Behind the scenes03:Mellow / メロウ
ユキト・タクム。彼の母親が本庁の警視長だという事もあったが、そもそもが警察大学をそれなりに優秀な成績で卒業していた。
彼は民間の商社に就職したが、分けあって自ら退社した。そして、一念発起の末に刑事となった。
それは、彼が捜査一課に配属され、三年が過ぎようとしていた頃に遡る。
Ⅰ
ぼんやりと青白く、肩を寄せ合う遠い街の明かり。けれど、見下ろすように立ち並ぶコンクリートやガラスの群れに夜空は切り取られ、無表情に瞬く闇に私達は覆われた。そして、あるべき姿や安らぎまでもが削られていった。形を失って行くように。
今は、そんな時代。ここは、そんな未来。最早、国境は意味を無くし、情報伝達の高速化が現実の距離をも飛躍的に縮めていた。
代わりに、街はその都市機能を充実させるべく合併・巨大化し、都市国家を形成。それぞれが地方自治を名目に固有の法律・モラルの下、独立特区を宣言していた。
そんな有力都市の一つに『ロザリオ・シティー』と呼ばれるメガロポリスがあった。
バイオ・テクノロジーを主とする企業の集合体であるこの街は、その性質上、新世界の構築を始めた産業・経済・文化の先駆的モデル都市でもあった。故に、走り始めた開発に付いて行けないものも少なくなかった。
『オルファン』という名の青年が住む街も、その副産物的に生まれた衛星都市の一つだった。
ロザリオの第二衛星都市であるこの町は、その都市の成長に合わせて膨れ上がった人口を受け入れるべく建設されたベッドタウンだった。
しかし、あまりの急激な発展は、その都市計画をずさんなものへと追いやり、後に出来る第三から第七衛星都市と比べると明らかに混沌としていた。
やがて、第八番目の街が建設されたのをキッカケに空洞化し始めた第二衛星都市は、ロザリオの市長によって、その中心部を特別優遇地区として再開発され、数年後には一大歓楽街として変貌していった。
オルファンは、そんな夜の街、ロザリオ企業の金持ち連中が遊ぶ高級クラブでウェイターとして働く若者だった。
オルファンは、クラブの従業員控え室である粗末な一室を常にねぐらにしていた。家はあった。しかし、それは自分が勤めるクラブオーナーの元情婦であった母親が、オーナーから情けで与えられたものだった。実の父親でもない男が(もとより、実の父親も分からないが)母にあてがった部屋には、どうしてもオルファンは住む気になれなかった。
ただ、アルコール依存症で変わり果てた母を不憫に思ってくれていたのは確からしかった。そのせいか、行く当てもない自分を店にも雇ってくれた。そして、その二人にまだ愛が残っているのかどうかは考えたくもなかった。
この街の夜は常に慌しい。いつもあちらこちらで銃声や誰かの怒声が飛び交っている。確かに市長の政策で街に活気は戻ってきたが、代わりに辛うじて残されていた人々のモラルは消え失せていた。とうに『S-Ⅱ/サテライト・ツー』は人の住む場所ではなくなっていた。
それはオルファンの店でも同じことだった。高級クラブとは名ばかりで、高い金を取る代わりに優遇地区を利用した、ありとあらゆる欲望を消化する隠れ蓑となっていた。薬物売春などは日常の事。中でも、ありきたりの願いを手に入れてしまった者達に人気だったのが、税関・検疫をも介さない、この店独特の見世物ショーだった。
夜毎、客は酒を飲み、女を買い、あからさまに薬物を手にし、欲望を貪っていた。確かに世界各地から集められた踊り子達の美しさ、ショウの数々は、一流を謳うにふさわしいものばかりかった。
しかし、贅の限りを尽くし、脳髄のマヒしたこの街の客達にとって、それだけでは己の感覚を満足させるには至らなかった。そして、それは次第に人の狂気をも誘っていった。
月替わりで用意されるそれらは、悪趣味としか言いようのないものばかりだった。それでも、初めのうちは金にものをいわせ、世界中から珍しい動物や植物、生き物を集めるにとどまっていた。
ただ、それもネタが尽きるのは時間の問題だった。やがて、店の経営者達は、ある所に目をつけ始めた。それは或る意味、ここがロザリオであるが故の見世物だったかもしれない。
彼らはバイオ・テクノロジーに犯されたものたちを探し始めた。それは正にギリシャ神話さながらの、遺伝子操作によって作り出された『キメラ』達であった。
青と黒のまだら模様に変色した植物達
一つ目の鳥
二つの頭を持つ犬
通常の20倍以上の大きさに変異したムカデやクモ
通常、それらは放射能の影響や突然変異として紹介された。しかし、日を追う毎に刺激を求める舞台には、もう、それでは説明の付かないものまでが並び始めた。
明らかにそれらは、人為的に遺伝子を操作されたもの
――ハイブリッド/異種交配種――
たちの姿だった。
遺伝子操作禁止法。それは旧時代から引き継がれている世界条約の一つだった。しかし、企業利益優先・人間の好奇心の前には、それを完全に遵守させるのは難しい問題だった。
特に地方自治を名目に固有の法律・モラルの下、独立特区を宣言していたメガロポリス・ロザリオにあっては、闇ルートの取締り等は不可能に近いものだった。
そして、人の尊厳の崩壊、遺伝子組み換えのエスカレートは、やがて、二人の悲しい男と女を生んだ……。
Ⅱ
朝、オルファンは店のショウステージ裏側の搬入口にいた。今月の見世物となっていたキメラを闇ルートのプロモーターに送り返すためだ。
そのキメラは人の顔を持つオスの類人猿だった。勿論、言葉を話す事も出来ないそれは、その行動を含め、外見は毛むくじゃらの、おそらくオラウータンかゴリラなのだろう。
