ある日の金曜日
子どもの頃、僕は何をしていただろう。
周りからまともと言われるために自分を取り繕ってきたと思う。
周りが何かの話をしていると、
僕もそれに溶け込むために話を合わせた。
先生がなにか口を開く度に、
僕は身体を強張らせ心の中で怯えていた。
親は何も言わなかった、
僕より他の兄弟達にしか関心がなかったからだ。
それから、
今まで僕は何か頑張ったことはあっただろうか。
そもそも、
僕は誰だろう。
何か大切なものを忘れてしまった気がする。
「こんにちは、ここはどこですか」
彼はこんな事を始めに言った。
医師は彼の様子を見てざっくりと診断を下した。どうやら私と出会ったときを含めて何年間かの記憶が無くなっているみたいだ。
記憶が無くなっている?
「なんだよそれ、笑えないよ…」
仕事中に転んだら頭を打った?
それで病院に運ばれた?
最初に聞いたときは冗談にしか聞こえなかった。でも、電話する彼の仕事仲間の人の震え声で段々とそれは現実味を帯びる様になっていった。
その時の私は夢中で彼の元に駆けたかった。何も持たずに走り出したかった。ひたすらに彼の顔が見たかった。
しかし、こういった時こそ冷静でなくては。そう自分に言い聞かせた。
彼が運ばれた病院と部屋番号だけ聞いて、必要なものだけもって家を出た。それからはどうやって病院まで行ったかよく覚えてない。彼に会えればそれでよかった。
病院に着くとエントランスで知らない女の人に声をかけられた。彼の仕事仲間で私に電話をしてくれた人だった。
彼女に案内され、彼がいる病室の前まで辿り着く。
「いい?よく聞いてね、頭を打ったと言っても怪我とかは軽いものだったんだけど、大事を取って病院に運ばれたの。だからそこまで心配はしなくて大丈夫よ」
「え、そうだったんですか。電話では頭を打って病院に運ばれたとしか聞いていなかったので、てっきり重症だと…」
「私は電話では伝えたのだけど、貴女の返事が途中からなくなったから言ったの。今だと彼はまだ眠っていると思うわ」
私は少し安堵した。なんだ大怪我にはなら無かったのか。と、それが、いざ彼と会ってみると彼は窓の先を眺めていて、私の事を誰ですかと言った。
私は、自分の居場所が無くなったような気がした。
彼女は片腕片足が機械の髪の短い少女だった。
僕は挨拶をしたけど、どうやら僕の挨拶の仕方が悪かったらしい。彼女は泣き出してしまった。
困惑しているとお医者さんがやって来た。
僕を見て、幾つか質問をしてきた。
「こんにちは、貴方に質問が幾つかあります。まず、今日は暦の何月の何日か分かりますか?」
僕が答え終えるとお医者さんはしばらく考え込み、僕にこう言った。
「どうやらある期間の記憶が無くなっているみたいですね」
って。
そう言われてみると僕の身体はいつもより大きく感じる。それにしゃべった時も声がなんだか低い。
「僕は、一体何年ほど記憶が無いんですか?」
「そうですね、恐らく10年位の記憶がなくしてしまっていると思われます」
10年、ずいぶんと記憶が抜けてしまっているんだな。でも何故だろう。頭の中が大変なことになっているって言うのに冷静でいられる。
というより自分の事じゃないみたいに感じる。
「まあ、これも頭を打った事による短期的な障害だと思いますから、数日すれば何かの拍子に記憶が元に戻るかもしれません」
「あ、あの、僕はこれからどうすれば…」
「一応これから脳の精密検査をしてから、異常が見られなければ退院することになります」
「えっと、仕事の方は出来そうにないから暫く休暇を取るように私の方から伝えておきますね」
僕は仕事をしていた。って言うことは僕は独り暮らしだろうか。
一つ、分かったことで安心したことがある。それは両親の顔を見なくていいことだ。ただそれだけで後はどうでもよくなる。しかし、家がどこにあるかも分からないのはさすがに問題か、後で確認しておかないとな。
「退院した後は私が面倒を見ます」
突然そう言ったのはさっきまで泣きじゃくっていた少女だった。
面倒を見る?
彼女が?
もしかして僕は彼女と暮らしているのか。それを思い出すことは出来なかった。
「えっと、失礼ですが君は僕とどういう関係ですか?」
「こ……同居人です。それだけ、ここに来たのも連絡受けて来てくれって言われたからで…と、取り敢えずこのままだと家賃が払えなくなるので記憶が早く戻るように面倒を見るだけです!」
捲し立てられてしまった。
同居人ってことはシェアハウスに住んでいるのか。それにしても彼女かなり機嫌が悪いように見える。僕との関係は険悪なのだろうか。
どう接すればいいのだろう。
彼には私との記憶がない。しかも雰囲気が以前より暗い。どこか彼自身の事に興味無さげだ。昔彼に何があったのだろう。医者が言うには刺激を与えると記憶が戻りやすくなるって言っていたけど、一体どうすれば…
数日して、彼は退院することになった。私は病院から彼が出てくるのを待っていた。
すると、彼が出てきた。一体何を話せばいいのだろう。
「おはようございます、これから家まで道案内しますので、荷物、渡してください」
「平気ですよ、これぐらい自分で持てますから」
「いいから半分持ちます。それに、迷子になると困るので…」
「困るので、何ですか?」
「手、繋ぎますよ」
記憶を思い出すためには刺激が必要なのだ。だからこれは必要なこと、必要なことだから…
自分に言い訳を言う私が情けなく見えてきた。
彼も困惑している。やはりダメだったか。
私が荷物だけ持とうとした時、空いた片腕に感触が伝わった。
見てみると彼が手をを繋いでいた。
「どうしたんですか、迷子になると困るんじゃないんですか?」
私はいつの間にか彼の心が読めなくなっていたみたいだ。




