表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/23

006話 始動(1937年1月~1939年)

現在、この第6話につきましては諸種都合により今年2016年1月より大幅に加筆訂正中です。

まだ暫くは加筆訂正する予定です。

完了まで今しばらくお待ちください。         2016年1月30日


忙しい日々が始まった。

海軍次官という要職は激務だ。それに加えて数年後に始まる太平洋戦争で勝つための布石を打って行かなくてはならない。



『1937年』


〖1月〗


●1月某日、これまでに培った友人知人の伝手を使い、2年前まで内大臣を務めておられた牧野伸顕伯爵に直接手紙を届けてもらう事に成功した。返事も貰った。伯爵は手紙の内容に半信半疑らしい。

1年後、その結果が出ればいいと思う。


●史実通り、国会で「割腹問答」事件が発生した。

浜田国松代議士が軍による政治干渉を批判する弁舌を行った事に対し、寺内寿一陸軍大臣が軍を侮辱するものと反発した。

これに浜田国松代議士が、速記録を調べて軍を侮辱する言葉があれば割腹して詫びるが無かったら君が割腹しろと言いだし国会が騒然となったという事件だ。

この時、浜田国松代議士は70歳。

いい歳した大人が言った言わないで揉めるとは困ったもんだ。大人気ないにもほどがある。


そう言えば現代日本でも某総理大臣が演説でちょっと漢字を読み間違ったからといって、国会で総理大臣に漢字が読めるか読めないかの質問をするどこぞの野党議員もいたましたなぁ。

人間誰しも間違いはある。漢字の一つや二つ読み間違ったからと言って国際問題になったり国内の問題が致命的な事態を迎えるわけでもないだろう。

漢字の読み間違えなんて誰しもある事だろう。

次からは気をつけて下さいと言って注意喚起をすればすむ事だろうに。

漢字の読み間違えより遥かに重要で深刻な問題が日本には山積みなのに何をやっているのやら。

日本の政治家はこれだからいかんのだ。昔も今も器量が小さいのが多すぎる。困ったものだ。


1月の国外情勢として…

◯史実通りドイツでヒトラーが国会でベルサイユ条約の全ての条項を公式に破棄すると演説した。

総統閣下は強気だ。口だけじゃないところが恐いね。


◯史実通りイギリスとあのイタリアの間で「英伊地中海協定」が締結された。

地中海の現状を維持しようという協定だ。イギリスも平和を維持しようと必死だ。


◯史実通りユーゴスラビアとブルガリアが友好条約を締結した。

これでブルガリアはバルカン半島で孤立していた状態から脱した。

約3年前の1934年2月にブルガリア周辺のトルコ、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビアは「バルカン友好同盟条約」を締結している。

ただブルガリアも味方もなく完全に孤立していたわけじゃない。ブルガリアで独裁政治を行っているボリス国王は1930年にイタリアの王女と結婚しイタリアとは近い関係を保っていた。

しかし、あのイタリアをあてにねぇ……





〖2月〗


●2月某日、対英米戦略の一環として、満州やアジアの魔都「上海」に住む友人知人達に極秘裏に自分の要望に適う人材がいたら紹介してほしいと手紙を書いた。書きまくった。指が痛くなった。腕が痛くなった。

この時ばかりはパソコンが欲しいと切実に思った。ワープロ専用機でもいい。無い物ねだりだ。

それはともかく良い人材が見つかるといいが。

人材を探している理由については、尤もらしい作り話を手紙に書いたので、友人知人を騙している事になる。胸が痛む。だが、これも日本が勝つためだ。全てが終わったら謝ろう。


●先月、国会であった「割腹問答」事件の余波で広田内閣が総辞職し、史実通りその後を林内閣が継いだ。

総理となった林銑十郎は元陸軍軍人だ。

5年前の満州事変時に朝鮮軍司令官をつとめていた。

そして関東軍からの応援要請に独断で部隊を満州に派遣し越境させてしまった。

本来なら陛下のお赦しもなく、軍上層部からの命令も無しに独断で部隊を動かして国境を越えさせるなどという事をしたら、それこそ「大権干犯」で、陸軍刑法の第37条に該当し、死刑、もしくは無期懲役になるのだが、関東軍司令部の面々と同様にお咎め無しとなった人物だ。

それどころか勲章を貰っている。

そしてついた綽名は「越境将軍」

やれやれ、そういう甘い事後処理をするから成功すれば文句は無いだろうとばかりに以後、陸軍軍人が好き勝手な事をしだす風潮が生まれるのだ。

困ったものだ。


●広田内閣の総辞職と、その後を継いだ林内閣の成立に伴い、史実通り海軍でも人事異動があった。

広田内閣で海軍大臣だった永野修身大将が第24代連合艦隊司令長官に就任した。

第23代連合艦隊司令長官だった米内光政大将が林内閣での海軍大臣に就任した。

海軍大臣と連合艦隊司令長官の座を交換した形だ。それ故に「お手盛り人事」とあまり評判がよくない。

まぁ事実なので反論もできないが、大事なのは仕事をこなせるかどうかだろう。

ちなみに伏見宮様の海軍軍令部総長の座は変わらずだ。何せ陸軍さんの陸軍参謀総長が、これも皇族の閑院宮様であり、陸軍と海軍の釣り合いをとるためにも今の所は軍令部総長の座は不動となっている。

伏見宮海軍軍令部総長は別に独裁傾向にあるとかワンマンであるという事もない。部下の進言をよく聞いて下さる方だ。問題は部下の進言というか、その思想とか思惑の方だろう。

ところで海軍大臣になった米内光政大将は昨年1936年12月の人事異動で連合艦隊司令長官になったばかりだった。2ヵ月も経たずに移動する事になり不満があったようだが、ここは日本の行く末のために我慢してもらおう。





〖3月〗


●3月某日、自分が思い描く対英米戦略に充当する人材集めに頭を悩ませる。

海軍内に自分の要望に適うような人材はいないか内密に調査する。特に海軍兵学校などに重点を置いたが、なかなかいい人材は見つからない。


●史実通り先月発足したばかりの林内閣が第70議会会期末の31日に、突如、解散に打って出た。

予算案を通した後に不意打ちで解散をしたものだから「食い逃げ解散」と呼ばれ評判が悪い。

この解散を言い出したのは林総理で、何と政府閣僚達に話したのも前日の事だったらしい。寝耳に水の閣僚達は反対したらしいが林総理が一人一人別々に話して説得し押し通したそうだ。

林総理としては野党の勢力を抑える事が目的らしいが……


実はこの「食い逃げ解散」をした31日に自分は林銑十郎総理とお会いしている。

この日はイギリスのジョージ6世戴冠記念観艦式に派遣する部隊の主要メンバーの壮行会が米内海軍大臣官邸において開かれており、その催しに林銑十郎総理や佐藤尚武外務大臣らも出席していたのだ。

林銑十郎総理の顔を見ると、ついつい「食い逃げ解散」についてからかいたくなって困りましたがな。


それにしてもイギリス国王にジョージ6世が即位した経緯はねぇ。

後世においても有名なエドワード8世の、あの「王冠を賭けた恋」ですよ。後に映画化もされた恋のお話ですよ。

イギリス国王エドワード8世が離婚歴のあるアメリカ人女性と結婚したいから退位して弟に王位を譲るという何ともロマンチックなお話。

退位した後に言った言葉が有名な「私は愛する女性とともにある」

地位よりも愛を選ぶ。口で言うのは簡単だけど、なかなかできる事じゃありませんな。

ましてやエドワード8世は国民から慕われていたというお人。結構、気さくな人柄で市民とも気軽に話をするような人だったとか。

それが在位1年にも満たず退位するともなればね。

おかげで退位が発表された昨年12月10日以降、暫くイギリスは大騒ぎだったようだ。


しかし、何ですな、退位したエドワード8世はウィンザー公爵となったわけですが、イギリスにいられなくなり、その後は外国を転々とする事になったわけでその辺は同情しますな。これも恋の代償か。

だが、エドワード8世が退位して最も痛かったのはドイツのヒトラー総統ですな。

何せエドワード8世は親独派だったから。

元々ヒトラー総統はイギリスと争う気は無く友好関係を結びたがっていましたからな。

親独派のエドワード8世がイギリス国内で影響力を発揮してくれた方が良かったわけで。

それが、たった一人の女性のためにその目論見は崩れたわけで。

この「王冠を賭けた恋」は誰にとって良く、誰にとって悪かったのか……

まぁ全ては史実通りのお話……と結ぶ前に……

実はヒトラー総統は諦めが悪く、このウィンザー公爵夫妻を誘拐させようとしていた。

1940年8月にウィンザー公爵はイギリス政府からバハマ諸島の総督に指名され、滞在先のスペインからポルトガルのリスボン港に移動し、そこからアメリカ船籍の船に乗ってバハマ諸島に行こうとしていた。

そのバハマ諸島に行く船に乗る前にリスボン港でドイツの誘拐部隊がウィンザー公爵夫妻を誘拐しようとしたのだ。

だが、しかし、それは失敗に終わる。

何故なら港に向かったドイツの誘拐部隊の車がトラックと衝突するという交通事故を起こしたから。

これって偶然か? 偶然なのか? 凄くタイミングが良すぎるのだが。何かドイツの企みに気づいたイギリスの情報機関がドイツの誘拐部隊を事故を装って阻止したと言われても納得いくような話なんだけど。本当に単なる偶然なのか?

まぁ、それはともかくヒトラー総統の計画では、ウィンザー公爵夫妻の誘拐が成功した場合、表向きはウィンザー公爵は自らの意思でドイツに赴いたと見せかける予定だったようだ。

ただし、文献によってはまた別の話もある。

スペイン政府の人間を使ってウィンザー公爵をドイツに向かうよう説得させようとしただとか、ウィンザー公爵の運転手を買収して船に乗せないようにしたとか、強引な誘拐方法はしなかったという説もある。

どっちが真実なんだ?


どちらにしても、ヒトラー総統の計画ではウィンザー公爵はチャーチル首相とジョージ6世の進めるイギリスとドイツの戦争に反対であると世界に認知させ、イギリス国内に一石を投じさせる事が目的だったようだ。

更にはウィンザー公爵をイギリスに送り込み再びイギリス国王に返り咲かせ親独政権を樹立させるようにして、ドイツとイギリスは和平を結ぶという計画だったらしい。

ヒトラー総統も色々陰謀を巡らしますなぁ。お忙しい事で。



〖3月の国外情勢として…〗


◯史実通り、あのイタリアとユーゴスラビアが不可侵条約を締結した。

ユーゴスラビアは近隣諸国と友好関係を結ぼうと必死だ。

何せ多民族多宗教のモザイク国家なだけに国内には問題が山積みだ。他国と揉めたら内憂外患のいい見本となるどころか国が吹っ飛ぶ可能性が多分にある。

こうした国の指導者にはなりたくないものだと思う。大変すぎるだろう。



◯スペインであのイタリア軍が大きな敗北をしたとの報が入って来た。史実通りの話だ。

史実通りスペインは昨年1936年7月から内戦中だ。

この「スペイン内戦」にドイツ軍は義勇兵という名目の軍を送り新戦術や新兵器を試している。イタリアも同様でソ連は軍事顧問を派遣し武器を援助していた。

ドイツとイタリアは「ナショナリスト派(反乱軍)」を支援し、ソ連は「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」を支援している。

今回のイタリア軍の敗北はグァダラハラで起こった。

首都マドリード近くのグァダラハラを攻略しようとしたイタリア軍4個師団3万5000人が政府軍の2個師団に進撃を阻まれ反撃を受けた。戦死者だけでも3000人を数え、負傷者は4000人も出して敗退した。

スペイン内戦中の期間において、外国の軍隊で、ここまで大きな敗北を喫したのはイタリア軍だけだ。

ついでに言うと、この戦場でイタリア人同士の戦いも起きている。

「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」側の師団に、イタリア共産党員で編成された「ガリバルジ大隊」があり、イタリア軍と戦ったのだ。

それどころか「ガリバルジ大隊」の兵士達が、イタリア軍の兵士達に「兄弟たちよ。なぜ諸君らは外国の労働者を殺すために外国に来たのだ」とマイクで宣伝放送している。

更に言うと、そのグァダラハラの戦闘に参加したイタリア軍を記念する絵葉書が後にイタリアで作られている。

イタリア軍の敗北なのにねぇ、記念の絵葉書を作りますか。

それとも敵側でも同胞イタリア人の「ガリバルジ大隊」は勝者になったから問題ないのか。

もしかして、どちら側でもイタリア人が勝てば問題なし?

