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侯爵令嬢の穏やかな生涯  作者: 柏鶏子
25/50

幕間 ベッカと旅立った夜

その後、エスパーヌで採れたトマトと野菜を軟らかく煮たスープと、羊のチーズとパン、チョリソというパプリカで味をつけた豚の腸詰をスパイスで煮た夕食が出されました。エスパーヌの内陸部ですからその特色が表れている料理です。エスパーヌの海の幸も美味しいので、いつか旅行した時に是非、と声を掛けました。

 スパイスを使うのがエスパーヌの料理ですが、刺激の強いものではなく胃腸に負担のかからない料理を要請してこのクオリティなのですからお嬢様もこの旅行を楽しんでくださったことでしょう。

 やはり、お疲れになったようで夕食を食べた後は直ぐに寝てしまわれました。


「お嬢様ったら、あどけないわね」

「ええ、お可愛らしい」


 私はルビーと微笑みあいました。ここで体調を崩されることのないように部屋の消毒や湿度、温度の管理を徹底させます。高級宿であるだけこちらの負担も少なくて済みました。2人しかいないのですから、楽に越したことはありません。


「それにしても、お嬢様が刺繍されたあの餞別の品は見事でしたわね」


 ルビーがしみじみと言いました。そうです。昔はあんなに小さなお子でしたのに、ここまで成長なされました。ひゅうひゅうと青い顔をして横たわっていた子がです。


「ルビーは、皆にお別れを言えて?」

「ええ、昨晩に」

「ああ、あの後ね」

「はい。私も皆にそれぞれ刺繍の栞を渡せましたので良かったですわ」


 私たちはお嬢様に仕える看護兼家庭教師兼メイドとして雇われました。何とも大変な職務でしたけれど、病棟へ移動することも困難な――――移動しても入棟している病人から病気を貰うことは明らかでしたしそれはかえって幸運だったのでしょう―――子供の世話でしたから納得して、ベルレブルク侯爵家の門を叩きました。

 カーラやマリー、ゾフィ、ナディアも同じく門を叩いて来た仲間でした。私たちは貴族家の子女ですから仕えるのなら宮廷や、マリーの様に大公といった尊いお方が一般的です。寄宿学校の高等部で16歳から18歳まで専攻した看護部の出ならば、病棟でしょうか。

 嫁入りを前提に考える方は寄宿学校かフィニッシングスクールを選ぶでしょうが、私たちは下級貴族、そして結婚を期待されず持参金も持たせられないために手に職をつけるよう言い含められてきたこともあり、学で身を立てられるよう専門的な分野へ行きました。


 勿論、そんな方が全てではありませんよ。学問は多くのものに門戸を開きますし、貴族という特権があるので高等部までの生活が当たり前に用意されています。皇族も寄宿学校へ行きますしね。ただ少なからず私たちのような人がいたのです。そして、偶然なことにそんな事情を抱える者たちが集まったのですから固い結束で結ばれるのは当然の成り行きでした。


 お仕えするのは尊い血を引いた「銀の色合い」の子です。教本でも何度も見るあの「銀の色合い」。初めてお会いした時はお嬢様は5歳で、可愛らしい女の子でした。

聡い割にはおっとりとしていて、柔らかな雰囲気を持つ子供です。どこにでもいそうな、何の変哲もない可愛い子。

 侯爵家ですからお嬢様に与えられた自室が狭いわけありません。ですが、そこから出られないとなると言えば、あまりに狭い世界であることはお判りでしょう。そこに私たちは何かしらを見出したようでした。ある者は己の過去を、ある者は憐憫よりも強い情を。

 皆奮起しました。看護の意志を固めて日々に臨みました。

 ハウスメイドやキッチンメイドとは違う職務で監督をするだけですからそこは楽で助かりましたが、お食事の献立から何までの手配や備品の準備、教材の選定といった病棟勤務ではなかった職もありましたわ。

