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灰の魔導書

景色が元に戻った。

とてつもない重力に押しつぶされているはずなのに、どうしてか重さは感じなかった。

ゆっくりと立ち上がる。

骨が砕けてとても立てるはずもないのに、何故か身体がとても軽い。

いつもより意識が研ぎ澄まされているのを感じる。

去ろうとしていた女が再びアルテアに気づいて、鋭い眼光が身体を射抜いた。

女の苛立ちが伝わっくる。だがそれも怖くはない。いつの間にか手には燃える魔導書が収まっていたが熱くはなかった。


眼を閉じるとハクの姿が思い浮かんで自然と言葉が紡がれる。


「灰の魔導書ーー起動」


炎に包まれていた本が白く光り輝き、粒子となってアルテアと溶け合っていく。


「灰の魔導書と星霊回廊を構築……展開……同調開始」


アルテアの中に、誰かの記憶が流れ込んでいく。

見たこともない風景。

見たこともない世界。

知るはずのない魔法の詠唱が頭に流れ込んでくる。

知るはずのない武具の扱いが魂に刻まれていく。

それは、ひとりの少女の長い旅と戦いの記憶だった。


「魂操魔法ーー『魂魄融和(ハーモニクス)』発動」



アルテアの身体から光の粒子が溢れ出して闇を照らした。

その圧倒的で莫大な魔力が、吹き出す魔力そのものをまるで銀河のように見せていた。

アルテアは身体の動かし方を確かめるように、拳を握っては離しを数回繰り返した。


「ちっ」


女が苛立ちをあらわにして手をふりかざした。際限なく増加する重力がアルテアに降り注ぐ。アルテアが動かないのを好機と見て、女は瞬時にアルテアに肉迫する。


「あなた、いい加減しつこいわ」


女が空間をも切り裂く鋭い手刀を放った。手刀の延長線上の空間が引き裂かれ、進路上に存在するあらゆるものを切り裂いて進む。凄まじい威力と速度のはずのそれが、アルテアにはまるでコマ送りのようにゆっくりと見えていた。


自身をめがけて迫る空間の断裂。

アルテアは手を前に差し出し拳を握る動作をすると、目の前の空間が紙くずのようにクシャッと潰れた。空間の断裂を空間ごと握りつぶしたのだ。


「なっ……!?素手で空間を……?!!」


女の顔が驚愕に変わる。


「魔力の質も量も……先程までとはまるで違う。あなた、何者?」


「何者……か」


アルテアの声にハクの声が重なった。不思議な感覚だった。自分の意識は確かにあるのに、それはハクの意識でもあるのだ。砂糖が水に混ざり合うように、二人の意識が溶け合い、二人でひとつの意識を共有していた。


「俺は何者でもない……お前を倒す者だ」


アルテアが腕に魔力を流し込み、軽く横に振った。

キンッと金属を打ち鳴らしたような澄んだ音が響いた。

同時に、女の腕が網目状に切り刻まれた。腕から破裂するように血が吹き出した。


「……え?」


あまりに一瞬の出来事に女は理解が追いつかず、呆然とした顔でそれを眺めていた。

血が雨となり降り注ぎ女の顔を赤く染める。

吹き出す血を顔に浴び、ようやく女が正気を取り戻し、次第に悪鬼のごとき形相に変わっていく。

それをアルテアは油断なく見据えている。


「くっ……ガキがっ!!調子にのってんじゃないわよ!!」


女が狂気に顔をゆがめて怒声を上げて空に跳躍した。


「欠片ひとつ残さず消滅させてあげる!!」


女が腕を天に掲げて詠唱を始める。


「契約により 我に従え 黒より暗き漆黒の 深淵を満たす災厄の王 其に命じるは 異界の王 来たれ 終焉の獣 咎人の剣 地に満ちた愚者を滅せよ!」


重力(テラルド・ペトラトス)崩壊(・グラマトン)!」


時空を歪めるほどの重力の奔流が解き放たれた。アルテアの周囲に漆黒の帳が降りて彼を包み込んでいく。

範囲内に存在するあらゆる物体を塵にして、光さえも逃さない重力の渦がアルテアの身体を呑み込んだ。


ーーーーーーー


光すら呑み込む漆黒の魔法。その内部は凄まじい重力で、本来ならすぐさま身体がバラバラに分解されてもおかしくなかった。だが、アルテアは無傷でそこに立っていた。

ただ脱出法がわからない。


魔法の範囲としては自分の身体を覆うほどの大きさのはずだったが、その内側は無限にも等しい広がりをもっていた。試しに魔力弾を撃ち込んでみるが手応えはなく、境界や壁にぶつかった様子もない。ダメージはないが、無為にここで時間を過ごすわけにもいかない。

