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侯爵令嬢の穏やかな生涯  作者: 柏鶏子
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サフノフスカヤ先輩

私はそんな大怪我された方を一度も目にしたことがありませんでした。フランセイスの病棟も私の為に個室が用意されており医師や看護師の訪問での診察でしたから一度も私以外の患者とお会いしたこともなかったのですから。

 そのお姿に動揺している間にその方は私を見咎めて、片眉を上げました。私の好奇の視線を感じとって不快の思われたに違いありません。私が嫌に思っていることを人にしてしまうなんて!


「不躾に申し訳ありません」

「良い」


 はっきりと通るお声で制された後、俯きかける私の顎をその方が指一つで上げました。意志の強いお目目とぶつかります。全てを見透かそうとするような、そんな心持がして胸を跳ねらせていると、また何かが面白いのでしょう。口角を上げて質問なさいました。


「ゲディミナス公爵家の縁の者か?」

「は、はい。父は前ゲディミナス公爵から侯爵位を賜りましたアダム・ベルレブルクです。私はその長女、エラ・ベルベルクと申します。先輩」


 その方は私の応答に「なるほど」と鷹揚に頷きました。


「その血が色濃く表れている。…なに、固くなるな。私の名はエカチェリーナ・サフノフスカヤだ。なるほどなるほど、其方がエラ・ベルレブルクか」

「…あの、私の事をご存じなのですか、先輩」

「勿論。なかなか悪い噂が蔓延っているが」


 その言葉に私はかっと顔を赤らめて俯きました。初対面の方に指摘されるほど私は悪いみたいです。それも学年の違う先輩に!

 恥ずかしさの余り涙が滲み出ようとするところに、サフノフスカヤ先輩の声が降ってきました。


「だが、噂に過ぎん」


 顔を上げるとサフノフスカヤ先輩が私と対面する椅子を引き、「さて、同席してもいいかな?」と問いました。私に否やは勿論ございません。

 それにしても、彼女の圧は何でしょう。人を心酔させる魅力、崇拝させ、制圧させる力強さがありました。




「サフノフスカヤ先輩はどうして私がゲディミナス公爵縁の者とご存じでしたの?」


 到底レポートに向かうことが出来ないと考えた私は、早速ペンを置いて抱いていた疑問を尋ねました。サフノフスカヤ先輩は笑いながら「どこの出か顔を見ればわかる。それだけ血が濃いのだ」と呵々と笑いました。


「血ですか…」


 私はぺたぺたと思わず頬を触ります。この髪色や瞳は一族でも今のところ私しかいないのですが。


「色もそうだがな、顔つきだな。フランセイスでもゲディミナス公爵家の者と同じ金髪がいるが、ルーツが違う。一度も血を交わしたこともない家柄なら猶更分かりやすい」


 サフノフスカヤ先輩が微笑し私の髪を一房手に取りました。何だかドキドキします。そんな私をお構いなしにサフノフスカヤ先輩は喋ります。


「それに、余程北方でなければこの色はない。私の国にもいたかどうか。そうなれば“銀の皇女”が有名な帝国の出であり、何よりその顔つきを見れば分かることだ」

「み、皆様そんな芸当が出来ますの?」


 私はその洞察力に舌を巻きました。貴族は社交も必要ですけれど、そこまでの能力が必須なのかしら? 驚いて質問すると、サフノフスカヤ先輩は何でもないように言いました。


「さあ、出来る者は出来るのではないか? 私は皇女として叩き込まれたものだからな」


 二の句が継げないでいるとサフノフスカヤ先輩はもっと愉快そうに笑います。


「何だ、気づかなかったのか? 私はこれでも有名なのだぞ」

「ぞ、存じ上げませんでした…。も、申し訳ありません」

「と言っても、元皇女だ。フランセイスには亡命と、おまけに療養だな」


 亡命、その言葉にピンときました。昔、世界地図を広げたゾフィが教えてくれたことです。




『ルッスィースカヤ帝国に革命が起きましたわ。市民が帝室を斃し、社会主義を掲げました。―――資本の独占が無いようにでしょう。情勢がどうなるか注視しなければなりません』、と。


