2
3
一条
東二見
三朝
四軒茶屋
東五条
南六番町
七ツ森
八木
新九条
十市
これは僕が高校に通うために利用している電車の路線図だ。僕の住む市を東西に横断する交通の要である。
僕が朝の通学時に乗るのは東二見駅で、ハルミナが乗ってくるのは四軒茶屋駅。そこから彼女が降りる七ツ森駅までが二十分。
この間、僕らは音楽について語り合った。特定の楽曲について大々的に論じることもあれば、音楽にまつわる他愛のないやりとりをすることもあった。
「本をたくさん読む人を書痴というけれど、じゃあ音楽をたくさん聴く人は?」
「音痴。……って、あれ?」
「それだとわたしたちはお互い音痴ってことになるね」
ハルミナは僕よりも遥かに音楽に詳しかった。
お互いに曲を勧めると、僕の方が教えるよりも教えられることの方が多かった。
それまでもボカロ曲にはかなり詳しいつもりでいたけれど、彼女のおかげで『アストロ・フューチャー』や『イエスタデイ帰納法』で有名な豚トロPの存在を知った。音楽との出会いは財産となる。
それはそれで新しい音楽に出会えるので悪くないことだったけれど、いつか彼女をあっと驚かせる曲を紹介したいと思うようになった。
結果、ハルミナと出会ってから僕は音楽に費やす時間が増えた。聞く時間も、探す時間も。
ハルミナと電車通学を始めて二週間がたった頃、僕はこれだと思える曲をネットで見つけた。
夜にパソコンでお気に入りの曲の関連動画を延々とたどっていた時のことだ。もうどういう経路でやってきたのかわからなくなってきた頃、唐突にそれは画面に現れた。
再生して三秒で鳥肌が立ち、画面から目を離せなくなり、終了してもしばらく意識が現実に戻ってこなかった。
その曲は『パラレルワールド・ウィークエンド』だった。今でこそ1000万再生を超える化け物級の楽曲だけれど、この時はまだ1000も再生数が回っていなかった。
絶対にこんな数で収まるような曲ではないだろう。完全にネットの片隅に埋もれてしまっている。これは拡散させないといけない。
でもその前にまずはハルミナだ。
翌日、顔を合わせるや否やハルミナにこの曲を紹介した。
「間違いなくすごい曲を見つけたんだ。流石の君でも知らないと思う。とにかく聞いてほしい」
「そこまで言われたら心して聴かないとだね」
僕はスマホで楽曲のリンクをハルミナに送信した。ちなみにメッセージは楽曲の紹介の時にしか使っていない。それ以外の用事があれば電車で話せばいいからだ。
ハルミナはイヤホンをつけて視聴に入った。
曲の時間は4分12秒。ハルミナが聞き終わるのを待った。
もしも気に入ってもらえなかったらどうしよう。
待っている間に急に怖くなってきた。
振り返ってみればこれまで僕が勧めてきた曲は、たいてい誰かによって評価されたものだった。再生数。コメント。有名な作り手。そもそも僕の目についた時点で誰かによって広げられたものなのだ。
今回はそういうものが限りなく少ない。僕が見つけて僕が勧めた。良くない曲だとしたら僕の選曲センスが良くなかったということになる。
ハルミナがスマホから顔を上げた。
「ど、どうだった?」
「なにこれすごい! どうしてまだ知られていないか本気でわからない」
「だよね! 安易な表現はしたくないけど神曲だよね!」
ハルミナに驚いてもらえて嬉しかった僕は、曲の感想をここぞとばかりに語り出した。
「一見してシンプルなメロディーなんだけど、イントロ、Aメロ、Bメロ、そしてサビに至るまでに高揚感が積み上がっていくのがいいよね。特に目を見張るのは曲のテンションに連動するように背景色がどんどん明るくなっていくところ。視覚的にもすごく盛り上がる!」
僕が一息で語り切ると、順番待ちをしていたようにハルミナが「次はわたし」と言った。
「どうぞ」
「メロディーの良さは聞けばわかることだから、わたしは敢えてもう少し細かいところについて話そうと思う」
「うん」
「わたしが特に良いと思ったのはベース」
「うん?」
楽曲の感想といえば曲調か歌詞か映像のどれかだと僕は思っていた。だからいきなり楽器の名前を言われて混乱した。
「ぐ、具体的には?」
「顕著なのは3分20秒のあたり」
そう言われても全然ピンと来ない。僕は曲を再生させて言及された箇所を探した。
「一コーラス目にはベースがなくて、二コーラス目のAメロからベースが途中参加してるんだけど、曲の盛り上がりに合わせてベースの存在感が増していってる。そしてラストではほぼベースの独演。作り手の並々ならぬベース愛が感じられる曲だとわたしは思った」
何度かリピートしてみたけれど、あいにく僕にはベースを聞き分けられなかった。
そもそもベースってどういう音だったっけ?
