別れ
不自然なほど自然に、まるで最初からそこに生えていた植物のような佇まいで、その声の持ち主はそこにいた。
「あなたは確か……イーリスの保護者代わりの……商人の……」
アルテアは記憶を探りながら歯切れ悪く尋ねた。
何度かあった覚えはあるはずなのに何故かはっきりとは思い出せず、目の前にいるにも関わらずその男の存在はひどく希薄だった。強く意識しなければ存在を忘れてしまいそうだった。
今も相対しているというのに、その男がどんな顔をしているのか上手く認識できないでいる。
「おや、覚えておいででしたか。普段から認識阻害の魔法を施したローブを着ているのですが……流石はアルゼイド卿のご子息。やはり侮れませんね」
ニコニコと感心した様子で男が言う。
同時に男の目に怪しい光がよぎった。
男の持つ底知れない異質な雰囲気がアルテアの警戒度をわずかに強めた。
そんなことまるで気にしないと言うように、男は微笑みをたたえたまま話し続ける。
「では改めて自己紹介させて頂きましょうか。私はリーベルト・シュタイン。イーリスの保護者……もといお目付け役です。お察しかと思いますが、一介の商人というのは仮の姿です」
「お目付け役?じゃあイーリスが勇者だって言うのは本当なんですか?」
アルテアの問いに男は少しだけ困ったように「ふむ」と呟きを漏らして少し考え込んだあとに話し始めた。
「まあ、見られしまったのなら仕方がありませんね。本来まだ機密扱いなのですがお話しましょう。あなたの言う通り、彼女は勇者ですよ」
「イーリスが勇者……」
アルテアはリーベルトの言葉をそのまま繰り返すがいまいちピンと来なかった。
この世界は勇者の伝承には事欠かない。この世界にはいつの時代にも勇者がおり、勇者は人類のために剣を振るって数々の危機を退けてきたとされている。
時には魔王と呼ばれる存在から世界を守り、時には世界大戦を剣ひとつで終息させたとされている。この世界で絶対的存在、最強と言われる存在が勇者なのだ。
そんな勇者と目の前の小さな少女がいまいち結びつかなかった。
いや、本当は認めたくなかったのだ。
だが認めざるを得なかった。
自分が死力を尽くしてもなお勝てなかったイーヴルをあっさりと滅ぼしたのだ。あの時感じた神聖で底の見えない魔力。イーリスは勇者なのだ。
じっと喋らずにいるアルテアを怒っていると勘違いしたのか、イーリスがおもむろに口を開いた。
「……黙ってて、ごめん」
少女は後ろめたさからか、じっと地面を見つめてアルテアの顔を見ようとはしない。
「いや……別に怒ってるわけじゃない。少し驚いただけだ。気にすることはないよ」
嘘ではなかった。
誰にでも、他人には言えないことのひとつやふたつはあるものだと思っている。
当のアルテア自身も、前世の記憶があることはハク以外には誰にも言っていない。
アルテアがそう言葉をかけるが、それでも彼女は顔を上げなかった。
どうしたものかと頭をひねらせていると、それを見兼ねてかリーベルトが顔から笑みを消してイーリスに話すように促した。
「イーリス。彼に言いたいことがあるなら言っておきなさい、この先ずっと後悔することになりますよ」
それでもなお黙ったままでいるイーリスを見て、リーベルトは呆れたように首を振ってため息をついた。
「そんな大げさな……別に話すくらいいつでもできるし、待ちますよ」
アルテアの言葉にリーベルトがわずかに顔を顰めた。それは彼なりの優しさの表れだったのかもしれない。
彼の反応でアルテアの胸に嫌な予感がよぎった。それを口に出してしまえば、もはや動かしえない事実になってしまう気がした。
だが聞かないわけにはいかなかった。
「まさか、もう会えないなんてことはないよな?」
アルテアが硬い声で言った。イーリスもリーベルトも何も答えない。
