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魔王が逃げて、何が悪い?  作者: 冬野ゆすら
第一章 魔王がそこから逃げるまで
4/64

1-3 面白いだろ。この色で固定するの、けっこう大変なんだぞ?

2017.10.5 全面改稿。1章後半の内容に合わせて修正。これで矛盾が消えたはず…!

5/31 誤字修正+一部改稿。内容は後書きにて。

「っく」

 メモリアが倒れると同時に、茨の冠が枯れ落ちた。お蔭で額を占める頭痛はなくなったものの、魔王はまだ起き上がれない。

 急激に奪い取ったメモリアの魔力が、体内で荒れ狂っているせいだ。

 彼が手先から魔力の供給を受けていた理由は事実である。そして、メモリアが言った「何か隠してる」も、そのとおりだが──この結果を予想してのことだった。

 やろうと思えば、一気に魔力を受け取ることは出来る。だが、馴染ませるだけの余裕がこちらになければ、無意味どころか自分を傷つける。それに加えて、どの程度の魔力で事足りるのか、その総量は誰にも分からない。

 有体に言ってしまえば、怖かったのだ。彼が消滅するだけの魔力を、奪い取ってしまうことが。


「──この、程度……っ!」

 歯を食いしばり、魔力の流れに意識を集中する。馴染ませる、などと悠長なことを言っている暇はなくなった。

 従え、と魔王が命じる。このときばかりは、メモリアが己の従者になったことを褒めてもいいと思いながら。


「主は……私だ──っ!」

 その叫びとともに、魔王の全身から血が吹き出した。だがそれは、衣服を染めることすらもなく消えて、その傷跡も一瞬にして完治する。その名残はただ、荒い息を吐く魔王であることしか残らない。


 疲労困憊の身体で、二度とやるかと魔王は心に決めた。 

 まずはこのメモリアの教育だ。妖魔の成り立ち、魔力の使い方、そして…生存本能がないという生態について、叩き込まなければならない。だがまあ、まずは。

 ゆっくりと立ち上がり、身体の様子を確かめる。混沌領域へ潜る前と変わりはないようだと判断し、メモリアを抱き上げる。

 館へ戻って、メモリアを回復させるのが先決だ、と。


 ここで彼が放置した宿根朝顔が野生化し、騒動を引き起こすのはまた、別の話である。


 ※ ※ ※


「……余裕なんてものじゃないな」

 帰り着いた館の一室にメモリアを寝かせ、その容態を確認した魔王は苦笑する。消滅の機危機にあった魔王一人を回復させてなお、このメモリアはまったく異常がないのだ。こうなると、彼を消滅させたくないとギリギリの賭けをしていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。

 目を覚まさないのは、急激に魔力を失った衝撃が強すぎたのか。


「まあ、幸いだったけどな……魔力生成型か」

 多くの妖魔は、魔素を取り入れて練成し、魔力と成すことで術を行使する。魔力練成型と呼ばれるその機構は、練り上げた魔力を元に更に高密度の魔力を練成し、それを続けることで身体を構成する。

 魔力生成型はそれとまったく違う機構であり、直接的に魔力を生み出す。それも最初から高密度の魔力を生産するので、それがそのまま身体を構成する基となる。どちらも一長一短ではあるが、身体を失うことにならなかったのは、魔力生成型の恩恵だろう。


「まったく…危なっかしい奴だな。目覚めたらしっかり教育してやるから、早く起きろよ?」

 聞こえていないと分かっていながら、話しかける。独り言というよりも、聞いていないと分かっているからこそ出来る真似だろう。

 デコピンを一発くれてやって、寝台の天蓋を下ろす。そしてその眠りを妨げられないように幾つもの結界を施して、ついでに隠蔽の術も重ね掛けしてやって、書き物机に移動する。

 この部屋は、魔王の居室である。館内で一番広く、また日当たりもちょうどいい部屋なので、彼のお気に入りだ。実は隣室が厨房にしてあって、簡単な食事やお茶程度は用意できるようになっている。