まぁあのイタリアだから絵葉書も驚くほどの事ではないのかもしれない。

それよりも驚くべき事はグァダラハラの敗北以外の戦闘ではイタリア軍はスペイン内戦で結構活躍しているし、勝利もしている事だ。そちらの方が驚きだ。

全ては史実通りとは言え、あのイタリア軍がねぇ……





〖4月〗


●4月某日、未だ自分が思い描く対英米戦略に充当する人材集めに頭を悩ませる。

陸軍内に自分の要望に適うような人材はいないだろうかと思索するも、いたとして、どうやって組織違いの陸軍からその人材を引っ張って来て協力させるか、いい考えが全く思いつかず諦める。


●4月3日、史実通りジョージ6世戴冠記念観艦式に派遣する巡洋艦「足柄」が横須賀を出港した。

指揮官は第4戦隊司令官の小林宗之助少将だ。第4戦隊参謀として黒島亀人中佐も乗艦している。艦長は武田盛治大佐。

他に普段は乗らない乗客が多いので武田盛治艦長も大変だろう。

例えば軍楽隊。内藤清五軍楽特務大尉指揮する46人の軍楽隊が乗船しておりヨーロッパの各寄港地で友好のための演奏をする予定だ。

造船士官も乗船している。観艦式に参加する他国の艦船の調査及び、途中の航海での船体データ収集を目的として牧野茂造船少佐が乗船している。この人は帰国後に戦艦大和の建造に関わる事になる。

他に記者やカメラマンは当然として、画家の中村研一氏も乗船している。

中村研一氏は東京美術学校を卒業した年に日本で最も権威ある美術展である帝国美術院展覧会に出品して入選し、以後、何度も賞をとりその才能を評価され、11年後には30代半ばで帝国美術院展覧会の審査員となった日本美術界の鬼才だ。

何というか、死後にようやく評価されたゴッホみたいな不遇な人とは対照的な画家だ。ゴッホは描いた絵は1000枚以上になるけど生前に売れた絵は1枚だけだった。不憫な話だ。

そんな話はともかく「足柄」は南シナ海、インド洋、紅海、地中海を経てイギリスに行く予定だ。

ドイツ海軍の招請もあり、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した後はドイツに行く予定にもなっている。


それにしても……

羨ましい。

羨ましいぞ!

羨ましすぎるぞ小林宗之助少将!

何せジョージ6世戴冠記念観艦式にはイギリスと日本を含め19カ国もの軍艦が参加する。

見てみたかった。

実に見てみたかった。

イギリスやアメリカの軍艦ならば太平洋戦争が始まれば戦場で見れるどころか戦う機会があるかもしれない。

しかし、そうでない国の軍艦も少なからず参加しているのだ。

スウェーデンの戦艦「ドロトニング・ヴィクトリア」

フィンランドの戦艦「バイナモイネン」

こうした戦艦は普段は当然自国の海域であるバルト海にいて、大使館の駐在武官にでもならなければ日本の軍人がそうそう目にする機会など絶無と言っていい。

デンマークの戦艦「ニルス・イウル」などもそうだろう。

そんな滅多にどころか全くお目にかかる機会の無い軍艦が、このジョージ6世戴冠記念観艦式にあと何隻も参加しているのだ。

フランスなどは戦艦「ダンケルク」を参加させている。この戦艦は5月1日に就役したばかりの新鋭艦。それを20日後のジョージ6世戴冠記念観艦式に参加させるのだからフランス海軍も無茶をする。

ドイツからはポケット戦艦「アドミラル・グラフ・シュぺー」が参加した。この戦艦も昨年1月に就役したばかり。

しかし「ポケット戦艦」という名称は可愛いらしい。日本では「豆戦艦」とも呼ぶらしいが。

第一次世界大戦で敗北し、ベルサイユ条約で保有できる軍艦の大きさに制限のあったドイツ海軍が「装甲艦」という艦種で建造した艦だが、現在ドイツで正式には重巡洋艦となっているらしい。

いやぁ重巡洋艦では面白味が無いよ。「装甲艦」の方がいいな。「ポケット戦艦」の方がもっといいけどね。

それにしても、これらの艦を見たかった。

現代世界では、せいぜいモノクロ写真が見れるだけ。実際に航行しているところを是非この目で見たかった。

それに加えてだ。

史実では小林宗之助少将はイギリスでジョージ6世に拝謁するばかりでなく、戴冠式記念章という勲章も授与されたのだ。

羨ましいぃのぉ。

軍人ならば他国の勲章を授与される事はある。戦争があったりした場合はその機会も増える。

ただ、ジョージ6世の戴冠式記念章という物は、それこそ記念の物だから一度限りの物で二度とは作られない物だ。

他の武勲を立てた者に与えられる勲章とはそこが違う。

尤も特定の戦いを記念した勲章も多いけどね。

まぁ、こうした勲章を授与されるというのはタイミングの問題だからねぇ。

軍人によっては複数の国から授与される軍人もいれば全く授与されない者もいる。

歴代の連合艦隊司令長官でも他国から勲章を授与された者もいれば、全く授与されなかった者もいる。

まぁ史実では自分も、あと数年も経てばドイツから勲章を授与される事になる筈だがね。

でも小林宗之助少将羨ましいぞ!


ところで、このジョージ6世戴冠記念観艦式には日本の皇族も参加される。

天皇陛下のご名代として秩父宮様ご夫妻が、既に先月3月18日に客船で日本を出立している。随員として海軍からは新見政一少将と陸軍からは本間雅晴少将が同行している。

こちらの航路は「足柄」とは違い、太平洋を横断してカナダに行き、そこからアメリカ大陸を横断してアメリカのニューヨークからまた客船でイギリスに向かう予定だ。

それにしても、陸軍と海軍の随員をお供にとは、秩父宮様ご夫妻も海軍と陸軍の確執に迷惑なされているのではないだろうか。

まぁ新見政一少将と本間雅晴少将ならば問題を起こす事はないだろう。

まぁこれも史実通りの話ではある。


●4月9日、史実通り朝◯新聞社の雁型通信連絡機「神風」号が快挙を成し遂げた。

イギリスで予定されているジョージ六世の戴冠式を祝して、朝◯新聞社が「欧亜連絡飛行」を計画した。

この時代は現代世界のように旅客機による定期便など、まだ無い時代だ。

それどころか飛行機でヨーロッパとアジアを行き来する事自体が飛行機の性能の問題で難しい時代だ。

だが、朝◯新聞社では陸軍から「キ15試作第二号機(九七式司令部偵察機の試作二号機)」を購入して、雁型通信連絡機「神風」号とし、果敢にもイギリスに飛行させたのだ。

その「欧亜連絡飛行」が成功した。

東京の立川飛行場からインドシナ、インド、イラク、ギリシャ、イタリア、フランスを経由してイギリスのロンドンに到着した。

出発したのは4月6日であり到着は4月9日だ。約94時間で到着した。

それは日本の飛行機の性能を外国に知らしめる事になった。

「神風」号のパイロット達はヨーロッパ各地で大歓迎を受けた。良い事だ。


●4月15日、史実通り「奇跡の人」ヘレン・ケラー女史が船便で来日した。

是非、サインをもらわなくては。

できれば一緒に記念写真も。

ところで驚くべき事に彼女には特別高等警察の監視がはりついているそうだ。

特別高等警察は、ヘレン・ケラー女史が講演などで自由主義や平和主義の演説を行う事を危惧しているらしい。

呆れるというか何というか、例えヘレン・ケラー女史がそういう事を講演で話したとしても、いかに「奇跡の人」とは言え、それぐらいで日本がぐらつくわけもなかろうに。好きにさせればいいのだ。

今は障害を持っている人達に希望を与える方が先決であり、それは彼女にしかできない事なのだ。

史実通りの話とは言え、海軍陸戦隊を使って特別高等警察を一掃したくなったよ。


●4月30日、史実通り林内閣の「食い逃げ解散」により第20回衆議院総選挙が行われた。

野党の勢力を削ぐために解散に打って出た林総理だったが、結果は惨敗。

敵対する野党勢力は390議席を占めたの対し与党は40議席だった。

ここまで差が開くと下手な言い訳もできない。

林総理も覚悟を決めるしかないだろう。

まぁ史実通りの話ではある。



〖4月の国際情勢として……〗


◯4月19日、「スペイン内戦」での「ナショナリスト派(反乱軍)」側の政党が一つに統合され、その指導者の地位にフランコ将軍が就いた。

反乱軍の最高司令官であり、反乱軍側の唯一の政治団体の指導者だ。実質的にフランコ政権が出来たと言ってもいいだろう。





〖5月〗


●5月某日、未だに自分が思い描く対英米戦略に充当する人材集めに頭を悩ませる。いっその事、民間企業から人材をスカウトしようかとも思ったが、その方面での伝手の少なさと、人材の情報の少なさに頭を抱えるばかり。


●5月30日、史実通り林内閣が総辞職した。

経った4ヵ月の内閣だった。

「無為」「無策」「無能」と悪評の声が大きい。

後世、いや、既にこの時代から林銑十郎という人物の評判はあまりよくない。

前にも述べたが満州事変では越権行為に出て部隊を満州に送り「越境将軍」と呼ばれ、総理になれば今度は「食い逃げ解散」だ。他にも「何もせん十郎内閣」とまで言われている。

だが、「何もせん十郎内閣」というのは言い過ぎだろう。

この総辞職前に林内閣は「企画庁」を設立し日本の経済計画を推進させようとしていた。

元々は陸軍省から「重要産業五ヵ年計画要綱」という重要産業をもっと国策として発展させようという提案が政府(林内閣)になされた事に始まる。

政府(林内閣)はこの提案を商工省と大蔵省に示し、更に練り上げた「生産力拡充計画」として完成させ、それを新たに設立した「企画庁」に実行させようとしたのだ。

林内閣とて日本の行く末を考え動いていたのだ。


ちなみに「生産力拡充計画」は林内閣の後を継いだ近衛内閣に引き継がれ推進されていく事になるが、結果論からすれば失敗に終わる。

「生産力拡充計画」で特に重要な物の例を太平洋戦争が開始された1941年で見てみれば、それは一目瞭然だ。

1941年における鋼鉄の生産計画量は726万トンだった。しかし実際に生産された量は約430万トン。

アルミニウムの生産計画量は12万6400トン。しかし実際に生産された量は約7万1700トン。

船舶の建造計画トン数は65万トン。しかし実際に建造されたのは約28万6千トン。

人造石油の生産計画量は53万6千klだった。しかし実際に生産されたのは約5万2千kl。

1938年から1940年の間においては生産計画を達成した物もあるが、結局1941年には殆どの物の生産量が計画した量には届かなかった。

所詮、経済は生き物だ。そうそう計画通りには運ばない。

例え、人と資金と物を注ぎ込み政府が後押しをしても結果が出ない事もある。

経済が政府の計画通りに進むなら不況で苦しむ国など無いだろう。後世の現代世界でも長引く不況に苦しめられている国は多い。不況対策を行っても結果が出ない国もある。

現代日本の平成不況なんて軽く10年以上続いたのだ。その間に日本政府はどれだけの不況対策を行った事か。政府だって不況が続けば支持率は落ちる。政治家だって選挙で落選だ。だから不況対策に頭を悩まし努力する。しかし、なかなか結果は出ない。そうしている間にも時は経ち、あっという間に10年だ。

