この世界が好きだから
怪物は突っ立ったままカタカタと顔を揺らしていた。
あれだけ殺意を漲らせていたというのに、今は不気味なほど何もして来る気配がなかった。
「気味の悪いやつだな……どういう生き物なんだ」
アルテアがその奇怪な動きを見ながら独りごちた。
答えを求めたものでは無かったが、横面から返答がきた。
「ほぉ……イーヴルか。久しぶりに見たの」
突然の声に驚き、視線だけを素早く動かし周囲を探るが人の影はどこにもない。
「どこを見ておる。ここだ、ここ!」
強く声のするほうをちらりと見ると、
剣を収めていた鞘が手を振っているみたいに揺れていた。
「……その声。わけのわからん本の女か」
「雑な覚え方だな……!私には立派な名前があるんだぞ!」
鞘が怒ったように大きく震えた。
実際に怒っているのかもしれない。
「なんて名前なんだ?」
「……覚えとらん」
「お前……もしかしてけっこうバカなのか?」
「う、うるさい!記憶がないんだから仕方ないだろ!」
「……そうだな、その通りだ。それで、なんでお前の声が聞こえる?」
「ぐぬぬっ!」
何か言い返そうとするように鞘が何度か小さく動く。
しかし結局諦めたように動きを止めてから、また話し始めた。
「……以前、お前の魂に紐付けをしておいた。
今はお前と繋がりの深いこの剣と鞘を媒介にして話しかけている。
念話みたいなものだと思えばよい」
自慢げな調子で鞘が言った。
「いつの間に……」
アルテアは半ば呆れた呟きをこぼす。
「いつから見ていた?」
「あのイーヴルが出てきたあたりからだな。
感動の別れの場面には水を差さんように黙っておったのだ、感謝せい」
「それはどうも。で、イーヴルというのはなんだ」
「かあーっ!質問ばかりでつまらんやつだな!
お主、そんなことでは女子にモテんぞ。もっと余裕を持たんといかん」
私のようにな!と続けて鞘が大きく左右に揺れた。
おおかた本の中でのけ反りながら高笑いでもしているんだろう。
その姿が容易に想像できた。
アルテアの知らないことを自分が知っているのが嬉しくてたまらない。
そんなところだろうか。
「いいからさっさと──」
イラっとして語気を強めてさっさと答えさせようとするが、
それは鞘の言葉によって止められた。
「ほれ、来るぞ」
言うがはやいか、怪物が顔を揺らすのをやめて疾風のごとく迫り来る。
「くそっ!」
悪態をつきながらもイーヴルの繰り出す攻撃をことごとくいなして
無数の斬撃を叩き込んでいく。
至る所から紫の血を流すイーヴルだったが、まるで堪えた様子もなく反撃してくる。
「面倒なやつだ!」
当たれば肉塊必至の爪撃を紙一重で見切ってかわしながら、怪物の懐に潜り込む。
まるで嵐の中を進むようだった。
チッという爆ぜるような音が耳をつき、脇腹に熱がはしる。
肉の抉れる激痛を意識的に遮断して相手の腕を掴み取り、
魔力で強化した膂力と剣でもって肩口から先を力任せに切り飛ばした。
そしてすかさず炎の中級魔法を叩き込む。
アルテアの背後に展開された魔法陣から数十本の炎の槍が雨のように打ち出され、怪物に殺到する。
炎槍が怪物の硬い表皮を貫き、大爆発を起こす。
ちりちりと焼け焦げた肉の臭いが鼻を突いた。
並みの魔獣なら肉片すら残さず消し炭になる大火力だったが、さほど手応えを感じなかった。
じわりと脇腹から血がにじみ出る。
前世での経験を活かして意識的に痛みを遮断してはいるものの、ケガが治っているわけではない。
そう長く続けることもできないし、血が流れれば体力も確実に落ちていく。
体力が落ちれば集中力や反応速度も鈍くなる。
治癒魔法が不得手なアルテアにとって長期戦は不利なのだ。
わずかに感じる痛みと焦りとで額から流れる汗を手で拭い、爆炎の中に目を凝らす。
煙がはれてイーヴルが姿をあらわした。
さすがにダメージは与えたようで、片腕は欠損し、全身は炎で焼けただれ、下半身は炭化していた。
普通なら死んでいてもおかしくない状態なのだが、それでも怪物は生きている。
それどころか、傷跡がブクブクと蒸発するように収縮を繰り返し、徐々に傷が塞がっていった。
あまりに非常識なその生命力にアルテアが顔を顰めて吐き捨てるように言う。
「……反則だな。まともな生物とは思えん」