 人間の領主と違ってやることもないし、今は従者や使用人もいないから、気兼ねもない。

 ない、のだが……そこにあった封筒を見て、後ずさる。間違いなく、混沌領域に潜る前には、なかったはずの当代妖皇からの封筒が。

 別に、それがあること自体は不思議ではない。どうやってかは分からないが、先代妖皇も当代も、突然に封筒を送りつけてくるのはいつものことだ。ただ、その内容が問題である。舞踏会の招待状なのだ。

 それは分かりきっていた。というより、それ以外の用件で封筒が届いたことはないのである。

 行きたくない。いや、これに目を通すことすら、したくない。非礼だということは知っているが、毎度毎度の仕掛けをやめない当代が悪い。

 なので、火のない暖炉に放り込んだ。ぼっ、という音で燃え上がり、机に戻り──。


『はーずれー♪ 今日の招待状には術はかけてないよ、残念でしたっ』

 

「かかってるじゃないか、毎度毎度!」

 無傷の封筒に向かって怒鳴りつける。勝手に燃え上がって元の位置に戻る、それが術でなくてなんだと言うのか。問い詰めようにも相手は妖皇で、しかも話が通じない。先代は何を思って位を譲ったのか、魔王の間でも謎とされているくらいに。

 深く深く溜息を吐いて、封を開く。開いたことで義務は果たせただろうと、机に放置することにした。このときだけは、従属や執事を持つ他の魔王が羨ましい。彼らに任せて素知らぬふりを決め込むことも出来るのだから。

 正確に言えば、従属自体は何人かいる。ただ、皆に自由を許しているから、この館を訪れる者は滅多にいないのだ。館や領地の管理は、術を組み合わせることで全てを賄っている。だから、普通ならいるはずの雇い人すら、この屋敷には存在しない。


「今回も欠席だな」

 毎度のことである。一応、年に一度くらいは顔を出そうと心がけてはいるが、それは新年の舞踏会で十分だ。十日もないような日程で送られてきた招待状など、知ったことか。

 目を覚まさない彼を置いてまで行く必要はないし、そもそも出席自体が希なのだから、別に問題視はされないだろう。永遠にとは行かないし、意識が戻ったらいずれは連れて行くことになるだろうが…まあそれは、メモリアにこの世界の常識を叩き込んでからにしよう。うん。

 魔王はそう、心に決めた。…のだが。


『だめですよー、そんなのー。ちゃんと起こして連れてきてねー』


 聞きたくもない響きの声が、部屋いっぱいに広がった。苦虫を噛み潰したような顔で睨みつける先は、当然のようにあの封筒だ。それが溶けたかのように姿を変えて、ふわり。


「だめですよー、ちゃんと妖皇さまにお引き合わせしないとー。下僕のつと」

 甲高い声の妖精もどきが現れたが、魔王は冷酷にそれを封じ込めた。


「誰が下僕か」

 手頃なものがなかったので、とりあえず置いてあった水差しの中身を、簡易牢獄に仕立てることで。もっともこの水差し、…いつごろ用意したものか覚えがない。実際、…それを象徴するかのように、緑色でちょっと臭う気がするが、気にしない冷酷さである。


「……、!! ……!」

 何か言っているようだ。しかし、聞く気はない。


「侵入者にかける慈悲は持ち合わせがなくてね」

 妖精モドキに苦しむ様子はない。単に閉じ込められた場所から出ることが出来なくて、焦っているのだろう。魔である以上、呼吸は必要がないものなのだ。

 問題は、水珠の表面が時々波打つと、飛沫が飛ぶことか。むろん、中の魔妖が暴れるせいだ。本来は水晶玉か、硝子の中へ閉じこめるのが静かでいいのだが…さて、どうしてくれようか。

 魔妖とは、まあ、妖精の一種と思えばいいだろう。はっきり言って、何を考えているのか分からない種族である。妖皇の使いであるかのような台詞だったが、皇はこの喧かしましい生き物を好かないから、ただ封筒に忍び込んだだけだろう。