それを考えればこの時代の政府が推進した「生産力拡充計画」が失敗したからと言って驚くにはあたらないだう。


なお林内閣の林銑十郎総理には、軍人時代に日本のとるべき戦略について、特に対ソ連戦略について独自の発想があったと思われるが……

それは、いずれ語る時が来るかもしれない。来ないかもしれない。



〖5月の国外情勢として…〗


◯5月6日、史実通りアメリカのニュージャージー州のレイクハースト飛行場で、ドイツの旅客飛行船ヒンデンブルク号が爆発事故を起こして墜落した。

死者36人。痛ましい事だ。

その爆発事故は映像として記録されており、後世の現代日本でも見る事ができる。

その映像が衝撃的過ぎたのだろうか、以後、飛行船は危険な物という認識が広まってしまったように思う。

しかし、事故はたまたまだろう。ヒンデンブルク号にしても事故を起こすまでに過去62回も大西洋を横断しドイツとアメリカの間を結んでいたのだ。

どんな乗り物でも事故は起きる。

ジャンボジェット機だって時には墜落事故を起こしている。

ヒンデンブルク号も同様だと思う。

まぁ、ヒンデンブルク号の場合、謀略説もあって爆破されたなんて話もあり映画化もされているが、どうだろう。自分はあまり信じていない。



◯5月12日、史実通りジョージ6世の戴冠式が行われた。

20日には戴冠記念観艦式が壮大に行われた。

秩父宮様ご夫妻もこの観艦式を御覧になったが、各国代表とは違う特別待遇だったらしい。英国王室と日本の皇室の絆というところか。

まぁ史実通りの話ではある。



◯ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した巡洋艦「足柄」は、当初の予定通りドイツに寄港した。

25日には内藤清五軍楽特務大尉率いる軍楽隊と「足柄」の乗組員から編成された儀仗隊がベルリン市内をパレードし、ドイツ国民から大歓迎を受けたそうだ。

翌日の26日には小林宗之助少将はヒトラー総統と面談したとの事。

全ては史実通りだ。



◯5月25日、史実通りフランスのパリでパリ万国博覧会が開幕した。11月まで開催されている。

そして7月には後世、世界的に有名になるピカソの作品「ゲルニカ」がスペイン館に展示される事になるだろう。

日本館もあるそうだが、何が展示されているんだ? ちょっと興味がわく。

それにしても現代日本の時代で暮らしていた頃に、ピカソの作品を見かけるたびに思っていた事がある。

「芸術はわからん!」

一生どころか二生、三生あったとしても自分には理解できないだろう。ピカソの作品を見かけるたびにそう思ったものだ。その考えは今でもかわらない。これからもかわらない。絶対にだ!



◯5月28日、史実通りイギリスでボールドウィン内閣に代わりチェンバレン内閣が成立した。

政府を率いる事になったネビル・チェンバレン首相は後世、ヒトラーに対する弱腰外交で批判されるが、当初はその方針も支持されていたのだけどね。

ヒトラー総統の、いやドイツ軍の強さと、その当初の軍事的成功が大きすぎ、チェンバレン首相の評価を相対的に低くさせている部分もあると思う。





〖6月〗


●6月4日、史実通り林内閣の総辞職の後を継いで近衛内閣が成立した。

杉山元陸軍大臣と米内光政海軍大臣は留任となった。

杉山元陸軍大臣には逸話が多い。良い話にも、不遇な話にも事欠かない。

中でも感心したのは、1907年の第三次日韓協約の締結で、朝鮮での反日運動が盛り上がりを見せ、韓国軍の一大隊が抗日に動こうとした時、たった一人でその大隊に乗り込んで抗日を止めるよう説得したという話だ。杉山元大将がまだ中隊長の頃の話だ。

度胸あるなぁ。下手をすれば殺されていただろう。たった一人で乗り込む事も凄いが、説得を成功させた事も凄い。とても自分には真似のできない話だ。

陸海軍公平に米内光政海軍大臣にも触れておこう。この人も逸話が多いが、その中で自分が心に留め置いたものに正義と力の話があった。

米内光政大将が、まだ大佐で練習艦「磐手」の艦長だった頃、候補生の一人が「力は正義なり」という所感を書いて来た事があったそうだ。それに対し米内光政艦長は、力は正義の後ろ盾になるべきものであって力即ち正義であってはならないと戒めたそうだ。

なるほど、確かにその通りだ。自分ならとてもその候補生を戒めるなんてできなかっただろう。知恵者は言う事が一味違うね。



〖6月の国際情勢として……〗


◯ソ連においてスターリンが権力闘争で党と軍部の大粛清を行っているとの情報が入って来た。史実通りの話だ。

この大粛清は長期間に及び1938年末頃まで続く。

そして軍部だけでも粛清対象者の数がとてつもなく多い。

元帥5人のうちの3人。

軍司令官15人のうちの13人。

軍団司令官85人のうちの57人。

師団長195人のうちの110人。

旅団長406人のうちの220人。

将官級の約半分が粛清されたようだ。その下の将校クラスは判然としないが約3万5000人が粛清されたとか、約半数が粛清されたという話もある。

中には将官の9割、佐官の8割が粛清されたという説もある。

それだけの将官と将校が一気に消えれば軍部内の動揺と混乱は酷いものになるだろうし、ソ連軍の力は一時的にだが大幅に落ちるだろう。

「ソ連軍近代化の父」とか、空挺部隊を創設したので「落下傘元帥」と呼ばれ「赤軍のナポレオン」とも評価されていた有能なるトハチェフスキー元帥も粛清された。

トハチェフスキー元帥についてはドイツの謀略という説もある。

ドイツ側がトハチェフスキー元帥を始めとするソ連軍軍人に関する偽造文書を作って、それをソ連の上層部に渡るようにし、スターリンはまんまとその策に嵌り、偽造文書を鵜呑みにして有能な軍人達を粛清したとするものだ。ドイツの謀略は成功しソ連軍は弱体化した。

だが、その逆にトハチェフスキー元帥ら自分の地位を脅かす者達の粛清の機会を狙っていたスターリンが、ドイツからの偽造文書をこれ幸いと利用したという説もある。

果たしてどちらが真実か…

まぁいずれにしろ真実は闇の中だ。

それにしてもスターリンの粛清も酷い。

トハチェフスキー元帥自身をクーデターを企てたとして処刑したのは、まぁ権力維持の手段だから理解はできる。

しかし、トハチェフスキー元帥の老いた母親まで処刑している。確かに母親としては息子を処刑されればスターリンを恨みはするだろうが……そこまでするのかスターリン。

ともかくこのスターリンの大粛清は、日本にとっては、何もしなくても仮想敵の力が勝手に弱まるのだから有り難い話ではある。





〖7月〗


●7月2日、史実通りアメリカの女性冒険飛行家のアメリア・イアハートが世界一周飛行の途上、南太平洋において消息を絶った。

アメリア・イアハートは女性初の大西洋単独横断飛行やアメリカ大陸単独横断飛行を成功させた冒険家で、その功績で勲章も貰っている有名人だ。

その彼女が消息を絶ったから世界的に大騒ぎだ。

アメリカの艦船が捜索に向かい日本の艦船も協力している。

だが、きっと見つからないだろう。それが史実だ。

それにしても彼女は一体どこに消えたのやら。

後世2010年代の時代になっても解明されていない。

それどころか某調査隊はフェニックス諸島のニクマロロ島でアメリア・イアハートの乗機の一部が回収されたとしている。

ところが別の調査隊はアメリア・イアハートの乗機はマーシャル諸島のミリ島に着陸しており、複数の現地住民の証言があり乗機の一部らしい破片も回収したとしている。

フェニックス諸島のニクマロロ島とマーシャル諸島のミリ島では約1700キロも離れている。

どちらが真実なのやら。それともどちらも間違いなのか……

それに加えて、この時代のマーシャル諸島は日本の委任統治領だから後世、日本軍がアメリア・イアハートを捕まえたなんて陰謀説が出てたりしている。

やれやれ困ったもんだ。

侮ってもらっては困るな。日本海軍は女性を捕まえて密かに拘束なんて事はせんぞ。


●7月7日、史実通り盧溝橋事件が勃発した。

これから日本は中華民国と長い戦争に突入していくだろう。

それにしても、史実でも今回の歴史でもこの件について陛下はお怒りだそうだ。

満州事変の時と合わせて、中央の命令を聞かず出先の独断で朕の軍隊にあるまじき卑劣な方法を用いるとお怒りになったらしい。

確かに光輝ある大日本帝国軍が謀略を使って戦争を起こすのはいかがなものか。

陛下の言う事は正しい。

でも盧溝橋事件に関しては中国側の謀略という話もあった筈だが、陛下の情報では日本側の謀略か。

陛下の情報源はいかなるものか、ちょっと興味が湧く。



〖7月の国外情勢として…〗


◯7月8日、史実通り、イラン、イラク、トルコ、アフガニスタンの四カ国が「サーダーバード条約」を締結した。相互不可侵条約だ。東アラブの結束を目指したものだが、この四カ国が手を結んでもその力は……この時点では弱いねぇ。





〖8月〗


●8月13日、戦火が上海に飛び火した。史実通り第二次上海事件が発生したのだ。

中華民国との戦いは拡大する一方だ。


●8月19日、史実通り2.26事件で有罪判決を受けた北一輝ほか数名が処刑された。

事件から一年以上経ってようやく決着か。遅い。でも、まぁ現代日本の裁判よりは速いか。

現代日本の裁判ってやたら時間がかかるからね。かかり過ぎだよあれは。


●8月26日、史実通り中国でイギリスのヒューゲッセン駐中大使がイギリス国旗を掲げた車で移動中、日本軍機の機銃掃射で負傷するという事件が発生した。

最悪だ。当たり前の事だがイギリスが凄く怒っている。

航空部隊は目標確認をもっとしっかりしてくれないと困る。



〖8月の国外情勢として…〗


◯史実通り8月12日に、イラク王国軍のトップであり政府に大きな影響力を持つバクル・スィドキー・アル・アスカリ将軍が暗殺された。

アラブにおいて近代国家の時代になって初めて軍事クーデターを起こし成功させた軍人だ。だが現代日本での知名度は無いに等しい。

スィドキー将軍が軍事クーデターを起こしたのは前年1936年10月の事だから、その栄華は1年ももたなかった事になる。哀れな。

スィドキー将軍を暗殺したのは軍の将校団だ。飼い犬に手を噛まれたというわけだ。とは言えスィドキー将軍とは敵対していた軍人の派閥に所属する将校団だからある意味仕方がないと言える。しかし哀れな。

史実通りとは言え将来の日本にとっては残念な事だ。

何せこのスィドキー将軍は反英派だ。

親英政権の政策が不満でクーデターを起こしたのだ。

ちなみにイラク王国のトップは国王だ。

しかしイラクの国王は25歳の若き青年のガージー国王で、実際には実権は無いに等しく象徴的存在に近い扱いだ。

そのガージー国王も反英派でスィドキー将軍のクーデターを承認していた。

このまま、ガージー国王とスィドキー将軍の反英コンビでイラクが纏まり国を動かしていってほしかったのだが。

しかし、スィドキー将軍が暗殺された後にイラク政府の実権を握ったのは親英派のヌーリー・サイードだ。

またもやイラクは親英派の国になってしまった。残念だ。

だが、まぁ、歴史上ではそれはもう一度ひっくり返る筈だがね。



◯史実通り8月21日に、中華民国とソ連が「中ソ不可侵条約」を締結した。

中華民国はこれでソ連の脅威を懸念する事なく対日本戦を遂行できる。

ソ連としては軍部の大粛清をしたばかりだから、この時点では他国と揉めたくはないし、日本軍がシベリアへの野心をあらわに動き出すのは困るだろう。1918年の日本のシベリア出兵のような事態は避けたい筈だ。

日本が中華民国と戦争をしてシベリアの安全が保たれれば有り難いという事だろう。

つまりはソ連と中華民国の両国の利害が一致しこの不可侵条約の締結となった。

だが今のところは日本にとって致命的という話でもない。





〖9月〗


●9月4日、史実通り内モンゴル地方で「チャハル作戦」を展開中の関東軍の成果により、傀儡政権の「察南自治政府」が成立した。

これは手始めに過ぎない。


●9月12日、史実通り中華民国政府が日本との戦争について国際連盟に提訴した。

国際連盟では専門の委員会を設置して調査検討する模様。

要は中華民国政府は世界に泣きついたわけだ。

情けない。中国四千年の歴史はどうした?