「サフノフスカヤ先輩は、ルッスィースカヤ帝国の…」

「如何にも。サフノフスカヤ王朝の最後の皇女だ。其方が驚いたこの火傷はな革命の際、城に火が放たれたことで負った。命あっての物種ともいうから私は実に幸運だろう!」


 そう呵々大笑するお姿は心底そう思っておられるようです。しかし私はとんでもなく不躾な言葉を口にしてしまいました。


「お辛くはないのですか? 痛みも勿論ですが、鏡を見るたびに…思い出されるでしょう」


 鳩が豆鉄砲を食らったお顔とはこのことです。ただ異様だったのは言った当人もその顔をしていることでしょう。私はなんてこと口走ったのだと顔を青くしました。咄嗟に抑えた口でどうにか謝罪の言葉を述べました。

 無神経にも程があります。そんな、サフノフスカヤ先輩のお気持を考えず、野次馬根性で質問してしまうだなんて! だから、私は上手く誤解も解けずにこうして図書室で一人で過ごすことになっているのじゃないの。

 反省、後悔しきりの私にサフノフスカヤ先輩は頷かれました。黒レースの細い指を頬にあてて、ふっと微笑まれます。


「何、気にするな。そうさなあ…“政府は帆であり、国民は風であり、国家は船であり、時代は海である”…知っているか? デウチュラントの政治評論家の言葉らしい。帝国には良い評論家がいるな。

 確かにお祖父様の代までは失策続きだったろう。父と母も努力し、より良い船路になるよう帆を張っていたが綻びが誤魔化せなかっただけだ。風はより良い船路を知っている。海をどこまでも渡ってゆくためには帆が邪魔であっただけの話だ。

 故に新しい帆を求めた。古い帆は、風がまだ見ぬ楽園へ舵を切ったことを喜び、海に飲まれぬよう祈るだけだ」


 サフノフスカヤ先輩の流し目にドキリとしていると、「どうだ? レポートの役に立ちそうか?」と仰いましたので慌ててコクコクと頷きます。だって机の上にある本は政治学、レポートの内容はまさにそれなのですもの。 


 「まあ、これしきの事で私の美貌が損なわれることは無い。寧ろより際立つだろう!」と朗らかにお笑いになった後、サフノフスカヤ先輩は話題を変えました。

「さて、今度はこちらの番だな。エラ・ベルレブルクよ。其方何故ここにいる?」

「え、あの、病気療養を目的とした入学者ですから、レポートを書いて単位を取得する特例を利用して…」

「その特例なら私もよく利用しているから十分理解している。そうではなく、私が聞きたいのは今のところ健康そうな其方が悪い噂に塗れて図書室で自習しているのか、ということだ」


 私は瞬きを繰り返して、レポートの文字列を見ました。何でって、何ででしょう。私が訊きたいわ。私は何故ここで人目を避けて勉学に励んでいるのかしら。

 何が最適解か分からないまま重い口を開けました。考えながら言葉を紡ぐのでどうしても途切れ途切れの返答になってしまいます。


「私、人の好奇の視線というものを初めて浴びて、そして口論と申しますか、人を傷つけるような言葉を言いましたわ。それに、いえ、何でしょうか…」

「自分でも上手く説明できないか?」


 私はサフノフスカヤ先輩と目を合わせます。そうです。上手く言葉にできないのです。教会から帰ったあの日の晩はぐるぐると渦巻く怒り、次の日の登校時には羞恥と惨めさが、ヴィヴィアンヌ様とすれ違ったときには…―――


「悲しかったのかもしれません、私は認めてもらいたかったのですもの」

「ふむ。まあ、大方噂は聞いておる。かのヴィトレー家の息女に物申されたとか」


 私は曖昧に微笑みます。もう、ご存じなのでしたらわざわざ聞かなくても宜しいでしょうに。サフノフスカヤ先輩って少し意地が悪うございますのね。


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