「…ああ、あれがいいか」

 部屋の一角に置いた絡繰りを見て、魔王は決めた。

 元は人間が作った絡繰りで、天辺から玉を転がすと、気まぐれに音を鳴らしながら落ちていくだけの玩具であった。その音が気に入って入手したけれど、壊れた部分を直す際に材質を硝子に変えてみたら、思いの外好みの音に仕上がったので、部品が壊れるたびに置き換えた結果、ほぼ全ての材質が硝子、支えは木…というなかなか豪華な絡繰りに変身を遂げた代物だ。

 そして、…魔妖などを閉じこめるのは、水よりも硝子、それ以上に水晶が適切である。


『……っ、…! ……!!』

 じたばたと暴れるたびに、飛沫が散る。その程度で破れるような術ではないが、諦めが相当に悪いようだ。醒めた目でそれを見ながら、魔王は水珠を置いた。そこには同じような大きさの水晶珠が、いくつも転がっている。

 隣り合う水晶玉と水珠に片手で触れて、かちり、と。珠同士をぶつけるかのような指裁きで、場所を入れ替える。吸収されたかのように水珠は消えて、代わりに転がった水晶玉に、魔妖が閉じこめられていた。


「簡易牢獄だから、そのうちに解ける。…まあ、しばらくはこの絡繰りを堪能するといい」

 水晶玉を留めてあった楔を外すと、ごく僅かな傾斜に従って、玉が転がっていく。途中で行き止まり、回転する台に乗るための順番待ちが発生するので、一斉に落ちていくということはない。…まあ、水晶玉の中に閉じこめられた魔妖からすると、けっこうな恐怖かもしれない。

 やがて、キンと澄んだ音が響いた。リズミカルに、しかし静かに次々と音を響かせるそれは、一つの曲を奏でていると制作者は言っていた。作り替えるときに、同じ高さの音が出るように調整するのは骨だったなと思い出して微笑う。

 一つの玉が転がり終えて、次の玉が落ちる。面白いのは、これが一曲限りではなくて、回転台に用意された席の数だけの曲が奏でられるということだ。相当長く聞いていても、飽きることがない。


「なんか、いい音だな」

 その声に魔王が振り返り、笑った。

 天蓋の向こう側で、メモリアが大きく伸びをしていた。


「起きたか」

「起きたって言うか、動けるようになった…みたいな。お前さ、けっこう非道いことしてない?」

「ん? …ああ、魔妖か? ただの侵入者だから、この程度の仕置きは当たり前だな」

 閉じこめられた魔妖が救いを得た!というかのように、メモリアに向かって存在をアピールしている。…が、流石に今、天蓋の向こうにいる彼に見えるはずもなく。


「いつから気づいていた?」

「んー、なんかさっき、甲高い声が響いてなかったか? たぶんそのときだけど」

「ああ、こいつだな。見てたか」

「ん? 見てたっていうか…んー?」

 答えに詰まったのは、メモリアにその光景を見ていたという感覚がないためだ。光景がわかっているのだが、自分の目で見たようには思えない…そんな感じだ。


「まだ実体に慣れてないな」

 メモリアを含む妖魔は、あくまで人間と同じ器官を模しているだけなのだ。実体を得たばかりの妖魔は各種器官を上手く扱えるようになるまで、少々時間がかかる者もいる。おそらくは自己保身のために、周囲の情報を収集したのだろうと魔王が語る。


