1-5 舞踏会まで三日だし。
トントントントン
(んー…叩音…? 4回は貴人の部屋を訪ねたときの回数…)
頭が寝た状態で、アーヴェントはそんなことを考えた。この部屋の持ち主はイーリスだから、貴人ということに間違いはないだろう。だが…イーリスが答えないのはどうしてなのか。
トトトトッ
(まただ…んー…でも俺が応えるわけにも…)
とりあえず身を起こしては見るものの、部屋の主はイーリスだし、昨日の様子からすると、たぶん自分が開けるのは止めた方がいいのだろうと考えられた。イーリスが応えればそれで問題はないはずだが、さて彼はどこにいるのか。この部屋の寝台は一つだったけれど、かれはどこにいるのだろう?
「って、天蓋降りてるし」
かなり厚めの布が四方を覆っている。眠る自分のために下ろしてくれたのかもしれないが、それならそれで、起こしてほしいものだ。
ドンドンドンドガッ
「はいぃ!?」
「フェネクス、メモリア、入るぞ!」
「勇者様! 応えがあるまでお待ちなさいと申し上げましたよ!」
「予告はしてあるんだ、いいじゃないか」
「礼儀です、人としての!」
天幕の向こうで繰り広げられる舌戦に、アーヴェントは目を白黒させた。片方が勇者なのは分かるが、もう一人…どう聞いても、少女としか思えない声なのだが、誰だろう?
「フェネクス殿、どちらにいらっしゃいますか。人を招いて起きながら放置することは、礼儀に…あら」
凛とした声が響いたと思ったら、すぐに声音が変わって、あらあらと楽しそうな声が続けられた。
「まあまあまあ…勇者さま、ちょっとそれをお貸しなさいませ」
え、とアーヴェントは耳を疑った。今、…命令しなかったか?
「ちょ、待て、おま…追い剥ぎかお前はっ」
「追い剥ぎ!?」
ぱさ、と衣擦れのような音がした後で、外が静かになった。自分のつぶやきがまずかったかと、アーヴェントは内心で冷や汗を流す。
「お騒がせいたしました、メモリア殿」
「悪い、うるさかったよな」
「あ…いえ、こちらこそ…」
時間を指定していたフェネクスが何故か不在のようなので、一応は従者である自分が謝るべきだろうと思ったが、…しかし。何を言えばいいのか、皆目見当が付かないのが正直なところである。
「メモリア殿、こちらを上げさせていただいてもよろしゅうございますか?」
「あ、…お願いします」
どんな造りかはわからないし、たぶん寝台を下りないと出来ない作業だろうとは予想がついていたので素直に任せる。
するすると上っていく天蓋の向こうは、すでにかなり日が高いことを教えてくれた。
「初めまして、メモリア殿」
凛とした声音の少女は、そのドレス姿に相応しい仕草で一礼を見せた。
「どうぞ、お気を楽に。わたくし、妖皇の囚人でございます。人間界からの人質ではございますが、称号を戴いておりますので…グレモリ、とお呼び下さいませ」
「妖皇的には、妹みたいな扱いだけどな」
「そうですわね。わたくしが称号を戴くまでは、本当に姉のように慕っておりましたわ」
暢気な口調の勇者に比べ、グレモリと名乗った少女の声は固い。それに今、彼女はおかしなことを言わなかったか?
「仕方ないだろ、お前はそうでもしなきゃ、存在出来なくなってたんだから」
「この国から解放することは出来たはずですわ」
「おま、それ…っ」
勇者は口を噤み、言い掛けた何事かを噛み潰し、飲み込んだ。そうしてから、アーヴェントに向き直る。
「たびたびすまん。…改めて、俺は妖皇の食客をやってる。いちおう名前はあるんだが、まあ、勇者と呼んでくれ」
「はい、勇者さま」
相手をさまづけで呼ぶこの感覚は、なんだかかなりくすぐったい気がした。
「俺は、…アヴィと呼んで下さい。フェネクス様の従属です。…正直、メモリアって言われても、よくわからないので」
「ああ、それがメモリアの特性らしいからな。わかった、じゃアヴィだな」
「では、アヴィ殿。とりあえず、私どものことは友人とお考え下さいませ。堅苦しい言葉はなしで、おねがいしたします」
「いやそれ…お前が言ってもさぁ」
うん、とアーヴェントは内心で頷いた。勇者から言われればまだしも、この少女…どこかの姫君としか思えない少女を前に、出来ることではない。というかそもそも、当人の言葉遣いが。
「お願いであるうちに聞いて下さいませ。でないと、フェネクス殿に命令することになりますわ」
出来るのか、とアーヴェントは目を見開いた。同時に空気が揺れて、彼を中心にした四方へ風が破裂する。
「うわっ」
「まぁ」
天蓋がはためき、窓硝子が鳴る。少女の髪を、勇者の髪を乱し、それどころか二人を後ずらせたその風は、紛れもなくアーヴェントが放ったものだ。だが、…当人が一番困惑していた。
「俺がやった…んだよ、な」
うん、と二人が頷き、そこへ新たな声が加わった。
「もう一度命令しておく。魔力を垂れ流すな、制御しろ」
「はい」
反射的に返事をしてしまってから、あれと首を傾げた。今の声、…イーリスに声は、あんな声だった…か?
