第4章 You Fuckin' Die! I Said....
「時はぼくを変えていく。だけどぼくは時をさかのぼることはできない」(「チェンジス」デイビッド・ボーイ)
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心臓の鼓動が聞こえた。
鼓動の音はぼくを満たしている。
それはどんどん近づいていくる。
それはぼくとひとつになる。
あらゆる風景が同時にぼくの網膜に現れる。
映像はやがて液状化し、線になる。どこかを目指す線になる。
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「なぜあなたが月に来たというと、それは私とあなたが結婚を約束されていたからよ。あなたは私と結婚して、月の王国を統べる者になるはずだった。しかし、それを好ましく思わないものがいた。彼らがあなたを殺したのよ。でも、あなたは死ぬ前に特別な魔法を使ったの。形を変えないまま輪廻できる魔法を。そしてあなたは地球で再び生を受けた。私はずっとあなたのことをみつめていた。あなたが20歳になったときには南の島で会った。わたしは確信したわ。本物だって。そして30歳になったいま、あなたをこうしてここに連れてきたのよ」
彼女はそう言うと微笑んだ。赤い麗しきドレスに身を包んでいた。ぼくはほれぼれしながらそれを見た。
月には王国が栄えていた。その反映は地球人の目から巧妙に隠されていた。王国の防衛大臣によれば、地球人の侵略的傾向を考慮した末の戦略的対処であるそうだ。
「私が選んだ人が王になるの。あなたが適任だったわ。あなたは欲望を客観的に眺めることができるから。欲望にとらわれないからよ」
ジェットコースターのような状況の変化は、ぼくを混乱させた。とりあえず、ピンクフロイドの「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」の冒頭が頭のなかに鳴り響いていた。「スピークトゥミー」から「ブリーズ」への最高の流れ。「へたりこむな。またあたらしい穴を掘る時だ」。素晴らしいギターサウンド。ドラッギーな少し憂鬱な音楽の揺れ。
ぼくは過去のぼくの邸宅を訪れることになった。それは湖のほとりにある瀟洒な、屋敷で、かつては身の回りの世話をするものが20人住み込んでいたそうだ。
ぼくが「死んで」からは、執事の老人、ゾラがひとり邸宅を守っていた。老人はぼくの輪廻転生を信じ続けていて、引き戸の影からぼくの姿を見つけると、駆け寄り、抱きしめてくれた。彼は倉庫から8ミリフィルムを取り出して、ぼくとサーシャを映写室に連れて行った。
白黒の画像で撮られたぼくが認められた。確かにそれは、幼い、物心つかないぼくだった。時折、ぼくと彼女が一緒に映っているものもある。ぼくはそれを見ながら、彼女の手を強く握りしめた。それはぼくたちが出会うべく理由をより確かなものにしていた。
老人の話は尽きることはなかった。彼は生ける物語であり、それを語ることを使命にしていた。一族の興隆からそれは始まり、やがて、ぼくの母がぼくを産んですぐ他界することに触れた。母は素晴らしい美しさと、儚さを掛けあわせたような人物だったそうだ。ゾラが見せてくれた写真にもそのような脆いがゆえの美しさをたたえた若い女性が認められた。
盟主と知られた父は悲嘆にくれた。彼は混乱し、その混乱が解けることはなかった。ある日、船に乗ってたびに出たという。白黒の写真のなかの父は口ひげを蓄え、勇壮なムードを漂わせながら、世界への好奇心を抑えきれないという感じだった。
老人はぼくを育てる義務を負った。彼の教育は6割ほど成功し、ぼくは寄宿学校の評判の3人に入ったようだ。ぼく以外の二人は野心豊かな人物で、自分の目の前に立ちふさがる人物をやっつけることに余年のない、あからさまなエリート。ただ、ぼくはまるでぼうっとしていて、他人の悪意に気がつかない子どものまま、大人になろうとしていたという。ゾラの見立てでは、ぼくはやがて、その二人から押しのけられることになると思ったが、ぼくはどうにもこうにもうまくしぶとかった。
「やがて、いま、あなたのお隣にいらっしゃる王女様が、あなたをお選びになったのです」
老人は誇らしげな笑顔をみせた。
「あなたは子どものまま大人になりました。それがあなたの魅力でした。あなたはどこまでも成長できるような、そういう魅力を持っていた。月の王国をやがて、土星の衛星のタイタンや、木星の衛生のエウロパにまで広げてくれるんじゃないかと、人々は夢をみたんですよ」
そこで老人はパイプにタバコの葉を入れ、マッチで火をおこした。