「ふーん…」

 メモリアが手を握り、開く。伸びをする。目を閉じて、開いて。自分の顔に触ったり、髪に触れたり。


「…ん? これ、俺の髪?」

 クセのある黒髪が、肩口まで垂れていた。くるくると指に巻いてみようとするが、そこまでの長さはない。


「ああ、特に触ってはいないが」

「ふーん…俺、こんな髪型だったんだ」

 延ばしても面白いかもなと考えたところで、じっと魔王を見る。正確には、その長い髪を。


「自分で手入れしてんの?」

「…まあ、梳くくらいはするが」

 人間のような手入れはしないな、と魔王は微笑う。

 しつこいようだが、妖魔の身体は髪の一本に至るまで、魔力の産物だ。風に煽られたり、絡んだりといった事故でもない限り、手入れの必要もない。

 ということもまた、丁寧に説明するあたり、この魔王はけっこう世話好きなのかもしれない。


「で、どうする? まだ寝台にいたいか?」

「いやー…起きたい気はするんだけど…」

 実は身体を起こすのがやっとで、歩ける気がしない…とメモリアはあっさり答えた。だろうなと、魔王もその辺りは承知のようだ。


「まあ、焦ることはない。待ってろ、何か飲み物でも持ってこよう。…ああ、とりあえず、周囲の情報を探るのは止めておけよ。目を使え」

「目?」

 そう言われたメモリアは、初めて顔を上げた。その視界に飛び込む、淡い虹色。


「…虹?」

 視線の先、魔王の髪は……輝くほどではないが、虹色に艶めいていた。


「面白いだろ。この色で固定するの、けっこう大変なんだぞ?」

 ふふん、と片目を閉じて見せて、魔王は部屋を出た。

 …もしかしたら、あの反応が欲しくて目を使えといったのだろうか。でも確かに、あの助言がなければまだ目を使っていないことに気づいてもいなかったかもしれないが。


「変だな…さっきは平気で動いたはずなのに…」

 本人は「さっき」と言うが、すでに三日が過ぎている。理由を言うなら、ほぼ限界まで魔力を吸われてしまい、この身体が新しく構築されたものだから、なのだが──メモリアの特性でそのことを知らないし、魔王はそもそも気にしていないし。ということを考え合わせると、たぶん、答えが出ることはないだろう。或いは何か、別のときにふと、思い出すか。

 そう言えば、と透けた天蓋の向こうを見る。珠が転がる絡繰りなのに、これだけ静かな部屋の中で、音が何も聞こえない。最初に落ちるときくらいは、音が響くはずだ。あの甲高い声や、魔王の声も、さっきは澄んだ音も聞こえたのに。


「耳を使ってないんだよ、お前は」

「耳? …あ、ホントだ」

 いつの間にか戻っていた魔王が、そう語りかけてきた。メモリアは自分の耳を触ったり、覆ったり、離したり…指を鳴らしてみたりしても、全く何も聞こえないことにようやく気づく。


「会話にならないから、俺の声は届けてるけどな。魔妖はそもそも思念でしゃべってるから、耳で聞くような声じゃないし」

 脇机にティーセットを並べる魔王が疑問に答えた。丁寧とはいえ、なにかしらの音はするはずなのに、やはりそれも聞こえては来ない。気づいてしまうと、音のない世界というのはちょっと不気味だ。


「まあ、目が使えるようになればコツは掴めるさ。もう手は動くみたいだしな」

 ああ、とメモリアは気がついた。ついさっきまで腕にあった違和感が消えている。つまりこれが、身体を使うと言うことか。


「…ありがとう」

 差し出された茶碗を受け取り、口をつける。こくり、こくりと飲み干して、息を吐く。


「これ…薔薇?」

「わかったか。ああ、庭で育ててる。歩けるようになったら案内しよう」

 ん、とメモリアは頷いた。わかったのは、飲んだときの香りのおかげだ。とても甘くて、馥郁とした…良質な薔薇であることを伺わせるそれが、まるで嗅覚を刺激したかのようだ。


