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007話 開戦の年来たる(1940年~1941年12月1日)

『1940年』


今年は、紀元2600年。実にめでたい。


〖1月〗



●1月14日、史実通り阿部内閣が総辞職した。

天候の悪影響による不作から生じた米不足と生活物資の価格高騰に国民の政府への不満が高まっていた。

阿部内閣も価格統制令を出したり、米の供出・配給制度を確立すなど対策をとってはいたが、すぐには効果はあがらない。

しかし、議会からは内閣総辞職要求が出されたり、内閣不信任案決議への著名が始められる。

ここで阿部信行内閣総理大臣は解散に打って出ようとしたが、畑俊六陸軍大臣が反対する。

阿部内閣の英米協調路線に不満な陸軍省内の圧力に畑俊六陸軍大臣は屈しており、阿部信行内閣総理大臣を見捨てたからだ。

それで結局、閣内不一致という事で総辞職となった。


僅か4ヵ月の政権だった。

そんな短い期間で何ができるだろうか。対策を行ってもすぐに効果が現れる政策なんてものは無い。

ましてや国際連盟を始め外国から批判されている日中戦争の最中だ。

そんな中で米不足や生活物資の価格高騰をたった4ヵ月で解決しろという方が無理だろう。

そして畑俊六陸軍大臣が問題だ。

何せ陸軍省の軍務局長の武藤章少将が畑俊六陸軍大臣に無断で「陸軍は阿部内閣を支持せず」と記者に発表しても何ら処罰しない。

と言うか、部下に好き勝手言わせるとは……

史実通りの話とは言え、陸軍の規律とは何ぞや?

「満州事変」以来、陸軍の中堅幹部達は上層部を蔑ろにし、ほんと好き勝手するようになった。

やれやれ。



●1月16日、史実通り海軍の米内光政を内閣総理大臣とする米内内閣が成立した。

陛下はあくまで英米協調路線をお望みだ。

米内光政内閣総理大臣はその路線を推し進めるだろう。

だが、問題は陸軍だ。

陛下は畑俊六陸軍大臣を参内させ特別に米内内閣を助けるように仰ったが……



●1月26日、史実通り「日米通商航海条約」が失効した。

そしてその翌日には、これも史実通りアメリカ政府が日本に対し、アメリカが中国に保有している資産で日本軍機の爆撃により被害を受けた200ものリストを渡して来た。これらの資産にはアメリカ国旗が掲げられ、位置は日本側に通知済みだった。

これまでにも日本の外務省にはアメリカからの被害の抗議が殺到している。

アメリカだけでなく空爆で被害を受けた他の国からも抗議が殺到している。

だが日本政府は中国での軍事行動は自衛行動だから空爆の被害については補償しないという方針を1937年に打ち出しているし、軍は戦略爆撃をやめる気は無い。

自分の財産を破壊され、そのうえ補償されないのだからどこの国も日本に怒るのは当然だろう。

せめて補償してやれば、まだ何とかなるだろうが。

これでは被害を受けた国が経済制裁をしてくるのも仕方がないというものだ。 

そしてそれは日本の首を絞める事になる。困ったものだ。

全ては史実通りの事は言え溜め息が出る。



〖1月の国際情勢として……〗


◯1月8日、史実通りイギリスでバターと砂糖も配給制度となった。

どんどん配給になる物が増えている。それを更に増加させ、最終的には配給不能に追い込めばイギリスは危うくなる。

それがイギリスと戦うドイツ海軍の通商破壊作戦の狙いだ。

そして後に参戦する日本の狙いでもある。

今回の歴史では日本の通商破壊作戦は(ぬる)くはないぞ、覚悟するがいいイギリスよ、くっくっくっ。





〖2月〗


●2月2日、史実通り国会で斎藤隆夫衆議院議員が「反軍演説」を行った。

まぁ要するに日中戦争批判や軍部批判を行った演説だ。

その意気や良し!!

軍部が政治を引っ張っていく状況になってる中で勇気があるな。

骨のある奴は好きだよ。



〖2月の国際情勢として……〗


◯2月16日、史実通りノルウェー領海で「アルトマルク号事件」が発生した。

ドイツのタンカー「アルトマルク号」はウルグアイで自沈したポケット戦艦「アドミラル・グラフ・シュぺー号」に乗っていたイギリス人捕虜299人を乗せてドイツ本国に向かっていた。幸いにもイギリス海軍の目を掻い潜り中立国ノルウェーの領海に達する。

ノルウェー海軍の臨検を受けはしたが、捕虜は船の船倉に閉じ込められておりノルウェー海軍は気付かず、問題なくノルウェー領海を通過できる事になった。

しかし、イギリス海軍がそれを察知しイギリス人捕虜奪還のために巡洋艦1隻と駆逐艦5隻からなる艦隊を派遣した。

そしてイギリス艦隊はノルトマルク号を見つけ停船を命じた。

ノルトマルク号はノルウェー内のヨーシング入江に逃げ込んだ。

そこでイギリス艦隊の前に立ち塞がったのが、ノルウェー海軍の哨戒艇と魚雷艇の小さな船2隻だった。

ノルウェー海軍はイギリス艦隊の行動は中立国領海内での違法行動であると勧告し、イギリス艦隊とアルトマルク号の間に割って入ったのだ。

中立国の誇りにかけて領海内でイギリス海軍の好き勝手はさせないというわけだ。

大したものだ。小さな船2隻でイギリス艦隊に堂々と対峙したのだ。

イギリス艦隊はノルウェー海軍の勧告に従い退去した。

と、思ったらそれは見せ掛けだった。何と夜間にヨーシング入江に停泊中のアルトマルク号にイギリスの駆逐艦が接近し武装兵を乗り込ませて、ドイツ人船員を攻撃し、複数の者を殺害しイギリス人捕虜を全員救出した。

ノルウェー領海内での出来事だ。

完全にイギリスの国際法違反だ。


史実通りならば、この事件によってヒトラー総統はノルウェー侵攻作戦を決意する。

イギリス軍の前にノルウェーは中立を保持できない危うい国と考え占領する事にしたのだ。

何せノルウェーはスウェーデンからドイツに運ばれる鉄鉱石の重要な輸送ルートの中継点だ。

スウェーデンで産出される年間1500万トンの鉄鉱石のうち、1100万トンがドイツに輸出されている。

もし、この鉄鉱石が届かなくなれば、ドイツにとっては大打撃となる。

ノルウェー方面の海域はドイツ海軍にとっても大西洋への重要な出入り口でもある。

ドイツ北方の守りを固めるために、ドイツ海軍の作戦を容易にするために、重要な資源輸入ルートを確保するために、更にはイギリス軍がノルウェーに侵攻するという情報もあったため、ヒトラー総統はノルウェー侵攻計画の促進を命じた。このノルトマルク号事件から2日後の2月19日に。

元々は、今年1940年1月27日に国防軍総司令部内にノルウェー侵攻を計画するチームが作られてはいた。だが、それはあくまで研究に留まっていた。

しかし、それが実行計画に変わったのだ。

ノルウェーも可哀想に。ノルウェーも中立国の義務を果たそうと頑張ったのにね。

小国は辛いよ。




〖3月〗


●3月30日、史実通り汪兆銘の「南京国民政府」が樹立された。

北京を中心とする「中華民国臨時政府」と、南京を中心とする「中華民国維新政府」を吸収合併し、更に形の上では「蒙彊聯合委員会」も傘下においての政権樹立だ。

これにより、中国の大地は日本の二大傀儡政権の「満州国」と「南京国民政府」の二国と、それに対立する蒋介石の「中華民国政府」の三つに分かれたのである。

つまり「三国志」の時代の到来である!

例え二つの国家が傀儡政権であったとしても「三国志」なのである!

鼎立はしていないけど「三国志」なのである!



『3月の国際情勢として……』


○3月7日、史実通りフィンランド政府がソ連に外交代表団を送り休戦の交渉を始めた。

「冬戦争」が始まって3ヵ月余り。フィンランド軍も頑張ったが流石に限界に来ている。

フィンランド軍が戦前から構築していた主要な防御ラインである「マンネルハイム線」は既に史実通り2月17日に突破されている。

「マンネルハイム線」はカレリヤ地方に構築された約140キロの要塞線で296個のトーチカが配置されていた。

ここでフィンランド軍は数に勝るソ連軍を2ヵ月も食い止めたのだ。他の戦線も頑張った。

ソ連軍の戦死者は20万人。失った戦車は1600両。失った飛行機は684機。

フィンランド軍の戦死者は2万4923人。失った飛行機は61機。

フィンランド軍は独力でソ連軍に大きな損害を与えている。

大したものだ。よく戦ったよ。


ところでソ連軍相手に健闘したフィンランド空軍では、この「冬戦争」において史実通り敵機を5機以上撃墜した「エース」が10人誕生している。

ヨルマ・サルヴァント  13機機撃墜

オイヴァ・トゥオミネン 8機撃墜

ヴィクトル・ピヨツィア 7機撃墜、他7人だ。

このエース達を含めフィランド軍パイロット達が凄いのは各国からの寄せ集めの機体で戦い健闘した事だ。

元々、フィンランドは小国だから大きな空軍は持てないし、自国産の戦闘機も無い。

そこで外国から少数の戦闘機を輸入して使う事になる。

元々はオランダの「フォッカーD21」戦闘機を使用していたが、ソ連との関係が悪化して緊張状態が高まると急いで外国から戦闘機を輸入して空軍を強化しようとした。

それでイタリアの「フィアットG50」戦闘機を少数輸入もしている。

しかし、ヨーロッパ全体の緊張が増している中、戦闘機の輸入自体が困難になってくる。どこの国でも自国の空軍に最新鋭機を配備しようという動きが加速したのだ。

ソ連軍の侵攻が開始されてようやく他国も戦闘機を援助してくれるようになったが……

フランスがフィンランドに送った「モラヌ・ソルニエMS406」戦闘機50機は良いとして、アメリカのブルースター社から購入する事ができた「バッファローB239」戦闘機44機は性能的には一流とは言えない。何せブルースター社がアメリカ海軍に改良型の「バッファローF2A2」戦闘機を売却する事から余剰になった性能の劣る「バッファローB239」戦闘機をフィンランドに売って在庫処分したという話でしかないのだ。

でも、それはましな方で、イギリスから最初に送られた戦闘機30機は「グラジエーターMK2」なのだが、これは複葉機だ。イギリスでは約2年前から単葉戦闘機の「ホーカーハリケーン」の配備が始まっている。2年前ですよ2年前。「グラジエーターMK2」は余剰兵器の在庫処分としてフィンランドに送られたとしか思えない。

まぁイギリスも第二次世界大戦が始まってからも一部の部隊では「グラジエーターMK2」を使っていたけれど。それに後にはイギリスも「ホーカーハリケーン」戦闘機12機をフィンランドに送っている。ただし、到着したのは3月になってからだから「冬戦争」には殆ど参加していない。

そんなわけで史実でも今回の歴史でもフィンランド空軍では、オランダ、イタリア、アメリカ、イギリス、フランスの戦闘機が使用された。それも性能の悪い機体がかなり含まれていたのだ。

速度がどうの……

旋回性能がどうの……

装備機銃がどうの……

機体の防備がどうの……

何て悠長な事は、贅沢な事はフィンランド空軍は言ってはいられなかった。

今ある機体に、到着した機体に乗って戦うしかなかった。それしかなかったのだから。

そんな中で数に勝るソ連空軍を相手に戦果を上げ続け、フィンランドの大空を守り切ったフィンランド空軍のパイロット達。

凄い(おとこ)達だ。見習いたいね。



○3月11日、史実通りイギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相がフィンランドに援軍を送る用意があると正式に声明を出した。

元々は2月5日にイギリスとフランスはフィンランドに援軍を送る事を決定していた。

フランス軍が15万人にイギリス軍が5万人というから相当な規模だ。

ただしイギリス軍2個師団、フランス軍1個師団という説もある。正しいのはどっちだ?

それはともかく、この計画にはもう一つの大きな目的があり狙いがあった。それはスウェーデンの鉱山だ。

スウェーデンからドイツに輸出される鉄鉱石を止めるために、フィンランドへの援軍を隠れ蓑に北欧に派兵しようとしていたのだ。

実際にはフィンランドへの援軍よりも、こちらの鉱山を押さえる方が主目的だ。

計画では3月20日頃にノルウェーに上陸を開始し、その後にスウェーデン北部領内に進出しながら鉱山を押さえ、そしてフィンランドに向かうという計画だった。

この時点ではイギリス軍もフランス軍もノルウェーにさえ到着していないどころか軍がまだ船にさえ乗り込んでいない。

そのため、フィンランドとソ連の外交交渉に慌てたイギリスとフランスは声明を出したのだが、もう遅い。

イギリスとフランスのやる事はいつも遅い。遅すぎる。


まぁ遅いのも無理はない。この時期、イギリスとフランスの連合軍司令部で検討されていた対ドイツプランが幾つもあった。

◇ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧方面からドイツに攻撃をかけるプラン。

◇ギリシャ方面からドイツを攻撃するプラン。

◇ベルギーを経てドイツのルール工業地帯を攻撃するプラン。

◇ソ連のコーカサス油田地帯を攻撃しドイツへの油の供給を切断しようというプラン。

◇北欧とコーカサス地方からソ連を挟撃しモスクワで合流しようというソ連打倒プラン。

こうしたプランについて検討が行われていたらしい。

この事について、イギリスでの電撃戦の提唱者で数多くの著書のあるイギリスの将軍ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、大戦後に出した著書の中で、夢の世界にとじ籠もっての驚くべき妄想と、連合軍司令部を痛烈に批判している。

いや、でもフラー将軍、ベルギー経由でルール工業地帯を攻撃するプランはそんなに悪くはないんでないの? 他のよりは現実的なプランなんでは? 


それはともかく、軍だけでなくフランス議会の議員達がこの時期に主張している案も実に大胆だ。

何せソ連との開戦をダラディエ首相に求めた主張が複数ある。

ラバル議員はドイツが敵であり、その敵に物資を供給しているソ連も敵だからイタリアと組んでソ連を攻撃するべきだと主張した。

レイベル議員は、ソ連と開戦してコーカサス油田地帯へ攻撃するべきだと主張した。

レムリ議員は一番弱い敵をまず叩くべきであり、それはソ連だと主張した。

何というか、皆さんソ連がお嫌いのようで。



○3月13日、史実通りフィンランドとソ連の間で講和条約が結ばれた。

領土を割譲する事にはなったが国は保ち滅ぶ事は免れた。大国相手には上出来な結果だろう。

見事な成果だ。尊敬するよ。



○3月18日、史実通りドイツのヒトラー総統とイタリアのムッソリーニ首相が会談した。

悪巧みの相談だ。



○3月20日、史実通り、これまで全く良いところのないフランスのダラディエ内閣が倒れ、新たにポール・レイノーの内閣が成立した。

まぁ当たり前の展開だろう。今までダラディエ内閣が続いていた事の方が驚きだ。

とは言え、レイノー首相も議員達の信頼を得ているとは言えない。

何せ翌日21日にフランス議会でレイノー内閣への信任投票が行われたが、過半数は獲得したがその差は僅か1票差。与党内からさえ造反者が80人も出る始末。

実はこれ、前首相ダラディエ派の人達と閣僚に選ばれなかった議員からの追い落とし工作の結果だったりする。

戦争してる時に私怨で政治工作をやっているフランス議会の人達って……

政治家はかくも業が深い生き物なのか。



○3月28日、史実通りフランスの新たに成立したレイノー内閣とイギリス政府との間で「単独不講和協定」が結ばれた。

これは勝手に敵対国とは講和しないというお約束だが、いずれは破られる事になる。

所詮、条約なんて紙切れですから。


それはともかくイギリス軍とフランス軍の合同会議では、ノルウェー海域に機雷を敷設する事が決定された。これでドイツへの資源補給ルートを遮断し、ドイツ海軍も封じ込めるつもりだ。

だがね、遅いよ。





〖4月〗


〖4月の国際情勢として……〗


○4月5日、史実通りイギリスのチェンバレン首相が「ヒトラーはバスに乗り遅れた。勝利の機会を逃した」と演説した。

イギリス海軍によるノルウェー海域への機雷敷設を考慮しての演説だ。

何を言ってるんだか。そういう事は事態が決してから言いなさい。



○4月9日、史実通りドイツ軍はノルウェーとデンマークに侵攻を開始した。

ドイツ軍がイギリス軍より先手をとる事になった。

結局「バスに乗り遅れた」のはチェンバレン首相だった。

だが、ヒトラー総統よ、去年の3月にデンマークと締結した「不可侵条約」はどうした?

それはともかく史実通り、この日、デンマークはすぐに降伏した。


ところで史実通りならば、宣戦布告と言うより、ドイツ軍による「デンマークの保護」を行う通告が行われたのは午前4時過ぎ。

この時、ドイツの使者ブライヤー大使がデンマークのムンク外相に面会を申し込んだのだが、流石に朝4時は早すぎた。朝食の後にしてほしいと一旦は断られたが、強引に面会に応じさせている。

うん、朝食は大事だよ。

知らせを受けたデンマーク政府では王宮で急ぎ緊急対策会議を開いた。

首相を含め殆どは即降伏の構え。

ただし、軍総司令官のプリオル大将だけが抗戦を主張する。

そんな会議の最中に何とドイツ軍は、もう王宮にまで来てしまった。

何せドイツ軍は首都コペンハーゲンに船で乗り付けたから行動が早い。

そしてドイツ軍と王宮警備兵が戦闘になったのだが、ここでデンマーク国王クリスチャン10世は王宮警備兵に戦闘を停止させた。だが、これは降伏ではない。

ドイツ軍は王宮を占拠したが、何とデンマーク政府の会議は続けられた!

凄ぇ! 小田原評定なんて目じゃないよ。

ドイツ軍に王宮を占拠されてるのに、まだ降伏するか抗戦するか会議を続けている!

ヴァイキングの末裔達は豪胆だ。

結局、デンマーク政府は午前6時には降伏する事を決めた。

2時間で降伏を決めたわけだ。

一国の運命を決めるものとして早いのか遅いのか……

デンマーク国王クリスチャン10世は亡命するような事はせず、国にとどまり国民を見守り続ける事を決意する。

第二次世界大戦では国家存亡の危機に亡命した国王は多い。その中で国に留まったのは特筆に値する出来事だ。

ところでデンマーク政府は降伏を決めたものの、ここで、また一悶着。

ドイツ軍は即刻、デンマーク全土のデンマーク軍への戦闘停止を命じて欲しいとデンマーク政府に要求した。当然だ。

だが、デンマーク政府には直ぐに命じる手段が無いという。

現代のように通信網が発達している時代じゃないし、小国なら尚更、通信手段は限られているからね。

ドイツ軍はラジオで放送すればよいと提案したが、デンマーク政府は朝食前に職員を出勤させるわけには行かないとのたもうた。

うん、朝食は大事だよね。

何て職員の健康思いの政府なんだ。

結局、ドイツの通信装置で、デンマーク国営放送の周波数が使われ放送が行われた。

そしてデンマーク全土はドイツ軍に占領されたとさ。デンマーク昔話、これにて、おしまい。


一方のノルウェー政府の対応はデンマーク政府とは違った。

午前5時にドイツ軍の宣戦布告と攻撃が行われたが、ノルウェー政府は徹底抗戦に出た。

それに開戦2時間後の午前7時頃には、ノルウェー国王ハーコン7世、政府閣僚、国会議員達もが既に首都を離れ北方のハマル市に向かっている。

ちなみにこのノルウェー国王ハーコン7世はデンマーク国王クリスチャン10世の弟だ。

何という違い!

同じヴァイキングの血を引く国民なのにデンマークとノルウェーではこれほどまで対応が違うのか。

ドイツ側では国王に降伏を求め新たな親独政権を任命するよう求めたが、国王ハーコン7世は拒否している。

ちなみに国王ハーコン7世はこの時、既に皇太子をスウェーデンに向かわせている。

だが、子供は送り出しても国王自身は国内に踏みとどまって戦う気だ。

その意気や良し!


ところでノルウェー侵攻を開始したドイツ軍とそれを阻止するべくイギリス軍の間でも戦闘になった。

それはまぁ当然の話だ。

その戦闘の一つでイギリス海軍駆逐艦「グロウウォーム」はドイツ海軍巡洋艦「ヒッパー」と戦い、砲撃や魚雷攻撃を行ったが、最後には特攻をかけている!