しかし、どうみても顔だけは、人間そのものだった。どうやって作り出されたのか。人の皮をはぎ移植したのか。それとも、誰かからの遺伝子提供を受け培養したのか。
オルファンが店に来てからというもの、悪趣味を超えたキメラたちは増え続ける一方だった。最近では、その体の一部分に人間の部位を含んだものが増え始めていた。明らかに違法行為、狂気の産物なのだろうが、それを咎める者などこの街にはいなかった。
そして、薄気味悪がって誰も寄り付かない化け物の世話係りは、この店で新参者であるオルファンの仕事となった。
今朝も、その為にロクな睡眠時間も取れないまま搬出作業を行っていた。詳しいことは彼にも分からなかった。きっと、また何処かの見世物小屋にでも送られるのだろう。
そして今日の午後には、また何時ものように新しい化け物が自分の元に届けられる。彼にとっては、最早恒例の出来事だった。そうやって、少しずつ人間らしい感情が薄れ始めていたのも感じてはいた。
一匹の怪物を渡し終えた直後、次の怪物を入れる為の檻が、一足先にオルファンの元に届いた。それは5メートル四方もあろうか、厚みのあるガラスで作られた巨大な専用の水槽だった。
中は、ひな壇のように段差が作られ、その内部には、まるで熱帯魚を飼育する時に使うような機器の大型のものが幾つか収まっていた。
それも毎回の事で、さして彼には驚きもなかった。次に何が見世物になるのか、それをいちいち教えては貰えなかったが、彼も聞きたいと思ったことはなかった。
ただ、毎回与えられる化け物を、プロモーターから指定された通り飼育するだけが彼の役目だった。
ステージのバックヤードに水槽を設置し、マニュアル通りの準備を終えたオルファンは、次の届け物が来るまで、僅かではあったが仮眠をとることにした。
化け物の世話もそうだが、それ以外は朝までウェイターとしての仕事もしなければならない。
彼はネグラの従業員控え室に戻ると、ソファーに倒れるように眠り込んだ。
それから、一時間も経っただろうか。店の裏口にいる警備係りが開いた鉄扉の音にオルファンは目を覚ました。ようやく、次の怪物が到着したようだ。
ねぼけ眼のまま彼は部屋を出ると、細い裏通路をスリッパ履きのまま歩いた。ここから先は立会いが主で、勿論、怪物は専門の業者が入れ物へと移し変えてくれる。後は、また新たなマニュアルを受け取り、簡単な飼育の説明を聞くだけだ。
未だ疲れと眠気にぼんやりと歩く中、オルファンは考えていた。これから、およそ一ヶ月に渡って怪物の相手をする身として強いて言えば、この時ばかりは化け物とはいえ興味が湧く自分の感情と、やはり、その誰とも知れぬ人間の悪趣味に、今までも繰り返し覚えた嫌悪感も抱いていた。
――今度は、どんなのが、お相手か?――
いつも通り彼には何も知らされていなかった。ただ、ハッキリとは聞き取れなかったが、オーナーと客の立ち話では、今日から『人魚』を見世物にするらしかった。
何にせよ、またどこかの頭がイカれたヤツが造った、おぞましい化け物に違いないと思いながら、彼は気の乗らない自分の足を進めるしかなかった。
オルファンが裏口に着いた時、既に何人かの男達が搬入を始めていた。いずれも小奇麗とは言えない作業着に身を包んだウサン臭い男達だった。その無精ひげや風貌を見る限り、正規の運送会社の連中には見えなかった。
開かれた大きな扉に直付けされた(冷蔵車だろうか)トラックからクレーンのようなものが突き出ていた。その先に青いビニールシートがぶら下がっている。
あの中に今日から見世物のなる化け物が入っているのだろう。何時ものように警備員や他の泊まりのウェイター達が騒いでいる。
オルファンは中身を確かめようと水槽に近づいた。その時だった。今目の前にいる作業員と一線を画すように黒く真新しいスーツで身を包み、不気味にニヤけたサングラスの男が彼を呼び止めた。
「いやいや、オルファンさんですか?」
「そう……、ですが……」
「これは始めまして。今、他の方に御伺いしましたら、あなたが担当の方だと言われましたもので……」
そう言って男は名を名乗る事もなく、一冊のノートほどの資料をオルファンに手渡した。そして、その視線にもニヤけたイヤラシ笑みを浮かべながら化け物の飼育や注意点等を話し始めた。
こうして代わる代わる化け物を連れて来る連中は大勢いたが、そのどれもがオルファンには馴染めそうに無い人種に思えた。彼にとって、この男達も、またキメラを創造する科学者達も悪趣味な異常者には変わりなかったからだ。
黒服の男は手短に話しを終えると、気の無い握手をオルファンと交わし、最後にも意味深なイヤラシイ笑みを残して足早に帰りの車へと消えていった。
そして、その意味深な笑みは、残されたオルファンの中に何とも言えぬ不安と不快の塊を残していった。
搬入も終わり、閉じられた裏口の暗がりを嫌うよう、オルファンは男から受け取ったファイルに目を通しながら水槽へと向かった。
新たな怪物は既に水槽へと移されたらしく、その水槽も機械仕掛けのスロープに乗ってバックヤードからステージ上に出されていた。本番時に客に見せる時と同じ状態だ。それは、いずれやってくるオーナーが確認の為に見る為でもあった。
「名前、な、ま、え……。ええっと、メ、ロ、ウ。メロウか……」
バックヤードから客席へと回るオルファン。相変わらず気乗りはしないが、仕事と割り切ってのルーティン作業と自分に言い聞かせた。
客席は静かなものだった。何人かの仲間が怪物を見てはいたのだろうが、明かりは各テーブルに備えられたステンドのシェードランプが幾つかが灯っているだけで、そのせいか人の気配は微かに分かる程度だった。
