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009話 勝つために…(1942年4月)

『1942年4月』


 4月になった。だが、この今の日本にエイプリルフールの習慣は根付いていない。

 罪の無い嘘がつけない。つまらんなぁ。



●4月1日、連合艦隊主力は史実通りインド洋で作戦行動中だ。


 黒島参謀に1月に却下した「K作戦」を「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」に先駆けて行うように命じた。

 まだ、海軍軍令部は「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」を認めていないが、もうすぐ折れるだろう。

 

 史実の「K作戦」は1回目は敵に被害は与えなかったものの作戦実行そのものは成功している。

 2回目も計画され「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」前のハワイ方面の偵察も兼ねて実行しようとしたが、二式大艇と給油潜水艦が会合地点としたフレンチフリゲート礁を、再度の攻撃を警戒するアメリカ軍が艦艇を派遣して警備していたため中止となっている。


 つまり、今回の歴史はそれを逆転させ1回目は中止にし2回目は実行としたわけだ。

 今回の歴史では、フレンチフリゲート礁をまだアメリカ軍は警備していない筈だ。

 これで「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」前に少しでもハワイ方面の敵情がわかれば嬉しい。


 今回の歴史で自分は通商破壊戦に力を入れているので本来なら潜水艦を給油任務に使用するというのは無しだ。1月に「K作戦」を却下した時の理由もそれだった。


 しかし、今回は使用する潜水艦が特別だ。

 特別とは言っても史実で「K作戦」の2回目に使用された潜水艦と同じで「伊121」「伊122」「伊123」の3隻だ。


 この潜水艦は機雷敷設用潜水艦で、これまでオーストラリア方面で通商破壊戦にあたったり、敵航路に機雷を撒くなどしている。だが機雷敷設用潜水艦という意味で特別と言っているわけではない。


 実はこの3隻は1927年に就役した旧式潜水艦なのだ。

 同じ年に就役した「伊」号型の潜水艦は他に3隻あるが、そのうちの「伊153」「伊154」の2隻などは、先月揃って第一線を引退し練習艦となっている。残るもう1隻「伊155」も史実では年内に練習艦になる。


 つまり、今回「K作戦」に使われる潜水艦は旧式の引退寸前で、性能的にも通商破壊戦で大きく活躍するのは難しいだろうから、この作戦に投入してもいいだろうという自分の判断なのだ。


 もし保有する潜水艦が全て新鋭艦だったら自分は「K作戦」に使用させなかっただろう。

 実際の史実では「伊121」と「伊122」は来年1943年に練習艦となり、「伊123」は「ガダルカナル島攻防戦」で失われる事になるのだが、今回の歴史ではどうなるか。ともかく活躍に期待しよう。


 ところで、実は開戦前にこの機雷敷設用潜水艦を使用した作戦を考えていた事がある。

 機雷敷設用潜水艦は開戦前には4隻あったので、それをアメリカ本土西海岸に派遣し「真珠湾攻撃作戦」に合わせて、港周辺に機雷を敷設させるとともに通商破壊戦を行わせるというものだ。


 ただ、この機雷敷設用潜水艦は、史実で実際にアメリカ本土西海岸で通商破壊戦を行った潜水艦の7割程度の航続距離しかなく自力で帰還するのは厳しいものがある。


 そこでアメリカとオーストラリア、ニュージーランド間で通商破壊戦をしている「第24戦隊」に補給させるか、特設潜水母艦またはタンカーを1隻配置しようかとも考えたが余裕が無いので諦めた。

 機雷敷設用潜水艦も南方作戦での使用とその任務も決まったので口出ししないでおいた。残念だ。



●4月5日、海軍軍令部が連合艦隊司令部の要請を飲み「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」の決行を承認した。


 ただし、その引き換えに「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」に勝利した後は、アメリカとオーストラリアの連絡線を断ち切る為に、フィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略する「FS作戦」を行う事になった。

 その後「アリューシャン作戦」もやってほしいと海軍軍令部から言って来た。

 史実通りの展開だ。


 また、今月は「第四艦隊」による「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」も実施される事になっている。


 この作戦は東ニューギニア南岸のポートモレスビーを陸軍と協力して占領し、オーストラリア北部を航空攻撃圏内としてオーストラリア政府を圧迫すると共に、アメリカとオーストラリア間の海上交通路を遮断するのにも役立てようという作戦だ。


 立て続けに作戦が予定されているが、戦いの主導権を握るには仕方がない。



●4月9日、陸軍のフィリピンでの戦いはバターン半島に立て籠もるアメリカ軍を降伏させたところだ。

 次はコレヒドール島要塞が目標となるだろう。


 ビルマでは陸軍がエナンジョン油田地帯を目指して進撃中だ。

 

 また、この日は「セイロン島沖海戦」が起き、南雲機動部隊はイギリス巡洋艦2隻と駆逐艦1隻、そして空母ハーミズを撃沈している。

 マレー部隊(小沢南遣艦隊)は、インド洋のベンガル湾で通商破壊戦を行い成果を上げている。

 陸軍も海軍も全ては史実通りの展開だ。



●4月10日、「第1海上護衛隊」と「第2海上護衛隊」が新設され、シーレーン(海上交通路)の防衛にあたる事になった。だが配属された戦力は少ない。史実通りだ。


 史実における開戦初期の海軍のシーレーン(海上交通路)防衛は、開戦前に立てられた「昭和16年度戦時通商保護計画要領」という計画に基づき、連合艦隊、支那方面艦隊、各鎮守府と各警備府が、それぞれ担当する海域の防衛にあたっていた。