「あら、お目覚めですのね。いい目覚ましになったみたいですわ」
「毎朝これは勘弁して欲しいけどな」
「勇者…と、レディ・グレモリ? …結界…張ってたはず…」
「勇者様が蹴破りました」
「またかよ!」
違う気がする、とアーヴェントがフェネクスを視線で探す。声もだが…それ以上に、口調が違う。落ち着いた口調で、人に命じることに慣れた感じがあったはず、と。
だが、見える範囲には寝椅子と、それに横たわる寝間着の美少女しか見当たらない。その女性はといえば、毛布には見えない布を体に掛けられていた。
「フェネクス殿、そのままで。ご自分の状況を確認してから起きあがられませ」
うん、と寝ぼけたような応えが返る。しかし、それから長いこと、沈黙が続いた。
「やっと気づいたか」
「まだ固定されていないとは、思いませんでしたわ」
「え…、ちょっと、待て、なんでこんな…っ」
魔王は混乱している。…ふと、アーヴェントの脳裏をそんな言葉が過ぎったことに、誰も気づかない。
「…って待って、ちょっと待って? フェネクス…フェネクスって言った!?」
「はい、あちらがフェネクス殿ですよ。驚かれました?」
すました顔でグレモリが答えれば。
「現界して間がない妖魔にはたまにあるけど、まさかフェネクスがねー」
明らかに楽しそうな様子で勇者が続けた。
「…、お前たちどうやって入った!? いつ…、結界張ったんだぞ!?」
美少女がそんな二人に声を荒らげるが、…誰ぞのマントを掛けられたままで、とりあえずどうにも、格好は付かない。しかもなんだか、可愛いし。
「結界でしたら、勇者様が蹴破りましたと、さっき申し上げましたわ」
「いやすまん、気づかなくて」
けらけらと笑い飛ばす勇者に、少女がマントを握りしめたことを、誰も気にしない。
「とりあえず、フェネクス殿は着替えた方がよろしいかと。それ、下着ですわよね?」
「下着というか、寝間着だけど…てか気づいてるなら入ってるなよ、外で待てよ!?」
レディの冷静な指摘に、イーリスは反射で答えた。
「入ってきてからそのご様子に気づきましたの。でも、そうですわね、さ、勇者さま。お外へどうぞ。あ、メモリア殿は天蓋を下ろしますからそのままで」
「えー、いいじゃん、フェネクスだろ」
「なりません、さっ」
レディは宣言通りに勇者を追い出し、天幕は下ろされた。
そそそ、とレディがイーリスに歩み寄る。
「完全な変態ですわね。簡単には戻りませんよ」
つい、と胸に触ろうとすると指を叩き、イーリスは立ち上がる。
「あら、私と変わらないくらいの身長ですのね。もしかして、メモリア殿とちょうどいいくらいかしら。ずいぶんお気に入りなんですね」
「そのつもりはない。それに身長なんて、把握し……あー」
何か思い当たることがあったらしく、イーリスは口ごもった。
「さ、お召し替えを手伝いますわ。お召し物はどちらに?」
「…ないぞ、この部屋には」
まいったな、と頭を押さえる。この寝間着は魔力で構成されている。実は昨日の衣服も同じもので、それが変化しているだけである。普段なら適当に構成しなおすのだが、それはあくまで男物としての構成であって、女物は造りが分からない故にやったことがない。まあ、目の前の姫君が、はやりだのなんだのとうるさく言うもので、面倒だということもあるのだが。
「え。…では普段からそのお姿で…それは、如何かと存じます。ええ、お館にお一人住まいなのは存じておりますけれど」
「普段は男だ、マトモな衣服だよっ」
思わず怒鳴り返してしまうが、レディは涼しい顔である。
