1-7 理由なんかないさ。魔王の行動原理にそんなものを求めるな、愚か者。
6/2 全面的に改稿しました。今後の筋には影響ありません。
「──アーヴェント?」
床に散ったクッションを集め出した彼に、イーリスが首を傾げる。小さくなったそれは、よく見ると形は綺麗だがその模様はかなり…散々な出来である。一部分だけ綺麗に残っているのは、元からの刺繍だろうか。
「…同じじゃない、なら」
散った十六個全てを拾い上げて、アヴィが呟く。それはイーリスに答えると言うよりも、独白のような…どこか苦い響きを持って。
「──戻したい」
まるで誰かの代わりだとでも言うかのように、抱えたクッションを抱きしめる。それはそもそも、半分がイーリスの魔力で出来ていて──ぽふん、という音とともに大きなクッションが一つ、出来上がった。
出来た、と顔を輝かせるアーヴェントだったが。
「っっくしゅっ!」
部屋中を、羽毛が飛び交った。
「へ? なに…なにこれ!?」
「そこは合一させるところだろう!? 私が作ったほうだけ残してどうする!?」
そう。そもそも、最初に、イーリスが複製を作っている。つまり、…半分は、そもそもが偽物である。だが、イーリスにも非はあるのだ。素直に複製を作ればいいものを、左右に二つに裂いたそれを繕うように作ってしまったから…半分、消されるとこのとおりである。
「誰が固着を解かれると思うか! 歴代の妖皇でもそんな真似聞いたことがないっ」
普通に考えるなら、相手の作った部分ごと自分の魔力で包み込み、完全な支配下に置いてから作り直すのだ。魔力操作の練習くらいでしか使われない技能だが、それであればイーリスにも覚えはあるし、それをやるつもりだろうと思ってしまった。
相手はアーヴェントで、メモリアなのに。
「っっ」
くしゃみを連発しながら、イーリスは目を閉じる。飆を起こして羽毛を集めようとしているのだが、その勢いが奇妙に強かったり弱かったりで、安定しない。そのせいで、目を開けていることが辛いのだ。
「アーヴェント、魔力を収めろ…一瞬でいい!」
その叫びに応えたかのように、風が安定して渦を巻きだした。ひゅるるるると音を立て、細く、細く…漏斗のように収縮していく。
羽毛や布切れやその他がイーリスの手の中に集められて、そこへ魔力が注がれて──最初の大きさのクッションが出来上がった。この間はほんの数秒で、アーヴェントはそれを見つめていた。
他人事のような薄い笑みを浮かべる彼に、無言のままでクッションを投げつける。
「……え?」
アーヴェントは、その勢いのままに寝台に倒れ込んだ。多少は勢いよく投げたとは言え、たかがクッションを、避けるでなく受け止めるでなく、…その身に受けて。そして、それきり起きあがる様子を見せない。
「……アーヴェント?」
訝しげに、イーリスが呼びかける。視線だけが動いて意識はあることを応えたが、その傍らに寄るより早く、その目は閉じられた。
その息が規則正しく、また鼓動も安定していることで……取りあえずは眠っただけだろうと、イーリスは安堵する。
「驚かすな、莫迦者」
毒づくものの、その目は優しい。そのままでアーヴェントを引き上げて、枕を使わせて、上掛けを掛ける。そこまでされたアーヴェントは、一瞬だけ微笑んで、そのまま眠りについた。
「疲れたのは、わかるけどな」
朝から慣れぬことに付き合わせている自覚はある。本来なら、もう少し落ち着いて周囲のことを教えてから学ばせるべきことだ。疲れないはずがない。
だが、それを計算に入れても──違和感がある。
念のためにと、イーリスは目を閉じて周囲を探る。魔力の生成は続いているが、段違いに低下していた。この程度であれば負担にはならないだろうと判断し、目を開く。
そしてその惨状に、溜息を吐いた。
散らばった羽毛などは粗方集めたが、寝台の周囲に張ってあった簡易結界が消えている。まあ元々が鬱陶しい虫や妖を入れないようにする程度のものだから、そのこと自体に不思議はない。だが、ここが妖皇宮の一室と化した今、もっと効能の高い結界を張るべきだろう。
「寝台を基準とした二重結界。天蓋の中に周囲からの保護。天蓋の外に同じく周囲からの保護」