 そして占領地の拡大に伴い重要拠点及びその付近の海域を防衛するために「根拠地隊」や「特別根拠地隊」が新設されシーレーン(海上交通路)の防衛にあたった。


 しかし、そうした部隊の担当海域ごとに輸送船の護衛が変わるのは煩雑であり効率も悪いという声があがり、最初から最後まで護衛を行う専門の艦隊の編成が望まれ、「第1海上護衛隊」と「第2海上護衛隊」が新設されたのだ。


 史実における太平洋戦争では1943年頃より、アメリカの潜水艦による通商破壊戦が激しくなり、日本は大量の輸送船を沈められ続け、1945年には南方資源地帯からの資源の移送が途絶えた。


 だが、1942年の時点で言えば、輸送船の被害は概ね開戦前の被害予想からは大きく外れていない。

 1942年後半はガダルカナル戦があったために被害が増加したが、1942年前半に限れば、輸送船の被害は開戦前の被害予想を下回っている。


 そうした結果、開戦前に企画院は1942年における南方資源地帯から日本への石油の移送量を30万キロリットルと想定していたが、実際にはその予想を大幅に超える167万キロリットルが日本に送られた。


 今回の歴史では戦争が終わるまで是非とも1942年前半の被害状況のレベルで、つまり開戦前の損失見込みより低いレベルを維持していきたい。そうすれば日本の国力と戦力はかなり上がる筈だ。


「ミッドウェー海戦」で勝利すれば、その後の歴史の展開は変わり、「ガダルカナル島攻防戦」に始まる航空機と艦艇の消耗戦は回避できると思う。


 そうなればシーレーン(海上交通路)防衛にあてられる戦力も史実よりも増えると予想されるので、今はまだ深刻には心配していない。

 しかし、油断は禁物だろう。


 そこで海軍軍令部にシーレーン(海上交通路)防衛のための提案を二つほどした。


 一つは日本本土から南方資源地帯の航路を機雷原によって守るという作戦だ。


 九州から東シナ海の大陸棚沿いに台湾までの海域と、フィリピンからインドネシアのボルネオ島とそこからジャワ島に至る水深の浅い海域に機雷原を構成する。台湾とフィリピンの間のバシー海峡は水深が深い部分があり機雷敷設は難しいので、ここには対潜部隊を常置する。


 この機雷原が完成すれば日本から東シナ海、南シナ海を通る航路は島々と機雷原により囲まれ安全な航路となる。


 実は史実において、この作戦は行われているが失敗している。

 何故なら遅すぎ、少なすぎたのがその理由だ。


 機雷敷設が本格的に開始されたのは、もう日本の敗勢が見えていた1944年で、それも半年もかけて敷設する計画だった。


 しかも本来必要とされる機雷の数は約4万2千個だが、実際に敷設されたのは約3万個にとどまっている。


 そのため、機雷原には穴があり過ぎ、アメリカの潜水艦の侵入を許す結果となり、当初の期待ほどには効果を発揮できずに終わっている。


 史実では開戦前に海軍が保有していた機雷は約2万9千個。

 一年間の機雷生産量は約1万5千個。

 開戦1年後には4万4千個の機雷があるため、この作戦に必要な機雷4万2千個は十分に確保できる。


 海軍には開戦時、機雷敷設艦が10隻あったが、輸送船の護衛任務を主にしており、本来の機雷敷設任務はしていない状況だったので、これに機雷敷設をさせる事が可能であり、3ヵ月もあれば機雷敷設は完了する。


 つまり、今の時点から機雷敷設艦に機雷を敷設させて行けば、アメリカの潜水艦の活動が活発化する  1943年までには機雷原を余裕を持って構成する事ができるのだ。


 そしてアメリカ潜水艦の東シナ海、南シナ海への侵入を阻む。

 輸送船を護衛する艦艇が不足している現状では最も可能で効果的であり、さらに他方面への負担が少ない作戦だと思われる。



 もう一つは、対潜哨戒航空部隊の新設だ。


 潜水艦の大敵が航空機なのは戦史を顧みれば明らかだ。

 できればイギリスのように護衛空母による対潜哨戒を行いたいが、残念ながらそこまでの戦力は日本には無い。


 そこで航続距離が長く海上へ発着が可能で、南洋への島々への展開も容易な飛行艇による輸送船の護衛及び航路の対潜哨戒を主任務とする航空部隊の新設を提案した。


  開戦時、大型飛行艇は48機しか無かったので完全に機数不足だが、今年始めに登場した新型機の二式大艇は優れた性能を持っているので、その大幅増強を要望した。


 この機雷原の構成と飛行艇による対潜哨戒航空部隊の新設が為されれば、アメリカ潜水艦の脅威は大分軽減できるのではないかと思う。


 だが、しかし……


 海軍軍令部はこの提案に「承っておきます」と回答したのみで動きは見せなかった。

 

