153-血の繋がった姉妹 その1
「あれ、珍しいね、お姉ちゃん。この時間に降りてくるなんて」
突如無言で現れ、冷蔵庫の中の乳酸飲料をコップに注ぎ始めた姉―――小鳥を見て、ソファに寝っ転がりながらスマートフォンを弄っていた海月は、思わずといった様子で目を丸くした。
というのも、(なにも小鳥に限った話ではないが)VRMMOというゲームは一度遊び始めると長時間のプレイが必然的に伴われるジャンルであり、実際、夕食後から就寝までの間にログインすることが多くなった近頃の小鳥は、この時間帯は滅多に二階の自室から出ることが無かった。
だのに、今日は目の前でコップに注いだ乳酸飲料をゴクゴクと飲み干しているのだから……海月は恐らくゲームの中で姉になにかがあったのだろうと察する。
「もしかして苦戦中?」
「うん。割とガチで詰んでる」
「あー……」
折角だから、と……基本的に優秀な姉と比較され、色々と両親に小言を言われることが多い海月は、ここぞとばかりに少し茶化そうかとニヤニヤとした笑みを浮かべながら小鳥に問うが、小鳥が真顔かつ普段の胡散臭いお嬢様言葉一切抜きで返事したのを見て笑みを引っ込め、視線を泳がせ……ヤバい、お姉ちゃん結構キてる―――口の中だけで、思わずそんな言葉を転がしてしまう。
普段のステレオタイプなお嬢様口調ではなく、普通の喋り方をする時の小鳥は本気で怒っている時が多いと、海月はよく知っていたのだ。
というのも、海月が以前にこういった様子の小鳥を数年前に見た際の状況が、当時、自分達の間で流行していた対人戦メインのVRアーケードゲームにおいて、自分のクラスメイトを含む何人かの下級生に対し悪質な賭け試合を持ち掛けていた上級生を、幼いながらの義憤心から徹底的に潰しに潰した結果、逆上され、リアルファイトを仕掛けられそうになった時で……。
そこまで思い出して、海月は続きを思い出さないことにした。
別に、海月が思い出すのを中断した、その先の出来事は―――小鳥が上級生を腕力で捻じ伏せたとか、罵詈雑言で心を圧し折ったとか、そういうわけではなく……少しばかり奇妙な展開が起こっただけではあったのだが。
それでも、あの日見たものを思い出すと海月は気分が悪くなってしまうからだ。
その展開とは、逆上した上級生が振り上げた拳を、咄嗟に、といった感じではなく、わざわざそうしたかのような……十分に余裕を持った動きで、小鳥が頬で受ける、というものだった。
……瞬間、思っていた相手以外を殴ってしまったからか、はたまた、振り抜くだけのつもりで本当にぶつけるつもりは無かった拳に嫌な感触を覚えたからか、強張った表情を浮かべる上級生。
一方で、これまたわざとらしい様子で崩れ落ち、薄く赤くなった自らの頬を片手で抑える小鳥。
なにかしら、自分を擁護するようなことを言おうとする上級生に対し、驚くほどに愛らしい、到底自分を殴った相手に向けるようなものではない笑顔を浮かべ、小鳥は優しい音色で、しかしはっきりと告げた。
賢くない選択ね。
窮鼠だろうと、鼠が噛んでいいのは猫までよ?
その言葉の意味を、その場の何人がきちんと理解できたかは怪しい。
だが、結果として一週間も経たずに件の上級生は学校から姿を消し……その両親も職を失ったらしい、という噂が実しやかに囁かれ始めたことだけは確かで―――いや、海月としてはそこはどうでもいいのだが。
なにせ、あのまま小鳥が間に割って入らずとも、海月が殴られたり……あるいは、そうではなくても両親に泣きつけば、あの上級生が同じ末路を辿るのは明確だ。
海月の脳裏からあの一件が未だに消えないのは……あの時の、小鳥が見せた笑顔、声色、それらに恐怖を覚えてしまったからだ。
この先、どれだけ自分が成長しようとも、きっとこの人には敵わないのであろう、という恐怖を。
もしも、あの笑顔を、声色を、向けられてしまったら……無条件に、膝を折ってしまうのだろうという確信を。
覚えさせられてしまったから―――。
「えーっと、別ゲーで養った知識で良ければ、いくつか出せるけど……」
「…………」
―――……このまま放っておいてオニキスアイズを投げだされるのも嫌なので、海月は恐る恐るアドバイザーを申し出た……が、小鳥は再びコップに乳酸飲料を注ぐばかりで首を縦に振ろうとしなかった。
不機嫌ゆえ、と思ってしまってもおかしくない小鳥の反応だったが、よく『似てない』と言われる妹である海月でも、この時ばかりは、なんとなく小鳥が素直に首を縦に振らない理由は察することが出来た。
恐らく、それを受け入れてしまえば敗北を認めることになる……と、小鳥は考えているのだろう。
「ありがたいですけれども。もう少し、ひとりで頑張ってみますわ」
そして実際、小鳥は海月の提案を受け入れることはなかった。
先程までの強張った表情を解き、普段通りの口調に戻して微笑んでいる辺り、少しは落ち着いたらしいが……とはいえ、まだ、その心は折れていないらしい。
冷蔵庫から取り出していた乳酸飲料のペットボトルを元に戻し、使ったコップをビルドインタイプの食洗器に入れつつ、気合を入れなおす意味も込めてか、小さく拳を握りしめてみせた姉の姿を見て、思わず海月は嬉しくなって小さく声を上げて笑ってしまう。
「……どうしましたの? 急に」
「あ、いや。最近お姉ちゃんが楽しそうだから。嬉しくって」