中華は世界の中心たる中華思想はどうした?

…とは言えんわな。

これまで世界の列強に食い物にされてボロボロだからね。仕方ないね。


●9月28日、史実通り国際連盟で日本の空爆が民間人をも巻き込む無差別爆撃だという非難決議が採択された。

事実なだけに否定できないのが辛い。

現状では無差別爆撃になるような爆撃方法はやめた方がいいと思うが、自分は単なる海軍の一次官。どうにもできない。

何せ海軍だけならまだしも、陸軍でも無差別爆撃は行われる。

後に支那派遣軍参謀長は陸軍大臣に、中国人を恐怖させるため無差別爆撃を行っていると報告してるくらいだ。

陸軍の作戦に海軍次官がとやかく言う事はできないからね。


だが、こうした戦略爆撃の実施は史実において、後に日本に大きく跳ね返って来る事になる。

アメリカとの戦争中におけるアメリカ軍機による日本本土空襲だ。

日本軍機はアメリカの都市を戦略爆撃はしなかった。能力的にできなかっただけだが。

それはともかくルーズベルト大統領は日本との戦いにおいて容赦しなかった。

日本が中華民国に対し戦略爆撃をやっている以上、同じ作戦を日本に行っても当然だろうという考えだった。

実際、ルーズベルト大統領は「奴らが始めたのだから奴らにも喰らわせてやれ」と発言し、日本の都市に対する戦略爆撃を実施させた。

これについてはドイツも同様だ。

ドイツもアメリカを戦略爆撃はしなかった。ただしイギリスには行った。

それで、やはりドイツ本土もアメリカ軍機にる戦略爆撃を受けている。

戦争とは容赦なきものだ。

自国だけが使え、相手は使ってこない作戦や兵器なんて物は無いと考えるべきだ。

だが、しかし、日本の戦略爆撃はどうあれ、今回の歴史では自分はアメリカの日本に対する戦略爆撃を許す気はないぞ。

残念だったなルーズベルト大統領。





〖10月〗


●10月2日、史実通り朝鮮で「朝鮮総督府」より全朝鮮市民に向け「皇国臣民の誓詞」が頒布された。

これは簡単に言えば朝鮮人に皇国臣民としての自覚を促し、陛下への忠誠と国に報いる心を持ちなさいと教えるものだ。

朝鮮には日本の植民地として、戦争を支えてもらわないといけない。

そうしなければ、あと数年後に起こる太平洋戦争でアメリカとは戦えない。

国力10倍、人口2倍のアメリカを相手に戦うには、朝鮮は日本の後方地帯として物的資源、人的資源の供給地として欠かせない要素だ。


日本が朝鮮を支配していた時代、日本政府は朝鮮総督府の予算に補助金を出し、更には朝鮮総督府の公債も購入して朝鮮の財政を支えていた。

それにより大いに発展したのが朝鮮の工業界だ。

ダムが作られ電力が増強され鉄道や道路等が作られてインフラが整備された他に、工業界にも助成金が出された結果、朝鮮の工業界はその生産性を上げる。

例えば金属工業の分野で言うと日中戦争の始まった1937年の時点での指数を100とすると、太平洋戦争が始まった1941年の指数は193となり殆ど倍増している。

朝鮮で採掘される鉱物資源も当初は日本で精製・加工されていたものが1941年頃からは朝鮮国内でも可能となりアルミ等が加工されていた。

史実において朝鮮の工業界は日本の戦争を支える需要な軍需工場の役割を果たしていたのだ。


ちなみに朝鮮の工業界の資本を握っていたのは日本人だ。約9割が日本人だった。重化学工業の分野に限って言えば、その割合は殆ど10割となる。

つまり朝鮮工業界が発展し利益が出るという事はそれだけ日本人が儲かるという事だ。

そして当然、朝鮮総督府の税収も増える。

朝鮮総督府の税収は1931年で4000万円だった。それが1937年には8100万円に増加し1941年には1億9400万円にまで増えている。

この他に鉄道等を始めとする朝鮮総督府による公営事業の収入も増えている。

その収入は1931年で1億2100万円だった。それが1937年には2億3500万に増加し1941年には4億3400万円にまで増えている。

これもインフラ整備と工業界への助成が一因だ。


それに元々のインフラ整備にしても、当然それを行うのは工業界だ。

前述したように、朝鮮での工業界を牛耳っているのは日本人。

朝鮮総督府の事業を請け負う工業界で一番利益を得るのは日本人なのだ。

これは現代日本で一時期問題になったODA(政府開発援助)の構造と似ている。

ODA(政府開発援助)で外国に資金が投入されインフラが整備される事になっても、その事業を受注するのは日本の企業であり、実質的な金銭の利益は日本の企業が得て、あまり外国には資金が落ちなかったという事例だ。

この時代の朝鮮も大同小異の状況であり、朝鮮経済の発展で利益を得ていたのは日本人なのだ。


それにインフラ整備では朝鮮人を安価な労働力として活用できた事も特筆すべき事だ。

工業界に欠かせない電力を供給する水力発電所の建設とその運営、維持に当たった発電事業会社の中には、非常に安価に建設できたと記録しているものもある。


そして忘れてならないのは軍事費だ。

朝鮮総督府の軍事費というのは日本軍のために使われる軍事費に他ならない。

日中戦争が始まった1937年だと、その軍事費は1100万円だった。ついでに言うとこの年に日本政府が朝鮮総督府に出した補助金は1300万円だった。

この軍事費が翌年には2900万円と倍増以上となる。日本政府からの補助金の額は1300万円と変わらない。

軍事費は年々増加し太平洋戦争が始まった1941年には1億3800万円にもなっている。日本政府からの補助金の額は1300万円と変わらない。

日中戦争が始まった1937年から太平洋戦争が終わった1945年までの朝鮮総督府の軍事費の総計は19億1700万円だ。同じ期間における日本政府からの補助金の総計は1億1700万円だ。

つまり朝鮮総督府の税収から得られる軍事費は、1938年からは日本政府の補助金の額を大幅に上回り、日本の戦費として大きく貢献していたのだ。

こういう数字は「朝鮮総督府統計年報」を見ればわかる。


日本政府が購入した公債だが、この公債の額の方が、日本政府が朝鮮総督府に出していた補助金よりも遥かに大きい。

日中戦争が始まった1937年だと朝鮮総督府の公債を日本政府は5100万円も購入している。

だが公債は債券であり償還される。つまり満期になれば利子付きで戻ってくる。日本もお人好しではないから朝鮮総督府の財政支援には公債に重点を置いたのだ。

軍事費と公債の収支は年ごとに当然変わるので、一定していないが、太平洋戦争が始まった翌年1942年の例を上げてみよう。

日本政府は朝鮮総督府の公債を1億6600万円購入すると共に、補助金を1300万円出している。つまり合計1億7900万円の支出だ。

この年の朝鮮総督府の軍事予算は2億4600万円であり、日本に償還した公債の額は5000万円だった。つまり合計2億9600万円の収入だ。

朝鮮総督府から日本政府に2億9600万円が支払われ、日本政府から朝鮮総督府には1億7900万円支払われたと考えていい。

差し引き1億1700万円の日本政府の増収となったわけだ。

ただし年によっては日本政府が購入した公債の額が大きく減収となる年もある。まぁ公債だから後に償還される見込みがあるわけだが。

日本に償還される公債の額も年々大きくなり1937年には3000万円だったのが、終戦の1945年には1億円を突破していた。

そんなわけで購入する公債の額は大きくても損というわけではない。


現代日本において、たまに「日本は朝鮮のために莫大な投資を行い、無駄になった」なんて言う説を見掛けたりする。

だが、それは日本が朝鮮から得た直接的な軍事費や、朝鮮での軍需生産、日本人企業家や投資家が得た利益を無視している。

そして投資しなければ利益も生まれないという経済の根本原則が分かっていない。


また同様に「朝鮮には資源は無かった」なんていう説を見掛けたりする事もある。

これも疑問だ。

金、銀、タングステン、銅、亜鉛、鉛他、鉱物資源が採掘されており朝鮮総督府はそうした鉱山事業に助成金を出し鉱山周辺のインフラも整備している。

助成金を出す価値があるほどの生産量はあったわけだ。

何せ戦争末期で言えば日本が国外から得ていたタングステンの約9割、コバルトやマグネサイトの10割、モリブデンの約8割が朝鮮から産出されたものだった。

日本は各種資源の確保に苦労していたわけだが、こうした朝鮮からの鉱物資源の輸入が無ければ、当然、日本の資源確保の苦労は更に増していただろう。


ところで日本は鉱物資源でも特に金鉱山には力を入れていた。

1931年の朝鮮における金の産出量は約9トン。当時のレートで約1億2000万円に相当した。

1931年における朝鮮総督府の歳入額は2億1400万円だから、どれだけ経済的に規模の大きい金の産出量があったかはわかるだろう。

金の生産量も年々上がっており後には年間14トンも産出している。

更には銀もある。銀の年間産出量は約39トンにもなった。

金と銀だけでも充分に重要な資源があると考えられる。だから「朝鮮に資源は無かった」なんて事はない。


農業も忘れてはならない。

日本は既に戦前から食糧輸入国家だった。

その国内で全てを自給できない食糧の重要な供給地の一つが朝鮮だった。

戦前で言えば年によって変動するが、日本で足りない米の約4割から7割を朝鮮からの輸入で補っていた。

特に戦時中は、朝鮮総督府は日本へ送る米を確保するために朝鮮の農家に割り当て量を定めて米を供出させている。

生産高に対するその供出量は年ごとに変動もしているが、多い時では朝鮮で生産された米の約6割が日本に送られている。

戦時中、日本では食糧不足に陥っていたが朝鮮からの米が無ければ日本は更に食糧

不足を深刻化させていただろう。


人的資源にしても日本は働き盛りの世代を徴兵で軍務に就かせるため、日本国内の労働力が不足する。

その穴を埋めるためにも朝鮮人労働者は必要だ。

史実では戦時中に約200万人が日本国内で働いていた。

戦地でも必要だ。

例えば南洋の最前線たるタラワ島には防備施設を築くために朝鮮人労働者が1000人以上も送られた。これは一例に過ぎない。

1942年にパプア・ニューギニアで南海支隊が陸路ポートモレスビーを攻略しようとしたが、ジャングルと山岳の過酷な地で道路も無い事から人力で補給物資を運ぶしかなかった。それにも朝鮮人労働者が使われている。

