『イーリス Ⅱ』
初めての 真っ暗な道を歩くのが怖かった
知らない道でも 先が見えているなら 怖くなかった
帰り道がわかっているなら どんなに暗くても 怖くなかった
初めての真っ暗な道を ひとりで歩くのが怖かった
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イーヴル。人の想念に惹かれて現れる異なる世界の生物。
彼らが根付いた土地には彼らの神の法則が適用される。つまり、私たちの世界の常識が通用しないまさに異界と化す。
私たちの世界が異界に呑み込まれないように、各地に現れるイーヴルや彼らを呼び寄せる人々ーー異端者を処理するのが勇者の使命。
勇者には異界の侵略者を打ち払う女神の加護が授けられているらしい。
はるか昔、神代の時代から連綿と続くとイーヴルとの戦いの中で、勇者は常に最前線で戦ってきた。
時代が変わり、人を変えて、その称号と役目は後世へと受け継がれてきた。
そしてその役目が私に回ってきたということらしい。
私は星神教会の総本山――レミオール聖法国に連れて行かれた。法国についてすぐ、私はリーベルトと名乗った青年と一緒に星神教会の法王猊下との謁見を行い、勇者を拝命した。
その後、教会本部でリーベルトから私のこれからの生活や使命についての様々な説明を受けた。
ひとしきりの説明を受けたあと、本部から私の仮住まいとなる家に案内された。
いや、家と言うにはいささか広すぎた。もはやお屋敷だ。
「ここが当面のあなたの住むところになります。わからないことがあれば何でも聞いてくださってけっこうですよ」
リーベルトが笑みを絶やさない顔で言った。どうやら彼が今後の私の世話をしてくれるらしい。
教育係兼後見人といったところだろうか。
「何かご質問はありますか?」
「とくに……ない」
「そうですか、それはなにより。では、中を少し案内しましょうか」
そう言って彼は笑みを少し深めた。そんなに笑ってばかりいて顔が疲れてしまんないんだろうか。そんなことをふと思った。
少しして屋敷の案内もおわり、これからの生活について改めて説明された。
これからしばらくの間は教会独自の教育機関に通い勉学と勇者としての訓練をしなければならないようだ。それからは毎日、勉強と戦闘訓練を行う日が続いた。
剣を振っている間は何も考えなくていいから良かった。でも勉強はあまり得意ではなかった。
私は文字が読めなかった。どんなに読もうと思っても覚えられないし、意味も繋がらなかった。きっと、自分自身がそれを望んでいないからだ。あの穴の中で、門に刻まれた文字を読んで扉を開いた。
それがきっかけで町の皆はーーお母さんは死んでしまった。
私がそんなことをしたせいだ。
だから、私は文字が読めない。読みたくない。
それでも言葉を聞くことは出来たから、なんとか最低限の勉強はできた。
そうして日々を重ねるうちに、私に最初の任務が与えられた。
イーヴルに侵略された小さな村の解放だった。
少し怖かったけど、リーベルトに言われたように道具に徹するようにするとその恐怖も次第に薄れていった。
初めての任務はあっけなく終わった。
本当に小さな村だった。村全域が異界と化していて、人の姿は残っていなかった。そこにいたのはわずかばかりのイーヴルと、異界化の影響で変質してしまった異端者と呼ばれる人間の成れの果て。
村に足を踏み入れるとイーヴルが襲いかかってきた。
それを剣を一振りして消滅させた。
そして、かつて人だったもののところへと足を進めた。
たぶん、村人だろう。
大きな個体は大人で、小さな個体は子どもだろうか。
もはやイーヴルと呼んでも遜色ないほど変質していて、拒否反応でまともな体をしていなかった。でも、それでも元は自分と同じ人なのだと思うと剣が鈍った。
「……彼らはもはや人ではありません。はやく楽にしてあげるのもあなたの役目です」
「わかった……」
諭すように言うリーベルトに頷き返して、私は剣を振った。
ひとり、またひとりと斬っていった。
そのたびに黒い血が吹き出して、力を失った体がどさりと地面に倒れた。
彼らはイーヴルとは違って体が粒子となって消滅することはなかった。
やはり元は人なのだ。
「ま゛ぁ゛ぁま゛ぁ……」
最後に斬った異端者が、倒れる間際に呻いた。
ママ。
そう聞こえた。
「愚かな化け物の戯言ですよ」
「……ん」
ちゃんと声になっていたかわからなかった。縋るような気持ちで剣を強く握ろうとしたけど、手に力が入らなかった。初めての任務は何度も剣を振るだけでーー本当にあっけなく終わった。
それからはずっと同じような任務が続いた。異界化した小さな村の解放だ。
まだ勇者として日が浅く、なにより幼い私には危険の少ない任務を回していたのだと思う。最初は異端者を斬るのに少しの戸惑いを覚えていたけど、任務をこなすうちにだんだんと何も感じなくなっていった。
私は勇者。私は剣。私は道具。
私は何も、感じない。
勇者。勇者って?