「しかし、押しのけられた二人は、北の勢力と手を結んで、陰謀をしかけたのです。あなたが天の橋を渡る間に彼らはあなたを狙撃しました。あなたが死にかけたとき、王女様が西の太原から呪術師を連れて来ました。呪術師は生まれ変わりの術をあなたにかけました。あなた達はに誓いのくちづけを交わしたのですよ。また会うことの誓いです。それはそれは素晴らしいものでした」
老人の細い目から、涙がこぼれ落ちた。
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結婚式は盛大に行われた。月の王国の人々1000万人による祝福は三日三晩続いた。ぼくたちは広場で多くの人から祝福の言葉をかけられ、皆が見ている中で踊ったのだ。踊りの最後にぼくと彼女がくちづけをするとどっと月面が揺れた。ぼくは幸せの絶頂を感じた。
安穏で幸せな日々を送った。月での生活は地球の数倍は素晴らしかった。眠りは深く、いつも体調は万全で、心はかまくらのなかにいるように静かだった。食事もまたワイルドさとソフィスティケイティドを矛盾もなく一つにしたような料理たちに驚かされた。特に、うさぎ肉の味噌煮込みは最高の料理だった。
月人の書いた書物は、地球人のものとは比較できないクオリティがあり、むさぼるように読んだ。するとものすごい勢いで知が成長していくのだ。
サーシャとは蜜月のなかにいた。われわれは互いの気持ちをすぐに察することができるため、諍いを招くことがなかった。そしてわれわれは飽きることなく求め合った。月にいると、自分の欲望が、どこまでもふくらんでいくように思われた。自分の感性を司る部分が、覚醒したかのようだ。情事の最中には、すべての感受性が開かれたようになり、ぼくと彼女を隔てたボーダーが破られ、渾然一体のごとくだった。
ぼくたちは2人のこどもをもうけた。1人目が女の子、2人目が男の子だった。月には男女を分け隔てる習慣がないので、1人目が王位をつぐことになると思われた
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10年が過ぎた。
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30年が過ぎた。
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100年が過ぎた。
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ぼくとサーシャは全くと言っていいほど歳をとらなかった。月の人は最高水準の生活とヘルスケアで1000年生きることができる。多くの人はそれを当たり前のように享受するのだ。お金さえつぎ込めば、死ぬ寸前まで少年少女の容姿のままでいられる。
だが、その最高の生活にだんだん疑問のようなものを感じていた。月からは何かしら野蛮なものが排除されすぎているのではないか、と思った。ぼくはそれを口にだすことはやめた。100年に及ぶ蜜月に水を差したくなかったからだ。
月の王国は地球から見えない、月の裏側にあった。つまり、地球をながめたければ、王国の裏側に回る必要があった。
ぼくはあるときは船をつかって、反対側の砂漠まで乗って地球を眺めた。アース・ウインド&ファイアーの「セプテンバー」を歌ってみた。懐かしさがこみ上げてきた。ぼくは
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ある夜、思いもつかないできごとが起きた。ぼくは目を覚ました。窓が開け放たれ、カーテンがおどろおどろしく風に揺れていた。ぼくはそこから邸宅の芝生に降りた。外は綺麗な星の夜で大きな青い地球が見えた(まだなんとか青かった)。ビニール袋が風に吹かれて、草原の上を飛んでいた。ぼくは気を取られ、追いかけた。ビニール袋はやがて森のなかに入り、木々や垂れ下がるシダに引っかかることなく浮かんでいた。ぼくは気づかぬうちに樹海の奥深くに入ってしまった。茂った木々は星々の光のほとんどをさえぎっていて、光の筋が数筋こもれ落ちているだけだった。
そこに玲桜くんが現れた。彼は昔と何もかわらなかった。100年経ったのに。一つだけ違うのは、今度ばかりはとても苦い顔をしていたことだ。
「あなたの心はお察しいたします。慧さん」。カーネルは口角の片方を持ち上げた。「それは避けられないことなのです」
「なにを言っているんだ」
「あなたは地球を恋しくなったのですよ」
「まさか、そんなことないよ。愚かな地球人とは金輪際かかわりたくないね」
