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そのサルは天国に行った  作者: 夏川慧
2/6

1章 Where Is My Mind?

「その亀は逆さまのまま横たわっていた。その腹は灼熱の太陽で焼け、砂に足を打ちつけて、自分でひっくり返ろうとしている。でも、できない。あなたの助けなしではね。でも、あなたは助けないんだ」

(映画「ブレードランナー」。ヴォイト・カンプ・テストのシーン)

 


1


 さて、ぼくは会社からの帰り道にいたのさ。 インターネット革命で効率性をぐんと向上させながら、さらに労働時間を増やしつつある、愚かしき人間にとってささやかな楽しみである、余暇の時間を楽しめるからさ。ぼくはアイフォンで椎名林檎の「病床パブリック」を聞いていた。「あの頃の椎名林檎は良かったなあ。最近はどうなってやがるんだ、バーロー」と得意の独り言を、アイルランドの野っ原のように悲劇的な、永福町の野っ原に吐きかけた。


 その日は何かが違った。いや何もかもが違った。


 ぼくの眼球は、京王線の中でぐうぐう寝ている間に、くず餅と取り替えられていたじゃないか、という状態だ。何もかもが、アダルトビデオの修正部分を意識させられるほどにぼんやりとして見えた。まるでゴーグルを付けないで海に潜ったようだ。

 海。そうだ、海だ。それから彼の思考は海へとズーンと沈んでいった。


 彼は海の中を潜っている。その海は暗くて、視界が殆どない。彼のかかとを誰かが叩いた。自分を囲んでいるものたちのことを、ぼくは本当になーんにも知らないんだ、と彼は考えた。海の中が暗くなると何も見えないし、耳にはごおおおという音ばかりじゃないか。紛れ込んだ海水から、塩からさを感じる。それからぼくは重力に支配されている。ぼくはたぶん、どんどん下方に引き寄せられているんだ。

 だんだんその海にすら彼は関心を示さなくなる。というか、海とほとんど一緒になってしまう。境界線は崩壊している。こうなってしまうと、古い世界のなかで境界線が設定されていたことにすら、違和感を感じる。


 「境界線」はわれわれの妄想じゃないか?


 たぶんそうなんだ。でも、ぼくらは自分の所属する環境に悲劇的なまでにとらわれてしまうのだ。そしてその環境についてうまく理解することができないんだ。

 そこで、女の子が話しかけてくる。

「あなたは生き残ったのね」

 それは声だけだ。存在のようなものを見ることも触ることもできない女の子だ。幼いけど凛としていて、それでいて、なんというか柔らかくてなめらかな感触を持っている声だった。

「あなたの他に誰が生き残ったの?」

「ごめん、きみが言っていることの意味がよくわからないんだけど」

「あなたは生き残ったの」

「うん、ぼくは生き残った」

「でも、他に誰が生き残ったかはわたしはわからないわ。あなたなら知っていると思ったの」

「ぼくは知らない。きみが何についてはなしているのかもさっぱりわからないんだ」

「記憶を失っているのね」

「なに?」

「あなたはまだ眠っているようなものなのよ」

 そこでその声は離脱した。するとぼくから海が去っていった。自由落下の感覚にとらわれた。胃が持ち上がるのが、感じられる。ぼくは感じる。「ぼくは誰なんだ?」と。もちろん誰も答えてはくれない。


2


 目を覚ました。あいも変わらず、永福町の住宅街のなかにいた。水銀灯が不満ありげにじいいじいい音を立てていて、中華料理屋の出前がぼくの横をすっと通ると、いい匂いがした。空には東京から見える濁った三日月が浮かんでいた。月は何かを語りかけようとしている、のだろうか。


 どうしてだろう、とぼくは得意の独り言を繰り出した。どうしてだろう、なんか変だ、この夜ってえやつは。彼はインターネットで買った、写真と全然違うコットンシャツのボタンを緩めると、ぼくの平べったくも生白い胸の肌が露出した。少しだけ風が紛れ込んで、少しだけ涼をとることができた。

 確かに酒はたくさん飲んだが、ぼくはそう簡単に泥酔しないたちだ。飲めば飲むほど強くなるタイプだ。足元がおぼつかなくなっているわけじゃない。この前の4月に30歳になったけど、体力はジャッキー・チェンばりに維持しているつもりだ。なにしろジムではおっさんおばさん連中とパンプアップやらなんやらやっているんだ。