 後で参謀を海軍軍令部に派遣してその理由を確かめさせると、現状ではアメリカ潜水艦による被害がそれほどでもないので、その必要は無いだろうという事らしい。

「山本長官は心配性だ」と海軍軍令部の者達は話しているとの事。

 まあそういう話になっても仕方の無い状況ではある。提案が通らず残念だ。


 この日は他にインドで動きがあった。


 海軍軍令部の情報部からの情報によると、インドにおいてインド人達の政治組織「国民議会」とイギリス政府から派遣された特使との話し合いが決裂したそうだ。


 イギリスの戦争に協力すれば自治権を拡大しようというイギリス本国から派遣されて来た特使の提案にインド人達の「国民議会」はあくまで独立を求めたという事らしい。

 史実通りの展開で問題は無い。

 

 だが、しかし、それだけに惜しい。とても惜しい。

 出来うるならばインドに手を出したい。

 

 現在、インドは史実通り反イギリス運動が盛り上がっている。

 インドの人達は昔からイギリスの植民地支配から抜け出そうと足掻いてきた。過去には大きな叛乱も起こっている。

 そのインド人達にとって日本の南方地帯攻略とビルマ進出は刺激になった。

 もしかしたら自分達もマレーやビルマのようにイギリスの支配から抜け出せるのではないかと希望を持つようになった。


 実際、史実通り3月にはインドのイスラム教徒達が反イギリス武力闘争を宣言し、4月にはヒンズー教徒のあのマハトマ・ガンジーがイギリスの支配体制に協力するのはやめようという非暴力反イギリス抵抗運動をインド人同胞に呼び掛けて扇動しており、インド人による反イギリス運動が盛り上がっているのだ。


 これはイギリスのインド支配を揺るがす大きなチャンスだ。

 日本の戦略たる「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」にも日本軍がビルマを独立させてインドの独立も誘発させるようにするとあり、その通りの展開になっきている。


 だが、史実では独立までには持っていけない。あと一歩押しが足りない。

 あと一押し外部からの働きかけが欲しい。

 だがそれを日本軍が担うのは難しい。

 陸軍はまだフィリピン攻略戦が終了していないし、ビルマ攻略戦も完了していない。


 陸軍にその余裕が無いのはわかっている。現状では陸軍が南方に派遣した部隊では、これ以上の新たな作戦は無理だろう。

 それは分かっている。

 けれども「手」が無いわけでは無い。


 日本はインドに対し一つの火種を持っている。

「インド国民軍」だ。

 東南アジアには約300万人のインド人が住んでいる。

 その中にはインドの独立を目指して活動している者達もいた。

 日本軍の諜報機関はそうした独立を目指す者達と手を握り、マレー半島進攻作戦に協力させたのだ。

 マレー半島のイギリス軍内部には多くのインド人部隊があった。

 そのインド人達に投降を促したり、寝返らせたりしている。


 そして、そうしたインド人の中からインド独立という大義の下に戦う志願者を集め、陸軍の支援下に「インド国民軍」を結成した。

 その兵力は既に2万人を超えている。


 ただし、陸軍は当初この「インド国民軍」を主に占領地域での労働力と、インドに対する諜報活動に使う腹積もりでおり、この時点では積極的にインド解放作戦をさせるつもりは無かった。


 もしその「インド国民軍」をインドに投入したらどうなるか。

 イギリス軍はビルマで日本軍と戦闘をしている上に、さらにインド国内での反イギリス運動を抑える治安活動で大変な状況だ。


 そこにインド人のインド人によるインド人のための軍隊がやってきたら……

 恐らく大きな叛乱の火の手がインドで上がるだろう。

 既にイスラム教徒は武力闘争を宣言しているし、ガンジーが非暴力での抵抗運動を呼び掛けても常に暴力に走る独立運動家はいた。

 きっとそうした者達がこれを好機と立ち上がる可能性は多分にある。


 当座の武器、弾薬、食糧は降伏したイギリス軍より押収した物が大量にある。

 ライフルだけでも6万丁以上、その弾薬3千万発以上、大砲も400門以上の他、各種の武器と物資を大量に陸軍はイギリス軍から押収している。


 日本軍の兵器規格に合わないこれらの武器を日本軍が装備したところで、補給体制が複雑になるだけだ。

 それならいっそ「インド国民軍」に装備させたり、反イギリス武力闘争に立ち上がり「インド国民軍」に協力しようという者達に提供した方が現時点では有効に使えるように思う。


「インド国民軍」をインドに投入するとして、その進攻ルートだが、陸路は無理だ。

 まだ日本軍はビルマ攻略を終えておらず、インドとの国境にも達していない。


 それに、これからビルマ・インド国境付近は雨季に入る。この地方の降雨量は地球上でも有数の降雨量であり、その中をビルマからインドに向けて陸路で進攻するのは難しい。


 だから海路からの進攻がベストだろう。


「インド国民軍」の全兵力を輸送する船舶を集めるのは大変だが、何も全兵力を一度に投入する事もない。数千人規模なら無理なく輸送できるし、そもそもインドに火種を放り込む事ができればいいのだ。


 機動部隊の掩護の下に「インド国民軍」をインド大陸、それも大都市付近に上陸させるのは十分可能だろう。

 

 だが、しかし、これから5月にはポートモレスビー攻略作戦が、6月には運命の「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」が行われるだろう。


 当初は「インド国民軍」を上陸させる事ができても、継続して連合艦隊が支援する事は難しい。

 大半の部隊はこれから太平洋に向かわねばならない。


 正直に言えば、最悪「インド国民軍」」をインドに上陸させた後は、後は野となれ山となれで、放り出しても構わないとさえ思っている。「インド国民軍」への言い訳は幾らでもできるし、形ばかりの支援をする事ぐらいは可能だろう。