どうして私なの?
時おりそんな疑問が頭をかすめるが、すぐに消えていく。私は勇者として戦う意味も、生きる意味も、何もかもわからないままただひたすら剣を振り続けた。
ある日、リーベルトからいつもと違った任務が言い渡された。
魔力特異点の調査。
場所はスターリアレーゼ王国東端のアーカディア領。
神代の時代から生きる古竜の住まう地。
世界の国や地理は勉強の時に一通り頭に入れてあったので名前を聞いて場所はすぐに思い浮かんだ。
数ある国々の中でも特殊な国の特殊な地域だから尚更だ。
「これは極秘任務……そして教会からは静観せよとの命がありました。仮にイーヴルが現れたとしても決して力を使わないようにしてください」
「……なんで?」
「スターリアレーゼ王国は少々特殊な国……表立っての干渉は他国との関係に摩擦をうむかもしれません。それが勇者なら尚更ね。それに今のアーカディア領には名うての剣士がいます。十分に対処可能との判断です」
「わかった……力は、つかわない」
「よろしい。では、出立の準備をしましようか。アーカディア領には2ヶ月ほど滞在予定です。長旅になりますよ」
「ん……」
リーベルトに言われて旅の準備を整え、翌日の朝にはアーカディア領に向けて出発した。
何の変哲もない村だった。高純度の魔鉱石の原産地という他はこれといって取り立てるとろころない村で、今まで自分が任務で行った異界化した村とあまり変わらない。今は魔鉱石採取の時期ということで、想像以上に村には旅人が多く、私たちが身を隠すにはちょうど良い隠れ蓑だった。
「さて……私は今から領内を巡り魔素の乱れ、綻びを探ります」
リーベルトが言った。顔の周りがぼんやりと霞んで見えた。認識阻害のローブを身につけた彼は存在が希薄で、気を抜けば私も顔を忘れてしまいそうになる。
「わた、し……は?」
「調査地域に指定されている周辺の森には魔獣が跋扈していると聞きます。そんなところを子連れで練り歩くのは不自然でしょう。当面、あなたは好きなように過ごしていて構いませんよ」
「わかっ、た……」
頷くと、リーベルトはローブについたフードを深く被って森の方へと歩いていった。取り残されたような気持ちで、しばらくの間は何もせずにじっと立っていた。
好きなように、といわれても正直困る。
やりたいことなど思いつかない。
どうしようと辺りをぼんやりと見回すと目の端で何かがちかっと光った。
何となく気になってそっちに顔を向けると、また何かがちかちかと光った。
魔法の光だった。
誰かあそこにいるんだろうか。特にやることもなかった私は、その光に引き寄せられるようにそこに向かった。
そして、ひとりの少年と出会った。
目指した場所にはひとりの少年がいた。燃えるような赤い髪の、子供ながらにかなり整った顔立ちをした子だった。その子は私が来たことに驚いたのか、少しぎくしゃくしながら話しかけてきた。
どう答えればいいんだろう。
リーベルト以外とまともに話したことがなかったから、なんて返事をすればいいのかわからなかった。
目の前の少年もどうすればいいのかわからないのだろう。お互いに無言で見つめあっていた。
その少年の空のような、あるいは海のような蒼く澄んだ瞳が困惑で揺れていた。
何か話さないと。
そう考えていると、少年は合点がいったというように手を叩いて何かを探し始めた。やがて地面に落ちていた木の枝を拾い上げてそれで地面に文字を書き始めた。
たぶん耳が聞こえないと思ったんだろう。
文字を書きおわると自分とそれとを交互に指さしてからこちらへ枝を差し出した。私は彼の書いた文字がまるで読めなかったし、枝を受け取ったはいいものの字も書けない。どうしようかと、枝と少年の顔とを交互に見て、やっと決心がついた。
「じ……よめない……」
そう言うと、少年は気が抜けたのかその場で転びそうになっていた。
そのあと、ゆっくりとだけどその子と話をすることができた。その子はアルテアという名前らしい。
一言で言うと彼はとても変わっていた。
歳は私と同じなのに大人びていた。
法国にいたころ、教会の教育機関で何度か話したことのある子たちはこんなにしっかりと受け答えなどできなかった。