アルテアが思案していると、鈴の音のような声が耳を打った。


「アルテア」


「ハク」


自分を呼ぶ声にアルテアが応じた。

完全な闇に鎖された世界で、ハクの声だけははっきりと聞くことができた。深い海の中に差し込む一筋の光のように、それだけが確かな生の輪郭を持っていた。

ゆっくりと優しい、暖くすら感じる口調でハクが続ける。


「よく聞け、アルテア。魔法で最も大切なのは魔力の量でも詠唱の技術でもない。それは、意志の強さだ」


「意志の、強さ」


「そうだ。魔法とは精神の力。強靭な意志によって世界の法則を自在に操り、あらゆる不思議を現出させる……それが魔法の本質だ。イーヴルは神の尖兵として、もはや思念や業の半精神体のようなものだ。だからこそ奴らの魔法は強力だ。勝ちたくば強く想え。何者にも負けぬ、確固たる信念を持て。お主はいったいどうしたい?」


「俺は勝つ。勝ってみんなを守る」


「ならば、ただ想え。決して退くな、臆するな。見せつけてやれ、お主の確信を」


「ああ……!」


ーーーーーーー


しんと静まり返った中で、勝利を確信した女がヒステリックな笑い声をあげる。


「ふ……ふふふ……あーはっはっはっはっはっ!!流石にこれはどうしようもないみたいね!」


「何がそんなにおかしいんだ?」


女の笑い声を打ち消すように、凛とした声が黒い帳の中から響いた。

帳に亀裂がはしる。そこから光が溢れ出し、ガラスが割れるように黒い帳が崩れ落ちた。

姿をあらわしたアルテアには傷どころか衣服の乱れすらなかった。


「そ、そんな……ありえない……」


諦めにも似た呟きが女の口からぽろりとこぼれ落ちた。大きく見開かれたその瞳には恐怖が宿っていた。

アルテアが一歩、足を踏み出す。


「な、なんでよ……!私の最強の魔法なのよ!人間ごときが耐えられるわけないわ!」


「魔法は精神の力。強く想えばあらゆる不思議を現出させる」


「は、はあ……?!そんなのであなたと私の魔力の差が埋まるまけないわ!ありえない!」


「ならば、実際に見せてやろう」


アルテアを中心に膨大な魔力がうねりを上げて大地を揺らす。魔力の光が空に舞い上がって流星のように流れていく。

きらきらと振り落ちる流星の中で、アルテアが歌うように詠唱を始める。


「契約により 我に従え 紅蓮の覇王

其に命ずるは 神滅の旅人 砕けろ 氷の巨人

顕現せよ とこしえの氷原王国 罪なる者たちに安息の眠りを与えよ」


超級魔法が発動する。


「俺の確信を受け取れーー『ねむる(ウル・グラキエス)せかい(・ヒュプノス)』」


女を中心に半径五メートルほどの魔法陣が展開した。そこから女を取り囲むようように空中にいくつもの氷の花弁が展開され結界を構築する。

そして、数多の花弁が青白い光を放つと結界内部に氷の薔薇の蕾が出現した。


氷の薔薇は結界内部のあらゆる物質に氷のツタを伸ばし侵食していく。それから逃れられるものはおらず、それは女も例外ではなかった。

ツタに絡み取られたものが瞬時に凍結していく。


「そんな……この、私が……人間ごときに……」


それが女の最後の言葉だった。

あらゆるものに永久の眠りを与える薔薇のツタに体を侵食され、女の体は氷像と化した。

範囲内の全てのものを生命力ごと取り込んだ氷の薔薇が美しい花を咲かせ、やがて全てが砕け散った。

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