狼と飼い猫の地球儀
第一部『cursed_rain』
第三章 『ロクでなし魔術講師と禁呪詠唱』
あるところに一匹の猫が居た。
……いや。
彼女が本当に猫だったのかは人によって意見が別れるところかもしれない。
その猫は、少々普通の猫とは異なる特徴を持っていたからだ。
違いを上げればキリがないが、何よりもその猫は、普通の猫よりも遥かに優れた知性を持っていた。
少なくとも人語を理解出来る程度にはその猫は利口だった。
だが、周囲の人々は彼女をただの猫だと思っていた。
そして、普通の猫と同様に扱った。
それは彼女にとって、『最悪』では無かったのかもしれない。
人々の猫に対する扱いとはそれほど悪いものではない。
猫は大事な家畜であり、場合によっては貧乏人よりも立派な食事にありつけることもある。
彼女が本当にただの猫であればその生活を幸福に感じたかもしれない。
だが、彼女の知性はそれを拒んだ。
猫と同様の扱いを拒んだ。
ある日、彼女は自分が飼われていた屋敷を抜け出そうとした。
富豪の屋敷だった。
屋敷には大量の私兵が配されていた。
屋敷から抜け出た猫はすぐに元の場所へと連れ戻されることになった。
飼い主は彼女を可愛がっていたから暴力をふるうようなことは無かった。
その代わり、彼女は鉄の檻の中へと閉じ込められることになった。
屋敷の中庭に置かれた檻は決して狭くは無かった。
一般的な私室の十倍はある広々とした檻だった。
日当たりも悪くない。
冬の寒さを凌ぐ毛布も置かれていた。
だが……鉄格子から先へは一歩も出られなかった。
猫は毎日ガリガリと鉄格子を引っ掻いて暮らした。
飼い主達が居ない時を見計らって、一本の格子を執拗に掻いた。
少しずつ、少しずつ、格子の根本が細く削れていく。
いつかは折れるはずだ。
それが猫にとっての唯一の希望だった。
……ある日、飼い主達の一人が鉄格子が傷ついていることに気付いた。
気付いてしまった。
そして、飼い主は『リメイカー(魔術師)』を屋敷に招くと檻の前に案内した。
リメイカーがほんの数言ぶつぶつと呟くと、格子の下に輝くリメイクサークル(魔法陣)が出現した。
サークルが消えた時、鉄格子はまるで新品そっくりに修復されていた。
猫の数年の苦労は全て無に帰した。
猫は絶叫して倒れた。
頭が痛かった。
猫は自分の脳に傷が入るのを感じた。
「誰か……助けて……」
猫のか細い鳴き声に答える者は誰も居なかった。
……少なくとも、その時は。
……。
脳に傷を負ったことで猫は少しだけ檻の生活が辛く無くなっていた。
疼痛のような衝動は有った。
だが、それは無駄なものだとも思っていた。
願っても決して叶うことは無い。
叶わない願いに意味など有るのか。
猫は諦めの中に居た。
ある日……。
……変化は唐突に起こった。
その日は猫の飼い主が檻の中を訪れていた。
時刻は夕方。
夕食までの時間を猫でも可愛がって過ごそうかということだったのだろう。
何が楽しいのか、飼い主の男は猫の頭を執拗に撫でた。
男はよく肥え太った手に大きな指輪を嵌めていた。
指輪でごりごりと頭皮を圧迫されるのが猫にとっては不快だった。
だが、耐えきれないほどではない。
外へ出られないことの方がよほど辛かった。
そしてそれは考えても仕方のないことだ。
いつもと変わらない日々。
どうしようもない日々。
そう思っていた。
だから、それは本当に唐突なことで……。
しばらくの間、何が起こったのか認識出来なかった。
辺りに『血の匂い』が充満してようやく、猫は男が死んだのだと気付いた。
猫の目が地面に転がった男の首を捉えた。
よほど上手く切り裂いたのだろう。
首の断面は滑らかだった。
頭部を失った男の身体からぴゅーぴゅーと血が噴き出していた。
血の飛沫は猫の身体にも降りかかっていたが、彼女にはそれが気にならなかった。
それよりもまず、血の噴水の向こうに見える人影に釘付けになった。
夕闇のせいでその人物の姿ははっきりとは見えなかった。
「……誰?」
猫は問うた。
「驚いた。猫が言葉を話すのか」
人影が声を発した。
男の声だった。
「ごめんなさい」
猫はなんとなく頭を下げた。
後になって考えてみると謝る必要性など無かったが。
人影もそう考えたのだろう
「どうして謝る」
そう言った。
人影の両手には二本の光る短剣が握られていた。
「あなたは誰?」
猫は再び問うた。
「俺は……」
「狼だ」
人影はそう答えた。
「狼……?」
猫は狼という動物を初めて見た。
その姿は話に聞いていたものとは異なっているように思えた。
狼と名乗った彼の姿はどう見ても人にしか見えなかった。
やがて血の噴出を終えた飼い主の死体がばたりと倒れた。
二人の間を阻む物は何も無くなった。
「一緒に来るか?」
男が尋ねた。
「良いの?」
「ああ。ただし、条件が有る」
「条件?」
「俺と一緒に来るのなら、お前にも狼になってもらう」
「狼? 猫なのに、狼になんてなれるのかな?」
「なれるとも。お前がそう望むのなら」
「そっか……。なりたいな。狼に」
うん。なろう。
狼になろう。
猫はそう決めた。
「なるよ。どうすれば良いのかな?」
「悪しき言葉を操る人々を殺せ」
「人を……?」
「俺はそうして狼になった。お前も狼になりたいのなら殺せ」
「うん」
「人を殺すね」
猫はにっこりと微笑んだ。
「そうか」
男は歩き出した。
檻の鉄格子の何本かが切り裂かれていた。
二人はそこから檻を出た。
そして……猫は狼になった。