そして、次の瞬間。目の当たりにするキメラの姿に、オルファンは今しがた胸の中を拭っていったものを、ハッキリと冷たく感じたのだった。
黒一色で統一されたステージに唯一青白く浮かぶ水槽。その上下左右から照らす白いライトの中に見えたもの。それは、まさに神話や御伽噺に登場する人魚そのものだった。
その水の中を優雅に揺らめく金色の長い髪。はだけた胸の白く美しい肌。さすがに鱗の下半身ではなかったが、その尾びれへと流れる流線の腰部から下は、イルカのように艶やかで、まるで古代の彫刻像を思わせるような美しさだった。
この暗闇に紛れる微かな人の気配は、おそらく誰もがこの人魚の美しさに息を呑むものだった。そして、それはオルファンも同じだった。
低温状態で輸送されて来たせいだろうか。人魚の意識は遠く薄く思われた。その正対したまま伏し目がちで柔らかな面持ち。広げた両手先の力無く漂うしなやかな細い指先。それらが反って幻想的な浮遊感を滲ませていた。
時が過ぎるのも忘れ、オルファンはもとより、その空間自体が暫しの間、現実から遠ざけられたようだった。
短い時間だったのか、それとも長い時間だったのか。それはあたかも魔女に魔法を掛けられ魅入られたような時間だった。しかし、そんな甘美な時も、暗闇の中で誰かが席を立つ物音に儚く壊れ消えていった。
誰もが現実に引き戻されたのだろう。例外なく、オルファンも我に返り、仕事に戻ろうと視線を外した。
ただ、その僅かな瞬間。一瞬ではあったが、オルファンは人魚と目が合ったような気がした。思わぬ驚きと反応的に彼は、再び視線を人魚に戻した。
すると確かに、彼女は今まで落としていた瞳をオルファンに向け、(意識が朦朧としてるのか)ぼんやりと彼を見詰めていた。
青く深く、美しく不思議に澄んだ瞳。しかし、この時オルファンは、胸の中を冷たく拭うものが、背筋に届くのを覚えた。それは、感じてはいけないものに触れたような震えだった。
オルファンは考えていた、この人魚は今までのキメラとは違う、気の迷いかも知れないが、あってはならぬ事だとも……。
オルファンは手にしていた人魚の資料を一瞥すると、明るい場所を探して裏通路を急ぎ歩いた。そして、窓から陽の射す場所を見つけると、昼の光に一枚一枚マニュアルを読み始めた。しかし、いくら探しても、そこにオルファンの求めていた正確な答えは無かった。
この数ヶ月間。見世物とされるキメラは、次第にその人為的な歪さを増していた。それでもそれは、明らかに他の生き物をベースに人の細胞や組織が移植されたもので、彼らを同じ人間と感じたことは無かった。
が、今回の人魚は明らかに人間らしさが、大量の人の情報が入り込んでいる。いや、彼女の半身を見る限りは、人間の遺伝子がベースになっているとしか思えなかった。
オルファンは再びマニュアルの1ページ目を開いた。そこには納得のいく答
えでは無かったが、
――イルカDNAの極一部にヒトDNAをヒト的組織の培養――
とだけ書かれていた。
そして、それ以外に、この紙切れが答えてくれたのは、言葉を発する為の声帯が無いこと、そして生物学的に人ではないという事だけだった。
しかし、オルファンは思った。一体何を持って、この人魚が人では無いのか。言葉を発しないからか、それとも数パーセントまでのヒト遺伝子移植ならばヒトではないのか、ここに書かれている事は本当なのかと……。
それは、この街に対する嫌悪感と同時に、おそらくは、それでも彼女をキメラとして扱い、世話係をするであろう自分への怒りと遣る瀬無さから生まれた悲しくも取り留めの無い葛藤だった……。
「俺も、悪趣味な連中と変わらない……」
Ⅲ
メロウが店に来てから数日が経った。相変わらず見世物ショウは人気で、その類稀な美しさと幻想的な彼女の姿態は、欲望を抑えきれない連中の好奇心を満たしていたようだった。客の中には、ヒトとしての彼女の部分に欲情を口にする者までいた。
当のメロウは、目覚めた意識の狭間で、その集まる奇異なまなざしに怯えている様子だった。幕が上がり、大勢の客の前に晒されると、(無意識か、それとも意識的にか)まるで怯える子犬のように水槽の奥へと後ずさりした。
それでも、それ以外の時は(なついたとは思えないが)オルファンの手を煩わせることも無く、今となっては、左程広いとは言えない水槽の中をゆっくりと泳ぎまわっていた。
この頃になると、世話をするオルファンのやるべき事も決まりごとの様になっていた。難しいことはない。毎日の水代えと、その時に水質の環境を整える為の薬品、そして彼女の栄養分となる科学物質を水槽の中に入れるだけだった。
どういう生き物かは分からなかったが、口から何かを食することも無ければ排泄物もない。全ては皮膚を通して行うとマニュアルには記載されていた。
ただ、一つだけ気が乗らない事があるとすれば、それは3、4日に一度、生きた魚の血を彼女に与えなければいけない事ぐらいだった。
それも飲むわけではなく、遺伝子的にか、習性としてなのか、生き血を浴びることによって、彼女が生物としての精神の安定が保たれるらしい。
いくら手馴れたとは言え、この時ばかりはオルファンも複雑な思いだった。色
々なキメラを扱ってきたが、少なくとも、このメロウだけは外見的には安らぎ
を与えてくれた。
しかし、その美しさとは裏腹に彼女が生き血を浴びて嬉々とする姿は、やはり、彼女も今までの怪物たちとなんら変わらないことを彼に教えてもいた。
この日も水槽の前で、オルファンはバケツ一杯の生き血を集める為に魚の頭を落としていった。動物としての本能か、その様子を水の中からジット見詰めるメロウの姿がある。
