プロローグ「破滅の救世主」【1】
「レイ。あなたは魔王のような人ね」
リゼット王女の悲しげな声が今も脳裏を離れない。
「皆、あなたを怖れているわ。誰もあなたを見ようとしない。あなたから顔を背け、そそくさと逃げる者ばかり。あなたのお陰でこの国は魔物の脅威を退けた。だけどこれで人々を守れたと言えるのかしら」
悪くはない賛辞だ。レイは内心で喝采した。しかし手放しでは喜べない。リゼットはもっとも大切なことを見落としていたからだった。レイには人々を守る気など毛頭なかった。聖剣の守護者の血筋を理由に自分を勇者に祭り上げ、世界とそこに生きる者を守る義務を背負わせるような連中に怖れられたとして、それがいったい何だというのか。他人に身勝手な重責を負わせ、思い通りにならなければ安全圏から石を投げるような連中など、恐怖に震えていればいい。レイは彼らを憎んでいた。いや、この世界とそこに生きるすべての生命を憎んでいた。
ベッドに手足を投げ出したまま、見るともなしに天井を眺める。黒いシャンデリアに灯った光が暗灰色の天井に幾何学的で複雑な模様を描いていた。黒を基調に赤と金を差し色に使ったこの部屋は、ロマール王国の王宮内の彼専用の寝室だった。魔王軍の侵攻から王国を守った見返りに彼はこの部屋を作らせた。反対する者はいなかった。それ以前からレイは城下街の女性に狼藉を働いていたが、彼がいなければ国が滅ぶ、誰もが見て見ぬフリをした。それどころか国王は可憐な王女リゼットを婚約者として差し出す始末。ロマール王国は一人の勇者に陥落した敗戦国も同然だった。
リゼットはレイの横暴を非難する一方で、己の運命については完全に受け入れていた。「城下街の娘には手を出さないで。わたくしが彼女たちの身代わりになります」──十代の少女に過ぎない王女リゼットは勇者レイに毅然と命じた。人々の幸福のために心身を捧げることが高貴な血筋に生まれた者の責務だとリゼットは考えていた。馬鹿馬鹿しい。レイはリゼットを「流石は王族」と讃えながら、奴隷のように扱った。レイのおこないの一つ一つにリゼットは戸惑い、ショックを受け、時には怒り出すこともあったが、結局は彼に従った。
しかしそのリゼットももういない。魔法剣士でもあった彼女は魔王討伐に出かけ、そのまま帰らぬ人となった。この部屋が完成する何ヶ月も前の話だ。
それでいい。こんな世界で生きるよりよほど幸せだ──リゼットを思い出すたびにレイはそう結論づける。それは本心であると同時に自分を納得させるための詭弁でもあった。
ドアをノックする音がレイの意識を現実に戻した。
ベッドに寝そべったまま入室を促すと、寝室の入り口に若い女が現れた。見覚えのない女だった。こんな女、一度見たら忘れるはずがないだろう。聖教会の法衣の裾から覗く足首は驚くほど細く、しかし法衣の上からでも豊かな乳房に細い腰、安定感のある尻に肉付きの良さそうな太腿、細身ながら均整の取れた肢体のほどが見て取れる。彼女は室内をさっと見回し、レイの姿を認めると、清楚な印象を与える顔に艶っぽい笑みを浮かべた。腰まで伸びた癖のない金髪がかすかに揺れる。長い髪の合間からは尖った耳が伸びていた。彼女はエルフ族だった。若い女のように見えるが実際はそれなりの歳月を生きてきたのだろう。
退屈そうな様子のレイにエルフの女は物憂げに問う。
「わたしではご不満だったかしら」
「いや……」
「良かった。お相手できて光栄だわ」
金の髪に添えられた花を模した髪飾りがシャンデリアの灯りを受けて暗くきらめいた。