プロローグ「破滅の救世主」【3】
「……その魔導書の著者は何者だ?」
上座の席で豪奢な椅子に腰を下ろした勇者レイは、エリオを見ながら片目を細めた。
問いかけた瞬間、エリオの顔が凍り付いたのをレイは見逃さなかった。やはり何か隠しているな。レイはそう直感した。エリオがこのような顔をするのは彼が知る限り初めてだった。頭の後ろで一つに束ねた癖のない黒髪に、怜悧な印象の切れ長の目。細身のレイより更に細いエリオはまるで少女のような美しい男だった。しかし彼は十代半ばで宮廷魔術師となった希代の天才として知られている。口さがない者たちは、女のような顔だから特別扱いされているだけだ、尻の穴でも使わせて出世したに違いないと陰口を叩いているが、エリオの知識と魔術の才が並外れていることは誰の目にも明らかだった。そしておそらくは演技力も。
エリオは十代の少年とは思えないような妖艶な笑みでレイに答えた。
「古代竜族の魔導師です。名はエリシャ……」
「エリオ殿の名はその古代竜族の魔導師が由来となったのか」
口を開いたのはフレデリカだった。彼女はリゼット王女の親衛隊長を務める近衛騎士で、王太子であるアイル王子の婚約者としても知られている。フレデリカの発した言葉にエリオの顔が輝いた。滅多に見せることのない、いや、レイが知る限り初めて目にする年相応の笑顔だった。そうだよ。よくわかったね。そう言いたげな表情でエリオはフレデリカに答えた。
「いいえ、ただの偶然です。エリシャの名は竜族の遺跡はおろかエルフ族の記録にすら残っておりません。ただアヴァロンの大図書館にその著書が所蔵されているのみ。彼女の人となりについて知る者はこの世のどこにもおりません」
レイは強い違和感を覚えた。彼女。人となり。まるでエリシャが人間の女であるかのような言い方だ。エルフの伝え説くところによると、古代竜族は人型になることもできたという。しかしそれはエルフ族との親交のためであったというのが通説で、遺跡と共に発見された骨は巨大なドラゴンのものばかり。エリオはやはり重大な隠し事をしているのではないか。レイの疑念は強くなる。しかし何も言わなかった。今はただの勘に過ぎない。確たる証拠は何もない。ここで下手に問いただせば煙に巻かれて終わるどころか、こちらが何を疑っているか、ひいては何を気にかけているか、それを相手に教えかねない。レイは手札を伏せることを選んだ。
とはいえエリオに圧力をかけておく必要はあるだろう。レイは軽く顎を上げ、冷ややかに告げる。
「俺は魔王討伐には不参加だ。古代竜族の魔導師など信用ならん」
「わたしもレイに同意する」
アイル王子の声だった。王子は穏やかな声で続ける。
「古代竜族は天の軌道を変えようとして滅びたという。神の領域に踏み込み、ただ自滅しただけではない。大地に星の雨を降らせ、地上のすべてを焼き尽くしたあと、世界中を氷で閉ざし、あらゆる生命を滅ぼした。死者の国アヴァロンに避難したエルフの他には何も……、虫一匹すらも生き延びることはできなかったという。それが古代竜族の力だ。彼らの遺した術を用い、魔王を屠ったとしても、平和が訪れる保証はない」
すべての生命が死滅すればさぞかし平和になるだろうよ。レイは心の中で笑ったが、口には出さなかった。
「……わたくしは参ります」
リゼット王女が口を開いた。王女の声に生気はなく、かすかに震えているように思えた。レイはリゼットの顔を見た。リゼットは目を軽く伏せ、前方に視線を落としたまま、誰のことも見ていなかった。
「不死身の魔王を完全に滅ぼす方法があるのなら、わたくしはその可能性に賭けます。たとえそれが既に滅びた竜族の遺した術であっても……。エリオはわたくしの補佐をなさい。フレデリカは王宮に残って」
「そのようなご命令に従うことはできません」
フレデリカが抗議する。アイル王子が口を挟んだ。
「フレデリカ。おまえは近衛騎士だ。魔物や魔獣相手の戦闘では足手まといになりかねん。王宮に残ってくれ。わたしにはおまえの補佐が必要だ」
「しかし……」
「アイル王子に『エリシャの書』の写本をお渡ししたのです。『エリシャの書』に記されているのは竜言語魔法の神髄。王立魔導院で研究すれば必ずや我々の力となるでしょう」
エリオは紅い目を細め、嫣然と微笑んだ。
「……リゼット。こっちに来い」
レイの呼びかけに王女は無言で従った。レイは椅子に座ったまま、自身の太腿に片手を置き、傍らに立つリゼットに命じる。
「ここに座ってキスをしろ」
「レイ殿。時と場所をわきまえていただけぬだろうか」
「いいのよ。フレデリカ。いつものことだから」
リゼットはレースのついた薄手のガウンを脱ぎ捨てた。そしてドレスをたくし上げると、なんの迷いも戸惑いも見せず、レイの太腿にまたがった。部屋のそこかしこからため息が漏れる。レイは声を出さずに笑った。胸の奥に漂っていたもやが晴れるのを感じた。調教の成果を披露できるのは気分のいいことだった。リゼットはレイに身体を密着させる。柔らかい乳房の感触が衣服越しに伝わってくる。リゼットの身につけている下着は薄かった。王女は下着に至るまで、レイの命じたとおりにしている。レイは片手でリゼットの背を抱き、もう一方の手をドレスの裾の中に入れた。リゼットは抵抗しなかった。もはや奴隷同然だった。しかし次の瞬間、リゼットの行動はレイの予想を裏切った。彼女はレイにキスをせず、その唇を耳元に寄せた。
「……魔剣」
レイはぎょっとした。いったい何を言っているんだ。いや、意味は分かっている。何故なら常に『そのこと』が頭から離れないからだ。しかし自分以外の誰かの口から、よりによってリゼットから、そんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。慌てて室内を見回すと、エリオと目が合った。エリオは妖しく微笑んだまま、レイを注視していた。リゼットはレイにしか聞き取れない小声で囁いた。
「気づいているのでしょう? あなたの持つ聖剣は魔剣でもあるということに。だけど今はまだ真の力を発揮できない。覚醒していないから。でも……わたしは魔剣を覚醒する方法を知っている……」
それだけ言うと、レイの返事を待たず、リゼットは彼にキスをした。
──あれから三年の月日が流れた。
エリオの立案した魔王討伐戦に参加した者は、エリオを含め誰一人として帰ってこなかった。