 要はインドで、これまでにない大規模な叛乱を起こさせ、イギリスに大きな負担をかけさせると共に、インドの人的資源と物資、資金をイギリスに使わせないようにする事が重要なのだ。


 第二次世界大戦においてイギリス軍に参加したインド人は200万人以上にもなる。イギリス本国に送られた物資と戦費も莫大だ。それを妨害するだけでも利点は大きい。


 その結果として、もしインドの独立が達成されれば、それはそれで構わない。


 だが、幾らなんでも途中から放り出すような事は「インド国民軍」を結成させ利用している陸軍が許さないだろう。そんな事をしたら海軍と陸軍の関係が悪化する。


 そもそも連合艦隊司令長官が言い出すような作戦でもない。

 しかし、そこはやりようがあるかもしれない。

 ともかく惜しい状況だ。


 現在の状況から判断からすると、連合艦隊が空母を含む大規模な艦隊をインド洋に再度派遣できるようになるのは、早くても数か月は後になるだろう。それも主力空母は難しく小型空母か特設空母という事になりそうだ。

 もう少し空母があれば、あと2隻、いや1隻でもあれば……無念だ。



●4月11日、「伊30」号潜水艦が呉からドイツに向けて出港した。


「遣独潜水艦」としてドイツに派遣されたのだ。史実通りだ。

 貴重な機密兵器や、その設計図、ドイツが欠乏している生ゴムや錫等の物資を積んで向かい、帰りはドイツが提供してくれる機密兵器やその設計図を持って来るのだ。


「伊30」号は日本を出て東シナ海、南シナ海、インド洋、喜望峰を回って大西洋を経てドイツの勢力圏であるフランスのロリアン港まで航海するのだから大変だ。

 ただでさえ距離があるのに、連合国の勢力圏を抜けていかねばならないのだから危険も多い。是非、無事に帰って来てほしい。


 史実では、この「遣独潜水艦」は五回行われ、無事に日本まで戻って来たのは1回だけだ。


 今回の歴史では、もっと多く成功させたいし、出来れば潜水艦ではなく輸送船団や水上艦艦隊で日本とドイツを行き来できたらと思う。


 ところで、日本とドイツの機密兵器の交換についてはドイツ側からくれぐれもイタリアには秘密にしてほしいとの要請があったようだ。

史実通りの話しとはいえ、イタリアの扱いって……



●4月16日、インド洋から帰還中の「南雲機動部隊」より「第五航空戦隊」を分離し「第四艦隊」に配属した。「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」のためだ。


「第五航空戦隊」は「MO機動部隊」となる。

 どう考えても「第四艦隊」に送る兵力が少ない。

 しかし、これ以上送ると「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」に支障が出る。

 困った話だ。


 また、この日は史実通り呉港よりインド洋で通商破壊作戦を行う予定の「甲先遣隊」の一部が出港した。

 この日出港したのは「第24戦隊」の「愛国丸」「報国丸」と甲標的を積んだ水上機母艦「日清」の他、潜水艦3隻だ。

「南雲機動部隊」と入れ替わりでインド洋で通商破壊作戦を行う事になる。


 史実と少し違うのは「第24戦隊」が「第6艦隊」に配属されているという事だろうか。

 史実では「第24戦隊」は開戦初頭の南太平洋での通商破壊作戦遂行後に解隊されて「愛国丸」「報国丸」は「第6艦隊」付属として「甲先遣隊」に配属される。

だが、自分が口出しして「第24戦隊」の解隊は取り止めさせた。


 その理由は……まぁ何となくだ。

 仮装巡洋艦により編成された戦隊が一つくらいあったっていいではないですか。いいではないですか。

 仮装巡洋艦専門の部隊……

 そこにロマンを感じて何が悪い!

 ドイツの仮装巡洋艦は第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも随分活躍してるし逸話も多い。

 世界に名立たる海軍国として日本も同盟国には負けてられん!


そして世界の海軍で仮装巡洋艦により部隊を編成しているところは殆ど無い。

そこで海戦史に日本の仮装巡洋艦部隊による活躍を刻もうという事なのですよ。

そのうち仮装巡洋艦による艦隊を編成するのも面白いかもしれない……


それはともかく「甲先遣隊」は5月にはインド洋で通商破壊作戦を開始する予定だ。

その戦果に期待しよう。



●4月18日、史実通り「ドーリットルの東京空襲」が行われた。


アメリカ軍のドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を爆撃した。

ルーズベルト大統領としては、敗北の続く情勢でアメリカ国民の戦意が低下する事を懸念し、確かな成功と勝利により国民の戦意を高揚させようとして、この爆撃作戦を行ったらしい。


よし。これでいい。この爆撃を待っていたよ。


この空襲の犠牲になられた方達には申し訳ないが、これで勝利に一歩近づける。


史実での「ドーリットルの東京空襲」の結果、注目すべき動きが陸軍三つ出てくる。


一つ目は陸軍が東に目を向けるのだ。


ハワイのアメリカ艦隊を撃破し南方資源地帯を手中にし日本の戦略たる「第一段作戦」は成功した。

その後の「第二段作戦」について、陸軍は太平洋での戦線を拡大するよりも、南方資源地帯を強固に防衛し資源を日本本土に送り国力を高め、それにより戦力を増強し、西方で攻勢に出ようという考えを持っていた。


