157-ルンペルシュティルツヒェンを殺す
「ん……ごめん、カナリア。ちょっと歩き辛い、かも」
手当たり次第に書物を漁ることにしたウィンとダンゴと別れ、『嘯く小さな翼』を使用しながら建物の奥を目指すことにしたカナリアの杖役となったクリムメイスだったが、自らの腕にカナリアが絡み付くことに慣れてくると、次に覚えたのは少しばかりの不便さだった。
なにせ、カナリアはクリムメイスに殆ど全体重を掛けており、それは流石にハイドラがコアラのように自分の腕に抱き着いていたのとは訳が違うのだから。
「申し訳ないとは思いますけれども……、これは、ちょっとどうしようもありませんわよ、本当に」
遠慮がちに告げたクリムメイスに対し、本当に申し訳ないとは思いつつも……言った通り、カナリアにはどうすることも出来なかった。
外で隠し扉へと向かっていた時はまだ良かったが、建物の中に入り、視界に入る物体の数が増した今……もはやカナリアの視界は立っていることが不可能なほどに歪み切っており……正直、この探索が終わったら運営に文句を入れよう、と決心する程に『嘯く小さな翼』の与えるデメリットは酷かった。
「うーん、でも、これじゃあ何か出てきても戦えないしなあ……」
……でも、そうしたら毒矢としての価値が下がるだろうし、悩ましい所だな―――だなんて、カナリアが考える傍らで、クリムメイスが少しばかり困ったような声色で言う。
一瞬、『嘯く小さな翼』を使うのをやめよう、と言おうともしたが、それでなにかを見逃してもう一度調べることになれば時間の浪費には間違いないだろうし、いくらこの建物が『嘯く小さな翼』のお陰で入り方が分かった場所とはいえ、カナリアが求めているような情報が手に入ると決まったわけでもないし、カナリアが今直面している問題を大型アップデートの前に片付けるとあらば時間はいくらでも欲しいのだから……クリムメイスは、多少の不便さは諦めて右腕に絡み付く蠱惑的な感触を楽しむことにした。
「まあ、いざという時は捨てて頂いても、わたくしはそうそう死にませんし」
「そりゃあ、そうだろうけど。やっぱり、友達を見捨てるのは心苦しいって」
よもやクリムメイスがそんな所に気を向けているとは思いもしない―――というか、流石に視界が酷すぎてそんな余裕がないカナリアがあっけらかんとした様子で言い放った言葉に対し、クリムメイスは特になにも考えることなく首を横に振ってみせる。
すると、先程までは拙いなりに進んでいたカナリアの脚がぴたりと止まり、クリムメイスは思わず少しつんのめる。
「カナリア? どうしたの―――」
「……おかしな人。この間は、あんな簡単に捨てようとしたクセに」
「―――……っ!?」
どうしたんだろう、なんて考えながら急に足を止めたカナリアへと顔を向けた瞬間……先程までの弱々しい様子はどこへいったのか、まさに有無を言わせない、といった雰囲気でカナリアがクリムメイスに詰め寄り、その耳元で呟く。
……その声色は、明らかに責め立てているようではあったが、冷ややかではなく―――どうやら、クリムメイスの言葉がカナリアの妙なスイッチをオンにしてしまったようだった。
「ねえ、クリムメイス? 私、確かにあなたのことを許したけれど……。なにも無かったことにはならないし、あの時、あなたのことを『最低』だと思ったことを、取り消すつもりもないのよ?」
「ちょ、ちょっと、カナリア……?」
明らかに普段とは違った様子でカナリアが距離を詰めるものだから、思わずクリムメイスが後ろに引けば、それと同じだけ正確に距離をカナリアが詰め……そして、呟き続ける。
静かながら、酷く熱のこもった言葉を。
「そうね、私とあなたは今も『友達』のまま……それは本当。だけど、全く前と同じってわけじゃないの。ねえ、覚えてる? 私が、あなたのこと『殺したい』って思った、って言ったこと」
「え!? そりゃ、覚えてるけど、でも、あれは、その、なんていうか、戦いの後の高揚感がそうさせたんじゃないかなあ、って……ち、違うの……?」
「そうだったら良かったのにね。……どれだけ時間が経っても、どれだけ落ち着いても、全然この感情は消えないし、燻りは収まらないの」