呟くのは、ややこしいものは声に出した方が認識しやすいというイーリスの癖である。取りあえず、アーヴェントの眠りを妨げないように二重仕立てにしてみたところだ。
「迎撃は…開いた扉が触れない程度のところから窓までだな」
破られるのはもちろんお断りだが、そのことに気づけないのは断固として拒否したい。故に範囲を狭め、何者かが入ってきても壊れず、即応出来るように仕立て上げた。
…本来の結界は、侵入者が入らないようにするためのものなので、実は前提が間違っている上にその何者かが勇者でしかないということは、自明の理だ。
「おかしい…絶対に勇者、存在が間違ってる…」
彼はレディと違って、完全な食客だ。つまりは、魔王ではない。妖皇宮に存在出来るだけで大したものだと思うが、魔王筆頭であるレディの結界すら蹴破るデタラメさだ。彼相手の結界は、強靱さが何の意味もなさない。ただしつこく幾重にも張り、破る必要がないことを思い出してもらわなければならない。
しかも暑苦しいし、そのくせ人懐こいし、レディよりよほど周囲の情勢を掴んでいるし、トラブルがあればあの馬鹿力で喧嘩両成敗に持ち込むし、なんというか、そう掴み易すぎて、訳が分からない。
レディに無関心を装う魔王の中でも、勇者は捨て置けないという面々も少なくない(レディに関心がある場合は、もれなく勇者がくっついてくる)。
「……よし」
一通りの作業を終えて、イーリスも寝台へ潜り込む。しかし、眠る気があるかと言えば、そうではない。
理由は、アヴィの様子がおかしかったことだ。いつからかと考えれば、それは明白だ。「消えるのは怖いよ」と、そう言ったその直後にそれを否定した。「俺にはぜんぜん、消える怖さがわからない」と。
矛盾したその言葉がもたらした違和感が、今も消えずにいる。
それに、と彼を見つけたときに思いを馳せる。あんな弱気な性格には見えなかった。…いや、弱気な性格であるはずがない。消えると知らされたときの怒りを見て、あの輝きを惜しいと思ったのだから。
今の彼は、…そう、覇気がない。まるで迷子のように。
「ーー迷い子…まさか」
思い当たることが、なくはない。だが、…もしもそうだとすると、原因は自分にある。よかれと思って急いだが、失敗だったかもしれない。
だが…では、どうする?
この推測が正しければ、…やっかいなのは、その後の処置だ。今の自分に、出来ることなのか。
「…成るように、成る」
顔を強ばらせながらイーリスは呟いた。自分に出来ない結果を正解に置いても無駄だ。考えつかない答えを正解に置いても、たどり着けないように。
だからやる、とイーリスは目を閉じた。出会ったときから、今まで。ほんの数日の出来事を思い返し、探っていく。
渾沌の海。──そう、これが始まり。自分が消えることに憤り、この手を取った。だからあれが、アーヴェントだ。
渾沌領域。──噂に聞くメモリアそのものの反応を見た。では、このときも違う。
草原に放り出されて、…ああ、術を勝手に改変されたときだから、これもアーヴェントでしかあり得ない。
互いに死にかけたときもそうだ。奴に自覚はないだろうが。ああ、目覚めたときに叱り忘れたな。
虹の名をくれた。この言葉が知識にない以上は、メモリアの核となった異世界の言葉なのだろう。
妖皇の強制転移? いや、それはギリギリで間に合った。手を出す前に駆けつけたはずだ。
「転移してから…だが、勇者がいた」
この妖皇宮で勇者だと、ふざけた通称を利用しているが、それが許されるだけの力があり、洞察力がある。メモリアの知己が少ないとは言え、おかしな様子があれば気づくだろうし、黙っているとも思えない。あの男は、ふざけるのは大好きだが、悪ふざけはしない。
「……違う…勇者は知らないんだ」
今、ここへ戻るまで自分も何も思わなかった。
アーヴェントとの出会いなど、話していない。初対面の勇者が、あの覇気のなさに気づいたとしても、そういう性格だとしか思わない。
つまり、は。
「妖皇宮で目覚めた時──あれが、片鱗か」
何があったかは知らないが、アーヴェントの暴走で、部屋に風が渦巻いた。それで目覚めて、垂れ流しの魔力を納めろと、二度目の命令を下した。が…そもそも、それがおかしい。命令は絶対なのに、なぜ二度も、同じことを命じなければならなかった?