南方攻略作戦が順調に進展中の1941年12月23日付けの陸軍参謀本部の日誌には「第二段作戦」の候補としては次の作戦が記述されている。


一番目「日ソ戦(シベリア攻略作戦)」

二番目「日支戦(重慶攻略作戦)」

三番目「インド攻略戦」

四番目「セイロン島攻略作戦」

五番目「西亜作戦(イラン・イラク攻略)」


となっており、全く太平洋方面は入っていない。


 この中で1942年3月頃より陸軍参謀本部で計画が進められていたのが二番目の「日支戦(重慶攻略作戦)」だった。


 しかも6月に予定されている海軍の「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」「AL作戦(アリューシャン攻略作戦)」に陸軍は兵力を提供せず、フィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略する「FS作戦」のみ部隊を出す事に決定していた状況で、太平洋方面には消極的だった。


 しかし「ドーリットルの東京空襲」が陸軍の態度を変えさせた。

 日本本土防衛のためには太平洋上の島々の攻略が是非とも必要だと認識し、方針を変え「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」「AL作戦(アリューシャン攻略作戦)」に兵力を出して海軍に協力する事にしたのだ。


 しかも、反動が大きかったのか、陸軍はそれまで考慮していなかった「ハワイ攻略作戦」まで視野に入れ三個師団に「ハワイ攻略作戦」の準備命令を出すほどだった。

 陸軍は西方だけでなく東方にもその目を向けたのだ。



 二つ目の注目すべき動きは陸軍によるアメリカ本土爆撃が可能な長距離戦略爆撃機の開発だ。


「ドーリットルの東京空襲」に対し陸軍では「やられたらやり返す」的な単純な報復的発想により、長距離戦略爆撃機でアメリカ本土を爆撃しようという考えが浮上し、まずは「キ77」の開発が促進されるのだ。


 陸軍名「キ77」は、民間の名前では「A26」とも言う。

 史実ではその「A26」は元は朝日新聞社が「皇紀2600年(1940年)」を記念した事業の一環として東京~ニューヨーク間を無着陸で行ける飛行機を飛ばそうと考え、その開発を東大航空研究所に依頼した長距離飛行機だ。


 それに目を付けたのが長距離偵察爆撃機が欲しいと考えていた陸軍で、陸軍も開発資金を出す事になる。

 しかし、太平洋戦争の勃発により「A26」(陸軍名キ77)の開発は中止される。


 しかし「ドーリットルの東京空襲」により長距離戦略爆撃機を欲した陸軍は「キ77」の開発を再開させる。そしてその「キ77」の発展改良型として「キ74」長距離戦略爆撃機が開発されるのだ。


「キ74」は防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第87巻「陸軍航空兵器の開発・生産・補給」によれば、終戦間際の1945年5月には8号機までが完成したとあるが、終戦までに14機が完成していたという話もある。また「キ74」の試作と並行して「キ74Ⅱ」も計画された。


「キ74」の任務は片道飛行でニューヨークまで飛びビルに特攻をかける予定だったとか、日本本土を爆撃するB29長距離戦略爆撃機の基地があるサイパン島への攻撃に用いられる予定だった等の話しがある。


 大戦中、アメリカ本土まで飛べる長距離戦略爆撃機で完成を見たのは唯一この「キ74」だけなのだ。

 もし「ドーリットルの東京空襲」が無かったら、今回の歴史で日本が長距離戦略爆撃機を持たないという可能性も多分にあっただろう。


 また今回の歴史において、アメリカ本土を爆撃できる長距離戦略爆撃機の開発でスタートするのは、「キ74」以外には恐らく「川西航空機」の「TB機」だけという可能性がある。


 史実における「TB機」の開発計画は判然としないところもあるが、1942年12月にまず陸軍が「川西航空機」にアメリカ本土を爆撃できる機体の研究を指示した。


 1943年の始め頃に、今度は海軍軍令部が日本本土を爆撃できる長距離戦略爆撃機をアメリカが開発中との情報を掴んだから、こちらもアメリカ本土を爆撃できる機体が欲しいと「川西航空機」に要望する。


 そして1943年夏に日本の経済動員政策を決定する機関である「企画院」が陸海軍に何も知らせず、独自に「川西航空機」にアメリカ本土を爆撃できる長距離戦略爆撃機を発注する。

 こうした動きが「川西航空機」に「TB機」を開発させた。しかし、それが完成する事は無かった。


 今回の歴史において「TB機」が完成するかどうかは分からない。

 完成しない可能性も充分あるだろう。


 たとえ「TB機」が完成したとしても下手をすれば、海軍の大型長距離攻撃機「深山」のようになる可能性もある。

「深山」は1941年に完成した4発エンジンの大型長距離攻撃機だが、トラブルが多くその性能を十分には発揮できなかったというより低性能に終わった機体だ。

「TB機」とてそうなる可能性は否定できない。その逆も勿論ありえるが。


 そして、今回の歴史では他に陸軍が開発を命じたアメリカ本土を爆撃できる長距離戦略爆撃機「キ91」と、陸海軍共同開発の「富嶽」の開発はスタートしない可能性が多分にある。