でもアルテアの話し方は理路整然としていて、リーベルトと話しているような感じだった。
その日、彼と少し話して次の日も会う約束をした。理由はわからないけど、彼が来て欲しいと言ってきた。リーベルトからは好きに過ごせと言われていたので彼の申し出を受けることにした。
翌日、同じ場所に彼はいた。
私が行くと、彼は手に持ったバスケットを差し出してきた。その中には料理が入っていた。料理をもそもそと食べる私を横目に、彼はおいしいかどうかを尋ねた。
当時の私はおいしいとか好きとかそういう感覚が抜け落ちていて、その質問に上手く答えることが出来なかった。私は思ったことをなんとか言葉にすると、彼は満足そうに、あるいは、安心したように息を吐き出した。どうやら彼が作ってくれたらしかった。
その時、私は胸の真ん中あたりがぽかぽかと暖かくなって、ふわふわと空に浮いているような気持ちになった。
産まれたばかりのころ、お母さんに抱かれていた時の感覚に似ていた。
また食べたい。
そう思い、気が付くと自然と言葉にしていた。
アルテアは少し驚いた様子を見せながらも、また作ると言ってくれた。
それからは毎日アルテアと過ごした。
彼は何か目標があるのか鍛錬に熱心で、いつも剣と魔法の特訓をしていた。
彼の鍛錬するところを眺めて、お昼になると一緒に食事をするのが日課になっていた。
彼の剣術の腕前は勇者として日々修練をつんでいる私から見ても凄まじいものだった。同年齢の普通の子がどの程度なのかは私も知らないけど、それでもアルテアの卓越した剣さばきには舌を巻いた。
魔法も同じだ。魔法に対する知識は深く、全ての属性の元素魔法を使うことができるようだった。召喚法などのその他の魔法も、得意ではないが使えるという話だ。
ありえない。
もはや才能という言葉では足りない。
彼は異常だった。
その異常性に親近感を抱いてしまったのだと思う。
私はふと、彼に聞いた。
「こわくない、の?」
彼はぽかんとしていた。私の容姿が呪いの象徴であることを知らないようだった。今までの様子からもまさかとは思っていたかけど、本当に知らないとは。
このまま黙っていれば、彼には知られずにすむ。
そうすれば仲良くなれるかもしれない。
そう思ったけど、やっぱりやめた。
なんだかずるい気がしたからだ。
私が説明すると彼は困ったような顔をして押し黙った。
やっぱり、彼ほどの人でも呪いは怖いんだ。そう思って、私は遠くの景色を眺めた。その景色に色はない。
「呪いは、こわいな」
彼が言った。
ああ。やっぱり怖いんだ。でも大丈夫。私は何も感じない。色のない世界をぼんやりと眺める私の横で、彼がさらに言葉を続けた。
「呪われたらと思うと確かに怖い。俺はお前の呪いについて何も知らない。知らないことは、すごく怖いことだ」
そう。人は未知のことに関して恐怖を抱く。私のように普通と違う子どもは怖くて仕方がないだろう。
「だけどお前のことを……少しは知ってるつもりだ。約束したことは守る義理堅い一面がある。甘いものが好きだ。甘いものをもらうと少しだけ声が高くなる。何か言いたくても言えないことがあるとき、唇を動かす癖がある。何でも知ってるわけじゃない。でも何も知らないわけでもない。知らないことは、これから知っていけばいい」
……え?
私は耳を疑った。
彼は何を言っているんだろう。
これから?
これからも私と話してくれるんだろうか。
どうして?
私が――呪いがこわいのに。
そんな私の疑問に答えるように、彼は話し続ける。
とても優しい声だった。
「悪いのも、怖いのも、ぜんぶ呪いだろ。お前じゃない。お前を怖いとは思わない」
こわくない?悪くない?私が?本当に?
違う。私が悪いんだ。私が、町のみんなを殺したのだ。私がいなければみんなはーーお母さんは死なずにすんだのだ。
私の髪が普通の色で、目ももっと違った色だったらならお母さんは死なずにすんだんだ。
私がいけないんだ。
私が……。
「実はな……お前を初めて見たとき、きれいだと思ったんだ。それで……いま、お前を見てまたそう思った」
きれい?私が?