文字通り体当たり攻撃だ。

艦首から突っ込んだ! おいおいいつの時代の海戦だ。

もうこの時代の軍艦に衝角なんてないだろう。

グロウウォームはこの特攻で沈没したが、ヒッパーもまた損傷を受けた。

ジョンブル魂ここにあり!って言うような戦いっぷりだ。

グロウウォームの艦長は戦死した。

その戦いには敬意を表しよう。



◯4月15日、史実通りイギリス軍とフランス軍がドイツに侵攻されているノルウェーの北方ナルヴィク方面に上陸した。ドイツ軍のこれ以上の侵攻を防ぐためだ。

翌日16日にはナルヴィクより約500キロ南方のナムソス付近にイギリス軍が上陸し、更に18日にはナムソスより約300キロ南方のオンナルスネス方面に上陸した。

ノルウェー全土が戦場と化して来ている。

だが、この援軍は遅いだろう。





〖5月〗


●5月18日、史実通り日本軍は再び重慶への大規模な戦略爆撃作戦を開始した。

これで、またアメリカとの関係が更に悪化する。何故それがわからんのだ。



『5月の国際情勢として……』


◯5月10日、史実通り遂に「西方戦役」が始まった。ドイツ軍がフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵攻したのだ。

これで「奇妙な戦争」と呼ばれた戦争状態なのに地上戦は殆ど行っていないという西部戦線の状況は終わりを告げた。


史実通りならば連合軍総司令官のモーリス・ガムラン将軍は「ディール計画」を発動した筈だ。

ドイツ軍が侵攻する場合はベルギー平野に主力を向けて来るだろうから、ベルギーのディール川のラインでドイツ軍を食い止めようという作戦計画だ。

オランダ、ベルギーの河川を利用すればドイツ軍は容易に防げるという目算だった。

その南東にあるアルデンヌの森は地形的に大軍が侵攻してくる事は無いと判断されていた。

だが、しかし……


この日は他に史実通り、イギリスではチャーチルが首相となり新たな戦争内閣ができた。

いよいよチャーチルが全権を揮うか。要注意だ。


また、奇しくもこの日は史実通りイギリス軍がアイスランドに侵攻した。

大西洋を横断する船舶を防衛するための航空部隊と護衛艦部隊の基地を設置するためだ。

イギリスも見境い無しになって来たね。



○5月13日、史実通りチャーチル首相が首相就任演説で「私は血と苦しみと涙と汗以外に提供するものを持っていない……」という後世でも有名な演説を行った。

だが、そう言う人に限って実は色々持っていたりする。それが人という生き物だ。


史実通りならフランスの戦線は3日目にして崩壊寸前の筈だ。

各戦線で連合軍は敗退しドイツ軍は進撃しているだろう。

特にアルデンヌの森林地帯から侵攻して来たドイツ軍の矢面に立ったセダン地区の状態は酷い筈だ。

何せドイツ軍の戦車がまだミューズ川を渡っていないのに、守るフランス軍内で、ドイツ軍戦車がミューズ川を渡ったという話が飛び交い勝手に混乱しているのだ。

この時は味方の戦車の移動をドイツ軍のものと誤認したらしい。

他にもフランス軍は戦車恐怖症にでもかかった兵士が大勢でたような話もある。

「敵の戦車だ!」という叫び声が上がっただけで、多くの兵士が陣地を捨てて逃げ始め、逃亡する兵士達で道路が混雑したらしい。

実際には戦車は来ていないのにだ。

フランスのリビー将軍は、これを「集団的幻覚現象」が発生したと言っているが、フランス兵って……

きっと今回の歴史でも同様な事態が発生しているだろう。



◯5月14日、史実通りフランス陸軍の公式スポークスマンであるトーマ大佐がセダン地区を突破された事を公式に認めた。

「状況は重大だが、しかし決定的でもなければ、絶望的でもない」とも発表した。


しかしその裏で、史実通りなら、ダラジェ陸軍大臣がガムラン連合軍総司令官がどうしようもない会話をしている筈だ。

ダラジェ陸軍大臣がガムラン連合軍総司令官に反撃をと言うと、その返答は予備兵力が一兵もなく敵軍とパリの間には一部隊もいないと言うのだ。

その返答を聞いてダラジェ陸軍大臣は「フランス陸軍の崩壊という事だね?」と尋ねると「そうです。これはフランス陸軍の滅亡です」とガムラン連合軍総司令官は返答するのだ。


滅亡! 戦争開始5日目でフランス陸軍が滅亡したと連合軍総司令官が認めた!


おいおいおい! ちょっと待て、そこの爺さん二人。

フランス陸軍が滅亡?

確かにセダン地区を突破され他の戦線でも押されてはいる。

だが、しかし、ベルギー方面にいる部隊は降伏したわけじゃない。まだマジノ線を防衛している部隊もある。イタリアとの国境を守っている部隊も健在。植民地の防衛軍もある。

それなのにフランス陸軍の滅亡だと!

いい歳をした二人の爺様が何を芝居がかって悲劇ぶって自分の言葉に酔いしれているんだか。ふざけろ!

そんな戯言を言う暇があったら、手隙の戦線から部隊をかき集めて予備軍を編成しろ!

敗残兵を早くまとめて再編成しろ! パリに集結させろ!

まったく、これだから……



○5月15日、史実通りオランダが降伏した。戦争開始5日目で降伏だ。

まぁ小国故に仕方がない部分はあるにせよ、単独で数倍のソ連軍と戦い3ヵ月も持ち堪えたフィンランドに比べるとね……


史実通りならフランスの首都パリではパリ防衛について緊急会議が開かれている筈だ。

良い案は全く出ずに終わった会議がだ。


更に、この日はフランスのレイノー首相が、チャーチル首相に電話をかけ「我々はやられた。戦闘に負けた」と話す筈だ。

そのレイノー首相の判断は的確だが、こういう時だけ的確な判断をされてもねぇ。



◯5月16日、史実通りならベルギーにいるフランス、イギリス軍への撤退命令が出た筈だ。

それに加えてガムラン連合軍総司令官は遅まきながらパリ防衛のための部隊を掻き集めている筈だ。遅いのだよ。


そしてチャーチル首相がフランスにやってくる。

そこで、戦況を直に聞き、戦略予備兵力が無いと訊いて驚くのだ。

チャーチル首相は回想録にその事を「(私は唖然としてしまった)」とか「(これは私の生涯のうちで、最も驚いた事の一つだったと言える)」と書くのだ。

まぁ頑張って下さいチャーチル首相。



◯5月18日、史実通り第一次世界大戦におけるフランスの国家的英雄ペタン元帥がレイノー首相の要請で国務大臣兼副首相となった。

84歳のご老人を引っ張り出さなくてはならない所まで来た、と言うところか。



◯5月19日、史実通りガムラン連合軍総司令官が解任され、後任にマクシム・ウェイガン将軍がなった。

ウェイガン将軍は73歳。

ペタン元帥といいウェイガン将軍といい、フランス上層部の高齢化が進む。

レイノー首相、政府の平均年齢をどこまで上げる気だ?



◯5月20日、史実通りドイツ軍はソンム川河口の英仏海峡方面の港町ノワイエルに達した。

これで、イギリス軍、ベルギー軍、フランス第1軍などの連合軍部隊が英仏海峡方面に包囲される形となった。

連合軍は英仏海峡方面に包囲される軍とフランス内陸部にいる軍の二つに分断されたのだ。

何、たかが南北に分断されただけだ。まだ反撃のチャンスはある! と、言いたいが……


そして史実通りならイギリス海軍は英仏海峡方面に包囲されているイギリス陸軍の本国への撤退を考慮して、艦船をイギリス本国南岸に集結させ始めた筈だ。



◯5月21日、史実通りイギリス陸軍がアラスにて反撃にでる。包囲を突破し内陸部のフランス軍と再び連結するつもりだ。

しかし、史実通りなら、その一方でイギリス後方部隊の本国への引き揚げが始まっている筈だ。

イギリス海軍は打つ手が早いからね。



◯5月23日、史実通りイギリス軍によるアラスからの攻勢作戦は敵に被害は与えたものの結局は失敗に終わり、アラスも放棄する事になった。

英仏海峡方面に孤立した連合軍に対するドイツ軍の包囲網はどんどん狭められていく。

危うし連合軍!



◯5月24日、史実通り運命の悪戯が起こった。

英仏海峡方面に連合軍を圧迫していたドイツ装甲部隊の進撃が止まったのだ。

ヒトラー総統の命令だ。

ドイツ空軍のゲーリング元帥が空軍で連合軍を殲滅できると進言し、それをヒトラー総統が受け入れたらしい。

後世においても論議の的になった装甲部隊の停止だ。

もし、そのまま装甲部隊が突進していれば多くの連合軍将兵を捕虜にでき、その後の歴史の展開も変わったかもしれないという……



○5月26日、史実通り連合軍は「ダイナモ作戦」を発動した。

英仏海峡方面に包囲される連合軍部隊を海路イギリスへ脱出させようという作戦だ。

実際には21日から後方部隊の撤退は始まっており既に2万8000人がイギリス本国に撤退している。

逃げ足は速いね。



○5月28日、史実通りベルギー軍が降伏した。

既にベルギーは国土の大半が占領され、予備兵力は全て使い切り軍需物資の多くも失われた。

これまでベルギー国王レオポルド三世は再三再四、ベルギー軍の窮状を連合軍に訴えてきた。

しかし援助の手がベルギー軍に差し伸べられる事は無かった。これは、まぁフランスもイギリスも余裕が無いから仕方の無い部分はある。

それに加えてイギリス軍と一部のフランス軍はイギリス本国に海路撤退を開始している。このままいけば残されるのはベルギー軍。

これではベルギー軍の降伏も当然と言えるのではないだろうか。

だが、しかし、フランスはベルギーの降伏を許さなかった。

レイノー首相はラジオで演説した。

「盟友であるフランスとイギリスに一言の相談もなく戦いが山場に差し掛かっている時に、ベルギーは国王の命令で突如降伏した。これは歴史上かつてない行為である」と。

チャーチル首相も同様の批判演説をイギリス議会で行っている。

はっきり言おう、お前らが言うな!! イギリスとフランスが言うな!!!と。

これまで、条約を結んでいたにも関わらずチェコを見捨て、ポーランドを見捨てたイギリスとフランスが言えた義理か!!!と。

しかも、一言の相談もなく降伏しただと?

いや、これは後に真実が明るみに出る。

ベルギー国王の許に派遣されていたイギリス海軍の連絡将校ロジャー・キース参謀が詳細な記録をとっており、それによると5月20日以降、レオポルド三世は「状況によってはベルギーの降伏は避け難い」と数度、連合軍に通告していたのだ。

更にはベルギー外相のポール・アンリ・スパークが5月26日にレイノー首相に、レオポルド三世が5月25日に閣僚に降伏について語っている事を話していた事も判明している。

つまり、レイノー首相やチャーチル首相が何の通告も無く降伏したとレオポルド三世を批判したのは完全な濡れ衣なのだ。

しかもレイノー首相もチャーチル首相もこの事については、レオポルド三世に公式の謝罪をする事は無かった。酷ぇ。

チャーチル首相は後に「第二次世界大戦」という回想録を出しているが、このレオポルド三世の事については全く触れていない。

残念だよチャーチル首相。


ちなみに降伏したベルギー国王レオポルド三世は国外に脱出するよう勧める閣僚達の声に逆らい、国内に残りドイツの捕虜となり苦難の生活を送る事となる。





〖6月〗


●史実通りアメリカは日本への機械関係の対日輸出を禁止した。

だから重慶への戦略爆撃をやめた方がよかったのだ。

どんどん状況が悪くなる。

これから起こる事を既に知り、アメリカとの戦争を覚悟しているとは言え、史実通り日本の置かれる状況が日々悪化していくのを追体験するのは嫌なものだ。

平気で他国が嫌がる事を行う政府と軍の者達に、許されるなら説教の一つもしてやりたいし、文句の十や二十も言いたくなる。

あぁストレスがたまる。



『6月の国際情勢として……』


○6月4日、史実通り英仏海峡の港町ダンケルクはドイツ軍に占領された。

この日までに「ダイナモ作戦」でイギリスに撤退できた連合軍将兵の人数は33万8226人。当初の予想では撤退できるのは5万人が限度と言われていただけに、これは大きな成功だろう。


この日は他に、史実通りチャーチル首相が議会で「我々はどんな犠牲を払おうともこの島を守り抜く。海岸で、野で、街で、丘で戦い、決して降伏しない!……」と演説した。

いいねぇ。演説は素晴らしい。演説は。


またこの日は、史実通り連合軍がノルウェー戦線を見限りイギリス軍とフランス軍の撤退を開始している。

まだ、ノルウェーでは戦いが続いていたのですよ。忘れがちだけど。

見捨てられたノルウェーの運命や如何に! と、言いたいところだけど、もう運命は決まってる。



◯6月5日、史実通りダンケルク方面が片付いたドイツ軍は首都パリを含むフランス内陸部への攻勢を開始した。

史実通りならば、ドイツ軍140個師団 VS フランス軍49個師団。

フランス軍が言うところの「フランスの決戦」の始まりだ。

フランス軍もこれまでの戦訓から縦深防御陣地を築き、その後方に予備兵力を配置するなど戦術を進歩させている。

だが、しかし、それでも……



◯6月6日、史実通りならば、戦況は悪くフランス政府の会議の席上、ウェイガン連合軍総司令官がレイノー首相に「まだ、戦いを続けるのですか?」と聞き、ペタン元帥はドイツとの和平交渉を口にした。

フランス政府内部に休戦派が多くなり始めている。政府内部が分裂していてはどうにもならんよ。特に軍のトップが諦めているともなればね。



◯6月7日、史実通りイギリスとフランスに見捨てられたノルウェーの国王ホーコン7世がイギリスに亡命した。

残っていたって碌な目には合わないだろう。仕方がない。



○6月9日、史実通りならば、ウェイガン連合軍総司令官が「戦線がいつ崩壊するか予断を許さない」と報告する。

最早、フランス軍の敗北は時間の問題となって来た。


また、イギリスとフランスに見捨てられたノルウェーの国王ホーコン7世は亡命先のイギリスからノルウェー軍に戦闘停止を命じた。

戦闘停止を命じてから亡命しなさい。



○6月10日、史実通り、いよいよあのイタリアが動き出した。

イギリスとフランスに宣戦布告したのだ。

ムッソリーニ首相はイギリスとフランスの両大使に宣戦布告を勧告した後に、午後6時からヴェネツィア宮のバルコニーから広場に集まった市民に対し演説を行った。

「今や祖国は運命を決する時を迎えた!」とか

「歴史の流れを決める崇高な試練に敢然として挑む!」とか

「賽は投げられた!」なんて、どこかの歴史の有名人の台詞を使ったりとか

「我々は強固な意思を砦に背水の陣を敷いた!」とか

「イタリアはかつてない団結力をもって、アルプスからインド洋にかけ燃える闘志をもって立ち上がった! 」とか演説している。

史実通りとは言え、いいねぇ。何かいいねぇ。悪くないんじやないムッソリーニ首相の演説。

ともかく、これでイタリアはドイツ軍にボロボロにされているフランスに牙を剥くのだ。


さぁイタリアの戦いが今始まる!


と、言いたい所だけど実際には戦争開始は無謀窮まりない。

何せ史実ではファバグロッサ軍需生産局次官が、軍需工場での生産を急がせても、イタリアの戦争準備が完了するのは1942年10月になるとムッソリーニ首相に報告している。

それを無視して強引に2年以上も早く戦争を始めようというのだから無茶だ。

イタリア軍のバドリオ総参謀長も、こんなに早く宣戦布告をするのは自殺行為だとムッソリーニ首相に言ったが聞き入れてもらえなかった。

もはや戦争に突き進むムッソリーニ首相を止められる者は誰もいない。

果たしてムッソリーニ首相に導かれるイタリアの運命は? ご期待下さい!というところか?


ところでファバグロッサ軍需生産局次官が戦争準備が完了するのは1942年と報告したと書いたが、文献によってはファバグロッサは軍需生産局次官ではなく、その上の軍需生産相で、戦争準備が完了するのは1949年としているものもある。どっちが真実だ?

こういう違いって結構あるんだよねぇ。何を信じたら良いのやら。

自分が真実だと思っても、それは間違いだった何て事があっても驚かんよ。

歴史の真実ってものを探るのは難しい。やれやれだ。


この日は他に史実通りならばフランス政府がパリからツーレーヌ州のツールに避難を開始した筈だ。

それにウェイガン連合軍総司令官は「戦いに敗れた」とレイノー首相に言いドイツ軍との休戦を求めた筈だ。

そしてレイノー首相がアメリカのルーズベルト大統領に参戦を要請した筈だ。

中立国アメリカに泣きつくほどレイノー首相は追い詰められている。



○6月11日、史実通りフランスの首都パリは無防備都市を宣言した。

宣言するのは自由だ。だが敵対国がそれを尊重するかは神のみぞ知る。


史実通りならば、6月5日からの「フランスの決戦」開始以来、フランス軍は既に49個師団のうち25個師団が壊滅している筈だ。

6日間で師団の半数壊滅とは。あと、どれだけ持つか……


史実通りならば、チャーチル首相とレイノー首相の間で、ブルターニュ半島に防衛ラインを構築する事で意見が一致した筈だ。

これは、この地区で防衛戦を行いドイツ軍を長期間引きつければ、フランス軍を北アフリカに撤退させる事もできるだろうし、イギリスからの橋頭堡としても利用できるだろうというものだ。

だが、しかし、構想としては面白いが実際には配置する戦力が足りない。残念。


フランス政府は前日にツールに避難した事を公表してはいなかったが、この日の朝に政府がパリ引き払ったという噂が市民の間に流れ、ドイツ軍の接近の報と共にバリから逃げ出す市民が大勢出始める。その数100万人。

市民も安全を求めて必死だ。



○6月12日、史実通りイギリス艦隊が北アフリカのトブルク港を砲撃した。

イタリア艦隊がこのイギリス艦隊を撃滅するために出撃したが、敵を発見できず空振りに終わった。

イタリア艦隊の実力が遺憾なく発揮された出来事だった。


史実通りならば、フランスの閣議ではウェイガン連合軍総司令官が「取り返しのつかないほど敗北してしまった」「即座に休戦するべきだ」と発言している筈だ。

だが、この時点では、まだ閣僚にも抗戦派が多く、抗戦派筆頭のレイノー首相も艦隊と植民地が残っている事を指摘し北アフリカでの抵抗を発言している筈だが。



○6月14日、史実通りフランスの首都パリがドイツ軍に占領された。

史実通りならば、夜明けと共にドイツ軍がパリに入城し、午前9時45分から早くも軍楽隊の演奏をバックに祝勝パレードを行った筈だ。

見たかったよ。


ところで、パリ周辺には軍需工場が集中しており、フランスの軍需生産の7割を担っていた。もう他国から大々的な援助が無い限りはフランス軍が戦えなくなるのは時間の問題だ。


そして史実通りならば、フランス政府はツールからボルドーへ避難を開始した筈だ。

どこまで逃げるフランス政府。

それとレイノー首相が再びアメリカへの参戦要請をルーズベルト大統領に送った筈だ。

もうレイノー首相が縋る望みはアメリカの参戦と、北アフリカに避難しての抗戦続行しかない。


この日は他にフランス艦隊がイタリアのジェノバ市とサボーナ市に艦砲射撃を行った。

イタリア軍は海岸要塞の大砲とコルベット艦1隻が反撃したが、1隻も沈める事はできなかった。

実にイタリアらしい戦い振りだ。



◯6月15日、史実通りならば、アメリカのルーズベルト大統領からの返事がレイノー首相に届いた筈だ。

それはフランスの戦いを支持するし、できるだけの物資の援助はするが、アメリカ軍の参戦は無いというものだ。

この時、たまたまレイノー首相の傍にいたイギリス軍の連絡担当のスピアーズ将軍によれば、レイノー首相はショックで度を失い更には気が抜けたようになってしまったらしい。

それほどアメリカに望みをかけていたわけだ。


だが、これでフランス政府も今までフランスに見捨てられたチェコやポーランドやノルウェーの人達の気持ちがわかった事だろう。同じ立場になったのだから。

ノルウェーはともかく、あの年、あの日に、あの国々を見捨てなかったら、状況は大いに違ったかもしれない。

人はそれを因果応報と呼ぶ。



○6月16日、史実通りならばレイノー首相はとうとう諦めイギリスのチャーチル首相に単独不講和の義務を解除してほしいと要請した筈だ。

それに対しイギリスのチャーチル首相がフランス政府に「英仏連合」の提案をする。

これはイギリスとフランスを一つの国にしようという提案だ。

レイノー首相はこの提案に乗ったが、閣僚達はみんな反対する。

ペタン元帥などは「死骸との融合だ」とイギリスを批判したが、イギリスとフランスのどちらが死骸なのやら。フランス人以外はみんな「死骸はフランスだ」と言うと思うぞ。


史実通りレイノー首相は全てを諦め辞任した。



○6月17日、史実通りレイノー内閣が倒れ、ペタン内閣が発足した。

ペタン元帥は早速ドイツに休戦を申し入れ全フランス軍に戦闘停止を命じた。

ペタン元帥は入閣以来、ずっとドイツとの休戦を提案していた。


望みが叶って満足か、ペタン元帥よ?