何故なら、「富嶽」は「ミッドウェー海戦」で敗北し南方の島々を攻略され敗勢の色濃くなっていく日本の状況を憂いた飛行機メーカー「中島飛行機」の方から軍の方に開発話を持ち掛けたという経緯がある。

 そして「キ91」は「富嶽」の開発がスムーズに進まない事に苛立った陸軍が独自に「川崎航空機」に命じて開発を行わせたという経緯がある。


 つまり、日本の戦況が悪いから、それを引っ繰り返すための起死回生の手段として「富嶽」と「キ91」の開発は始まった。

 しかし、今回の歴史では自分はそこまで日本の戦況が悪化する事を許す気は無い。

 それ故に「富嶽」と「キ91」は開発がスタートしない可能性が考えられるのだ。


 ともかく史実で実戦経験は無いとは言え、実際に完成して飛ぶのが可能な長距離戦略爆撃機は「キ74」だけだった。

 あと何年か後には、その完成した姿を見せてくれるだろう。

 

 今回の歴史ではアメリカのB29長距離戦略爆撃機に日本本土の爆撃を許す気は無いし、南方資源地帯からの資源の移送も途絶えさせるつもりは無いから、きっと「キ74」の開発もそうした要素に阻害される事なく進み完成は早まるだろうと思う。

恐らく「キ74」が完成する頃はまだ戦争も続いているだろうから、色々と作戦に使えるだろう。

楽しみな事だ。


 でも戦争が終わってる事も考えられる。

 まぁそれならそれでも構わない。連合国との戦争が終わっても仮想敵は常にいる。

長距離戦略爆撃機の開発とその存在は無駄にはならないだろう。



 三つ目の注目すべき動きは、陸軍が中国南部で「浙贛作戦」を行う事だ。


 史実では「ドーリットル東京空襲」に衝撃を受けた日本陸軍は、二度と敵爆撃機の帝都空襲を許さないために、B25爆撃機の降りた中国南部に対しての攻勢作戦に出た。

 それが「浙贛作戦」だ。


 その「浙贛作戦」は5月14日から9月30日まで行われた。

 今回の歴史でも「浙贛作戦」は行われる事だろう。

 史実において、この作戦に日本軍が投入した戦力は第11軍と第13軍の約14万5000人た。対する中国軍の兵力は20万人以上。


 兵力は中国軍の方が上だったが、それはいつもの事。 

 日本軍の攻勢の前に中国軍は敗退し戦死者4万人以上、捕虜1万人以上を出す結果となる。

 日本軍の戦死者は約1600人。圧勝だ。これも中国戦線ではいつもの事だ。


 日本軍はこの作戦により「浙江省」と「江西省」の敵飛行場を完全破壊して使用不能にした。

 場所によっては河川から水を引き入れ飛行場を水没させている。

 更に鉄道や橋を破壊した。鉄道を破壊した時にはついでにレールを6万本以上も接収している。

 それに加えて、この地域は河川の多い地域である事から民間船を約800隻も接収している。

 つまりこの地域の交通網も破壊し容易く再建できないようにした。

 史実における「浙贛作戦」はこうして成功に終わる。


 今回の歴史でも同様な結果に終わるのではないかと思う。

 だが、重要なのはこの作戦によりアメリカの作戦を一つ阻止する事ができた事だ。


 それは「ハルプロ作戦」だ。

 中国の基地から日本を爆撃しようという作戦だ。

「浙江省」と「江西省」の飛行場からなら九州までは片道で約1000キロの距離。航続距離の長いB24爆撃機なら充分に爆撃範囲内だ。


 この計画のためにアメリカ軍はB24爆撃機23機をアフリカ経由で中国に派遣しようとしていた。

 しかし、B24爆撃機が中国に向かう途中のアフリカにいる間に日本軍の「浙贛作戦」が開始されたため、この「ハルプロ作戦」は中止された。5月の事だ。

 こうして「ハルプロ作戦」は「幻の爆撃作戦」となった。

 陸軍の「浙贛作戦」は日本の知らぬ間にアメリカ軍の作戦を一つ阻止し日本を安全にしたのだ。


 これだよ、これ。これだから簡単に「大陸での戦線を縮小する」とは言い出せない怖さがある。

 下手に中国大陸で戦線を縮小したりしたらアメリカ軍の長距離爆撃機が跳梁し日本本土を脅かす恐れが出て来る。厄介な事だ。


 それにしても自分がルーズベルト大統領の立場だったら「ドーリットル東京空襲」は許可しなかっただろう。虎の子となった空母を危険な作戦に使う事を躊躇したに違いない。

 その代わり「ハルプロ作戦」を強く推進したに違いない。

 危険を恐れず、とは、やるなぁルーズベルト大統領!

