愛
アルテアは道すがら、家族にどう説明したものかと頭を悩ませていた。
イーリスを家に連れて行くことには少しばかり懸念があった。
呪いというものが信じられている以上、家の者も彼女を恐れるかもしれなかった。
だが結果としてそれは杞憂に終わった。
両親は少女を朗らかに迎えた。
父は友達ができてよかったと笑い、
母はまるでもうひとり娘ができたようだと喜んだ。
妹がいたらこんな感じなのだろうかとアルテアも想像した。
手のかかりそうな妹だとは思ったが、不思議と面倒だとか不快だとかは思わなかった。
ターニャは相変わらずの無表情で何を考えているかわからなかったが、
少女を嫌ったり恐れたりしている様子はなかった。
どうやら問題はなさそうだと内心でほっと一息ついてから、ティアとたどたどしく話をしている少女を見やり、何から教えたものかと思案する。
悩んだ末、イーリスには基本的なマナーや常識から教えることにした。
手始めにテーブルマナーや公の場での言葉遣いなどの礼儀作法から教えていく。
間違いや補足があるときはターニャがすぐに助言をくれた。
このことでアルテアはひそかにターニャを見直すことになった。
彼女の知識や所作は完璧だった。
父や母に対する物腰が砕けているせいか、メイドだという実感があまりなかったが、実演を交えて指導する彼女の立ち振る舞いは美しいとさえ感じるほどだった。
そういったやり取りでターニャの中の何かを刺激してしまったのか。
「やはり坊ちゃんもまだまだ未熟。良い機会なので二人まとめて私がご指導させていただきましょう」
そして彼女の鬼の指導が始まった。
アルテアはこういった分野に苦手意識を抱いていた。
前世では治安維持の道具といった程度の扱いしか受けることはなく、
礼儀やマナーと言ったことに関しては無縁で言葉遣いなど気にすることもなかった。
だからこの世界に来てからも必須のものを習得しただけで洗練させることはしなかったし、それ以上の指導を受けることのないように、それとなく避けてきていた。
その代償がいま、大波のごとく押し寄せてきていた。
そしてアルテアの自信を喪失させる意外な事実が判明する。
礼儀作法の面においてはアルテアよりもイーリスの方が優秀だった。
彼女は教えられたことを瞬時に理解し身につけていった。
アルテアが四度か五度ほど手直しを受けるところを、イーリスは一度で終えてしまう。
教えるつもり満々でいたところを逆に少女に教えられてしまっていた。
あまりの衝撃に若干うつろになった目を中空にさまよわせていると、
背後からイーリスが彼の肩を、ちょんと指で何度がつついた。
振り向くと、仮面を張り付けたような顔で親指を立てながら少女が言う。
「げんき、だしな」
凄まじいほどに抑揚のない声だった。
「お、おう……」
アルテアはたじろぎながら、少女の後方に控えるターニャにちらと視線をうつした。
メイドは澄ました顔で、自分は関与していませんという意思を言外に発していた。
アルテアはこいつが何か吹き込んだに違いないと確信した。
粘着質な視線を飛ばし続けるとやがてメイドがケロッとした顔で白状する。
「坊ちゃんをからかえる機会はそう多くないですから。レアですよ、レア」
少しも悪びれないその言いぶりは、もはや気持ちが良いほど堂に入っていた。
この人は本当に使用人なのかと疑いたくなった。
そうしていると、ティアがお茶とお茶菓子を持って部屋に入ってきた。
紅茶の上品な香りが部屋を満たしていく。
それだけで疲労が吹き飛びそうな、落ち着く香りだった。
お茶菓子はティアの手作りの焼き菓子らしく、隠し味は母の愛だと言った。
そのティアの言葉をつかまえて、イーリスが小声で尋ねる。
「あい、ってなに?」
「愛ってのは……あれだ」
それ以上言葉が続かずに口を閉じる。
知識としては知っていた。
だが、もっと本質的なことを彼女は求めていると思った。
彼女が求めているものをアルテアもまた知らなかった。
ーーー愛ってなんだ?
答えてくれる者はいない。
行き場を無くした問いはぐるぐると同じところを回り続けて、結局どこにも辿り着けなかった。
「……わからない」
なんとかそれだけ言って、足場を無くしたみたいに宙ぶらりんになった会話を終わらせる。
教えてあげたかった。
愛とはこういうものだと、高らかに。
いっそ彼女が満足するような、表面的なことをもっともらしく言ってやっても良かったのかもしれない。でも何故かそれはできなかった。
「そっか」
抑揚のない彼女の声は、やはり感情を感じさせなかった。
そのはずが、アルテアには彼女が寂しそうに見えた。
「二人とも浮かない顔してどうしたの?紅茶が口に合わなかったかしら?」
大人しい様子の二人を心配するように母が声をかけた。
「何でもないよ、母さん」
そう言ってから、母に促されるように紅茶を飲み、お茶菓子を食べて、四人で談笑した。
そうして身の内に少しの靄を残しながらも一日が過ぎて行った。