だが、これは更なる苦しみの始まりにしか過ぎないと知れ。ヒトラー総統は敗北させた国に甘くはないぞ。ましてやそれが憎きフランスならばな。くっくっくっ。

何せ史実ではドイツはこれからフランスに莫大な戦争賠償金を請求し、その支払いにフランスは毎年苦しむ事になるのだよ。

第一次世界大戦後にドイツに巨額な賠償をさせ苦しめた報復が来るのだよ。くっくっくっ。


それにしてもドイツへの休戦申し入れと全フランス軍への戦闘停止について、ペタン元帥は同盟国であるイギリスのチャーチル首相に一言も連絡しなかった。

それが一緒に戦って来た同盟国への接し方か。単独不講和協定を結んだ相手への接し方か。散々ベルギー国王を「一言の相談もなく降伏した」と批判したのはフランス政府だろうが。呆れる。


この日、史実通りチャーチル首相はラジオ放送で「フランスの戦いは終わり、バトル・オブ・ブリテンが始まろうとしている」と語った。

チャーチル首相もペタン内閣には見切りをつけたわけだ。


ところでフランス軍上層部はイギリスは三週間もすれば鶏のように首をひねられてしまうだろうとペタン元帥に報告している。

フランス軍があっさり敗北したからと言ってイギリス軍もそうだと判断するとはね。

やれやれ。イギリスはフランスとは違うのだよ。フランスとは。


もはや敗北主義に汚染されているフランス軍上層部だが、ドゴール将軍はペタン内閣に従う気はなく、チャーチル首相の助力もあり飛行機でイギリスに逃亡した。



○6月18日、史実通りドゴール将軍がイギリスから「戦闘には敗北したが戦争に敗れたわけではない」と有名なフランス国民への呼びかけを行った。

だけど、この時点でドゴール将軍はフランスの国民からすれば殆ど無名の存在。つまり「ドゴール? 誰それ?」

それにしてもチャーチル首相が前の日に「フランスの戦いは終わり……」とラジオで告げたばかり。

それを打ち消すためにドゴール将軍も必死だ。

まぁ頑張れよ。

と、言いたいが、フランスはまだ正式に降伏していない。

安全なイギリスからとやかく言う暇があったら、さっさとフランスに戻って戦えドゴール将軍よ。

ペタン内閣と折り合いが悪いのがどうした。

6月11日にドゴールも参加していたツールの会議で戦線が崩壊しフランス軍が敗北してもゲリラ戦を続行して戦うと言っていたではないか。

史実通りなら、これからあのイタリアもフランスに攻め込む筈だぞ。



○6月21日、史実通り、遂に遂にイタリア軍の攻撃がフランスに対して開始された。

イタリア西部軍集団がフランスに侵攻したのだ。

そして……

簡単に侵攻を阻止されてしまった。これぞイタリア軍だ!



○6月22日、史実通りフランスとドイツの間で休戦条約が結ばれた。

フランスは2ヵ月持たなかった。開戦前に誰がこの事態を予期したであろうか。

史実通りとは言え恐るべしドイツ軍、恐るべしヒトラー総統。

いや、見てもいない戦車に怯え陣地を放棄するようなフランス軍が弱すぎただけか。



○6月24日、史実通りフランスとあのイタリアの間で休戦条約が結ばれた。

この休戦条約はどちらの国にとって有り難かったのだろうか。守った側のフランス? 攻めた側のイタリア?

ともかく敗戦国にならなくて良かったね、イタリア。


それにしてもムッソリーニ首相は、フランス相手に華々しい戦果を上げてフランス政府から色々と得ようとしていた。

フランス南東部、コルシカ島、アフリカの植民地チュニジアとアルジェリア、それに艦船。

だが、しかし、あまりのイタリア西部軍集団の戦いが不甲斐ないばかりに、流石のムッソリーニ首相も大きな要求を出せなくなってしまった。

フランスとの国境が少し変わる程度。

結局、ムッソリーニ首相が「捕らぬ狸の皮算用」で夢を見ていた期間は極めて短かった。

まぁ無理だと思うが次回頑張れよ。



◯6月26日、史実通りソ連がルーマニアに対しベッサラビアと北ブコビナの割譲を要求した。

結局、ルーマニアは翌日には泣く泣くソ連の要求を飲んだ。

ソ連の領土欲はとどまる所を知らない。



○6月28日、史実通り枢軸国、連合国を問わず第二次世界大戦が始まって以来、初めて元帥の戦死者が出た。

元帥の戦死者を出したのは、やはりと言うかあのイタリアだ。

リビア総督兼総司令官のバルボ元帥の乗機がトブルク港上空を飛行中に味方から敵機と誤認され対空射撃を受けた。

そしてバルボ元帥は戦死した。

自軍の元帥まで戦死させるとは何と容赦なく恐ろしい軍隊なのだろかイタリア軍は。

敵には弱く自軍には別の意味で強いイタリア軍。恐ぇ。

バルボ元帥よ、せめて、いや無理かもしれないが、できるならば安らかに眠れ、アーメン。


この日は他に史実通り地中海で海戦があり、イタリア海軍の駆逐艦3隻とイギリス海軍の巡洋艦5隻が交戦した。

結果はイタリアの駆逐艦1隻が撃沈されたが、イギリス側で沈んだ艦は無かった。

イタリア艦隊の敗北である。

実にイタリアらしい結果に終わった海戦だった。


また、史実通りイギリス政府が「自由フランス」の指導者としてドゴール将軍を公式に認めた。

これでペタン元帥のフランス政府とドゴール将軍の自由フランスにフランスは別れた。

とは言え、今はまだドゴール将軍の力は小さなものでしかない。



◯6月30日、史実通りアメリカは大統領選挙のシーズンだ。

ウェンデル・ウイルキーが共和党の大統領候補として選出された。

政策はルーズベルトの言う事と変わらない。戦争不介入だ。






〖7月〗


●7月16日、史実通り米内内閣が総辞職した。

6月にドイツがフランスを降伏させると陸軍の親独派が活気づき、英米協調路線の米内内閣を倒そうと暗躍した結果だ。

特に陸軍省軍務局長の武藤章少将は以前に総理だった近衛文麿と接触し、閑院宮陸軍参謀総長をも取り込んで「挙国強力なる内閣」が必要だという要望書を閑院宮陸軍参謀総長の名で畑俊六陸軍大臣に提出した。

この陸軍省と閑院宮陸軍参謀総長からの働きかけに畑俊六陸軍大臣は抗えず米内内閣を倒閣に追い込むために辞表を提出する。

そして陸軍は陸軍大臣の後任を出そうとはせず、その陸軍の圧力に米内光政内閣総理大臣が折れざるをえなかった。

陸軍もあくどいやり方をしてくれる。


陛下は米内内閣が倒れた事がかなり残念だったらしく、終戦後に石渡宮内大臣に「もう少し米内内閣が続いていたら、この戦争に突入しなくてもすんだかもしれないね」と繰り返し語っていたそうだ。


ところで、他にも内閣総理大臣だったら太平洋戦争は起こらなかったかもしれないと言われた人物が何人かいる。


その一人が陸軍の宇垣一成大将だ。

1937年2月に広田内閣が総辞職した時、宇垣一成が総理大臣になるという話もあったが軍部内での反発が強くなれなかった。

宇垣一成大将は陸軍大臣の時に日本陸軍始まって以来という大規模な軍縮を行っており、それが軍部内から忌避される事になった。

また、1931年の陸軍内での「三月事件」と呼ばれるクーデター未遂事件にも関与していたと言われており、そうした事も足を引っ張り「宇垣内閣」が成立する事は無かった。

だが「宇垣軍縮」と呼ばれる軍縮を軍部内の反対にあいながらも断行したように、正しいと考えた事を実行する意思のある人であり、今村均大将などは、宇垣一成が首相であったなら太平洋戦争は起こらず、起こっても切り上げ時を間違えなかっただろうと言っている。


他にも陸軍の永田鉄山少将が生きていれば、東条英機に代わり内閣総理大臣となっていただろうとか、太平洋戦争も起こらなかったと言う元軍人や元政治家人もいる。

「永田の前に永田なく、永田のあとに永田なし」と言われるほどの陸軍の秀才だった。

エーリッヒ・ルーデンドルフの提唱した軍事思想の「国家総力戦」を、日本の国情に合わせながら構築していこうとしていた人物でもある。

だが残念な事に陸軍内の皇道派と統制派の派閥争いの中で、1935年8月に皇道派の将校に殺害されてしまった。


その永田鉄山の逸話で有名なのがスイスの公使館付駐在武官だった時に、士官学校同期の小畑敏四郎と岡村寧次と会い陸軍の改革を誓い合ったという「バーデン・バーデンの密約」だ。

ちなみに永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次はその優秀さから「陸軍三羽鳥」と呼ばれるほど優秀だったとか。

ドイツの観光地バーデン・バーデンで3人が集まったのは最初は四方山話をするつもりだったらしい。

切っ掛けは陸軍省の新聞班に所属していた岡村寧次が第一次世界大戦におけるヨーロッパでの宣伝戦の研究をする事になり、ヨーロッパに行く事になった事だったとか。

その時、ロシア大使館駐在武官だがロシア革命で入国できずドイツに駐在していた小畑敏四郎とも予定を合わせて三人で集まる事になったのだとか。

翌日には一期後輩でドイツ駐在の東条英機と鴨脚光弘も三人に合流したという話。

いやぁいいですな!

志を同じくする者達が熱いを思いを胸に誓いを立てる。ロマンだ。

この「バーデン・バーデンの密約」については戦後に岡村寧次が語っていて、三人で合い陸軍革新の血盟を結んだのは事実だそうだ。

三人? 東条英機と鴨脚光弘は枠外ですか。

だけど、その東条英機の永田鉄山への傾倒が凄まじい。

永田鉄山が暗殺された後、その殺害された時に永田鉄山が着ていた血染めの軍服を貰い受け、それを着て皇道派への復讐を誓っていたとか。

よほど尊敬していたんでしょうな。


残念なのは、その「バーデン・バーデンの密約」を結んだ永田鉄山と小畑敏四郎が後に戦略方針の違いから仲違いしてしまった事。

特に対ソ連戦略の考え方については「作戦の鬼」とまで呼ばれた小畑敏四郎は対ソ連一辺倒だったけれど、永田鉄山は満州の発展や中華民国との関係を考えていたようだ。

一例を挙げれば北満鉄道買収問題。

これは満州事変後もソ連が満州の鉄道に権益を持っており、それを買収して完全に日本の物にしてしまおうという問題。

永田鉄山は賛成で、満州の鉄道を更に整備して鉄道網を充実させれば満州の経済は活性化し、それは日本の国力増強に繋がるという主張。

小畑敏四郎は反対で、もしソ連から買収したらソ連は日本から得た資金で極東の軍事力を増強するだろうという主張。

まぁどちらも一理ある。結局、北満鉄道は日本が買収する事になった。

こうした方針の違いが色々あったらしい。

その仲違いの中で、結局、永田鉄山は統制派となり小畑敏四郎は皇道派となって対立は決定的になる。

両雄並び立たず。

残る「三羽鳥」の一人、岡村寧次が二人の仲を取り持とうと一生懸命奔走していたらしいのだけど、それは叶わず永田鉄山が暗殺されてしまうという結末。

なんとも残念な話だ。


ところで統制派と皇道派の対立と言うけれど、統制派という派閥は実際には無かったという話もある。

皇道派という派閥はあり、それが陸軍内の権力を躍起になって握ろうとしていただけだと。

まぁどちらにしろ陸軍の派閥は毒にしかならなかったのが事実だろう。



●7月22日、史実通り近衛内閣(第二次近衛内閣)が成立した。

陸軍の米内内閣潰しが見事に決まった結果だ。

腹が立つ。 



『7月の国際情勢として……』


◯7月2日、史実通りペタン元帥のフランス政府が、フランス中部オーヴェルニュのビシー市に移動しそこを首都に定めた。

所謂「ビシー政府」の始まりだ。

ビシー市は温泉街として有名な観光地。まさか温泉目当てじゃないよね?



◯7月3日、史実通りイギリス海軍が「カタパルト作戦」を開始した。

これはフランス艦隊無力化作戦だ。

ドイツと休戦したフランスのビシー政府がドイツの側に付き、イギリスと戦うようになったらフランス海軍の戦力は重大な脅威となる。

下手をすればイギリスの敗北の可能性さえ出て来る。

何せペタン元帥は閣僚となってから言ってた事はドイツとの休戦とイギリスへの批判だけ。

充分にイギリスを敵に回す事もあり得る。

そのため、フランス海軍に対し、イギリス軍と共に戦うか、武装解除して船を引き渡すか、遠方のフランス植民地に移動するか、自沈するかを選ばせ、抵抗するなら排除する事を目的とした作戦を実行したのだ。


イギリス本国のプリマス港とポーツマス港にいたフランス艦隊の戦艦2隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻、掃海艇など小型艇200隻は多少の流血騒ぎの後に、全艦イギリス軍に鹵獲された。

フランスの植民地アルジェリアのメル・エル・ケビル港にはフランスの戦艦4隻、駆逐艦6隻、水上機母艦1隻がいたが、艦隊接収に来たイギリス艦隊の戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦11隻と戦闘になる。

結果はフランスの戦艦ブルターニュが撃沈、戦艦ダンケルクと戦艦プロヴァンス、駆逐艦モガドール、水上機母艦コマンダンテストが大破した。

残るフランスの戦艦ストラスブールと駆逐艦5隻は港外に脱出し、フランスのツーロン港に向かった。


この戦闘でフランス国民の対イギリス感情は悪化する事になった。

まぁ昨日の友は今日の敵となったわけだが国際関係なんてそんなものだ。

その時点でベストと判断される対応を模索する。

一度味方になったからと言って、最後まで味方である必要もない。

そもそもイギリスとの単独不講和協定を一方的に破りドイツと休戦したのはフランスだ。

そのフランス国民がイギリスを批判? 笑わせてくれる。



◯7月4日、史実通りイタリア領東アフリカ(現在のエチオピア)のイタリア派遣軍が、北部のイギリス領スーダンに侵攻した。

イタリア軍は国境の町カッサラを占領する事に成功した。

イギリス軍の守備隊1個中隊に対しイタリア軍は2個旅団6500人を投入した結果だ。

敵より多くの兵数を揃える。それは戦略の大原則だ。イタリアもそこだけは守るんですよ。そこだけはね。



◯7月5日、フランスのビシー政府が、イギリスがフランス海軍にとった行動を理由に外交関係を断絶した。

もう既に無かったようなものだろう。イギリスに一言もなくドイツと休戦条約を結んだ張本人が今更イギリスと断絶?

何を言ってるんだか。イギリスにとって、それはもう既定路線だよ。



◯7月7日、史実通りエジプトのアレクサンドリア港にいたフランス艦隊、戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦3隻、潜水艦1隻の指揮官ゴドフロア提督が、イギリスの武装解除勧告に同意した。

ただし、大砲の重要な部分は取り外し重油も放出して、すぐにはイギリスに使わせないという手段を選択している。

フランス海軍軍人の意地と言ったところか。



◯7月8日、史実通りフランスの西アフリカ植民地のダカール港でフランスの戦艦リシュリューがイギリス海軍の攻撃機より攻撃を受け損傷した。

またフランス領モロッコのカサブランカ港でもフランスの戦艦ジャン・バールがイギリス海軍に攻撃された。

この攻撃に対し自由フランスのドゴール将軍がイギリス政府を痛烈に批判した。

ならさっさっとフランス艦隊を掌握しろドゴール将軍。

お前さんがフランス艦隊を説得して味方に付ければイギリスも攻撃しなくて済むんだよ。



◯7月9日、史実通り地中海で「カラブリア岬海戦」が発生した。

イタリア艦隊VSイギリス艦隊だ。

イタリア艦隊は戦艦2隻、巡洋艦6隻、駆逐艦10隻。

イギリス艦隊は空母1隻、戦艦1隻、巡洋艦7隻、駆逐艦16隻。

第一次世界大戦以来、初の戦艦を含む艦隊同士の艦隊戦だ。

だが、しかし……

イタリア艦隊は敵艦の砲撃が戦艦に命中すると即座に撤退し、両艦隊はそれ以上交戦する事は無かった。

つまりイタリアの敗退と言える。

実にイタリアらしい戦い振りの海戦だった。



◯7月10日、史実通り「バトル・オブ・ブリテン(イギリス本土航空戦)」が始まった。

ドイツ空軍がイギリス本土に航空攻撃を開始したのだ。

イギリスの正念場だ。



◯7月11日、史実通りペタン元帥がフランス議会で圧倒的多数の賛成を集め、国家元首に就任した。

我が世の春も今の内だけだぞペタン元帥。信義を尊ばない者に必ず報いは来るものだ。



○7月13日、史実通りイタリア領東アフリカ(現在のエチオピア)のイタリア派遣軍が、南部のイギリス領ケニアに侵攻し国境の町モヤレを占領した。

北部のスーダンに侵攻した後、今度は南部のケニアに侵攻だ。

これでイタリア領東アフリカのイタリア派遣軍は二正面作戦をする事になった。

実に手を広げるのが好きなイタリア軍らしい戦略だ。


まぁイタリア軍のやる事も無茶な部分はあるけれども、全く有利な要素が無いわけでもない。

イタリア領東アフリカにおけるイタリア軍の総兵力は現地兵を含め29万人。

イギリス領ケニアにいるイギリス軍は現地兵を含め8500人。

イギリス領スーダンにいるイギリス軍は現地兵を含め9000人。

兵数の差は圧倒的に開いている。この要素をどう生かすか。

それがイタリア軍の腕の見せ所なのだけど……

見せ所なのだけど……



◯7月18日、史実通りアメリカは大統領選挙のシーズンだ。

ルーズベルトが民主党の大統領候補として選出された。

共和党の候補者も民主党の候補者も戦争不介入を叫んでいる。

だが、その内心は?



◯7月19日、史実通りドイツのヒトラー総統が国会で「常識に対する最後の呼びかけ」と言われる演説を行った。

その内容は簡単に言えばイギリスに講和しろと言ってるものだ。

もうねヒトラー総統、あなたには信用が無いのですよ。誰があなたの言葉を信じますか。


この日は他に史実通り地中海で「スパダ岬海戦」が発生した。

イタリアの巡洋艦2隻とイギリスの巡洋艦1隻、駆逐艦5隻が交戦した。

イタリアの巡洋艦1隻が撃沈され、1隻が中破した。

イギリス艦隊は巡洋艦と駆逐艦1隻が小破した。

イタリア艦隊の敗北である。

実にイタリアらしい結果に終わった海戦だった。



○7月21日、史実通りバルト三国がソ連に併合された。

これまでのソ連のバルト三国へのアプローチを見ると、まるで猫が弱った鼠を甚振るかのようだ。

やだねぇソ連のやり方は。



◯7月22日、ヒトラー総統の「常識に対する最後の呼びかけ」に対するイギリスの回答が行われた。

「戦いを止めない」だ。当然の返答だろう。





〖8月〗


〖8月の国際情勢として……〗


○8月3日、史実通りイタリア領東アフリカ(現在のエチオピア)のイタリア派遣軍が、東部のイギリス領ソマリランドに侵攻を開始した。

侵攻するイタリア軍の兵力は守るイギリス軍の7倍の兵力だ。

敵より多くの兵数を揃える。それは戦略における大原則だ。イタリアもそこだけは守るんですよ。そこだけはね。

しかし、これで東アフリカ・イタリア派遣軍は、北のスーダン、南のケニア、東のソマリランドと三正面作戦となりましたがな。


『おおっおおっ神よ、彼らをどうかお救い下さい。彼らは何をしているかわかっていないのです。

迷える子羊なのです。

どうか、どうか神の、神のご慈悲を……』


誰?



○8月19日、史実通りソマリランドのイギリス軍は全部隊が海路イエメンに撤退しイギリス領ソマリランドを放棄した。

それまでの戦いでイギリス軍の死傷者は260人。イタリア軍の死傷者は2050人。

被害はイタリア軍が圧倒的に多いが、それでもあのイタリア軍がイギリス軍に勝利し、イギリス領ソマリランドを手中にしたのだ!

史実通りあのイタリアがイギリスに局地的に勝利したのだ! あのイタリアがだ!

奇跡ってあるんですよ。

諦めちゃいけないんだ!