他にも太平洋各地で朝鮮人労働者は必要とされた。

他にも朝鮮人で軍人や軍属として戦争に参加した者は36万人いる。


そんなわけで太平洋戦争を勝ち抜くには朝鮮からの税収、鉱物資源、人的資源、食糧、そして日本が作り上げた朝鮮工業界が必要だ。

朝鮮を日本の国益に叶うよう利用する事が是非とも不可欠だ。


そして太平洋戦争に勝利すれば日本による朝鮮の支配は続き、そこから得られる利益もこれまでのように日本が享受していく事になるだろう。

何せ朝鮮の税収と経済界を握っているのは日本なのだから。

今回の歴史では、今も昔もこれからも朝鮮には日本の植民地として、日本が繁栄するための一助としての役割を担ってもらおうか。くっくっくっ。

利用し尽させてもらうよ。


●10月5日、史実通りアメリカのシカゴでルーズベルト大統領が「隔離演説」を行った。侵略国は隔離が必要という事で直接的に名前は出ていないものの対象としているのは日本、ドイツ、イタリアなのは明らかだ。

実害は無い。好きに言わせておけばいい。


●10月6日、史実通り国際連盟で日中戦争について調査検討していた委員会が作成した「日中紛争報告書」が提出され全会一致で採択された。

その結論は次の通り。全て日本に不利な内容だ。

◎日本の軍事行動は自衛の範囲を超えている。

◎九カ国条約違反にあたる。

◎不戦条約違反にあたる。

◎日中二カ国交渉では既に事態の解決は不可能であり九カ国条約締結国による会議を招集するべき。

と、いうものだが、まぁ事実だから仕方がないし、これも史実通りの話ではある。


●10月15日、史実通り9月の「察南自治政府」に続く形で、傀儡政権の「晋北自治政府」が成立した。

この動きはまだ続く。


●10月25日、史実通り「企画院」が設立された。重要産業の生産拡充計画を受け持つ「企画庁」と物資の動員計画を受け持つ「資源局」を統合し戦時統制経済を効率的に行おうという構想で設立されたものだ。

今回の歴史では大戦中盤以降から大きく史実とかけ離れるだろう事が予想される。いや予想されるじゃなくて自分がそうする。そう動く。そうなると戦時経済も史実とはかなり変わって来るだろう。「企画院」の働きには期待したい。「企画院」が下手な手を打てば日本の経済が上手くゆかなくなるからね。


●10月28日、史実通り「察南自治政府」「晋北自治政府」に続き、三つ目の傀儡政権である「蒙古聯盟自治政府」が成立した。

内モンゴルは日本の傀儡政権の自治政府だらけだ。



〖10月の国際情勢として……〗


◯「スペイン内戦」で大きな動きがあった。

史実通り「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」が首都をマドリードからバルセロナに移転した。

それだけ戦局が不利になっているという事だ。





〖11月〗


●11月3日、史実通り中華民国の要請でベルギーのブリュッセルにおいて「九カ国条約会議」が開催された。

「九カ国条約」は1922年のワシントン会議で、アジアに権益を持つ九カ国によって締結された中国の領土の保全や貿易に関する条約だ。

九カ国は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、ポルトガル、中華民国、そして日本だ。この時のワシントン会議にはソ連は参加していない。

史実でも今回の歴史でも、ベルギーで開かれた「九カ国条約会議」については日本にも参加要請が来たが、日本政府は応じなかった。


史実では、その日本不在の「九カ国条約会議」の席上で、中華民国は日本に対する批判と経済制裁の提案を行う。

しかし、アメリカをはじめとする国々は経済制裁には同意しなかった。

同意したのは一国だけ。この時の会議には参加していたソ連だけだ。

アメリカとしては日中戦争の発生で戦争特需が生じ、日本と中華民国からの戦略物資の買い付けが増大した。世界大恐慌の影響を未だ脱し切れていないアメリカにとっては有り難い話だ。だから中華民国の提案した経済制裁案に賛成しなかった。

賛成すれば日本に戦略物資を売却して利益を得る事ができなくなる。

他国はアメリカに追随した感じだ。

ただ一国、中華民国に賛成したソ連としては、日本と中華民国が揉めていてくれた方が自国の安全保障上安心できる。特に日本の弱体化は望ましい。

だからソ連は中華民国の経済制裁案に賛成した。

それどころかソ連は来年には中華民国に大量の軍事援助を行う事になる。

今回の歴史でもその史実通りの展開になるだろう。

有り難い事に、日本にとって今のところは「九カ国条約会議」を無視しても問題は無いし、アメリカの動きは日本に有利になっている。


●11月6日、史実通り「日独伊防共協定」が締結された。

日独伊三国同盟の前段階だ。

それに加えて11月26日にはイタリアが満州国を承認してくれた。

その代わり日本はイタリアのエチオピア支配を認めるという交換条件だ。

ムッソリーニ首相もタダでは動かんか。ちやっかりしてるね。


●11月20日、史実通り「大本営」が組織された。

「大本営」は戦時下において日本軍の最高司令部となるためのものだ。だから平時には組織化されない。戦争が始まると組織され戦争が終わると解散される。

これまで「大本営」は2回組織された。「日清戦争」と「日露戦争」の時だ。

その「日露戦争」から32年振りに「大本営」が組織された。

とは言っても実態は殆ど「海軍軍令部」と「陸軍参謀本部」とが合わさった物と言える。

だが、問題はここで「大本営」を組織するという事は、日中戦争が当初の見込みよりも極めて長くなる事を軍上層部も覚悟したと言える事だ。

戦争の終盤が見えているならわざわざ「大本営」を組織する事もない。

やれやれ長期戦の覚悟か。

まぁ史実通りの話ではある。

ところで史実では、この日は奇しくも中華民国政府の蒋介石主席が首都を南京より重慶に遷都する事を決定している。

遷都と言えば聞こえは良いが、その実態は逃げる事に他ならない。

遠くに逃げられると困るんだよなぁ。


●11月22日、史実通り内モンゴルの日本の傀儡三政権「察南自治政府」「晋北自治政府」「蒙古聯盟自治政府」が合流し統合され「蒙彊聯合委員会」が成立した。

ようやく一つになったか。



〖11月の国際情勢として……〗


◯史実通りブラジルでヴァルガス大統領が新体制国家法を制定した。簡単に言えば国を独裁制にする法だ。

史実では第二次世界大戦にブラジルは参戦し大戦後半にはイタリア戦線に陸軍を派遣して連合軍の一翼を担っている。

今回の歴史では、できれば中立を維持させたいが……





〖12月〗


●12月1日、史実通り日本政府がスペイン内戦中の「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」を正式政府として承認した。

翌日の2日には日本に続き満州国も「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」を正式政府として承認した。

スペインの「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」のフランコ将軍も律儀なたちらしい。「ナショナリスト政権(反乱軍・フランコ政権)」も満州国を承認して相互承認となった。

全ては史実通りの展開だ。


●12月12日、史実通り日本軍機が中国で、アメリカの砲艦パナイ号以下数隻を誤爆する「パナイ号事件」が発生した。

最悪の事態だ。

史実でも今回の歴史でも、アメリカ政府の閣議において日本へ宣戦布告をする話もでたらしい。

この事件について軍からの代表の一人として自分もアメリカとの折衝に奔走するが大変だった。

師走の忙しい時に厄介事とは困ったものだ。

だが、この時点でのアメリカとの対立関係は根回しに利用できる。これで動きやすくなった。


●12月13日、史実通り中華民国の首都「南京」を日本陸軍が占領した。

よしっ! 一国の首都を占領するという軍事的成功は近代戦の時代になって、そうそうある事じゃない。これは大きな成果だ。

とは言え、日本軍はこれから泥沼の戦いに嵌っていくだろう。

しかし、海軍の一次官にしか過ぎない今の自分にはどうする事もできない。

まぁ中国との関係は、アメリカとの戦争で大勢が決した後にどうにかできるだろう。ともかく今は放っておくしかない。


●12月14日、史実通り北京に「中華民国臨時政府」が成立した。日本の傀儡政権だ。

その支配地域は北京を中心に北海道3個分ぐらいの大きさだ。中華民国全体の大きさから言えば、その支配地域はまだまだ小さい。

それにしても陸軍はどれだけ傀儡政権が好きなのか。日中戦争が始まって以来4つ目の傀儡政権だ。

しかも、史実ではこれで終わりではないとくる。

陸軍の仇名に傀儡政権製造機と付けたくなるよ。



〖12月の国外情勢として…〗


◯史実通りイタリアが国際連盟から脱退した。

1935年にエチオピアを侵略し翌年には併合を成功させたものの国際連盟からは経済制裁を受け不本意な状況だった故だろう。



◯12月20日、史実通り第一次世界大戦におけるドイツ軍の立役者の一人であったエーリッヒ・ルーデンドルフ元大将が亡くなったとの報が入って来た。

第一次世界大戦では東部戦線における「タンネンベルクの勝利」を演出し、大戦後半には殆ど独裁と言ってもよい体制でドイツ軍を指導していた。

戦後は国会議員になったりヒトラーと共闘したり離れたり、大統領選に出て敗北したりと忙しかった人だ。

まぁそれはよく知られた話だ。自分が興味があるのは戦後にルーデンドルフがドイツ経済界の一部から資金援助を受け、ヴィッテルスバハ家復興に動いたという話がある事だ。

第一次世界大戦当時のドイツ帝国は22の国と3つの自由都市からなっていた。

その中には4つの王国、6つの大公国、5つの公国、7つの侯国があった。

そうした国制の中でドイツ南部にあったバイエルン王国の王位にあったのがヴィッテルスバハ家だ。戦後はドイツ革命により外国への亡命を余儀なくされている。

戦後のワイマール共和国という体制の中で、かつての利権を失った経済界の一部には、共和国を倒し過去の王制を復活させ再び利権を得ようという動きがあり、軍部の重鎮だったルーデンドルフの力を期待して多額の資金援助をしたという話がある。だが、その動きの詳細まではわからない。

バイエルン国王だったルートヴィㇶ三世は1921年にハンガリーで亡くなっているから、バイエルン王国を復興させるなら恐らくルーブレヒト皇太子を担ぎ上げるだろうが、そのへんのところが表の歴史からは見えてこない。

興味あるんだがなぁ。もし現代日本に帰れる時があったらもっと詳しく掘り下げて調べてみたい事柄の一つだ。

ところで、このルーデンドルフは戦略の思想家でもあり実行者でもある。

ルーデンドルフの提唱した「国家総力戦」という戦略思想は世界に大きな影響を及ぼした。戦後にルーデンドルフはその戦略思想を題名もそのままに「国家総力戦」という本にして出している。

この「国家総力戦」という思想は日本陸軍にも大きな影響を及ぼしている。

戦前に日本ではそのルーデンドルフの本が翻訳されている。三〇書房から「国家総力戦」と、朝◯新聞社から出された「世界大戦を語る」だ。

この二冊は現代日本でも図書館で読める。

だが、他にも翻訳されたルーデンドルフの本が一冊ある。

「統帥及戦略」だ。実はこれ海軍軍令部が内部資料として翻訳したもので一般には出回らなかったのだ。現代日本でも国立国会図書館にも置いていない。

あぁぁーーーーーっ!

