思い出からキミへ
つぶらやくんは、これまでの人生を振り返って、そのすべてを詳細に思い出せるかしら?
まあ、たいていの人にはムリよね。ダイジェストで思い返すことはできても、その日その時のことを正確に思い出すことなんかできない。よっぽどショッキングなことでもない限りはね。
むしろ思い出せない時間のことのほうが多くない? なんとなく過ごした休みの日、寝たきりで過ごした体調の悪い日、都合その他が悪くて思い出したくない日……数千、数万日の間ではそんなこともあるでしょう。
そうして隅に追いやっていたはずのものが、ふいっと顔をのぞかせる。今日の自分は果たして何者なのかと、考えたくなる日が来てしまうかもしれない。
最近、兄さんから聞いた話なんだけどね。聞いてみない?
兄さんが一人暮らしを始めてから、しばらく経った後のこと。
月曜日の朝。「また仕事が始まるのか」と、大あくびをしながら目覚めた兄さんは、布団をたたみかけて気づいてしまう。
掛布団の右端、敷布団の同じところにも血がにじんでいる。
足のくるぶしから、ふくらはぎの側面にかけて。手ぬぐいで拭ってみると、長い一本の線がそこに浮かんでいたんだとか。
夜中に引っかいたのかな、と兄さんが最初に思いついた線がそれ。兄さんはこれまでも、寝ている間に身体のどこかを引っかいて、かきつぶしている経験が何度かあった。血がにじむほどに力を入れてね。
今回もそれだと思ったの。ただ妙なのが、本来なら複数の指で引っかき、自然に幾筋もの傷が浮かぶと思っていたのに、今回は一筋だけ。
たとえ指一本だとしても、無意識にこうも同じ箇所のみ、正確に傷をつけられるとは思えない。かといって、誰も部屋に侵入はしていないはず。
戸締りを確かめ、何も盗られていないかも確かめる兄さんは、そのまま仕事へ出かけたらしいの。
傷は仕事から帰るときには、もうすっかり色を失い、わずかに腫れたような形になっていたわ。裂けたはずの皮膚も元通りになっているようだった。
治りが早すぎるといぶかしがる兄さん。いちおう軟膏を塗りなおしてその日は寝入ったのだけど、熟睡はできなかった。
なんかね、包丁を研ぐような音がかすかに響いてきたんですって。
兄さんの部屋は6畳間+4畳あまりのキッチンがくっついている。そのキッチンの方から音は聞こえてきていたらしいの。
で、兄さんがビビるのは、包丁の音のためばかりじゃない。
コンビニ弁当、おそうざい万歳な兄さんの家には、包丁などという上等な調理器具は存在しないの。
この音の主はただ刃を研ぐばかりじゃなく、外から包丁その他の必要な道具を持ち込んで、わざわざキッチンで研いでいるということになる。この6畳間を仕切るガラス戸一枚の向こう側でね……。
兄さんは、とても様子を見る気になれなかった。
枕もとに、武器に使えそうなものはない。もしあったとしても立ち向かう度胸なんて出てきそうにないのに、ましてや丸腰でなんて……。
布団をひっつかみ、ひたすら気配を殺すことしか兄さんにはできなかった。できることなら、音の主がこちらにこないことを祈りながら。
音は何時間も続き、やがて止むときにはもう朝と呼んでもいい時間帯だったけれど、兄さんは一睡もできないままだったわ。
けれど、得たものもわずかにある。それはあの刃を研ぐ音に関して、頭の中で反芻する時間。
確かに最初は刃物に生気を吹き込むような、甲高い音のように思えた。けれど、ずっと聞いているうちに、ほんのわずかだけシンクに溜まり、こびりついてしまった生ごみのような臭いが漂ってきたみたい。
不精を自称する兄さんでも、こと臭いに関しては敏感で、それらがしそうなゴミ処理には気をつかうほう。このような臭いがしてくるなど、信じられない。
更に、よくよく耳を澄ませてみると、包丁とは別の音のように兄さんには思えてきた。
音のゲシュタルト崩壊による違和感かもしれないけれど、ふと頭によぎる直感があったわ。
――何かの鳴き声?
兄さんは、その声にどこか覚えがあった気がしたのよ。
そして今朝にも、かいた覚えのない傷が足にできていた。昨日と同じ場所、ただし今度は二本線でね。
兄さんから実家に電話があったのは、その日の夜だったわ。
覚えてる。私が電話に出たからね。このとき兄さんは「うちって、なにかペットを飼っていたっけ?」と尋ねてきたのよ。
ちょっと考えて、私はそんなことない、と返しかけてふと思い出したわ。
それは10年くらい前に、兄さんがやたら外へ頻繁に買い物へ出かけて、やたらささみジャーキーを買ってきたこと。それもペット用のものをね。
美味しいのかなあ、と私は漠然と思ったけれど、兄さんは私の前でそれを開けることはなかった。その袋を持ったままで、また外へ出ていくことが何度かあったわね。
兄さんは私の返答を聞いてから、ひとつ思い出すことがあったみたい。
私たちに隠れて面倒をみていた生き物のことを。ほんの1カ月あたりだけ関心を寄せたその存在を。その鳴き声を。
電話を切った後、兄さんは近くのお店へビーフジャーキーを買いに行き、あの音がした台所へ置いておいたみたい。
そうして迎えた晩、日付を回るころになってあの包丁を研ぐような鳴き声が聞こえたけれど……昨日みたいには運ばなかった。
兄さんの足が猛烈なかゆみを覚えたの。あの傷のあったところがね。
布団をめくり、足をあらわにすると三本の線が浮かんでいるのを兄さんは確かめる。
それらがどんどんと赤みを増し、浮かび上がる血が筋を完璧に覆い隠したとき。
その血だまりの中から、ぴょんと跳ね飛んだ影があったわ。それはごく小さい猫のようだったけれど、そのひげにあたる部分がいずれも鋭利な刃物になって銀色の光を放っていたとか。
わずかに開けていた戸からキッチンへ消えるその影。ほどなく、台所側の包丁を研ぐ音は完全におさまってしまったの。
飛び出す際に血こそ流れたものの、鳴き声が止みきるときにはもう、傷もろとも消えてしまっている。
あの猫に似た、でもおそらくは違うだろう生き物が兄さんが記憶のかなたに置いてきたもの。ただはじめて会ったときに、足に同じような傷を負ったことがあって以来、なぜかその生き物の面倒をみる気になっていたとか。
不思議と、そいつの居場所も分かったらしいけれど、兄さんとしては最初に「キズもの」にされたとき、自分は身体の中にあいつの分身だかの種をまかれていたのかもしれない。
それをあいつは回収しに来たのかも、と話していたわ。