#1「声なき断末魔」【2】
六枚の羽を持つ影が氷原に舞い降りた。フードのついた外套に覆われたその影は、男とも女ともつかなかった。背から生えた三対の翼は他の天使のものとは異なり、実体を持たない輝きだった。或いは影と呼ぶべきか。魔力によって生み出された触れることのできない翼はまるで暗い炎のように光と影を移ろいながらたえず揺らめいていた。
突然の来客を出迎えるべく、アーサリアはアプサラを伴って宮殿の入り口に向かった。護衛騎士の姿はない。ランスロットは数日前に旅に出たばかりだった。エルフの氷の宮殿は簡素で、同族に向けて開かれている。人間社会の辺境の教会程度の大きさしかなく、森の樹木を思わせる氷の柱の並ぶ広間をまっすぐ歩けば外だった。
開け放たれた入り口を抜けると、幅の広い三段の氷の階段がある。アーサリアは階段を降りずにあたりの様子をうかがった。アプサラも女王に倣って、その傍らに控えるように足を止める。
天使の軍勢は上空に留まったままだった。宮殿の周囲に造られたドーム状の氷の家屋のそばではエルフやエルフの腹から生まれた人間が石弓を構え、空を見上げている。集落に住む現在のエルフの大半は狩人だった。風の精霊の力を宿した石弓から放たれる矢は遙か上空の天使の胸を正確に射抜くだろう。アーサリアは彼らを制止すると、天から舞い降りた三対の翼を持つ人影に向き直った。
「そなたが魔王軍の指揮官か」
「わたしは魔王ヴァルトゥースの血を継ぐ者……、新たなる魔王となりし者」
若い女の声が答えた。声の主がフードを外すと、黒いローブの上に金の髪が流れ落ちた。癖のある長い髪だった。憂いのある青い目がエルフの女王を見据えるが、そこには翳りだけでなく、若者特有の無鉄砲な輝きもあった。背に三対の翼がなければアプサラよりわずかに年上の、人間の娘にしか見えないだろう。それでも仕草のひとつひとつに彼女の特殊な生まれや育ちが滲み出している。
「そなたの顔には見覚えがある。勇者レイの婚約者、ロマール王国のリゼット王女か」
「覗き見とは悪趣味な……」
「案ずるな。遠見の水晶球に映るのは聖剣とその周囲のみ。レイやそなたの様子を好んで盗み見たわけではない。……わざわざこのような僻地までご足労であった。用件を申すがいい」
形ばかりの問いに過ぎないことはアーサリア自身も理解していた。相手の要望は察しているし、自身の答えも決まっている。ただ、興味をそそられた。聖剣を託した種の中から、それも聖剣の使い手のそばから新たな魔王が生まれたことに。幼い子供が就寝前に物語をせがむようにアーサリアはリゼットの内心を知りたいと思った。
氷原に一陣の風が吹き、リゼットの長い髪が舞った。
「あなたがたエルフ族と正式に同盟を結びたい」
「魔王軍に志願したエルフが大勢いると聞く。戦力ならばそれで充分ではないか」
「戦力を求めているのではない。わたしはただ、エルフの同族殺しを回避したいだけ」
「そなたは人間でありながら人類殲滅を掲げ、魔王となったのではなかったのか。エルフ同士の衝突を気にかける必要などあるまい」
アーサリアはリゼットの表情から内心を読み取ろうとした。
しかし若き魔王の頭上で燦然と輝く太陽がエルフの女王の視界を塗り潰す。
「……アーサリア女王。人類の同族殺しは有史以来ずっとおこなわれてきたことです。今は魔王軍という共通の敵を相手に団結しておりますが、魔物が滅し、彼らの望む平和な世が訪れたあかつきには、再び同族間で殺し合いを始めるでしょう。彼らは自分自身が憎いのです。ですがエルフは違う」
しかしエルフは衰退した。アーサリアは内心で答えた。人間よりも矮小になり、もはや滅びを待つのみだ。だから静かに眠らせてほしい。アーサリアはそう言おうとした。しかし実際に口を開いたのは傍らに立つアプサラだった。
「だからあなたはエルフの代わりにわたくしたちを殺しにいらしたのですね」