だが、しかし、この勝利は後世においてあまり評価されていない。

それどころか、同じ国のイタリア人の歴史家でさえイギリス領ソマリランドの攻略は戦略的に無益でスーダンに侵攻した方が有益だったと批判している。

せっかくの数少ないイタリアの勝利なのに……

後世とは言え同胞にさえ評価してもらえない勝利とは……哀れな。



◯8月30日、史実通りドイツの仲介でルーマニア、ブルガリア、ハンガリーの間で「ウィーン裁定」が決定された。

これはソ連の例に習ってブルガリアとハンガリーがルーマニアに対し領土の割譲を求めたのをドイツが仲裁したものだ。

結局、ルーマニアはトランシルバニアの大部分をハンガリーに割譲し、南部ドブルジアをブルガリアに割譲する事になった。

哀れなルーマニアは国土を大きく減らした。





〖9月〗


●9月3日、史実通り「米英防衛協定」が成立した。

これでアメリカとイギリスの関係はより強固になった。


●9月13日、史実通り「日蘭会商」が始まった。

これは関係が悪化しているアメリカからの石油輸入の依存度を減少させ、蘭印(インドネシア)からの輸入を増やそうというもので、蘭印植民地政府に日本が交渉団を送ったものだ。

日本の蘭印(インドネシア)から輸入を増やそうという構想自体は悪くないと思う。構想自体は……


●9月22日、日本軍が北仏印に進駐した。平和的に進駐する筈が、ここでも陸軍が暴走しフランス軍と無用な戦闘となった。珍しく責任者は罰せられたが。

まぁ史実通りの展開ではある。


●9月27日、史実通り「日独伊三国同盟」が成立した。

史実でも今回の歴史でも陛下はこの同盟に反対だ。

この同盟のためアメリカはすぐにでも石油や鉄の輸出を止めるかもしれないと言っておられるそうだ。慧眼だ。鉄に関してはその通りになる。

それにしても大日本帝国の主権は陛下にある。それなのにそのご意思が通らないとは腹が立つ。

もし自分が政府閣僚にいて日独伊三国同盟に賛成の立場だとしても、陛下が反対なされたら、それに従う意思はある。

ほんと現在の政府が臣下が勝手過ぎる。


●9月末、史実通り近衛首相と面談する機会があり、そこでアメリカと開戦した場合の見込みについて聞かれた。

史実ではこの時、山本五十六連合艦隊司令長官は、「是非やれと言われれば始めの半年や1年は暴れて見せるが、2年、3年となれば確信は無いので戦争を回避するようお願いしたい」と発言する。

しかし、この時は史実とは違い「勝算は五分五分」と言っておいた。実際、この時点では開戦となっても今まで打った布石がどこまで利いてくるか確信が無い。戦うにはまだ早い。


●9月12日、史実通り中国戦線で「零戦」が初陣を飾った。

零戦12機が中華民国軍の戦闘機33機と空中戦を交え一方的な勝利をあげた。

敵機を27機も撃墜したが、撃墜された零戦は0。

ただし中国側の記録では27機ではなく13機となっている。

どちらにしろ零戦の勝利だ。めでたい。


現代日本においては「零戦」の事を欠陥機とか駄作機なんて言う人もいる。

まぁ確かに防弾装備は無いは、機体の強度も充分とは言えないだろう。

だが、それらの要素を犠牲にしての速度であり格闘性能であり航続距離だ。

実際、零戦パイロット達からの欠点を指摘する声に対しては、長所を生かした操縦をするように指示が出ている。

その長所を生かしたればこその、中国戦線での零戦の活躍であり、太平洋戦争初期における零戦の活躍だ。

戦績がそれを証明している。


アメリカは後に零戦対策として「サッチウィーブ」と名付けられた航空戦術を確立し零戦を苦しめている。

ではその内容はと言うと……

まずあげられているのが1対1で戦ってはならないだ。

格闘戦をしてはならないとされていた。

欠陥機、駄作機と言うのなら1対1で戦って勝利するのが当然ではないだろうか。

だが、実際には1対1では戦ってはならないのが零戦だった。


また、太平洋戦争中盤以降は1対1でも零戦は敗北していく事になるが、それはアメリカ軍が新鋭機を投入したからだ。

それと日本のパイロットが消耗し未熟なパイロットを使わざるをえなかった事もある。

ともかく、一つの真理として、どんな戦闘機だろうと後から誕生した新鋭機に性能で劣るのは当たり前の話だ。

これはアメリカだろうが、ドイツだろうが、イギリスであろうが変わらない。日本だけの話ではない。

登場より恒久的に後から出て来る新鋭機にさえ性能で優る戦闘機なんてものは古今東西どんな時代のどんな国にもありはしないのだ。

だから日本の零戦の登場よりも2年も後に実戦配備されたアメリカ軍機のF6FやP38が零戦よりも優位にあったとしても何らおかしくないどころか、当たり前の話でしかない。


それに実際に零戦と戦ったアメリカ側の声はどうだろうか。

駄作機だの欠陥機だの言っているだろうか。

アメリカの戦闘機エース協会の元海軍中佐ユージン・ヴァレンシアは零戦を航空機史上最高の飛行機と誉めている。

1963年にアメリカの上院での戦闘機選定調査委員会において、零戦の事が引き合いに出された事があった。

引き合いに出したのは海軍のアンダーソン大将で、太平洋戦争の初期に零戦はアメリカ軍のどの戦闘機よりも運動性と行動力に勝っていたと話し、かつて零戦がアメリカ軍機に持っていた優劣の差を、仮想敵国の戦闘機に持つ必要があると述べていた。

戦後にアメリカで出された航空機雑誌の中には、古今比類のない最優秀の飛行機の一機と書かれてていた。

イギリスの航空機評論家の中には、零戦について運動性と長い航続距離は連合国に「無敵零戦」の神話を信じ込ませたと、その著書で書いている。


こうした事を零戦が欠陥機だとか駄作機だという人は無視をする。

後から出て来た戦闘機と比べて零戦を批判する。

零戦が実戦に登場してからの2年間の戦績に目を瞑り零戦を批判する。

アメリカ軍における1対1で戦ってはならないという零戦対策を無視して零戦を批判する。

長所を無視して短所ばかりにスポットを当て零戦を批判する。

かつて零戦と戦った国の人達が、その優秀性を誉めているの黙殺して批判する。

それが正しい評価の仕方だと言えるだろうか?

それで判断された評価が公平で正当なものだと言えるだろうか?

自分にはとても正当だとは思えない。


日本にとり残念なのは零戦の後継機たる「烈風」や「雷電」の開発が速やかにいかなかった事だ。

「雷電」の開発に関しては太平洋戦争開始前の1939年に海軍から指示が出されているし、「烈風」に関しては1940年に指示が出されている。

だが、その開発が速やかに行かず「零戦」を改良しながら使い続けるしかなかったのだ。



『9月の国際情勢として……』


◯9月4日、史実通りルーマニアで大きな政治変動が起きた。

アントネスク将軍がクーデターにより全権を握ったのだ。

翌日5日には議会を解散し憲法も停止された。

更に6日にはカロル国王は退位し、ミハイル王子に譲位した。

全ては先月の「ウィーン裁定」で領土が大幅に減った事が原因だ。

どんどん領土が減れば不満を持つ者が出て来るのも当然だろう。

だが、大国の圧力に抗えなかったのも仕方のない事ではある。



○9月12日、史実通りイタリア軍がエジプトに侵攻した。

史実では、この侵攻の前にイタリアはドイツに武器の援助を要望している。

これに対しドイツは武器だけでなく装甲師団2個を援軍に送る用意があると返答した。

だが、しかし、ムッソリーニ首相はドイツ軍が参加するのはイタリアの威信にかかわると拒否をした。

何とイタリア軍のバドリオ総参謀長もムッソリーニ首相に同意見。

それどころかバドリオ総参謀長は会議の席で、アフリカのイタリア兵はドイツ兵より優れており、兵員よりも資材をドイツに要求するべきだと発言している。

「イタリア兵はドイツ兵より優れている」ねぇ……

痘痕も靨?

馬鹿な子ほど可愛い?

それとも、贔屓の引き倒し?



◯9月23日、史実通りイギリス軍と自由フランス軍が西アフリカのフランス植民地の重要港ダカールを制圧しようとした。

しかし、ビシー政府に忠誠を誓う現地フランス軍とフランス艦隊の反撃にあい、25日には作戦中止され失敗した。

この作戦では1日目にドゴール将軍が相手の説得に赴いたが失敗している。

失点だぞドゴール将軍。



◯9月25日、史実通りドイツ軍占領下のノルウェーで傀儡の親独政権が樹立された。

まぁ傀儡であってもノルウェー人の政府があるのは、まだましかもしれない。

傀儡政権さえ許されない占領地域もあるからね。





〖10月〗


●10月、史実通りアメリカが日独伊三国同盟への対抗措置を宣言し、日本への鉄の対日輸出禁止措置に出た。困った事態だ。


●10月3日、史実通り閑院宮戴仁親王が陸軍参謀総長を辞任された。

御年76歳。ご苦労様でございました。


●10月11日、史実通り海軍は紀元2600年を祝す日本の行事の一環として「紀元2600年特別観艦式」を横浜港沖で行った。

初代天皇である神武天皇が即位してから2600年を祝う行事だ。めでたい。

今年は日本各地でこうした紀元2600年を祝う行事が行われている。

この特別観艦式に参加したのは戦艦8隻、空母3隻、巡洋艦11隻、駆逐艦34隻、潜水艦18隻に加えて、水上機母艦、敷設艦、給糧艦、潜水母艦、掃海艇など全部で100隻以上が参加している。飛行機は500機を越える。

陛下は御召艦として戦艦比叡に座乗された。

自分は連合艦隊旗艦の戦艦長門だ。

いやぁこれだけの艦艇が集まると、やはり壮観ですなぁ。満足、満足。


●10月21日、史実通り陸軍は紀元2600年を祝す日本の行事の一環として「紀元2600年記念観兵式」を代々木練兵場で行った。

まぁ海軍がやったんだから当然陸軍もやるという事で。

自分は直接には見てないが、ニュースフィルムが製作されているのでそれを見た。

歩兵部隊、戦車部隊、騎兵部隊、なかなか良いですな。パレードには華がありますがな。

陛下が白馬に乗って閲兵なさっていらっしゃった。なかなか良いものですなぁ。



『10月の国際情勢として……』

◯10月4日、史実通りヒトラー総統とムッソリーニ首相が会談した。

ヒトラー総統がムッソリーニ首相に新たな戦争は起こさないよう釘をさしたのだが。

まぁムッソリーニ首相にも意地と面子と名誉欲がありますからね。無理無理。



◯10月6日、史実通りドイツ軍がルーマニアに進駐した。

アントネスク将軍はドイツ軍の力を背景に奪ったばかりの政権の基盤固めを行い、ヒトラー総統としては、ルーマニアの油田から石油の安定供給を図るためのドイツ軍派遣だ。

お互いに利用し合う関係。それもまた良しだろう。



◯10月12日、史実通り地中海で海戦があった。

イタリア艦隊の駆逐艦1隻、水雷艇2隻 VS イギリス艦隊の巡洋艦2隻だ。

イタリア艦隊が全艦撃沈され敗北した。

一説によるとイギリスが史上初めてレーダーを使用しての海戦だったらしい。 

ともかく実にイタリアらしい結果の海戦であった事は確かだ。



◯10月23日、史実通りヒトラー総統とスペインのフランコ将軍が南フランスのアンダイエで会談を行った。

ヒトラー総統はスペインを参戦させようとしてジブラルタルや北アフリカの植民地の提供を申し出た。

フランコ将軍は言質を与えず、しかも短気なヒトラー総統を怒らせなかった。

意外とフランコ将軍は交渉上手?



◯10月24日、ベルギーの亡命政権がイギリスに樹立された。

まぁしっかりな。



○10月26日、史実通りイタリアがギリシャに宣戦布告を行い、イタリア軍がギリシャに侵攻した。

約3週間前にヒトラー総統から新たな戦争を起こさないように釘をさされたばかりなのにだ。

どうやら刺された釘は引っこ抜いたようで。


この時のイタリアの人口は4500万人。ギリシャの人口は700万人。

更にはイタリアは植民地も持っている。国としてはイタリアの方が大国だ。

だが、しかし、ギリシャのメタクサス首相は敢然とイタリアに立ち向かう事を決断した!

メタクサス首相は元軍人、しかも「ギリシャのモルトケ」と呼ばれた人物だ。

ムッソリーニ首相よ早まったな。


イタリア軍はアルバニアにから10個師団16万の兵力で侵攻を開始した。

迎え撃つギリシャ軍は第1軍12個師団15万名。

他にブルガリア方面を守備する第2軍7万名と総司令部直属予備の3個師団がある。

さぁギリシャ戦の始まりだ!





〖11月〗


●11月10日、史実通り宮城前広場において紀元2600年記念式典が盛大に行われた。

国民は祝賀ムード一色だ。良きかな、良きかな。


あっいけね、紀元2600年を祝した記念切手が今日発売だった。まだ買ってない。従兵に買いに行ってもらおう。


そう言えば、この紀元2600年を祝う曲の作曲を、日本は複数の国に依頼している。

アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ハンガリーの6ヵ国だ。

ハンガリー以外は大国だ。

やはりハンガリーは「防共協定」に加盟している数少ない友好国だから依頼したのだろうか?

ハンガリーは陛下が乗馬されている愛馬も送ってくれている。

明治時代に皇室で初めて洋装で音楽会を楽しまれた時に演奏していたのが、ハンガリーのヴァイオリ二ストだったという逸話があるけど、それも影響してる?

それとも既に世界的名声を得ている偉大なるハンガリーの音楽家バルトーク・ベーラに作曲してもらいたから?

実際にはヴェレス・シャンドールが作曲したけど。

快く曲を作ってくれたのだから、まぁいいか。


それよりもアメリカだ。

曲を依頼した国のうち、アメリカだけは日米関係悪化を理由に依頼を拒否したそうだ。

いやだねぇ、お祝いなんだから政治を持ち込むなよ。

お祝いの曲を一曲だけなんだぞ。

こういうお祝いでの些細な事にまで拘るなんて、何とアメリカという国は狭量なのか。

日本がアメリカへの悪感情を増加させるとは考えないのか。

いや東洋の小国の感情など気にも留めないか大国アメリカは。


ところで、この紀元2600年を祝う曲のうちイギリスのエドワード・ベンジャミン・ブリテンの作った曲だけは記念演奏会で演奏されなかった。

だから後世「謎の祝典音楽」なんて呼ばれた事もある。

何というか曲の題名からして問題が。

題名は「鎮魂交響曲」

三楽章で構成されていて、各題が「涙の日」「怒りの日」「永遠なる平安」なんだけど。

お祝いの曲を依頼したのに鎮魂? 涙? 怒り? そりゃあ演奏するのはちょっと待て、という事になりますがな。

芸術家ってやつはこれだから……





『11月の国際情勢として……』


◯11月5日、史実通りアメリカの大統領選挙でルーズベルトが勝ち大統領の三期目が決定した。

さぁこれよりルーズベルト大統領の怒涛のイギリス支援が始まる!



○11月11日、史実通りイギリス海軍航空隊による「タラント空襲」が行われた。

イタリアの戦艦3隻が撃沈され、他に巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が損傷した。

イギリスが使用したのは複葉機のソードフィッシュ攻撃機21機。損害は僅かに2機。

複葉機で歴史に残る大損害を与えますかイギリス海軍は。

流石と言うべきか、相手があのイタリア艦隊だからなのか。

両方かもしれない。



◯11月14日、史実通りギリシャ戦線で、ギリシャ軍がイタリア軍に対し全面攻勢に打って出た。

今、ギリシャ軍の反撃が始まる!

と、言うかイタリア軍は当初、1年前に編成されたばかりのセンタウロ機甲師団を先鋒としてギリシャへの攻撃を開始したけど、ドイツ軍の電撃戦とはいかず、戦車を撃破されまくっている。

特にイギリスからギリシャに武器援助として急遽送られた第一次世界大戦当時の旧式兵器、ドイツ製の1918年型のモーゼル対戦車銃に次々と戦車を撃ち抜かれ撃破されているんですけど!

それでイタリア軍の攻勢が完全に頓挫したんですけど!

ギリシャ軍には機甲師団なんて贅沢な部隊はないんですけど!

あっギリシャ軍にも騎兵部隊はあります。それも騎兵師団が。



◯11月20日、史実通りハンガリーが「日独伊三国同盟」に参加した。

もう三国同盟じゃありませんが改名しないの?



◯11月21日、史実通りギリシャ戦線ではギリシャ軍の猛攻の前にイタリア軍は敗退し、攻勢開始地点のアルバニアまで後退してしまった。

危うしイタリア軍! 頑張れイタリア軍!

世界のみんなが呆れているぞ!



◯11月23日、史実通りルーマニアが「日独伊三国同盟」に参加した。

もう五ヵ国同盟なんですけど? いつまで三国同盟?


この日は他にインドネシアにおいて「泰・仏印国境紛争」が発生した。

フランスがドイツに敗北した事で、フランスの力が落ちたと判断したタイは、隣のフランス領インドシナに侵攻したのだ。

これはただ単に侵略戦争というわけでは無く、1893年にタイがフランスと戦争して敗北した時に奪われた地域を奪還するための戦争だ。

タイは日本の友好国、フランスも今やビシー政権であり枢軸国に近い関係にあり日本とも友好国と言えなくもない。

そのため、日本は両国の間に入って和平交渉を纏めようと奔走するのだが、以外と苦労する事になる。

頑張れ日本の外務省!



◯11月24日、史実通りドイツの傀儡政権であるスロバキアが「日独伊三国同盟」に参加した。

六ヵ国が同盟に参加しているのに三国同盟とはこれいかに。



◯11月27日、史実通り地中海で海戦があった。

イタリア艦隊の戦艦2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦16隻 VS イギリス艦隊の空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦14隻だ。

再び戦艦を擁する艦隊同士の戦いだ。

だがイタリア艦隊は決して期待を裏切らない。

ちょっと砲撃戦をしたら退避した。

イタリア艦隊の損害は駆逐艦1隻撃沈で、イギリス艦隊は巡洋艦1隻が小破した。

イタリア艦隊の敗北だ。

地中海での戦いが始まって以来、艦隊戦ではイタリアは四戦四敗の全敗中だった。そこに新たな敗北がまた一つ加わった。

これで五戦全敗。

ともかく今回も実にイタリアらしい結果の海戦であった。





〖12月〗


〖12月の国際情勢として……〗


◯12月6日、史実通りイタリア軍の総参謀長バドリオ元帥が辞任した。

後任はカバレロ将軍だ。

この辞任には一悶着あった。

戦争がうまく行っていない事についてムッソリーニ首相とバドリオ元帥が責任の擦り付け合いをしていたのだ。

どっちもどっちだろ、としか思えない。



◯12月12日、史実通りユーゴスラビアとハンガリーが「友好条約」を締結した。

ユーゴスラビアの狙いはハンガリーを介してドイツとの関係を良好にする事だ。

ユーゴスラビア王国は全方位外交をしている。

しかし、それは後に全方位攻撃を受ける事になる。

その日は迫っているぞ。



◯12月7日と27日、史実通り中部太平洋でイギリス連邦の委任統治下にあるナウル島がドイツの仮装巡洋艦コメートとオリオンに砲撃された。

砲撃目標は燐鉱生産施設と燃料タンク、それに鉱石運搬船で4隻を撃沈している。

ドイツの仮装巡洋艦が太平洋で暴れるとは、やりますなぁドイツ海軍も。


それはともかく、このコメートのドイツからの航路がね、何と北極海を渡って来た!

ドイツを7月9日に出港し、ノルウェー沖を北上して北極海に入り、そこからはソ連の砕氷艦の先導を受けベーリング海峡に到達して砕氷艦と別れ、そこから太平洋に入り南下して南太平洋のマーシャル諸島でオリオンと合流しナウル島に到達したという航海だ。

なんとも遠大な航海だ。

オリオンの航海も遠大だ。オリオンは今年の4月6日にドイツを出港し大西洋で通商破壊戦をした後、南米南端のホーン岬を通過して太平洋に入りマーシャル諸島に到達している。

コメートとオリオンは、このナウル島攻撃の後に別行動をとるが、最終的には両艦とも太平洋からインド洋に入り、そして大西洋に入り無事にドイツに帰還している。

オリオンの航海などはドイツを出港してから1年4ヵ月に及んだが、正に地球を一周した航海だ。地球一周ですよ!

ちょっと羨ましい。自分も参加してみたかった。


ドイツは今年1940年に通商破壊戦のための仮装巡洋艦を7隻出撃させている。

「アトランティス」「オリオン」「ヴイッダー」「トール」「ピンギン」「コメート」「コルモラン」の7隻だ。

少ない艦でも6隻、多い艦なら28隻の戦果をあげ連合国の通商を脅かした。

7隻合計の戦果は丁度100隻になる。

連合軍に撃沈されたのは「アトランティス」「ピンギン」「コルモラン」の3隻。

大したものだドイツの仮装巡洋艦は。3隻撃沈されたとは言え100隻も撃沈していれば完全に費用対効果で成功したと言えるだろう。

連合国の通商も混乱した事だし、見事だよドイツ海軍。


ところで「オリオン」は太平洋でニュージランドのオークランド港沖に228個の機雷を敷設したのだけど、それに輸送船「ナイアガラ」が触雷し沈んでいる。

その輸送船には何と250万ポンドの金塊が積まれていた! 金塊は当然海の底へ! ほ、欲しい! その金塊が欲しい!!



◯12月9日、史実通り北アフリカ戦線でついにイギリス軍が反撃に出た。

イタリア軍は9月にエジプトに侵攻したもののリビア国境から約50キロのシディ・バラニで停止し以後、そこに駐留していた。

元々物資が不足気味のイタリア軍は積極的にエジプト奥深く侵攻する事を控えていたのだ。

ムッソリーニ首相の強引な命令により物資不足でも仕方なく侵攻を開始したに過ぎない。

そこにイギリス軍が襲い掛かったのだ。

果たしてイタリア軍の運命は!? って決まってるよね。



◯12月17日、史実通りルーズベルト大統領がイギリスへの援助の増大を発表した。

「燐家が火事になったらその火が我が家にひろがらないようホースを貸すのは当たり前」という例え話もしている。

イギリスは燐家にあたるのか? アメリカ本土からはかなり遠いぞルーズベルト大統領。


この日は他に北アフリカ戦線で、イタリア軍を撃破したイギリス軍がリビア国境に到達した。



◯12月29日、史実通りアメリカのルーズベルト大統領が炉辺談話でアメリカは民主主義の兵器廠になると語った。

大義名分を掲げても、やる事は「死の商人」所謂「武器商人」と変わらんのだろう。



●大晦日を迎えた。

今年も日中戦争は終わらず、日本とアメリカの関係は悪化するだけだった。

ドイツは勢力圏を大きく広げた。

イタリアは北アフリカ戦線での敗北が始まった。それにギリシャ戦線ではギリシャ軍の逆進攻でアルバニアの四分の一を占領されている。地中海での海戦も負け続け。唯一勝利しているのは東アフリカだ。

全ては史実通りとは言え、ヨーロッパは大きく変動している。

来年は日本も更なる激動の渦に飛び込む事になるだろう。

来年はいよいよアメリカと戦争か……

緊張するなぁ。







『1941年』


いよいよ戦争開始の年が始まる。



〖1月〗


●1月7日、史実通り戦艦長門艦上で、海軍大臣宛てにアメリカと開戦した場合の作戦、真珠湾攻撃作戦の構想を記した手紙を書いて出した。

一つこの作戦でよろしく大臣。


●1月26日、史実通り第11航空艦隊参謀長の大西中将にアメリカと開戦した場合の真珠湾攻撃計画の研究を始めるよう命じた。

頑張ってくれ大西君。



『1月の国際情勢として……』


◯1月5日、史実通り北アフリカ戦線でリビアに進攻したイギリス軍はイタリア軍の守るバルディア要塞を陥落させた。攻略には2日間かかっている。文献によっては4日間となっているものもある。

だがイタリア国内のニュースでは、バルディア要塞を守るイタリア軍将兵は25日間にも渡り勇敢な戦いを行ったと讃えている。

25日間! それってイギリス軍が北アフリカ戦線で反撃を開始してからの日数であって、実際にバルディアで戦った日数ではないんでないの?

