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きっと大丈夫

 空は青く、はてしなく広い。


 賊の捕縛という出来事に巻き込まれることになって数日後、アルテアはリードがたてた計画の元、いよいよそれを実行にうつすため馬車に揺られていた。これから戦いに臨むというのに、アルテアを取り巻く風景は、この十四年で目になじんだものと変わらず日常的だ。頭上には、風に乗って気ままに流れる、白さも形もまちまちの雲が浮かび、眼下には緑の草原が広がり、風を受けて炎のように靡いている。草原が続く街道の少し先には、場違いとも思える鬱蒼とした森林がある。


 馬車の荷台に目をやると、リードは剣の手入れを、ノエルとスレインは魔法談義に花を咲かせ、他の者も談笑や戦の前の腹ごしらえと、思い思いの時間を過ごしていた。

 すぐ隣では、今回の計画の要とも言える先日保護した奴隷の少女──リリネットが、熱心に外の風景を眺めている。


 リードが言うには、此度の賊はここ最近で巷を騒がせているなかなかに有名な賊らしい。貧しいものからは一切奪わず手出しせず、悪どい商いをする商人や私腹を肥す横暴な貴族だけを狙うため、市井では義賊と呼ぶ者も少なくないそうだ。

 話だけ聞いていると、無理やり奴隷を仕立てあげて売りさばく依頼主の商会の方が悪役だと思えなくもないが、賊は商会の人間を殺めているのでどちらが悪とは一概には言えないだろう。


 いずれにせよ重要なのは、賊は確かな基準で襲う相手を選んでいるということだ。そこに目をつけたリードはひとつの策をたてた。

 自分たちがベルグ商会を装い、先日辛くも難を逃れた奴隷の少女を再び売りに出すため、少女を連れて商談の場に移動しているように見せかけようというものだった。

 そのように噂を流し実際に少女を連れて馬車を出せば、賊は必ず狙ってくる。そしてそこを返り討ちにするという算段だ。


 アルテアたちは小さな女の子を利用することに反対したが、絶対に守ると固く誓うリードの言葉で承諾した。

 だがやはり、少女を見ていると罪悪感が顔を出すのか、それから逃げるように、アルテアは両手をぐっと突き上げて伸びをしてから、また空を見上げた。


 ふわふわとした浮雲が、いくつか並んで流れていた。

 あの雲は、いったいどこに行くんだろう。この広大な青は、どこまで続いているんだろう。

 もっと幼かった子どもの頃、よくこんな風に空を眺めながらそんなことを考えていたことを思い出した。

 隣の少女のせいだろうか、彼女と同じ年頃の自分の記憶が蘇る。

 家族との接し方がわからず、一日のほとんどを口を開くことなく過ごしていた時分、しんとした屋敷の部屋で、窓枠に肘をつき、目の覚めるような青空と、流れゆく雲の行き着く先を夢想して、長い時間を過ごしていた。その時だけは、心臓を焼かれるような焦燥も、自分だけが生き残ったという罪の意識も、ほんのわずかにだが忘れることができた。

 青空というものは、アルテアにとって特別だった。


 ──灰色の世界できみだけが、本当の空の青さを知っていた。


 前世では青い空など見られなかった。白く柔らかな雲も、身体を包み込んでくれる暖かな陽の光も、全てが不吉を孕んだ黒雲によって奪われていた。もちろん、知識では空は青いのだと知ってはいたし、記録映像で見たことはあったが、本当の青空を見たことはなかった。リーナというひとりの少女を除いては。

 彼女がどうして本当の空を知っていたのかはわからない。いや。そもそも本当に、本物の空や陽光を見たことがあったのかもわからない。それでも、楽園で無機質に生きる子どもたちに向けて話す彼女の言葉には、本当に見た者でなければ持ちえない熱量があった。少なくともアルテアはそう感じていた。


 空は本当はとてもきれいな青い色をしていること、海と呼ばれる想像できないくらいたくさんの水で満たされた場所があること、世界はもっと広くてわくわくすることに満ち溢れている。

