1-8 まあ、考える度に思うのが…あれは、化け物だってことだな
勇者は扉を叩いた。
コンコンコンコン
一応、部屋の主を訪問するときの作法に則り、四回の叩音だ。が、反応はない。
「昨日と一緒だな」
「そうですね。…でも、今日は約束をしていませんわよね?」
「来ないとも言ってないからな」
あっさりと答えた勇者に、レディは深くため息を吐く。
「お疲れかもしれませんよ?」
「かもしれんが、時間は有限だ」
「ええ、ええ有限ですわね。ーーだからと言って、結界破りは無礼にもほどがあります」
昨日に引き続いて扉を開けようとする勇者を、レディが制する。勇者が彼らの元に行くというから、念のために付いて来たのだが、正解だったようだ。
「ん? でも、別に結界には引っかかった様子、ないぜ?」
「え…あら」
勇者の言うとおり、結界に触れた様子…というか、扉自体も、結界で仕切られている様子がないのだと気づく。
「…結界なしに、妖皇宮で休むような方でしたかしら?」
「妖皇の能力には敵いっこないから、諦めたんじゃねぇの?」
「……え……ああ…」
レディはとりあえず、口を噤んだ。レディには可能だが、確かに今のフェネクスでは不可能な話である。が、元筆頭である彼は当然それを承知しているので、わざわざそんな無駄なことはしないだろう。
…となれば、誰のための結界かなど分かりそうなものだが、素で気づかないというのも、勇者たる所以だろうか。などと思いながら扉を注視する。
鍵がかかっているわけでもないし、開けても良さそうだが、主の返答がないのであれば遠慮するべきだと、礼儀では弁えている。…しかし、彼に対して既にその必要はないと、本人から太鼓判を貰ってもいる。まして今、…彼ではなし。
「参りましょうか。仮縫いもございますし」
それは半分言い訳だが、ここで待ち惚けというのも否としたレディの言葉に、勇者は何の遠慮もなく扉を開けて、部屋に踏み込む。
「ふぎゃっ!?」
勇者が叫んだ。ビシバシと、かなりの強さで何かの攻撃…どうも、雷撃を食らったらしい。
ダメージはなさそうだが、髪が一部、帯電して…中途半端に浮いている。
「…ああ、侵入者対策の結界にされたのですね。道理で扉に何もないはずですわ」
目を細めたレディが苦笑する。
おそらく、踏み込むなという意思表示なのだろう。勇者相手の結界が無駄だから、敢えて室内に入ったら効果を発揮する罠を仕掛けたのだ。それも、最初に踏み込むであろう勇者だけを相手取って。
勇者はビリビリすると腕をさすっているが、跡もない。警告程度の威力のようだ。しかも、おそらく。
「うぎゃっ!?」
「…それくらい気づきなさいませ」
レディは額を押さえた。警告一撃で終わるような優しい罠で、彼がお茶を濁すはずがない。同じような罠か、もっと面倒なものを続けて仕掛けると考えるべきなのに、この勇者はまた、引っかかった。
しかし威力は変わりないらしく、やはり腕をさするに留まっている。
「…あの、レディ」
「なんでしょう?」
真剣な目で自分を見つめる勇者に、溜息を付きつつ先を促す。
「この罠、…あといくつある?」
「たくさん、ですわね。あと、…一撃で終了というわけではないようですわよ?」
げ、と顔色を変えた勇者から一歩を引いて、レディは廊下から扉を閉めた。
淑女にはあるまじき行為だが、勇者の巻き添えを食う気はなく、また彼を守る結界を展開するのも、あれを考えついたフェネクスに悪いような気がしたので、放置を決め込んだのだ。
どうせ、大した迎撃術は籠められていないし、怪我をするとも思えないし、それならそれでフェネクスが治すだろうから、問題にはなるまい、と。
扉の向こうから、ダダダダと何か連発されているような音が聞こえ、勇者の悲鳴も幽かに聞こえたような気がした。が、それだけだ。