 彼の右手にはペリエの瓶があった。ぼくはそれを一気に飲んだ。鶏のそれを連想させる喉仏が上下にうごいた。少し頭がクリアになった気もする。

 だけど、そうじゃなかった。

 それからぼくはその瓶を落としてしまうことになる。ものすごく驚くべきことがあったからだ。


3


 でも、その前にまず、永福町の帰り道にたどり着くまでにしたことを振り返る必要がある。たぶん。それは決定的じゃないけど、まあまあ必要なことだ。

 

 その日、昼は気温26度と過ごしやすい陽気で、少しばかりの雲が訳知り顔のフレンチシェフが好みそうな感じで、青い空にまぶしてあった。

 ぼくは高校生のころに憧れていた、ナイスバディのイタリア人と日本人のハーフの川上皐月さんのことを思い出した。彼女の顔は悲しさと嬉しさを、陰と陽な感じ混ざり合い、しかし、笑顔はイーロン・マスクのスペースXのロケットがエウロパに到達する可能性を51%ひきあげるほどの威力を持っていた。超かわいいわけである。

 ただし、ぼくは高校時代を通して、帰宅部で女の群れの中から大馬身、突き抜けた感じの酒田アミという女と付き合っていた。アミと放課後遊ぶと、帰宅が2日後になるというほどクレイジーな女で、その感じが、高校社会の柵の外にあるジャングルで、熊との遭遇リスクをマネジメントしながら生息していた、ぼくとマッチした。二人は離れがたい感じだったけど、彼女は高校を卒業すると、シンガポールのナイスな大学に行ってしまった。彼女はアインシュタインの3分の1程度の高機能な脳みそを保持していたことが、取材班の調べでわかったわけだ。

 そんなアミと付き合いながら、ぼくはなんだろう、学園ドラマの王道たる、川上皐月さんとねんごろになることを夢見ていた。川上皐月さんのことを考えながら、男子トイレのひびの入った鏡を眺めてみる。「なんて、こいつは斜に構えているんだ。どの角度から見ても、皮肉が溢れ出んばかりじゃないか。友達になりたくないランク2位には達するだろう。1位には最強のガリ勉野郎の足立未来生がいるからいいとして……」。

 ぼくはこんな甘酸っぱい劣等感のことを思い出して、そんときの自分の感情の持ちようを死ぬほど苔にしてみたのだ。どうしてぼくが他人と自分を比べなくちゃいけないんだ。自分が手に入れられなかったもののことを、いつまでも愛おしく思わなければいけないんだ。こうしている間にも地球はぐんぐん回っている。シリアではイスラム国が暴れてる。難民たちがドイツに向かう。中国では軍事パレード。香港の重慶マンションの両替商は今日もセンチ単位でしのぎを削っている。アメリカではドナルド・トランプ伯爵の人気がうなぎのぼりだ。

 そんなセンチメンタルさをぼくの上司、有栖川・マクドナルド・誠がぶっこわした。

 有栖川とのバイ会談は、誰もいない会議室で行われた。個室だ。「有栖川は個室のなかではとんでもないことをする」というのが、麗しき広告会社「マディソン・アベニュー・ワナビー」の鉄則だった。おどし、すかし、なだめ、それからまたおどし、とさまざまな暴力的ソリューションに長けている人材が溢れている。

 有栖川は30代後半のデイビッド・リンチのような髪型と、上等なイタリア製スーツに身を包んだ、上の顔色伺うだけでそこそこの出世を遂げている、よくいるクソ野郎だった。男のくせになぜか、バージニアスリムを吸って、それについて質問されると、これみよがしにウンチクをやりはじめる(あまりにつまらないので忘れてしまったが)。いつもアイフォンで若作りのつもりのハドソン・モホークを聴きながら、探偵みたいなスカした表情で口笛を吹いている。ムカつくやつを輩出し続けることで知られる有名男子校出で、その男子校のやつが面接に来た途端採用し、自分の部下にすえ、ポチにする。ポチは転職に抵触しない程度の2年ほど、ご主人様のポイントを外した命令に従い、方々で炎上し、怒りに打ち震えて、赤提灯で「ばかばかばかばか有栖川ー!」と叫んで、やめる。やめた途端、そいつらは、その苦労を見出され、ワンランク上の企業に転職するのだ。