思わず漏らしてしまった自分の笑い声を聞いて小鳥が不思議そうな表情を浮かべたものだから、海月が慌ててパタパタと手を振って悪意があるわけではないことをアピールする。
……そう、ただ、ただ嬉しかっただけなのだ。
きっと、少し前の小鳥であれば海月の提案に簡単に乗り、攻略のヒントを求めていただろうことを考えると……大分、真剣にゲームに取り組んでくれているのであろうことが分かったことが。
それは当然、大好きな姉が自分の好きなものに夢中になってくれているから嬉しいのもある―――だが、より嬉しいのは、本当に……本当に、酷く狭い世界から姉が出てくれたことだ。
なにせ、オニキスアイズを始めるまでの小鳥の世界といえば、自室と、学校と、離れのアトリエと、好んで集めている悪趣味な本達だけで構成されているようで、目立った友人がいる様子もなく、暇さえあれば本を読んでいるか、絵を描いているかのどちらかだ。
そんな姉が心配で、海月は幼馴染の初香と共に色々な場所に彼女を連れ回してみたりもしていたのだが……そのどれにも、小鳥は大した興味は示さず、一緒に遊ぶ自分達が退屈しないように努めるだけだった。
極め付けは、彼女がアトリエで手掛けていた絵の内容で―――。
「……そうかしら? あまり、自覚はないのですけれども」
「楽しそうだよ! ねぇ、ママもそう思うでしょ?」
―――好奇心からこっそりと彼女のアトリエを覗いた結果見てしまった、あまり思い出したくない内容の絵を脳裏にちらつかせながら、海月は『とりあえず』で点灯しているテレビが漠然と流しているサスペンスドラマをぼぅっと眺めている母親……月花姫へと同意を求める。
「…………」
きっと自分の問いに対して月花姫は迷いなく首を縦に振るだろう……と、そう思っていた海月だったが、彼女の予想に反し月花姫は海月の言葉に一切の反応を見せなかった。
「……ママ?」
「…………え?」
それに少なからず衝撃を覚えた海月が、思わずといった様子で月花姫の肩を軽く揺すると、月花姫はやっとこさ自分が話しかけられていることに気付いて、目を丸くし、自分に話し掛けてきた海月を最初に、続いて小鳥を一瞥する。
「あっ。あはは……ご、ごめんね? お母さん、ちょっと疲れてるみたい。今日は、もう寝ようかな」
どう見ても挙動不審なその母親の反応に海月が不安を抱くよりも早く、月花姫は立ち上がり……これ以上の会話を拒絶するかのように二階へと上がっていってしまう。
それは、海月は当然として小鳥でさえも見たことのない月花姫の姿であり……海月は呆然とした様子で、小鳥は興味深そうな様子で、月花姫が消えていった扉を黙って眺めた。
「なんか最近、ママ、ちょっと変だよね。……パパの帰りが遅いから……かな?」
すれば部屋を支配したのは、今時一般的な家庭で見られることは無いであろうアナログ時計がチクタクと時を刻む音だけが響く沈黙―――決して居心地が良いとは言えない、朧気に非日常さを感じさせる気色の悪い沈黙であり……海月は、月花姫が突如として去ってしまったことにより生まれたそれに僅かの間も耐えられず、纏わりつくような感触のあるそれを声を上げることで振り払った。
「まあ、順当に考えれば……」
一方、先の沈黙に対し何の感想も抱かなかった小鳥は、小首を傾げた海月に対して素直に首肯を返そうとする―――なにせ、今この場に居ないことが証明しているように近頃は海月の父親こと隼一は帰宅時間がえらく遅いのは確かなので、海月が口にした通り夫の不在が月花姫に心労をもたらしている可能性は十分あり得た。
だが、小鳥が頷こうとした瞬間……常人より少しばかり優れた彼女の視覚と聴覚に、ちょうど流されていたサスペンスドラマのワンシーン―――今回の事件の犯人であった女が、自分が殺しへと至った動機を涙ながらに打ち明ける定番のシーン―――が、流れ込んできて……それにより、あるひとつのドラマティックな『可能性』を新たに思い付き、せっかくならば、と、それを口にしてみることにした。
「……いえ、もしかすると男でも作ったのかもしれませんわね」
「えっ……」
それは月花姫が夫の多忙により抱いた寂しさを紛らわすために不貞を働いたのかもしれない……という、少なくとも娘という立場にある小鳥が、よりよって自分を慕う妹である海月相手に、まるでそれが当然であるかのように真顔で口にしてはいけない『考え』であり、当然ながら海月は姉の口にした恐ろしい『考え』に驚きの声を漏らし―――。
「きゃはは! ない、ないよ! お姉ちゃん! 変な本の読み過ぎだって!」
―――直後、海月はその顔を笑みに歪めてソファーに寝転がり、腹を抱えて笑い出した。
どうやら、小鳥の言葉を彼女なりの冗談だと受け取ったらしい。
「ちょっと、変な本とはなんですの? 人の趣味を笑うだなんて。悪い子ですわねっ」
「あ、ごめっ、ぎゃあっ! やめて、脇腹触らないでっ! きゃははっ! やめてよぉ~!」
……まあ、冗談として笑ってくれるのならば別にそれでいいか、と、そう小鳥は考えつつ……さり気無く、自分の愛読書を『変な本』で一蹴してくれた海月を仕置きするため、小鳥はソファーの背もたれ越しに軽く涙すら浮かべて笑っている彼女を覗き込み、捲れ上がったパジャマの隙間へと手を突っ込んで、まだまだ子供らしさに満ちている筋肉など全く存在していない柔らかな腹を弄り始めた。