1-1 『魔素が凝り、魔物が生まれる。心が凝り、妖が生まれる。混沌が凝れば、それが妖魔だ』
2017年9月23日 全面改稿。
なぜか文字数が倍増しました。あれ?
魔素の奔流に押し流されて、落ち着いたそこには──何も、ない。
ただ、白い──それだけの空間だ。自分たちが浮いているのか、地に足をつけているのか、それすらも定かではない奇妙な空間である。
「──やはり、白妙空域か」
何もない、真っ白な空間であるそこを、彼をそこに誘った二人は”混沌領域の上層”だと言っていた。
本当はどうかは知らないが、少なくとも現世ではないことだけは確かであり、ここで契約を済まさないかぎり抜け出せないことも経験として知っている。ここも渾沌領域と同じく、現界の法則が通用しない。
だからそこにいるのは、雲のような、霞のような人型をした何か、である。
さてどうやって伝えたものかと考えたところへ、…戸惑いが伝わってきた。
「どうした?」
『なんか、変な感じ──俺、どうなってる…?』
ああ、と魔王が笑う。混沌領域から、白妙空域へ来るとほぼ全員が見舞われる現象だ。存在が変換されるまでの僅かな間に、自分を見失うらしい。魔王とて、姿こそ保っているけれど、全体的に真っ白な、顔のない人形の様な状態だ。魂を抱え込んでいるという認識がなければ、見失ったことだろう。
『気にするな。ここではよくあることだ』
掛ける言葉はそれしかない。不安も戸惑いも当然ではあるけれど、ここではそれが当たり前で、誰もその理由を知らないのだから。
『自分の手すら見えないってのは、気にするとかしないとか、そんなレベルの話じゃないと思うんだが、どうよ?』
「どうよと言われてもなぁ。気にすればするだけ、悪化するぞ?」
苦笑しながら答えた魔王に、憮然とした雰囲気が伝えられる。こんな形でも、自我はしっかりとあるらしい。
『なあ…おれ、どうなってんの?』
「──そうだなぁ。私的には、抱きしめている感じだが」
『は!?』
…言葉というのは、意外と不自由である。抱き抱える、では持ち上げていることになってしまうし、抱いている…では全く違う意味に取られるし、そうなると、「抱きしめる」以外に適当な言葉がない。まあ、それはそれで誤解を生んでいるわけだが。
『…あ、そっか。抱きついたっけ』
あっさりと諒解したそのとたん、人影が二つに分裂した。魔王…らしき影が、魂らしき影を守るかのように抱きしめている。──と、見えなくもない。そしてその影の片方が、ゆっくりと体を離し、身体を確かめるかのように腕を掲げては下ろし、下げては上げた。
「おもしろいな、お前」
くっくと笑いながら魔王が告げる。
魔王は、今の姿が霞のようになっていることに感謝するべきだろう。爆笑をこらえていることが、相手に伝わらないのだから。
『お前今涙拭っただろ!?』
「さて、どうかな。こんな身体だしな?」
楽しげに魔王が応え、魂は…ぶすくれた表情が見えそうな雰囲気で、じたばたしている。
『何なんだよ、この身体はさぁ!?』
「簡単に言うなら、自分を見失ったというところだな。とりあえず、自分の姿を思い浮かべてみろ。それで変わるはずだ」
『自分の?』
小さい人形が、首をかしげる。
『自分の……姿?』
人形の手が魔王に延ばされる。反射的にそれに触れた魔王の脳裏に、一瞬だけ赤い髪が翻った。
バカな、と魔王が戸惑う。檻から引きずり出したとき、その髪は黒かったはずだ。翻るほどの長さもなかった。赤くて長い髪であったなら、腕に抱えていたときに、気づかぬはずがない。
『自分…じぶん…?』
魔王の困惑には気づかず、魂が呟く。延ばされていた手もいつの間にか消えていて、人形はただ、首を傾げた姿で──薄れかけていた。
「おい!?」
慌てて霞んだ人形を抱き抱えるが、その腕すら──雲のような腕ですら、すり抜けてしまい、捕らえられない。
『俺…オレ──わたし…ワタシ──おれ……』