せっかくこの時代に山本五十六として生きているのに忙しさにかまけて、自分はまだこの「統帥及戦略」を読んでませんがな。何をしているのだ自分は! せっかくの機会だ、今度、上京した時に借りて読むとしよう。楽しみだ。ふっふっふっ。





『1938年』


〖1月〗


●1月某日、牧野伸顕伯爵にお会いできた。

一年前に牧野伸顕伯爵にお渡しした手紙は、この1年の間に起きる国際関係の出来事を予見したものだ。

それは全て実現している。

史実を知っているからこそできる裏技だ。と言うより詐欺だろう。

ともかく完全に牧野伸顕伯爵は山本五十六という男には計り知れない先見の明があると心酔してくれたらしい。

そして色々と長い話をして将来起きるかもしれないアメリカとの戦争に備えるための助力をと頼むと快く力を貸してくれると言ってくれた。

助かる。これであの「組織」に伝手ができる。


●1月16日、史実通り近衛首相が声明を出した。日中戦争について「帝国政府は今後、国民政府を相手とせず」だ。

これで一旦は日本政府と中華民国政府の和平交渉の道は閉ざされる事になる。

だか、それは表向きだろう。幾らでも後から外交チャンネルは開ける。





〖2月〗


●2月某日、東京のとある料亭で、牧野伸顕伯爵の紹介でとある「組織」の代表と極秘裏に会う事ができた。

色々と話をした。そして、将来起きるかもしれないアメリカとの戦争に備えるための助力を宜しく頼むと自分の頭を下げたが、相手は海軍次官の中将に頭を下げられた事にとても驚き、それならばと快く力を貸してくれると言ってくれた。

人材も提供してくれるそうだ。

ありがたい。これからもアメリカに勝つのに必要なら幾らでも自分の頭を下げるつもりだ。





〖3月〗


●3月28日、史実通り日本の傀儡政権たる「中華民国維新政府」が南京に成立した。

その支配地域は南京と上海を中心とする地域だ。

日本陸軍が作った傀儡政権はこの戦争がはじまってからは五つ目だ。どれだけ傀儡政権好きなんだ陸軍は。

後世、歴史を勉強する人が大変だろうが!

ともかく、内モンゴルの「蒙彊聯合委員会」、北京を中心とする「中華民国臨時政府」、そして南京を中心とする「中華民国維新政府」の三つの地方傀儡政権が並立する事となった。



〖3月の国際情勢として……〗


◯3月、史実通りドイツがオーストリアを併合した。

作戦名は「オットー」

3月12日にドイツ軍3個軍団が国境を越え平和進駐し、翌日にはオーストリアはドイツの一部であるとの声明がドイツ政府から出された。正に電光石火!

やるなぁヒトラー!

そしてイギリスとフランスは指を銜えて見ているだけとは不甲斐ない。

それにしても史実によるとドイツ軍はこのオーストリアへの進駐作戦計画を数時間で作成したそうだ。大したものだ。

だが、トラブルがなかったわけじゃない。

急遽開始された作戦なために補給計画等に連絡不備が発生した。

装甲部隊ではオーストリアまでの燃料を保有しておらず、途中の燃料貯蔵所において燃料を補給しようとしたが、その燃料は対フランス戦のための物で、それ以外の使用は許されておらず、更にこの燃料関係の責任者は「オットー」作戦について知らされていなかったため、装甲部隊に燃料を供給する事を拒否した。

ここで、部隊を率いていた「ドイツ戦車部隊の父」と呼ばれる装甲部隊の第一人者グーデリアン将軍は、力ずくで脅迫し燃料を供給させたと言う話だ。

力ずくで脅迫ねぇ。やるなぁグーデリアン将軍、剛腕発揮だ。

戦後にグーデリアン将軍が出した回想録「電撃戦」に書いてある事だから間違いない話だろう。

それと装甲部隊にはオーストリアの地図もなかったそうだ。これについては旅行者用の旅行案内書で間に合わせたそうだ。臨機応変だね。

何かこうドイツ軍の作戦というと、自分としては細かいところまで行き届いて隙の無いイメージがあったりするのだが、このオーストリア進駐では以外とそうでもなかったという感じだ。

まぁ急遽行われた作戦だから不備の二つや三つあってもおかしくはない話だが。

そう言えばグーデリアン将軍は、このオーストリア進駐でマントのボタンを全て失ったそうだ。

オーストリアに入ったドイツ軍は沿道につめかけた民衆に歓迎されたそうだ。民衆はドイツ軍に歓声をあげ、花を投げ、手を振り、兵に抱き着き、涙を流し、食べ物をくれる大歓迎ぶりだっそうだ。

その歓迎はオーストリアの首都ウィーンに到着してもかわらない。

ウィーンではグーデリアン将軍は歓迎する群衆に胴上げされたそうだが、その時に、群衆にマントのボタンを全て記念にと、とられてしまったという話だ。

ボタンか……

現代日本の学校の卒業式で制服のボタンを記念に渡すなんて風習が戦後に出来たけど、似たような事は外国でもあるもんなんだなぁと、グーデリアン将軍の回想録「電撃戦」を読んで思ったものだ。

これらの事はきっと今回の歴史でも起こっているだろう。





〖4月〗


●4月1日、史実通り「国家総動員法」が施行された。

この法により政府は戦争のために人的資源と物的資源を好きに統制する事が可能となった。

国民の生活が窮屈になったわけだ。できるだけ早く停止させたい法だね。


●4月25日、 史実通り海軍次官のまま海軍航空本部長を兼任する事になった。

忙しくて過労死しそう。でも給料増えたから頑張る。





〖5月〗


●5月12日、史実通りドイツが満州国を承認した。

イタリアと違って承認するための交換条件は無しだ。

いいとこあるねヒトラー総統も。

まぁ反共産主義で日本との関係を強化したいだけなんだろうけど。



〖5月の国際情勢として……〗


◯5月3日から10日まで、史実通りドイツのヒトラー総統があのイタリアを訪問した。

両国の関係は深まり「ベルリン・ローマ枢軸」と各国の新聞に報道される。

だが、ヒトラー総統とムッソリーニ首相の関係はともかく、イタリア王室の人々とヒトラー総統の関係はあまりよくなかったようだ。

史実によるとヒトラー総統はイタリア王室の宮殿に宿泊する事になったが、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世はヒトラー総統の礼儀作法に不満だったようであり、エレナ皇后はヒトラー総統の護衛に同行したSS隊員が宮殿内にいる事が不愉快であり、ウンベルト皇太子は寝所に提供した自室に、ナチスの旗が飾られているのが不満だったようだ。

更に国王はイタリア王室の主催するレセプションの招待客リストに、ドイツ側の要請でヒトラー総統のお抱え写真家という大して地位があるわけでもない者が加えられた事にもご立腹だったらしい。

ヒトラー総統はヒトラー総統でレセプションで自分より背の高いエレナ皇后のエスコート役になる事が不満で、それを表情に出していたらしい。

晩餐会では国王エマヌエレ三世は大急ぎで食事を終えてしまったとか。

国王が食事を終えれば、全ての皿は片づけられ終わりとなる。そのためヒトラー総統はろくに食べる事ができなかったそうだ。

ヒトラー総統はヒトラー総統で宮殿滞在中、ベットメイクやら何やら我儘を言っていたらしい。

何というか呆れてしまう。

イタリア王室の人達もヒトラー総統も自分達の歳を考えろと言いたくなる。

国を代表する地位も身分もある身だろうに。

持て成す側も、持て成される側も、もっと相手に気遣いを、と言いたくなる。

ところで、5月5日にはヒトラー総統はナポリでイタリア艦隊による観艦式に参加している。イタリア艦隊旗艦の戦艦「コンテ・デ・カブール」に国王エマヌエレ三世と共に乗りイタリア艦隊の観艦式を見たそうだが、実に羨ましい話だ。

これらの事はきっと今回の歴史でも起こっているだろう。





〖6月〗


●6月13日、史実通りソ連で続行中の「大粛清」から逃れるため内務人民委員会のリュシコフ極東局長が亡命して来た。

内務人民委員会とは要するに秘密警察だ。彼はソ連連邦最高会議議員でもある。大物だ。彼の情報は日本の役に立つだろう。





〖7月〗


●7月29日、史実通り「張鼓峰事件」が発生した。朝鮮、満州、ソ連との間で不明確な国境地帯での国境紛争だ。

日本軍は朝鮮に駐屯している部隊が主力となりソ連軍と交戦した。

国境紛争というのは厄介だ。これからも続くし、下手をすれば大規模な戦いになる。困ったものだ。



〖7月の国際情勢として……〗


◯7月5日、史実通りドイツが中華民国に派遣していた軍事顧問団を引き揚げた。

ドイツと蒋介石主席は1928年より関係がある。この頃はドイツ政府は関与しておらず元ドイツ軍人を蒋介石主席が軍事顧問に雇うという形だった。

それを後にドイツ政府の政策として中国との関係強化から軍事顧問団を強化する事になる。

これにより中華民国軍内で8万人の兵士と1万5千人の将校がドイツ軍式の訓練を受け部隊が編成された。

上海での激戦はドイツ式に訓練された中華民国軍相手の戦いだった。

しかし、今やヒトラー総統は中華民国よりも日本との関係強化をお望みだ。

ドイツの軍事顧問団が引き揚げるのは良い事だ。

今年3月から4月に掛けて行われた「台児荘の戦い」で日本軍は撤退を余儀なくされ、中華民国軍の勝利となった。だが、実際に中華民国軍側の作戦計画を立てたのはドイツ軍事顧問団だ。

ドイツ軍事顧問団はそれだけ危険な存在だ。

去ってくれるのは有り難い。



◯7月25日、史実通りスペイン内戦において「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」が後世から見て最後の攻勢に出た。

「エブロ河の戦い」と呼ばれる戦いだ。だが、この作戦は史実通り失敗に終わるだろう。成功すれば、まだ希望は持てるのだが……





〖8月〗


●8月16日、史実通り日独親善で「ヒトラー青年団」の代表団30人が海路、横浜港に到着した。

ドイツでは10才から18才の青少年全員がこの「ヒトラー青年団」に入る事が法律で義務付けられている。その中から選抜された代表団だ。

まぁゆっくり観光していって下さい。



〖8月の国際情勢として……〗


◯史実通りイランにおいて「イラン縦貫鉄道」が完成した。

ペルシャ湾から首都テヘランを通りカスピ海までイラン国内を縦に繋ぐ鉄道だ。

面白くない事態ではある。

何せ史実では第二次世界大戦中、この「イラン縦貫鉄道」を利用してアメリカとイギリスがソ連に大量のレンドリース(軍事供与)を送っている。

だが戦争の始まっていない今の段階では如何ともし難い。





〖9月〗


●9月30日、史実通り国際連盟の対日経済制裁が発動された。

だから空爆でも無差別爆撃ととられるような爆撃方法はやめた方が良かったのだ。



〖9月の国外情勢として…〗


◯史実通り、9月29日からドイツのミュンヘンで「ミュンヘン会談」が行われ、翌30日には「ミュンヘン協定」が調印された。

ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ首相、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相が、この春より紛糾の度合いを深めつつあるチェコのズデーデン地方について話し合った。

そしてドイツはズデーデン地方の割譲を受ける事になった。

ヒトラー総統の「ズデーデンがヨーロッパにおける最後の領土的要求」という主張を信じたイギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相は、戦争を回避するためにチェコを犠牲の羊とした。