まぁイタリアだからいいのか。

ちなみにイタリア兵の捕虜は4万人。イギリス軍の損害は500人。

どれだけ国内ニュースでバルディア要塞のイタリア軍を称賛をしようと、敵に与えた損害は、やはりイタリア軍らしいものでしかなかった。


◯1月17日、11月から続いている「泰・仏印国境紛争」において「コーチャン島沖海戦」が発生した。

タイ海軍のモニター艦2隻と水雷艇6隻が、フランス海軍の巡洋艦1隻、通報艦3隻と戦った。

結果はタイ海軍の敗北。

タイ海軍はモニター艦1隻が大破し水雷艇2隻が撃沈され、フランス海軍は巡洋艦が小破した。

ちなみにタイ海軍のモニター艦は日本で建造されたものだ。

2000トンで20センチ連装砲塔を2基搭載している。

水雷艇はイタリア製だ。

まだタイに力は衰えたとは言えフランス植民地海軍は倒せないか……残念。



◯1月19日、史実通りイギリス領スーダンからイギリス軍2個師団が、イタリア領東アフリカ(エチオピア)に進攻を開始した。

既にスーダンのイギリス軍は9000人だったものが増強されて2万8000人になっている。

とは言えまだ兵数ではイタリア軍が上だ。完全に上だ。圧倒的に上だ。

だが、戦いは数で決まるわけではない!

それを証明して見せてやれ、イタリア軍よ!

あっ違った。この場合、イタリア軍が証明したらそれは敗北だ。いかん、いかん。それはいかん。


この日は他に史実通りヒトラー総統とムッソリーニ首相が会談した。

史実通りならば、その内容はドイツ軍による援軍の件で、ムッソリーニ首相はアルバニアでのギリシャ軍との戦いに援軍はいらず、北アフリカに多少の援軍が必要である事を認める筈だ。

あなたは間違っている! ムッソリーニ首相! どこもかしこも援軍が必要だ!



◯1月20日、史実通り北アフリカ戦線でリビアに進攻中のイギリス軍が要衝トブルク港に達した。

25万人いた北アフリカのイタリア軍は既に12万5000人にまで減っている。

そして1月22日にはトブルクの防衛線は破られ陥落した。

捕虜になったイタリア兵は3万人。

どこまで減るのかイタリア軍。



◯1月27日、史実通りイタリアのチアノ外相他数名の閣僚がアルバニアに飛び、ギリシャ軍相手に不甲斐ない戦いを繰り広げるイタリア軍の指揮に口を出し、実際に指揮をとった!?

流石はイタリア、他の国ではあり得ない事をやってくれる!



◯1月29日、史実通りイギリス領ケニアからイギリス軍先遣隊が、イタリア領東アフリカに進攻を開始した。イギリス軍主力は2月に進攻を開始する。

当初ケニアのイギリス軍は8500人だったが、著しく増強されて7万5000人になっている。

ついに南北から挟み撃ちにされた東アフリカ・イタリア派遣軍の決死の戦いが今、始まる!


『次回「燃え上がれイタリア軍!」こうご期待下さい!!』


えっ?





〖2月〗


『2月の国際情勢として……』


◯2月1日、史実通りアメリカの海軍で再編成が行われ「大西洋艦隊」「太平洋艦隊」「アジア艦隊」の3艦隊体制になった。

また、キング提督が大西洋艦隊の司令官に任命された。

着々と戦いの準備を進めていますなぁルーズベルト大統領は。



◯2月7日、史実通り北アフリカ戦線のベダ・フォームで、またまた大きな規模のイタリア軍部隊が降伏した。

捕虜になったイタリア兵は2万5000人。戦車120両と大砲200門も鹵獲された。

文句のつけようがないほど見事にイタリア軍らしい出来事だった。



◯2月9日、史実通り、北アフリカ戦線でイギリス軍の進撃がエル・アゲイラで停止した。

チャーチル首相がギリシャに援軍を送る事を決定し、その部隊を北アフリカ戦線から引き抜くためだ。

ホッとした。史実を知ってはいるとは言え、このままでは北アフリカのイタリア兵は一兵残らず消えるのではないかと思える戦況だったからね。


また、この日は史実通りイタリア本土のジェノバ港をイギリス艦隊が砲撃し、艦載機がリボルノとラスペチアを空爆した。

イタリア軍は為す術もなかった。

イタリア軍らしい対応である。



◯2月11日、北アフリカ戦線においてイタリア軍総司令官のグラッツィアーニ将軍が、これまでの敗北の責任をとって辞任し、ガリポルディ将軍に引き継ぎを行った。

25万人もいたイタリア軍が3万人のイギリス軍に負け続けたのだから仕方のない事ではある。

兵器の質と補給不足の中でムッソリーニ首相に強引に戦争をさせられた哀れな軍人であった。

元気でな。



◯2月12日、史実通り北アフリカのトリポリに、後に「砂漠のキツネ」と呼ばれる事になるロンメル将軍がイタリア軍を助けるために到着した。

これより伝説が始まる……



◯2月14日、史実通りドイツのヒトラー総統とユーゴスラビア王国のスベドコピッチ首相が会談した。

ヒトラー総統からの「日独伊三国同盟」への参加のお誘いだ。

だがスベドコピッチ首相は応じなかった。イギリスとソ連をあてにしているらしい。

いやいや、スベドコピッチ首相よ、イギリスもソ連もあてにはできませんぞ。

これまで両国のして来た事を見てみなされ。

両国とも条約は破るは、同盟国を見捨てるは、他国に進攻するはで、やりたい放題。

あてにできるのは自国のみですぞ……って、その自国の力をあてにできないのが、ユーゴスラビアか……

お可哀想に。

それにしてもイギリスを選んでも、ソ連を選んでも、ドイツを選んでも碌な目に合わない未来が見えるようだ。



◯2月25日、史実通り東アフリにおいて、ケニアからイタリア領ソマリア方面に進攻したイギリス軍がインド洋に面したイタリア領ソマリアの最重要港モガディシオを占領した。こちらの方面で守備にあたっていたイタリア軍は軒並み撃破されている。

史実通りなら、この後、モガディシオ港を占領したイギリス軍は進攻方向を東アフリカの首都アジス・アベバに向けるだろう。

良くない戦況だ。

だが、しかし、スーダンから東アフリカのエリトリア方面に進攻したイギリス軍は、フルスキ将軍指揮するイタリア軍部隊によりケレンの防衛線で防がれている。何と1ヵ月もだ!

あのイタリア軍がだ!

1ヵ月! あのイタリア軍が1ヵ月!

第二次世界大戦が始まって以来、これほど頑強な戦いをしたイタリア軍があったであろうか?

いや、無い!

やるなぁフルスキ将軍! 本当にイタリア人か?





〖3月〗


●3月初め、史実通り大西中将が研究の成果を持って来た。これについて連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺参謀に話し更に研究して成案に仕上げるよう命じた。更に連合艦隊の作戦として開戦時には真珠湾攻撃を計画している事を海軍軍令部に伝えさせた。みんな苦労をかけるね。


●3月14日、極めて悪化したアメリカとの関係を修復するために、アメリカに派遣された野村特命全権大使が、首都ワシントンでルーズベルト大統領と会談した。鉄や石油を日本に売ると、それがドイツに転売されるのではないかという懸念をアメリカは持っているらしい。史実通りの話だ。

それにしても疑り深いな、禿げるぞルーズベルト大統領。



『3月の国際情勢として……』


◯3月1日、史実通りブルガリアが「日独伊三国同盟」に参加した。

翌日にはドイツ軍がブルガリアへの進駐を開始した。

これで七ヵ国同盟となったわけだが、同盟参加国はどこまで増えるのであろうか。

「枯れ木も山の賑わい」ではねぇ。



◯3月4日、史実通りならばヒトラー総統がユーゴスラビア王国の摂政パウル公と密談した筈だ。

ユーゴスラビア王国のぺテル国王は、まだ17歳。

父王が11歳の時に亡くなり、その時より王族のパウル公が摂政として補佐している。

補佐というより実権を握っている。まぁぺテル国王が子供だから当たり前の話ではある。

ともかくユーゴスラビアを日独伊三国同盟に参加させようとヒトラー総統が自ら動いて暗躍している。

以外とうろちょろ動くの好きなんだよねヒトラー総統は。

伍長気質が抜けてないのか?



◯3月7日、史実通りならば、イギリス中東方面軍ではギリシャに送る部隊の移動を開始した筈だ。

イギリス軍上層部では、ギリシャ相手に苦戦しているイタリア軍を救援するためにドイツ軍が介入すると推測している。

それは正しい推測だ。

だが、その援軍で果たしてドイツ軍を止められるかな?

それに北アフリカ戦線から兵力を引き抜いていいのかな?

既にロンメル将軍が北アフリカの大地に立ち、動き始めているのだよ。

くっくっくっ。



◯3月15日、史実通りアメリカのルーズベルト大統領が、連合軍が勝利する日が来るまで援助を続けると演説した。

今回の歴史では、そんな日は来んよ。



◯3月16日、史実通りイギリス軍が東アフリカにおける旧イギリス領ソマリアのベルベラ港に上陸し占領した。

これで、東アフリカ・イタリア派遣軍は、北のスーダン、南のケニア、東の旧イギリス領ソマリアからの三方向から攻められ三正面作戦を強いられる事になった。

厄介な事態だ。だが、兵力ではまだまだイタリア軍が上だ。

負けるなイタリア! 頑張れイタリア! お前の強さを見せてみろ!

いや、ほら、だって一応は「日独伊三国同盟」での同盟軍だし。たまには応援しないとね。



◯3月24日、史実通り北アフリカ戦線で攻勢に出たロンメル将軍のアフリカ軍団がリビアのエル・アゲイラを奪還した。

速攻!

イギリス軍の北アフリカ戦線敗北伝説が今、幕を開ける!



◯3月25日、史実通りユーゴスラビアが日独伊三国同盟に参加した。

だが、それに反対する市民は多く首都ベオグラードでは騒乱となった。

市民の皆さん、そんなに嫌わなくても……

日本も参加してる条約ですよ。

今回の歴史ではきっと、恐らく、たぶん勝ち組になる同盟ですよ。

仲良くしようよ。



◯3月27日、史実通り地中海で「マタパン岬海戦」が発生した。

あのイタリア艦隊VSイギリス艦隊だ。

イタリア艦隊は戦艦1隻、巡洋艦7隻、駆逐艦17隻。

イギリス艦隊は空母1隻、戦艦3隻、巡洋艦4隻、駆逐艦12隻。

イタリア艦隊の被害は巡洋艦3隻と駆逐艦2隻を撃沈され戦死者は3000人を超えた。

イギリス艦隊の被害は艦載機を2機。戦死者は7人。

イタリア艦隊は期待を裏切らず圧倒的な敗北を喫した。

これこそイタリア艦隊である!


また、この日は史実通りイタリア領東アフリカのエリトリア戦線のケレンにて善戦していたフルスキ将軍指揮するイタリア軍部隊が突破され敗退した。

とは言え何と2ヵ月も持ち堪えていた。

第二次世界大戦が始まって以来、これほどの戦いを見せたイタリア軍が他にあったであろうか!

敗北したとは言え、この善戦は称賛に値するだろう。

と、言うか、なんと戦った相手のイギリス軍が公刊戦史で誉めている!

「(ケレンの戦いは世界の戦史に壮烈な一ページを飾るものであり、イギリス・イタリア両軍は栄誉ある戦いを展開し、その武勇は両軍にとって永遠の誇りになるだろう)」

おぉーーーーーーーーっ!

凄いぞ「両軍にとって永遠の誇り」とまでイギリス軍は誉めるのか!

見事なりフルスキ将軍!


とは言えイタリア領東アフリカでの戦況は良くない。

南部のケニアから進攻したイギリス軍と、東部のベルベラ港から進攻しているイギリス軍は首都アジス・アベバへの距離を着実に縮めている。包囲網が狭まって来ている。

危機到来だ。


更にこの日は史実通りユーゴスラビア王国でクーデターが発生した。

首謀者は軍のシモビッチ将軍で反独派。

クーデターの裏ではイギリスが動いていた。

前日に摂政パウル公が休暇をとり、スロベニアの別荘に向かった隙を突いてのクーデターだ。

もし、この摂政パウル公がクーデターの鎮圧を決断すれば内戦になったかもしれない。

摂政パウル公はクーデター勃発の報を聞くとスロベニアのお隣、クロアチアのザグレブにてクロアチア最大の政党であるクロアチア農民党のマチェック党首と会談した。

この時、マチェック党首はクロアチア人部隊を動員してクーデター側と対決する事を提案している。

何せ摂政パウル公は正当な摂政だ。

それに加えてセルビア人の勢力が大きいために、公平とは言えないセルビア人とクロアチア人の関係において、クロアチア人にも配慮を示している人でもある。

逆に言えば、そのためセルビア人に摂政パウル公は人気が無かった。

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、だ。

民族間の問題は難しい。

それはともかくとして、摂政パウル公がクロアチア人部隊を動員して戦う事はなかった。

戦いを望まなかったのだ。

摂政パウル公の家族がまだ、首都ベオグラードにいた事もあり、大人しくシモビッチ将軍の許に出頭し、結局は国外追放となった。

そのため無血クーデターとなる。

そして首都ベオグラードの市民はこのクーデターを歓迎した。

何せ市民は口々に「日独伊三国同盟よりは戦争を!」「奴隷よりは死を!」と叫んだらしい。

日独伊三国同盟に加わる事は奴隷になる事と同じだと思っていたらしい。

そんな事は……無いよ、たぶん、きっと。

ただ、首都ベオグラードの市民の多くはセルビア人であり、クロアチアの人々はそれほどではなかったようで冷ややかな反応だったらしい。

まぁマチェック党首が摂政パウル公にクロアチア人部隊を動員して、なんて言い出すぐらいだからね。


ユーゴスラビア王国でのクーデターは成功した。

だが、忘れちゃいけない。一生懸命ユーゴスラビア王国を味方に引き入れようと、うろちょろ動いていた男がいた事を。

そう、ヒトラー総統だ。

あのヒトラー総統が激怒したのだ。

短気なヒトラー総統を怒らせてタダですむとでも?

そんなわけないのだよ……



◯3月30日、史実通りユーゴスラビア王国がドイツに「日独伊三国同盟」を離脱する事は無いし、条約の義務を全て履行すると伝えた。

もう遅い。既にヒトラー総統は腹を決めている。あとは征くのみ、だ。




〖4月〗


●4月10日、史実通り五隻の空母と10隻の駆逐艦からなる世界でも例を見ない空母を集中させた航空艦隊、「第1航空艦隊」が編成された。最強の艦隊だね。


●4月13日、史実通り日ソ中立条約が締結された。

こんな条約、紙切れに過ぎんよ。



〖4月の国際情勢として……〗


◯4月1日、史実通りイラクでクーデターが発生した。

政治家のラシッド・アリと、名前だけは立派な「ゴールデン・スクエアー」と称する反英将校団グループによって親英政権が倒された。そして親独政権ができる。

ドイツ語訛りで一言言おう「チャーンス!」


◯4月2日、史実通り北アフリカのロンメル将軍指揮するアフリカ軍団がアジェタビアを占領した。

勢いに乗っている。ガンガン行こうぜ!状態だ。


この日は他に、史実通りハンガリーのテレキ首相が自殺した。

祖国ハンガリーをこれ以上、ドイツに協力させるのが耐えられなかったらしい。

そうか……

面従腹背とか、引退して田舎に引っ込むとか……いや、そういう道を選択できなかったからこその決断か。

政治に国に真剣であり彼なりの解決手段だったのだろう。



◯4月4日、史実通りイタリア領東アフリカでイタリア軍が首都アジス・アベバを放棄した。

東アフリカ・イタリア軍総司令官にしてイタリア王族のアオスタ公は、幕僚の一人トレッツァーニ将軍の提案した首都を放棄して北部の山岳地帯アムバ・アラギにて持久戦を行うという作戦案を採用する決断をしたのだ。

だが、それはイタリア軍全軍を集結させての持久戦ではない。

首都やその周辺にいる部隊のみでの持久戦であり、各地のイタリア軍はそのまま現地で防衛戦を展開する事になる。

それは兵力の分散なのだけど……

それに援軍の見込みのない持久作戦って……



◯4月6日、史実通りイタリア領東アフリカの首都アジス・アベバがイギリス軍に占領され陥落した。

まだだ! たかが首都が陥落しただけだ! イタリア軍はまだ戦える!


また、この日は史実通りユーゴスラビアがソ連と不可侵条約を結んだ。早朝の事だ。

ドイツへの牽制だ。しかし、ドイツにそんなものが効くわけないだろう。あのヒトラー総統だぞ。

実際、この日にドイツ軍のユーゴスラビア侵攻が始まった。

作戦名は「懲罰・裁判」作戦。

なんかヒトラー総統の怒りがわかるような作戦名だ。これは相当怒ってる。


ユーゴスラビア政府は国民に直ぐに徹底抗戦を呼びかけたが、ドイツ空軍の攻撃で通信網・放送網は早くも破綻している。どこまで伝わっているのやら。


ドイツ軍は史実通りギリシャにも侵攻を開始した。



◯4月8日、史実通りイタリア領東アフリカでの紅海における最重要港マッサワがイギリス軍に占領された。

港に停泊中だった大型商船17隻や無数の小型艇が鹵獲された。

くぅっーーーーーーー惜しい!

ここにある大型商船が全て日本の手に入れば、後のアメリカとの戦いで大きな助力となるものを。


ところで、元々マッサワ港にイタリア海軍は駆逐艦7隻、水雷艇5隻、潜水艦5隻、その他数隻からなる「イタリア紅海艦隊」を配備していた。

しかし、イタリアが戦争を開始すると、この紅海艦隊は孤立する。

何せスエズ運河をイギリスが押さえているためイタリア本国との最短航路は通れない。

かといってアフリカ南端ケープタウン回りでの航海は長距離であるし、地中海出入り口のジブラルタル海峡は、これもイギリス海軍が押さえている。

イタリア本国に戻れなくなった民間大型商船もマッサワ港に集まった。その数50隻。

それで、どうするか紅海艦隊で会議がもたれたが、なかなかこれが決まらない。小田原評定だ。

ただ、潜水艦は出撃して敵商船を沈めたりしている。そのかわり戦闘で1隻を失っている。

ともかく時は流れ、結局、東アフリカのイタリア陸軍の敗退で、マッサワ港も安全でなくなると、流石にイタリア紅海艦隊も覚悟を決める。

潜水艦部隊はアフリカ南端ケープタウン回りで大西洋に出て、同盟軍勢力圏となっているフランスの港を目指す事にした。

駆逐艦部隊は紅海を北上してイギリス軍との戦闘を望んだ。

停泊中の民間船は船長の判断に委ねる事にした。ただ日本や中立国に行く事が勧められた。

小型艇はマッサワ港に残留する事になった。

そして軽武装のスループ艦と武装商船2隻は日本を目指す事になった。

潜水艦4隻はバラバラの航海ではあったが、何と全艦無事にフランスの港に到着している。60日から80日かけて辿り着いたのだ。頑張ったなぁイタリア潜水艦。

駆逐艦部隊はイギリスの航空機に発見され攻撃され撃沈された艦も出て、結局はマッサワ港に戻り自沈している。

日本に向かった3隻は武装商船1隻が途中でイギリス海軍に発見され撃沈されたが、2隻は3月23日に無事に神戸港に辿り着いている。

残留した小型艇の内、魚雷艇の1隻は攻撃に来たイギリス艦隊に果敢にも戦闘を挑み、魚雷攻撃で巡洋艦1隻を大破させた後、自沈している。大したものだ。

結局、イタリア紅海艦隊の大半はマッサワ港で自沈してその役目を終えている。

残念な話だ。

返す返すも惜しいのは、これらイタリア紅海艦隊とイタリア商船隊を日本に呼び寄せられなかった事だ。

まだ、日本は戦争に参加していないとは言え、一応同盟国なのだから来てくれたなら……

史実での空母「神鷹」が思い浮かぶ。

戦争開始でドイツ本国に帰国できず日本の神戸港にとどまっていたドイツ客船シャルンホルスト号を日本は買取り空母に改装し「神鷹」と名付けたのだ。

イタリア政府と協議してマッサワ港にいたイタリア商船隊をまずは日本に呼び寄せ避難させておき、日本とアメリカの戦争が始まったら、それを買い上げて輸送船として使うなり、空母に改装するなりできれば、良かったのだが……

まだ、アメリカと開戦と決まったわけでもないから、そうした提案をしても反対されて潰れるだろうと思い、自分は何も動かなかったが、やはり惜しいという思いは捨てられない。

残念だ。



◯4月10日、史実通り北アフリカ戦線でドイツアフリカ軍団の先鋒部隊は早くも要衝トブルクに到達し、攻撃を開始したが撃退された。残念!