それに四六時中、消毒薬に触れているとなると赤くなり、切れたそこに沁みることもあり、皆で軟膏を分け合い手に塗って誤魔化すこともままありました。お嬢様の子供の柔らかなお手手も赤くなってしまった事が一番胸に来ましたので、こんなことに泣き言をいうものはいませんでした。


 どんどん痩せていき、骨と皮ばかりではという状態になり、いつも柔らかく笑っていたお嬢様はそこで初めて、苦労を滲ませたお顔をするようになりました。それを報告書に書きつけることが苦しかった。自身で言葉にすればそれが刃物となって私の胸を刺しましたし、報告書を読み涙ぐむ旦那様方を見れば不甲斐なさと、自身のせいだとお門違いにも罪悪感を持ってしまうこともありました。

 一時期は、毎朝、高等部時代に擦り切れるほど読んだ教本を繰り返し復唱しました。


 辛いのはその不幸に見舞われた方、頑張らねばならないのはその方。

 私たちは神ではない、思い上がるなつけあがるな。

 目の前のことに懸命に従事せよ。


 時折、お嬢様はうわ言を言いました。吐血して意識が朦朧としたときに、私たちへのお礼の言葉と、この血のシミはきちんと消えるかしら、という小さな疑問です。それで繋ぎとめられているような心地がしました。少しズレた心配を上の空でする、その何とも言えない気の抜けたところで、私も冷静になれたのでしょうね。


 お嬢様が日に三度吐血した時は肝が冷えました。ベッドシーツやお洋服を変えて、吐瀉物の清掃をして、盥を持って往復して、消毒された予備の盥を持っての繰り返しです。その徒労感より私たちを襲った深刻な問題は、まさに風前の灯火となっているその命をどう支える繋ぎとめるかという現場の緊張感でした。

ずっとその糸が張り詰め、それが夢に出てくることもありました。皆が目の下に隈を拵える日も珍しくありませんでした。

 時には訳もなく泣き出すものもおりました。実家の事やお嬢様の事、職務の事で心がかき乱されるのでしょう。その時は話を聞いて、ココアを入れて、そして無理やりにでもベッドへ送り返すのです。皆が皆、お互いを信頼し支えにしておりました。


 お嬢様に心配させまいとその日はマスクを顔全体まで覆う気持ちで装着しました。化粧で隠そうにも化粧を部屋に持ち込むわけにはいかないから出来ませんからね。

その日の業務を終えれば、直ぐに部屋で温めたタオルを目に当てていました。お互いに肩や指の先を揉んでいましたね。このマッサージが上手いマリーとゾフィは張り切ってましたっけ。蝶のように部屋を飛び回っておりました。

 私はココアを作って配る係です。若い子は元気だわ、と一番年嵩の私はそれを見ていました。

 私たちの部屋は、二つありました。一つはお嬢様のベルの音を待つ待機部屋とそれに続く生活をする部屋です。使用人たちが寝起きする部屋だとお嬢様にいち早く駆けつけることが出来ないので、客間の一つを改装した部屋です。6人共同の部屋ですが特に不便はありませんでしたね。

 真夜中、いつもは交代で寝て起きてとお嬢様のお部屋へ行っていましたが、次第に起きれるものはストーブの前で刺繍をしたり、ぽつぽつとおしゃべりをして時間を潰すようになりました。冬の寒い夜はこの時間が癒しでした。

 


 お嬢様が隣国へ渡るという決心を為された日の夜も皆がそれぞれ刺繍や読書をして、ぽつぽつと会話をしておりました。


「丁度、良かったのかもしれないわね」


 そう言ったのは誰だったのでしょう。誰からともなくそんな言葉が転げてきました。


「カーラはどうするの?」

「この機会だもの。お暇を頂いて、領地へ帰って、婚約者と結婚するわ」


 実は私たちは、だれがお嬢様に付いてゆくかつい少し前に旦那様に訊かれたばかりでした。挙手をしたのは私とルビーでした。他の者は迷っておりました。いえ、もう答えは決められていたのかもしれません。そのことと自分の意見を天秤にかけて、その時は沈黙を選んでいたようでした。


