137-死の水泳教室
オニキスアイズにおける水回りは大分大雑把な仕様となっている。
『水泳』のスキルを持たなければ、一分にも満たない僅かな時間しか泳ぐことは出来ず、それを超えれば酸欠で溺死―――逆に、『水泳』のスキルを持っていれば、顔さえ水に付けていなければ永遠に泳いでいることが可能。
『潜水』のスキルを持たなければ、水に潜る事は出来ず、水面に顔を付けようものなら通常の四倍の速度で酸素が減っていく―――逆に、『潜水』のスキルを持っていれば、水の中にいるだけでは酸素が減らなくなる。
故に、『水泳』『潜水』は使うかどうかは別としてもとりあえず習得しとくべきスキルなのだ―――。
「ご、ごめんなさいクリムメイスさん……」
「気にしないで、教えるって言い出したのはあたしだし」
―――それになにより、『水泳』『潜水』を習得していると、後々水着の恰好をした可愛い女の子の肉体を操作する可愛い女の子の肉体した男の子に好きなだけボディタッチ出来るイベントが発生するのだから。
溺死を避けるべく、遠慮がちに自分に掴まって酸素の回復を待つダンゴを見てクリムメイスは『オニキスアイズ』をプレイしていて一番『水泳』『潜水』を習得していた恩恵を感じながら、そう考えた。
「よし、それじゃあまた行ってきます!」
「えー? もっとゆっくりしてきなさいよ! ほら、ぎゅーってしてあげるから!」
「ややや、やめてくださいもう! タチ悪いですよ!」
一方で、一定間隔でクリムメイスを止まり木にしないといけないダンゴは少々気が気でないらしく、酸素が回復するや否や―――強請るような顔をして、媚びた声を発しながら唇を尖らせる―――クリムメイスを振り解いて再び泳ぎ始めた。
そんなダンゴの様子を見てクリムメイスは少しばかり楽しそうに笑い……不意に考える。
もしも、あの時リヴが自分を裏切らなかったら……否、そもそもカナリア達が自分を簡単に諦めていたら……今頃なにをしていたのだろうか? と。
一瞬、まあ海に遊びには来ないだろうな、と考えるが―――そうでもないことにクリムメイスはすぐ気付く。
確かに『若螺旋流組』は自分以外男しかいない姫サークルだが、その下部組織である……そうであった『フィードバック』はそんなこともない。
なまじ表向きには普通の大規模連盟ということもあり、普通に女性プレイヤーの姿も確認できるし(他の大手が『かいでんぱふぃーるど』や『グランド・ダリア・ガーデン』等だと考えれば不思議ではない)、フレイジィやイーリのような名の売れた少女もいる。
もしかすれば、あちらに残った場合は残った場合で、あのクソ生意気そうなメスガキと、クソ依存気質であろうメスガキと共にこの海を訪れていたかもしれない……。
「……どっちもあたしに懐かなそうね」
それはそれでアリだな、とも思う……が、クリムメイスはフレイジィやイーリがカナリア達のように自分と絡んでくれる図を全く想像できず、思わず自嘲した。
「バカね、こんな貴重なものを捨てようとしていたなんて……」
……いや、なにもフレイジィやイーリとはそりが全く合わないわけではないだろうし、長く共に活動していれば、やがて彼女達とも仲良く遊べる間柄にはなれるだろう。
けれど、その関係性というものは一朝一夕で築けるものではなく、また、どこかで一度それを逆手に取るようなことをすれば二度と築けなくなる……放し易く得難い存在なのだ。
そして、それを手放してまで座るほど、この世界の玉座に価値はあったのだろうか? ……いいや、恐らく無いだろう。
誰も傅かぬ玉座につく者を王とは呼べない、それはただの孤独で哀れな愚者だ。
「……ったく、ほんと、シルーナにはわからされてばっかりね。なんなのよ、あの子」
かつては〝本当の強者〟というものを分からされ、今度は彼女の幻影に苛まれた先で〝得難い絆〟というものを分からされた。
これで無事二連敗……もう一生あのメスガキには勝てないかもしれない。
……いや、そんなことはない。