この日は史実通り、ユーゴスラビア王国の戦いにおいて、早くもユーゴスラビア政府とユーゴスラビア軍総司令部が首都から避難した。

避難先はサラエボだ。ドイツ軍の侵攻が始まって、まだ4日目。もうかいな、逃げるの早いなぁ。


また、史実通りユーゴスラビア王国において独立運動が激しかったクロアチアが独立国家の樹立を宣言した。

クロアチア人部隊の中にはセルビア人部隊に攻撃を仕掛けている部隊もある。

内部崩壊が始まった。もう、誰にも止められない。



◯4月12日、史実通りドイツ軍の攻撃によりユーゴスラビアの首都ベオグラードが陥落した。

侵攻開始6日目だ。早い。流石はドイツ装甲部隊。世界一の実力を持つと認めよう。

と、言うよりユーゴスラビア軍が不甲斐なさすぎる。

それに「日独伊三国同盟よりは戦争を!」「奴隷より死を!」と叫んでいたセルビア市民達はどうした?



◯4月14日、史実通りユーゴスラビア王国の戦いにおいて、ユーゴスラビア政府はサラエボからモンテネグロに避難した。ユーゴスラビア軍総司令部はサラエボに踏みとどまっている。

その翌日15日にはユーゴスラビア政府は空路ギリシャに避難した。

史実通りとは言え、何ともいやはや、もう国外脱出ですか。

クーデターで政権を握ったシモビッチ将軍の天下は実に短かった。20日にも満たなかった。

でも日本の明智光秀よりは長かったよ。あっちは「本能寺の変」から11日だからね。


◯4月15日、史実通り北アフリカのトリポリに向かっていたイタリアの輸送船団が全滅した。

5隻の輸送船をイタリア海軍の駆逐艦3隻が護衛していた。

攻撃したイギリス艦隊は駆逐艦4隻。

イタリア側は大破した駆逐艦1隻を残して全艦撃沈された。

イギリス艦隊は駆逐艦1隻が撃沈された。

イギリス艦隊の勝利である。いつものように。



◯4月16日、史実通り北アフリカ戦線においてロンメル将軍のドイツ・アフリカ軍団が要衝トブルクへの第二次攻撃を開始した。

イタリア軍の新鋭戦力、アリエテ機甲師団に大きな期待が寄せられた。

だが、しかし、イタリア軍の戦車部隊は全然ダメだった。

砲撃を受けると直ぐに後退してしまう。

前線に戻るよう命令してもぐずぐずと動かない。

無様だな。

イタリア軍は歩兵も酷かった。

ブレシア歩兵師団の一個中隊はイギリス軍に攻撃され降伏した。ここまでは、まぁあるかもしれない。

だが、しかし、そのイタリア軍を降伏させたイギリス軍に砲火が集中し後退すると、降伏したイタリア兵も逃げ出せたのにイギリス軍について行ってしまったのだ。

無様ね。

ロンメル将軍は、いかにイタリア軍があてにできないかを知った。

ご愁傷さまロンメル将軍。



この日は他に史実通りイタリアに亡命していたクロアチアの独立運動家アンテ・パベリッチがクロアチアに帰還し、独立したクロアチア国の指導者になる事を宣言した。

そのバックには当然、イタリアがついている。

ムッソリーニ首相はクロアチアに影響力を持とうと言うわけだ。よく動く男だね。



◯4月17日、史実通り独立したばかりのクロアチアがイギリスに宣戦布告した。

早いなぁ、そんなに焦らなくても。


史実通りユーゴスラビアが降伏した。

ユーゴスラビア王国軍は31個師団、70万人を動員していたのに、瞬く間に敗北してしまった。

ドイツ空軍に通信網・放送網を破壊され、少なからぬクロアチア人が国に背き、軍の部隊は全土に分散し有効に動けなかった。とは言え、あまりにもあっけない。

ちなみにドイツ軍の戦死者は151人。信じられないくらい被害が少ない。


ユーゴスラビアで降伏文書に調印したのは何と一民間人のツィンツァル・マルコビッチ氏。

民間人が降伏文書に調印するとは前代未聞だ。

何せ、この間の事情が酷い。

3月27日にクーデターを起こし権力を握ったシモビッチ将軍は首相兼ユーゴスラビア軍最高司令官となっていた。

そのシモビッチ将軍は国外に脱出する2日前の4月13日に、最高司令官の座をカラファトビッチ将軍に引き継ぎ、首相のみの地位となる。

ここまでは、まぁわからないでもない。

自分は首相の仕事に専念し、軍の指揮は他の者に任せたともとれる。

だが、しかし、この時は違った。

何とシモビッチ将軍は最高司令官になったカラファトビッチ将軍に対し、公式な文書でドイツ軍と休戦する権限を与えたのだ。

その公式文書にはカラファトビッチ将軍がドイツとの休戦を決断した場合、その判断を政府は支持するとも明記されていた。

つまりカラファトビッチ将軍に判断を丸投げ。

一国の首相が、それも直前まで軍の最高司令官をも兼務していた者が、地位を譲ったばかりの相手に全てを丸投げ。

その後にシモビッチ将軍とぺテル国王と政府閣僚達は全員揃って国外脱出。ついでに言えばシモビッチ将軍は家族を伴っての国外脱出だ。

そして誰もいなくなった……

残されたのは休戦の権限を押し付けられた、最高司令官になったばかりのカラファトビッチ将軍一人だけ。

酷ぇ。

自分だったらこんな処遇は耐えられない。自分も家族を連れてさっさと国外に逃げ出しただろう。

それにしても、良い風に言えば信頼できる部下に事後を託したという事になるのかもしれないが、それでも一国の命運を左右する大事な決断を首相が部下に丸投げですか。

しかも国民には徹底抗戦を呼びかけておいて。

シモビッチ将軍よ、敢えて言おう!

ユーゴスラビア王国軍人としての名誉と誇りはどこにある!?

国外脱出して亡命政府を樹立なんてものは、ぺテル国王と他の閣僚がいればできる筈だろう。それが率先して家族を連れて国外脱出とは……

厄介で重大な仕事を押し付けられて残された哀れなカラファトビッチ将軍は直ぐにドイツ軍と休戦交渉に入る。

だが、困った事に政府を代表して降伏文書に調印する政治家は誰もいない。みんな手に手を取って国外へ逃げたから。

ここでカラファトビッチ将軍が白羽の矢をたてたのが、ツィンツァル・マルコビッチ前外相だ。

シモビッチ将軍がクーデターを起こした時に、日独伊三国同盟に賛成し国の代表の一人として条約に調印したという事で、外相の座を追われたどころか逮捕され身柄を拘束されていた人物だ。

つまりは元政治家で政治犯扱いの人。

しかも身柄を逮捕拘禁されていたために、何とユーゴスラビアが戦争をしている事も知らなかったそうだ。

そういう人を引っ張り出してユーゴスラビア政府の代表として降伏文書に調印させたのだ。

政府に逮捕されていた人が、その政府の代表として調印!

そんな話は前代未聞だ。

何というか開いた口が塞がらない。

責任って何?と言いたくなる。

史実では国外に脱出したユーゴスラビア政府の人達はイギリスで亡命政権を作るわけだけど、戦争が終わりドイツからユーゴスラビアが解放されても、政権の座に帰りつく事ができなかったのも当たり前の話かもしれない。

ちなみにドイツ軍側はそんな事情とは知らず、シモビッチ政権が倒れ、新政府が降伏文書に調印したと思っているという状況。

まぁドイツ軍が事情を知ったところで気にも留めないかもしれないが。


こうしてユーゴスラビア王国は敗北した。

だが、しかし、史実通りならば、その敗北を喫したユーゴスラビアの大地で、一人の男が立ち上がる筈だ。

その男の名はチトー。

後世において「二十世紀最後の革命家」と呼ばれる男だ。



◯4月18日、史実通りギリシャのコリシス首相が自殺した。

ギリシャの命運を悲観しての事だ。

一国の首相が、まだ戦争中に自ら命を絶つとは……

それだけギリシャは危ない状況だ。


元々はギリシャの防衛戦略が最初から問題だらけだった。

ギリシャ軍の精鋭であり主力である第1軍はアルバニアに逆進攻中だった。

ドイツ軍の侵攻が迫る中、アルバニアの占領地を放棄してギリシャ国内に撤退する案も出たが、一度得た土地を手放すのは難しい。兵士の士気も落ちるとして撤退しなかった。

ギリシャ第2軍の主力はギリシャとブルガリア国境沿いに構築されたマケドニア地方を守るメタクサス線という防衛陣地で配備についていた。

イギリス軍はエーゲ海とユーゴスラビア国境間でアリアクモン線という防衛陣地を構築中だった。

当初はマケドニア地方を放棄する案が採用されメタクサス線も放棄する筈だった。

マケドニア地方は国境に沿った細長い地域であり、メタクサス線で防衛するにしても兵力不足は明らかだったからだ。

だから当初はマケドニア地方を放棄してエーゲ海とユーゴスラビア国境を繋ぐ約100キロの比較的狭い地域でアリアクモン線という防衛陣地を構築し、そこでドイツ軍を防ぐという案がイギリスとギリシャで同意された。

だが、しかし、後になってからギリシャ内部で異論が出た。

マケドニア地方を、国土を放棄する事はできないという感情論だ。

その結果、ギリシャ軍はメタクサス線を防衛し、イギリス軍はアリアクモン線を構築するという、ちぐはぐな事になってしまった。

ちなみにイギリス軍がアリアクモン線の約100キロの構築に出した費用は約600万ポンド。

フランスのマジノ線は約300キロで構築費用はポンドだと約9000万ポンドだ。

イギリスがあまり資金を出していないのがわかるが、まぁこの状況なら仕方がない。


それはともかくドイツ軍の侵攻が始まると、ギリシャ戦線は脆かった。

何せメタクサス線は兵力不足ですぐに突破される。ドイツ軍の侵攻3日目の9日にはマケドニア地方最大で重要な港湾都市テッサロニキがドイツ軍に占領された。

ドイツ軍はアルバニアとブルガリアの間のユーゴスラビア国境からも侵攻したが、ここには僅かな兵力しか配備されていなかった。

そのあたりは西方戦役でドイツ軍がフランスのアルデンヌの森を突破した事に似ている。

その結果、アルバニアに逆進行中のギリシャ第1軍は背後に回り込まれる事になる。

イギリス軍が構築中のアリアクモン線も背後に回り込まれた事になる。

イギリス軍はアリアクモン線を放棄し、16日には約50キロ後方のオリンポス山に戦線を敷いた。

そんなギリシャ戦線がもう総崩れ状態になり北ギリシャを殆ど失った18日にコリシス首相は自殺したのだ。

史実通りギリシャ戦線は早くも最悪の状態だ。



◯4月21日、史実通りギリシャの戦線は悪化を続けている。

既にオリンポス山の陣地は放棄され更に160キロも後方のテルモピレーに防衛線が敷いている。

しかし、ここで長く防ぐつもりはない筈だ。

史実通りならイギリスもギリシャ政府もギリシャ本土はおろかペロポネソス半島さえも放棄するつもりだからだ。

逃げる決断が早い。



◯4月23日、史実通りギリシャの状況は更に悪化している。

アルバニアに逆侵攻していたギリシャ第1軍はドイツ軍に包囲され降伏した。

ギリシャ政府とゲオルギオス国王は早くもクレタ島へ撤退した。

もうギリシャ本土から避難したのか、行動が早い。



◯4月24日、史実通りギリシャ戦線では、テルモピレー防衛線で連合軍は抵抗しているが、既にその裏でクレタ島への海路撤退が始まっている筈だ。

史実ではこの日だけで1万人以上がクレタ島に撤退している。

この日より5月1日までにクレタ島には約5万人が撤退した。

脱出できた者は良かったが、残された者は……



◯4月27日、史実通りテルモピレー防衛線を突破し更にテーベの最終防衛線をも突破したドイツ軍は、この日、ギリシャの首都アテネに入城した。

ギリシャの敗北だ。


それにしてもユーゴスラビアは11日で敗北し、ギリシャはまだ島々が残っているとは言えギリシャ本土は21日で敗北した。

あまりにも脆すぎる終わり方だった。


 ただ、ユーゴスラビア、ギリシャを制圧しバルカン方面は安全になったもののドイツのソ連進攻作戦「バルバロッサ作戦」には遅れが生じる事となった。

元々は5月15日に「バルバロッサ作戦」の開始を予定していたものが6月22日まで延期されたのだ。

後世、この事をドイツ軍がソ連のモスクワ攻略に失敗した理由にあげる人もいる。

約1ヵ月早く、作戦が始められていれば冬が来る前にモスクワを攻略できたかもしれないというわけだ。

だが、陸軍参謀総長だったハルダー将軍は、この事について戦後に、5月は天候の条件が悪くて結局は6月になるまで侵攻は不可能だったと語っている。

実際、天候はかなり悪かったらしくグーデリアン将軍の回想録の中にも、この年の春は例年にない雨天続きで、ドイツとソ連の国境になっているブーク川は5月には洪水に見舞われ、その周辺一帯は泥の海と化して通行不能だったと記されている。

恐らくユーゴスラビア、ギリシャを制圧するバルカン作戦をしなかったとしても結局はハルダー将軍の言う通り「バルバロッサ作戦」の開始は6月になったのではないだろうか。



◯4月25、史実通り北アフリカ戦線でドイツ・アフリカ軍団はトブルク要塞を包囲しながら、別働隊はエジプト国境にまで達した。

早い! もうエジプト国境か。

これでもっと戦力さえあればねぇ。





〖5月〗


〖5月の国際情勢として……〗


◯5月1日、史実通り親独政権となったイラク政府は、国内にあるイギリス軍基地をイラク軍に攻撃させた。

また、ドイツ軍に援軍を要請している。ヒトラー総統はその要請に応え援軍を派遣する予定だ。

史実通りとは言え面白くなって来た!



◯5月3日、史実通り東アフリカ・イタリア軍総司令官にしてイタリア王族のアオスタ公が引き籠る北部の山岳地帯アムバ・アラギの防衛陣地にイギリス軍が攻勢を開始した。

アムバ・アラギは険しい丘陵が多く、また洞窟なども多く、守るに易く攻めるに難い地域だ。

これで補給と援軍さえあれば……



◯5月5日、史実通りイギリスに亡命していた旧エチオピア帝国のハイレ・セラシエ皇帝がイギリス軍に伴われて首都アジス・アベバに帰還した。

白馬に乗ってのご帰還だ。

きっとハイレ・セラシエ皇帝はこう言ったに違いない。

「再び帝位に就くために、帝国の理想を成し遂げるために、エチオピアよ! 私は帰って来た!!」

間違いない! 自分にはわかる!

何故なら名台詞というものは形を変え、国を超え、時代を超え、次元を超えて語られるものだからだ!



◯5月6日、史実通り早くもイギリス軍はイラクに増援を送り込んで来た。

だが、それは北アフリカ戦線への援軍が減るという事でもある。


この日は他に、史実通りイギリスが複数の輸送船に強力な護衛を付けて地中海を押し通し、エジプトへ補給を送ろうという「タイガー作戦」を実行した。この船団は「タイガー船団」と呼ばれる事もある。

史実通りなら途中で失われるのは1隻で、12日までに残る全船がエジプトに到着するだろう。

チャーチル首相の強引な作戦だが、有効な手でもある。やってくれる。



◯5月9日、史実通り「泰・仏印国境紛争」において日本の仲介により「東京条約」が結ばれ和平が成立した。タイがかつて奪われた領土の多くを取り戻す結果となりタイの勝利と言える。

外務省の皆さん、ご苦労さん!



◯5月10日、史実通りドイツのナンバー3のルドルフ・ヘス副総統がイギリスに飛んだ。

独断で平和交渉するためだ。

寝耳に水でヒトラー総統も驚いたらしい。

しかし、何というかルドルフ・ヘスの考えは甘すぎた。

すぐにドイツに戻れると思っていたらしい。だが史実ではそのまま捕まって釈放される事はなく生涯を刑務所で過ごす事になる。

ルドルフ・ヘスがイギリスに飛んだ時、子供はまだ4歳だったそうだ。可愛い盛りに会えなくなるなんて不憫ではある。これも判断を誤ったのだから自業自得と言えるのだろうが……

いや、待てよ。

今回の歴史では枢軸陣営が勝利するだろう。

そうなるとルドルフ・ヘスの身柄についても処遇が変って来るかもしれない。

まぁ日本には直接関係の無い話ではあるが。



◯5月11日、史実通りドイツ空軍の先遣隊がイラク北部のモース―ルに到着した。

更にその数日後にはドイツ空軍の戦闘機中隊と爆撃中隊が到着する。

だが、直ぐにイギリス空軍に叩かれ壊滅した。

数が少なすぎたのだ。

イタリア軍も戦闘機隊を送り込んだが、どうにもならなかった。

ドイツ陸軍ではイラクに部隊を派遣する予定で準備に入っているが、まだ派遣するには時間がかかる。

ちなみにドイツとイタリアの空軍部隊はイラクへはビシー政府側についたフランス領シリアを通過して入っている。

これでシリアのフランス軍が積極的に枢軸軍としてイラクに進攻してくれれば面白くなるのだが……

既にイラク軍はイギリス軍の反撃に敗退を始めている。

急げドイツ軍、イラク戦線は風雲急を告げている!



◯5月13日、史実通りドイツで、ルドルフ・ヘスが消えた後任人事の影響でマルチン・ボルマンが党務相に就任した。

マルチン・ボルマン……史実ではドイツ敗戦直後に行方不明となった事から、その生存と逃亡について後世に色々と噂された男だ。

ドイツ帝国影の実力者とか、ヒトラー総統を陰で操った男なんて噂もある。

後世の小説ではナチスの残党が出て来るような作品で黒幕として描かれる事もある。

一度会ってみたいものだ。



◯5月15日、史実通り北アフリカ戦線でイギリス軍が包囲されているトブルク要塞を救援するためにエジプトから攻勢作戦に出た。「ブレヴィティー作戦」だ。

イギリス中東方面軍総司令官ウェーベル大将の反撃が始まったのだ。

だが、しかし……

この作戦は直ぐにドイツ軍の反撃に遭い失敗する。


また、この日は史実通り独立したクロアチア国の国王にイタリアの王族の一人、スポレト公爵がなる事が発表され、イタリアの王宮ではイタリアの王族が参集し戴冠式が行われた。

クロアチア国の指導者アンテ・パベリッチも式に参加し祝辞を述べている。

尤も自らの政権基盤をイタリアの力を借りて強化する必要があるのだから、それは祝辞の一つも述べるだろう。

だが、これ選ばれたスポレト公爵にしてみれば迷惑でしかない。

国王とは言ってもただのお飾りで実権は何もなく、イタリア人だからクロアチア人の中には自分達の国王に相応しくないと反発する者も当然出て来る。

実際、史実では反発する者達からの暗殺を恐れたスポレト公爵は一度もクロアチア国の土を踏む事は無かった。

ついでに言えば、このスポレト公爵は、危機に瀕している東アフリカ・イタリア軍総司令官アオスタ公の弟だ。

兄弟揃って厄介な事態になったわけだ。王族も大変だね。



◯5月19日、史実通りイタリア領東アフリカにて、アムバ・アラギ山で防衛戦を展開していた東アフリカ・イタリア軍総司令官にしてイタリア王族のアオスタ公が降伏した。

イギリス軍の攻撃が開始されてから16日目。

援軍も無く、補給も無しでは、よく頑張った方だろう。

29万人いたイタリア領東アフリカ・イタリア派遣軍も既に21万人が捕虜になるか戦死して失われている。

残るは8万人。

大きな拠点は首都アディス・アベバ南西のジンマ方面と、北西のゴンダル方面だけで、あとは小さな取り残された拠点が幾つかあるだけだ。

時間の問題?

いやいや、これからですよ。これから。



◯5月20日、史実通り地中海のクレタ島にドイツ軍が降下部隊による空挺攻撃を開始した。

精鋭ドイツ軍降下部隊、戦いの時来たる!


この日は他に大西洋にてアメリカ商船ロビン・ムーアがドイツのUボートにより撃沈された。

ルーズベルト大統領はこの事件について「恐喝的行為だ」とか「我々は決して屈しない」と述べた。

連合国に肩入れしておいて何を今更言うのやら。

厳密に国際法の中立を解釈すれば、既に違反しているのはアメリカだろう。

まぁ日中戦争をしている日本もその恩恵にあずかっているからあまり強くは言えんがね。



◯5月24日、史実通り大西洋で「デンマーク海峡海戦」が発生した。

ドイツ海軍の戦艦ビスマルクと巡洋艦プリンツ・オイゲンが通商破壊作戦のために5月18日にドイツを出撃したが、デンマーク海峡でイギリス艦隊に発見されたのだ。

しかし、イギリスの巡洋戦艦フッドを一撃で撃沈した。

良いぞドイツ海軍! その調子だ!



