっとした。
古い4階建ての市営住宅にエレベーターなどあるはずもなく、コンクリートがむき出しの階段を上っていくと、湿気が凄く強い。まるで空気が纏わりつくようだ。ジメジメしていて重い空気。とても北海道の春先だとは思えない。そして一切の声がしない。物音も。ここって六道さん一家の他は誰も住んでいないの? 時間帯のせい?
3階をあたりから息が上がった。運動不足だ。それにしても上りづらい階段だ。段差が大きいような気がする。脇の下から汗が滴るのが分った。湿気のせいもあって息苦しい。まだ20代の鏡華だが、3階と4階の間にあるコーナーで足を止めコンクリート製の壁に手をつき休んでいると、その手がじっとりと濡れた。コンクリートは確かに水を吸うが、こんなことってあるの? そしてそのコーナーの隅に黒いものが溜まっているのに目が行った。なんだろう? 時刻も夕方で薄暗く、そしてこの階段には電灯がついていた跡はあるものの、電球らしきものは全て取り外されたままだ。割れたのだろう。黒いものが固まっている方に近づき、顔を少し寄せた鏡華は、飛び退いた。全部が蠅だ。蠅の死骸が大量あり、それが隅に固まっていたのだ。数十匹というレベルではない、ゆうに数百はある。手で口と鼻を覆い、バタバタと4階まで駆け上がり、403号室のチャイムを連打した。が、返事が無く、中からドアを開けてくれることもない。鏡華は虫がダメだなのだ。それでも蠅を怖がったことなどないが、あれほど大量となると思い出すだけで身震いし、身体が痒くなり、叫びたくなる。403号室のドアに手を掛けるとノブが回り、勢いよく開けて中に滑り込むと、ドアを力強く閉めた。すると目の前に誰かが立っていた。だが玄関の電気が点けられていないせいで酷く暗い。肩で息をする鏡華は、自分がここに来た目的を告げるのも忘れ、ただその黒いシルエットを見ていた。
「……………入って……ください」
女の子の声だ。……え? 六道春奈? そうだ、私は六道春奈の家庭訪問に来たのだ。息を整え、お邪魔します、と声を掛けて靴を脱ぎ、2メートルほどの短い廊下を歩いて居間に入ると、あまりにも何も無い部屋に驚いてしまった。随分と古く色が変わってしまった畳の部屋。絨毯類は敷かれていない。そして椅子がなく、テーブルもなく、とにかく何も無いーーー8畳くらいの部屋にポツンと石油ストーブだけがあって、父親と母親らしき男と女が並んで正座をしていた。立ちすくんでしまった。部屋の入り口に立ったままで、春奈さんの担任の緑山鏡華です、と言ったが声が擦れた。春奈は両親の隣にやはり正座をしたが、誰も「どうぞ座ってください」と言はない。それどころか一言も喋らない。
「あの~………座っても……」
「………………はい」
父親がそれだけを喋った。
教師を何年もやっていると色んな家庭があることを否応なく知ることになり、初めての家に入ることに対しても度胸がつく。だがこの六道家は何かが違った。無口な人は珍しくはない。今までも喋らないご両親とは何度も会っている。だが六道家はとにかく居心地が悪い。それに春奈本人とは今日初めて会ったのだ。こちらから何を喋ってよいのか、話のネタが無い。入り口を背に、六道家の3人の正面に正座をした鏡華はそんな事を考えながらもスカートを穿いてきたのを後悔した。一応ストッキングを穿いてはいるが……
そして正座をする習慣が無い鏡華は、なんとか足を崩さずに正座はできたものの既に足が痛い。座布団が欲しいが、六道家の3人も畳に直に正座をしている。
沈黙が流れた。誰も喋らないのだ。愛想笑いすらしない六道家の3人。だがムスっとしているようにも見えない。ただ黙って私を見ている。こっちが何かを切り出すのを待っているのか……
「はっ、春奈さんから聞いたのですが…………立て続けに……ご不幸があったようで………」
「……………」
反応が無い。どうして? 死んでないの?