一歩、二歩、と下がり続け……やがてクリムメイスの背が本棚にぶつかり、それ以上下がれなくなると……それでもカナリアは距離を詰め、クリムメイスの顔を腕で挟むように本棚に手を着く。
壁ドン―――だなんて、普段であればクリムメイスも考えただろうが、そんなことを考える余裕を無くす程にカナリアの目の色は澱んでいて、あまりにも熱っぽかった。
だから、クリムメイスが出来たのはずりずりと腰を落として地面に座り込むことだけであり、それに合わせてカナリアもクリムメイスに跨るようにして腰を落とす。
「私、自分がおかしくなっちゃったんだと思って色々調べたの。……でも人間って凄いわね、こんな理解し難いものにも名前を付けて、ルンペルシュティルツヒェンを殺すんだから」
「る、るんぺるすてるつきん……」
「キュートアグレッション、って言うんだって。愛おしい、という自分の生命を脅かしかねない強力な感情に対する、防衛本能の一種」
「きゅ、きゅーとあぐれっしょん……」
互いの息が混じり合う距離、鼻先と鼻先が触れあいそうな距離、首に手を掛けられようものなら逃げられないであろう距離で……カナリアがクリムメイスの肩に手を置きながら呟く。
普段のクリムメイスであれば、良からぬことにひとつやふたつを想像して色々と励むところだったが、正直なところ、この状況下でクリムメイスの脳を支配したのは、たったひとつのシンプルな言葉だった。
こ、殺される……!
まあ、それはそうである。
だって、本人が『可愛すぎて殺しちゃいたい』と言ってるのだから。
「…………」
「…………」
すぅ、はぁ、というカナリアの規則的な呼吸の音と、短く、浅く吐き出すばかりのクリムメイスの呼吸の音……それだけが、暫くこの静かな場所に響き渡り、やがてクリムメイスはそこに混じる自分の鼓動の音が酷く早いことに気付いた。
それは、生命の危機を知らせるべく警鐘が鳴り響いているのか、それともカナリアの熱が伝播してしまったからなのか。
「……もう。クリムメイスが考え無しに変なことを言うから、おかしな空気になったではありませんの」
「えっ、……あ、う……ご、ごめん……」
クリムメイスが判断に迷っている間に、はぁ、と大きな溜め息を吐いたカナリアがガシガシと自分の頭を掻きながら立ち上がって、クリムメイスに手を伸ばす。
どうやら密かに募らせていた思いを口にして、少しクールダウンしたらしい。
普段通りのカナリアに戻ったことに安堵しつつ、今更になって先程のカナリアの様子に魅力を感じ始めたクリムメイスはなんとも言えない表情を浮かべたままその手を取り、立ち上がる。
「…………」
「…………」
結局、カナリアは再び大した間も置かずクリムメイスの腕を杖代わりにして歩み始めたのだが、当然ながら痛みすら覚えるような沈黙がふたりを包み込んでしまう。
……それも仕方が無いか、とクリムメイスは思った。
いくらカナリアといえど、先程の自分の姿は人に見せるべきものではない……と分かっているのだろうし、自分も自分でこの空気をひっくり返すような話術は持ち合わせていない―――自分が原因なのだと言うならば猶更。
「……ごめんなさい。気持ち、悪かったですわよね」
とはいえ、この空気をカナリアに変えさせるのは酷だろうと考え、右腕に絡む彼女の体温を感じつつ、その温もりを包む冷たい柔肌に戸惑いながらも掛ける言葉を探すクリムメイスが、いくつもの言葉を口の中で転がしては飲み込んでを繰り返し、この今まで感じたことのなかった類の居心地の悪い空気をどうすれば変えられるか、と頭を悩ませていると、珍しく落ち込んだ様子で顔を俯かせたカナリアがぽつり、と零す。
「あ、いや……ううん。びっくりは、したけど……。でも、なんていうかな……少し嬉しいところもあったよ? カナリアってほら……あんまり自分を見せてくれないからさ……」
先程までの過剰な熱を孕んだ様子とは全く違う自己嫌悪と後悔に塗れたような、酷く沈鬱な表情で呟いたカナリアに対し、クリムメイスはなるべく慎重に言葉を選びながら……出来るだけ好意的な返事をなんとか返す。
……だが、曖昧な笑顔こそ浮かべてしまったものの、その言葉自体には嘘偽りは一切無い。
