0 プロローグ
2017年9月23日 全面改稿に着手。一人称形式を削り、魔王視点に変更しました。
なお、以前のプロローグはカクヨムで連載中の同タイトル小説に移動する予定です。
アメイジア大陸の東端、極に近い地域に建国数百年を数える国、”エレーミア皇国”がある。人間が住むには過酷なその地を国としたのは、魔力の扱いに長ける妖魔と言われる種族だ。
その国の一角に、建国当初に建てられた館がある。元はエレーミア皇国を立ち上げた初代妖皇の館だったが、当人はまったく拘りがなく、とある泉を管理することを条件に、二代目となる妖皇にそれを譲り、国を出た。その二代目は自分の補佐を務めた筆頭魔王に同じ条件でそれを与え、やはり国を出た。
今のエレーミア皇国は三代目妖皇を戴き、その館は……筆頭を下ろされたその魔王のものとなっている。端から見ると左遷としか思えない処遇だが、本人的には「好き勝手出来るし、面倒な事が時々あるが、まあ別に?」と特段の不満はないようだ。
そして今、その「好き勝手」をしようと、条件にあったその”泉”へ来たところである。
「さて、と」
屋敷の中庭に設えた泉の前に膝を付き、魔王が呟く。人間で言うなら、三十路前といった雰囲気の青年だ。
周囲に人影がないのは、もともと一人で暮らしているためである。時折、養い子がいることもあるが、ある程度で巣立たせるので、一人でいる時間の方が長い。
青年魔王が泉に手を入れる。その指先で手繰り寄せたのは自らが張り廻らせた封印糸だ。この泉が繋がる異空間──混沌領域から、万が一にも何かが出てきたりしないように、封じている。
その糸を取り出したのは、自分が入る分だけ封じを弱めるためである。入った後、すぐに封じなおされるように結び目を調整して置かなければならない。万が一にも後を追われないように。
「……まあ、無いけどな、今までに一度も」
それは、ここが館の敷地内であることも一因である。見上げるほどの蔓薔薇の生け垣で囲われている屋敷に侵入出来る者は滅多にいない。まして、元がつくとは言え筆頭魔王だった彼が住んでいることは、よく知られている。どんな罠が張ってあるともしれないそんなところに、わざわざ侵入する物好きは、今のところ見当たらない。けっこう張り切って張り巡らせた罠もあるのだが、日の目を見ないでいるうちに設置したことすら忘れてしまって、つい自分でひっかかったり…ということも、珍しくなくなっている。
彼は今から、混沌領域を訪れようとしていた。幾度目の訪問なのか、すでに本人も数えることをやめてしまったが、望みが適うまで、諦めるつもりはないようだ。
泉に足を踏み入れる。ぴちゃんと水音が鳴り、波紋が広がっていく──その中で、彼は術を発動させた。己の周囲に幾重にも重ねた結界、これがすべて壊れるまでが滞在時間である。
数歩を歩く、その間に泉は混沌空間へと姿を変える。どこが境界なのか、未だに把握出来ていないが、これはもうそういうものだとして気にしないことにしていた。それがわかっても何の助けにもならないのだから。
「──今日はまた、ずいぶんな荒れ模様だな。当たりを引いたか」
結界に叩き付けられる飛沫。それを引き起こす嵐のような風と、荒れ狂う海。幾度もの経験で、これが求めるものを得るための第一条件だと、彼は知っている。
あくまで第一条件であり、……本当に欲しいものは、未だに手に入っていないけれど。
「さて、探そうか。混沌から生まれた同胞を。願わくば、──異界の知識を持った魂を」
彼ら妖魔が生まれる地、そのひとつがこの混沌領域である。
混沌領域の移動は、彼にしてみれば難しいものではない。意識したままに動けるし、加速もかかる。風も飛沫も、移動の妨げにはなるものではない。何故なら、これは物理的なものではなく、魔素の形状変化によるものだからだ。
魔素とは魔力の元であり、妖魔はそれを取り込み、魔力を練り上げる術に長けている。そこから考え出したのが今、彼が発動している結界術である。……しかし。
「……視界が悪すぎる」
魔王が溜息をつく。最外殻、一の結界は、周囲の現象を魔素へと還元するようしてある。だから結界内は快適なのだが、外が見えない。だが、視界が得られるだけの結界など張ろうものなら、術者の魔力が程なく尽きる。例え、魔王であっても、だ。
だから、今はまだ出来ない。目当てのものを見つけるまでは、狭い範囲で地道に探すしかないのだ。