◯5月27日、史実通りドイツの戦艦ビスマルクがイギリス艦隊に撃沈された。

何とも残念というか運が無かった。

巡洋艦プリンツ・オイゲンは無事に6月1日にフランスのブレスト港に逃げ込めたのが救いだ。

まぁ戦う以上は勝つ時もあれば負ける時もある。

ドイツ海軍もまだまだこれからですな。



◯5月30日、史実通りイラクのラシッド・アリ首相ら親独政権の者達が、イギリス軍との戦いを諦めペルシャに国外脱出した。

残念だ。実に残念だ。






〖6月〗


●海軍軍令部に参謀達を派遣して、開戦時の真珠湾攻撃計画を採用するよう強く要望させた。

早く認めろ軍令部。


●史実通り、昨年6月から行われていた「日蘭会商」が打ち切られた。

結局、日本の思い通りにはならなかった。

日本側があまりにも強圧的過ぎたせいもある。

何せ蘭印植民地政府は交渉の過程において、満州のような地位になるつもりはないとまで言っているのだから、どれだけ日本が強気に出たかはわかるだろう。

まぁ、交渉の裏ではアメリカも動いていて、日本の要求を呑んだ場合、蘭印植民地政府に武器の売却を中止するという圧力をかけていた事実もある。

裏でこそこそと、せこいぞルーズベルト大統領。



〖6月の国際情勢として……〗


◯6月1日、史実通りイギリス軍がイラクの首都バグダットに入城した。

イラク軍は敗北した。

ドイツ陸軍は間に合わなかった。

イラク軍には4個師団もあったが、イギリス軍の1個師団相当の寄せ集め部隊によって敗北してしまった。

これだからイラク軍は……

後世においても中東戦争に派遣したイラク機甲部隊はイスラエル軍に簡単に壊滅されているし、イラン・イラク戦争の時は、イラン革命直後で力の衰えたイラン軍を倒せなかった。

その後の湾岸戦争、イラク戦争でも弱かった。

もう、ここまで来るとイラク軍の弱さは伝統だね。

残念だ。何とも残念だ。

もう少しイラク軍の抗戦が続いてくれればドイツ陸軍の援軍が派遣されたのに。

ちなみに史実ではイラクに派遣予定だったドイツ陸軍部隊は北アフリカ戦線に送られる事になる。

今回の歴史でも同様だろう。


このイラクでの戦いについてはチャーチル首相がその回想録で触れている。

もし、ドイツが空輸部隊を使えばシリア、イラク、ぺルシャ(現在のイラン)を押さえる事ができたかもしれず、エジプトとスエズ運河も脅威に晒されただろうというもので、エジプトについては反乱の可能性も指摘している。

更には日本との連結の可能性にも触れている。

そして「(彼ヒトラーは中東においてわずかの費用によって大きな獲物を得る機会を捨ててしまった)」と結んでいる。


そうなのだよ。チャーチル首相の言う通りなのだよ。

実際に成功したかどうかはともかく、イギリスも北アフリカ戦線、東アフリカ戦線、ギリシャ戦線を抱えており、この時期の中東に大きなイギリス軍兵力はいなかったのだ。

何せ、北アフリカ戦線から部隊を引き抜かないと、ギリシャにも東アフリカにも部隊を送れなかったくらいだ。

ついでに言うとギリシャ戦線も東アフリカ戦線もイギリス軍が援軍を送ってもまだ敵の方が兵力が上という状況だ。

せっかくドイツはビシー政府を使ってシリアを利用できるところまで持って行ったのに、実に惜しい事をした。

イラクを制圧する事が最終的に可能かどうかは疑わしい部分はあるが、それでもドイツ陸軍を少数送り込んだだけでもイギリス軍は大きな負担を更に負う事になっただろう事は間違いないだろう。

ヒトラー総統の目がソ連ではなく、もう少しだけ、この方面に向けられていれば、歴史の展開も少しは変わったかもしれない。

しかし、今となってはもう遅い。残念な話だ。


また、この日は史実通りドイツ軍によりクレタ島が制圧された。

ドイツ軍の降下部隊は3割を失ったものの勝利した。

しかし、その被害の大きさゆえにヒトラー総統は降下部隊の可能性を終わったものとみなす事になる。

逆に連合軍は降下部隊に大きな役割を期待する事になる。


ヒトラー総統、降下部隊を見限るのが早いよ。

もっとよくクレタ島の戦いを分析しようよ。

被害が大きくなったのは、重火器が使えなかったからで、それは重火器を積んだ輸送船がイギリス艦隊に沈められたからだよ。

重火器さえ到着していれば被害はもっと少なかった筈だよ。

そして重火器を積んだ輸送船の護衛に失敗したのは、やっぱりイタリア艦隊。

「どこででも、足を引っ張る、イタリア軍」字余り。



◯6月3日、史実通り、イラクにおいてイギリス軍が北部のドイツ軍の拠点となっていたモースールを占領した。

イラクに派遣されていたドイツ軍は完全に壊滅しイギリス軍の捕虜となった。

残念!



◯6月4日、史実通りイラクにおいて親英政権が樹立された。

あっそう。所詮は傀儡政権に過ぎんのだろう。


また、この日は史実通りドイツの元皇帝ウィルヘルム二世が亡くなった。

第一次世界大戦で敗北を喫した元皇帝陛下は、ドイツの勢力圏拡大を喜んでいたそうだ。

良かったね、安らかに眠って下さい。



◯6月8日、史実通りイギリス軍がヨルダン方面からフランス領シリアに侵攻を開始した。

イギリス軍はパレスチナからレバノンにも侵攻している。

翌日にはシリアに配置されていたフランス駆逐艦2隻とイギリス駆逐艦4隻による海戦も発生した。

ここにドイツが手を出せればね。面白くなるのだが……



◯6月15日、史実通り北アフリカ戦線でイギリス軍が「バトルアクス作戦」を開始した。

再び攻勢作戦を開始したのだ。

「タイガー作戦」で238両の戦車が届いた事が自信の源になっている。

それだけで足りるのかな? くっくっくっ。


また、この日はフランス領シリアにおいて、侵攻して来たイギリス軍の一隊にフランス軍が反撃に打って出た。しかもそれは成功した!

フランス軍がイギリス軍に勝つなんて史実通りとは言え、なかなか信じ難いものがある。



◯6月17日、史実通り北アフリカ戦線でイギリス軍が開始した「バトルアクス作戦」について、失敗した事をイギリス中東方面軍総司令官ウェーベル大将がチャーチル首相に報告した。

作戦開始からたったの2日目! 諦めるのが早いねぇ。

この「バトルアクス作戦」の後からロンメル将軍はイギリス軍将兵に「砂漠のキツネ」と呼ばれる事になる。

それにウェーベル大将は更迭され、後任はオーキンレック大将がなる事になる。



◯6月19日、史実通りフランス領シリアでまたもや局地的にフランス軍がイギリス軍の1個大隊を壊滅させた。

まぁ壊滅したのはインド軍部隊だったから不思議ではないけれど。

だが、イギリス軍の侵攻は止まらない。

どこまでシリア軍は持ち堪えられるか……



◯6月21日、史実通りイタリア領東アフリカで首都アディス・アベバの南西に位置するジンマで必死の防衛戦を行っていたイタリア軍が敗北した。

東アフリカ・イタリア派遣軍は東アフリカ領全域に兵力を分散し過ぎた結果、イギリス軍に恰好の各個撃破の機会を与えてしまっている。

何とも残念な状況だ。

だが、これで東アフリカ・イタリア派遣軍全部隊の戦いが終わったわけではない。

ジンマで敗北したものの指揮していたガッゼラ将軍は西部地方に脱出し、まだ戦う気だ。

イタリア軍の将軍なのにだ!

何という頑張りだろう!

それに、まだ北西の拠点ゴンダルではナージ将軍が抵抗を続けている。

ガッゼラ将軍とナージ将軍にはできるだけ抵抗する事が命じられている。

長く抵抗する事によりイギリス軍を東アフリカに拘束し他の戦線に回されないようにするためだ。

ここからだ。

東アフリカ・イタリア派遣軍の戦いは、まだまだ、これからだ!

いや、本気でここからですよ。


また、この日は史実通りフランス領シリアでダマスカスがイギリス軍に占領された。

孤立無援の戦いで流石にフランス軍も限界が来ている。



◯6月22日、史実通りドイツはソ連に対し侵攻を開始した。

「バルバロッサ作戦」だ。

300万人の兵士と3300両の戦車を使用したドイツの運命を決する一大作戦だ。

果たして今回の歴史では成功するか?


ところで、このドイツ軍によるソ連侵攻作戦は二正面作戦である事から後世において、最初から成功する筈が無かったとか、ナポレオンの二の舞になるのは目に見えていたという意見もある。

だが、当時の各国の軍上層部ではドイツ軍が短期間に勝利するという予想がたてらていたのが実情だ。

例えばイギリス軍では3週間から6週間、アメリカ軍では最短1ヵ月から最長3ヵ月という報告書がルーズベルト大統領に出されている。日本でも陸軍参謀本部は2ヵ月から3ヵ月と見ていた。

アメリカ、イギリス、日本は長くても9月にはドイツが勝利すると見ていたのだ。

ポーランド戦、フランス戦、ユーゴスラビア、ギリシャを降したバルカン戦での短期間に勝利をあげたドイツ軍の電撃戦はそれだけ評価されるようになっていた。

結局、そうした予想は外れる事になったが……


なお史実では6月11日にドイツ国防軍総司令部は「バルバロッサ作戦」終了後の計画を作成している。

それにはソ連の占領地域には約60個師団を配置するとしている。

ソ連と言ってもドイツとしてはソ連の中心部だけでで満足しており、ウラル山脈より東に進出する気は無い。

そしてコーカサス地方からイランに進出し更に中近東に進出。

リビアからもエジプトへ進出。

ジブラルタルも攻略。

また軍備の増強はこの時点では陸軍よりも空軍、海軍に重点を置くつもりだ。

こうして北アフリカ、中近東を制しイギリスに打撃を与えた後に、増強された空軍、海軍の戦力を使いイギリス本土上陸作戦を行おうというものだ。

もし「バルバロッサ作戦」が成功していれば、世界はどうなったのやら……

まぁ今回の歴史でも今年1941は変わらないだろうが、来年の1942年からは東部戦線の歴史も変わると思うがね。


この日は他に史実通りイタリアもソ連に宣戦布告した。

ご苦労さん。


◯6月24日、史実通りアメリカのルーズベルト大統領が記者会見でソ連への援助を行うと発表した。

国内での反発も大きいだろうにね。



◯6月26日、史実通りフィンランドがソ連に対し宣戦布告した。

「冬戦争」での借りを返すつもりだ。

「取られたものは物は取り戻せ!」だね。



◯6月27日、史実通りハンガリーがソ連に対し宣戦布告した。

ドイツのご機嫌をとるのも大変だね。



〖7月〗

●7月23日、史実通りアメリカのウェルズ国務長官が野村特命全権大使に日本軍の南仏印進駐はアメリカの資源確保と安全保障に有害だと警告して来た。

日本軍の動きは筒抜けという事だろう。


●7月26日、史実通り今度はルーズベルト大統領が野村特命全権大使に日本軍の南仏印進駐が行われれば日本に対する石油禁輸も有り得るという事を伝えて来た。

日本ではこれを単なる脅しととった事が大きな間違いなんだが……


●7月28日、史実通り日本軍による南仏印進駐が開始された。アメリカに対する一線を完全に越えた。

もうアメリカとの戦争は不可避だ。

史実でも今回の歴史でも陛下はこの進駐に反対だった。

陛下は史実でも今回の歴史でも海南島に進駐部隊が集結した頃、蓮沼武官長を通じて東条陸軍大臣に進駐を止めるよう言ったが、東条陸軍大臣は承知しなかったそうだ。

「君側の奸を討つ」という言葉が頭に浮かんだ。

どいつもこいつも政府の奴らは陛下のご意思を蔑ろにする。

一度は消した連合艦隊の兵力を使っての「粛清」という考えがまた浮かんだ。

実行はしないがね。それにしても腹が立つ。


それにしても現代日本において太平洋戦争の原因が語られる時、昔から根強く主張されるものに経済的要因をあげるものが幾つかある。

中国の市場をめぐる日本とアメリカの対立が戦争を齎したという説。

大恐慌から抜け出すためにアメリカが戦争を望んだという説。

他にもバリーエーションはあるが、そうした説が現代日本の巷には溢れている。

だが、史実におけるこの時代のアメリカと日本についてきちんと分析していくと、そうした説は成り立たない。

そうした説は自説に都合の良い部分にだけスポットライトを当て、自説にあてはまらない『不都合な真実』については無視している。

困ったものだ。

確かにアメリカと日本はアジアの有り方について対立していた。

1932年の満州国の成立にしてもアメリカは反対の立場をとり承認しなかった。

だが、この時点でアメリカは対日経済制裁を行う事はしなかった。

1937年に日中戦争が発生した時も、アメリカはすぐに日本の敵に回る事もしなかった。

また中国に味方する事もしなかった。

それどころか中国からの日本との調停役になって欲しいという要請を拒否している。

さらには 日中戦争が発生した事を受けて開催された九カ国条約会議の席上で、中国が提案した日本への経済制裁についてアメリカは賛成しなかった。

それは何故か?

日中戦争の発生により石油や鋼鉄などの輸出が増えたからだ。

特に日本への鋼鉄の輸出は前年比の3倍以上に急増している。

つまり「戦争特需」の発生だ。

太平洋戦争後の歴史において日本にも朝鮮戦争発生における「朝鮮特需」やベトナム戦争発生における「ベトナム特需」という「戦争特需」が発生し、戦後の高度経済成長の一助になったと言われているが、そうした「戦争特需」が日中戦争の発生でも生じたのだ。

アメリカは日中戦争の発生により生じたこの「特需」を利用した。

日本と中国の双方に物資を売却し利益を得たのだ。

だから中国が要請した日本との調停役を断り、九カ国条約会議で日本への経済制裁にも反対したのだ。

口では戦争を批判し日本に対しても批判を行っているが日本への輸出に制限をする事は無かった。

経済関係の文献の中には、この日中戦争で生じた「戦争特需」がアメリカが大恐慌から抜け出す一助になったとしているものもある。


その状況が変化したのは、日中戦争で日本が中国に勝利するため戦略爆撃を行い始めたからだ。

当時のアメリカは中国に莫大な投資を行っておりその現地での資産も多かった。

それが日本の戦略爆撃で多大な被害を受ける。

アメリカは日本に戦略爆撃を中止するよう幾度となく求めるが、日本はそれを撥ね付けた。

しかも戦略爆撃により被害を被ったアメリカの資産への賠償も行わない。

だからアメリカは怒り、日本へ徐々に経済制裁を始め、中国への肩入れを開始した。

アメリカが中国へ支援を開始したのは日中戦争が開始されて1年半も後だ。


こうした事を考えればアメリカが中国市場をめぐって日本と対立していたから戦争が起きたなどという説がいかに的を外しているかわかるだろう。

アメリカにとっては日本も市場であり貿易相手でありお客様だったのだ。

それも日中戦争の発生初期にはとても良いお客様だったのだ。

日中戦争開始前の時点でもアメリカの輸出における割合は日本の方が中国よりも大きかったという事実もある。


低迷した経済を立て直し不況から脱するために日本との戦争を望んだという説も的を外している。

戦争が開始されたのは1941年12月だが、その戦争前にアメリカは好景気に入っていた。

日中戦争における「戦争特需」は日本との関係悪化で冷え込んでいく。

しかし1939年にドイツが起こした第二次世界大戦の発生で新たに大きな「戦争特需」が発生したのだ。

ドイツと戦うイギリスを中心としたイギリス連邦を構成する各国からの兵器や物資の受注が大幅に増えたのだ。


アメリカ経済の具体的な数字を示そう。

世界大恐慌の始まりの年、1929年のアメリカのGDPは約1014億ドル。輸出は約52億ドル。失業率は3.1%。

世界大恐慌により最も経済が低迷してい頃、1933年のアメリカのGDPは約683億ドル。輸出は約16億ドル。失業率は25.2%。

日中戦争勃発翌年の1938年のアメリカのGDPは約1037億ドル。輸出は約31億ドル。失業率は16.5%。

第二次世界大戦勃発翌年の1940年のアメリカのGDPは約1130億ドル。輸出は約40億ドル。失業率は13.9%。

このように戦争の発生で輸出は伸び、失業率も大幅に改善されてきていた。

緊迫する世界情勢にアメリカ政府の軍備増強案も議会を通り、1940年には「軍備増強」と「戦争特需」でまさにアメリカは好景気になって来ていたのだ。

そしてそのままいけば「軍備増強」と増え続ける「戦争特需」で好景気は更に続き軍事的にも経済的にも世界はアメリカの一人勝ちの状況になっていったろう。

自国が戦争をしなくても経済は発展する。戦後の日本もそうだった。

つまりアメリカが景気回復のためにわざわざ日本と戦争をする必要は無かった。

景気回復のために日本との戦争が必要だったという人達が、その証拠として出してくる数字は大抵がアメリカ経済が最低の頃の1933年頃の数字だ。そういう人達は決して1940年頃の数字は出さない。やれやれだ。

そもそもアメリカが景気回復のために日本との戦争が必要と言うのなら、1937年12月に発生した日本軍機によるアメリカ軍艦を攻撃した事件、通称「パネー号事件」を利用していた筈だろう。

この事件が発生した時はアメリカ政府内部から日本に宣戦布告して戦争するべきだという声がでていたくらいなのだ。

そもそもアメリカの第二次世界大戦における戦費はどうやって賄われたか。

それは「国債」だ。つまり国による借金だ。

「戦時国債」が大量に発行されてそれで戦費が賄われた。

戦争前の1940年のアメリカの国債残高は約430億ドルだった。

戦争が終了した1945年のアメリカの国債残高は約2600億ドルにも上った。

当時のGDP比で約120%にも及ぶ借金だ。

第二次世界大戦に突入し確かにアメリカの経済は軍需産業を中心にさらに好調となった。

しかし、それは莫大な借金を将来に回しての事に過ぎなかったのだ。


なお、アメリカ国民は戦争は望んでいなかったが、ルーズベルト大統領が日本との戦争を望み経済制裁で日本を挑発したという説もある。

これも正しいとは言えない。

確かにアメリカ国民は戦争に否定的だった。

「孤立主義」とか「モンロー主義」という対外的に関わりを抑制する伝統的国策もあった。

だが、必ずしも全面的に他国に関わるのを否定していたわけではない。

1941年8月1日に対日石油全面禁輸が行われた後に、アメリカの新聞ニューヨークタイム◯紙に、あるアンケート調査の結果が載せられた。

そのアンケートの質問は「アメリカは戦争の危険を冒しても日本の膨張政策に歯止めをかけるべきですか?」というものだった。

このアンケートでは51%の人が「イエス」と回答している。

つまり、満州の次は中国、中国の次は北仏印、北仏印の次は南仏印と日本の軍事進出は止まらない。

そうした日本の動きにアメリカの国民も約半数が危機感を抱いていたのだ。危険視していたのだ。

もう、この時点で「ルーズベルト大統領だけが…」などとは言えなくなっていたのだ。


現代日本では太平洋戦争の開戦についてアメリカの対日経済制裁とハル・ノートだけを取り上げ、日本はやむをえずアメリカに戦いを挑んだのであり、日本こそ戦争に追い込まれた被害者だとする主張もある。経済制裁とハル・ノートの部分だけを見ればそう見えるだろう。

だが、それは対日経済制裁が何故始まったのか、何故ハル・ノートを渡すまでになるほど両国の関係が悪化したのか、その前段階における過程を無視した主張だ。

それは自らの主張に不都合な事実から目を背けているに過ぎない。


歴史を真っ直ぐに見れば、史実において日本が中国におけるアメリカの資産に被害を与え、更にアジアで膨張主義的軍事行動を止めなかった事からルーズベルト大統領が日本を押さえ込むために経済的圧力を徐々にかけ始めたという事実は明らかだ。

日本軍の南仏印進駐以後は、もはやアメリカ政府も日本への戦争に躊躇いを見せず、日本に最初の一発を撃たせ、それを大義名分に戦争に突入しようとした事が明らかだ。


南仏印進駐前までなら日米開戦を避ける事は可能だったろう。

もし、日中戦争初期にアメリカの抗議を受け入れ戦略爆撃を止めていたら。

もし、中国で破壊したアメリカの資産の補償をすぐに行っていたら。

もし、大東亜共栄圏という日本の植民地拡大政策と捉えられる政策を発表をしなかったら。

アメリカが中国を支援する事は無かったかもしれない。

そして更に続ければ、

もし、日独伊三国同盟を結ばなければ。

もし、北仏印に進駐しなければ。

もし、南仏印に進駐しなければ。

アメリカも経済的圧力を強める事は無く、関係が極端に悪化する事も無く戦争になる事は無かったかもしれない。


だが、今更言っても仕方の無い事だ、

既に史実も今回の歴史の流れも決まった。

戦争だ。

もうこの流れは止められない。



〖7月の国際情勢として……〗


◯7月1日、史実通りフランス領シリアにイラク方面から新たなイギリス軍部隊が侵攻した。

決まったね。孤立無援のフランス軍にはどうしようもない戦況だ。


◯7月2日、史実通りクロアチア政府は「独ソ戦」でのドイツに協力するためクロアチア国内で義勇兵への志願を呼びかけた。政府としては4000人ほどの志願者を見込んでいたが志願した人数は1万人。

約4000人が採用され第369クロアチア歩兵連隊としてドイツ軍で戦う事になる。

クロアチアはあてになるのですよ。クロアチアは。


ちなみにユーゴスラビアは国家としては解体された。

枢軸陣営のドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニアにそれぞれ領土の一部が割譲され、クロアチアは独立。

残ったセルビアを中心とする地域には「セルビア救国政府」というドイツの傀儡政権ができている。

なお形の上では独立した事になったのがモンテネグロだ。

これはイタリア王家の要請によるもの。

イタリア国王の正妃であるエレナ王妃はモンテネグロの王女だった人。

イタリア王家に嫁いで来た18年後に発生した第一次世界大戦により国家としてのモンテネグロは消滅しユーゴスラビア王国の一部となってしまう。

この時、モンテネグロ国王でありエレナ王妃の父だったニコラ1世はフランスに亡命している。

ユーゴスラビア王国がドイツに敗北した時には既に二コラ1世は亡くなって久しかったがエレナ王妃は祖国の復活を望んだというお話。

実家の、お家の再興のために頑張る王妃!