 だが今回の歴史では「ドーリットル東京空襲」は許したが、戦争の勝ちは譲らんぞ。日本がいただくのだ。ふっふっふっ。



 つまり、もし「ドーリットルの東京空襲」が無ければ、陸軍の目は西向きのままで、海軍への協力は消極的のままだった可能性がある。

 そして長距離戦略爆撃機の開発が行われないか、行われても開発のスタートは遅い時期になり、さらには失敗したかもしれず、日本は長距離戦略爆撃機を持てない可能性も出てきただろう。

 更には「浙贛作戦」は行われなかっただろうから、中国南部からのアメリカ軍機による日本本土爆撃作戦「ハルプロ作戦」が実行された可能性がある。


 そうした可能性を潰すために、敢えて自分はドーリットルの空襲を阻止しなかった。

 阻止しようと思えば、幾らでも対応策はあった。

 哨戒線をもっと東方に張るよう指示しておくとか、前もって幾つかの部隊の合同訓練をやらせるようにして戦力を集中しておき、敵の攻撃に素早く対応、反撃できるようにしておく等、幾らでも手はあっただろう。


 だが、最終的な勝ちを掴むために自分はそうした方策を何もとらなかった。

 敢えて日本に被害が及ぶ事態を見逃した事には忸怩たるものが無いわけでは無いが、これもアメリカに勝利するためと割り切ろう。

 マキャベリズムという言葉の意味が実感できた出来事だった。


 ところで、史実でも今回の歴史でも、この「ドーリットル東京空襲」では、海軍はソ連船の関与を疑っており、日本近海にいた複数のソ連船へ臨検を行っている。

「ドーリットル隊」の飛行機はソ連船の近くに着水してパイロットはその船に救助されたのではないかと疑ったわけだ。


 この時期にドイツと戦う事で精一杯のソ連が日本を怒らせるような事をできるわけがないのだけどね。

 日本と戦える余裕なんか無いし。

 実際、史実においてはアメリカ政府は「ドーリットル隊」を着陸させてくれるようソ連政府と熱心に交渉しているが、この時点では日本と対立する事を好まないソ連は拒否している。


 史実では1941年にドイツとの戦いで戦死したソ連兵の数は約300万人。戦死者だけでだ。これに負傷者や民間人の犠牲者を含めれば、どれだけの人数になるのやら。

 また1941年にソ連軍が保有していた戦車を含めた戦闘車両は2万2600両にもなるが、そのうちの約2万台を失っている。比率で言えば7割も失っている。

 1941年のソ連の戦車を含めた戦闘車両の生産数は約4700両だから損失の25%も穴埋めできていない事になる。


 だからこそアメリカとイギリスからソ連に送られた軍事援助(レンドリース)が重要な役割を果たす事になる。

 そんな状況のソ連が日本を怒らせて極東で戦争を引き起こすような真似をする筈がない。


 しかし、ソ連軍が大きな犠牲を払っている事は分かっていても、そこまで詳しいデータを日本が掴んでいるわけでもなく、大型機による太平洋側からの日本爆撃と言うあまりにも意表を突いた作戦のためにソ連の関与が疑われたのだ。


 自分としては、まさか「自分は歴史を知っている。ソ連は関与していない。無駄な事はやめろ」なんて言えないから、そのままにしておいた。

 史実通りソ連船の臨検に関してはソ連政府から猛抗議が来る事になるだろう。

 矢面に立つ外務省の皆さん頑張ってくれたまえ……そうとしか言えない。



●4月22日、南雲機動部隊が日本に帰還した。


南雲機動部隊の指揮官達と幕僚陣を連合艦隊旗艦「大和」に呼びよせ「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」の計画を伝えたが反応はよろしくない。反対論も多い。史実通りだ。



●4月23日、第四艦隊司令の井上中将が「MO作戦」を発令した。

頑張ってくれ。



●4月25日、南方の油田地帯の海軍と陸軍の管轄配分について参謀に内密に調べさせたところ、史実と全く変わらなかった。

 あれほど強く油田は多目に確保してくれと要望していたのにだ。

 がっくりきた。

 何れは艦艇の燃料問題が出て来るかもしれない。

 やれやれ。



●4月28日からは連合艦隊旗艦「大和」艦上で、連合艦隊司令部の面々と、南雲機動部隊の指揮官達と幕僚陣に海軍軍令部からも参謀が参加して「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」の総合研究会を行った。


 史実ならこのまま連合艦隊司令部で作成した作戦計画通りに図上演習が行われる事になる。

 第二航空戦隊の山口少将が機動部隊を三個編成し、空母の周辺には護衛の艦艇を輪形陣に配置するという提案をしてきた。

飛行隊指揮官の淵田中佐も空母6隻を中心に連合艦隊の全艦艇が輪形陣を組むという提案をしてきた。

史実通りの提案だ。


 ここで自分が動いた。


 山口少将と淵田中佐の提案の一部を採用し、空母の護衛部隊を増強して輪形陣で守りを固めるという事にしたのだ。

 反論も出て議論になったが、提案を押し通し輪形陣の採用は決まった。

 これにより、南雲機動部隊の防御は少しは固くなるだろう。

 輪形陣の運用規定を定めないといけないので、幕僚達は忙しくなるが許して貰おう。


 なおこの作戦において自分は旗艦「大和」で戦艦部隊を率い後方に位置するのは変わらない。


 本来なら南雲機動部隊と共に行動したいところではあるが、まだ連合艦隊内部には戦艦中心の大艦巨砲主義が根強く存在している。時代が戦艦より空母に移った事を理解していない者も多いのだ。

 特に戦艦部隊の者にはそれが多い。

 ここで連合艦隊司令長官が南雲機動部隊と行動を共にし、実質、連合艦隊の本隊として動けば戦艦部隊の者の不満は一気に高まるだろう。

かと言って高速戦艦以外の低速の戦艦に空母と行動を共にするのは無理だ。


 これまで連合艦隊主力部隊であった戦艦部隊の者達の不満を和らげ、士気を上げるためにも、連合艦隊内に発生しつつある空母・飛行機派VS戦艦派の不和を決定的にしないためにも、ここはまだ連合艦隊司令長官として戦艦「大和」に乗って後方にいよう。