「では、女性ものを用意されるべきですわ。以前にもそのお姿、拝見したことがございます」
「…あっても無理だろう、身長が違うんだ」
確かに、レディに女姿を見られたことはある。だがあれは、単純に変身を試しただけで、女物の衣装を構築するのが面倒だったがためにレディに声を掛けたのだ。
あら、と姫君が口を押さえた。
「私としたことが…そうでしたわね。ずいぶん昔のことで、失念しておりましたわ。では、仕立てなければなりませんわね」
楽しげな姫君とは対照的に、ああ、と深い溜息をつく。
採寸から始まるお仕立ては、興味のない人間にとっては結構な苦行である。
※ ※ ※
「そういう訳で、しばらく奴らは来ないから、まあ気楽にしててくれよ」
「えっとー…気楽にって言われても…」
「レディ・グレモリからのご依頼ですから、腕に縒りを掛けますよ。さ、もう少し腕をお上げいただいてよろしいかな」
仕立屋を呼ぶからと追い出され、とりあえず勇者の部屋に移動していた。と思ったら、なんとこちらにも仕立屋が寄越された。勇者の為の仕立てかと思いきや、アーヴェントのためのものだと言われて驚くまもなく、採寸が始まっている。
「レディの見立ては一流だし、彼女の指示で来たなら腕も確かだ、安心しろ」
衣装に興味がない場合の採寸は、…けっこうな苦行である。まだ勇者があれこれと話しかけてくれるから、ずいぶんましなのかもしれないが。
「では採寸も終わりましたので、衣装のお色を決めていただけますか」
「え…色?」
「はい、お好きなお色をどうぞ」
差し出された布見本は、三十色を超える布が貼られていた。手触りと光沢から、全て天鵞絨だということは、わかる。が。
「似合わない色は出してこないから、その中から好きな色、選んでいいぞ」
「えー…」
いきなりの難題である。というかそもそも、何のための採寸なのかを聞かされていないのだがと勇者を見た。
「ん? 舞踏会の衣装だろ。舞踏会まで三日だし」
「はい、そう伺っておりますよ。ご安心下さい、本日中に仮縫いまで仕上げて参ります。明日の昼には、お渡しできると思いますよ」
「舞踏会…おれが?」
「フェネクスの従属だろ。ま、アイツはいつも一人だから同伴役だな」
「おれがー!?」
「ああ、ダンスもしっかり仕込んでやる、三日あれば2曲はいけるな」
「勇者さまがー!?」
「おう。さんざんレディに付き合わされたからな」
遠い目をする勇者に、ちょっとだけ同情した。
「どうされます、従者殿。…フェネクスさまのドレスに併せて見繕いましょうか?」
「あ、それならそれで…いや…」
完全な人任せになることに、ちょっとだけ躊躇いがあった。まあたぶん、イーリスは何も言わないだろうけれど、何となく。
一応選んでみようかと、布に触れながら考える。ふと、思い出したのはイーリスの虹色の髪。エスコートするのなら、女性を目立たせるのが男の役目。と、なると。
「ーーこれがいい」
へえ、と勇者が目を細めた。かしこまりました、と仕立屋も頷く。
たぶん、…いや、きっと。
輝く虹は、夜空に映えるだろう、と。
「さて、衣装の出来上がりを待つとして、だ」
「ん?」
「身長はそんなに変わらないみたいだし、俺の服、貸してやるから着替えな」
ぽいぽいぽいと、一式が目の前に並べられた。そういえば、採寸したときに脱がされたが、先ほどまで来ていた服は寝間着だったような気がする。ずっと寝台にいたから、特には気にしなかったが…。
「…あれ? おれ、…寝間着なんか着てたっけ…?」
確か、先ほどのあれはワンピース型だった。けれど…外にいたとき、あんなものを着ていたか?