魔王は海面ぎりぎりまで降りる。当然のように波を被るが、慣れたものなので怯むことはない。それに、そこここに漂う様々なものが見えるから、楽しみでもあった。
例えば、本。単純だが丁寧な装丁の本は、その表紙に”尾を食い合う蛇”が描かれている。
例えば、弓。人の背丈を超えそうな長弓など、誰が引くのだろうか。
例えば、──包丁か、あれは。背が沿った不思議な形をしている。小刀よりは大きいようだし、小回りが利くだろう。
それから、小さな灯り。
「……見つけた」
忙しく忙しく明滅しながら、嵐に、海に翻弄されながら確かに燈る灯り──生まれたての魂を、見失う前にと結界の裡に取り込んだ。
これでもう、見失うことはないと安堵する。
「さて…お前は、自我を持っているか?」
楽しげに呟いて、灯りに触れてみる。──そこに伝わってきたのは。
『開けても閉じてもただの闇』
「……は?」
思わず手を離す。自我はあるようだが何か、今までの魂と違うような、と。
もう一度手を伸ばし、伝わってくる意識を受け止める。
『身体の感覚もない…もしかして身体そのものがないのかな。でも目を開けた感覚があるってことは俺、もしかして首だけ? ないよなー、怖すぎる。化け物じゃん、そんなの』
確実に違う、と魔王が吹き出す。そして嬉しくなった。自分が首だけとか、そんな発想が出てくるような魂に、出会った覚えはない。
『化け物ではないよ、お前は。もちろん、私も、な』
声ではなく、思念で言葉を届ける。まだ実体を持っていない相手では、声が届かないこともあることを知っているから。
『え、なに、なに、化け物じゃだめ? 面白いじゃん、それでも?』
『化け物じゃないから! 妖魔だから!』
まったく、と楽しげに魔王が笑う。人間ではないという意味なら否定は出来ないが、化け物──とは、器物百年を経て精を得る、そんな存在のことだ。そこは、彼ら妖魔にとって譲れない一線である。
しかし、そのことについて説明を始めるよりも先に、結界がひとつ弾けて消えた。最外殻のそれが弾けると同時、二枚目が変質して同じ役目を担い始める。
だから危険はないけれど、時間もない。
『来い。自分が何者か、知りたいだろう?』
単純にして、明快に。無駄に遊ぶ時間はないからとかけた言葉に、空気が張り詰める。肯定か、否定かはわからないけれど、興味は引いたようだ。
『知りたくないなら、そのまま眠れ。強制も、邪魔もしない』
心にもない──けれど、偽らざる本音。望まぬ者を無理に連れ出してもろくな結果にならないことは、すでに知っている。それがどうしても必要だということでなければ、やらないほうがいいと、経験上、突きつけられている。
『んー…確かにまあ、すごく、眠いんだけど…』
魔王は苦笑する。それは眠気ではなく、自我が消えかけているせいなのだから。彼がこれほど周到に結界を張ったのも、それがなければ自我を保つことも厳しいと知っているからだ。それを眠気と受け取る存在であれば、確保しなければ消滅を免れなかっただろう。
『ここは”混沌の海”。お前が眠るなら、荒れ狂う海は治まり、風は凪ぐ』
新たなる自我が発生した時に、この海は荒れ狂う。それが、この空間の営みだと知らされているし、魔王は幾度も遭遇していた。
言葉を交わすこともなく混沌へと解け消えたものもいれば、言葉を交わし、それでも混沌へと返っていったものもいる。自力で立つと、拒否されたことも──手助けを望まれて、保護することも。
今は──どうか。
『言い換えよう。……目覚めないなら、お前は消える』
理由など、誰も知らないけれど。
『──嫌、だ』
はっきりと、意志が響いた。同時にキンと音がして、二つ目の結界が割れたことを知る。おそらくは、その宣言をきっかけにして。
『こんな…気持ち悪いところで……!』
「気持ち悪い?」
魔王が訝しむ。居心地よくはないけれど、この混沌領域にそんな表現をした者を、彼は知らない。
『…で…んな……っ』
何が見えているのかと問いかけようにも、途切れ途切れの、揺らいだ声はもう、言葉を聞き取ることすら出来なかった。たぶん言葉も届かないだろう。
けれど、魂はまだ、彼の結界の裡にある。
「迎えに行くか」
結界そのものには余裕もある。迎えに行って引きずり出すくらいの余裕はあると判断し、魔王は目を閉じる。
周囲の喧騒を意識から締め出して、明滅する魂に意識を重ねる。同調ではなく、あくまで重ねるだけ。その意識の波が重なった瞬間に、彼はそれを見た。
(──澱?)