流石というか何というか、この妖皇宮の防音は素晴らしい。……何のための防音かは知らないが。
音が鳴り止んでしばらくしてから、レディは扉を叩く。
トントントントン
「中へどうぞ、レディ」
「では、失礼しますわ」
フェネクスの応えを確認出来たので、安心して室内へ入る。…そして、その惨状に思わず口を押さえた。
「あらあらあらあらまあまあまあまあ」
今にも笑い出しそうな声音でレディが呟く。
そこには、とてもカラフルに彩られた勇者が、悔しそうに拳を握りしめている。これは今までにない迎撃戦法だ。
部屋の主はと寝台を見れば、寝間着姿のままで呆れたように勇者を見ていた。
「おはよう、レディ。…被害がないようで、何より」
まだ眠い、とフェネクスが伸びるその隣に、メモリアの少年が見えた。
「おはようございます、フェネクス。…アヴィはまだ、お休みですか?」
「ああ…夜中に少し、な」
勇者が何かを言いたそうに二人を見るが、気づきつつも放置するのはお手の物である。
「これ…絵の具ですの?」
「絵の具というか、染料だな。部屋全体に薄い膜を張って、被害は受けないようにしたけど」
「ああ、それで…」
勇者だけがカラフルで、周囲に被害はない。眠っている間用の結界だろうに、ずいぶんと器用な真似をするものだと、レディは内心で笑っていた。
「ありかよこんなの」
ぼやく勇者をよくよく見れば、どうやら飛沫を浴びまくった結果のようだ。しかし、ここまで見事となると、相当な数の仕掛けが必要なはずだが、わざわざ用意したのだろうか?
「結界が破られるごとに染料玉を何発か。で、その染料が次の結界に触れると破られたと判断して更に発射するようにしておいた」
「ああ、連動式にしましたのね。でも、染料玉が勿体ないですわ。貴方のものが一番いい発色ですのに」
「そこかよ!?」
「ええ。毒というわけではありませんし。怪我らしい怪我もないようですし」
「食べれば腹は壊すけどな。まあ、旧すぎて変色しかけてるから、使い道もなくてな」
言われてよく見れば、たしかに鮮やかとは言い難い色が多いように見えなくもなかったが、それにしてもカラフルである。
心配する気のない二人は溜息だけで諦めて、情けない顔で染められた衣服を見る。…実は顔もけっこうなことになっていて、レディはかなり笑いをこらえていることに気づきはしたが、まあ実際、他人の部屋に押し込んだのは彼自身である。何も言えないし、言っても左記の通りに流されて終わるだろう。
「とりあえず、風呂借りるぞ」
「ないぞ」
「何言ってんだよ、続き部屋にあったじゃん、前に借り」
ごぃん、と音がして勇者が固まった。
記憶に従って開けた扉の向こう側は壁だったから。
「~~!?」
「妖皇に部屋ごと連れてこられたんだよ。この部屋だけな」
言わなくても気付けよと、フェネクスは呆れ顔だ。
この部屋の内装はフェネクスの屋敷そのもので、妖皇宮の作りとは一線を画している。普段からここで暮らしているのに、何故その程度、予想がつかないのだろう。
「諦めて自分の部屋で入ってくるんだな。オレの洗浄術でいいならやるけど」
「あれ生き物用じゃねぇだろ!?」
ああ、とフェネクスが頷く。彼の言う洗浄術は、染料を作るときに不要な成分を除去するものだ。それの応用で染料部分を除去することが出来るのだが、…まあ、生物用ではないので、結果がどうなるかは見てのお楽しみとなっていて、今までにそういう用途で使われたことはない。
「いいよ、部屋で入って来るよ。あーもう、なんでこんな目に…」
「他人の部屋に強引に入り込むからだ!」
「あなたは自業自得という言葉を、そろそろ理解するべきですわね」
ぼろぼろの勇者に追い打ちをかけた二人は、彼がいなくなってようやく、息を吐いた。
「相変わらずだな、彼奴」
「ええ、変わりませんわね」
とりあえず起きるかと、フェネクスは寝台を降りた。床に足を着くと同時に、ドレスへと装いが変わる。