「これが答えだ。…起きろ、お前はアーヴェントではない」
いつの間にか、うっすらと目を開いていることに気づいてはいた。だが、答えを出すことが何よりも先決で、…命令で縛れるようだから、素知らぬ振りで放置しておいた。答えが出た今、その必要はない。
「…お前は誰だ」
鋭い視線が彼を射抜く。けれど意に介した様子もなく、彼が起きあがる。そして、にっこりと微笑んだ。
「こんばんは、イーリスさま」
ざわりとイーリスの背を不快感が走る。アーヴェントに似合わぬ儚さで、しかもそれが装ったものだと分かるような茶番劇に付き合おうとは思わない。
「呼ぶな」
感じた不快をそのまま、周囲に解き放つ。──けれど彼に届く寸前で、それは霧散した。ただ勢いと、何の力もない風だけを残して。むろん、イーリスの意志ではない。
「お前にその名を許してはいない」
静かに、ただ冷たく言い放つ。それが自分の本性なのか、ただの仮面なのか、彼自身も把握していない。
ただ、それでも。
この冷たい瞳を。この冷たい声と、この言葉を。
アーヴェントが聞いたなら、どう思うだろうかと、どこか他人事のようにイーリスは想う。それでも平気な顔でついてくるのか、それとも──。
「わたしが名付けたのに?」
「ふざけるなっ!」
冷酷さは吹き飛び、怒声が襲いかかる。しかしそれもまた、霧散した。
──主の怒気は、叱責として受け止められる。故に、…如何にアーヴェントを大切に思おうが、こんな結果はあり得ないはずなのに。
「ふざけているわけじゃないですよ? 不死鳥の名を戴く魔王さま──名を忘れた貴方にふさわしい」
「黙れ!」
三度、凄まじい怒りを叩きつけられても、怯む様子はなかった。
それはもちろん、アーヴェントに手を出すはずがないという読みもあるだろうが、目を細めるだけというその仕草は、まるで子供をなだめる大人のようで、気に障る。
見つけたのがこの迷い子だったら、手を出さずに放置したか──或いは、現出させたあとで放逐したか。そんなことを考える。
「もう一度聞く。お前は何者だ」
「…わたしはメモリアで、貴方の従者ですよ」
一瞬迷う素振りを見せたが、答えはそれだけだった。
あくまでも自然な笑みで、儚さを醸し出しながらのそれを、イーリスは冷たく笑い飛ばす。
「現界して間もないアーヴェントに、こんな芸当が出来るのか?」
溢れていた魔力は完璧に制御され、キレて叩きつけた怒りも無害な風に変換された。はっきり言って、イーリスでも咄嗟に出来るかと言われれば、口ごもる程度の困難さだ。
自身のような、魔力錬成型であればあり得なくはないけれど、魔力生成型で眠っているときまでそれを制御出来ないような彼に出来る真似ではない。
……ああ、そうかと、イーリスは思い至る。世に疎いメモリアでなく、世慣れた自分よりも魔力操作に長けた存在──それが現界したてのはずがない。
「……ああ、そうか。貴方は魔力が感知出来るのでしたね。迂闊でした」
張り付いていた笑顔が剥がれて、イーリスはようやくその顔を認識出来た。アーヴェントと違うのは、唯一、その紅の瞳のみ。
それでも、それでなくても見分けがつくように思えた。あの作り笑顔が、仮面だったのだろう。
「渾沌の迷い子。…噂にしか聞いたことはないが、出会えるとはな」
ぼそりと呟いたその言葉に、赤い瞳が幽かに微笑む。そして、はい、と頷いた。
それは、妖魔の間でさえ御伽噺の扱いだ。
妖魔は核がある限り死なず、時間をかければ復活する。逆に、核を破壊されれば、死ぬ。破壊された核は渾沌の海に溶け、二度と還らないーーそれが、完全な消滅である。
けれどそれは、あくまで個としての消滅であって、芯となった”凝”は残る。渾沌に沈むけれど溶けることはなく、故に消滅もない。だから無限に近い時を経て、また核として成ることもある。そのときには完全に別の存在としてではあるけれど。
渾沌の迷い子は、その凝りが渾沌に溶けず、核とも成らず、他者の核に寄生することで生じる妖魔だとされている。
「自覚があるんだな」
「…そう、ですね。でもたぶん、自覚があるというのは…少し違うと思います。現状から、そうとしか考えられない──それだけのこと、ですね」