「私、この職に従事したいと思ったの。本当よ」


 言い切ったカーラはむ、と口をへの字に曲げて鋏を取り出しました。刺し損じが多かったのでカーラの傍らにはいつも鋏がありました。バイオリンはあんなに器用に弦を押さえるのに不思議です。


「私もよ。だから、お嬢様にお仕えしたの。命を賭してでも看護にあたって元気になってほしかったのよ」

「命を賭して、だなんて、きっとお嬢様はお喜びにならないわよ」


 ナディアがカーラの言葉を繋ぎ、マリーがそれを笑います。ランプが彼女たちの顔をぼんやりと照らしていました。


「なのに、私たちの人生は私たちでは決められないなんて、皮肉よね」


 こんなんじゃ、何のために勉学に励んだのか。それなら学なんていらなかった。物を考える頭なんていらなかった。自由に生きるためだと思ってのことだったのに。

 吐き捨てられた言葉は彼女たちの総意でした。

 そこへ、先ほどまで机に向かっていたゾフィが輪に加わります。ゾフィは書き上げた論文を手にしていました。


「完成したのね」


 マリーがゾフィに気づき、笑いかけました。輪に迎え入れようと顔を上げた先にあったのは、ゾフィが目にいっぱいの涙をためて、それを流すまいと口を横に引き攣らせていた顔でした。

 そのゾフィが、捻りだすように喋ります。


「私は、貴方たちに会えて良かった。だから、身に着けたものをそんな風に言わないでよ。貴方たちがいたから、この論文を、か、書き上げるっ…ことがっ…」 


 ゾフィは三人へ言葉をかけようとしましたが辛抱利かずボロボロと止めどなく涙を流します。ナディアとルビーがゾフィの肩を抱きました。年の頃が近い三人は話が合うそうで仲良くしていましたから、お互いを理解できるだけに余計辛かったでしょう。

 マリーは私へ顔を向けて、微笑みました。


「ベッカ、どうかお嬢様をよろしくね。フランセイスには優秀な医師がいると言うしあまり心配はしていないけど」


 私は頷き、マリーの頬を撫でました。マリーは「私は素敵な奥方になって、貴方が訪ねてくるのを待ってるわ」と茶化しました。

 私がお嬢様に同行でき、家の事情に巻き込まれないのは私が幸か不幸か婚約者に死なれているからです。あとは、持参金を持たせられないという理由。私は二女ですが、上にはあと5人兄弟がいるのです。条件のいい婚約者に死なれたらどうにもならないと両親は匙を投げました。まあ、兄や姉が無事に他家に嫁げたので上々だと考えたのでしょう。


 ルビーは元が領民です。篤志家の方に養子に迎えていただきましたが、結婚は求められておらず、その義務もないために同行できました。家名を持ったままであるのは、それで高位貴族とつながりが持てたら儲けものだということでしょう。ルビーは「もとは領民だ」という旨の自己紹介をするよう言われているそうですから。

 


 旅立ちを控えた昨晩もまた皆で語り合い夜を明かしました。特別、別れの話はしていません。いつものような他愛もないお喋りです。

 そして今、お嬢様が健やかに立てられる寝息が同じ部屋にあることが新鮮で、旅行に年相応にはしゃがれていらっしゃる様子が微笑ましくて、どうにか私たちに心を尽くそうと餞別の品までご用意されていたことを報告したいと思いました。

 それを聞いてくれる友人たちがいないことが寂しい。久々に夜の静けさに包まれました。

 いつかは、この寂しさになれるのでしょうが、それはいつになることやらと隣にいるルビーを見やると、どうやらルビーも同じことを考えていたようです。私たちは、眉を下げて微笑んで、そして明日の日程を確認するのでした。



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