なにせ、今のクリムメイスの仲間達……カナリア、ウィン、ハイドラはどれもこれも底知れぬなにかを持つプレイヤー達だ、良くも悪くも真っ当なハイレベルプレイヤーばかりであった『紅薔薇旅団』―――かつてクリムメイスが、クリムロウズと名乗っていた頃に率いていたギルド―――とは真逆のプレイヤーばかりである。
唯一、前の仲間達と近い雰囲気があるのは絶賛水面から背中だけ出してぷかぷかと浮く、さながら溺死体のような独特の水泳フォームを取っているダンゴだが……。
「あれぇ!? ダンゴさぁん!?」
いや、それはどう見ても泳いでいる様子ではなかった、確実に気を失うなりなんなりしている。
今でこそ浮いているが、やがては沈み始めるだろうし、なにより『潜水』を持たないプレイヤーは15秒以上水に顔を付けていると溺れてしまう。
なにが起きているのかは分からないが―――ちゃんと落ち着いて考えれば分かりそうなものだが―――とにかく、クリムメイスは急いでダンゴの元へと向かい、その細い身体を抱え上げてなんとか水面から顔を離してやる。
「ちょっと! どうしたのよダンゴ! 急にそんな気絶したみたいに……うん? 急に気絶……って! ぐえッ!?」
すると、抱え上げたダンゴが微塵も動かないことを心配し、揺さぶりながら語り掛けるクリムメイス……その細喉へと不意に一本の手が伸びた。
高STRでこそないが、DEX自体は高いため(通常時の)カナリアや、(人間の顔してる時の)ウィンのふにゃふにゃ赤ちゃん腕力よりはやや力強いそれは―――間違いなく、ダンゴのもの……。
「……クリムメイス、あんたねえ……」
「ひ、ヒィ……ハイドラ……!」
……もとい、その肉体の元々の持ち主ことハイドラのものだ。
「裏切り者のクソツインテールのクセに、お兄ちゃんに色目使ってんじゃないわよ! 今ここでぶッ殺してやる!」
そう、ハイドラは帰宅し―――そしてそれと同時に(律義に)モニタリングされていた兄の視界を見て……愛しい兄にベタベタベタベタと触れるクリムメイスの姿を見てしまったのだ。
となれば当然、怒髪が天を衝くというものであり(普段『兄貴』と呼んでいるダンゴを『お兄ちゃん』と呼んでしまっているのが感情的になっている良い証だろう)、ハイドラは空いてる左手も使って全力でクリムメイスを絞殺しに掛かった。
「い、今はツインテールじゃないわよ……!」
「だったらぶっ殺した後にその汚い両腕ぶっ刺してツインテールにしてやるっての!!」
「いやあんたツインテールなんだと思ってんの!?」
しかし、いくらハイドラがDEX以外に一切ステータスを振っていない極振りビルドだとしても、重装備を使うためにSTRへと多く振っているクリムメイスが本気で抵抗すれば力勝負では叶わず、徐々にその両手を首から離されてしまう。
「大人しく死ね……ってか、触んな……キモいのよ……! ああッ! イライラするッ!」
「づえあ!」
だが、それでもハイドラは……どうしても、淫猥な水着姿で兄を誘惑した薄汚い売女を許すわけにはいかず、その美しい脚でクリムメイスの美しい顎を蹴り上げた。
ふたりは現状、決闘をしているわけでもなく、パーティーのフレンドリーファイアがオンになっている訳でもないので、それによってダメージが発生することは無いが……蹴り飛ばされた衝撃までは無くならず、流石に怯んだクリムメイスが思わずその両手を放す。
瞬間、ハイドラの頬が三日月形に裂ける。
いくら『水泳』と『潜水』をクリムメイスが持っているとはいえ、水中で首を絞められる等の行為をされれば当然窒息死は免れず……そしてそれは、通常なにもない場所で絞殺する場合よりもよっぽど早い―――。
「……ん? おぼぁっ!?」
「は、ハイドラーーーーーーっっっ!!!」
―――瞬間、ハイドラは自分が今どういう状況で、どこにどうやって浮いていたのかを理解したが、既に手遅れだった。
ワンテンポ遅れて、ハイドラの蹴りによるノックバックから復帰したクリムメイスが叫びながら手を伸ばすが間に合わず……自らの腕を拘束するクリムメイスを振り払ったハイドラは、水の中に沈まないよう自分を掴んでくれていた手を振り払ってしまい、ゴボゴボと沈み始める。