「これも試してみるか?」

 差し出されたそれは、朝露がついたかのように煌めく黒い薔薇。そんな見た目の薔薇なのに、触った花弁は堅くざらついている。


「花ごと砂糖漬けにしたんだ。香りは上手く閉じこめたと思うんだが」

 魔王が花弁を食べてみせる。そういう菓子だと気づき、メモリアも少し、かじってみた。


「…ん、薔薇の香り、する」

 花弁を砂糖漬けにしたのではなく、一輪まるごと砂糖漬けにしながら色も香りも残っているその手法も気になるところだ。


「味はまだか」

 うん、とメモリアがうなずいた。それでも楽しげにそれを食べ尽くしてから、魔王を見る。


「あのさ、…魔王さま?」 

「ん?」

「…えっとー…魔王さまって呼べばいいのか?」

「…ああ、まだ互いに名乗ってないか」

 砂糖漬けを齧りつつ、魔王が笑う。


「そうだなぁ…一応、名はあるんだが…あまり、好きじゃなくてな」

「…好きじゃないって?」

「名というより称号だな。…妖皇に従う前の名は忘れた」

「…忘れるものなのか、名前って?」

「二百年近く名を呼ばれずにいたら、そうなるさ」

 さらりと流した魔王が、少し考える素振りを見せた。


「魔王フェネクス。…今の私の称号だ」

 魔王の頭に、狐耳が生えたのを、メモリアは見た。


「わ、狐!?」

 メモリアの様子を訝しみ、魔王はその視線の先、自分の頭に手をやって半眼になる。実はふさふさの尻尾も生えているのだが、幸か不幸か、どちらにも見えていない。


「…っ、お前その垂れ流しの魔力なんとかしろ。てか、何で狐なんだ?」

 狐耳を生やした魔王から、抗議の声が上げられた。へ、とメモリアが魔王を見る。


「…おれがやったのか、それ?てか、フェネクスて狐じゃないの?」

「不死鳥だよ。やったのはお前だよ。…無駄だぞ、さわっても」

 ふにふにしたいと手を伸ばすメモリアだったが、何の感触もなく手が素通りするところを見ると、どうやら幻らしい。不満げなその様子に、がしっ、と魔王がメモリアの頭を掴む。


「いだだだだだ」

「主が命じる。幻惑を解け」

 その一言で、耳は消えた。まるで、シャボン玉が弾けたかのように。

 それを確認して、魔王は手を離した。


「へー…ほんとにご主人さまなんだ」

 まだ痛いと涙目になりつつ、メモリアが呟いた。主になるという意味が本気でわかっているのだろうかと不安になりつつ、一言だけ釘を刺しておくことにした。


「敬えとは言わんから、自重しろ?」

 うん、とメモリアは頷いた。ただ、…はっきり言って、自分が何をしたかなど、把握していないことは明白だ。たぶんまた、この手の騒動は起きるのだろうと魔王は半分、諦めた。


「で。…お前、名前は?」

「え…俺、名前あるの?」

「あるはずだが?」

「知らないけど」

「おい…」

 仕切り直そうとしたら、言い出しっぺが名前を知らない。そんなことがあり得るのかと魔王は頭を抱えた。

 そして、そのまま沈黙が彼らの間に降り積もる。

 だが、さほど居心地は悪くない。急がなくてもいいかと魔王が思い始めたころ、ふと、メモリアが窓を見た。


「……綺麗だな」

 呟く彼の視線を追った魔王は、いつの間にか夕暮れを過ぎ、…すでに宵の口となっていることに気づく。

 そしてメモリアに目を戻し、──その変化に、目を見張った。


「それが、本来の姿か?」

 微笑と共に投げられた問いに、メモリアが首を傾げた。魔王が鏡を指すと、素直にそれを見て、驚いたかのように目を開く。

 どこか少年のようだった容貌は、青年と言って差し支えない雰囲気に。その黒髪は外に広がる闇を得たかのように深い群青に染まり、瞳はさらに深い闇を宿す。


「宵闇色か。──いい色だ」

 日が落ちきる寸前に、高い空を見上げればその色がある。それを過ぎれば夜闇となり消えてしまうから、ほんの僅かな間しか見られない、夜の色。そう、魔王が呟いた。


「ああ、そうだ。お前、名前がないなら…私が付けようか?」

「え?」

「仮の名前でしかないから、深く考えなくていい。何の捻りもないしな。…”宵闇(よいやみ)”。……どうだ?」

 宵闇、と青年は口の中で呟いた。悪くない響きだと、そう思う。けれど、…そうではないと言う気もして、浮かぶ言葉をそのまま口に載せていく。


「──  宵闇  薄暮(はくぼ)  夕暮れ  黄昏(たそがれ)  薄明(はくめい)  twilight  abent  dusk   aabentdanmerung  early evening  abent  ──」