「お爺さんとお婆さんが………亡くなったとか……」
「………………はい」
今日の放課後、学年主任には相談していた。
「今日初めて登校してきた六道春奈の家庭訪問に行くんですが、祖父と祖母が立て続けに亡くなってたらしく、それで学校を休んでいたみたいで………」
「え? 今日初めて登校してきた子の家庭訪問を、今日行くの?」
「ええ、今日が都合いいみたいで………それより、四十九日も済んでいないから家に遺骨があるだろうし……」
「ああ、そっちか………休んでる間、親からの連絡はあったんでしょ?」
「いえ、それが一切連絡がなく、こっちから連絡をするにしても連絡先が空欄で……」
「うわ~~……なんだか大変そうだな~ ………そっか~~……一応、香典持って行った方が……」
「ですよね………2人分?」
「1つでいいでしょ。とりあえずの5千で」
そんなやり取りがあってバックの中には香典が入っているが、今いる居間には遺骨は見当たらず、話題をそっちに振っても大した反応はない。右側に閉められた襖があるから、その襖の向こうの部屋に遺骨があるのだろう。六道家の人が何も言わないのだから、こっちからあえてお線香をあげさせてもらうよう言う必要もないか。あっ! そうだ、さっき出くわしたあのお爺さん。中一の女子が住む近所に、仮に認知症だとしても露出狂まがいの人がいるのは問題だ。ご両親は知ってるのだろうか?
鏡華は六道家を訪ねる直前に見てしまった大量の蠅の死骸ーーー鏡華にとっては衝撃的な光景のせいで、その前に見た爺さんの男性器のことを失念していた。思い出したくもないが、思い出した。アレを私はどれくらい直視してたんだろう? どういう訳か明確に思い出してしまった。陰毛が薄くて男性器がはっきりと……
鏡華は浮かんできた残像を振り払うように頭を振り、そして言った。
「さっき、この住宅の直ぐ傍で、裸にガウンみたいなのを羽織って、………その~……下半身を露出したお爺さんが…………」
そう言ったが、六道家の三人はなんの反応も示さない。
「もし、あのお爺さんのことを知らないのであれば……」
「…………立派のを………」
そう言ったのは母親だ。最後の方は聞き取れなかったが、りっぱのを、って言った。なに? なんのこと? ええ? 立派?? …………まさか……あの爺さんのアレが立派だという意味? そうだ、このお母さんは、立派のを持ってるって言ったんだ。表情も変えずに平然とそう言った。ええ? それは、もしかしたら下ネタの冗談?? だが冗談を言った雰囲気ではない。隣に座る父親もニヤつく訳でもなく、ただ黙って座っていて、中一の春奈も同じだ。そんなバカな。絶対に私の聞き間違いだ。リツが付く名前があの爺さんの名前なのかもしれない。
「すっ、すみません……ちょっ、ちょっと聞き取れなくって………あの……中一の女の子が住む近所に、裸でうろつくお爺さんがいるというのは……流石にちょっと……」
「………………立派のを持ってる方で……」
ハッキリ聞き取れたが意味が分からない。喋った母親は隣の春奈に同意を求めるように視線を向け、春奈も頷いた。いったい何が立派なの? ええええ??
「いえ、そうじゃなく………あの~………立派というのは………あの爺さんが立派な方なのですか? 例えば………地域のなにかに貢献されたとか………でっ、でも……六道さんは引っ越して来て間もないですよね?」
「……………」
母親は首を傾げ何も言わない。その隣に座る春奈が言った。
「……………デカイ」
呆気に取られた鏡華は言葉を失ってしまった。黙って見ていると春奈の唇の片方が僅かに上がった。コイツ……普通の中一女子じゃない。第一印象で、汚れている、と感じたのはそういう事か。改めて春奈の容姿を注意深く見た。制服を着ているから身体の線までは分からないが、発達してる。私服を着れば大人の女に見誤る。隣に平然と座る母親に視線を移した。40代だろうか? けっこう綺麗な顔立ちをして化粧もそれほど厚くない。30代かもしれない。だがスカートが主婦にしては短く、正座をしている生足が嫌でも目につく。この母親にしてこの娘ありってことか。
「…………………水が合わなかった」
父親が言った。
え? なに? 水が合わなかった??
「………そっ、それは………どういう……」
母親がいきなり立ち上がった。正座をしていたのに手を使わずスクっと立ち、喋っている途中の鏡華は次の言葉を飲み、立った母親を唖然と見上げた。母親はそんな鏡華に構わず、鏡華の直ぐ前を横切って歩いて行った。……なっ、なに?