戸惑いに拡散していく自我に、魔王が音を上げた。
『もういい! 考えなくていい、私の手の感覚に意識を集中しろ!』
『て? テ、て…手、て…?』
あ、と何かに気づいたかのような声が聞こえて、魔王の腕に触れる何かがあった。広がっていた霞が再び集まり、先ほどよりも厚みのある雲のような人型が構成される。
『オレを掴んで引き抜いた──あの手、だ』
「ああ、そうだ。この手がお前を引き抜いた。どうにか、落ち着いたようだな」
どこか安堵した声で、魔王が答えた。
「手しか見えないけど?」
「──霞よりはマシだ」
苦虫を噛み潰したような声の今の魔王を例えるなら、そう──顔のない人形素体に、本物の腕が生えている、そんな状態だ。そしてそれに、雲が絡みついているという──渾沌に相応しい光景である。
『なあ、…ずっとこのままか?』
そんなわけないよなと、不安が伝わる。…今度は崩れることもないから、かなり安定したようだ。
『ああ、そのつもりはない。まあ、まずは』
周囲の空気が動いたかのように見えたその直後、──二人は机を挟んで胡座をかいていた。
「え、……え!?」
突然の出来事に、魂は混乱している。ちなみに見た目としては、──素体が胡座をかいていて、白一色の綿で作られた人形が相対しているという、渾沌からは抜け出したものの謎な光景である。
「卓袱台と、座布団だ。わかるか?」
とりあえず、混乱を収めるのは大変そうだったので、目の前の家具について確認した魔王である。
「──”卓袱台”。四本足の短い机。古き東の果ての国で用いられた家具。特徴として、足を畳むことが出来る。
──”座布団”。卓袱台を使う上で欠かせない、薄く綿を入れた敷物。それを数枚重ねて座ることもある」
淀みなく答えられたその答えに、魔王の反応はない。いや、正確にはその答えに驚いたらしく、固まっていた。
「……今の、おれ?」
「ああ、そうだ。──そうか、おまえ、メモリアか」
「メモリア?」
「メモリアだ。わかるか?」
「──いや、まったく…」
普通なら期待はずれとなるであろうその言葉に、魔王が笑う気配が溢れた。その答えを待っていたんだ、と。
その様子が理解出来ないのか、魂の──メモリアの姿がわずかに霞む。
「まあ、まずは駆けつけ一杯。──茶を入れよう。緑茶でいいかな」
「ばあちゃんかよ」
その一言で、崩れかけていた身体が戻る。──そこから更に、少しだけ生き物に近くなったようにも見えた。変化の様は興味深く、見ていたい衝動に駆られる魔王であったが、とりあえずは、自重する。
卓袱台の上に、一瞬で道具が並ぶ。慣れた手で持ち上げた茶筒の蓋を取り、中に入っていた大きめの匙で茶葉を掬い上げる。茶筒を置いて急須の蓋を取り、茶葉をその中へ──
「──待って、それじゃダメだ。急須──、温めないと」
思いの外はっきりした声で、メモリアから静止がかかる。その言葉に、ああと魔王が笑った。
「温めてある。さわってみるといい」
言われるままに手を差し出して、──呟く。
「理不尽だ」
「まあ、…同意する。だが、お前にも出来るぞ?」
それはこの空間の特性ではなく、妖魔としての特性で──人間で言う魔法のようなものである。いちおう、発現には手順があるのだが、この白妙空間においてはそれが不要で、ほぼ望みのものが瞬時に用意される。
問題は、それが何で出来ているのか、まったく予想がつかないことだが。
「……躊躇わないんだな」
「ン?」
差し出された茶碗を躊躇なく受け取り、口にした様子で魔王が呟いた。今までにも何度か似たようなことをしているが、皆、最初は躊躇ったものだ。
「躊躇うだけ無駄っていうか無意味かなって」
「無駄?」
「毒を盛るくらいなら、わざわざあんな気味悪いものの中に腕、つっこまないだろ?」
意外とあっさりした理由に、魔王は虚を突かれた。それだけの理由で、と。