オルファンは専用に届けられた小型のリフトに乗ると、血の入ったバケツを持って水槽の上部まで上がった。そして、ひな壇のある後ろ側からメロウの名を何回か静かに呼んだ。
すると、ゆっくりとメロウは、オルファンと距離を保つように、水面へと浮き上がってきた。長い時間、空気中にはいられない為もあってか、彼女は鼻先までを水面から上げると、いつも通りオルファンの様子を伺うよう見詰めて静止した。
そんな彼女に、オルファンは敵対心の無いことを伝えようと、優しく笑みを浮かべて見せる。それが彼女の何か琴線にも触れるらしい。いくらかは人間の仕草や行動を見分けるだけの知能もあると思えた。
そしてこの時。それ以上に必ず彼女は、決まってオルファンの目を見詰め返した。
それも身の危険を察知しようとする本能でだろうが、それはオルファンにとって、あまり心地の良い物ではなかった。まるで、自分の心の奥底を見透かされているように思えたからだ。
いつもオルファンは思っていた。おそらく、メロウは生き物として我々人間などよりも純粋に出来ているのだろうと。それだけに、悪趣味な連中と大して変わらない自分が純粋である彼女に受け入れられないのでは、そんな漠然とした不安もあった。
同時に、そのメロウの美しさは、孤独を恐れる自分には危険なものであるとも無意識に感じていた。
暫くの静寂の後。危険が無いと察したメロウは、再びゆっくりと体を水面か
ら上げ始めるとオルファンに近づいた。しかし、その瞳からの視線は彼から外されること無く、表情も硬いままだった。
そして、オルファンの手が届く距離になると、その張り詰めた空気を残したまま僅かに顎を上げ、静かに瞼を閉じるのだった。
オルファンは、彼女を驚かさないよう生き血の入ったバケツを掲げると少しだ
け傾けた。赤黒く、生臭いが滑らかな鮮血が、彼女の額から瞼を伝って流れ落ちてゆく。
それを彼女は心地よく受け入れている。繰り返し、複雑な思いに駆られるオルファン。ただ、今はこの時だけ、彼と彼女から怯えと不安を携える重苦しさを取り除いてくれた。それはあたかも、二人に与えられたささやかな安らぎと信頼のようにも見えた……。
新しい見世物ショウが始まって20日も過ぎただろうか。オルファンは変わらずメロウの世話とウェイター業に追われていた。
そして、何度ステージで好奇の目に晒されても、笑顔一つ浮かべない怯えたままの彼女がいた。もし、変わったものがあるとすれば、彼女がオルファンに以前よりも気を許すようになったぐらいだろうか。
オルファンは、きっと犬や猫に愛着が出来る程度に、彼女の事を可愛そうに思うのだと自分では考えていた。
彼女が客の見世物としてステージにいる間。出来るだけ彼は彼女を見ないようにしていたが、情が移ったと言えばそうなのだろう。それは世話をし、最近では、いつの間にかオルファン自信も、彼女を愚痴話しの相手にしていたせいでもあった。
そして、彼が優しく話し掛ける時、メロウも客には決して見せる事の無い優しい笑みを浮かべるようになっていた。ただ、それも人間がペットに話しかける程度の事と、彼女の笑みも人間で言う喜びなのか、オルファン自身にも分かってはいなかった。
或る夜の事。店の一角で騒ぎが起こっていた。客の女と店のウェイターが揉めているらしかった。
その騒ぎから離れていたオルファンには、騒ぎの原因が何なのかは良くわからなかった。まして、そんな騒ぎなど毎夜の事で珍しくもなかった。ただ、何時もと勝手が違ったのは、幾らも揉めない内に店のカウンター奥にある隠し部屋からオーナーが出て来た事だった。
この店には支配人と呼ばれる男がいた。オーナーから店の全てを任されている人間だ。この世界でも相当のやり手で、勿論、キャリアも申し分ない人物だった。
だから、普段も揉め事などは、余程の事があってもオーナーが出てくる筈は無かった。
オルファンは、酒に任せて泣き叫ぶ女を諭すオーナーを初めて見た。どうやらオーナーの知り合いの女らしかった。そして、それでも聞き分けない女を、やがて彼が平手に張り倒した時。オルファンは遠めに見たその女が、自分の母である事に気づいた。
慌ててオルファンは、人並みを掻き分け母親の元へと走った。泣き崩れる彼女を抱き起こすオルファン。しかし、母はやめた筈の酒に酔っていた。最早、何を泣き叫んでいるかも聞き取れない状態だった。
興奮さめやら無いオーナーは、それでも、他のウェイターにオルファンの母親を控え室に連れて行き、酔いを醒まさせるように言いつけた。
オルファンの母は、若い時から街角に立つ娼婦をしていた。そして、21の時
に彼が生まれた。何処かにいたツレの子なのか、それともユキズリの客の子なのか、それはオルファンにも分からなかった。
彼が知っていたのは、まだ自分が幼い時。母は親戚の叔母に自分を預け、違う男と駆け落ちをしたという事だ。
それから15年近く、オルファンの貧しくも穏やかな日々は続いた。しかし、病を患っていた叔母は、彼が17の時亡くなった。そして、叔母の一周忌の時。突然に母は、彼の目の前に舞い戻ってきた。
ただ、それはアルコール依存症に体を蝕まれ、頼る身寄りも無いが為の帰りだった。運が良かった事と言えば、叔母が死ぬ前、自分の母親が昔ここのオーナーの情婦だったと教えてくれた事ぐらいだった。
以来、母親と共に、母にも勧められるがままに、ここで世話になる事になった。
ただ、オルファンは思っていた。確かに、こうして仕事も貰ってはいるが、もし自分の母親が、この街で生まれていなかったら、こういう連中と出会わないでいたら、もっと違う人生があったのではないかと。そして、この自分も……。