音楽好きを自称しておいてベースがわからないとか、正直に言ったら流石に失望されそうな気がした。
「……電車の音のせいでちょっと上手く聞き取れないかも。今日、家に帰ったらちゃんと聞いてみるよ」
ちょうどハルミナが降りる七ツ森駅に到着した。
電車を降りていく時の彼女が少し残念がっているように見えた。
このままにしておくわけにはいかない。
その日、早めに帰宅した僕は部屋にこもった。パソコンに向かって『パラレルワールド・ウィークエンド』を再生させた。
通学用に使っているインナーイヤー型のイヤホンと違い、部屋のヘッドホンは頭にかぶって耳を覆うタイプだ。価格も二回りくらい違う。これなら余裕で聞こえるはずだ。
ところがそれでも僕はベースの音を見つけることができなかった。
もしかして僕は耳が悪いんだろうか。不安になりながら視聴を繰り返す。
そもそもハルミナは僕と同じ曲を聞いていたのか。送ったリンクが間違っていたとか。いや、それなら会話が噛み合わないはずだ。
僕に聞き取れるのはヘッドホンが左右で別々の音を出していることくらいだった。
左右?
それなら上下は?
その気づきが僕に新しい目を開かせた。
どうやら頭の中で鳴っている音には楽器ごとに座標のようなものがある。
ボーカルは後頭部のあたり。ギターは右のこめかみ。ドラムは頭のてっぺんだ。
それならベースはどこにいる?
頭の中を地図を見るようにして探っていくと、ドラムの左隣りのあたりで低く鳴っている音に気がついた。ベベベベベベベ。これだ。ついに僕はベースを発見した。
翌日、僕はハルミナに真っ先に報告した。
「聞こえた。確かにベースを聞かせるために作られたような曲だったよ」
「おめでとう。良い耳を持っていたんだね」
「一つの楽器だけを聞くなんてことをしたことなかったから最初は苦労したよ。でも一度耳が聞き分けるといつでも簡単にできるようになった。聞こえなかったものが聞こえるようになるのって面白いね」
「月田くんならできるって思っていたよ」
ハルミナは『推し~』シリーズのMVに共通して登場するファン子ちゃんのように屈託なく笑った。
同じ音楽を同じように聞くことができるのはとても楽しいことだった。
「それにしてもベースっていいね。これまで裏方ってイメージだったけど認識が変わったよ」
「厚みのある音って一度ハマると病みつきになるんだ」
「特にラストの『ベーベーベッベッベベー』が最高に格好良いと思ったよ」
僕がそう言った途端、ハルミナの表情が切り替わった。
「……ちょっと待って。今、なんて言ったの?」
「え? 『ベーベーベッベッベベー』だけど。もしかしてここってベースじゃなかった?」
「違わないけど『デーデーデッデッデデー』じゃない?」
「ベースの音は『ベ』じゃないかな? ベースのベ」
「いやいや。『デ』だよ」
「ベ!」
「デ!」
訂正。音楽の聞こえ方は人によって全然違うものらしい。
4
一つの出会いはもう一つの出会いを呼び込む。あるいはそれ以上の。
その日もいつものようにハルミナと電車通学をしていた。彼女と七ツ森駅で別れ、僕は新九条駅で電車を降りた。
改札を電子パスで抜け、駅舎から出たところで声をかけられた。
「よっす。ツッキー」
自転車を傍に止めた男が手を振ってきた。同じ高校の制服を着ていて、長い前髪が右目を覆っている。どこかで見たことがあると思っていたら、『ニコニコ・ニコラ・テスラ』のMVに出てくる雰囲気イケメンに似ていた。要するに本当に格好良いわけではない。
「……誰?」
「マジかよ! 隣のクラスの星野景だよ! 体育で一緒だろ!」
「……そうだったっけ?」
高校の体育は男女で別れており、二クラス合同で行われている。あいにく僕はクラスメイトでさえ未だに顔と名前を一致させていない。隣のクラスならなおさらだ。
僕が高校に向けて歩き出すと、なぜか星野景は自転車を押しながら僕についてきた。
「俺さ。さっきさ。見てしまったのさ」
