ある日の水曜日
この家で暮らすようになってから時々夢を見る。過去の私がひたすら大人の影に怯え、闇のようなどす黒い腕から逃げる夢。その夢はいつも同じストーリーを繰り返す。腕を掴まれ引き千切られる。次に脚を、腹部を、残った四肢を、最後は動けなくなった私の心臓を黒い腕が握り潰そうとする。心臓が止まりかけるその瞬間夢から覚める。そんな夢を見た日は、全身は汗で服が張り付き、軽くシャワーを浴びることから始める。シャワーから出ると、今まで必ず彼キッチンでココアを作っている。どんな時間に起きてシャワーを浴びても必ず出てくるときには彼がココアを作って私に渡してくる。
「おはよう。ココアをどうぞ」
「ありがと」
あたたかい。どうしてか彼のココアを飲むと心からあたたかくなる。
「まだ仕事には時間があるから今日は僕が朝食を作るよ」
「あれ、ボクってそんな紳士な性格だったけ?」
「僕は元々そういう人間だったよ」
「変態なクセに」
「否定はしない」
キッチンに立つ彼はどこか家庭的だ。今までの独り身生活からの経験なのか料理もそこそこ出来る。私はオムライスが好きだ。彼が作るオムライスを初めて食べた時の事が忘れられないから、見知らぬ私に訳も訊かずに食事を与えてくれた優しさを思い出すから。だから彼は本当は紳士なのかもしれない。
「今僕は朝食に何を作っていると思うかい?」
「それ、私には問題になってないよ」
「まあまあそう言わずにさ」
これぐらい思考を読まなくてもわかる。
「オムライs……」
「残念、僕が作っているのはケチャップライスです」
「スを作ろうとして卵が切れてたんでしょ」
「お、お見事…」
「じゃあ、正解した君には卵の代わりに納豆を」
「いらない」
「じゃあ、とろろを」
「もっといらない」
彼女は意外と初々しい所がある。初めて出会った頃に僕は彼女が耳が聞こえないのに意志疎通が出来るのは読唇術とかそんなのが出来るのだろうな、とか思ってた。だから寝る前に僕は彼女に読めないように人に言えないような欲望をぶちまけていた。それがとてつもなく背徳的で僕のストッパーになっていた。しかし、それは僕の一方的な考えだった。それが1ヶ月過ごす頃に彼女が顔を赤くしながら告白してきた。
「あの、言いたいことがあります」
「え、何?なにか困ったことでもあった?」
「あります。大有りです」
その時までなんの事だろうと思っていた。まさか聞こえているとは塵一つ考えてなかった。しかし、実際には聞こえていると分かって動揺した。更に、超能力が使えるとか言われて追加コンボを喰らったみたいに頭がぐらついた。
「もしかして、それじゃ僕が君に言っていたのは全部……」
「知ってます。私を押し倒して、」
「ワー!ワー!うん分かった、僕が悪かった。聴こえないと思って、言いたいこと言ってたのは反省します!ご免なさい!」
「まぁ、分かって貰えばいいですし、その、私も隠し事してたから…お互い様と言うことで」
「え?許しちゃうの?引かないの?」
「今私のことチョロいとか思いましたね、私だって限界が来たら瞬間移動で何処にでも行けるんですからね」
「君、瞬間移動まで出来るの?」
これにも驚いた。でもこれで彼女が突然現れたのにも納得がいった。
「と言うか私の言っていること全部信じるんですか?」
「信じるよ。君は突然僕の前に現れてしかも、夜な夜な僕がぶちまける欲望が聞こえている。だからこうやって恥ずかしがりながらも苦情を言いに来たんでしょ」
「やっぱり変態だ…」
「変態で結構。僕は変態でも女の子に手を出せない変態だからね」
「性癖がバレたくらいで清々しくすんなよ、童貞」
「君も態度変えないでよ…」
あれ以来、僕は王様の耳を見てしまった理髪師のようなことはしなくなった。でも、寝るときは彼女を抱き締めて眠るのは続いている。むしろ彼女が抱き締めて眠る時もある。あのカミングアウトから部屋を別けて寝ていたが、朝に起きると大体彼女が横で抱きついていた。抱きつくのはセーフみたいだ。何でなんだろうな。もしかして僕の体臭はジャスミンの香りなのだろうか。それとも腹回りが抱き心地がいいのか。だとしたらダイエットしたらもう抱きついてくれなくなるかもしれない。うん、ここは痩せるべきか、このままの方がいいのか。どちらがいいのだろうか。
とか、悩んでいるんだろうな彼。このまま私が言わなかったらそう言うことじゃないって気付かないんだろうな。