彼にとって、この店のオーナーは、母の恩人ともいえる存在であるのは間違いなかった。ただ、それは同時に憎むべき人間でもあった。
二人のウェイターに両脇を抱えられ運ばれて行く母の後姿を、オルファンは何
とも言いがたい気持ちで見ていた。自分の血を分けた母親ではあるらしいが、幼い時の母の記憶などなかった。叔母に聞かされていたのも、酷い女であるという事以外、何も無かった。
オルファンは抱えきれない思いを残したまま生きていた。そんな彼の視線を、その目を、この店のオーナーも気に入ってはいなかった。むしろ、それは彼を常に不愉快不機嫌にさせるタネだった。
それ故に、いつもオルファンは理不尽な扱いを受けていた。殴る蹴るなど謂れの無い暴力は毎日の様だった。そうして、いつものように、その目つきを咎められ、オーナーに殴り倒されたオルファンは、壊れたグラスや皿の欠片を拾い集めながら、その自分の生い立ちと今とを呪った。
翌日、オルファンは何時ものようにウェイターとして働いていた。それはどうしようもない、どうにも出来ない自分と昨日見た母親の姿を引きずったままだった。時折に殴られた口元の傷が痛みに滲む度、その持って行き場の無い気持ちのうねりが蘇っていた。
最後の客が店を出た時、時計の針はAM5:11を回っていた。オルファンは客を送り出すと、後片付けの免除を言葉少なに先輩に頼むと(とは言え、その後に彼が片付ける分は何時もキチット残されてもいた。)、ステージ裏にあるメロウの水槽へと向かった。
今日は彼女に血を与える日だった。オルファンは蝶ネクタイを外すとベストのポケットにねじ込んだ。そして、誰にも見つからない所でタバコに火をつけた。
しかし、ふと、そんな卑屈な自分に気づくと、苛立ちに直ぐタバコを踏み捨て、憤りを消そうと大きく息を吐いたが、胸を締め付ける靄が晴れることはなかった。
Ⅳ
PM09:30から、およそ2時間置きに15分間。一晩に4回。それがメロウが見世物となり、下世話な視線に晒される時間だった。
ラストのステージが終わってから、いつも通り彼女はバックヤードの暗がりに取り残されたようにいた。水槽内の各辺に設置された蛍光灯だけが白く彼女を照らしている。浄水ポンプの小さなモーター音以外、音も無い。
ショウに出る者がいなくなった後、ここを訪れるのはオルファンだけだった。メロウもそれは分かっているようだった。それで彼女が寂しくないのか?それは誰にも分からなかった。ただ、オルファンが現れると、彼女も嬉しそうに笑みを浮かべて答えた。
そして、彼にしか見せない、彼にしか分からないその姿が、オルファンにささやかな優越感を与える安らぎの時だった。ただ、この日。彼はいつものオルファンではなかった。
一度調理場に寄って、魚の入ったバケツを運んだ来たオルファン。その投げやりな面持ちも、何も知らないメロウは、何時も通り水槽のガラスに寄り添うと優しい笑みを彼に投げかけた。
しかし、そんな彼女と視線を合わせる事も無く、オルファンは椅子に座り込むと、重ねていた空のバケツを広げて魚の血を集め始めた。何事も無く、ただメロウは笑みを投げ続けている。
そんな彼女の気配が煩わしかったのか、オルファンは冷たく視線を向けると、切り落とした魚の頭を水槽の彼女に向かって投げつけた。
投げつけられた魚の頭に驚き、戸惑いに表情を変えた彼女。
そして
「オマエ、気楽でイイナ……」
それは、弱者が更に弱い者にヤツ当たりするようなものだと自分でも分かっていた。しかし、その悪態を抑える事も出来ず、当ての無かった言葉は彼の口から零れ続けた。
「どうせ、あと10日もしたらオマエ、またどっかに売り飛ばされるんだぞ……」
オルファンの言葉の意味が彼女に伝わる筈も無かった。
それでも彼女にはひたすら微笑む事しか出来なかった。それは、本能的に信じる者への動物的な感情表現だったのかも知れない。
そんな憂いを含んだ彼女の微笑みが、かえって彼の自尊心を傷付け、煽った。オルファンは魚が入ったバケツだけを持つと憤るままリフトに飛び乗り、冷たく視線を向けたまま水槽を上った。
そんな彼を瞳で追い、やがて、何の疑いも無く水面に上がるメロウ。水に濡れ散る前髪を小さく掻きあげ、そこでも無理に彼女は微笑んだように見えた。
しかし、それでもオルファンは、バケツに入った魚を彼女に投げつける事しか出来なかった。その感情を吐き捨てるように……。
顔を守るよう、咄嗟に両の手をかざすメロウ。しかし、力任せに投げつけられたそれらは、彼女の額や頬を強く打ち付けた。その突然の事を理解出来ずに佇むメロウの様は、まるで主に理不尽に怒られた犬や猫のようだった。
その様子を見下ろすように立ち尽くすオルファン。それでも、困惑にオルファンを見上げたまま、悲しくも本能的に、浮かぶ魚の死骸を手に取るメロウ。
そして、オルファンは呟いた。
「所詮、バケモノか……」
すると、その言葉に反応するよう魚の死骸に視線を落としたメロウは、手にしたはずの物も捨てると、もう一度だけオルファンを悲しげに見詰め、水槽の水底へと身を隠すように消えていった。
残されたオルファンには、言いようの無い罪悪感だけが深く刻まれていた。
以来。毎日の水換えの時ですら、メロウがオルファンと瞳を交わす事は無かった。気不味さなのか、それともクダラナイ自尊心からか、オルファンも彼女に声を掛けなくなった。
確かにメロウは生気を無くしているようだった。それは、毎回のショウを見ても明らかだった。
