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侯爵令嬢の穏やかな生涯  作者: 柏鶏子
15/50

お兄様は2日おきには必ずお手紙を下さいました。私はそれを毎晩心待ちにしていて、何度も何度も反芻して過ごす時間は幸福でした。歩く速度も、最初に比べれば本当に少しだけでしょうが早くなったと思います。膝や太腿の凝り固まった筋肉もだいぶ解れてきたようでした。

 マリーから、お兄様は二週間の滞在になると聞いておりましたので、指折り数えていると今晩がお兄様といれる最後の晩でした。明朝には発つと聞いていましたから、私はいよいよ今晩しかないと決心しました。

 夜中にお兄様の足音が聞こえてきます。私は杖を手にドアの前まで行きました。

 ドアの近くまで口を寄せ、他の者にばれないように小さな声で呼び掛けました。


「お兄様」

「エラ?」


 久しぶりに鼓膜を揺らすお兄様のお声は記憶より低くなっておりましたが、それでも変わらずお優しい響きを持っていました。


「エラです、お兄様。お久しぶりです。私、お兄様とお話がしたくて」

「エラ、体は大丈夫?」

「お手紙のおかげで私、元気になってきましたの。昨日は吐くこともなくて、一皿の粥ですけれど食べきることができてベッカ達に褒められましたのよ」

「うん、聞いているよ。快方に向かいそうで良かった」

「ねえ、お兄様。私、寂しかったわ」

「うん」

「でも、悪い子だったわ。いつも私の世話をしてくれるベッカ達に、お礼を言えてなかったの」

「うん」

「本当は、お喋りするのはそこまで疲れないの。一言だけならなおさらよ。でも、どうしても言いたくなかったの、感謝しているけれど…ベッカ達が悪いことなんか一つもないのによ」

「うん」

「すごく、すごく私が私の事を嫌いになった時、お兄様のお手紙でちょっと私の事が嫌いな気持ちが減ったわ」

「そうなんだね。でも、エラは悪い子ではないよ」


 私は涙ぐんだ眼をドアに向けていました。お兄様は一拍置いて囁くように語り掛けます。お互い見えていないのに、通じ合っているような心地がしました。


「寄宿学校はね、一人で何もかもやるんだ。着替えも身の回りの準備も全部ね。最初はできなかったけど、できるようになったら嬉しかったし、周りの誰もできないままでいたいなんて言う生徒はいなかったよ」


そこで、ふっと一層柔らかなお声で言われました。


「だから、エラが自分の事を自分でできない不甲斐なさはごくごく当たり前のことで、それで恥ずかしくなってお礼が言えないのも分かっているよ」


その慰めの言葉の後、「まあ、お礼はやっぱりした方がエラの気分も良いよね」と悪戯っぽく笑うものですから、私も「そうですね」と笑ってしまいました。


「お兄様はご自分の事はご自分でなさるのね。ご立派だわ、素敵だわ」

「エラは僕のことになったら何でも褒めてくれるね。言っておくけど、もう13歳、中等部の2年生だよ。同い年で出来ない方がおかしいくらいだ」

「お兄様はもう13歳…」

「そう、そしてエラが9歳」

「きっと…きっとお兄様はかっこよくおなりになっているのでしょうね。皇子様方より物語の王子様のようでいらしているはずだわ」

「恐れ多いな。でも、エラは変わらず可愛いのだろうね。一番の真珠が欲しいなら世界中の人々が捧げに来るだろうし、馬で駆けようものなら君を喜ばせる為にペガサスになるかもしれないね」

「…お兄様、寄宿学校ではそんな言葉もお勉強なさるの?」

「ははは。勿論、可愛い淑女にかける言葉はマナーの初歩だよ」

「ふふ…うふふふふ」


 心底愉快で、長いこと使われなかった頬の肉が引き攣るように痛かったのを覚えています。私が昔に送った手紙の内容も覚えてくれることも嬉しくて、こそばゆうございました。


「お兄様、明日はお気を付けになってね。そして…冬期休暇の際には、また、その、こうして…」


 9歳にもなるのに、指を絡める仕草をしてしまって、何と子供っぽいことか。ドア一枚隔てていることをこの時ばかりは有難く思います。お兄様にもご都合があるのに、私のお願いをさらにさらにと強請るのはやりすぎだろうかと、ぱたぱたと動く爪先を見たときでした。


「帰省する機会があれば、またこうして僕の声を聞いてくれるかい?」


 お兄様のお言葉がじわじわと口を緩めさせていきます。私は「勿論です」なんて、少しすまして答えてしまったことがまた気恥ずかしく早々におやすみなさいと挨拶をして、ベッドへ戻りました。


 明日、明日からまたベッカ達にありがとうと伝えよう。

 お母様やお兄様が大事にしてくださった食前のお祈りもしよう。

 私に出来ることから、もう一度始めてみよう。


 私は寝返りをまず最初にやらなくては、と横向きになりました。ドアの隙間から明るい廊下の光が煌々としていることが分かります。仄かに体が温かくなってきたように感じて、目を瞑るのでした。

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