 しかも、有栖川は部下をわざと炎上させておいて、そこにホワイトナイト風で現れ、すこ~しだけ仕事をして、「おれっちまた火中の栗拾っちまったさ」とアピールして、デキる人と勘違いさせている。人事考課はいつだって間違いばかりだ。人事部なんか来週おれがプルトニウム爆弾で燃やしてやるぜ、とぼくは思っていた。

「はーい、ぼくくん。どうなの。ぼくぅーはノッているの? 先週末は『チック・チック・チック(!!!)』のライブで、恵比寿リキッドルームでオールナイトしたんでしょう。なんか、キャミソール3連星をナンパしたんでしょう。聞いたよ、うえっへっへ。で、どうだったの? やったの? やったんでしょう、白状なさいよ!」

「いやあ、そんなカップラーメンみたいには行きませんよ。今度土曜にデートです。そこで決めたいと思っているんですけど」

「ぎゃっはっはっは。いいね、いいね。若いって。今度、ぼくも連れてってね。なんかギョーカイ絡みの女とかもうやなのよ。食品添加物もりもり、みたいな感じじゃん。ぜんぶ同じよ」

 彼はそういうとビッグマックをもりもり食い始めた。コカコーラは2本ある。そのうちの一本は瞬殺した。この男がいつもちゃかちゃかしているのは、マクドナルドのヘビーユーザーであるからだろうか。

「それでねー。アーリーアダプターなぼくくんにまた素晴らしい仕事とって来ちゃった。感謝してよねー」。有栖川は無類の女好きだが、なぜか、しゃべり方やふるまいは、おネエ系だった。

「この会社がもっと伸びるために、バリュアブルな人間とアンバリュアブルな人間を見極めてほしいのよね。それでアンバリアブルな人間には、この会社を去るように、お願いしたいのよねー」

 有栖川はビックマックを始末した。

「この会社はダウンサイジングを必要としているのよ。それで、ガチムチになったら、今度はもっと面白い人とかいれて、プロテインで作ったがちがちの筋肉で固めるのよ。最強のガチムチ企業の出来上がり、ぼくらは出世して

給料も、ぐんぐんになるのよー! いいアイデアでしょ」


4


 それで、ぼくは頭痛がしてきた。実家にいたころに繰り広げた、兄を追いだそうと試行錯誤する弟による嫌がらせ、の数倍しんどいことになりそうだ。絶体絶命の大ピンチ。

 まさか首切りの特攻隊長役とは最悪じゃないか。だって大学時代はロン毛でカオティック・ノイズバンドのギタリストだったわけだし、今までも何もかもが適当で、山場を乗り越えた後は、崩壊するジェンガみたいな仕事ぶりを繰り返して、ごまかしごまかしやってきた。「口八丁、手は二丁」な感じで本当にダメな奴だったんだぼくはねえ。

「なんならぼくが、そのアンバリュアブル(価値の無い)人間の第1号にでもなってやろうじゃない。社長のデスクの上に乗って、ビヨン・ボルグの格好でもして、テイラー・スウィフトでも唄って、涙の卒業式でも開催するんだ。卒業式にはデイビッド・ボウイを呼んで、「Changes」(1972

年)をやってもらう。『時はぼくを変えていくかもしれない。だけど、ぼくは時間をさかのぼることはできないんだ』って絶叫してやる。イギーポップも呼ぼうかな」

 これらはすべて自分の胸の内で繰り広げるよう心がけていたのだが、実際には、必殺技の独り言として、目の前のデスクにいる、ふっくらした、しっかりもののハツミさんに丸聞こえなのだ。

「ぼくくん、どうしたの? ついに頭がいかれちゃったの?」

 ぼくはきょとんとした。それから眉間によったシワを指でなでつけた。

「ああ、どうもそのようだな」

「いい精神科医教えて上げるわ。頭のイカレた芸能人とテレビ業界人が御用達の六本木のお医者さん。そのお医者さんも、どうもイカれているってうわさんなのよね」

「されサイコー。もう行くしかないって感じー」

 ぼくはそう吐き捨てながら、アイフォンを取り出して椎名林檎の「病床パブリック」を聴いて、ブラジルの柔術家をイメージしながら踊った。ベンジーいい声しているぜ。でも、この「病床パブリック」ってタイトル、どんな意味だよ。説明してくれよ、りんごさん?