「ああ、無意識で作ったんだろ。妖魔って、そういうの得意らしいから」
「そういうのって?」
「フェネクス曰く”感覚だから、理屈を聞かれても答えられない”だそうだ。なんか、いろんな術を使いまくってるらしいぞ」
「へー…あ、ありがとう」
下着はそのまま、ズボンとシャツ、上着を身につける。丈や肩幅は問題ないが、…どうにも服に着られている感が拭えないのは、着慣れないせいだろうか。
「んー…ま、俺のサイズだし。お前、痩せてるしなぁ」
「…別に、勇者が太ってるようには見えないけど?」
「一応、鍛えてるからな。ほれ」
ひょいと上げた腕に、力こぶが出来ていた。真似をしてみるが、…確かな差があった。
「じゃあまあ、とりあえずダンスの練習でも始めようか」
「え、もう?」
「三日しかないからな。まあ、必ずかかる曲ってのが決まってるし、とりあえずは円舞曲だな」
勇者の教え方は、意外と慣れた様子で、わかりやすかった。隣に並んで、足捌きだけを徹底して教えるというやり方だ。曰く「フェネクスはかなり上手いから、ほかは全部任せろ」ということらしい。
「最初に足を揃えて立つ。左足を踏み出して、それを軸に右足を斜めに滑らせてーーあ、このときに直線で流すなよ、軸足を掠める感じで弧を描くんだぞ。その足が止まったところへ左足を揃えて、右足を引いて、左足を揃える。ほら、出来ただろ。これを繰り返すんだよ」
「あー…うん、なんとか…」
確かに、足捌きそのものは簡単だった。アーヴェントもすぐに覚えられて、これは楽勝かと安心した、のだが。
「じゃ、実践な。一曲弾くから、音に合わせてやってみな」
そう言った勇者が取り出したのは、竪琴だった。音に合わせて足を滑らせるのは意外と難しく、しかも踏み終わりの足配置=次の踏み位置の1になっているから、一歩踏み間違うとどんどんずれていく、全く楽勝ではないのだと思い知らされた。
「どうよ、意外と難しいだろ?」
「意外っていうか、いや、…舐めてましたすみませんホントにごめんなさい」
1時間ほど延々と繰り返し、アーヴェントが疲労してきたと見た勇者が、休憩を言い出したところだ。半時間を越えた辺りから、ステップの間違いはないものの動きが追いつかなくなり、タイミングを見て踏み直すことが増えていた。勇者が言うには単なる疲労らしいが、実際の舞踏会でそれをやると、恥を掻く。というか、フェネクスに恥をかかせることになるので、これはけっこう重要な問題だった。
「いやでも、実際…お前、現界したの、何時だよ? まだ動き慣れてないのも原因だと思うぞ、おれ」
「あー…いや、まあ…昨日…なのかな?」
けっこう強制的に眠らされたりしたので、日付の感覚が今一つ怪しいところである。
「それでそんだけ動けりゃ大したもんだよ。あとなあ、やっぱり相方なしだと遣りにくいんだよな」
「それは思ったけど」
「更に言うと、今は自分だけだからステップが見えるが、実際はドレスに足下が隠されてるから、全く見えないぞっと」
あー、とアーヴェントは天井を仰いだ。そう、舞踏会は当然正装である。というか、今フェネクスがいないのもそれが理由なわけで。
「てかさぁ、ドレスってそんな、三日で出来るものなのか?」
「急ぎで作ったことなんかないから、俺は知らん。レディがやるっていうんだから、出来るんだろ」
「…ないの?」
「ないよ。俺は食客で、毎度作る必要はないし、レディは筆頭魔王だし、そんな大急ぎでドレスを作るなんてことやらないって。やるにしたって、レディは自分で構築出来るしな」
そうだよな、とアーヴェントも納得した。食客と言うことは、現地に住み込みということだし、構築…は、たぶん魔力を使って何かやるんだろう。
「フェネクスも自分で作れるんだが、まあ女物は勝手が違うんだろうな」
アーヴェントは借りた衣装を見て、レディのドレスと比べて、今度こそ納得した。が、ちょっと待て、と勇者を見る。
「ん? なに?」
「今、レディが筆頭って言った?」
「おう。七十二の魔王がいるが、その筆頭だ。元はフェネクスが筆頭だったんだけどな」
「へ!?」
爆弾情報である。アーヴェントにとって、だが。いや、確かに彼は序列が妖皇の心一つだとは言っていたし、上がいるとも言っていた。そう言えば、レディがフェネクスに命令出来るようなことを言っていた気もする。
「まあ、序列なんて妖皇のお気に入り度だから、実力はフェネクスの方が上だけどな。その辺はそのうち、レディが教えてくれるさ」
「…訳ありっぽいね?」
「ま、いい加減長く生きてるからな。いろいろあるさ」
作中のワルツステップは、愛・地球博の中のスイス館で教えてもらったボックスステップです。