#1「声なき断末魔」【3】
リゼットは何も答えなかったが、アプサラの言葉が魔王の真意であることは明白だった。
「わたくしたちは魔王軍に組みするつもりはありませんわ。たとえ武力で脅迫されても……」
言いながら、アプサラは丈の短いドレスの裾を片手で持ち上げ、右太股に巻き付けたベルトの宝玉にもう一方の手で触れた。宝玉が淡い光を放ち、白く輝く棒状の何かがそこから現れる。アプサラは輝きに指を添え、片手で一気に引き抜いた。宝玉から現れたのは、光でできた剣だった。驚きに息を飲み、目を見開いたリゼットは年相応の娘に見えた。
「これが聖剣の『影』……」
「よくご存知ですのね。レイの持つ聖剣の対になる剣ですわ。扱えるのはわたくしのみ。わたくしの手を離れれば剣は実体を失いますの」
つまりアプサラがここで死ねば『影』の剣は失われる。聖剣を鍛えたハイエルフの叡智や技術が失われれば、聖剣の『影』の復元は困難を極めるだろう。光の剣の存在を盾にアプサラは魔王を脅迫した。彼女のこの言動はアーサリアにとって予想外だった。
「あなたがレイの婚約者だという話は本当ですの?」
「国王である父の決めた政略的な婚姻だ。今となっては意味がない」
「そうかしら。あなたはレイのために魔王になったのではなかったの?」
無邪気で冷ややかなアプサラの声。リゼットの顔が屈辱に歪んだ。しかしそれも一瞬のこと。見逃さなかったのは目聡いアーサリアだけだろう。
「……わたしが魔王になったのは人の道を閉ざすため。大地の力を我が物顔で貪り、世界を滅びへと導く人類を滅ぼすため。それ以外の理由はない」
「あなたの人間観……、レイのことをおっしゃっているようですわ」
「似たような連中だから、あのような男を勇者に選ぶ。それだけの話だ」
「そうね。そうですわ。ですがやはりわたくしはあなたには賛同いたしかねますわ。この世界から人間が一人残らず消えたとしても世界が救われることはありません。この世に生命がある限り……」
アプサラは祈りを捧げるように氷の床に片膝を付き、光の剣の切っ先を彼方上空の太陽に向けた。そして虚空を斬るように剣を横に振るう。たちまち空間が湾曲し、開くはずのない場所にぱっくりと傷口が開いた。中にあるのは漆黒の闇。剣の軌跡に生じた闇はリゼットの頭上をかすめ、太陽に向かって飛んでいく。軌道上で滞空していた天使の軍勢がかき消えた。次元の裂け目、漆黒の闇に引きずり込まれて消滅した。やがて漆黒の傷口は閉じ、虚空の歪みは見えなくなる。『影』の剣の軌道上に存在したあらゆる物質、生命が消え失せていることを除けば、なんの痕跡も残っていない。
アーサリアは衝撃を受けた。まさか次元断を放つとは。それも太陽に向けて。
それはアプサラにとっての生命の価値がきわめて低いことを意味している。現在のアプサラの力では次元断の射程は短く、太陽には到底届かない。しかし彼女が成長し、そしてその冷酷な内面が変わらなければ、いつか必ず太陽とこの世界を滅ぼすだろう。それがエルフの女王の選んだ救世主の正体だった。
わらわには見る目がなかった──そう思いかけて初めて、アーサリアの己の本心に気づいた。いや、違う。やはりわらわの目は正しかった。自分で思っているよりもずっと的確だった。ハイエルフの女王ともあろう者が、エルフに滅びを定めた世界を許すはずなどない。たとえ表層意識では種の滅亡を受け入れたとしても、報復の一つもせず、黙って死ねるはずがない。わらわは世界を憎んでいる。世界とそこに生きるすべての生命を憎んでいる。だからアプサラを選んだのだ。生みの親に失敗作と罵られたアプサラを。
アプサラは片膝をついたまま、息を荒らげている。次元断を放った反動で疲弊しているのは明白だった。一方のリゼットは振り返って上空を見上げ、すっかり数の減った天使の軍勢に唖然としている。宣戦布告は必要なかった。アーサリアは短い呪文を唱え、周囲の精霊に命令を下した。たちまち空気が凝固して女王の周囲を囲むように氷の槍が現れる。そうして生成した十本に及ぶ氷槍をアーサリアは宙に浮かべると、渾身の魔力を込めてリゼットに叩きつけた。しかし魔王は無傷だった。槍が魔王を貫く前に障壁が氷を粉砕した。
我に返ったリゼットは六枚の翼で飛翔すると、長剣を抜き、アプサラを目がけて急降下した。異変に気づいたアプサラが顔を上げたときにはすでに翼を持つ黒い影が間近に迫っていた。リゼットは剣を振り下ろし、アプサラの首を叩き落とした。そして氷上を滑るようにアーサリアの懐に切り込むと、白いドレスに覆われたエルフの女王の胸に剣を突き立てる。その死を確認することなくリゼットは天に舞い上がり、残った天使の軍勢に総攻撃の号令をかけた。光の槍が雨のように氷の集落に降り注ぐ。最期の力を振り絞り、アーサリアは天を仰いだ。ハイエルフの女王の顔を光の槍が一瞬で砕く。彼女の憎悪も復讐心もすべて光の中に消えた。あとには何も残らない。略奪すべきものもない。
こうしてエルフの国は滅んだ。