百合の白と赤
「殺人犯なんかと一緒にいられるか!俺は部屋に籠らせてもらう。」
「ちょっと、和田さん!一人になるのは危険ですって!」
自称探偵とやらの制止を振り切って、俺は自室に入って鍵を閉めた。まったく、とんだことになった。警察もレスキューも無能だ。唯一の橋が壊されたとはいえ、たかだか三百メートル程度の崖も渡って来られないとは。俺たちの税金を何だと思ってやがる。
俺は年のせいか、年々痛くなる膝を労わりつつ、電気もつけずにベッドに身を投げ出した。ドアの外では、探偵を含めた五人が喧喧諤諤と議論を交わしている。ふん、俺には関係ないがな。俺が殺されるわけがないんだ。ああ。こんなところに避暑に来なければ良かった。
外では台風と見まがう風が、ごうごうと木々を揺らしていた。昨日の夏晴れが嘘のようだ。ガタガタと建てつけの悪いのか、窓ガラスが鳴る。まあ、しんと静かなよりは賑やかでいいだろう。昨日の友人と過ごした楽しい夜に比べれば、蚊の鳴く程度の賑やかさだが。俺は目をつぶって、結婚指輪を無意識にいじりながら、友人の最期を迎えた顔を思い出す。
まぶたの裏に浮かんだのは、友人である町野の絶望を浮かべた表情であった。死因は恐らく刺殺。俺が探偵に「現場保存が大切ですから、皆さんは外へ。」と追い出されるまでに友の死体をまさぐった結果、背中の心臓がある部分にナイフが突き立てられていた。そうとうに抵抗をして、苦しみに喘いだのだろう。ベッドのシーツは乱れ、窓際の花瓶が割れて、飾られていた百合が死体の近くに転がっていた。
昨夜の二十二時。町野の部屋で彼と遅くまでチェスが盛り上がっていたので、旅館の主人に夕食を運ばせた。俺は最近チェスを始めたばかりなので、教えてもらいつつも全然勝てずに残念に思い、運ばせた夕食のシチューについていたパンを一口かじってさげさせた。町野が食事に興じている間に、彼に勝つ方法を考えようと思ったのだ。ああ、パンは美味かった。しかし、主人についてきた給仕の女性には驚いた。まさか、俺の元彼女の智子がここで働いていたとは。俺と彼女は久闊を叙した。町野はいたく、シチューの味付けを気に入っていたようで、智子のことは気にしていないようだった。「食べ終わったら呼んでください。」と、休みたい主人を引きとめ、使っている食材や料理の手順を尋ねて、奥さんに見習わせたいと愚痴をこぼしていたのだった。
町野は夕食をきれいに食べ終わったが、俺は彼に勝つ方法を思い付かず、リフレッシュすることにした。やはり医者になる男は、凡人の俺とは頭の作りが違うのだろうか。主人と智子と一緒に彼の部屋を出て、別れて温泉に向かう。主人に聞いたところによると、関節痛によく効く温泉があるようだ。膝の痛みが治まれば、きっと名案を思い付くはずだ。途中で職業、探偵と名乗る男と合流した。黄土色のチェック柄のシャツと、変な上から目線。見かけはまあ、探偵だ。
温泉に着くまで探偵のことをひょろひょろの軟弱ものだと思っていたが、意外に筋肉はついていた。探偵もチェスを好むらしく、風呂の中であれやこれやと戦略を聞いた。まあ、ぺらぺらとよく話す男だ。
三十分ほどで風呂から上がり、町野の部屋の前で探偵と別れる。次こそは勝つぞとドアを開けると、彼は……。
あんなに人間というものを恐ろしく思ったのは初めてだ。殺人というのはなんとむごいことだろう。最低な行為だ。腹が立って仕方がなかった。ベッドの淵をドンと拳で叩く。はあ。妻と娘のことが恋しい。いつもは不遜な態度で接しているが、今はとてつもないほどに愛おしい。これが家族というものなのだろうか。
口寂しくなって、目を開けて煙草に火をつける。正直、友を失ってすぐの煙草は不味かった。なんせ、町野を失って四時間ほどしかたってないのだ。時刻は午前三時。しかし、体はいたく興奮していた。
窓の外に見える、落とされた橋を見ながら水差しから水を汲み、一口飲む。無味無臭のただの水のほうが、今は煙草よりも美味く感じられた。もう一度ベッドに戻り、犯人を考えてみる。この旅館に今いるのは六人。俺を抜いて容疑者は五人だ。
一人は探偵。こいつにはアリバイがある。俺と一緒に温泉に浸かっていたからな。こいつは除外していいだろう。残るは四人。この旅館の主人と元彼女。それと、大学生カップル。個人的には、あのカップルが怪しい。ロビーで町野が一息ついている時に、「ここはおれたちの席だ。」と言い合いになっていたからな。なにより、日本人なのに二人とも金髪だ。言い返せずにかっとなった頭の緩そうなあいつらが殺したんだろう。そうに違いない。そうと決まれば、問い詰めなければ。
体を起こそうとしたが、起き上がらなかった。体がとても重く、何より眠たい。先ほどまでは、体中が怒りにうち震えていたというのに。
「薬が効いてきたようね。」
渾身の力を込めて目を開けると、黒髪の女性が立っていた。
「お、お前は。」
「私よ。」
「智子!」
窓際に立ち、月明かりに照らされた彼女の右手に、きらりと光る何かが握られていた。
「てめえ、一服盛りやがったなあ!」
口からは威勢のいい言葉が出てくるが、語気は弱かった。智子は窓辺に置かれていた水差しを持ち上げ、俺に向けて軽く振った。
「み、水差しに。」
「そう。町野は嬉々として食べていたけど、美味しかった?睡眠薬は。」
「そんな訳ないだろうが、くそ女。」
「ずいぶんな言い草ね。そんな女に看取られて死ぬのよ。」
嘘だ。やめろ。俺は、家族に見守られて老衰で死ぬんだ。こんな女に殺されてたまるか。ベッドの上で、なるべく殺人鬼から距離をとろうと体をくねらせるが、ほんの数センチしか動かなかった。
「何故、町野を、俺を殺そうとするんだ。人を殺すのはいけないことだぞ!」
「そうね。でも、あなたも町野も人を殺したじゃない。」
「なんの話だ。俺は人殺しなんて。」
「忘れたの?私に中絶させたこと。」
思い出した。俺が金髪カップルと同じ年の頃。彼女をつい妊娠させてしまった。彼女は産むと言ったのだが、俺は産ませたくなかった。まだ、人生の夏休みを楽しみたかったのだ。俺は彼女に睡眠薬を盛り、既に医者として働いていた町野に堕胎をお願いしたのだった。その後別れたのだが、まだ恨んでいたのか。
「私の赤ちゃん、人生の目的も果たせないまま、たった一人で殺されて寂しかっただろうなあ。」
智子は右手のナイフを振りあげた。
「やめろ!」
彼女は振り上げたナイフをまっすぐ振りおろし、俺の下腹部を突き刺した。抜いては刺し、抜いては刺しを繰り返す。何度も何度も。俺はあまりの痛みに声も出せなかった。抵抗して暴れているせいか、血液が勢いよく抜けていき、俺の意識はどんどん遠くなる。ああ、妻よ、娘よ、済まない。どうか元気に人生を全うしてくれ。俺が最期に目にしたのは智子の泣き顔と、どこまでも無垢な白さを放つ、百合だった。
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