「……まあ敢えて言うなら、どう見ても俺の方が弱そうだし。逆らっても無駄だろうなとかも思うんだけど」
「──弱い? お前が?」
その言葉と同時に、煌めく光がメモリアを取り巻く。まるで鎖のように巻き付いたそれは、メモリアのちょっとした身動ぎで弾けて消えた。
「……何、今の?」
「隷属の鎖。魔力の差がそのまま反映される……まあ、人間風に言うなら奴隷にするための術のようなものかな」
「っておい!?」
「効かなかっただろう?」
それが魔力の差だよと、魔王が呟いた。胡座をかいたまま卓袱台に頬杖を付き、呆れたような視線を投げかけて。
「──効かなかったって、今の?」
「簡易な術だから、よほど魔力に差がなければ隷属させたところで効果はないがな。その分、術自体は強力だ」
「つまり?」
「あれだけ簡単に弾いて置いて私より弱いとか、あり得ない」
ぶすくれた声に、メモリアが吹き出した。
「止めろよそれ、いい男が台無しだから」
「え?」
「頬杖。顔がひしゃげてるぞ?」
指摘されて初めて気がついたかのように、魔王は姿勢を正した。その目の間に、──若い、青年がいる。ゆったりとしたシャツで、袖口は広く。刺繍が入った襟元ははだけているが、本来はボタンで留めるようになっている。卓袱台の下に隠れているからそれ以上は見えないが、──見えるかぎりは、魔王の着ている衣服と、全く同じものである。
「──お前、いつ…あれを取り込んだのか!?」
白妙空間においては、互いの認識が一致して、初めて姿形が取り戻せる。本来は渾沌領域で見た姿を魔王が再現して相手の意識に送り込み、それを相手に補正させるという作業を繰り返し、認識の齟齬を限りなく削って、ようやく互いの姿を認識出来るのだ。
今までの会話や茶のやりとりもその一環であり、鎖を送ったのはただ、隷属させられないことの確認に過ぎなかったが、それ以外では考えられない。
「え、あの……え?」
青年が戸惑っているのは、まったくその認識がないためだと気づき、魔王は溜息を吐く。
『メモリアはねぇ、存在からして例外だらけだから、覚悟しなよ?』
脳裏にそんな言葉が響く。ここを訪れた先達が、珍しく疲れたような顔でそんなことを言っていたなと思い出す。
「いや…、いい。互いに見えているなら、何よりだ」
そう、結論づけることにした。本来なら齟齬の排除に半日を要するのだ。それがすでに成されたのだから、文句を言う筋合いでもない。何より、自分が仕掛けたあれのせいなのだから。
腑に落ちないという顔ではあったが、青年は頷いて茶碗を戻した。
空になった急須に、魔王が二煎目の湯を注ぐ。先ほどよりも長く時間を置いて、茶を注いだ。しかし、青年はそれに手を出さない。
「…口に合わなかったか?」
苦笑しながら魔王が問いかける。緑茶だということを知っているようだったから安心して出したのだが、知識と好みが違うことは珍しくない。
この緑茶、実はごく一部の地域でしか生産されておらず、その辺りでしか飲まれない代物だ。魔王がいる国では交易の品として入ってくるが、あまり人気はなく、ほぼ全てを買い占めてもどこからも文句が出ないという残念な商品である。
「あ、いや…すごく、いい香りだとは思ったけど」
青年は戸惑ったような顔を更に歪めて、呟いた。
「味が、わからなくて。飲み口は、すごく…懐かしい、けど」
「──ああ、そういうことか」
合点がいった、と魔王は頷く。おそらく、体の構成が早すぎたのだ。ゆっくりと、いつものように時間を掛ければ味覚も成長したのだろう。だがそれは、さほど時間を掛けずとも取り戻せる程度のことだ。
だから、ここにいる必要もない。
「──ああ、そういえば茶菓子を出さなかったな。何か、出してくれないか?」
「え……でも…」
味がわからないと告白したのにと、青年は躊躇う。だからこそだ、と魔王は促した。
「味覚は後から育つ。…今、お前が欲しいと思う茶菓子を思い浮かべてみろ。それがおかしかったら、私が責任を持ってなおしてやる」