 そのうちみんな空母が中心だという事を嫌でも理解しなくてはならなくなるだろう。その時までの辛抱だ。あぁ神経が磨り減る。


 ただ、気を付けなくてはいけないのは「ミッドウェー海戦」敗北の原因の一つは、連合艦隊司令長官が後方にいて、敵にその存在を秘匿しなければならない事から通信がスムーズにいかなかった事だ。

 そして戦艦部隊を有効に使えなかった事だ。

 そこは気を付けなくてはならない。


 また、この作戦ではインド洋に展開している第五潜水戦隊の8隻の潜水艦も参加させる予定だったが、それは取り止めさせた。

 潜水艦の足は遅い、せっかくインド洋に展開したばかりの潜水艦を太平洋に来させるのはあまりに効率が悪すぎる。


 それにインド洋での通商破壊戦は重要だ。

 3月1日に大海指60号で通商破壊戦強化を指示して来た大本営海軍部の手前もある。

「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」をゴリ押しで進めているのだから海軍軍令部の顔も少しは立ててやれと幕僚達には言っておいた。

 ちなみに大本営海軍部と海軍軍令部は殆ど同一組織だ。

 これでインド洋では通商破壊戦の戦果が史実より増えるだろう。



●4月29日、ビルマで戦っている日本軍がラショーという地域を占領した。

 これによりビルマのイギリス軍と中国の中国軍は分断される事になり、連合軍から中国軍に送られる補給ルートも当然切断される事になった。中国軍は補給を空輸に頼るしかない。史実通りの展開だ。



●4月30日、「ポートモレスビー攻略作戦」の一環としてソロモン諸島のツラギ島を占領するための「ツラギ攻略部隊」がラバウルから出撃した。

 しっかり頼むぞ。



●海軍軍令部の情報部から国際情勢に関する情報が届けられた。


◯4月14日、大西洋でアメリカの駆逐艦が初めてUボートを撃沈したそうだ。


 開戦から5ヵ月経ってやっと1隻。

 いかにアメリカ海軍の海上交通路防衛が未熟なのかがわかる。


 現代日本では太平洋戦争で日本が大量の輸送船を沈められシーレーン(海上交通路)を遮断された事ばかりがクローズアップされる。


 しかし、史実において勝者であるアメリカにしてもシーレーン(海上交通路)防衛については、最終的には守り通したものの、大戦全期間を通して決して成功したと言えるものでは無かったという事実がある。

 1942年前半の1月から6月にかけて沈められたアメリカの輸送船は約308万トンにもなる。

日本が同じ期間に沈められた輸送船は約39万トンだ。

日本が1942年1年間で沈められた輸送船でも100万トンだ。

 この時期、いかにアメリカがシーレーン(海上交通路)防衛に失敗していたかがわかるだろう。


 終戦までに日本が沈められた輸送船は2600隻、843万トンに上った。

 しかしアメリカも2724隻、1024万トンもの輸送船を失ったのである。この数字は日本の損失より多い。

それだけ沈められても回復できるアメリカの造船力は評価できるとは言え、その損失の大きさは決して無視できるものではない。


 日本と同じく島国で海外との海上交易が命綱のイギリスも、シーレーン(海上交通路)の防衛について、よく日本と比較される。

 そこでよく言われる説はイギリスは日本とは違いシーレーン(海上交通路)の重要性をよく理解し防衛戦力の整備に努めていた。その結果、イギリスはシーレーン(海上交通路)の防衛を成功させたという説だ。


 確かにイギリスは最終的にはシーレーン(海上交通路)の防衛を成功させたものの、アメリカと同じく大戦全期間を通して成功させていたとは言い難い。

 史実では開戦前、イギリスの輸送船は約4千隻あった。それを守る護衛艦の数はわずか140隻しかなく、全く足りなかった。だからUボートの活躍を許し大量の輸送船を沈められる。

 1943年前半までは酷い状況だった。

 

 アメリカが参戦して1年4ヵ月経った1943年3月になってもイギリス海軍は悲鳴を上げている。

「1943年3月のこの20日間ほどドイツのUボートがアメリカ・イギリス間の補給線壊滅に迫った事はなかった」と記録にあるくらいだ。

 またイギリスは最終的には43隻の護衛空母と800隻の護衛艦を保有しUボートを抑える事に成功するが、アメリカが建造した護衛艦が大量に含まれており、イギリス一国で揃えたものではなかった。特に護衛空母は34隻がアメリカで建造されたものだ。


 結局、イギリスは勝利するとは言え大戦期間中に沈められた輸送船は2426隻、1133万トンにも及び、沈められたトン数では日本より上である。

 これは決して手放しでシーレーン(海上交通路)防衛を成功させたと評価できるような数字では無い。

 そして今回の歴史では更にその損害を増してやろうという自分がいるのだ。

 アメリカとイギリスのシーレーン(海上交通路)の防衛は史実より確実に苦しくなるだろう。



◯4月21日、ドイツ軍の捕虜だったフランス軍のジロー将軍が脱走しスイスに脱出したそうだ。

  弛んでるぞドイツ軍。

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