「現状か。……では、何を覚えている?」
少しだけ表情を和らげて、イーリスが問いかけた。それは多分に、興味本意だったけれど。
「何も。核が壊れたときに、すべて失ったのでしょう」
気持ち伏せた目で、迷い子は答える。核を中心に構成される妖魔である以上、核を失えば存在は失われる。…それは至極、まっとうな答えではあった。
「では、今は?」
「……い、ま…?」
イーリスの問いかけに、迷い子は戸惑いを見せた。問われた意味がわからない…そんな顔で。
実はそれを問いかけたイーリスも、どうしてかと言われれば、わからないと答えるのだけれど。
「何を思って、今…そこにいる?」
我ながら意地が悪いなと、内心では苦笑していた。アーヴェントの身体を乗っ取ろうとしていたのだから、答えなど分かり切っている。それを敢えて問いかけることに何の意味があるのか。
意味などないさと、イーリスは声に出さずに嘯いた。ただ、知りたいだけなのだ。他人ならまだしも、契約を交わした主を謀ることなど、叶うはずもないのに。
「……楽しかった、から」
幽かな答えに、イーリスは表情を緩めた。
「消えたくない。もう二度と何も出来なくてもいい、でも消えたくない──それだけだったはずなんです。でも今は、あなた方を見ているのが、とても楽しい」
掠れた声だ。まるで、…叫び続けて枯れ果てた声のような。
「──おまえは、死者だ。このままには、出来ない」
イーリスは、敢えて事実を突きつける。一つの身体に、核と、”凝”。その状態を、永く続けることが出来ないことは、迷い子にもわかっているだろう。
結局は、寄生しているだけなのだ。如何に魔力操作が見事であっても、その身体は他人の魔力で構成されていて、しかも存在を認められたわけではない。今はおそらく、魔力を放出した影響で支配権が弱まっているだけで、回復すれば、それで終わるのだろうと。
だから、放置してもいいのだけれど。
「…そう、ですね。わたしには、核がない。人間で言うところの、亡霊でしょうか」
「近いだろうな」
己を蔑む発言でもあるけれど、それは事実でもあった。だから、イーリスは否定しない。
その様に、迷い子は笑った。
「ねぇ、魔王さま」
どこか甘えるように、迷い子はイーリスを見た。
何を言うのかと視線を合わせるが、迷い子はそれ以上を言おうとしない。この状況であれば、それはきっと何か願い事なのだろう。叶うかどうかは別として。
亡霊の願いは二つに一つ──消滅か、再生か。
そう思うから、ただ、待ってみた。促すこともせず、ただ、悠然と。
迷い子は彼を見つめていたが、やがて諦めたように笑った。
「意地悪ですね、貴方は」
「従者を乗っ取られたようなものだからな。問答無用で消していないだけ、優しいだろう?」
「ええ、まったく。…だから、一つだけ…お願いがあります」
ようやくか、とイーリスは視線で続きを促した。あのですね、と迷い子は首を傾げて。
「ねえ、魔王さま。わたしを飼いませんか?」
笑って、そんなことを言い放った。
「……は? 飼う?」
「はい」
一瞬、買うという意味かと考えてしまったのは、たぶん現実逃避だろう。あり得ない言葉を聞いてしまったから。
買う、であっても別の問題が出るような気もしなくはないが、などとイーリスの思考が明後日の方角へ飛びかけた。
「貴方の忠実な使い魔になりましょう。見ての通り、魔力操作はお手の物です。貴方に呼び出されたとき以外、表に出たりもいたしません。ご命令ならばどんなことでも従いますし、そうしろと仰るのでしたら、ずっと眠ったままでおりましょう。だから、わたしを飼って下さい」
懇願というわけでは、なさそうだった。少し浮かれているようには見えるが、至って正気…いや、正気か?
魔王でなくても、使い魔を持つ妖魔は珍しくない。しかし、飼うと表現するのは、それが動物や魔物であるからだ。妖魔を使い魔とする契約も成り立ちはするが、それを「飼う」と表現するような妖魔は、滅多にいない。…少なくとも、イーリスは知らないし、縁をつなぎたいとも思わない。
飼う? 愛玩動物のように?
魔王の怒りを受け流せるような妖魔を?