5


 もうネガティブな気分は払底できそうになかった。例の六本木の精神科医もいい気もするが、とにかく子供の時から、病院の匂いや静けさが嫌いだった。あそこは偽物の空間に違いない。奥の方には、冥王星の裏側にこっそり繋がる穴があるに違いないな。


 ぼくは電話をじゃんじゃんかけて、切って切って斬りまくると、夕方には「打ち合わせを兼ねた会食」と称して、銀色のネクタイをつけて、引き締まった顔立ちでオフィスを後にして、大嫌いな渋谷シティーを脱出した。

 その日は仕事なんかと関係ない人と酒を飲みたかった。28歳位から、どうも何かが崩壊して、プライベートは酒ばっかりだ。ジムで体を鍛えているけど、そのあとは必ず、結婚しそびれた寂しいおっさん、おばさんとかと飲みに行っている。何をするにも酒がついてきて、飲んでない時のほうが不健康な気がする始末だ。

 そのときはまだ体はヘタっていなかったけど、どうも心が潤いを失っている、と感じていた。たぶん、僕は自分に正直にならないといけないんだ、と彼は京王線のなかから見える、人間どもがつくった街たちを眺めながら、そう思った。


 向かったのは「ミラクルクリスマス」という場末の酒場だった。夜ごと得体の知れない人間どもで賑わった。この種の人間はこの街に驚くほどたくさんいて、「普通の人」の目には見えない糸でつながっていた。顔見知りだったり、知らなくても妙な周波数で交信していとも簡単に打ち解けたりする。「においをかげば、そいつが同類かどうかが分かるんだ」ともう10年近く通う職業不定のサカタ爺は言う。

 その店はもうとびきりの変な店だったが、最も変な所は、正方形の店の真ん中にトナカイがいることだ。トナカイはそこで暮らしていた。3年前までは首輪でつながれていたが、彼に逃げる意志がないことが分かると首輪が外れた。だが、彼は自分の役割を理解しているのか、中心部に居座り続け、客の好奇心だらけの視線を、生来の鈍感さで受け流していた。

 彼は酒場が開く6時ごろに目を覚まし、店が閉まる朝方5時ごろに眠る。窓のない、密閉された、煙草の匂いが染みついた店のなかで、彼は長らく太陽の光を見ていない。その顔は夜型人間の目そのものだ。まぶたは重たそうに覆い被さり、瞳はとろーんと濁っている。頬の肉はゆるみ、今にも崩壊しそうだ。

 しかも、トナカイはぶくぶくに太っていた。そのお世辞にも広いとは言えないバーの中にずっといるせいで運動不足なのだ。だが、主たる原因はバーの客たちが上げる食べ物だ。客はよくビーフジャーキーやカシューナッツを頼んで、まるまる彼にあげた。常連客は近くの中華料理屋から出前を取って、焼き餃子をあげた。トナカイはそれをぺろりと平らげる。彼は何回でもおかわりがきいた。

 それから、店の傍らにあるテーブルには、多摩川から拾ってきた石がごろっと転がっている。これらは、素晴らしいプロセスで販売されていた。値段は店員と交渉することになるが、もちろんそこには、アダム・スミスの「神の手」なんてのは存在しなわけであり、ブラックボックスのなかですべてが決められる方式なので、そこから何が飛び出てくるのかは皆目検討がつかないんだ。

 あるドナルド・トランプとロバート・サカザキと同じ思考回路を持ち合わせた、鋭いシナプスの持ち主である不動産金持ち・次郎さんは、なんと200万円払った。八百屋をコンビニに替えた末に八百屋に戻した夢路さんは300円で購入した。金と交換できるということは、そこに価値があるということだ。

 まあ、それはよくて、あと、読書家のマスターも欠かせないファクターなのである。その愛しさと切なさと心強さを感じているふうではない、男はいつもカウンターのなかにイタリア製の椅子を置いて、そこで分厚いハードカバーの本を、一心不乱に読んでいた。よく見ていると分かるが、マスターの読書のペースはものすごく速かった。見開きの2ページを読み終えるのに20秒かからない。ずんずんとページを手繰っていく。マスターは牛乳瓶のような眼鏡をかけ、白髪、いつも両切り煙草をくわえていて、文豪さながらだった。