いいですなぁ応援してあげたくなりますなぁ。


それにしてもアルバニアは……イタリアの傀儡政権となった事から望んだわけでもない戦争に巻き込まれたけど、結局は領土が増えている。転んでもタダでは起きない? いや棚から牡丹餅?



◯7月3日、史実通りイタリア領東アフリカの西部において抵抗を続けていたイタリア軍のガッゼラ将軍が遂に降伏した。これにて残るはゴンダル方面のみ。

何、まだまだですよ。



◯7月9日、史実通りムッソリーニ首相は「独ソ戦」を行っているドイツ軍に援軍を送った!

「ロシア遠征隊」と名付けられたイタリア第35軍団6万人が東部戦線に出発した!

北アフリカ戦線さえ持て余しているのに何やってますのムッソリーニ首相。



◯7月11日、史実通りフランス領シリアでシリア・フランス軍総司令官ダンツ将軍が降伏した。

ビシー政権のペタン元帥はダンツ将軍に降伏は許さなかったが、ダンツ将軍は独断での降伏を決意した。

もう、戦局は決定的だからね。

それにしてもペタン元帥め、ドイツとの戦いではパリが占領されてもいないうちからドイツ軍との休戦を主張していたのに、植民地で孤立し苦境にある部下の降伏を許さないとは。

ドイツの顔色を窺わなければならない事情があるとは言え、イギリスとの戦いだから無駄に張り切っているとしか思えない。



◯7月末、史実通りイタリア領東アフリカのゴンダル方面で抗戦を続けているナージ将軍は、未だ健在でイギリス軍の攻撃を凌いでいる。

あのイタリア軍が頑張っている。




〖8月〗


●8月1日、史実通りアメリカが日本に対し石油の全面禁輸措置をとった。

もう、石油は手に入らない。このまま石油が入手できなければ国民の生活は崩壊する。



●8月9日、史実通りならば、カナダ近くのイギリス領ニューファンドランド島のブラセンチア湾においてアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が会談している筈だ。

国際情勢について話し合いがもたれているが、そこには日本の事も含まれている。

ここでルーズベルト大統領は、もし日本がマレー半島や蘭印(インドネシア)に侵攻した場合、アメリカは間違いなく戦争に入るとチャーチル首相に約束している。

アメリカ国民には内緒でね。

これだから政治家というやつは……



●8月17日、史実通り日本側からアメリカに日米首脳会談を申し込んだ。

どうやら近衛首相は大幅な妥協をしてアメリカとの関係を改善し、妥協に不満を言うだろう軍部には「陛下のご裁可」という伝家の宝刀を抜いて事をおさめるつもりのようだ。



〖8月の国際情勢として……〗


◯8月4日、史実通り東部戦線において中央軍集団はスモレンスクの戦いの最終局面にあった。  

史実通りならば、その中央軍集団司令部のあるノウィ・ボリソフでヒトラー総統、フォン・ボック元帥、グーデリアン将軍らが会議を行った筈だ。

中央軍集団の将軍達の多くはは、スモレンスクの戦いの後、首都モスクワへ向かうという意見だった。

しかし、ヒトラー総統は違った。

南方のウクライナの食糧と資源がドイツには必要だと考えていたからだ。

ヒトラー総統はモスクワか南方のウクライナか、この時はまだ最終的決断が下せないと、この会議では発言する。

ヒトラー総統、前もって会議する内容はわかっているのだから決めてから司令部に行きなさい。

将軍達が迷惑するでしょ。



◯8月5日、史実通り東部戦線でドイツ中央軍集団のスモレンクスの戦いが終了した。ドイツ軍の勝利でソ連軍の捕虜は30万人以上。

だが、ヒトラー総統のモスクワとウクライナのどちらを選ぶのか、その考えはまだ決まらない。

こんな大事な時に困ったものだ。



◯8月23日、史実通りならば、ヒトラー総統はモスクワかウクライナのどちらにするか、ついに決断し命令する。ウクライナだ。

東部戦線で中央軍集団の装甲軍団は南方に向きを変えキエフ攻略戦を開始する。

これでモスクワは後回し。モスクワへ向かうのは、かなり遅れる事になる。それも致命的に。


この8月のドイツ軍のモスクワとウクライナのどちらに進むかで停滞した事については、イギリスの有名な戦史家リデル・ハートもその著書「第二次世界大戦」の中で厳しく批評している。

リデル・ハートはドイツ軍の敗因について二つ上げている。

一つはソ連軍の戦力を誤認した事、つまり過少評価していた事だ。

もう一つの敗因が、この8月にヒトラーと軍上層部が次に打つべき手の議論に時間を空費した事だとしている。

リデル・ハートは「(ドイツ軍統帥部は思考力及び判断力について、驚くべき無為無策といった状態に陥っていたのである)」とまで言っているが、ドイツ軍統帥部と言うより、この時のヒトラー総統の決断力が足りなかっただけだろう。

中央軍集団の将軍の多くやハルダー陸軍参謀総長は最初からモスクワを目指したがっていたのだから。


戦後に中央軍集団の第4軍の参謀長だったプルメントリット将軍は、モスクワを前にして8月と9月の約2ヵ月の猶予をソ連軍に与えた事が致命傷になったと戦後に語っている。

ちなみにグーデリアン将軍の回想録を読むと中央軍集団の将軍達は全員ウクライナよりもモスクワへの進撃を求めていたように記されているが、ブルメントリット将軍の話ではそうではなく、少なくとも第4軍を指揮するクルーゲ将軍はウクライナへの進撃を支持していたそうだ。


ところでドイツ軍のソ連侵攻については、モスクワを占領したところで、ナポレオンの二の舞になるだけという意見もある。

しかし、グーデリアン将軍の意見は全く違う。

グーデリアン将軍の回想録に書かれているが、モスクワは重要な工業地帯であり、交通、通信の中心でもあり、もし陥落すればソ連市民の受ける衝撃は大きく計り知れないほど効果があるとしている。

また、モスクワは交通の中心であるから、それを失えばソ連軍の兵力移動は困難となりウクライナも簡単に落ちるだろうとしている。

実際、ソ連の鉄道網はモスクワを中心に蜘蛛の巣のような形をしており、グーデリアン将軍の言う事も強ち間違っているわけではない。

ソ連は軍需工場を東方に疎開させる手段に出ているので、モスクワを占領したとしても完全に工業地帯を押さえられるわけではないが、それでも全ての軍需工場が短期間に移転できるわけもなく、少なからず工業地帯へのダメージはあるだろう。

また、当時モスクワにいたジャーナリストの中にはモスクワが占領されればソ連は敗北しただろうと判断する者もいる。

自分としては、モスクワを占領したからと言って、ソ連が直ぐに倒れるとは思わないが、戦略上はかなり有利な状況になるのではないかと思う。

いずれにしろ今回の歴史でも今年のモスクワ陥落は残念ながら無いだろう。

まぁソ連を倒す方法は他にもある。



◯8月25日、史実通りイギリス軍とソ連軍がイランに侵攻を開始した。

イギリスからソ連への援助物資をイラン経由で送るためだ。

大国の横暴ここに極まれり。

イランは完全にとばっちりを喰らった形だ。

これがドイツの侵略を批判していた国のする事か?


また、この日はイタリアのムッソリーニ首相がヒトラー総統と東部戦線を視察した。

あと2日視察を続ける。

飛行機で東部戦線の各地を飛び回って視察したらしいが、そのうち2回はムッソリーニ首相自らが飛行機を操縦したそうだ。

無事に飛んでいたようで何より。



◯8月28日、史実通りイラン政府はイギリス、ソ連と休戦交渉に入った。

イラン軍は9個師団、戦車50両、軍用機280機を保有し動員可能な全兵力は40万人だったが、流石にキな第兵器を装備したイギリス軍5万人とソ連軍8万人には敵わないと判断した。

もうちょっと頑張ってくれよぉー。

大国の横暴を許すな!



◯8月末、7月末に書いた事と同じ事を書こう。

史実通りイタリア領東アフリカのゴンダル方面で抗戦を続けているナージ将軍は、未だ健在でイギリス軍の攻撃を凌いでいる。

あのイタリア軍が本国から遠く離れた所で頑張っている。





〖9月〗


●9月3日、史実通りアメリカから日米首脳会談の前に根本原則一致が必要と言って来た。

もし日米首脳会談で合意ができなければ、日本の軍部にアメリカは日本の平和への努力を拒否したと言う口実を与える事になるかもしれない事をアメリカは懸念しているらしい。会談は事実上ご破算になった。


●9月11日から20日までの間、史実通り海軍大学で連合艦隊毎年恒例の図上演習を行ったが、今回は更に真珠湾攻撃図上演習も追加し行った。各部隊司令官と参謀を30人程も集めた演習だ。しかし結果はあまり良くない


●9月12日、図上演習の合間を縫って一年振りに再び近衛首相と面談し日米が開戦した場合の見通しについて、また語る事になった。

そこまでは史実通りだが、話した内容は大きく違う。

史実では1年前と同様に開戦1年は暴れてみせると言ったのだが、この時ははっきりと「九分一分で勝機有り」と断言した。

近衛首相は驚いた顔をしておられた。無理も無い。

だが九分の勝機は本心だ。

機は熟した。時は来たのだ。



〖9月の国際情勢として……〗


◯9月4日、史実通り大西洋においてアメリカ駆逐艦グリアーがUボートの攻撃を受けたが被害は無かった。

元々は駆逐艦グリアーの方が先に対潜戦闘を行っていた。

だが、しかし、ルーズベルト大統領はUボートが先に攻撃をしかけたものとし、この事件をドイツの侵略として批判した。

やり方があくどいねぇ。



◯9月9日、史実通り東部戦線において、スペインからの義勇兵部隊「青師団」が到着し、北方軍集団のレニングラード攻略作戦に参加した。

ヨーロッパの南からはるばる北の大地へとは、ご苦労さん。



◯9月12日、史実通り東部戦線の南方で、中央軍集団の装甲軍団によりキエフの包囲網が完成した。

そして東部戦線で最初の雪が降った。

急げドイツ軍! 冬将軍がやって来る!


◯9月15日、史実通り東部戦線において北方軍集団がレニングラード東方のラドガ湖南岸のシュルッセルブルグを占領した。

これによりソ連最大の港湾都市レニングラードは陸路を完全に遮断され包囲された。

これより長い包囲戦が始まる。


◯9月16日、史実通りイランの首都テヘランにイギリス軍とソ連軍が入城した。

レザー・シャー・パーレビ国王は退位し、息子モハメッド・レザ・パーレビ王子が新たな国王に即位した。

イギリスとソ連の圧力による無理やりな退位だ。

ドイツとイタリアの諜報員に便宜を与えたという濡れ衣を着せてだ。

悪辣だなぁ。

ヒトラー総統の事をとやかく言えないだろ。

レザー・シャー・パーレビは国外追放処分となったが行き先はイギリス連邦の一つ南アフリカ。

イギリスの息のかかっている国ね。監獄も同然だね。

この国でレザー・シャー・パーレビは1944年に死去するが……敵地も同然の所で亡くなった? 偶然か? 邪魔者として暗殺されたと聞いても驚かないよ。



◯9月19日、史実通り東部戦線でキエフが陥落した。

これで中央軍集団の装甲軍団は再び首都モスクワを目指せる。

だが、ここまで遅くなっては……



◯9月末、7月末と8月末に書いた事と同じ事を書こう。

史実通りイタリア領東アフリカのゴンダル方面で抗戦を続けているナージ将軍は、未だ健在でイギリス軍の攻撃を凌いでいる。

だから6月に言ったろ。ここからだって。





〖10月〗


●10月9日から13日まで戦艦長門艦上で再び図上演習を行った。

真珠湾攻撃計画は前回より少しは良くなった。


●10月18日、史実通り近衛内閣は総辞職し東条内閣が発足した。

近衛首相ももはや日米関係に行き詰まり辞職した感じだ。

そしてアメリカの反応が早い。

太平洋を航行中のアメリカ船舶に戦争の危険があるので日本以外の最寄りの港に向かうよう指示をだして来た。

まぁ軍人が内閣総理大臣になったとなれば、戦争をするためと捉えられても仕方がない。

陛下は「毒を以て毒を制す」的な考えで、東条英機首相に陸軍を抑えさせ戦争を回避させる意向なのだが……



●10月19日、海軍軍令部に黒島参謀を派遣し真珠湾攻撃作戦の計画を認めさせた。その交渉は史実通りかなり難航したらしい。ご苦労だったね黒島君。



〖10月の国際情勢として……〗


◯10月2日、東部戦線においてドイツ軍がソ連の首都モスクワ攻略ほ目指す「タイフーン作戦」を開始した。

遅い! 遅すぎるよ。



◯10月16日、史実通りフランスでダラディエ前首相、レイノー前首相、ブルム前首相がペタン元帥の命令によって逮捕された。

フランスがドイツに敗北したのは彼らの責任だからだそうだ。

いやいや何を言ってるの。レイノー内閣においてパリが陥落もしてないうちから散々ドイツとの休戦を唱えてレイノー首相の足を引っ張って来たのはペタン元帥の方でしょうが。

自分の行動を顧みろ! ペタン元帥!


また、史実通りこの日はソ連のモスクワでパニックが発生した。

政府機能をモスクワからクイビシェフに移転させる事が決まったからだ。


この日は他に「カーニー事件」が発生した。

イギリスに向かう輸送船団の護衛をしていたアメリカの駆逐艦「カーニー」が、ドイツのUボートに雷撃を受け損傷し11人の死者が出たのだ。

戦争中のイギリスの輸送船を護衛していればそうなっても不思議ではないだろう。

アメリカよ文句を言うな。



◯10月29日、史実通り東部戦線のモスクワ正面で、ソ連の防衛線にシベリアから送られて来た部隊が配置に付き始めた。

とうとうシベリア師団が出て来たか。

正念場だぞドイツ軍。



◯10月30日、史実通り東部戦線のモスクワ正面で、悪天候と道路が泥濘と化している状況のためにドイツ軍の進撃が停止した。

こんな時に! もう少しなのに!



◯10月31日、史実通りアメリカの駆逐艦リューベン・ジェームズがドイツのUボートによって撃沈された。

この駆逐艦はイギリスの輸送船団HX-156の護衛部隊として行動していた。

再び言おう。戦争中のイギリスの輸送船を護衛していればそうなっても不思議はないだろう。

更に言おう。

アメリカのやり方はとても国際法に則った中立国のやり方とは言えん!

マイ・ルールで勝手な中立の定義を作るな。

国際法を遵守しろと言いたい。



◯同10月31日、7月末と8月末と9月末に書いた事と同じ事を書こう!

史実通りイタリア領東アフリカのゴンダル方面で抗戦を続けているナージ将軍は、未だ健在でイギリス軍の攻撃を凌いでいる。と!!

くっくっくっ、だから6月に「戦いは、まだまだ、これからだ!」「本気でここからですよ」と書いたのだ。

それにしてもイギリス軍がイタリア領東アフリカに侵攻を開始してから既に10ヵ月が経った。

だが、イタリア軍はまだ頑張っている。

これほどの戦いを、抵抗を、長期戦を後世も含め世界中の誰が予期していたであろうか!?

これぞ第二次世界大戦におけるイタリア軍最大最高の奇跡!

それが以外に言葉があろうか!?





〖11月の国際情勢として……〗


◯11月2日、史実通りアメリカ沿岸警備隊がアメリカ海軍の指揮下に入った。

それはもう戦時体制だね。アメリカも戦争をする準備を着々と進めている。

まぁこちらも負けてはいないがね。


◯11月6日、史実通りアメリカのルーズベルト大統領がソ連に補給物資購入のための資金援助を行う事を発表した。

あのソ連に資金援助ねぇ。あの国は以外と資金だけは持ってますよルーズベルト大統領。



◯11月8日、史実通り北アフリカへ向かっていたイタリア輸送船団がイギリス艦隊に攻撃された。

イタリア側は巡洋艦2隻、駆逐艦10隻、輸送船7隻。

イギリス側は巡洋艦2隻、駆逐艦2隻。

イタリア側の損害は駆逐艦1隻と輸送船が全て撃沈された。

イギリス側の損害は駆逐艦1隻が小破しただけ。

またもやイギリス艦隊の圧倒的勝利である。

いい加減、イタリア艦隊の負けを書くのも書き飽きて来たよ。



◯11月15日、史実通り東部戦線でドイツ軍のモスクワ攻勢が再開された。

だが、半月の停止は痛かった!



◯11月18日、史実通り北アフリカ戦線でイギリス軍の攻勢作戦「クルセイダー」が開始された。

あっこれはヤバイ。



◯11月21日、史実通り東部戦線において南方軍集団がソ連南部の重要な工業都市ロストフを占領した。

だが、まだまだ先に行かなくてはならない。



◯11月23日、史実通り北アフリカ戦線ではドイツ・アフリカ軍団がシディ・ゼレグ近辺でイギリス軍と激戦となり、ドイツ・アフリカ軍団がこれまでにない被害を出した。

そのため、この日は「死の日曜日(トーテンゾンターク)」として記憶される事になった。

いやな名前の日だね。そんな日は二度と来ない事を願うよ。



◯11月24日、史実通り東部戦線の南方軍集団司令官ルントシュテット元帥がロストフから部隊を後退させた。ソ連軍の反撃が激しく数も多く後方にも回られたからだ。

ヒトラー総統は明確に後退を禁止しているので後日問題になる筈だ。

だが、戦況からすればルントシュテット元帥の判断が正しいと思う。



◯11月26日、史実通り北アフリカ戦線でイギリス中東方面軍総司令官オーキンレック大将が、イギリス第8軍を指揮していた弱腰のカニンガム将軍を解任した。

後任はリッチー将軍だ。

この解任は正しくロンメル将軍に不利となる。

残念!



◯11月27日、史実通り、東部戦線でのドイツ軍がモスクワ方面での攻勢限界点に来た。

もっと援軍がなければ前には進めない。

しかし、その兵力が無い。あと一歩なのに……残念。



◯11月28日、史実通りイタリア領東アフリカのゴンダル方面で抗戦を続けているナージ将軍が遂に降伏を余儀なくされた。補給も援軍も無しに11ヵ月に渡る抗戦だった。

見事なものだ。

よく頑張った。

イタリア政府は翌日「イタリア国民はゴンダルの勇士に感謝と敬意を表する」と声明を出している。

ともかく、これでイタリアの東アフリカ植民地は瓦解した。

残念だ。


それにしても、イタリア領東アフリカで戦ったイタリア軍の将軍達は随分と粘り強い者が多かった。

フルスキ将軍、ガッゼラ将軍、ナージ将軍……

一体これはどうした事だろう。そういう人物をイタリア領東アフリカに送り込んでいたのか。

それともイタリア領東アフリカの何かが将軍達をそのようにさせたのか。

謎である。



◯11月30日、史実通り東部戦線においてルントシュテット元帥が南方軍集団司令官を解任された。

ロストフでの後退命令を撤回しなかった事が理由だ。

後任はライへナウ将軍だ。

ドイツ軍の長老であり尊敬すべきルントシュテット元帥を解任するとは……

あなたは間違っている! ヒトラー総統!


史実通りならば、この日はソ連のスターリン首相が、ジューコフ将軍のモスクワ周辺での反攻作戦計画を承認した筈だ。

シベリアからの増援部隊が着々と到着しているからね。その兵力は侮れない。



〖11月〗


●11月5日、史実通り御前会議で12月1日までにアメリカとの交渉が捗らない場合は開戦する事が決定された。

既にこちらの腹は何年も前から決まっているよ。


●11月7日、開戦に備えて海軍軍令部や陸軍との打ち合わせで、てんてこ舞いの状態だ。とにかく忙しい。たまには家に帰りたい。あっ涙が……


●11月8日、南方の油田地帯占領時には油田の質だけでなく数においても余裕をもって多目に確保するよう取り計らってほしいと海軍軍令部に要望しておいた。

「お任せ下さい。心配なさらぬように」との返事だったが、本当に大丈夫だろうか。不安だ。


●11月10日、史実通りイギリスでチャーチル首相が「アメリカが日本との戦争に突入したら1時間以内にイギリスは日本に対し宣戦布告を行う」と演説した。

調子に乗るなよチャーチル首相。あなたが思い描いているほど日本は甘くは無いのだよ。

特に今回の歴史ではね。


●11月13日、史実通り連合艦隊の各艦隊司令官に大海令第一号を伝達し、開戦する場合はその日が12月8日である事を伝える。もう一ヵ月も無い。


●11月26日、史実通りアメリカがハル・ノートを突き付けて来た。

内容は最後通牒に等しい。

史実ではアメリカは太平洋に展開するアメリカ軍に日本の攻撃の可能性があるとして警戒態勢をとらせた。

アメリカとしてもハル・ノートは最後通牒という意味で渡して来たのだろう。

いいだろう受けて立つ!

ここに自分がいる限り大日本帝国は同じ相手に二度は負けん!



〖12月〗


●12月1日、史実通り御前会議で開戦が決定された。



そして運命の12月8日がやってくる。

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