 彼女が語る世界の様相は、彼らが生きる世界とは何もかもが違いすぎていて、でもだからこそ、子どもたちは彼女の言葉に胸を躍らせた。

 春の訪れが積もった雪をゆっくり溶かしていくように、無機質で凍りついていた子どもたちの心を暖めた。

 それは、かつて暦と呼ばれていた少年も例外ではない。彼女の話を聞いてから空を見上げることが多くなった。どうしようもなく黒く煤けた空だったけれど、その向こうに色鮮やかな世界があるのだと思うと、気にはならなかった。空が好きになった。それはアルテア・サンドロッドとなった今でも変わらない。


 アルテアは目を瞑って大きく息を吸い込んだ。少し冷たさを感じる清涼とした空気が、鼻の奥から喉へと通り過ぎ、胸を満たしていく。心地よかった。青空を胸の内にしまい込んだような、そんな感覚だった。だが空の広大さに素晴らしさを感じる反面、悔しさが込み上げることがある。

 アルテアは、かつての世界で仲間を失った。怪物を退けて、いつか青空を取り戻そうと、戦いを終えたら広い世界を見に行こうと、そう誓い合った仲間を救えなかった。それは、前世を覆っていた暗い雲に結びつく。救おうとして救えなかった悔しさで作られた、暗い雲。かつてアルテアの心を覆いつくさんとしていたその雲は、今は消えている。家族や友人と過ごす日常が、彼の心を晴らしてくれた。前世では守り通せなかった幸せのかたち。だからこそ、今世では決して失わない、失いたくなかった。

 いや、自分は既に、ひとつ。取りこぼしているのだと、思い直す。自分の前から去ってしまった少女の姿が目の奥に浮かんだ。


「アルテア殿」


 名前を呼ばれて我に返った。振り向くと、スレインが気遣わしげな顔を向けていた。ノエルも心配そうに眉を寄せている。

 どうやら周りに感じ取れるほど重たい雰囲気を纏っていたようだ。


「何やらただならぬご様子ですが、大丈夫ですか?」


「すみません。少し考え事をしていました」


 そう返すと、スレインは了解の意を示したが、ノエルはなおも心配するような目でこちらを見ていた。長い付き合いなだけあり、何か思うところがあるのだろう。


「ほんとに大丈夫?」


「ごめん、大丈夫だよ。実戦の前だからかな、少し緊張してるみたいだ」


 いかにもな理由を述べ、頬をかきながら苦笑してみせると、ノエルはとりあえず納得したようだった。

 全くの嘘というわけではない依頼内容は賊の捕縛または殲滅だ。相手がなんの抵抗もなくあっさりと捕まってくれるはずはなく、まず間違いなく戦闘になるだろう。激しい抵抗が予想される。かつて魔王と謳われたというターニャに鍛えられたノエルが、そこらの賊に遅れをとるとも思えないが、絶対はない。戦場において死は常に隣り合わせで、死の神はいつでもその鎌を振り下ろす。

 死神の鎌は、刈り取る(えもの)を選ばない。

 前世で人生の大半を戦場で過ごしたアルテアは、そのことをいやというほど知っている。もし、その鎌がノエルに振り下ろされたら。そう考えると背筋が凍りつき、胸が苦しくなる。


「なあに、心配すんな。俺らも腕に覚えのあるいっぱしの冒険者だ。ニイちゃんや姐ちゃんたちにゃ、傷一つだって負わせやしねえさ」


 手入れを終えた剣を鞘にしまいながら、リードが頼もしく言ってみせた。低くよく響く心地よい声のおかげか、彼が言うと本当に大丈夫なのだと思わせてくれる。聞くものに絶対的な信頼と確信を与えるような風格が、彼にはあった。指名の依頼がくる程なのだ、自分が知らないだけで、彼は高位の冒険者なのかもしれないとアルテアは思った。


「リードの旦那の言う通りだぜ、兄ちゃん!あんまり情けねえ顔してると、嬢ちゃんに呆れられっぞ?惚れた女くらいは自分で守らねえといけないぜ!」


「ちげえねぇ、男ならもっと気張ったとこ見せねえとな!」


 ほかの討伐隊の面々も話に加わり、車内は一気に賑やかになった。お気楽にからかいの声を上げる男たちにばしばしと肩を叩かれ、アルテアは苦笑する。


「あの、別に俺とノエルはそんな関係ではないですから」


 一応声をかけるが、その言葉は喧騒に紛れて消えた。

 まぁいいかと、アルテアはため息をつく。そして、自分は勘違いされたままでも構わないがノエルはどうなのだろうかと様子を伺うと、膝を抱えて座る彼女とばちりと互いの視線が合わさって、しかし互いにすぐに目を逸らしてしまう。