「イーヴルは異界の生物だからな。
生命体としての構造がお主らとはかけ離れておるのだよ」
まるで講義を行う教師のような調子で鞘が得意げに語る。
イスの上でふんぞり返っている姿が目に浮かんだ。
「異界の生物……」
「うむ。あやつらは異端の神を信仰する想念を糧にこちらの世界に現れる異形の災厄……さながら異界の神や王の尖兵といったところかの」
「そうか……だから星神教に属さない者が異端者として狩られているのか」
「……まあ、そういことだ。あやつらの大半は負の想念に惹かれて顕現する。
あるのは純粋な破壊衝動と侵略意識で、特に低位のものはその傾向が強い。
ま、あやつらにとっては勧誘しているだけなのだが……放っておくと瞬く間に世界を侵略していくぞ」
世間話をするように語る鞘の様子が、
逆にどうしようもないほどそれが真実なのだということアルテアに感じさせた。
「……倒す方法はあるのか?」
時を巻き戻したように傷が消えていく異形を前にして、純粋な疑問が口をついた。
「なに、造作ないことだ。死ぬまで殺せばいい」
「……なるほど、確かに簡単だ」
アルテアが皮肉っぽく言いながら鞘を軽く叩いた。
ゆっくりと深呼吸をしてから、眼前の敵を鋭く睨む。
傷が深く再生に時間がかかるのか、やつが襲ってくる様子はない。
これを好機と見てとったアルテアは大地を蹴って一足飛びに敵へと接近する。
突進の勢いをそのままに、イーヴルの首筋目がけて剣を横薙ぎに振るう。
イーヴルが首と剣との間に腕を割り込ませるが、
腕ごと両断するつもりでアルテアは剣を振り切った。
もはや装甲と言っていいイーヴルの強靭な肌を切り裂くが、浅い。
攻撃を凌いだイーヴルが嘲笑うように体を揺らした。
挑発にかまうことなく、
アルテアは剣を振り切った遠心力を利用して強烈な回し蹴りを見舞った。
大鎌を振り回したような蹴撃が余裕ぶって直立する怪物の顔面に直撃し、
イーヴルは切り揉みしながら彼方に吹っ飛び巨木に身体を叩きつけられた。
巨木がミシミシと音を立てて折れる傍ら、イーヴルは大して堪えた様子もなく起き上がる。いつの間にか傷も癒えている。
そして獣のように四つん這いになり、
ひび割れた鳥のような顔から凄まじい咆哮を上げた。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛!!」
口の辺りに黒い魔力が渦を巻くように集束し、凄まじい光を発して放たれた。
とんでもない密度の魔力弾だった。
稲妻のような速度で迫る漆黒の殺意の塊を、
アルテアはすんでのところで横に飛んでかわした。
それに触れた衣服の一部が音もなく消し飛ばされる。
その直後、一瞬だけ世界が日の出のような明るさに包まれて、雷鳴のごとき轟音と共に大地が揺れた。
遠くにあった山脈は上部が消し飛び、きのこののうな形のどす黒い分厚い煙を吐いていた。
上級魔法と同程度——小さな村なら一撃で消し飛ばしてしまえるほどの威力。
それをほぼノーモーションで放ってくる怪物に、アルテアは焦燥の汗を流す。
イーヴルがおかまいなしに続けざま魔力弾を放つ。
再び回避行動にうつろうとするが家族や知人の顔が脳裏をかすめた。
「ちっ……!」
避けるのをやめて即座に剣を構え、真正面からそれを迎え撃つ。
剣と魔力弾がぶつかり合い、衝撃が同心円状に破壊を撒き散らした。
「ハアッ──!」
気合いで怪物の攻撃をなんとか真上に逸らすが、アルテアは大きく姿勢を崩した。
その隙をつきイーヴルが獲物を仕留める獣のごとく襲いかかる。
数メートルある距離を一瞬で詰めて鋭い爪で突きを放つ。
直撃すれば一撃で絶命する威力だ。
アルテアはその攻撃を剣の腹で受け止め直撃を避けたものの、威力を殺しきることが出来ず、
木々をへし折りながら森を突き抜け、森の外まで大きく飛ばされた。
中空で身体を捻って受身をとり、着地の衝撃を緩和する。
着地と同時にわずかに周囲を確認し、どうやら村の近くまで飛ばされたようだと把握したあと、
すぐさま敵の姿を探して視線を電撃的にはしらせて
森の闇の中に敵の姿を捉えた。
地を這うイーヴルが歪に笑ったように見えた。
一瞬の明滅の後、目前に漆黒の魔力が迫る。
背後には故郷。