嫌な汗が背中を伝い、身体にまとわりつくような生ぬるい風がびゅうと吹いて闇夜の木々がざわざわと揺れた。
「確実に言えることはひとつ。彼女はもうここには来られないでしょう」
リーベルトの言葉を聞いて、どくんとアルテアの胸の奥が大きく跳ねた。
鼓動が大きくなるにつれて、胸を締め付けられるような息苦しさがどんどん増していく。イーリスの顔を見る。彼女は悲しそうにただ目を伏せているだけだった。だがその態度がリーベルトの言葉が嘘ではないと語っていた。
「な、なんで……?」
掠れた声でようやくそれだけを口にした。
反対に、リーベルトの話しぶりは驚くほど滑らかでとうとうとしていた。
「彼女は命令に背いた。その罰を受けねばなりません」
「命令……?」
「最初からお話しましょうか。まず、私たちは星神教会所属の異端審問官ーーいわゆる異端狩りです。この村を訪れた目的は特異点の調査。教会は異常なまでの魔力の淀みを感知し、私たちに調査の命を出しました。ゆくゆくは勇者として活動することになる彼女の実地訓練も兼ねてね」
「特異点の調査……じゃあ、あなたたちは異端教徒やイーヴルの襲撃があることを知っていたのか?」
「その通りですよ。そして私たちは事態を静観するつもりだった」
「静観……!?どうしてっ!?下手をすれば村は壊滅していたんですよ!」
リーベルトの言葉にアルテアの語気が荒くなった。身を乗り出して村の惨状を指し示すと、それを押しとどめるように、ゆらりとアルテアの顔の前に拳が突き出された。
「理由は主に二つ」
リーベルトが人差し指を立てた。
「一つ目。勇者の存在はまだ機密だから。勇者は世界の剣と言われるほど絶大な力を持っています。まさしく世界のパワーバランスを一人で傾けてしまう。そんな勇者がまだほんの幼い少女だと知れば、どうでしょう。よからぬ企みで彼女に近づくものがいてもおかしくありません。なので勇者の存在を知られる可能性は少しでも排したかった」
リーベルトは淡々と言いながら次いで中指を立てる。
「二つ目。ここにはサンドロッド卿がいるから」
「父さんを知っているのか?」
「この国にいて彼の名を知らぬものは……あまり多くはないですよ。
多少の被害はあれど、彼なら異端共の襲撃やイーヴルの現出にも対処可能です。私たちが手を出すまでもなく事態を収めることができたでしょう。そういうわけで、教会からは静観せよとの命が来ました。それに従い私たちは事態を見守るつもりでしたが……」
リーベルトが話を途中で区切ってちらりとイーリスの方へ視線を向けた。
「まあ、今回、彼女は勇者の力を惜しみなく使ってしまいました。それ以前にも何度か力を使いこの辺りの魔獣やイーヴルを狩っていたようですがね」
リーベルトにつられてアルテアもイーリスを見やりる。そしてアルゼイドの言葉を思い出していた。
アルゼイドは思っていたよりもイーヴルの数が少ないと言っていた。それはイーリスが仕留めてくれていたからだったのかと、アルテアは今更ながら合点がいった表情を浮かべる。
それ以外にも思い当たる点はいくつかあった。
「お前……」
人知れず戦ってくれていた少女を見つめる。彼女はまだじっと地面を見つめていた。何をそんなに気にしているのだろうか。彼女は自分たちのために戦ってくれていたのだ。感謝こそすれ怒るわけなどないというのに。
彼女にそう言ってやろうと近づこうとしたところで、リーベルトがさっと間に割って入った。
「……なんですか?」
アルテアがリーベルトにやや反抗的な視線を向けた。その視線が、どけよ、と暗に告げていた。
「そもそも彼女がここへ来ることも命令違反。彼女にはあなたへの接近禁止が言い渡されました」
「はあ?なんですかそれは?」
「あなたは彼女に悪影響を与える。教会はそう判断しました。勇者は死ぬまで戦い続ける運命。勇者の行く道にあなたは不要なのです」
「死ぬまで……?流石に比喩か何かですよね?」