中の見えない何かに、濁ったそれに、埋もれた人影がある。踠いているけれど、傍から見れば身を丸めて眠っているようにしか見えない姿勢で、抜け出せるようには見えなかった。
だから、魔王は手を伸ばす。その檻の中に、強引に。
(うわ……確かに、気持ち悪いな……)
生温かいそれは、思わず腕を抜きたくなるような粘性を持っていた。臭いをつけるなら、ヘドロ以外にありえない、そんな薄気味悪いものだ。
早く引き出したいと魔王は焦る。こんな中に、閉じ込められているなど、我慢ならないだろうから。
澱みの中を弄るが、届かない。これもまた、特殊な何かということか。
「お前、聞こえるか! 手を伸ばせ!」
精一杯、声を張り上げる。魂の核まで近づいた今なら、聞こえるはずだと。
『ダメだよ…俺、手ぇないもん』
思わぬ答えが返されて、魔王が固まる。しかし、目の前には間違いなく──影がある。間違いなく、手足を持った人影が。
「いいから伸ばしてみろ、捕まえてやるから!」
『…………』
そう叫んでも困惑が伝わるばかりで、伸ばされてくる気配はない。
「やってみろ、なんでもいいから伸ばせ!」
さらに奥へ、出来る限り奥へと腕を伸ばす。その指先に、何かが触れた。固い──それはまるで、金属の棒だった。
上下にかなり長いそれから指を伸ばし、左右にそれが続いていることに気付く。ああ、と魔王が気づいた。
「澱みの中に、更に檻か。よほど、お前を出したくないと見える」
それが何を意味するのか。ただ囲い込みたいだけなのか、出してはならない理由があるのか。そんなことを考えはしたものの、後者はないと判断する。もしそれなら、そもそも魔王を放置する理由がないのだから。
「なあ、お前さ。…自分が檻の中にいること、わかってるか?」
『檻……?』
やり方を変えて見ることにして、問いかける。まあ、最後が力押しになる覚悟は、いつでも出来ている。
『…今、見えた』
その答えに、よしと頷く。
「私は今、檻を掴んでいる。私の手が、見えるか?」
今度の沈黙は長く、答えが返ってきたのは、魔王の手に何かが触れたと同時だった。
『今、…触ってる』
子供のように、温かい手だ。ああ、と魔王が頷く。
「ほら。あっただろう」
うん、と微かな声が聞こえた。その手を握り、再び呼びかける。
「出てこい。お前の意志で、どうにでもなるはずだ」
『さっきから…やってるけど、さ』
そう簡単には行かないようだ。それならそれで、と魔王はにやりと笑みを浮かべた。
「手伝ってもいいが、……貸し、だぞ?」
『えー。無償じゃないんだ?』
「そこまでお人よしではないな」
『──その辺はまあ、後でじっくり話すってことで』
「承知した」
言質は取ったとほくそ笑み、魔王は両手を澱に突っ込み、檻を掴む。どれほど力を入れてもびくともしない──そんな檻に思わされるけれど、実質は魔素の塊だ。
「必ず出してやる。だから、私の手を離すな。何があっても、だ」
魔素を集め、形にする。それは基本の術であって、妖魔なら誰にでも出来ることである。故にそれが分かっていれば、──それを壊すのは、意外と容易い。
その声に、指先ではなく手首を握る感触があった。檻を握る手の邪魔にならないようにだろう。そこから自分の魔力を伝わせて、保護するための結界を生み出す。
檻を握る手はそれを分析し、少しずつ、構成を解いていく。中から引き出すのに必要なだけ、言うなれば今掴んでいる分さえなくなれば、それで事足りる、と。
「さあ、これで十分だ」
人ひとり分だけ、檻の棒が解け、消えた。自分を掴んでいた腕を逆に掴み返し、引き出して結界を張り直す。
ほぼ同時に、外殻が弾けて消えた。引き出された魂にしてみれば、荒れ狂う海の上に突如として引きずり出されたようなものだろう。
『な…何…!?』
「これを利用して、ここから抜け出すのさ」
平然とした顔で、魔王が言い放つ。
荒れ狂う魔素の勢いに乗り、混沌領海を飛び出せるように、敢えて派手に弾け飛ぶように作ったのが、彼の術の全貌である。
『だ、……大丈夫、なんだよな?』
「ああ、今のところ、な」
暴れる魔素を、制御しつつ、魔王は答える。と言ってもただ、方向性を与えているだけで、思い通りになるものではない。彼一人が抜け出すには問題ないが、二人となると少々困難なのが、玉に瑕だろう。
『ちょっとまて。実は今、けっこうヤバいこと思わなかったか?』
「さて?」
『──信じますから』
違和感を覚えさせるその言葉と同時に、強ばった手が魔王を抱きしめた。
『頼むぜ?』
「──ああ、任せろ」
そもそも、余計なことを考える余裕など、ありはしないのだ。──彼をここに連れ込んだ先達なら、あるかもしれないけれど。
「三」
遠く、一際濃い魔素を見つけて、魔王は身構える。
「二」
魔素の塊がこちらへ来る。方角はまっすぐ、針ほどの狂いもない。
「一」
結界の強化。万が一にも、はぐれることのないように。
「零!」
視界を奪うほどに濃い魔素の嵐に、魔王たちは巻き込まれた。
主役は魔王さまです。