そんな必要はないと分かっていたが、敢えて告げる。それで何か吹っ切れたのか、──硝子の器に入った、星屑が現れた。
「あ……ほんとに、出た」
「白妙空間だからな。……これ、金平糖か? ずいぶん大きくないか?」
「職人さんに特注すると作ってくれる特大金平糖。味はちゃんと、金平糖だから、大丈夫。…そういえば、すごく小さいのもあった」
もう一つ、今度は小さな瓶に入った金平糖が現れた。見比べると、…とても同じ名前の菓子とは思えない大きさである。
「…いや、これは逆に小さいような…金平糖、だよな?」
「”金平糖”──芥子の実を芯に、ザラメ糖の蜜をかけながら転がすことで、角が立った菓子。果汁などを加えることで、風味を変えることも出来る』
「いや、作り方ではなくて……まあ、いいか」
大きい方の金平糖を手に取る魔王だが、…まるで大きめの飴玉なので、口に入れるには少々、勇気が必要だったようだ。
それでも口の中に放り込み、かしり、と噛み砕く。
「果汁で味をつける、か。なるほどな」
顔が綻んだのは、味が気に入ったためだろう。色が違うことに目をつけて、次々と味を確かめていく。
「……えっと…ほんとにそれ、味見してる?」
茶碗を口に運びながらの味見に、青年が半眼でつっこみを入れた。ん、と魔王が首を傾げて。
「美味い茶菓子だな」
「一人で楽しんでんじゃねぇよっ」
実は青年も食べては見たのだが、噛み砕くことは出来るものの何の味もせず、それどころかそのまま消えたような感覚に襲われて不安になっているのである。
「だから、美味いぞ?」
粗方食べ終えて、もう一度告げる。一瞬、かみつき掛けた青年だったが──意味に気づき、溜息を吐いた。
「お気に召しましたなら何より。…もう少し、分かり易く言ってくれ」
「……努力しよう」
魔王としては、十分に伝わっているのだから別に問題ないと考えているのが丸わかりである。
さて、と魔王が青年に向き直る。
「何から話そうか。…何から聞きたい?」
「何って言われても…俺は誰なの、とか…あと、貴方はどこの王子様ですか、とか」
「王子? ──私は、魔王だが?」
「へー……魔王さまなんだ?」
感心したような青年の声の間に、魔王の頭にまっすぐな角が生え、その背中には真っ黒な翼が生え、その口には鋭い牙が生えた。
「おいおい、人で遊ばないでくれよ」
笑いながらそれらを払うと、簡単に消えてなくなったが──今度は羊のような丸まった角と、蝙蝠のような翼と、牙が消えた代わりに長い爪、そして猫の尻尾──が、九本。
「あれ、間違えた。狐にするはずだったのに」
「いや、だから羽も角も、種族が違うからな。…尻尾もないから!」
また叩いて全てを消して、魔王が溜息を吐く。
「なるほどな。お前の認識では、魔王とは”魔族の王”か」
「──違うんだ?」
「ああ。魔族に長はいるが、王という存在はない」
疲れたような口調を装い、魔王が告げる。だが、青年のにやにや笑いは、それを演技だと見抜いているようだ。
「まったく、遠慮がない奴だな。──私は魔族ではなくて妖魔だよ。耳も尻尾も牙も角もない、見た目はただの人間と変わらない種族だ。……お前と同じく、な」
「え、おれ?」
呟いた瞬間に、青年の背後に尻尾が現れて、ふるふると揺れた。これも、猫の尻尾のようだ。
「なんでお前なんだ」
「や、なんとなく?」
もういいや、と魔王は諦めの境地に達して、溜息を吐いた。どうせ、これだけ自在に遊べるのはこの空間だけだから、と。
「魔物と、妖魔。違いはわかるか?」
「いや、まったく」
ふむ、と魔王は考え込んだ。
『魔素が凝れば、魔物が生まれる。心が凝れば、妖が生まれる。渾沌が凝れば、それが妖魔だ』
先達が、そう言い表していた。妖魔の自覚があればまだしも、それだけでは流石に、納得するまい。
「…簡単に行こうか。まずは、魔素。魔法の元になる元素だが、通常は、目に見えない。これが凝ると──魔物が生まれる」