 青年が呟くその言葉は、いくつかが魔王も知っている言葉だった。けれど、それを除けば…聞き取ることすらも出来ない、不思議な響きがあった。

 それをしばらく繰り返し、やがて青年が魔王を見て。


「アーヴェント。……夜よりも早く。黄昏よりも遅い時間に広がる、薄い闇のころ」

 そう、応えた。

 ああ、と魔王は頷く。それを色の名で表すなら、宵闇となる。


「いい名だな」

 微笑む魔王に、アーヴェントが笑い返した。


「では、アーヴェント」

 改めて向き直り、魔王が呼びかける。頼みがある、と。


「頼み? 従者に?」

 命令すればいいのにと言外に散りばめて聞き返す。魔王は…たぶんそれが性格なのだろう、気にする様子もなく言葉を続けた。


「私に、名をくれないか?」

「え?」

 唐突だった。先ほど聞いた名前が好きではないと言っていたが…?


「フェネクスは、ただの称号だ。妖皇の従者であることを示すだけの、な。私は自分の名を忘れた…称号に押し潰されて、取り戻せない。けっこう、気に入ってたはずの名前なんだけどな」

 妖魔の名は生まれつき持つものであったり、誰かに名付けられたり、あるいは自分で付け替えたりと、自由なものだ。自分で納得して変えたのであれば、忘れたりはしなかったのだろうけれど、と魔王は自嘲の笑みを浮かべた。


「先代妖皇の従者に成った経緯を、私は思い出せない。手伝えと引きずり込まれたことは覚えているし、従者であったこと自体に不満はないが、契約の内容が思い出せないから、名前が取り戻せない。私の名を知る幾人もが試したが、私にはその言葉が聞こえない。聞こえない言葉は、私の名ではない」

 先ほどのアーヴェントのように、己の名として声にして、ようやく成り立つ。それが、妖魔の名となるのだと魔王は締めた。


「メモリアは、その特性に”意味ある詞葉”を持つ。先ほど、お前が自分に名付けたように…私も名が欲しい」

 アーヴェントの戸惑いに気づいてなお、魔王は願いを取り消さない。それがどんな決意なのか、あるいはただの戯れなのか…彼に見抜く手段はない。

 やがてアーヴェントが、魔王の瞳を見た。


「──っ」

 何かが吸い出されるそうな、不快なざわめきが身体を通り抜けていく。


「──  虹霓  星虹  月虹  白虹  赤虹  光冠  彩雲  幻日  rainbow arc-en-ciel arcus  ιρις  arco-iris  ──」


 まるでそれが呪文であるかのように、魔王の周囲を何かが取り巻き、弾ける。


「イーリス」

 それが何を意味する言葉なのか、魔王は知らない。けれど、鸚鵡返しにその言葉を呟けば、──その髪が虹色に輝き、煌めく。

 煌めきは一瞬…けれど、髪そのものが淡く、静かに……しかし、確かな光を帯びていた。何かの光を受けたのではなく。


「うわ…すごいな、それ」

 うん、と魔王は頷いた。頷いて、…破顔した。


「自慢の…髪、なんだ」

 イーリス、と魔王が呟く。うん、とアーヴェントが頷く。


「私は……イーリスだ」

 破顔一笑。

魔王さま、あそばれてます。


・『術』『魔法』の区別が明瞭になりました。第二部に影響します。

・魔王の一人称を「私」に統一。すみません、最初から統一してるつもりでした m(__)m

・名付けシーンを改稿。本編には影響しませんが、雰囲気が変わりましたので、よろしければお読み下さい。

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