避けるという選択肢はない。
「くそっ……!」
アルテアはイーヴルが放つ魔力弾を迎撃する。
イーヴルもアルテアが避けないとわかっているのか、
いやがらせのごとく魔力弾を連発する。
「はぁ……はぁ……っ!」
アルテアは肩で大きく息をしながら次々と放たれるそれを剣で弾き続けた。
空に打ち上げられたそれが爆発し、その度に地揺れが起きた。
アルテアの身体も無事では済まず、腕は焼けただれ、脇腹からはとめどなく血が溢れる。
一発弾くごとに体のどこかが壊れていくような感覚だった。
もはや腕の感覚はほとんど残っていなかった。
ひとつでも打ち損じれば大勢の人が死ぬ。
簡単に起こりうる未来の光景だった。
それがいつか見た夢の景色と——前世の記憶と重なった。
いたるところに転がる、血にまみれた仲間の体。命が抜け落ちたそれらは、まるで石のように冷たく無機質だった。
思い出すだけで背中がそくりと総毛立つ。
絶対にそうはさせまいという想いが、糸のようにか細く、
いつ途切れるかわからないアルテアの意識を紙一重で繋ぎ止めていた。
「なぜ避けん。お主ならかわすことは容易だろう」
愚直なまでに攻撃をしのぎ続けるアルテアに向かって、
鞘が見かねたように声をかける。
「どうせ去るつもりの世界なのだろ?村の一つ二つ消えるくらい関係なかろう。このままでは目的を達する前にお主が死ぬぞ」
「そう……だな。お前……の、言う通り……だ。どうして……おれ、は……」
朦朧としながらも絶え絶えにそれに答える。
むしろ自分自身に投げかけているようだった。
「ただ……ここで退けば……おれ、は……。どこにも行けなく……なって……しまう……そんな気が、する……」
アルテアが言うのを聞いて鞘が押し黙り、
わずかな沈黙のあと、呆れたように言う。
「ふん、難儀なやつだ……。せっかく私が逃げる口実をつくってやったというのに……。まあ、逃げぬのなら勝手にしろ。私はもう付き合いきれん」
それっきり、声は聞こえなくなった。
いや、他の音も既に聞こえなかった。
だんだんと意識が研ぎ澄まされていき、世界がゆっくりになる。
──どうして俺はこんなことをしているんだろう……。
自分自身に投げかける。
辛い。苦しい。もう倒れてしまいたい。
胸が熱い。呼吸をすることすらつらかった。
息を吸う度に灼熱に熱せられた空気が肺に入り込み、身体の内から焼け焦げていく。
手足の感覚も残っていない。
鉄くずになったのかと思うほど身体が重い。
──どうして……。
でも、ひたすらに身体が動いた。
考え事をしている余裕などないはずだった。
それでも考えずにはいられなかった。
延々と怪物の攻撃を弾き続けるが、次第に迎撃も追いつかなくなる。
攻撃を逸らしきれずに体勢を崩して無様に地面を転がった。
──どうして、おれは……
重い体をなんとか起こして、また剣を振るう。
一発弾くごとに、剣に亀裂が入っていくのがわかった。
このままではやがて剣も砕けるだろう。
それから何度かイーヴルの攻撃をしのいで、その時はやってきた。
もはや光線のような攻撃を剣で斬り払って、剣が砕けた。
防ぎきれなかった攻撃がアルテアの左肩を貫いた。
左半身が消し飛んだような衝撃に意識が遠くなっていく。
視界が白くなっていき、身体から力が抜けて世界が徐々に傾いていった。
イーヴルはトドメとばかりに力を溜める。
これまでとは比べ物にならないほどの魔力が集束し、
直径2メートルほどの黒い球体を形作った。
「グオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛!!」
大地を揺るがす咆哮と共に、死を告げる波動が放たれた。
黒い光が射線上の全てを飲み込みながらアルテアに迫る。
迫りくる死を前にして、
少し離れたところから、どこか他人事のようにそれを見ている自分がいた。
砕けた剣の、銀色の破片が花弁のようにパラパラと散っていた。
破片のひとつひとつが淡く光輝いている。
時間が止まったのかと錯覚するほどゆっくりと落ちていくその欠片に、
これまでの自分の軌跡を見た。
この世界に生まれてからの思い出が、自分の周りを流星のように流れていく。
不意に声が聞こえた。
──アルテア。