卓袱台の上に小さな竜巻が起き、それが小さな竜に変わって、消える。
「心。──これも目に見えないが、凝ると妖が生まれる。妖に決まった形はないな」
小さな人間が仲睦まじく、それを端で見ている人形がどす黒く──その何れもが、何かに変わる。
「最後に、渾沌。凝れば、そこに自我が生まれる。それが妖魔──私たちだな」
「──生まれる? 宿るじゃ、なくて?」
「ああ。自我は生まれるものだ。──なぜ、そう思った?」
逆に問われて、青年は戸惑いを見せた。ただ、そう思ったから、と。そして更に、問いかける。
「メモリアは? 俺を、メモリアって呼んだよな?」
そうだなと魔王が肯定する。一拍の間を置いてから、彼は答えた。
「メモリアは、渾沌の中でも異世界の知識が凝ったものだと言われている。だから、この世界の知識が何もないのだ、とな。…そう言い出したのが何者か、誰も知らないが、な」
「──異世界?」
「そう。幾つもある世界のうちのどこかだろうとな。…私は、そうは思わないが」
魔王には別の見解がある。それは今し方の彼とのやりとりで確信に近づいているのだが、あくまで推測でしかないために、それ以上を言う気はなかった。
「なあ、メモリア。お前、この世界を知りたくないか?」
だから、唐突に問いかける。この地を出た後のメモリアの運命を知るが故に?
いや、たぶんきっと、自分自身の望みのためだけに。
「この、世界?」
「お前が知らないもの、知っているもの──きっといろいろなものがある。私と一緒に、世界を見て廻る──そんな暮らしをしたくはないか?」
「──それは、すごく面白そうだけど」
話の流れについていけなくて、メモリアは戸惑っている。だがその答えは、けっして社交辞令ではないと確信していた。
同じ、妖魔だから。凝ったものが違うだけで、人間より遙かに好奇心が強く、好き勝手に生きる種族なのだから。
「生きるために必要な知識は教えよう。お前を狙う輩からも守ってやる。──だから、私とともに来い」
「──てか、俺なんか狙う奴、いないだろ?」
「いや? …そうだな、おまえ個人が狙われるかと言えば、そうではないか」
そうだろうと言いたげに、青年が頷く。…が。
「周りにしてみれば、メモリアは異世界の知識の塊だ。その自我を壊せたら、この上もなく重宝すると──そう思う思考は、理解出来るか?」
「は? ……待てよおい、なんだよそれ!?」
「過去にいたそうだ。…人里に生まれたメモリアの末路だ」
だから、と感情のない先達の声が脳裏に響く。
だから、とメモリアが無表情に問いかける。
『渾沌空間に来る方法を教えるのは、そのためだよ──』
「自我を壊されるよりも囲い込もう──ってことかよ?」
はは、と魔王が笑う。重なった言葉のあまりの温度差に。まあ、概ね間違いではない。自由を好む妖魔を配下に置こうと言うのだから、それは囲い込み以外の何者でもないのだし。
「よ」
「余計なお世話だ、ってかもっと分かり易く言え、何言えばいいのかわかんねぇよ。……か?」
青年が口をあけたまま固まった。別にそれは読心術ではなくて、ただ魔王が、先達に対して思ったことをそのまま、彼の口調に改めただけなのだが──正解だったようだ。
「説明下手ですまんな。報告書なら、もう少しまともな内容になるんだが」
「……報告書? ……あ、魔王になる前になんかやってたんだ?」
「いや、魔王の仕事だ」
「……はい?」
「知りたいか?」
にやりと笑みを浮かべる魔王に、青年がうぐぐと口を噤む。そのまま何も言わない彼に、強情だなと溜息をつく。もう、何度目か分からないそれを見たメモリアが、空中で何かを捕まえた。
「──なんだ?」
「幸せ」
「──は?」
「溜息を吐くと幸せが逃げるっていうからさ、捕まえてみた」
にやりと笑いながら答える彼に、ふ、と魔王が笑う。なんだかな、と。ずいぶんと喧嘩をふっかけてきたが──このメモリア、とっくに心は決まっているようだ。