 周りの喧騒をよそに、砂糖を溶かしたような甘い沈黙が、皮膜のように二人を包んでいた。その空気にあてられた、というわけでもないだろうが、少女は頬を紅潮させて、


「わたしたちってやっぱり……周りからはそういう風に、見えてるのかな」


 恋人同士みたいな、と途切れ途切れに口に出す。


「まあ、な。同じ故郷の幼馴染みで、男と女が旅をしてれば、そう見えるかも」


「そう、だよね。そう見られても仕方ない、よね」


 自分に言い聞かせるように、あるいは謝るように呟き、少女は抱えた膝の間に顎を乗せた。悩み、罪を告解するような少女の面持ち。そう感じるのは、きっと自分の思い過ごしではないのだろうと、アルテアは思い、同時に、そんな顔をしていったい誰に、とも考える。そんなことは、考えるまでもなくわかっているのに。


 彼女が悩んでいる原因は、ほとんど自分にある。


「俺のこと、まだ好きなのか?」


 不意に、罪悪感が言葉となって零れた。ほんの一瞬、空気が強ばるのを肌で感じ、アルテアは自分の失言に気づいた。これは、あまりに卑怯な問いだった。少女に向き直り、急いで取り消そうとして。


「な、なんでもない!今のは忘れ──」


「好きだよ」


 透明な声が、風が抜けるようにアルテアの鼓膜を揺らし、胸の中へ入り込んだ。

 ノエルは、最初からそうしていたというように、笑っていた。どこか無理をしているような、作り物めいた笑み。胸がずきりと痛んだ。彼女の微笑みが、優しさが、痛かった。


「……すまない」


 たまらず、アルテアは顔を背けた。自分の中の醜悪な部分から目を逸らすように。好きではないと言ってもらえれば、それで気持ちが楽になったのか。好きだよと、でもそれは私の勝手な気持ちだから気にしないでねと、そう言ってほしいのか。自身の愚かさに歯噛みした。

 ノエルの悩みや辛さは、全て彼女の一方的な想いのせいなのだと、そうして彼女に全てを押し付けようとしていたのだ。


「どうして謝るの?」


 笑ったままの表情を崩さない少女を見て、これが答えを得るための問いではないのだと、アルテアは理解した。自らのあやまちを懺悔する人々を導くための、シスターのような振る舞いだ。