……肺に空気が満ちていれば沈まないのが人間の身体というものであり、いっそ動かなければ必要以上には沈まないのだが、そうだと頭で分かっていても暴れて沈んでしまうのがカナヅチというものであり、ハイドラの肉体はどんどんと水底へと沈んでいく。
「た、助けないと……いやでも助けようとしたら道連れ覚悟で身体に巻き付いてくるか……!? くそっ、どうしたらいい!」
そんなハイドラのことを見ながらクリムメイスは、水中に没したハイドラが殺しに来ることを覚悟で助けに行くかどうか……頭を抱えて悩む。
……よもや、このタイミングで共倒れを狙う程の狂戦士だと判断される人間がこの世に何人いるだろう。
「いやでも水底のハイドラにしがみ付かれて溺死するのはそう悪いことじゃないな……ヘヘ……」
しかし即座に自らの四肢にハイドラの四肢が絡み付き、共に海の藻屑となる光景をクリムメイスは思い浮かべ、怪しげな笑みを浮かべた。
……よもや、このタイミングで美少女が相手ならば一緒に溺れ死ぬのもまた一興と考える人間がこの世に何人いるだろう。
「待ってなさいハイドラっ! 今助けるわ!」
もしも助けて恩義を感じてくれればそれは当然良し。
狂戦士っぷりを発揮して心中を狙ってくるのも、まあ美少女なら良し。
つまりどう転んでも得しかしない! そう気付いたクリムメイスは実に華麗な泳ぎで沈むハイドラの身体を捕まえに行く―――。
「……先に言っとくけど、ありがとうとか、絶対に言わないからね……あんた裏切り者だし……ツインテールだし……キモいし……」
―――結果、水底から引っ張り上げたハイドラはガタガタと震えながらクリムメイスの首に腕を回していた……絞殺のためではなく、自分が溺死しないように。
もしかすれば自分が溺れ死ぬ瀬戸際であっても殺しに来るかもしれない……とクリムメイスに思われたハイドラだったが、そこは流石に現代日本で生きる一般女学生らしく、助けに来たクリムメイスに全力でしがみ付くだけだった。
……まあ、それはそれで半ば殺しに来てるのと同じだし、事実リアルだったらクリムメイスも溺れ死んだだろうが。
「えぇ~? 言わないのぉ~? あ~どうしようかなあ~もう泳ぐの疲れたかも~?」
「……っ! さ、サイッテーっ……!」
「えぇ~? 自滅して溺れかけたところを助けたのに、お礼も無しの人のが最低じゃな~い?」
ともかく、クリムメイスは救助に成功し、自らの背にびったりとくっ付いて離れないハイドラに礼を強請りつつ砂浜を目指して泳いでいた。
こういう時にそういうことをしないで、素直に優しくだけしていればもっとハイドラも懐くだろうに、どうにもクリムメイスはこういうタイミングではハイドラのような人種の神経を逆撫でするようなことしか出来ず―――やっぱり、リヴとあたしってそっくりだわ、なんて脳裏で考えて自嘲した。
「あ、あ……りがと……う……」
「えぇ~~~? 波の音で聞こえないなぁ~~~? んん~~~?」
「ありがとうって言ってんの! ふざけんじゃないわよ、あんた! 陸に戻ったら覚悟しなさい!」
組み立て前のプラモデルみたいにしてやるから! なんて叫ぶハイドラを背に乗せながら、クリムメイスは、まあ、ハイドラ相手なら組み立て前のプラモデルにされるのも悪くないかもしれない……なんて考えつつ泳ぎ続け、然程間を開けずに足が底に届くところまで辿り着く。
「ほら、もう降りても大丈夫だって」
「…………」
後ろのハイドラにそうクリムメイスが伝えると、恐る恐るといった様子でその背から離れ―――問題なく足が地面に触れたことを確認するとハイドラは即座にクリムメイスから距離を取る。
そのなんとも素早いハイドラの動きに思わずクリムメイスが苦笑したのは言うまでもない。
「……なんでよ」
「え?」
その後、しばらくの間無言でハイドラはクリムメイスを睨み続け、クリムメイスはクリムメイスでハイドラが(もしかすれば)背を向けた瞬間に殺しに来るかもしれないと思って視線を逸らせないでいると、不意に小さな声でハイドラがなにかを呟く。
「……なんで、お兄ちゃんが作った水着……着てんのよ。レアドロップの水着、あったじゃない」