「──身体がないからか」
思い至ったその結論に、迷い子が頷いた。
なるほど、確かに──寄生しなければ存在出来ない状態で、まともな契約など望めない。だから、『飼う』と言うのかと、理解は出来た。主の何かを芯に、仮の身体を与える契約、それは確かに、『飼う』と表現出来なくもない。
…だが、それは。
「そこまでして、生きたいか」
そんな言葉で問いかけたのは何故なのか。それはたぶん、永遠に分からないだろうと後にイーリスは言う。
ただ、…アーヴェントもそうだったが、要は…命だ。
消えるか、生まれるか。…使い魔として、その狭間に堕ちて生き長らえても、主が死ねば消え、契約を解かれればそれもまた、消えるのに。
「生きたいです。貴方が、名を失いながらも生き長らえてきたように」
その言葉に、イーリスは息を詰まらせた。
「…お前を、飼う気にはならないな」
冷たく──冷酷に聞こえるように、イーリスは宣告する。まったく…主に対して遠慮会釈のないこんな相手を、飼うことなど出来ようものか。
迷い子はそれを予想していたのか、哀しげに微笑むだけだった。
少し、苛ついた。生き長らえる…確かに、そのとおりではあったけれど。魔王の称号にすり減らされた名を、思い出すことも出来なくなってはいるけれど…今は、違う。
「お前、名は?」
「…ありません。ただの、残滓ですから。言い伝えそのまま…ですよ」
それはどこか、投げやりな声だった。
そしてイーリスには、迷い子の顔が見えなくなっていて──唇を噛みながら、己の髪を一本、引き抜いた。
「なに、を」
引き抜かれた髪と、唇から滴り落ちた血が溶け合い、固まる。光の加減で煌めくそれは、蛋白石のように見えた。ただ、…赤い。それが血で造られたものであると、示すかのように。
目の前に差し出されたそれに、迷い子はただ、見惚れた。
「お前の核にするといい」
え、と迷い子がイーリスを見る。
「私の血と髪で造った宝石だ。仮の宿りには十分だろう」
迷い子が目を見開くのは、驚愕なのだろう。飼う気はないと、宣告されたはずなのに、と。
「飼う気はないさ。契約でもないしな」
イーリスはそれを、迷い子に握らせた。
「完全に同化したら、好きなところへ行け。それまでは、…まあ、身につけておいてやるよ」
つまりそれは、魔王が常に保護することと同義である。どうしてと、迷い子はイーリスを見る。
「理由なんかないさ。魔王の行動原理にそんなものを求めるな、愚か者」
そう言って、イーリスは笑う。
「眠れ、夕闇。核を得るその日まで」
その言葉に、アーヴェントの身体から魔力が流れ出ることを感知する。ごく幽かな、知らずにいれば気づかない程度のものだったけれど。
そうして夕闇が姿を消したことを確認して、軽く息を吐く。追加で髪を一本引き抜いて、残された石を一緒に握り込む。
開いたその手に、派手すぎず、しかし石としては珍しいだろう蛋白石がはまった指輪があった。
「…ま、こんなものか」
作り上げた指輪を自分の指に嵌め、問題ないことを確かめる。きつくはないが、簡単に抜けるほどでもないので、そのまま使うことにした。どうせ、守ると宣言してしまったのだから、これが一番楽な方法だ。
アーヴェントを寝かし直して、何となく、呟いた。
「…最初に、気づくべきだったな」
渾沌領域で、アーヴェントの意識が飛びかけたとき。
『オレ』と『わたし』が混ざっていた。それはまだ自我が確立していないからだと考えて、確かにそのとおりではあったけれど、こんな裏があったなど、誰が気づけようか。
「退屈しないで済みそうだな、お前がいると」
ふわ、と欠伸を一つこぼして、イーリスもその隣に潜り込んだ。
そしてふと、指輪に向かって呟く。
「核も、名前も。…お前の目の色だよ」
その言葉は、…迷い子にきっと、届いただろう。
このことを知ったアーヴェントが、後日、こんなことを聞いたらしい。
「なあ、イーリスさ。なんで核つくってやったの?」
「…自分を飼えと泣きついてくるんだぞ? お前、そんなの面倒みたいか?」
「それはー……イヤデスネ」
「それだけのことだ。あんなうっとうしい奴面倒見られるか。核だけ渡して独立させたほうが精神的に楽なんだよ」
そこまでなりふり構わない状態だったのに、そういう理由で拒否るんだー、とちょっと以外な一面を見たような気が、した。
「でも、さ」
「?」
「お人好しだよな、イーリスって」
真っ赤になったイーリスが彼をどうしたのか、それは残念ながら箝口令が敷かれてしまったので、彼ら以外は知ることはないだろう。