 だが、仕事をそっちのけにしていたかというと、そういうわけではない。まったく外界のことなど聞いてないという感じなのだが、一度誰かが注文をすると、香港の屋台で麺を作られるがごとき速度で、酒や簡単な食べ物を作った。ただマスターには1点だけNGがあった。彼は読書の時間を優先するあまり、客にカクテルの注文を「禁じていた」。彼には酒を混ぜ合わせる作業があまりにもまどろっこしいらしい。カクテルを注文すれば、それはすべてウイスキーの水割りになって返ってきた。「返品は受けつけないよ」と彼は言う。


6


 ぼくはその夕方、浴びるように飲んだのだ。酔が霧のように広がり、彼を包み込み、やがて、アルコールの海の水位が高まり、すううと引いていった。その時になぜか「死んでみたい」と思う瞬間が来る日がある。その日もそうだった。ぼくは自分が死ぬことを想像した。意識は断裂せず、世界に残っているのだが、時間が立つごとに自分の存在の確からしさが薄れていき、やがて、無になるのだ。「無になるんだ、それでいいじゃん、なんで、ぼくは糞くだらない物事にとりつかれているのだろうか」。

 彼はきいいとなって、周りに喚き散らす。独白の始まりだ。アダルトたちは面白がって聞いている。

「ぼくはご多分に漏れず北欧家具の奴隷だった。陰と陽をデザインしたコーヒーテーブルもすぐ買った。クリプスクのオフィス家具。ホヴェトレックの健康バイク。グリーンの縞模様のオハマシャブ・ソファ。環境にやさしい無漂白紙のリズランパ・ランプ。後はダイニングセットを買えばすべて完璧」

 これは映画「ファイト・クラブ」の主人公がどれだけ北欧家具にかぶれているかをわからせるセリフだ。ぼくは「ファイト・クラブ」が好きすぎて、53回観て、この部分は暗記して、酔っ払うとリピートするのだった。

「またやってるよ、あいつ」と不動産金持ちの次郎はそういってお代わりの山崎水割りを頼んだ。

 ぼくは叫んだ。「そんなものはなくなっちまえばいいんだ。なんで俺たちは金に拘束されて生きなくてはいけないんだ。歴史の教科書は俺たちが進歩してきたといっている。なのに、クソみたいな住宅ローンとグローバル競争に負けた電機企業が押し売りする家電と、おっしゃれーなファストファッションな洋服、女の子と知り合うのだって、身繕いにお金がいるじゃないか。そんなの嫌なんだ。資本主義のつかいっぱしりじゃないか。つまんねーぞ。つまんねーぞ! 全部燃えちまえ、燃えちまえ、ファイトクラブみたいに!」

 ぼくはそういうと、久保田の一升瓶をカラにした。


7


 それで話はもとの場所に戻る。帰り道というやつだ。わが麗しき賃貸マンションは炎に包まれていた。その赤い炎はあまりにも美しかった。見惚れているうちに小便をもらしそうになるほどだ。

 ぼくは自分が家を失ったことを悟った。

「君を自由にしてあげたよ」

 いきなり男が声をかけてきた。男はとても綺麗な顔立ちをした、ハンサムな男だった。

 男の名前は玲桜れおといった。


8 


 ぼくとその男はなぜかすぐさま意気投合した。河原で缶ビールを飲んだ。向こうには群青色の空が見えて、無数の星たちが輝いている。三日月の濁った光が河面に落ち、ゆらゆらと揺れていた。まるで、諸行無常だとでもいいたいがごとくに。

「大学が嫌いになったぼくは、JRの最寄り駅と大学の間にある名画座に入り浸っていたのさ。名画座は学割がきいたからよく行ったさ。1枚で二本立ての両方を観られるんだ。その映画館はラインナップも悪くなかった。音響装置、スクリーンも最新のシネコンみたいなダイナミックさはないが、古い機材の温かみのあるざらざらとした味わいがあった。わかるだろう」