「お前の気持ちも考えずにバカなことを聞いた」


「まあ、うん。ちょっとショックだったかも」


 軽く答えているがそれは本当のことだろう。何か言わなければと口を開くが、無数の言葉が口の中で生まれては消え、結局出てきたのはたったの三文字だけだった。


「……ごめん」


「いいよ、謝ってくれてるもん。惚れた弱味ってやつかな」


 ノエルは、あはは、と自嘲気味に笑い、指で頬をかいた。ここまで彼女に気をつかわせていることにいっそうバツが悪くなる。


「ごめん……」


 また同じ言葉。小さな子供だってもっとまともな受け答えをするだろうと、アルテアは呆れを通り越して情けなくなった。


「お姉ちゃんたち、喧嘩してるの?」


 風景を見るのにも飽きたのか、奴隷少女リリネットが二人を交互に見ながら言った。会話の着地点を見失っていた二人にとって、それは渡りに船だった。


「おれたち、喧嘩なんてしてないよ。なあ?」


「うん。ちょっとお話してただけだよ」


 互いに示し合わせたように話を合わせると、リリネットは、そうなんだ、と納得したように言って、タタタっとノエルの方へ小走りし、ちょこんと彼女の膝の上に座った。


「どんなお話、してたの?」


 リリネットがノエルを見上げて聞いた。


「んー。好きなもののお話、かな」


「好きなもの?」


 ノエルを見上げたまま首を傾げるリリネットは、なんとも言えぬ小動物のような可愛らしさがあり、見る者の心を和ませる。


「そう、好きなもの。リリちゃんは何が好き?」


 今度はノエルが尋ねる。


「リリ、好きなものたくさんある。パンでしょ。あったかいスープでしょ。あとね、お馬さんもすきだし……」


 えっとえっと、と好きなものを指折り数えるリリネットは、やはり可愛いかった。


「でもね、一番好きなのは……おねえちゃん」


 リリネットは恥ずかしいのか、小さな手でノエルの服をきゅっと掴んで、呟くように言った。ノエルは大きな目を見開くが、すぐに目尻を下げて膝の上の少女を抱きしめた。


「ふふ、ありがと。私もリリちゃんのこと大好きだよ」


 ノエルに抱きしめられ、リリネットはえへへ、と笑い、服を掴んでいた手を緩めた。それを見て、アルテアは自分が思い違いをしていたのだと気づいた。彼女は怖かったのだ。好意を伝えることが。そして、それを拒絶されることが。

 思えば当然のことだ。幼くして奴隷にされ、悪辣や悪意を受けた少女は、保護した当初、完全に心を閉ざしていた。いや、壊れていたと言った方が正しいのかもしれない。

 彼女は笑うこともなければ自分から言葉を発することすらなかった。目は虚ろで焦点が定まっておらず、こちらの問いかけに首を縦に振るか横に振るかくらいの反応しか示さなかった。出された食事にも手をつけず、ただぼんやりとベッドの上に座っていた。


 ノエルはそんな彼女を献身的に介抱し、根気よく話しかけ、傷を癒し、わずか数日で打ち解けた。

 ノエルには、力があった。人を癒し、救う力だ。それが彼女だけに備わった特別なものなのか、それとも他の人々も持ち得るものなのか、力の正体すら判然としないアルテアにはわからない。


 ただ、ノエルを凄いと思った。リリネットも強い子だと思った。悪辣に晒され心を閉ざし、それでもまた人と向き合い一歩を踏み出すその勇気は、尊敬すべきものだ。

 アルテアは、すぐ隣にいるはずの二人を、急に遠くにいるように感じてしまった。呆然と二人を眺めていると、リリネットが少し遠慮がちに、袖を指の先で摘んでいるのに気づいた。


「リリは、おにいちゃんのことも、好き……だよ」


 少女の言葉に意表をつかれ、数秒の間思考が停止するも、不安そうなリリネットを見て内心慌てて、だが決して表に出さず、アルテアは答えた。


「ああ、ありがとう。俺も好きだぞ、リリ」


 恐る恐る手を伸ばし、リリネットの頭をゆっくり撫でてやると、少女はくすぐったそうに目を細めて、ぐりぐりとアルテアの腹に頭を擦り付けた。どうやら嬉しかったらしい。なんだか猫みたいだなと思い、アルテアはくすりと笑った。そして、あ……、と間の抜けた声を出し、またも自分の愚かさに思い至った。


 そう。本来、好意を伝えるのは怖いことなのだ。それを自分は、自分からノエルに聞いた挙句に、いざ好きと言われたらなんと言っていいかわからず謝って。受けた好意には、謝罪ではなく、もっと相応しい言葉があると昔に学んだはずなのに。つくづく自分の至らなさが嫌になる。


 くしゃくしゃと何度か赤い髪をかき乱し、深呼吸してから


「ノエル」


 少女を呼ぶと、なに?と、やや不思議な面持ちでノエルは首を傾けた。その仕草は、リリネットに負けず劣らず可愛いかった。


「ありがとう」


 なにが?とは聞かれなかった。


 ノエルは花が咲くように次第に唇をほころばせ、ただ、うん、と頷いた。


「いやはや、青春だねぇ」


 密かに成り行きを見守っていたリードが、にやりと笑ってひとりごちた。


「ふん、なにが青春だ。ただの痴話喧嘩じゃろ、犬も食わんわ。まったく、私の存在を完全に忘れおってからに……」


 ただの独り言のつもりが、横合いからぶつふつと何やら恨めしい声が返ってきて、リードはぎょっとなった。


「まあ、そう言いなさんな。若ぇやつらの特権だろ。見守ってやろうじゃねえか、スレインよ」


 そう言ってリードがぽんぽんとスレインの肩を叩くが、当のスレインは怪訝な顔を浮かべていた。


「は……?なんですか、急に。僕は何も喋っていませんよ」


「あん?」


 不思議そうに互いを見やるリードとスレインの近くに、魔導書が不貞腐れるように横たわっていた。

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