チェコ政府は蚊帳の外。

チェコは1924年1月にフランスと相互防衛条約を結び、1935年5月にはソ連と相互防衛条約を締結している。

だが、どちらもチェコを助けるためには動かなかった。

酷い話だ。

条約なんて紙切れに過ぎないと痛感する出来事だ。信頼できるのは自国のみ!だ。

会議には出席できなかったが別室で待たされていたチェコ政府特使にはフランスのダラディエ首相がミュンヘン協定の写しを渡した。

その時、チェコの特使は涙を流したそうだ。

気持ちはわかる。

自国の領土問題なのに会議の席にすら就けず、結果は隣国への領土の割譲。

それは泣きたくもなるだろう。

そして会談の結果についてチェコ政府は「我々は見捨てられた」とミュンヘン協定の受諾を発表した。

哀れなるかなチェコ政府。

同情しか浮かばない。

だが、それでもイギリスやフランスの民衆は戦争にならなかった事を喜び、自国に帰国したチェンバレン首相とダラディエ首相を讃えている。

全ては史実通りの出来事で今回の歴史も同じ道を歩んでいる。


それにしてもヒトラー総統め、やるなぁ。

1936年3月の「ラインラント平和進駐」に、今年3月の「オーストリア無血併合」、そして今回の「ズデーデン平和進駐」と、これで3回も血を流さずに領土を広げている。

元々、これら3地域は元はドイツの領土だった地域や、ドイツ系住民の多い地域だからドイツの領土にする大義名分が立てやすいとはいえ、下手をすれば戦争になった危険もあったのによくやる。

正に「戦わずして勝つ」だ。

ヒトラー総統め。西洋人の癖に東洋人の「孫子の兵法」を体得したとでも。

だがヒトラー総統よ、一つだけ言わせてもらおう!

軍では我儘言わずに出された物は黙って食べろ!と。

史実では10月1日からドイツ軍はズデーデン地方への進駐を開始した。

そして10月3日の朝にヒトラー総統はドイツ軍に合流した。その日の昼食は野戦炊事場でとることになったが、ヒトラー総統は出された牛肉入りスープに文句を付け食べなかったのだ。菜食主義だから。食べたのは林檎だけ。

ホテルやレストランにいるわけじゃないんだぞ!

作戦行動中の軍隊にいて我儘言うな! 贅沢言わずに黙って食べろ!

まったくこれだから権力者という奴は……

今回の歴史でもきっと同じ事が起こっているだろう。


それにしてもイギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相も、この時点では自国民からの評価も高く我が世の春だ。

だが、それも長くは続かない。せいぜい今の内にその栄華を味わっておくがいい。信義を軽んじる者には報いが来るのだよ。ふっふっふっ。 

そう言えば、この「ミュンヘン協定」の締結によって、チェコ以外のある国というか、ある政権の運命も決まる事になる。まぁそれは後々の話だ。





〖11月〗


●11月7日、史実通り近衛総理が「東亜新秩序」を発表した。

これは、アメリカに日本のアジアにおける植民地拡大政策と受け取られるだけだ。悪手だ。


●11月12日、史実通り日独親善で来日していた「ヒトラー青年団」の青少年達が神戸港より帰国の途についた。

それはいいのだが……

誰だ「ヒトラー青年団」の日本での日程を決めたやつは!

北は北海道から南は九州まで回るのはまぁいい。3ヵ月もあったからね。

だが見学先が問題だ。広島の厳島神社、京都の清水寺、三重の伊勢神宮、奈良の法隆寺、東京の靖国神社、他にも幾つか神社や仏閣を見学させている。

現代日本の中学校の修学旅行じゃあるまいし、何をそんなに神社仏閣を見せているんだか。

まぁ日本を代表する貴重な文化である事はわかりますよ。

しかし、ですね、十代半ばの青少年が外国の物とは言え、そういう物を見て本気で喜ぶとでも?

断言しよう! 神社仏閣を見て喜ぶ青少年なんてものは極めて珍しい極少数派だと!

もっと血沸き肉躍るような体験をさせてあげなさいって言うのですよ。

まぁ今更言ったところで手遅れだけど。


●11月15日、史実通り海軍航空本部長を免ぜられる事になった。

仕事は減って少しは楽になるけれど、その分、給料減って少々涙目。



〖11月の国際情勢として……〗


◯11月9日、史実通りドイツで「水晶の夜」事件が発生した。

11月7日にフランスの首都パリでドイツ大使館員がユダヤ人に撃たれ重体となり9日に死亡した。その報復として全ドイツでユダヤ人に対する弾圧が起こったのだ。

世界中からドイツに批判が殺到したが、それだけだ。抗議の声だけなら痛くもない。



◯11月10日、史実通り「トルコ共和国」の偉大なる英雄にして初代大統領のケマル・アタテュルクが死去した。

この人がいなかったら今のトルコは無かった。

第一次世界大戦の敗北で崩壊したオスマン・トルコ帝国の中から見事に共和国を建設してみせた。

議会からアタテュルク(トルコの父)と言う尊称を贈られたのも頷ける。

惜しい人が亡くなったものだ。



◯11月15日、7月から続行中の「エブロ河の戦い」はまだ続いているが、結果はもう明らかで敗北だ。

そして史実通りスペインのバルセロナで「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」側の「国際旅団」が解散式を行った。

「国際旅団」は義勇兵部隊であり「コミンテルン(世界各国の共産主義政党による国際連帯組織、当然の事ながら本家ソ連の影響力が大きい)」が創設した部隊だ。

「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」の承認を得て1936年10月22日に編成が開始され翌月の11月12日には戦場に派遣された。

この国際旅団に参加した義勇兵は6万人以上とも言われ50カ国以上の国々から参加したと言われる。

日本人も参加しておりジャック白井という人物が参加していた。ただ残念な事にこの人物は1937年7月に戦死している。この人物については現代日本では何冊か本も出ている。


それはともかく「国際旅団」が解散する事になったのはソ連が手を引いたせいだ。

今年9月の「ミュンヘン協定」の成立が、その要因となった。

当初、ソ連にはドイツの脅威に対抗するためにイギリスとフランスと手を組む意思があった。

しかし「ミュンヘン協定」でのイギリスとフランスはあまりに弱腰であり、特にチェコと結んだ相互防衛条約さえ守らないフランスは信頼できよう筈もない。

そのため、ソ連はドイツとの友好路線に舵を切る事にしたのだ。

そこで問題となってくるのがスペイン内戦だ。

ドイツは「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」のフランコ将軍を支援している。

しかし、ソ連は「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」を支援し軍事顧問と武器を送り資金援助している。「国際旅団」もその一環だ。

つまりソ連とドイツはスペイン内戦では敵対関係にある。

そこでソ連はドイツとの友好路線への手始めとして「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」への支援を打ち切ったのだ。軍事顧問を引き揚げ、武器と資金援助も停止した。

そして「国際旅団」も解散となった。

「ミュンヘン協定」の波及効果がこんな所に作用を及ぼしたわけだ。

そしてそれは「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」の運命を決定づける事となる。最大の支援者たるソ連が手を引けばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。

「国際旅団」の義勇兵は4646人が国外に退去したが約6000人が残留したと言われている。


ところで国際連盟では「スペイン内戦」への不干渉問題が以前より持ち上がっていた。

スペイン内戦でのどちらの陣営にも武器や兵士の供給はやめようという提案だ。

1936年9月には不干渉委員会が作られているし、1937年4月20日には海上査察が開始されているし、1938年5月には「義勇兵撤退案」が採択されている。

しかし、全く意味を為さなかった。

国際連盟は無力だ。





〖12月〗


●12月16日、史実通り日本政府の機関として「興亜院」が設立された。

日中戦争で確保した占領地の経済政策を統括する事を目的にして設置された機関だ。

実際には陸軍省、海軍省、大蔵省、外務省、農商務省やその他の機関の利権調整機関だ。

そしてこの「興亜院」にはもう一つ重要な役割があり、それが中国における阿片事業の統括だ。

日本は中国大陸で阿片売買で大きな利益を得ており、それは満州国も同様で重要な財源としていた。

その阿片事業による利益配分の調整等も「興亜院」が行っていた。

まぁ日本が資金を得るためには何でもやっていたという歴史の裏面のような話だ。

阿片の売買については日本軍も大きく関わっていたが、民間の財閥なども一枚噛み、ダミー会社が設立され、そこが阿片取り引きを行うようにされていた。

まぁ何にでも表もあれば裏もあるというところだ。


●12月18日、中華民国政府のナンバー2である汪兆銘が蒋介石主席と袂を分かち重慶から脱出した。

これは陸軍の特務機関「梅機関」の工作が実を結んだものだ。

以前より「梅機関」は中華民国政府要人の切り崩し工作を行っていた。

汪兆銘は日本と和平を結びたがっており日本の工作に乗ったようだ。

ところで、この「梅機関」は翌年1939年4月に根拠地を上海に置くのだが、その時に使用した建物を「梅華堂」と名付けた。この「梅華堂」という名称は「梅機関」の別称ともなる。

「梅華堂」ねぇ。まるでどこぞの和菓子屋さんのような名前だね。甘い和菓子を食べたくなるよ。



〖12月の国際情勢として……〗


○史実通り日中戦争開始以来初めてアメリカが中華民国に資金援助を行う事に決定した。

アメリカが遂に動き出した。完全に中華民国の肩を持った。

だから「東亜新秩序」の発表は悪手だというのだ。

アメリカは「東亜新秩序」の発表を日本の植民地拡大政策と捉えたのだ。そして、それを自国の利益のためにも止める気だ。

これで中華民国が息を吹き返してしまう。





『1939年』


〖1月〗


●1月某日、海軍大臣と関係が悪化するアメリカと万が一戦争が勃発した場合について話しをした。

その中で現状ではアメリカでの情報収集活動が不十分であり、もっと強化する必要がある事で意見の一致を見た。

海軍の予備費より予算を割いてくれるそうだ。


●1月4日、史実通り近衛内閣が総辞職した。

理由は閣内での意見不一致。

閣内では意見が統一されても陸軍省内部で反対が出れば板垣征四郎陸軍大臣はそれを抑えられず前言を翻して一致していた意見を反故にするというような事があり、近衛首相は嫌気がさしたらしい。

なんというか板垣征四郎陸軍大臣が情けなさすぎる。大臣なんだから組織のトップなんだから部下は押さえろと言いたい。上司が部下の言いなりでどうする。


●1月5日、史実通り近衛内閣の総辞職を受けて平沼内閣が成立した。

新たな内閣とは言っても海軍大臣や陸軍大臣は留任で同じ顔触れだ。それならどうなるかは火を見るよりも明らかだろう。近衛内閣と一緒だよ。



〖1月の国際情勢として……〗


◯1月26日、史実通り「スペイン内戦」においてバルセロナが陥落した。「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」はそれより一足早くヘローナに移動し、更に後にフランスのトゥールーズに避難した。

逃げ足だけは速いね。





〖2月〗


●2月某日、海軍軍令部の情報部にアメリカでの情報収集活動を強化するよう命令が下される。

人員も予算も増える。

この増強に乗じて情報部の一部の者に、極秘裏に我が意のあるところを話しておいた。色々と長い話をした結果、幸いな事に信頼を勝ち得たようだ。何れ役に立ってくれるだろう。


●2月10日、史実通り日本軍は海南島に上陸し占領した。

この動きをイギリスは香港とシンガポールを結ぶ交通線の脅威と見なしている。しかし、日本は全く配慮する気はない。やれやれ。


●2月24日、史実通りハンガリーと満州国が「日独伊防共協定」に参加した。

日本の傀儡国とヨーロッパの小国とは言え、味方が増えるのはめでたい。

敵が多くなるよりは遥かにマシだ。

 


〖2月の国際情勢として……〗


◯2月10日、史実通りローマ法王ピウス11世が亡くなった。

1929年2月11日に、「イタリア王国」と「ローマ法王庁」の関係を新たに定めた「ラテラノ条約」をムッソリーニ首相のイタリア政府と締結して「バチカン市国」を建国した法王様だ。

ちなみに「ラテラノ条約」によりローマ法王庁の収入は非課税と決められた。これは現代の時代になっても有効で未だに非課税だ。

やるなぁ法王様、いい条約を結びやがって!

