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侯爵令嬢の穏やかな生涯  作者: 柏鶏子
20/50

マリー

マリーは身内の不幸がありました。長兄が亡くなってしまわれて次兄が後を継ぎますが、元は分家に入る予定だったそうです。当主様は次兄の才を認めていらして、分家に入れて興そうと考えていらっしゃったそうですが、此度の不幸で流れてしまいます。

ですが、どうしても分家の関係をより強固にしたいと考えてらっしゃっているので、いまだ未婚のマリーに白羽の矢が立ったというわけです。マリーもその才が十分にあり、婚姻が望まれております以上生まれてくる子のためにもここでお暇することとなりました。

 マリーは25にもなりますのに、くりくりとした大きな青目はまるで少女のようです。髪を出すことが出来れば、それは張りのある黒髪が靡いてよりそれらしく見えるでしょう。

小柄ですから、てきぱきと仕事を熟す姿を見ているとまるで踊っているみたいだと思うことがありました。でも、マリーはダンスが苦手らしいのです。


「私、運動がさっぱりでして。お恥ずかしながら」


 マリーは肩を竦めて、教本を見ました。


「算術の方がずっと簡単なのですわ」

「私は算術の方が難しいわ。マリーは凄いのね」


 ノートに書いた答えをマリーが指差し、トントンと教本を交互に叩いて見せます。そこで計算過程の間違いに気づき、私は出した答えに斜線を引いて計算をやり直しました。


「算術のコツはあるかしら?」


 私が訊くとマリーは少し考えて、関係ないかもしれませんが、と切り出しました。


「良く父に強請って、遠海への漁業監査へ付いてゆきましたわ。平行線に浮かぶのは幾つもの船と、網にかかる大量の魚、おこぼれを狙う海鳥が舞っていて…それを眺めたものです。目に映る全てのものを数えていくのは楽しかったですわ。ああ、そうですわね、結局父に『付いて来たのなら手伝いなさい』と書類仕事も任されたのでそこで鍛えられたのでしょう」

「マリーならではね。私、庭を眺めても咲いている花を一輪一輪数えようなんて思わないもの。すごいわ」

「ふふ、お嬢様ったら褒め上手なんですから。でも、女主人ともなれば備品の数や招待状の把握、にとっても役立つんですよ。ね、頑張れる気にもなるでしょう」

「まだまだ先だわ」


 私は笑いました。マリーは気が早いわ。算術が女主人の仕事に大いに役立つならマリーはたちまち評判の貴族夫人となるでしょう。


「ねえ、マリー。貴方が他に女主人になったら何をしたいかしら」

「まあ、何ですかお嬢様、藪から棒に」

「うふふ。マリーが目標にしていることを聞きたいわ。そうしたら、それを目標に私も算術をもっと頑張れると思ったのよ」

「可愛らしいことを仰いますわ。そうですわね、お嬢様は昔からちんまりとして可愛らしくございました」

「もう、止めて頂戴な。恥ずかしいわ」

「まあ、大きくなられましたけれどマリーにとってはいつまでも可愛いお嬢様ですわ」


 マリーは下に妹たちがいて良く面倒を見ていたと語っていました。そのせいでしょうか、私を小さい子のように扱うと言いますか、必要以上に「可愛い」と褒めるのです。

昔ははにかんでばかりの私も、この歳になると流石に恥ずかしくなってまいりました。マリーは揶揄っているのか本気で言っているのかよく分からないのです。どっちでも恥ずかしいことに変わりありませんけれど。

 マリーは頬に手を当てて考え込みます。小首を傾げて頬に手を当てる癖も相まって、益々少女めいて見えます。


「そうですねえ…。私は、私の子供の算術を見てあげとうございますわね」

「家庭教師に任せないのね」

「ええ、だって、そうすれば可愛いお嬢様の事をいつまでも思い出せるじゃないですか」


マリーの笑顔に、私は呆気にとられてしまいました。そんなことを言うなんて予想外で、胸がきゅうきゅうと締め付けられるようでした。

 あまりに不意なことで、この感情の落としどころも分からず、私ははにかみながら茶化してしまいました。


「その為には算術をいつまでも得意でいなくちゃいけないわね。大変だわ」


 マリーは目を月のように弛ませていました。返事もなく見つめているのですから私は居心地が悪くなり尋ねました。


「…マリー?」

「はい、お嬢様」

「…何か、怒っていて?」

「いいえ、とんでもありません」

「では何故黙っているのかしら?」

「はい、お嬢様は本当に可愛いとしみじみ思っておりましたの」


私は、今度こそ揶揄われたんだわ、と拗ねてそっぽを向くと、マリーは教本で顔を隠しながら、くすくすと肩を震わせました。


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