「何を?」
「春日井春美奈と電車で楽しそうに話しているツッキーをさ」
僕はしばし黙って星野を見た。
疑問点は二つ。ハルミナのことをどうして知っているのか。あと、どうして電車の中のことを知っているのか。
僕は足を止めて星野に言った。
「そのツッキーってのやめてくれないかな?」
「え、そっち? やめないけど」
無理だとはなんとなくわかっていた。頼んでやめるような奴なら最初から勝手なあだ名で呼んできたりはしない。
「春日井さんと同じ中学だったんじゃないかな」
僕は歩きながら星野に言った。
「おッ? 流石はツッキー。よくわかったもんだな」
「中高生の人間関係なんてそれくらいじゃないか。単純な推理だよ。でも、どうして電車のことまで把握されているかはわからない」
「そっか。わからないか。知りたいかい?」
「僕が知りたがっているわけじゃなく、君が聞かせたがっているんだろ」
「聡明だねえ。さぞや春日井と頭のいい会話をしてるんだろうね」
高校への坂道にさしかかったところで僕は歩みを早めた。途端に星野は焦り出した。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。こっちはチャリも押してんだからさ」
「用があるならさっさと言ってくれ」
「いやさ。春日井とは同中だったんだけど、誰とも話してるところを見たことがなかったからさ。ツッキーと話してるところを見て驚いたんだ。ただそれだけ。他意はないのさ」
「どうやって僕らが話してるのを?」
「七ツ森駅の手前に踏切があるだろう? そこで二人が乗ってる電車が見えたんだよ。で、気になったもんだから必死にペダルを漕いでここに回り込んできてみたわけさ」
「ふうん」
「で、どんな話をしていたのさ?」
軽薄そうな印象を拭えなかったけれど、嘘を言っているわけでもなさそうだった。
支障もなさそうなので僕は手短に答えることにした。
「音楽」
「音楽かあ。オレも好き。ノーライフ、ノーミュージック!」
「いや、逆だって。それだと生きていないと音楽もない、になる」
「間違ってなくね? 死んでたら音楽は聞きたくても聞けないわけだからさ」
「それはそうなんだけど、これは逆説的な意味の言葉で……いや、まずいいや」
真面目に話しても仕方がない。そもそも高校の人間関係には期待しないと決めていたのだ。
「あ、前言撤回。やっぱりオレもノーミュージック・ノーライフ!」
高校の正門に着いたところで星野が言った。
「どうして急に?」
「だってオレ、将来の夢が歌い手だからさ!」
「……え?」
僕は思わず足を止めて振り返っていた。
信じたわけではない。口でならなんとでも言える。
でもそれがきっかけで彼に興味が湧いたのは事実だった。
「いや、それは星野くんの嘘だから」
次の日、星野のことを訊ねたらハルミナは即座に否定してきた。
「嘘をついているようには見えなかったけど……」
「たぶん本人の中では本気で、嘘の自覚がないんだと思う」
普段あまり感情を見せないハルミナにしては忌々しげな話し方だった。
「親しかったわけではないんだよね?」
「親しい親しくない以前に、ほとんど交流はなかった。でも話し声が大きくて、聞きたくもないのに会話の内容が聞こえてきてた」
「どんなことを言ってたの?」
「相手によって言うことが変わるんだ。動画好きの友達の前では『オレもユーチューバーになる』とか、ゲーム好きには『ゲーム配信者になる』とか。大きいことを言ってるようで、実際には何をしているわけでもない。人が食いつきそうなワードで気を引いてるだけ。正直、あまり印象がいい人じゃない」
「……そうなんだ」
「ごめん。クラスメイトに対してネガティブなことを言って」
「いや。僕も昨日、初めてまともに話しただけだったから。それにクラスメイトではなくて隣のクラスだし」
もとから高校の人間関係には期待していないことにしてはいる。