「それでも、あなたは地球にもどりたいんです。なぜなら、あなたはあそこで生まれたからです。たとえ呪術を使って、輪廻転生したとしても、やはりあなたは地球で生まれたのです。そこから、あなたは逃れられないのですよ」
「いや、ぼくは月が好きなんだ。ここに家族がいる。彼らがぼくのすべてなんだ」
玲桜くんはぼくのいうことを無視して手持ちの便箋に何かをしたためた。便箋は宙に浮かび、森を抜けていった。
「あなたの心のことは皆が知っているんです。あなたは気づいていないのかもしれませんが、あなたが地球を恋しがっているのを知っていますよ」
玲桜くんはノリノリで「セプテンバー」を唄った。
「でも、大丈夫、誰も自分の人生を選んでいる人なんていないんです。すべてはたまたまです。大きな動きのなかの一つなのです。だから、あなたは自分が選べなかったことを悔やまなきでいい」
彼はにっこりと笑った。それから、森の暗闇の中に消えた。
ぼくは自分の複雑な気分と初めて向き合った。地球には帰りたい。彼女とも子どもたちともずっと一緒にいたい。これらは相反する感情じゃなく、どちらも本当の感情なんだ、とぼくは思った。
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サーシャは便箋を読んでいた。彼女は初めて会ったときと同じように目を見開いた。ものすごいエネルギーが照射されたみたいだ。「あなたと交わっているときに、あなたの心にそういうところがあるってわかった。だからいずれこうなることは知れていたの。あなたがわたしを愛していることも知っている。そのことも強く感じるわ。月の人は相手の心を滑らかに理解できるの。だから、あなたは悪くないわ」
彼女はやわらかい笑顔でぼくを見つめた。「あなたは地球で生まれたから、そこに帰るのは自然なことよ。短い間、私があなたの王権を引き継ぐわ。その後はすぐに、ナターシャ(1人目の女の子)にわたす」
彼女は条件を出した。
「だけど、あなたは、ここで過ごした日々のことを忘れてもらうわ。あなたが地球で月の王国の存在を明らかにすると、彼らと私たちは戦争をすることになるかもしれない」
彼女はうつむいた。
「おい、それは待ってくれよ。ぼくは君を愛しているんだ。君と出会ったこと、君と過ごしたことを忘れたくなんかないんだ」
でも、彼女はうつむきながら、ぼくの目をみようとしない。
「それができたらいい、とわたしも思った。でもできないのよ。あなたの記憶が未来を大きくゆがめることになるかもしれない。地球が進んでいる方向を誤った場所に向けてしまうかもしれない。それは避けたいの」
彼女は模造記憶が入った鉄の筒をとんとテーブルの上においた。
「普通の仕事をして、普通に遊んで、普通に文句言って暮らしていた、あなたの記憶がこの筒のなかにある。この記憶をあなたに移植する。それが唯一の道なのよ」
「移植記憶はいやだ! いやだ! おれはアンドロイドじゃないんだ。記憶を失った人間はロボットと変わらないよ。キミとの記憶を失えば、それはぼくの人生の最も幸福な時期をまるまる失うことになるんだ」
ぼくは言う。
「ぼくは月にいることにした。地球に帰りたい気持ちはある。だが、記憶を失うなんて絶えられない。家族もいる。家族を失うのも耐えられない」
ぼくはサーシャを抱きしめた。彼女の身体のぬくもりを感じた。
「あなたはもう決めてしまったのよ。わたしには未来が見えるの。あなたが月にいれば、これから地球のことを考えて、どんどん悲しさを募らせていくのよ。そしてやがてとてもつらくなってしまうのよ」
この一言はとても堪えた。それはぼくの感情を完全に言い当てていたからだ。
「わかったよ、サーシャ。ぼくは選べないし、君も選べないのかな。でも、ぼくは君のことを忘れたくないんだ。君と一緒にいたこの時間が人生の中で最高の時間だ。でも、時は永遠じゃあない。これは多分避けがたいことだ。ありがとう。サーシャ、ぼくは君は愛している」
「わたしもあなたを愛しているわ」
われわれは口づけをした。
「次あなたが目覚めるのは地球よ。そのときには記憶が今から入れる方に変わっているわ。だから記憶を最後まで楽しんで」
そうしながら、彼女はゆっくりと、鉄の筒を銃にこめた。そしてぼくのこめかみに当てた。
「愛しているわ、慧」
「愛しているよ、サーシャ」
彼女のほおを涙が伝っていた。でも彼女は笑っていた。とても綺麗な素晴らしい笑顔だった。
青い光がとびちった。鉄の筒は床にころがった。彼女はそれを拾い上げて、月の崖から落とした。それが底を打った音はいつまでも聞こえなかった。