これまで笑みこそ見せはしなかったが、見世物として15分の間に水槽の中を泳ぐ事ぐらいの事はやっていた。今の彼女は虚ろに水槽の中を漂うだけで、その視線は何処に定めても悲しげだった。
二日後。元気の無くなったメロウを不審に思い、店の支配人がオルファンを事務所に呼びつけた。
客が怒っていた事。彼女の体調に何かあったら、店が莫大な損害を被る事。その世話係としての責任。挙句、最近の勤務態度まで、支配人の小言は長々と続いた。
オルファンにしてみれば、店のこと等どうでも良かった。ただ、あれ以来、ハッキリと重く滞った罪悪感が、彼の心を攻め続けていた。
メロウがどうこうという問題では無かった。いくらか冷静になれば初めから分かっていた事だった。自分が最も嫌う人種に自分がなっているのだ。そして、やはり彼女の事が気にはなっていた。ただ、どうする事も出来なく三日が過ぎた。
初めは、どの道生き血を浴びなければ、生き血を浴びるという本能が、二人の仲を改善してくれるだろうと思っていた。しかし、仕事が明けて朝方。オルファンがメロウの元を訪れた時、彼女の体は暗闇に青白く、孤独に力なく、水底で倒れていた。
「メロウっ!」
オルファンは彼女の名を呼ぶと、慌ててリフトに飛び乗った。そして、それが上がりきるのも待たずに、外壁のガラスを乗り越えると水槽の中へと飛び込んだ。
その美しい金色の髪を柔らかに乱し、意識無く沈むメロウ。オルファンは急いで彼女を抱きかかえると水面へ上がり、ひな壇の最上段で彼女を抱き起こした。
繰り返し彼女の名を呼ぶオルファン。しかし、メロウは弱くグッタリとオルファンの腕の中で眠るだけだった。それ以外、成す術を知らないオルファンは、必死に考えを巡らせた。
そうして、思いつきに自分の左手の掌を噛み切ると、その流れ出た赤い鮮血と共にメロウの頬を包んだ。
オルファンは震えを抑えるように息を呑んだ。これ以上は、もうどうして良いか考えれもしなかった。祈るような想いでオルファンは、彼女の名を呼び続けた。
すると、微かにメロウが反応した。意識を引き戻すように彼女の手が、オルファンの腕を掴む。オルファンは再び血の流れる手で彼女の頬や額を撫でると名前を呼び続けた。
どれだけの時間、それを繰り返したのか。やがて、祈るように優しく名を囁く
オルファンに、弱くもメロウが瞼を開く。
途端、彼の瞳と胸に熱いものが込み上げた。オルファンは彼女を強く抱き寄せると、再度、その手で頬を優しく包み込んだ。
メロウの意識は朦朧としているようだった。そんな中、彼女は自分を抱き包むオルファンを愛しげに見詰めた。そして、力の入らぬ腕を起こすと、その柔らかな指先を彼の頬に向けた。
その不意に、オルファンはためらった。しかし、そのためらいも消し去ると、次には彼女の指先を静かに頬で受け入れた。
その指先。(メロウは優しく自分の頬を包むオルファンを、ただ真似ただけなのだろうか?)それは、オルファンの唇をゆっくり伝うと、数日前に殴られて出来た彼の傷口で止まった。それも愛しげに、労わるように。
それから二人は、二人が眠りにつくまで、そのまま、そのままだった……。
午後になって。裏通路にある採光窓のカーテンの隙間から、差し込む西日の光が水槽を細く照らしていた。
元々、そのカーテンをつけたのはオルファンだし、普段はバックヤードへのドアは必ず閉める事になっていた。深夜、ショウへ駆り出されるメロウの体内時計を夜型に維持する為にだった。
しかし、その朝方。それどころでは無かったオルファンは、ドアを開け放したままメロウと共に眠りに就いていた。
水槽の中を照り返す光に、静かに目を覚ますオルファン。と、同時にメロウの姿を慌てて探す彼は、身を乗り出して水槽の中を覗き込んだ。
すると、そこには何時も通り、何事も無かったように水の中を泳ぎまわる彼女の姿があった。張り詰めていた緊張感が、今初めて途切れるように、彼の胸の中を安らぎが埋めていく。
それは、朝方の出来事だけでなく、彼女がここに来て以来。いや、もしかするとオルファンが店に勤め始めた頃からの、あのワダカマリすら、押し流すような目覚めだった。
安堵に胸を撫で下ろすオルファンは、どこかにそれ以上の感情を感じながら、リフトに乗るとメロウに優しい視線を送っていた。そんな彼の目覚めに気付いたメロウも、それに答えるよう水槽の上から下へ、ゆっくりと漂っていた。
時折、過る西日の乱反射にも柔らかく瞼を閉じるメロウ。この時、初めてカーテンやドアのことに気付くオルファンだったが、その心地良さそうに光を受けて流れるメロウの姿に、と言うよりは、その光に包まれて神秘的に煌めく彼女の美しさに、もう少しだけ見惚れていたいと思った。
その日の夜。それでもメロウの容体を案じるオルファンは、一日だけでも休ませることが出来ないかと、支配人に頼んでみた。無論、なかなか支配人が首を縦に振る筈も無かった。しかも、口出し無用とばかりに、いつも通り理不尽に殴られ追い返されるオルファン。
ただ、それでも食い下がり、もしもの場合の店の損害を訴え始めると、さすがの支配人も、その日の夜はラストの一回だけで承知してくれた。
それが意外な譲歩にも思えたオルファンだったが、その時はとにかく、彼女の体の心配だけで頭の中が一杯だった。
そう、その後の噂を耳にするまでは……。
午前3時過ぎ。それは何時ものことだった。この店にメロウが来て、その見世物ショウが始まって以来、彼女を目当てにクラブに通う客は少なくなかった。中でも、決まってこの時間。ラストのショウが始まる少し前に、その客は取り巻きを引きつれ、毎日のようにクラブを訪れていた。
『S/エス』
この街で、男はそう呼ばれていた。