「…よい出来ですわね」
「ーーお褒めに預かりまして光栄至極」
茶化したように答えるが、感心しているレディに、少々居心地が悪そうである。
「それで、今日の用件は?」
「今は特にありません。勇者の暴走を止めようと思っただけですから」
「止めてくれ、だったら」
「無理なことがはっきりしましたので、今後は控えますわ」
「…そうか、覚えておこう」
澄まし顔のレディに敵うものではないしと、フェネクスはそれ以上の追求を控えた。手綱を握っているはずのレディに諦めさせるとは、勇者恐るべし。…などとは、口が裂けても言わないだろうが。
「…アヴィ?」
ふと、フェネクスが彼を見た。いつの間にか目覚めていたようだが、寝ぼけているのかフェネクスの呼びかけにも反応はない。
「アヴィ、起きてます?」
レディの呼びかけにも、やはりアヴィは反応しない。そのうちにまた、目を閉じて眠ってしまった。
「何か、ありましたの?」
「…ああ、まあ…少し」
フェネクスに視線を変えたレディに、彼は口ごもる。
「彼の体調に問題がないなら、無理には聞きませんが。…無理をさせてはいけませんよ」
「無理はしてないと思うが」
レディが忍ばせた裏の意味に気づかず、フェネクスは彼を見ていた。その手のことはなかったようだと、レディは残念な気持ちになる。もしそういう関係になるのであれば、フェネクスの弱みやいろいろ、事細かに話してしまうのに。
「…問題はないですわね、別に」
くすりとレディが微笑う。どういう関係かなど気にせずに、話してしまえばいい。その結果がどうなるか、それはもうとても楽しみだ。
「…レディ?」
彼女の笑みに嫌な予感を覚えたのか、フェネクスが引き気味に声をかける。
レディは淑女らしく口元を扇で隠し、にっこりと微笑んだ。
「貴方が従者を持つなんて、意外だと思っているだけですわ。それにしても、メモリアなんてよく見つけられましたわね」
その言葉は、妖皇がメモリアを囲い込んでいることを、彼女も知っているからこその発言だ。まあ公然の秘密であり、更には住まいが妖皇宮なので、知らずにいることのほうが難しいが。
「ああ…渾沌の海に潜ったからな」
「…え?」
その言葉に、レディは絶句した。
妖魔たちの源である渾沌の海は、そう簡単に潜れるものではない。魔力があればいいというものではないから、レディも勇者も、そして魔王たちでも大半はそれが敵わない。
いや正確に言うなら、潜ること自体は難しくないらしい。ただ、渾沌の中で個を保ち、再び元の世界に戻ることは、単独では不可能だとされている。
「…アヴィの協力があったから、戻って来られたのですね」
「いや…そういうわけでもないーーと思うが」
考え込む素振りのフェネクスに、ではどうやってとレディが問いかける。妖皇以外に渾沌の海から戻った者はいないと言われているのに、と。
「まさか」
「それはない。…戻ってから酷い目に遭ったくらいだ、あれが手を貸すなんてあり得ない」
妖皇の助力ではないかと思いついた瞬間に、フェネクスははっきり否定した。それも、けっこうな勢いだ。読まれたことより、その否定の仕方が気になってしまう。
「どういう仕組みかは知らんが、追尾式の罠だった。渾沌領域を出た直後に、アヴィが狙われてね」
ちらりとアヴィを見たフェネクスだったが、そのまま続けた。
「服従の命令を組み込んだ額飾りだったな。アヴィが狙われて、私が身代わりになった」
レディは息を呑む。身代わりになるという判断もだが、そんな小道具が作れるのは、現状では妖皇くらいだと分かっているから。
「そんな…どうやって、それから、抜け出したのですか…!?」
自らを妖皇の囚人だというレディが、噛みつかんばかりに食いついた。一縷の望みというよりも、そんなことが可能なのかという疑いを持って。