「いいえ、比喩などではありません。文字通り、勇者とは生ある限り世界のために戦い続けなければなりません。イーヴルという侵略者から世界を守る剣であり盾……それが勇者です」
あまりのバカバカしさにアルテアは唖然となる。それではまるで道具と同じだ。
ひとりの人間が世界のために終わりなき戦いにその身を賭す。美談めいた言い方をしているがそんなものはただの人柱ではないか。唖然とするアルテアをよそにリーベルトはなおも続ける。
「そして彼女は度重なる命令違反を犯した。あなたのせいで、勇者としての正しい判断ができなかった。勇者にあなたは不要なのです。そして彼女は違反の罰を受けねばなりません」
アルテアがわずかに顔をしかめた。
あなたのせい、という言葉がちくりとアルテアの心を刺していた。
「……イーリスは俺を、俺たちを助けてくれた。人を助けることが罪だと言うのか?」
「時にはそうなる、ということですよ。彼女は世界を守る剣、凡百の者とは立場が違います。凡夫の尺度でものを考えないで頂きたい」
「こんな小さな女の子に世界なんて大きなものを背負わせて、あなたたちは恥ずかしくないのか?」
「……背負わせるなど、とんでもない。世界のために戦える。光栄で名誉なことです。彼女はすすんでそうするのですよ」
アルテアは胡乱げに眉を寄せて伺うようにちらりとイーリスのほうを見た。
「イーリス、お前は自ら望んで戦うのか?」
そう問いかけるが、イーリスは何も言わなかった。ただ、黙って小さく頷いた。
それを見てリーベルトが満足そうに口元を歪めた。
「彼女の意思はわかったでしょう。なら無駄な問答は終わりです。さあ、行きましょうか」
貼り付けたような笑顔のままでリーベルトが冷たく言い放ってイーリスを促し、彼女もそれに従って歩き出した。
アルテアには離れていく彼女の背中が、かつて前世で死に別れた少女の姿と重なって見えた。
アルテアが拳を握りしめる。
その眼差しには動かすことの出来ない固い決意の色があった。
「待てよ」
アルテアは強く声を発した。その声につられて二人が足を止めた。
リーベルトが面倒だと言わんばかりに振り返る。
「なんでしょう。まだ何か……ご用がありますか?」
柔らかな口調と笑みはそのままに、言葉の温度はとてつもないほど下がっていた。
これ以上何か口答えをするとただではすまない。そんな気配がひしひしと伝わってきた。それでもアルテアは怯まない。
「イーリスは行かせない。使命なんて関係ない。彼女を自由にしろ」
「彼女を自由にして、誰が代わりにその使命を全うしてくれるのですか?」
リーベルトが冷ややかな目を向ける。その声は露骨に挑発的だった。
「代わりがいると言うなら俺がやってやる。イーヴルだろうが魔王だろうが倒してやるよ」
アルテアの答えを聞いたリーベルトは拍子抜けだとばかりに肩を竦める。
「聡い子だと思っていましたがやはりまだ子供……自分の無力さを知らないのですね。あなたごときに世界を守ることなどできはしません。身の程を弁えなさい」
「無力?それはあなたも同じだろ。小さな女の子ひとりに世界を託して、偉そうなことを言うなよ」
リーベルトの眉がぴくりと動いた。
何かがカンに障ったようで、怒りを顔に滲ませた。
「何も知らぬ子供が……知ったような口をきくな!」
怒号だった。
あまりの威圧に、訓練していないものならそれだけですくみ上がって気を失ってしまいそうなほどだった。
だがアルテアは怯まない。
「子供だよ。俺も、その子もな。そんな小さな女の子に、勇者だからって世界を守るために戦わせるのか?じゃあ勇者は誰が守ってやるんだ?その子は誰が守ってやるんだよ?……それがあなたたち大人の役目じゃないのかよ!」
アルテアも吼える。雷のような怒声にビリビリと周囲の空気が揺れた。
「減らず口を……これ以上は教会への反逆と見なし実力で排除します」