父の声だ。なんの迷いもなく、息子を信じきっている。
庭にふたりで座り込み、空を見上げながら本音を言いあった日のことを思い出す。
俺を抱き上げたときの父の嬉しそうな顔。
その顔を見て、俺も嬉しくなった。
──待ってるわ。この子と一緒に。
母さん。
心配だったはずだ。それでも笑って送り出してくれた。
あのとき、咄嗟に手を離してしまってごめん。
びっくりしたんだ。俺なんかが触れてはいけないと思っていたから。
でも、あのときに触れた温もりはずっと掌に感じていた。
それは、いまでも。
──アルテア様。どうかご無事で。
いつも仮面のように無表情で、
そのくせ人をおちょくるのが好きな人だ。
でも本当は誰よりも情に深い人だということを知ってる。
いつも俺を守ってくれていた。
だから安心してノエルたちを任せることが出来た。
そして今もちゃんと皆を守ってくれている。
──アル君……死なないで……。
ノエル。
救ってくれてありがとうと、きみはそう言った。
でも、救われたのは俺も同じだった。
こんな俺を好きだと言ってくれたから。
だから変われるかもしれないと思えた。
ありがとう。
──私は……この景色が、好きだから。
俺たちを見ながら、きみは言った。
あの時きみが見せた微笑みは、きっとこの世界の何よりも尊いものだ。
俺たちはきっとよく似ている。
初めて出会った時にそう感じたけど、それは間違いだった。
きみのほうがよっぽど素直で純粋だ。
きみにはずっと笑っていてほしい。
あの笑顔を見てそう思った。
みんなの想いが自分の中に入ってきた。
ストン、と何かの落ちる音が聞こえた。
突然のことだったが、不快ではない。
あるべきものが、あるべき場所に戻ったかのような自然な感覚だった。
そしてようやく、あるべきものに正面から向き合うことができた。
──ああ……そうだ。
おれは、この世界が。みんなのことが──
ずっと気づかないふりをしていた。
怖かったんだ。
認めてしまったら、もう、この世界を去ることができなくなってしまうと思ったから。
復讐なんてできなくなってしまうから。
復讐をやめてしまえば、どう生きていいのかわからなかった。
誰かに怒りをぶつけていないと、罪悪感で潰れてしまいそうだった。
ただひとり生き残り、皆が求めたはずの平穏を自分だけが享受している。
そのことがたまらなく怖かった。
本当は、今でも怖い。
かつての仲間たちが許してくれるか。
もし許されないなら……。
でも。それでも。
自分の本当の気持ちを受け入れた。
この世界で自分を慕い、案じてくれる人たちの声が確かに聞こえたから。
それを裏切ることは、もう、できない。
だん!と地面を踏みつけて倒れる身体を支えて、目前まで迫った黒い光弾を睨みつける。
「ああああああっ!!」
普段からは考えられないほど熱の入った叫び声をあげて拳を振るう。
イーヴルが放った魔力弾と拳撃とが衝突して辺り一体に破壊の波紋をつくる。
「かああああああああああっ!!」
裂帛の気合いと共に力を振り絞り、魔力弾をそっくりそのまま跳ね返す。
予想を越えた反撃ゆえにイーヴルは反応出来ず、
自分の放った破壊の全てをその身に受けることになった。
爆発の瞬間、アルテアは両手を地面に付けて、
怪物に向けて瞬時に練り上げた魔力を解放する。
「大地の棺!!」
無詠唱による中級地属性魔法の発動。
イーヴルの周りの地面が盛り上がり、囲うようにして何重にも土の棺を作り出した。
アルテアの膨大な魔力を流し込まれて強化された棺のひとつひとつは鋼鉄をはるかに上回る強度であり、もはや中級の域を越えていた。
大地の壁によって阻まれたエネルギーが棺の中で暴風のごとく暴れ回る。
やがて耐えきれずに土壁がひび割れて、
暴力の嵐は爆炎に姿を変えて辺り一帯を呑み込み、焼き飛ばした。
アルテアは大地を蹴り、爆炎を切り裂くように中心へと飛び込んだ。
灼熱で体が焼かれるのも厭わずに、イーヴルを目指して突き進む。
炎の中心に、はやくも再生を始めている怪物がいた。
灼熱の業火にさらされ、肉体がグズグズに崩れ落ちても生き続ける姿はまさに怪物だった。
アルテアは、その怪物の腹めがけて風魔法で加速させた殴打をあびせた。