横切った母親は、鏡華の左手の奥に消えて行った。失礼だろうが覗き込んだ。台所があるのが分った。体勢を戻すと父親が立ち上がっていて、思わず首をすくめてしまった。教師のくせに態度がなっていないと言われるかと思って。
父親はそんな鏡華に構わず、鏡華の直ぐ前を横切り、鏡華の右手にある閉まっている襖を開けた。見ると、その部屋の奥に白い布に包まれた骨箱と思われる物が2つ並んでいる。それも畳の上に直に置かれ、台とかテーブルなどは見当たらない。父親がさっき言った、水が合わなかった、というのは、どうやら水が合わずに死んだということみたいだ。だが、そんなことがあるのか? 違った意味で言ったのかもしれないが、聞き返すのが億劫だ。それに正直どうでもいい。
襖を開けた父親は、開けたままの体勢で鏡華を見降ろしていた。何も言わないが、線香をあげるよう促しているのだろう。立ってその部屋に移動しようとしたが、慣れぬ正座で足の感覚が無いのを知った。まずい。歩けない。
「すっ、すいません。足が……痺れたみたいで………失礼して四つん這いで……あははは」
だが誰も笑ってくれない。襖を開けたままで立っている父親は、眉ひとつ動かさずに鏡華を見降ろし続け、目の前で正座をしている春奈は何も言わずに、やはり鏡華を見ている。
意を決して這った。家庭訪問に来てこんなみっともない姿を晒すとは……と唇を噛んだが、どうする事も出来ず、鞄を持って四つん這いで移動した。もう正座をするつもりはない。座布団をよこせと言いたいくらいだ。
畳に直に置かれた2つの骨箱。その前に斜め座りをした鏡華は、そこには骨箱の他に何もないのを知った。写真が無い、蝋燭も線香もない、叩けばチンとなるアレもない、そして位牌もなかった。これは……
思わず振り返ると、父親はさっきと同じ態勢でーーー開けた襖に手を掛けたままで鏡華を見降ろしていた。何がどうしてこうなってるのか? 宗派や地域によって弔い方は様々だ。だが、いくらなんでもコレはない。それでも遺体が2つゴロっと置いてないだけマシか。この一家ならやりかねないような気がする。
鞄から御霊前と印刷された香典を取り出した。2つ持ってきて良かった~。1つだったらもっと居心地の悪い思いをしたはず。1万円の出費は痛いけど……
香典2つを骨箱の前に滑らせ、斜め座りのままで手を合わせ、目を瞑った。
目を開けると、視界の端にナニかが居た。ギョっとしてそっちを見ると、すぐ傍に誰かが立っている。母親だ。いつ来た? 全く気が付かなかった。
その母親、何も言わずに片膝をついた。すると短いスカートが太腿の付け根まで捲れ、否応なく見てしまった。下着をつけていない。見えているモノが信じられず、目を逸らせなかった。見上げると黙って私を見ている母親と目が合った。慌てて視線を逸らすと、着ているブラウスから乳首が透けていた。振り返ると、父親はさっきの姿勢からまるで動いていない。襖に手を掛けたままで黙って私を見下ろしていた。
目の前に置かれた湯呑茶碗。母親はお茶を持って来たのだと理解するのに、やや暫くかかった。しかし母親は私の直ぐ傍から離れようとしない。顔がすごく近い。息が掛かる。片膝を立てたままだ。さっき見えたものがやはり信じられず視線を下げると、再び見てしまった。
「………………学校での…………様子は」
「え………?」
なに? この女はなにを言ってる? ………学校? そうだ、家庭訪問だ。私はそのために来た。目の前に置かれた湯呑を掴み、私は女のスカートの奥を凝視しながら一気に飲んだ。喉がカラカラだった。甘い、すごく甘くて美味しいお茶。だけど何だろう……サラっとしてない。ヌメるような、粘つくような……
「……………ここの水………すごく美味い」
私の後ろに立っている男が言った。
「…………………もっと………飲む?」
片膝を立てたままの女が言った。私はその女の足の間に視線を戻し、頷いた。すると手を掴まれ、台所に連れて行かれ、そこで何杯も飲んだ。
尿意を覚えた私はトイレを借り、手を洗おうと水道の蛇口を回した私が見たモノは、濁った水。私は蛇口から勢いよく流れ出る濁った水を、黙って、ずっと見ていた。
気が付くと、私はコンクリートがむき出しの階段にいた。真っ暗な階段。そこで顔を寄せ、目を凝らし、大量の蠅の死骸を見ていた。そうだ、家庭訪問で桜棟に来たんだ。ここは何階だろう? 私は階段を降りて行った。途中中途中にあるコーナーで足を止め、そこの隅に顔を寄せると、どのコーナーも蠅の死骸が山になっていた。まだ北海道は蠅が現れる季節ではない。これは去年の蠅だ。
桜棟を出ると、前をはだけた爺さんが、まるで私を待っていたかのように居た。
その日から私は体調を崩した。酷い下痢と嘔吐が続き、立ち上がる事も出来ず、1週間学校を休んだ。
久しぶりに学校に行くと、六道春奈は転校した後だった。
あの濁った水。今でまた飲みたくなる時がある。甘くて美味しい濁った水。