彼は何を言っているんだろう。忌み子と言われる私がきれいだなんて。私は思わず顔を逸らして下を向いてしまう。
なんて言っていいのかわからなくてじっと下を向いていると、不意に頭に柔らかい感触がした。頭の上で前後する感触で頭を撫でられていると気づいた。びっくりしたけど、いやじゃなかった。
柔らかくて、あたたかい。
「俺は好きだ。白い髪も、紅い瞳も」
彼の言葉を聞いて、私は自分の胸の中から何かがぽろっと落ちるのを感じた。目の前の景色に色が着いていく感じがした。
地平線から顔をのぞかせた太陽の光が、村いっぱいに広がる麦畑を赤く染めていた。穏やかな風に吹かれてたなびく姿は、まるで彼の髪のようだ。
胸の中から順番に熱いものが込み上げてきて、目の奥が熱くなった。たまらずに上を向くと、雲ひとつない澄んだ空が広がっていた。
きれいだった。たまらなく。
この世界は残酷だ。
人は常に魔獣やイーヴルの脅威におびやかされている。脅威はなにもそれだけではない。生活の立ち行かなくなったものは盗賊身をやつしたり犯罪に手を染め、人を襲うようになる。街から街へ移動するだけでも命懸けだ。
弱者は災厄に見舞われ、蹂躙され、尊厳を踏みにじられ、再び立ち上がることなく絶望し、やがて死んでゆく。この世界は弱者にとって、本当に残酷だ。
でも。
それでも、目の前の光景はとてもきれいだった。
また、空を飛んでるみたいなふわふわした気持ちになった。
それを言葉にすると彼は満足気に頷いた。
私をきれいだと、彼は言った。
私の髪と瞳が好きだと、彼は言ってくれた。
私は望んでもいいのだろうか。
もっと彼と話したい。
もっといっぱい、色んなことを教えてほしい。
だからーー差し伸べられた彼の手を、私は掴んだ。
――――――――――――――
「イーリス、行きますよ」
リーベルトの声で私の意識は引き戻された。イーヴルは塩となって完全に消滅していた。
「……ん、今行く」
答えてから、少しだけ来た道を振り返る。アルと知り合ってから毎日が新鮮だった。知らないことを覚えて、色んなことを感じて、新しい友達もできた。
アル。ノエル。
彼らとの日々が、私に勇者として戦う意味を教えてくれた。生きる意味を教えてくれた。馬車に乗り込んでまた腰を下ろすと、馬車は何事もなかったみたいにゆっくりと動き出した。
その時、こつんとつま先に何かがあたった。
私は視線を下げて足元にあったそれを拾い上げた。
最初にアルと別れる時にもらった小さな単語帳だった。
それは私にとってとても大切なものでいつも肌身離さず持ち歩いている。
不安な時や嫌な気持ちになった時、それに触れると勇気をもらえる気がするからだ。
でもずっと持ち歩いているせいで単語帳はボロボロになってしまっていた。
戦いの際に消失してしまわないように保護の魔法をかけているが、それでも劣化はすすんでいた。
私は黒く汚れてしまった単語帳の表紙を何度か撫でてページをめくった。
一ページにつき何個か、単語の意味や使用例が書いてある。
彼の手書きだ。
そして私が飽きずに勉強できるように、ところどころ空いている箇所には絵が描いてあった。均整の取れた理知的な文字とは反対に、絵はお世辞にも上手とは言えなかった。
それでも私のために彼が頑張って作ってくれたのだと思うととても嬉しいし、彼が四苦八苦しながら絵を描いているところを想像するとなんだかおかしくてつい笑ってしまいそうになる。
その単語帳は優しさにあふれていた。
この小さな本に書いてある言葉はもう全て覚えているし、会話だって上手くできるようになってきた。そういう意味ではこの本の役割はもう終わってしまっていて、持っている必要のないものだ。それでも私はこれをいつも持ち歩いているし、たまに中を開いて読んでいる。
今もそうだった。
過ぎ去っていく過去を偲ぶ気持ちでページをめくり、やがて最後のページまでたどり着く。
そこでいつも私は単語帳と睨めっこするみたいに最終ページを少し眺めるのだ。
この単語帳は未完成だった。
最後のページに書かれている単語だけ、言葉の意味も絵も書いていない。
ほとんど白紙に近い状態だからだ。
最後のページに書かれた言葉は――
「愛……」
ぼそりと呟くと、リーベルトがこちらに顔を向ける気配を感じたけど話しかけてくることはなかった。
愛ってなに。
いつかアルにそう尋ねた時、彼は少し困っていたように見えた。
きっと彼もなんと説明していいのかわからなかったんだと思う。
私自身も上手く言葉にできない。
だけど私は。
――どうして私なの?
その答えを、私は得た。
私は私の守るべき世界を見つけた。私にしかできないことがある。
この世界は、二度と戻らないものが多すぎる。
だから、失くしてしまわないように。
私の好きな人たちが安心して笑って暮らせる世界にするために、私は戦う。
たとえ彼らの気持ちを傷つけることになったとしても。
それが勇者としての私の覚悟。
私は、首元で揺れる紅いペンダントを強く握りしめた。