鈍い豪音と共に、鋼のごとき硬度を誇るイーヴルの体に左拳がめりこみ、亀裂がはしる。
同時にビキリと、拳の砕ける音がした。
「グガォッ!?!」
怪物が呻く。
「らああああああああああああっ!!」
気合い一声、砕けた拳をそのまま振り抜く。
殴り飛ばされたイーヴルが黒い尾を引いて空高く舞い上がり、それを追うようにしてアルテアも跳躍した。
一切合切を地上に置き去り、空がぐんと近くなる。
空に吸い込まれるように、あるいは星に誘われるように、アルテアは詠唱を始める。
「契約により 我に従え 炎陽の使徒」
胸に湧き上がる熱と一緒に、魔力を練り上げる。
冷たく光る、研ぎ澄まされた一振りの鋼のように。
父の振るう、剣のように。
「其に命ずるは 無名の旅人」
イーヴルとの距離がぐんぐん詰まっていく。
分厚い雲の隙間から見え隠れする月は、手を伸ばせば触れられそうなほど近い。
「舐めろ灼熱 燃える天空 浄化の篝火
炎天逆巻け 不遜なる摂理に爪を立てよ!」
眼前に迫るイーヴルに、突撃の勢いを加えて無事な右手で渾身の貫手を繰り出す。
全てを断ち切る名剣のような手刀の一撃が風を切り、イーヴルの装甲ともいえる表皮を突き破り、その体を穿つ。
「グオ゛オ゛ォ゛ォ゛!!」
怪物はアルテアを吹き飛ばそうと咄嗟に口腔に魔力をためるが、遅い。
怪物の胸に腕を突き刺したまま、アルテアは研ぎ澄ました膨大な魔力を解放する。
「魔女断罪の咎火!!」
術の名前を唱えて練り上げた魔力に破壊の方向性を与える。
火系上級魔法【魔女断罪の咎火】。
指定した地点に巨大な十字架のごとき火柱を発生させて広範囲を焼きはらう魔法だ。
だがこの時、アルテアは威力の底上げのため範囲を絞り使用した。
指定した地点は自分の腕の先。つまりイーヴルの体内だ。
圧縮された高密度の炎。
破壊を求めて解き放たれた劫火がイーヴルの体内を蛇のごとく暴れ狂う。
その黒く強靭な表皮に覆われた体のいたるところに亀裂がはしった。
それは翅脈のようにとめどなく広がっていき、割れ目からあわい光が吹き出した。
そして炎がイーヴルの身体を食い破り、爆ぜた。
巨大な十字の火柱がイーヴルの身体を呑み込んで天を衝き、空を覆う雲を吹き飛ばした。
イーヴルは再生も間に合わず、体が瞬時に灰と化して消滅した。
至近距離で魔法を発動させたため、アルテア自身も爆炎に巻き込まれた。
もはや逃れる力も残っていない。
炎が押し寄せて目の前が紅蓮に染まり、意識は薄れ、やがて途切れた。
夢か現実か、白い世界の先で、前世で死に別れた仲間たちの姿を見つけた。
彼らは背中を向けているせいか、こちらに気づいてはいなかった。
どんどん先へ行ってしまう仲間たちを呼び止めるように、
あるいはすがるように、遠い背中に手を伸ばし、叫ぶ。
──リーナッ!みんな!
手が届いたわけではなかった。たぶん、声が聞こえたわけでも。
それでも彼らは止まってくれた。
彼らの真ん中に立つひとりの少女が振り向き、ゆっくりと口を動かした。
──い……て。
声は聞こえなかった。
顔もぼんやりと霞がかったように白く揺らいでいて、よく見えない。
でも彼女は確かに何かを言って、アルテアの後ろを指さした。
ぐいっと背中を何かに強く引っ張られる感覚。
急速に彼女たちとの距離が離れていって、世界が薄らいでいく。
それでもなおも仲間たちに手を伸ばすアルテアに、
少女は別れを告げるように手を振った。
そして霧がはれたかのように、彼女の口元がわずかに浮かび上がった。
薄く消えていく世界の中で手を振る少女は、
確かに笑っているように見えた。
──起きろ、バカ。
懐かしい声に呼ばれた気がして、はっと目が覚めた。
最初に目に飛び込んできたのは、満天の星空だった。
広く大きい空の隅々いたるところに、
まるで宝石のような星々が散りばめられている。
ああ。この星空の下には、どんな街があってどんな人が暮らしているんだろう。どんな世界が広がっているんだろう。
ふとそう思い、顔を向けて周囲を見渡す。
──この世界にはね、見たこともない場所や楽しいことがまだまだたくさんあるんだよ。世界はとっても広いんだ。わたしたちが一生かけても見て回れないくらい、本当に、本当に、広いんだ。だから、いつか皆で広い世界を見に行こうよ!