 玲桜は相槌を打った。

「いやというくらいわかるさ。何もかもが洗練されていくことが、素晴らしいとは思えないんだ。われわれはスマートフォンの中に大事なものを置き忘れている」

「そのとおりさ、玲桜くん。おれはそういうふうに当時から考えていて、名画座に通って、ノート半ページ、多ければ1ページにいろいろ書いた。ひとつ映画を観ると、ぼくのこころの池に大きな岩が落ちたような気がした。それはたぶん、10代から20代の前半あたりまで持つことできる類いの、みずみずしい感受性だったと思う。1個観ると感情や言葉、観念たちがからだ中で踊り狂った。小説のアイデアのようなものわき水からこぼれ落ちるように出てくる」

 ぼくは酒をあおった。

「自主制作映画をつくっている友人もいたからさ、ぼくは映画のテクニカルな部分も詳しくなったんだ。当時は映像編集ソフトの敷居が低くなり始めた時期でね、ぼくも何度かそれをいぢいぢしたこともあった。何事も実践である。いぢいぢすると本で勉強していたのとは格段に違う速度でモノゴトが理解できる。

 もちろん、ぼくは頭でっかちでもある(数多くの友人からそう指摘されてきた)。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』なんかを読んで、ふむふむとわかった気になっていた。わかった気でいるのは、そんなに悪いことじゃない。たとえ、海が余りにも広く、深くとも」

「根拠の無い自信は大事だよ、自信がなければ突っ走れないんだ人間は」

「でも、そんな自信はどこにいったんだろう。いま、ここにいるのは、賃金に縛られた、奴隷のような人間だ」

「でも、いま、家を失った。あなたを縛り付ける鎖の一つが外れたんだ」

 玲桜は缶ビールを川に向かって投げた。缶はなめらかな放物線を描いた。それから二人は川沿いを歩いた。星の下にはマンションたちの雑木林が見えた。こうやって外から見ると、それはなんか愚かしく感じられた。

「慧、ぼくはきみをもっと自由にすることができるだろう。ぼくには別の鎖を外す用意だってあるんだ」

 彼はポケットからエビスビールの缶を取り出し、ぼくに渡した。

「このエビスビールで幸せになれる。資本主義に乾杯」

 ぼくはなんとなく玲桜を好ましく思った。それは特にゲイとかそういうわけではなく、友達としてだ。でも、そのときには玲桜のことは何もわかっていなかった。


9


 結局のところ、玲桜が用立ててくれた「用意」が、すでに始まっていた流れを決定づけることになった。もちろん、人間は全知全能の神ではない。そのさなかに、自分が含まれていることを知り尽くすことは不可能だ。


 ぼくは家がぶっとんだ翌日の午前中を、打ち合わせと称して、外出し、苦し紛れ丸出しでマクドナルドの面接を受けたが、まさかの不合格だった。面接した寝不足気味の店長は「30歳というお歳と、飲食業には向かなそうな方だとお見受けいたしました」と言い放ち、ぼくの履歴書を突っ返した。

 でも、ぼくはめげずにバーガーキングに連投して、やはり寝不足そうな店長の矢のような質問を、フロイド・メイウェザー・ジュニアばりのデフェンスで交わしまくり、週4勤務を勝ち取ったのだ。もちろん最下級のグレードからアルバイトでの採用だったが、ぼくはどこ吹く風だった。


 それから出社して、受話器を引っ張って、バリトンボイスで方々に電話をかけて、すぐさま休憩室のソファにごろっとなった。すると、自分のマンションにあったイケアで買ったソファのことを思い出すのだ。「あそこでは、少なくとも3人の女といちゃいちゃしたはずだ(正確な数はわからない)。思い出すな、シオリとアサミとシオリ、まじかよ。2人同じ名前かよ。なんてこった。

 それにしてもだよ、ワトソンくん、おそらく男女の営みの中でソファというものはなんというか『平凡かつ新しい開拓地』だと、思われるなあ。なんというか布団の上でするものだという固定観念を静かに覆しているからね。それにベッドを使うと、やはり体位のバリエーションが多様化するはずだ。そうあれは静かな大発明なのだよ、ワトソンくん!」

「ちょっと何言っていのよ! クレイジーくんさあ、ここは会社で、しかも午前中からそんな話を大声で、しかも独り言でいってるのってどういうことなのよ、あんたはいったいどうなってんのよ! くそやろー!」