表向きは、ロザリオ・シティで生み出される大量の産業廃棄物を処理する会社の社長ということだったが、裏では実験用の人身売買を請け負う『スレイブ・ディーラー』と言われていた。『エス』と呼ばれるのも、その頭文字を取っての愛称だと誰かに聞いた覚えがあった。
いずれにしても、表でも裏でも、この街で商売する者で、彼の世話になったことの無い者など居ないと言われる程、いわば、ここでは名士、誰もが頭の上がらない存在だった。ただ、そんな金も権力も備えた、ある意味では街の有力者の男を、オルファンは殊更に嫌っていた。
この街にオルファンが嫌う異常者は、店を訪れるイカレタ客は山程いたが、際立って『エス』は、オルファンの鼻についた。それは、その金にものを言わせた出で立ちや振る舞いもそうだったが、特にメロウのショウ終了後に見せる『エス』の態度だった。
一見芸術品を褒め称えるようにメロウを賛美しながらも、まるで科学の偶像崇拝者を装うように、彼女の人の部分に対して欲情の言葉を連ねる様だった。今夜も、何時もの如くショウが終わると、スタンディングオベーションを気取りながら、またそれを回りに強制するように、『エス』は醜く如何わしい賛美の言葉を連ねた。
オルファンは、そんな彼と彼の取り巻き、そして、その場に歩み寄ってご機嫌伺いをする支配人の姿を怪訝に眺めながら、空いたグラスをかたずけていた。そして、自分の直ぐ後ろのテーブルでオモシロ半分に話す二人ずれの、その無責任な噂を耳にした。
「…… なぁ、知ってるか? どうやら『エス』が5億で買ったらしいぜ ……」
Ⅴ
それは幻想的な光景だった。濾過ポンプを通して水槽の中を立ち上る気泡は、メロウの美しい肢体を優しくなぞるように揺らめくと、西日の輝きを纏い、バックヤードの暗がりにその飛沫を散りばめていた。
陽だまりの中、心地良さそうに漂うメロウ。水槽の水換えを終えたオルファンは、そんなメロウの姿を眺め佇んでいた。
それは、昨晩に聞いた噂の事だけでなく、同時に、初めて彼女と出会った時に一度は思い浮かべもしたが、自身を卑下することで消し去ろうとしていた疑問との葛藤からだった。
――本当に彼女は、人ではないのだろうか?――
心の中で幾つもの可能性を探し、否定し、不安に惑い、己の愚かさに苦笑を繰り返すオルファン。
この20日間余り、メロウと共に時間を過ごした彼の中で、それは、あまりにも非現実的、常識を逸脱した妄想。出口を無くた迷路となっていた。しかし、それは最早、目を逸らすことの出来ない偽り無い気持ちでもあった。今や確実に胸の内を埋めて膨らみ始めてもいた。
ただ、いずれにしろ自分では、自分の力では、彼女を解放する事も出来ない現実として、残りの日々を無駄に費やすしかなかった。
そうして、最後の夜。オルファンは支配人に呼ばれ、その一室にいた。
「いや、オルファン。ある意味、今回は君に感謝してるよ。今だから言えるが、あの人魚をステージに上げるのは、実際、私にも勇気がいたよ。
裏のマーケットに売り出されていたキメラだったが、出所が不明でね。前の持ち主も、結局飼育が困難という事で手放したらしいが、何処から手に入れたのかは明かさず終い。
あぁ、プロフィールはネ、プロモーター連中がウマクやってくれた。しかし、高い金で買った商品だ、それ相応の金を産んでくれなきゃ、私のクビも危ない所だった。
ウチのオーナーも、こうと言ったらキカないからね。後は私任せで、ホントに、一時はどうなる事かと思ったよ。
買い手との契約も本決まり。後は明日、引渡しをすれば一件落着。でもまさかあの人魚が、ここまで儲けさせてくれるとは思ってなっかたがネ。
喜びたまえ今日は君にも、いいモノがある。オーナーからだ……」
そう一人勝手に捲し立て喋り終えると、一人嬉々として支配人は、オルファンに真新しい数十枚の紙幣を差し出した。しかし、この時。既にオルファンの頭の中には
――買い手――
その支配人の言葉だけが渦巻いて、再び出口の無い迷宮へと迷い込んでいた。
それは、常に心の何処かで引きずっていた、この街全てに対する憎悪をも押し退け、それよりも、自分自身の手でメロウをさらし物として生きながらえさせ、更には、彼女が人では無いという唯一最後の言い訳をも掻き消されてしまったからだった。
呆然とするオルファン。視点も合わず、ただ立ち尽くす彼の真意に興味もない支配人は、多少の意外性だけ込めて言葉を続けた。
「どうしたオルファン、嬉しくないのか? そぉうか、しょうがない奴だな。それじゃあ、これは私からの気持ちだ……」
支配人は、その言葉も言い終えないうちに席を立つと、更に数枚の金を共にオルファンに握らせ、彼の肩に手を置くと、普段通りの険しい表情で囁いた。
「いいか、オルファン。契約が済んだと言っても、まだ最後の仕事が残っている。今日のラストステージ、何時ものセレモニーの中で人魚の買い手の発表を入れる。そして、明日の朝の引き取りに渡すまで気を抜くんじゃないぞ。
もし、それまでに万が一の事でもあれば、せっかくの儲けも水の泡だ。オマエの命程度では済まされんからな……」
不敵な笑みを携え、支配人はオルファンを部屋から送り出すと、それでもまだ、一人部屋の中で含み笑いを続けていた。
一方、オルファンは自分の犯した罪に、まるで取り付かれた夢遊病者のように廊下を歩いていた。そして、足は何時の間にかメロウの元へと向かっていた。
何も知らないメロウはオルファンの姿を見つけると、何時ものように微笑みを向けた。しかし、その笑顔は、全ては手遅れで、手を届かせようも無い無力さに塗れるオルファンに、改めて惨めさを思い知らせるだけだった。