「なあ。…もう、この会話が面倒になってきたんだが?」
急に砕けた気配になった魔王に、青年は笑みで返した。
「うん、実は俺もめんどいと思ってる。…けど、確認しておかないと──なぁ?」
「面倒だな、メモリアってのは。とっとと配下に置いて、反論出来ないようにするべきだったか?」
「そんな気ないくせにー」
当たりだよ、と魔王は笑みを深くする。
妖魔は自由を好む。──好んで配下に来るならまだしも、だまし討ちなど出来るものかと。
「──で、魔王さま…なに、やってんの?」
「ん? …ああ、固めの杯とかいう奴だ。それっぽいだろ?」
卓袱台の上に、杯が現れていた。
「…あのさ、待って? ここってほんとに異世界?」
「さてな? それを確かめるのも一興だと思わないか?」
答えない魔王に、青年が舌を打つ。ただ、その表情はとても楽しそうだったが。
「わーったよ。いいよ、それで」
「理解が早くて何よりだ」
差し出した杯を、青年が受け取る。その中に注がれているのは、魔王の魔力そのもので、見た目は少々濃いめの黒い液体だ。
魔王自身でも躊躇う見た目のそれを、青年はあっさりと飲み干した。そして一瞬その身体が光ったけれど、それだけで終わる。
「…これも弾くか。参ったな」
「……あ、さっきの…隷属の鎖だっけ、あれか? ってことは、契約不成立?」
魔王が頷いた。先ほどのあれは本気ではなかったし、弾かれて当然ではあった。しかし、今回は同意を得ているし、束縛自体もただ、他者に対して所有権を示すだけのごく軽い盟約だ。それを弾かれるとなると、ずいぶんと勝手が違ってしまう。…と、言うよりも。
「……なあ、何か首のまわり、キラキラしてるように見えるけど、なにそれ?」
「あー……隷属の鎖だな。ちなみにこれ、お前が主だぞ」
「は!?」
確かに目を凝らして見れば、その先端は青年の心臓へと繋がっている。契約の逆流と言われる現象だ。
保護するはずだった相手に隷属させられるそれを受けていながら、魔王は平気な顔をしている。
「いや、待って? 隷属って、え? 俺が主? なんで?」
「まあ、お前の方が存在が上だからだろうな」
「あるの? 存在に上下があるの!?」
あるよ、と魔王は笑う。それは身分という意味ではなくて、単純に内包する存在力がどれほど強いかという一点にかかってくるらしい。それを言い換えるなら、どれほど強く自我を持っているか、だ。
だが、そう説明された青年は納得しない。魔王であると名乗る彼が、どうして自分より下に扱われるのか、と。
「まあ、そもそも自力で魔王になったわけじゃないからなぁ。言っただろ、妖皇がいるって。私は二代目妖皇に勧誘されただけの魔王なんだ」
「……勧誘?」
「その辺りは長くなるから、今度な。…で、どうする? 私に否はないが、主になるか?」
「へ? 俺が決めるのか?」
「そりゃ、主になる方に決定権があるのは当たり前だろう?」
実際、まだ盟約の鎖は目に見えている。これはまだ、契約として成り立っていないことの証である。
だが、青年としては部下が欲しいのではなくて、要は保護者が欲しくて契約に同意したようなものだ。はいそうですかと頷くわけにもいかないだろうというのは、理解出来る。
魔王としては、実はどちらでもかまわなかった。彼の様子からして、どうせ関係性は変わらないだろうし、庇護下に置いて命を賭けて守るか、主と仰いで身命を賭して守るかの違いでしかないのだから、結果は同じだと。
「同じじゃねぇよ! あのな、さっきから全部聞こえてるから、何考えてるか!」
「それは重畳。──お前なら、悪い主にはならないと思うんだが?」
「俺はそんなもんになる気はねぇ!」
「そうか。……では、どうする? 私を喰らう方法もあるが…その気はなさそうだな」