リーベルトが腰に下げた剣の柄に手をかけた。辺りの温度が急激に低くなり、空気が重くなったように圧力を増していく。
リーベルトの発する刃のような鋭い殺気がアルテアにそう感じさせていた。
アルテアもそれに応じてゆっくりと剣に手を伸ばし、咄嗟に迎撃できるように鞘から剣を抜いた。
火花を散らすように視線が交錯し、肌が焦げ付くようなピリピリとした緊張が辺りを包む。
びゅうっと風が吹き抜けて森の木々が揺れ、バサバサと鳥が飛び立った。
それが切っ掛けだった。
アルテアは電光石火のごとく地を駆けて、致命傷にはならない箇所に狙いを定めて剣を振り抜いた。
リーベルトを見るとまだ剣を抜いてすらいなかった。
もらった。
アルテアが確信したその時、目の端に閃光のような軌跡がはしり、剣がふと軽くなった。
振り切ったはずたが、手応えがまるでなかった。
怪訝な顔で剣先に目をやりアルテアは息を呑んだ。
剣の半ばから先がなくなっていた。
「なっ……!?剣身が……消えた……?!」
リーベルトに目をやるが、彼もわずかに目を見開いていた。彼がやったことではないということだ。
そして、いつの間にか自分とリーベルトとの間にひとりの少女が立っていることに気づいた。
その手には神々しいまでの大剣が、もう片方の手にはアルテアの剣の剣身を持っていた。
「イーリス……!」
心臓が激しく脈打った。
混乱する思考を落ち着かせるため、いったん距離をとろうと後ろに跳躍する。
アルテアが着地するのと同時に視界から少女の姿が消えた。
姿を追おうと視線を巡らせたところで白い軌跡がはしり、電撃が流れたような熱い痛みを胸に感じた。
咄嗟に胸に手を当てると、どろりとした粘っこい感触がして鉄臭さが鼻をついた。
そして勢いよく血が吹き出した。
「なん……だと……」
アルテアは身体から力が抜けて崩れ落ちていく。
一瞬たりとも目を離さなかったというのに、いつ斬られたのかもわからなかった。
傾いていく景色の中で、血で赤く染まった大剣を手に佇むイーリスの姿を捉えた。
そうして自分がイーリスに斬られたことを改めて思い知らされた。
頭上から少女の冷たい声が降ってくる。
「愚かな反逆者には相応しい罰を与えた。命があるだけ感謝しなさい」
イーリスは大剣を一振りして血糊を払い踵を返した。
「戻ろう、リーベルト」
「……まあ、いいでしょう」
リーベルトが呆れと憐れみを混ぜたような複雑な顔でそう言って、イーリスのあとに続くように歩き始めた。
「イーリ、ス……」
「動くな」
刃のように鋭い声がアルテアの耳朶を打った。その声が、なおも立ち上がろうと身をよじるアルテアの動きを止めた。
「一歩でも動いたら……殺す」
振り返った少女の目に薄らと涙が浮かび、紅い瞳が炎のように揺らめいていた。
その顔を見てアルテアは杭で地面に打ち付けられたように動けなくなった。
「……戻るんじゃないんですか?行きますよ」
溜息をつくリーベルトに促されて、イーリスは再び歩き始めた。
「さようなら、アルテア・サンドロッド」
そう言い残して少女は去っていった。
最後に見た彼女の顔とその言葉がアルテアの頭の中でぐるぐると回っていた。
痛みを我慢して身を捩って仰向けになる。
すっかり熱量の失われたその場所で、アルテアはひとり空を眺めた。いくつもの星がきらきらと光っていた。
その光をぼんやりと見ながらいつかの女神の言葉を思い出していた。
「あの星空が、イーリスを……」
不意に頬に冷たい感触を覚えた。
雲などひとつもないというのにぽつぽつと雨が降り出して、アルテアは腕で顔を覆った。
「くそっ……くそっ……!」
嗚咽を消すように、雨が勢いを増して降り注いだ。
「ふん……」
いつの間に目を覚ましていたのか、ハクだけがそれを聞いていた。
ハクは雨が止むまでずっと傍に寄り添っていた。