というのも、出会った頃こそカナリアは妙な喋り方とキャラ付けを平気でやる変人だとクリムメイスは評価していたのだが、言葉を重ねるうちに……その身を引き裂くため取り入るうちに、気付いてしまったのだ―――カナリアは、異常なまでに嘘を吐くのが上手いのだと。
そもそも言ってしまえば、カナリアが発する言葉の殆どは嘘偽りでしかなく……だからこそ、彼女と話す誰もが『カナリアとは、ズレた少女である』としか認識せず、実際にはカナリアがなにを考えているのか、どういった感情を抱えているのか考えることすらしない。
なにせ余計、VRMMOという世界が人間の本性を浮き彫りにするものだというのに、カナリアはあまりにも完璧に『カナリア』であり、その『奥』が一切見えないものだから。
「まあ、出来れば段階的にして欲しいけれど……あたしとしては、そういうのも……いやじゃない、っていうか……」
「…………っ」
だから、それが下手をすると肝を冷やすようなものであっても、クリムメイスはカナリアの『本音』は喜ぶべきものだと考え、本人にもそう伝え―――一方で、少しばかり照れの見える、気恥ずかしそうな笑みをクリムメイスから向けられたカナリアは思わず目を見開き、そしてすぐに逸らした。
「……わたくしは見せたくないですもの」
ふい、と顔を逸らしたカナリアが若干拗ねたような声色で呟く―――瞬間、クリムメイスは凄まじい勢いで自らの情欲が掻き立てられるのを感じ……だが、なんとかギリギリ理性でそれを抑え込む。
……我慢、我慢するしかない、いくらカナリアの見せる弱々しい素振りが……それこそ、先程彼女が自分で口にしていた『キュートアグレッション』を感じさせるものだとしても、ここは、耐えだ。
「というか、そもそも、この感情に対しては自分なりに始末の目途をもう立てていますし、わたくし。もう見せることなどありませんわ、残念ですけれども」
「え? う、うん……?」
自分から逸らされたカナリアのその頬を指で突きたくなる衝動にクリムメイスがなんとか抗っていると、そんなクリムメイスの様子には相変わらず気付いていないらしいカナリアが素早く振り向き、なにやら自信に満ちた笑みを見せた。
しかし、その笑みに言い様の無い不自然さを覚えたクリムメイスは、どう返したものか、と迷い、思わず眉を八の字にする。
「まずは、ボーイフレンドを作りますで」
そんなクリムメイスの様子を知ってか知らずか、まるで自分に言い聞かせるようにカナリアが考えたらしい『感情の始末』の方法を口にする……いや、しようとする。
だが、その言葉は突如として彼女の足に『何か』が巻き付いたことで中断され、カナリアは自らの足元に一瞬視線を落とし、次にクリムメイスの顔を見て―――。
「にょわあああああっ!」
「カナリアーッ!?」
―――クリムメイスが自らの顔を見てきたカナリアの足元を確認し、その足に海洋生物の触手のような赤黒い肉が絡まっていることに気付くと同時、カナリアは凄まじい勢いで建物の奥へと引き摺られていってしまった。
その様子を見ながら、当惑したクリムメイスは、あ、とか、え、とか言葉にならない単語をいくつか口から漏らし、そして頭を抱えてしまう。
「ぼ、ボーイフレンド……? ボーイフレンドを作ってどうするの……? え……? いや……え……??」
仕方が無い、クリムメイスの貧弱な脳内コンピュータはカナリアの口から出た『ボーイフレンド』なる恐ろしき単語と、そのカナリアが謎の触手に捕らえられどこかに連れ去られたという事実で既にクラッシュ寸前なのだから。
ボーイフレンド……カナリアが……? ボーイフレンド……いや触手に連れ去られて……触手、触手……? 触手がボーイフレンド……? 有り得る……カナリアって触手好きそうだし……ええでもまさかそこまで……。
ブツブツと呟きながら、とりあえずクリムメイスはカナリアが連れ去られた方向へと足を進める。
……ちなみにカナリアが『触手が好きそう』という発想は、見るに堪えない容貌をしている欲狩を愛でているところからの発想だったのは言うまでも無いし、正直クリムメイスは、カナリアが連れ去られたことに関してはあまり心配していないのも言うまでもないだろう。