その一言で睨みつけられて、魔王は前言を翻す。初代妖皇の話だが、どうしても従属を嫌がる妖魔を喰らい、自分の力に変えたと聞いたことがある。最終的には配下として存在を作り直したらしいが。
「それ、もっとヒドいだろ。自分が何言ってるか、わかってるか?」
「隠すわけにいかないのさ。今のお前の前では、な。効果としては悪い選択肢じゃないと思うんだがな。力の使い方を理解したら、私を生み出してくれればいい」
「いや、だからさ。…それ、何の意味があるんだよ。俺が一人で放り出されるってことだろ?」
「自由を得る」
間髪入れない答えに、青年が言葉を失った。魔王のその言は、──彼に、突き刺さったようだ。
「誰にも縛られず、自由に生きることが出来る。私の知識はそこらの妖魔では比べものにならないと自負しているぞ。それが一気に手に入る。──魅力はないか?」
「孤独と引き替えにか?」
今度は、魔王が言葉を失った。もともと、妖魔は単独で存在しても不自由がない種族である。たまたま彼がメモリアで、この世界の知識がないから保護をするだけのことだ。知識があり、不自由のない魔力もある。…それがなぜ、孤独を嫌うのか。
「一人で生きて、何が面白いんだよ?」
バカバカしいと、一笑に付す。そして、自分の心臓から伸びる光に目を付けた。
「この鎖のせいだよな、変なこと言い出したの。外せよ、これ」
「いや、無理だ。反転した時点で私の制御は受け付けない。っ…、おい、待て、やめろ!?」
何を考えたのか、メモリアがその鎖に手をかけた。いや、何をするかなど分かり切っている。
「止めるかよ! こんな鎖なんか引きちぎればいいんだろ…っ!」
「バカか、暴発するぞ──っ」
自分の心臓から伸びるその鎖を、メモリアは──両手で、引きちぎった。
ちぎられた鎖は、魔力となって荒れ狂う。魔王が即座に結界を張りはしたが、メモリアと自分と、それぞれを守るように作るのが限界だった。本人はそれが悔しいようだが、他の妖魔から見れば、刹那にも満たない間によく間に合わせたものだと感心されるだろう。
幸い、魔力は程なくして魔素に戻って拡散したから、大したことにはなっていない。眩いまでの魔力の奔流が消え去った後、二人は変わらずその場に座っていた。
変わったことと言えば、机上の物品だが。
「……なあ、魔王さま。この巻物、何?」
「……”盟約の書”? 知らん、初めて見る」
何事もなかったかのような平常運転のメモリアに呆れつつ、魔王が答える。
そこにあったのは、紙を筒状に丸めたもので、確かに”巻物”と表現したくなるような見た目である。題名からすれば、盟約の鎖と同じようなものではないかと想像はつくのだが。
とりあえず、と魔王がそれを広げた。中にはただ一行だけ、記されていて、それを見た魔王が苦笑する。
「契約書だ。…たぶん”盟約の鎖”よりも上位の術だな」
「へ? …だってそれ、一行しか書かれてないじゃん?」
「ああ、そうだな。読めるか?」
「読めないけど、意味はなんとなく」
だろう、と魔王が苦笑を深くする。
”互いに支配しない、対等な関係としての主従契約であること”
それが、全文である。
「盟約の明文化か。これは私じゃないな…お」
「俺じゃないし出来ないから’」
答えに被せてメモリアが笑った。その意図に気づき、魔王が舌を打つ。紛うことなき仕返しである。
「──対等、か。破格の条件でうれしい限りだが……大雑把すぎるだろう、これは流石に」
「そうか? 別にかまわないけど。隠し条件とかないんだろ?」
その一言で、一文が追加された。
”魔王が主、メモリアが従。主は従者に誠実であれ”
「…ん? 普通、逆だろ。ていうか、相互に誠実であるべきだよな?」
”魔王が主、メモリアが従。いかなる時も、互いに誠実であれ”
「よし」
「……なあ、本当にお前の術じゃないんだよな?」
目の前で書き換わった内容にメモリアは満足げだが、…あまりに彼の意図を汲み上げたその変化に、魔王は額を押さえる。幾度かこの白妙空域を訪れてはいるが、こんな現象は初めてなのだ。
