序章 Monkey Gone To Heaven
帰り道はいつだって早く感じる。辟易とする会社が待っている行きは気がすぐれなくなることもあるけど、帰りはなんとなくいろんなことを考える。 例えば、夏が終わり、秋の匂いが充満し始めたときには、「ああ、こんな帰り道をおれは何度繰り返してきたのか」と考える。「このまま、こうやっておれは年を重ねてしまうだけなんじゃないか」と。それは、斜に構えた純文学さんの書く小説の登場人物が抱く、諦めのような気持ちだ。春夏秋冬豊かなこの列島では斜に構えているのはいつだって流行っている。ちなみにぼくは純文学にはまったく興味はない。
「でも、そんな気分になる必要なんてないんじゃない?」っていいたいよね。なにしろこの駄文の作者たるぼく、夏川彗(格好いい名前だろう?)はマジで退屈が大嫌いだからだ。常に自分が相対している世界を楽しもう、ということを人生のモットーにしているんだから。
そんなこと言うとバカにしてくる輩はゴマンといるだろう。でも、いいんだ。自分に正直になろうときめたんだ。人の揚げ足をとることを、くそつまらない生活の中で唯一の楽しみとしている人はたくさんいる。なんとも悲しいが、教育制度の改革をぼくに委ねてくれないかぎりは、彼らのその悲しい習性の撲滅は難しいだろう。電車の中にひっかかている、ふざけた中吊り広告を見る限りは、人の不幸は蜜の味、であり続けんだろう。
でも、やっぱ、そんなことはどうでもいいんだ。世界を、人生を、心置きなく楽しむことの一貫として、この小説は存在する。読者のあなたは、あなたが好きなやり方で楽しんでほしい。楽しむのが困難だとしたら、それはぼくの技術とか心意気とかの問題になるかもしれないけど、こちとら責任とる気なんかさらさらないから、覚悟願いたい。
幸運にも読了することができたら、すぐさまこの本をブックオフでも古本屋でも、全ページスキャンしてネットに上げるでもして構わない。ぼくはこの小説から、金銭的な何かを得ようなんて思っとらんのだ。ただ、ただ、自分が書いたものを人に読んでもらいたいという小校生のころからの気持ちの実現なのさ。
最近、大学生時代の友人とお酒を飲んだ。すると大学生のころの記憶がふっと復活してきた。何もかもが、復元されたように現れて、クリアに見えるなんてことがあるでしょう? それだよ、ワトソンくん、それだ! 大学生のときのぼくは自宅録音に勤しむ目も当てられないほどのとんでもないネクラで、なおかつとびっきりの冒険主義者だった。
最近はネクラじゃなくなってきた。そして齢30ながら冒険主義が増長し始めたんだ。なぜなら、ぼくは世界を楽しもうとしているからだ。
それで提案がある。あなたも冒険主義者にならないか? 日本政府がデフォルト(債務不履行)を起こす可能性はゼロじゃない。企業や富裕層は海外に金を置くことを好んでいる。いまある世界は、10年後にはもちろんない。日本という地域も、ぐるぐる回っている地球の一部だ。回りながらその姿を変えていくのものなのだ。
だったら、学生時代の「一気飲み」のノリで、賭金を引き上げてみるのも一行じゃないか。そうだろ? この小説の趣旨は今のところそうだ。
この小説は、地球で始まり、月を経由して、地球で終わる。とてもシンプルだ。喋り出すはずのないものが喋り出し、老人が過去を懐古し、ビニール袋が森のなかで浮遊する。少し複雑だ。
とにかく楽しもうじゃないか。