それに隣のクラスなのでそんなに交流することもないはずだ。
にも関わらず星野はやたらと僕のところにやってくるようになった。
合同の体育ではよくペアを組むことが増え、昼食も時々一緒に取るようになった。
多少軽薄であろうとも、接する上で実害があるわけでもない。
ある日、僕は自分から音楽の話を振ってみた。
「僕はボカロ曲が好きなんだけど、星野はどんな音楽が好き?」
「ボカロってなんだっけ?」
「ボーカロイドの略。人の声を楽器のようにして歌わせるんだ。最近流行ってるのは『推しにバックドロップ』『ニコニコ・ニコラ・テスラ』『アストロ・フューチャー』とか」
「『推しにバックドロップ』は聞いたことある。あれいいよな。でも他は知らない」
「じゃあ星野の好きな音楽は?」
「オレ? なんでも聞くよ」
「なんでもってのは? 例えばジャンルとか」
「こだわりはないのさ。話題になっている曲ならなんでもいい」
「好き嫌いはない?」
「アハハハ。食べ物じゃないんだからさ。聞いてジンマシンが出る曲なんて普通はないじゃん」
「聞くならせめて自分の好きな曲を見つけたくないかな?」
「見つける? そんなこと必要ないさ。今って誰でも情報発信できる時代じゃん。スマホを眺めているだけでいつも誰かが何かを勧めてくる。わざわざオレが自分から探す必要なんてないさ」
僕とは考え方がずいぶんと違うなと思った。
それは星野にとっても同じだったようだ。
「ツッキーってオレとは全然違うのな。音楽に対して真剣であ、もしかして春日井とはそういう話をしてるのか。すごいじゃん」
案外、悪い奴ではないのかもしれないと思った。
5
五月に入ってGWがやってきた。
連休はもちろん嬉しい。当たり前だけど好き好んで学校に通っているわけではない。
でも休みになると張り合いがなくなってしまうのも事実だ。
僕は連休初日から家で無為に過ごしてしまった。ハルミナから勧められた曲を後回しにしているくせに、別に見なくてもいいネタ動画を無目的に見てしまったり。
もっと有意義な休日を送らないと。と思いつつも寝スマホを続けていたら、SNSのタイムラインに久々に見る名前があった。
「連休最終日の19時に新曲をアップします。久々ですが何卒よろしくお願いします」
僕は勢いよく飛び起きた。『ムーンライダー、風雲ナイター』の告知を最後に、半年近く休眠状態になっていた「ごはんデぱん」のアカウントだった。
僕にとって寝耳に水、いや、熱湯を注がれたような不意打ちだった。
好きなクリエイターはたくさんいる。『パラレルワールド・ウィークエンド』の作者(不詳)は一曲しか出していないけれど天才だし、『ニコニコ・ニコラ・テスラ』や『シェイクシェイク・シェイクスピア』のアンノウン・ノーマンはいい意味で頭がおかしい。『推し~』シリーズのコババヤシはどんな曲調でもエンターテイメントに仕立て上げるポップスターだ。みんな違ってみんなすごい。
でも一人だけクリエイターを選ぶとしたら、ごはんデぱん以外には考えられない。
僕にとってボーカロイドの原初体験であり、比較対象のない唯一無二の存在なのだ。
迎えたGWの最終日。
僕は両親に絶対に声をかけないように念押しし、15分前には自室で待機した。
19時ちょうどにSNSでアップロードの報告がされた。
僕はすぐさまリンクから動画サイトへ飛び、誰よりも早くMVを再生させた。
真っ暗な夜の中を二人の女の子が歩いている。
ビル群。工場。吊橋。
あらゆるところを二人は進んでいく。
河川敷。公園。高速道路。
楽しげだけど、ちょっと物憂げなメロディー。
境内。倉庫街。学校。
二人は夜の中でしか生きられないらしい。
駐車場。森。パーキングエリア。
朝日を浴びると消えてしまう吸血鬼的な何かだという。
運動場。高架橋。ロータリー。
だから二人は常に昼を背にして夜を追って旅をしている。
駅前。電車。まっすぐな廃線のレール。
ラストにカットインするタイトル。
――思春期夜行。