「違うって。そもそも術ってなによ?」
「……そうだよなぁ……」
魔力を実体化すること自体は、基本過ぎて誰にも教えられない。目の前で見せてやれば、彼のようにすぐに再現可能だ。……まあ、どこまで精密に出来るかという意味では、向き不向きもあるのだが。
だがこれは、そんな簡単に出来る術には思えない。魔王自身、”盟約の鎖”は先達に仕掛けられたものを自分で解析し、ようやく使えるようになったのだ。
(──いや、見せてはいる、か)
つい先ほど、自分が戯れに仕掛けていることを思い出す。よほどの才能が必要だが、そこから解析出来ないわけではない。…ただ、ちょっと目の前の彼と結びつかないだけで。
「……何かすごく失礼なこと考えてるよな?」
「……さて?」
下手なことを言うと条文に追加されそうだったので、あからさまに誤魔化しておくことにする。
「この内容で文句ないんだよな?」
「文句はないが……破格過ぎて逆に怖いな」
笑えない本心を吐露し、魔王が溜息を吐く。メモリアがちょっと何かを考えて──追加された一文に頷いた。
”従の申し出以外、この契約は変更・破棄出来ないものとする。故に申し出も禁じられる。”
「よし」
「……なんでそうなった…?」
「鬱陶しいから」
殴られたような顔で魔王が頭を抱えるが、メモリアは気にしない。
「もういい、何も言わないから、それ以上条件を下げないでくれ……頼むから」
「じゃ、これで締結ってことで…いい?」
「ああ。…念のため、言うだけ言わせてもらっていいか?」
妙に腰の低い魔王さまである。
「私は確かに魔王だが、永遠の地位というわけではない。ほかにも魔王はいるし、私の序列は低い。盟約の鎖を弾けるくらいだ、お前が望めば魔王の次位も難しくない。だが、一度私の庇護下に入れば、魔王になることは出来なくなる。──問題ないか?」
「へぇ…そんな約束事があるんだ。てか、筆頭じゃないんだな?」
「筆頭はまあ、…妖皇のお気に入りだから、翻ることはないだろう、たぶん」
あやふやな情報であるが、事実である。何しろ、その人物を筆頭魔王の地位につけたいがために妖皇の地位に就いたのだから。
「ん? 序列って、その程度のものなのか?」
「そうだな。それで何が変わるわけではなし──ああ、宮廷内での扱いが変わるな。そうでもしないと渾沌の坩堝になるから」
実際、初代妖皇のころは酷かったらしい。皆が好き勝手に振る舞うから備品は壊れるし、魔力の制御が出来なくて消滅の危機にさらされたりする妖魔もいて、魔王の任命と序列による縛りを設けることで、落ち着かせたのだと聞いている。
「後はまあ…好戦的な魔王もいてな。所謂、脳筋という奴だが…出会うと面倒だ」
「…あ、もしかして、俺に魔王になってほしい? んで、派閥仲間増やしたいとか?」
「え?」
「いや、だから……うん、いいや、勘違いみたいだから、いいよ、忘れて」
固まった魔王の様子に、まったくの見当違いだったと言を取り下げる。…が、まあ確かに、その誤解は不思議でもないだろう。序列だなんだと、宮廷内の話を聞かせているのだから。
「悪い、ただの雑談だよ。…どうせ、戻ったらすぐに呼び出しがかかるだろうから…先にな」
「……なんか、魔王って大変? 世知辛い?」
「……今の魔王は、お伽噺に出てくるような魔王とは、全く違うな。世知辛い…うん、その表現が合うかもな」
はは、と乾いた笑いで魔王が答えた。
「そういうの、関わりたくないけどさ」
うん、と魔王が頷く。自分が魔王になったときは、…基本的に関わらなくてもいいという契約だったから。
「よろしく、魔王さま」
「──ああ。末永く、な」
差し出された手を握り返し、魔王が答えた。
「フェネクスの称号に置いて、盟約を受諾する」
その言葉に、二人は再び──魔力の奔流に包まれた。
渾沌の海からは引き上げられましたが、やっぱり渾沌領域です。