それこそさざ波の音に掻き消されそうなハイドラの呟きに対し、クリムメイスが思わず聞き返せば―――返ってきたのは、先程までのストレートな怒声ではなく、もっとどす黒くて粘着質で……ヒステリックな怒りよりよっぽど恐ろしい、怨みに満ちた怒声だった。
どうやら、クリムメイスが身に着けた淫猥な水着は自らの兄が作ったものだと気付いたらしい。
「えっ! いや、あの! これには……深い……深い事情がありまして……」
「どういう事情よ……? なにがあれば、そんなこと許されるっていうわけ……?」
「いやぁ……こ、これはあたしが悪いわけじゃないし……て、てか! そんなこと言うならカナリアもウィンもダンゴの水着だし!? 誰も使ってないし、あのレアドロップ水着!!」
そのハイドラの問い―――クリムメイスがオングイシエ撃破後に手に入れたはずの戦利品……レア水着である『水着セット:オングイシエ』を使わず、ダンゴが作った一般的な水着を着用していることについて、クリムメイスは適当にはぐらかす事しか出来なかった。
……いや、単純にデザインが気に食わなかったという、ちゃんとした言い訳はあるのだが……言い訳としてはちゃんとし過ぎていて、その程度の軽い言い訳を今のハイドラが聞いてくれるとは思えないのだ。
しかも、件の水着は、そんなもの我慢してそっち着ろ、じゃなければ殺す、と言われても……それでも着たくないレベルのデザインの酷さだったので、余計。
「は……? 他のふたりも……? どうして手間をそうやって増やすのかな……」
だからこそ、自分がダンゴ手製の水着を着ている理由を誤魔化しつつ、やってんのあたしだけじゃねーし! という頭の悪い人間が悪行を咎められた際に話を逸らすために用いる台詞ベスト5の内のひとつを用いたクリムメイスだったが、見事にそれは逆効果(そもそもこの台詞が有効に働く場面など無いが)で、きゅううっと目を見開いたハイドラが無表情気味に小首を傾げる。
……あれっ、あたしまたなんかやっちゃいました……? クリムメイスは全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。
「い、いや……ダンゴに手間かけさせたのは悪かったと」
「違う、私があんたらを殺す手間の話よ……」
「あはは、やべー」
ああ、あたしまたなんかやっちゃいましたぁ! まさかの殺害予告にクリムメイスはもう笑うしかなかった。
……いや、笑っている場合ではない。
どう見てもハイドラは本気だ、クリムメイス、ウィン、カナリア……カナリア、クリムメイス、ウィン……と自分達の名前を並べ替えてブツブツと呟いているのは……恐らく効率的に殺す順番を考えているのだろうし。
ここはなんとか止めなければならない―――そう、絆というのは放し易く得難いモノ……そうだとクリムメイスは先程強く実感したばかりなのだ。
だから、ここでハイドラを、孤独にさせてはいけない。
「待ちなさいって。あたしら仲間でしょ? その仲間の為にダンゴが装備を作るの……そんなに変じゃないって。そりゃ、ハイドラからしたら面白くないかもしれないけどさ……。ここまで一緒に仲良くやってきたじゃない! そんなことで殺さないでくださいお願いします!」
その決意を力に変えて、クリムメイスは全力で土下座した。
もう頭を下げるしかない……頭を上げてたら首を落としにくるのが目に見えてるから。
それに、こうして簡単に頭を下げる情けの無い女は、自分の狙うお兄ちゃんを横から掠め取る程の相手とは思えない―――そうハイドラが考えてくれることを祈るぐらいしかクリムメイスには出来ることがないのだ。
「そうよ……ここまで折角仲良くしてきたのに……なんで自分から死ににくるのかな……救いようがないよね……そんなバカなのに生きてても損でしょ……」
下げた頭の上に降り注ぐ、ヒステリックなものが多い普段とは真逆の、恐ろしく冷たいハイドラの声……クリムメイスは少しだけ額を砂浜から離し、ちらりと頭上に目をやる。
顎の角度を一切変えず、眼球だけで自分を見下すハイドラの顔がそこにはあった。