「魔力の過充填だ。…一か八かの賭だったよ」
あっさりと、フェネクスは告げた。そして、扇を握り壊しそうな彼女の手を取り、指を解かせる。
強ばった指が、レディの心情を余すことなく告げていた。
「ほら、これ…石が濁ってるの、分かるか?」
フェネクスが示すのは、取り出した額飾りである。連なる石は透明感もなく、ただの安物にしか見えなくなっていた。
「これは、…そういう石ではなく…?」
「制御能力を失うまで、魔力を注いだ。…あやうく消えかけたよ。アヴィが魔力をくれたから、俺は生きてる。ーーそんなとんでもない道具を使う奴が、俺を引き上げると思うか?」
「それ、は……」
「あり得ないんだ、奴が俺を助けるなんて」
先代筆頭魔王ーー代替わりとしてレディにその座を譲り、最下位に降りた魔王は、手にした飾りを握りしめた。
だが、壊れない。どんなに力を込めても、どれだけ魔力を注いでも。…たとえ、すべての魔王が力を注いでも、機能不全に陥らせるのが関の山だろう。
それが、妖皇と魔王の格の違いでもあった。
「貴方は、筆頭に…?」
「まさか。…ただ、魔力が欲しいとは思わなくもないな」
レディは目を伏せた。人間でありながら妖皇宮に住まう彼女の魔力は、代々の魔王筆頭が受け継ぐ指輪のものだ。妖皇の交代時に国へ戻されるはずだった彼女だが、今代の妖皇によって引き留められた。それも、筆頭魔王として、だ。
「…不要でしたのに。私にはーー」
知ってる、とフェネクスが呟く。彼女に指輪を渡したのが、他ならぬフェネクスなのだ。
妖皇は、嫌だと首を振り、手を出そうとしない彼女を無理矢理操って、指輪を受け取らせた。指輪の魔力によって、不老不死の妖魔となり、永遠に妖皇の元に留まると、強引に契約を交わさせて。
筆頭の座など不要ではあったけれど、…少女に泣き叫ばれて何も思わぬほど、フェネクスも冷酷ではなかった。だから、抵抗した。指輪は渡さないと、拒絶を示した。
だがかの妖皇は、筆頭魔王の意志すらも意に介さなかった。彼すらも操られ、…結果として、今がある。
「……渾沌の海の話だったな」
フェネクスが強引に話を戻した。レディも飾りから視線を外し、改めてフェネクスを見上げる。
「渾沌の海に潜ること自体は簡単だ。私一人、短時間なら行き来も出来る。…危険には違いないから、自分の部屋で防御術を構築してからだけどな」
それが出来るから、魔王筆頭だったのだとフェネクスは笑う。力ではなく、術の練度があればこそ、先代妖皇に選ばれた。
「渾沌の海で個を保つことは難しいと言われるが、そうでもない。大概はただ、芯がないだけだ。芯がぶれなければ、問題はない。…まあ、…あの空気に長く浸っていられるかという意味では、難しいけどな」
「長く、ですか」
「ああ。…妖魔が生まれるまでどれくらい時間がかかるかなんて、誰も知らないからな」
実際、フェネクスも渾沌の海に潜ったことは一度や二度ではない。その度にどれくらいの時間を潜っていたかは、体感でしか分からないが、せいぜいが数日というところだ。彼を見つけるまでにどの程度の時間がかかったかも、自分では分かっていなかった。
「まあ、考える度に思うのが…あれは、化け物だってことだな」
フェネクスが努めて明るい口調に変える。
「……そう、ですね。本当に…」
レディは静かに頷いた。
彼女が妖皇の継承資格を得た時のこと。…そのあとで契約を交わさせられたあのときのことも、思い出したくもない出来事だ。けれど記憶は鮮やかで、それ以前の彼女のことを塗りつぶしそうになる。
大切な友人だった、あのころのことを彼女はまだ、覚えているだろうか。
「可愛い仔だったんですよ」
その言葉は幽かで、フェネクスには届かない。
「わたし…あの子がお気に入りだったんですよ」
それはもう、取り戻すことが出来ない昔の話。
本編に一段落着いたら、妖皇の交代劇も書くつもりです。