 向かいの席のおせっかい、ハツミが、どん、と豆乳の紙パックをコーヒーテーブルの上に叩きつけた。シマウマに食らいつく前のピューマの顔つきをしている。

「早いところ、六本木のお医者さんのところにでも言ってみればいいじゃん、そうでしょ、シャーロック・ホームズくん!」。

 彼女の鼻の穴がぷくっと膨らみ、額の血管がヒクヒクした。二番手の黒烏龍茶をのみながら、猛抗議の姿勢を示しているのだ。

 彼女は真面目でしっかりとしている。おそらく俺の8倍の貯金額をもっているだろう(日本円が対ドルで暴落しないことをいのるぜ)。悪い冗談はあまり受け付けない体質なのだ。

「まじかよ、いま心のなかでつぶやいていたんだぜ。それが、どうなってんだい、全部口から出てたのかよ、ワトソンくん?」

 ぼくは記憶喪失者のように頭を抑えて、顔をゆがませた。

「そうよ、シャーロック・ホームズくん、謎はすべて解けたかしら?」

「解けまくりだよ、ワトソンくん、それから、30歳の男として、ちょっとばかし、自己嫌悪に陥っちゃうよね。しくしく」

「あなたは世界一下品なシャーロック・ホームズね、死ねばいいのよ!」

「うるせー、犯人はお前だ!」

 それからもぼくはコーヒーメーカーがつくったまずいコーヒーを舐めながら、「いやあ、今朝まで玲桜くんと酒のんじゃったもんな。それにしてもだよ、ワトソンくん、だれなんだ、あの玲桜くんは、なんか知らないことばかりじゃないか。まあいいか、おいおいわかることになるだろうよ」と独り言を繰り返した。

 そのときぼくの肩になにかとまった。鳩だった。ふるっふー、ふるっふー。足には手紙が付いている。

「おいおい、いまどき伝書鳩かよ。江戸時代じゃないんだぜ。くのいちが天井から覗き込んでいたら、それこそそうだな」

 そう独り言を言っておいて、彼はまじめに天井を確認し始めた。なんとなく自分の言葉に惑わされてしまう質なのだ。


10


 つまり、ぼくはオフィスビルの3・5階「庶務12課」に呼び出された。そこには異様に天井の低くて、かがまないと歩けないフロアがあった。沈没寸前の海賊船のような場末のようなムードと、ペーパーレス化された現代的な設備の二つが融合している。

 その奥の真っ赤な正方形のテーブルにはチンピラ風の伊達男、タイラーがいて、くしゃくしゃの葉巻をふかしながら、密造酒をあおっていた。サトウキビとブドウでつくった蒸留酒らしく、傍らにはライムが山のように置かれ、彼はそれをナイフで半分にぶった切って、口の中にギュッとしぼりこんだ。そのフロアもご多分に漏れず、禁煙だし、ドラマ『マッドマン』じゃあないんだから、酒だってのんじゃあまずかった。が、彼の存在感はそれらの掟をぶっとばすムードがあった。

 机には、アンティークもののタイプライターが寝っ転がっていて。彼の横にはモールス信号の打電機が置かれていて、電信を行う女が、あまりの暇さにフェイスブックをしながら、誰かと長電話をかましている。フェイスブックの画面には、同時中継のチャットが4つは見えるし、ニュースフィードはぐるぐる動き回っている。彼女をこのまま、場末の3・5階においておくのはもったいない、ソーシャルメディアマネージャーという最近現れた職種に登用すれば、何でもかんでもソーシャル拡散してくれるんじゃなかろうか、とぼくは思った。

「アミーゴ!」

 タイラーはグラスを持ち上げて、挨拶をすると、表面の色が茶色くくすんだグラスをとって、密造酒をどぼどぼそそぎこんだ。むき出しのアルコールのにおいがわきあがった。「まあ、のみなさい、若造」。氷やミネラルウォーターのような生やさしいものなんてあるはずもない。くっと一口いっただけで、世界の山火事のすべてが喉元にやってきたかのような有様だ。

 ぼくはいつもみたいに洒脱なムードで話し始めた。

「いやあ、朝まで飲んでたところに、午前中のさらなる、ビッグパンチをもらっちったな。アルコール依存を経験した中島らもによればだな、酒もドラッグで、最も入手がたやすいドラッグがさけだから手を出した、んだそうだ。奥が深いな、ワトソンくん」

