彼は結婚する。私じゃない人と。
「俺、結婚する」
付き合っていた男にそう言われて、私は泣いた。
「そっか、」
男が結婚する相手が、自分じゃないことを私は知っていた。
男が次に、
「ごめん」
と頭を下げることも。
付き合って丸2年がたったとき、男――葛西秋人が浮気している事を私――堀川麻美は知った。
秋人は会社の先輩。
私たちの関係は社内では秘密にしていたのだが、ある日私の耳に入ったのは、とんでもない噂だった。
「麻美さん、麻美さん、」
「何?」
同期の坂下なごみは笑顔でひっそりと近づいてきた。
「葛西さんって、いるじゃないですか」
「葛西……秋人さん?」
「そうです、そうです、」
「……何の噂?」
「どうやら、結婚前提でお付き合いしている人がいるらしくて……!」
「結婚?」
私と彼の間にそんな言葉が出たことはなかったため、なんだか嫌な予感がしたのだが、私はただ驚いたフリをして聞く。
「そうなんです、しかもそれが……
飯田部長……!」
「はあ……」
飯田部長は彼よりも7つ位歳上だったと記憶している。
私の“はあ”には、ため息と怒りとがまざりあい、なんだか微妙な意味合いのものとなってしまった。
「知らなかったですよね、ビックリですよね~……
葛西さんって歳上好きだったんですかね、みーんなガックリしてますよ~」
みんなガックリって、芸能人じゃあるまいし……なんて言おうとした瞬間、その相手が自分だと噂が出たら、何て言われるのだろう。と頭を過り、私はその言葉を飲み込んだ。
「いつからか、わかってるの?」
「それがわからなくて……。
でも長いんじゃないかって噂です。葛西さんは合鍵をもらってて、それで出入りしてるとか。確かな目撃談も結構出ていて……」
「そう、なんだ……」
「あ、麻美さんも結構ショックなんですね?」
「ううん、ちょっと考え事してて、それどころじゃないわ」
そんなふうに笑ってごまかしてみた。
「私、好きだよ、」
「ん?」
「秋人さんのこと」
「急に、何?」
「言ってみただけ」
「好き、か。」
「何?」
「んーん。俺も好きだよ」
「誰が?」
「は?麻美」
「そっか」
その日私は彼とスマホで、そんな短い言葉をやり取りしていた。
そして、昔言われた言葉をなんとなく思い返していた。
新しいプロジェクトの立ち上げから関わることになった彼が、ひどく落ち込んだとき、
「大丈夫?」
と声をかけた私。
“俺を信じられないなら、離れていけば良い”
なんて言葉を、彼は言い放った。
私が同窓会に出掛け、男友達とのツーショットをSNSに載せられた時には、
“別れようか”
なんて言われた。
「……ごめん、嫉妬」
すぐにそう言って、私を抱き締めた彼。
時々彼はそんなふうに、こちらがドキリとすることを口にしていた。
何か関係しているのかな、なんて思って。私はぼんやりとしていた。
その噂以降も、なごみは飯田部長との情報を流し続けてくれる。けれども私は知らないフリを続けた。
なんとなく、戻ってきてくれるような、そんな気がしていたから。
しかし、ついにこんな噂が耳に入った。
「……妊娠だって」
「……え?」
「今大変みたいよ、上の階。
マタハラだって飯田部長が……って、麻美さん?大丈夫?」
頭を殴られるような衝撃って、こういうことなんだって、私は初めて実感していた。
「……大丈夫、大丈夫よ、」
なごみのしゃべり方が移ったような気がして、そう思ったら……ふと笑えた。
「俺、結婚する」
そして今に至る。
「聞いた、飯田部長が妊娠したって」
「ごめん」
「ずっと、知ってたけど、黙ってた」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「ごめん」
「最初から私は……遊ばれてたの?」
「……」
こんな風になるとは、思っていなかった。
私のほうが若いから。
私のほうが可愛いから。
そんなの、なんの理由にもならないや。
そう思ったら、涙が出てきた。
泣くつもりなんか、なかったのにな。
私のほうが……遊びだったのね。
「信頼してたんだ、君のこと。
だけど……」
「信頼?それって、私なら口外しないだろうっていう信頼でしょう……?
バカにしないで……!」
手元に残された“結婚しました”の葉書。
飯田部長、“朝実さん”っていうんだって。初めて知った。
今までよく間違えないで打ってたなって思ったら、可笑しくて笑えたわ。
“離れていけば良い”
だとか。
“別れようか”
なんて。
そんなことを簡単に言えてしまうような、
そんな人を。
信じた私がバカだった。
そんなあなたが言う、
“好き”って言葉が。
“信頼”って言葉が。
一番薄っぺらかったのだと気づいたわ。