前世で聞いた少女の言葉が蘇った。
どこまでも続く空の下には、まだ見たことのない世界が広がっていた。
鬱蒼と生い茂る森の向こうに街の影。
さらにその先には大きな城が見える。王都だろうか。
また別の方向にはどこまでも続く地平線。
雲と風と月と星空。
本当に、世界はこんなにも広かったのだ。
胸がかっと熱くなり、その熱が目の奥まで込み上げてくる。
滲む視界で、自分の生まれ育った故郷を見やる。
自分の家があった。一日の大半を過ごす丘も見えた。
イーリスの泊まる宿屋。ノエルたちの家。
父の視察に付き合った時、農作業に誘われた田畑。
今度、あそこで一緒に苗を植えてみてもいいかもしれない。
たまに魔導書を買いに行く道具屋があった。
テオが耕した畑があった。
点在するように建つ民家には明かりが灯り、
夜だというのに広場にはどんどん人が集まっていた。
皆が空を見上げていた。
その中で、ティアが祈るように空を──自分を見つめていた。
イーリスもこちらを見て、何かを堪えるように、両手をかたく握りしめている。
ノエルが叫ぶようにアルテアの名前を呼んで、それを受けるようにターニャが飛翔した。
テオが深い髭の奥に隠れた目を心配そうに細めている。
村全体が炎と淡い月の光に照らされて金色に輝いていた。
その輝きが、とてもあたたかい……。
「おれ、は。この世界が……。みんなのことが、好きなんだ……」
雪が溶けるように、溶けた水が流れるように、胸の奥から自然に言葉が零れて落ちた。
そして、ふわりと、柔らかな感覚。
「旦那様も奥様も、もちろん私も……そんなことは誰だって知っております」
アルテアを受け止めたターニャが呆れながら、だが優しい声でそう言った。
「そう、か。俺はついさっき、気がついたところだよ……」
力なく、無意味とも思える反抗。
「あなたは嘘を隠すのが下手すぎます。自分すら騙しきれぬようではね。面倒ですので、今後はもっと素直になってください」
「はは……相変わらず、容赦がないな……」
アルテアが観念したという調子で言った。
そんな彼を見て、ターニャがくすりと笑った。
「ほら、皆さん待っておいでですよ」
促されて視線を下げると、地上がすぐそこまで近づいていた。
皆のつくる輪の中にターニャが緩やかに着地して、アルテアを優しく降ろした。
そしてすぐさま、人混みをかき分けて二人の少女が胸に飛びこんできた。
思いのほか激しい勢いにたたらを踏みながらも、
なんとか尻もちをつくという無様をさらすことなく、
アルテアは彼女たちを受けとめた。
「あっ……アル君っ……!無事で、無事で良かったよぉ……。
わ、わたし……わたし……!!うわああああああん!!」
ノエルが泣きじゃくりながら少年の胸に顔を埋める。
「アル……!」
イーリスも紅い瞳を湿らせて少年を強く抱きしめた。
「いてて……。お前ら、思ったよりずっとばか力だな……」
アルテアは照れ隠しで場違いなことを言う。
「ばかばかばかっ!」
「……ばか」
少女たちはアルテアの胸をぽかぽかと叩きつける。
そんな三人を優しく包み込むように、彼らの背中に腕が回される。
ティアが三人を抱きしめて言う。
「おかえりなさい、アルちゃん」
ティアの柔らかい胸に、アルテアが顔を埋める。
まるで恥ずかしいから見ないでくれと言わんばかりに。
それでも、しっかりとした声で、応えた。
「ああ……ただいま、母さん。ただいま、みんな」
──俺は、ここに居てもいいんだ……。
ずっと固く結ばれていた少年の口元が小さく緩む。
その口元を、一筋の涙が流れた。