「ワトソンくん?」

「いやあ、こっちの話だべさ。それよりなにより、なんだよ、ぼくを呼び出しておいてさ。なに、『高校生の頃から好きでした』てのはなしだぞ。ぼくはストレートだからな。男には惚れないんだ」

「違うよ。君は入会することになったんだ」

「入会?」

「その通りさ、シャーロック・ホームズくん」

 彼の背後の壁には、犬が蓄音機を覗き込んでいるロゴが印字されている。そこに窓から差し込む光がぎゅんとそそがれている。

「これはおれたちのマークなんだ。ビクターから拝借したのさ。昔のビクターのプロダクトにはこのマークがしるされていて、これって何なんだろ、って思ってたんだ」

 彼はたくさんの煙を吐いた。

「これってなんなだろう、という好奇心ってすごく大事だ。こういうクソくだらない会社で毎日働いていると、しかも、こんな天井の低い場末に追い込まれると、まあ、そんな素晴らしい好奇心のたぐいは、忘れちまうことになるけどね」


11


「それで、あんたはまずこの犬と蓄音機のグループに属すことになるだろう。われわれのグループの名前はニンジャ。なんかなんとなく格好いいだろう。われわれはだな、シャーロック・ホームズくん、秘密結社と呼んでもいいかもしれない。かなり深い部分の思想の共有をしているんだ。その思想というのがだね、シャーロックくん、本当にやばいんだ。もう、よだれがだーと流れ落ちちゃうくらいいい感じなんだよ。


 それでいて、カチコチじゃなくて、柔軟なんだ。アメーバみたいな感じかな。伸びたり縮んだり、くっついたりはなれたり、そんな感じの楽しい奴らなんだ」

「おっと、そうだ、テストのことを忘れていた。これをクリアしないとキミは入会できないんだ。万が一にもそんなこたあないとは思うけどね」

 タイラーはソーシャルメディアマネージャー女史に、装置をとってこさせた。彼はぼくにヴォイト・カンプ・テストを課したのだ。

「ふっふっふ、『ブレードランナー』みたいなことをしやがって、ぼくのことをアンドロイドか、どうか確かめようとしているのか?」とぼくは尋ねた。

「そうだな、この世の中にあふれる固定観念が完璧にインストールされた、認知バイアスだらけの機械仕掛けの人形じゃないか、試しているんだ。われわれが作成した統計では、朝の満員電車に、死にそうな顔をして乗っている奴らの87%がそういう輩だ。ボーリング愛好家の82%が、週末にショッピングモールに集まる人々の92%が、やはりそういう輩だ。池袋の某サウナ愛好家では12%のみがそういう輩だ」

「池袋のサウナだけ異様に低いね」

「サウナはそういうところが、ある。特にあのサウナは変な奴が集まることで知られている」

 彼は葉巻をゴミ箱に放り投げた。それから密造酒をあおって、質問を始める。

「キミは砂漠にいる。砂漠のどまんなかを歩いている。ふいに足元を見ると、亀がいた。キミはしゃがみ込み、亀をひっくり返した。その亀は逆さまのまま横たわっていた。その腹は灼熱の太陽で焼け、砂に足を打ちつけて、自分でひっくり返ろうとしている。でも、できない。あなたの助けなしではね。でも、あなたは助けないんだ……」

 ヴォイト・カンプ・テストに費やされた1時間は悪夢のようだった。ずっと低質の映画の断片を見せられ続けている気がした。

 で、ぼくはネクサス6型ではないことが認められた。入会。レンタルビデオ屋のそれと殆ど変わらず、免許証のコピーをとったら、やったぜ仲間入りだ。

 その効果はてきめんのようだった。その翌日に有栖川はぼくを呼び出し、「ダウンサイジング計画」を撤回した。さらに翌週には有栖川が辞表を出したとの噂が社内を駆け巡った。そしてその翌月には有栖川は会社を去った。ぼくはハツミなどの若い同僚とともに、パーティを開いて、残虐非道な上司がいなくなったことを露骨に祝った。「サヨナラ有栖川さん」という垂れ幕をつくって、居酒屋ののれんを架け替えて、店主とともに総勢12人で記念写真を撮った。さらに元ヒップホップ・アーティストだったマイメン、黒田・カットアップ・ヒロミが「バイバイ有栖川」というヤバいラップを用意していて、みんなで踊りながら合唱した。


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