やがて、迎えたラストステージ。ある種、店内は異様な雰囲気に包まれていた。それはやはり、このロザリオシティーの権力者である『S/エス』が、その人魚の買い手であった為だった。
ステージの目の前は勿論、その客のほとんどが、彼の取り巻き、関係者、彼に招待された観客だった。到底、品が良いとは言えない連中が、今宵の余興の為に席を埋めている。
最前列に席を陣取る『エス』の周りには、警護と呼ぶには程遠い下世話な手下とチンピラのような輩が周りの客を煽っていた。
そのテンションは、メロウの登場で一機に頂点へと駆け上り始める。過剰とも言える客の反応は、場内に浅ましき狂気の歓声として木霊した。
そんな中、茫然自失のままオルファンは、それでも込み上げてくる胸の苦しみに迷っていた。
これまで、ショウの間は、その怯えるメロウの姿を見ないよう、視線を向ける事の無かった彼だった。が、これが最後だと、もう後僅かしか彼女の姿を見る事も出来ないと思うと、頑なに守ってきたこだわりが彼の心に重い枷を預けてた。
そうこうしている間にも、場内は他愛無いメロウの一挙手に盛り上がりをエスカレートさせ、そして、ショウのフィナーレを飾る音楽が始まると、響き渡るアナウンスが『エス』の名前を連呼、紹介し、ステージへと招き入れた。
「皆さん、もう一度、Mr.エスに盛大な拍手を!」
その歓声に答える『エス』。一際にうねる様な盛り上がりを見せるセレモニー。その喝采の中『エス』と支配人とのやりとりが始まった。
「え~そこで、今回。この世にも類稀な人魚を競り落として頂いたのが、皆さんも御存知の、このロザリオシティーきっての大富豪、我らがMr.エス。さすが……」
支配人の一通りの称賛の美辞麗句が終わるのを待って、次に『エス』が興奮冷めやらぬ客達を前に善人を気取り、挨拶を始めた。
「今後は、私が所有する美術館に特設のブースを設け、一般の皆さんにも公開する……」
そして、その偽善者の言葉は、今の今まで瞳を向ける事すら躊躇していたオルファンに衝撃を与えた。それは、この先もメロウが、いや、今度は比べ物にならない程の聴衆に晒され、見世物とされる事を意味していた。
再び込み上げる言いようのない想い。しかし、今度こそは悲しみだけでなく、明らかな心の奥底で燃え上がる、それはジェラシーそのものだった。これまで自分をごまかして来た感情に、偽り続けた認める事の出来なかった想いに、はじめて彼は気付いてしまった。人ならぬモノに抱いてしまった自身の胸の内の愛に。
それが始まりであり、終わりだった。『エス』の言葉に例えよのないジェラシーを覚えたオルファンは、たまらなく、思わずメロウの姿を、視線を探した。
するとそこには、まるでずっと助けを求めていたようにオルファンだけを見詰め、怯える彼女の姿があった。
不意に、オルファンの頭の中を一つの想像が過ぎった。そして、それは永遠に知ることのない、確かめる事の出来ない彼女の想いだった。
この店で、初めてオルファンと出会った日。初めてオルファンを見詰めた時。あの朦朧とした目覚めの中で彼と瞳を合わせて以来。メロウはずっとオルファンだけを見詰めていた。それはどんな時も、怯えに見世物とされている時も……。
もし、そうだとしたら。まして、今自分に見せている彼女の瞳は、この時のオルファンに、そう思わせるには十分だった。
瞬間、オルファンの中で、何かが壊れた。胸に押し寄せ、溢れる想い。堪えようも無く零れる涙。
オルファンは、その後悔を、今日までの過ちを、償うようにメロウの元へ歩み出していた。たかる人込みを、滲む視線に掻き分け。小さく彼女の名前を呟きながら。
やがて、彼女の元へと辿りつくオルファン。それを待ち望んでいたかのように佇むメロウ。その眼差しは、いつもの、二人だけの柔らかな笑みを浮かべていた。
ただ、そこはまさに、『エス』がスピーチする目前でもあった。薄明かりの中、突然に『エス』の前に歩み出たオルファンを取り巻きの連中が制止する。
しかし、そんな彼らの言葉も、行為も、もうオルファンには届かなかった。そして、数人で揉み合う内に、盲目的なオルファンは取り巻きの一人と共に輪の外にはじき出され倒れこんだ。
それでも、起き上がり、再度、メロウの元に行こうと縋るオルファン。その時だった。揉み合った拍子に、男が持っていた拳銃が転がり落ちて、偶然にも、それは起き上がろうとするオルファンの手元に流れた。
その銃を反射的に拾い上げると、彼は涙を拭い、男達に銃口を向ける。そこから、オルファンの頭の中は青白い光に埋もれ、全てが操られるようにスローモーションで過ぎていった。
恐れ慄く取り巻きたち。
悲鳴を上げて逃げ惑う女。
瞳を見開いた『エス』の、黒服たちの視線。
回る世界。
囁くオルファン。
「今、自由にしてあげる……」
そして、放たれた銃弾は
男達や客の誰でもなく、一直線に水槽を打ち抜くと、メロウの胸を貫いていた。
水中にゆらめき昇る一筋の鮮血。
静かに、そして穏やかに瞼を閉じるメロウ。
次の瞬間
弾ける水槽の煌めき。
砕け散る無数の輝き。
弾むように押し寄せる青白い光の渦。
その眩さを纏ってメロウは、オルファンの胸で一つになった。
それは音も無く、微笑みだけを浮かべて……。
END
(x=r*cosθ,y=r*sinθ,z=kθ)≒♡?
そして、四回目の桜が散る此の春。
「何だ、コレ? 特殊案件、第208X03X号。ロザリオ、サテライトⅡ、クラブ・ウェーター殺害事件。並びに違法遺伝子操作キメラ、損壊……。なんで俺の机の上に、捜査二課の資料が?」
「おおっ! ユキトちゃん、ユキトちゃん!」
「あっ、服部課長。おはようございます。あの、コレ……」
つづく