それだけではなく多額の補償金もイタリア政府から支払われている。

それは過去に存在した教皇領などの権利を全て放棄した代償で2000万ポンドが支払われたという話だ。

実効支配していない領土について正式に権利を破棄する代わりに金を得るとはお見事だ。

やるなぁ法王様、うまくやりやがって!

そしてピウス11世は「特別管理局」を新設し、金融の専門家をその局長を任命してこの補償金の運用を任せたというお話。


現代におけるローマ法王庁の財政部門はまるで財閥で銀行もあれば株式会社もある。

財政部門の顧問にはスイス銀行の元重役を始め欧州の大銀行の元重役など約40人があたっているという話だ。

そして資産を運用し多額の利益を得ている。

多数の企業に投資し多くの持ち株を持っている。

90年代の話になるがイギリスの某経済雑誌はローマ法王庁の財産は少なく見積もっても2兆円はあると書いていた。凄ぇ!

他にも某国の銀行に30億ドル分の金塊が預けられているという話もある。羨ましい!

持ち株の配当だけでローマ法王庁に入る金額は年間1億ドルになると推定する専門家もいる。ちょっと欲しい! 1%でいいから!

ローマ法王庁がその持ち株を一斉に売り出せば、世界経済は混乱に陥ると言われる由縁だ。

土地や建物もかなりの数を持っている。ローマ市内の土地や建物の25%はローマ法王庁の所有だそうだ。ローマ市内の家賃収入だけでも年間400万ドルもあるとの話。

だから雑誌などで「片手に聖書、片手に富」と書かれる事もある。

イタリアの政治家が時々、ローマ法王庁への課税を言い出す。

まぁそれだけ資産があり利益を上げていれば無理もない。

ともかくピウス11世は「ローマ法王庁」の経済的繁栄の礎を築いた偉大なる法王様であった。安らかに眠れ。アーメン。


また、この日はスペイン内戦における「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権 )」のカタロニア作戦が終了した。

カタロニア地方は全て「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」の手に落ちた。

これにより「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」の支配地域は旧首都マドリードから南東部の一帯だけとなる。

「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」はフランスのトゥールーズからスペイン南東部の港町アリカンテに移動している。

ただしアサーニャ大統領は2月7日にフランスのパリに逃れ亡命しスペインに帰還する事を拒否した。

やれやれ、それでもスペインの大統領か。

「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」はネグリン首相が率いているが、もはや軍内部への統制もうまくいっていないようだ。

もはや敗北は時間の問題と化して来ている。

まぁ史実通りの展開ではある。



◯2月27日、史実通りイギリスとフランスがスペイン内戦中の「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」を承認した。

もう大勢は決しているからね。





〖3月〗


●3月某日、何とか各方面から要望通りの人材を確保できたので、極秘裏に数日間に渡ってこれから担ってほしい役割と任務を詳細に説明し旅立たせた。

予算は海軍から出ている。外注扱いでアメリカでの情報収集活動強化策の一環として処理をした。

役割と任務について、本当は各人一人一人個別に詳細に説明を行いたかったが、海軍次官の要職にある自分がそうそう内密な日程を多くとれる筈も無く、各グループごとの説明となってしまった。

ともかく成功を祈ろう。



〖3月の国際情勢として……〗


◯3月2日、史実通り新しいローマ法王にピウス12世が選出された。

後世「ヒトラーの教皇」と呼ばれる事もある人物だ。

特にヒトラーのユダヤ人弾圧について沈黙していた事については批判されている。

前任のピウス11世は1937年3月にナチス政権を批判する回勅を出していたり、亡くなる一ヶ月前に病床にあるにも関わらずバチカン市国に駐在する諸国の大使を集め、ナチス政権の弾圧に苦しむユダヤ人にできる限り入国ビザを発行するよう呼びかけている。

そうした死の直前までヒトラー政権への批判と弾圧されているユダヤ人の救済を願ったピウス11世にどうしても比べられてしまうので、余計にピウス12世の沈黙が目立つという面もあるのではないかと思う。

まぁピウス12世としては、ナチス政権によるドイツ国内でのカトリック教会と信徒への弾圧を憂慮しなければならず、宗教を認めない共産主義のソ連の脅威に対し反共産主義を掲げるナチス政権を真っ向から批判して、ナチス政権から敵対される懸念を恐れるのもわかる話ではある。

ただ、どもうピウス12世はそれ以上にドイツ贔屓だったようにも思う。ピウス12世はローマの生まれだが、司教の時にドイツに大使として派遣され活動していた時期があり、それが要因だろうか。

何せ法王となってから身の回りの世話をする修道女達は全員ドイツ人で、側近もドイツ人聖職者が多かった。よほどドイツでの暮らしが性に合っていたのか、良い思い出があったのか。

まぁ何にせよ、今回の歴史では日本もバチカンの力を借りなければならない時が来るかもしれない。ピウス12世ならドイツと組む反共産主義の日本にも配慮してくれるだろう。



◯3月4日、史実通りスペイン内戦において「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」側でクーデターが発生した。

マドリードでセスヒムンド・カザード大佐が非共産党系将校団を纏めて立ちクーデターを起こしたのだ。

カザード大佐はネグリン首相に「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」との和平交渉に入るよう以前から要望していた。

既にソ連からの援助は停止され武器や食糧も不足している。

マドリードでは餓死者も出ており、その人数は毎週400人にもなる。

これ以上、餓死者が出るのを見ていられない。

もはや戦いより和平をというわけだ。ここまで状況が追い込まれていては、その主張にも一理ある。

餓死者すら出ている状況なのに、なかなかネグリン首相は和平交渉を行わない。食糧の豊富なアリカンテから動かず時間を浪費しているばかり。

そこでクーデターとなった。

カザード大佐の非共産党系の部隊と共産党系の部隊が激突する戦いとなった。

その戦いは9日まで続き10日には停戦となる。勝者無しの戦いだった。

この戦いで利益を得たのは静観してい「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」だけだ。何せ勝手に敵が分裂し戦って勢力を弱めている。



◯3月15日、史実通りチェコスロバキア共和国という国が消滅した。

ズデーデン地方の割譲以後もチェコスロバキア国内は民族自立運動が激しく揺れに揺れていた。

その状況を利用してヒトラー総統がチェコ併合を行ったのだ。

ズデーデン地方を割譲した後のチェコスロバキア共和国は四つの地域から構成されていた。ボヘミア、モラビア、スロバキア、ルテニアだ。

チェコスロバキア共和国政府は民族自立運動の盛り上がりを押さえ切れず二つの自治政府を容認していた。

どちらもカソリックの聖職者を指導者とするもので、一つはチソ司教が代表をつとめるスロバキア自治政府で、もう一つはヴォロシン司教が代表をつとめるルテニア自治政府だ。

ヒトラー総統はチェコスロバキア共和国政府がスロバキア自治政府とルテニア自治政府の分離独立運動を潰そうという動きに出た事を利用して、3月14日にスロバキア自治政府にチェコスロバキア共和国からの分離独立を宣言させスロバキア共和国を建国させる。

当然の事ながら、このスロバキア共和国は親独政権でありドイツの保護国となった。

これに呼応する形でルテニア自治政府もチェコスロバキア共和国からの分離独立を宣言しカルパト・ウクライナ共和国を建国する。

しかし、このカルパト・ウクライナ共和国の方はドイツと手を結んていたハンガリー王国に占領され独立国としては僅か三日で消滅する事となる。

ここでヒトラー総統はチェコスロバキア共和国政府のハーハ大統領に圧力をかけ、3月15日にチェコのドイツへの併合受諾宣言書に著名させた。

そして残るボヘミア、モラビアはドイツ軍に占領されベーメン・メーレン保護領となる。

こうしてチェコスロバキア共和国という国は世界地図から消えた。建国から約20年間で消滅する事になったわけだ。呆気ない幕切れだ。国が亡ぶ時なんてこんなものか。

そしてイギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相はいい面の皮であり面目丸潰れとなった。

信頼すべきではない相手を信頼した結果だから仕方がない。

まぁ二人には人を見る目が無かったという事か、それともヒトラー総統が一枚上手だったという事か、両方かもしれない。

3月17日にイギリスのチェンバレン首相は演説を行いミュンヘン協定での約束を破ったヒトラー総統を批判したが、もはや後の祭りだ。


ところで僅か3日間で消え去る事になったカルパト・ウクライナ共和国だが、その3日間の間に実は切手を発行している。元はルテニア自治政府に議会が作られる事を記念して準備していた物のようだが、カルパト・ウクライナ共和国の建国という事で急遽、この切手は発行された。

青い色の建物が印刷された切手だが、自分が現代日本で初めてこの切手のデザインを見た時は、ヨーロッパというより、どこかアジアの国の物かと思ったようなデザインだった。

以外とこの切手は残っており現代日本でも安ければ2000円程度で買える。曲がりなりにも一国が発行した全種類の切手をそろえる事ができる珍しい例だ。何せ一種類しか発行されなかったので。

国としては滅んでも切手として現代世界にその足跡を残したというわけだ。

歴史の中によくある悲しき逸話の一つだ。

ともかく、こうしてドイツはまた領土を広げ大きくなった。



◯3月21日、史実通りドイツがリトアニアにメーメル地方の譲渡を求めると共に、ポーランドにはダンチヒ市の譲渡とポーランド回廊での各種権利を求めた。

「チェコ併合」から1週間も経っていないのに、もう次の獲物を狙いに行ったか。手が早いねえ。

それにしてもヒトラー総統よ、「ミュンヘン協定」での「ズデーデンがヨーロッパにおける最後の領土的要求」という主張はどうした?



◯3月23日、史実通りドイツがリトアニア政府にメーメル地方の割譲を承知させた。

とは言ってもこのメーメル地方は第一次世界大戦まではドイツの領土だったから返還されたと言うべきか。

何れにしろ、これでヒトラーは「ラインラント」「オーストリア」「ズデーデン」に続き4回目の無血併合を成功させ領土を拡大させた。

イギリスとフランスが情けなさすぎるのが一番の問題だろう。



◯3月26日、史実通りスペイン内戦において「ナショナリスト派(反乱軍・フランコ政権)」の最後の攻勢作戦が始まった。

マドリードを陥落させ、その勢いのままにスペイン南東部のバレンシアを占領し、スペイン全土を掌握する。

もはや「スペイン共和国政府(人民戦線政府とか中央政府と呼ばれる)」に望みは無い。

というかネグリン首相の政府は既にフランスに逃亡してしまった。



◯3月28、史実通りドイツのダンチヒ市とポーランド回廊における要求をポーランド政府が断固として撥ね退けた。

何せドイツの要求を飲むとポーランドは海を失う。そうなれば貿易では大打撃で経済への影響も大きい。

それに、そもそもヒトラーは信頼できない。「ミュンヘン協定」違反のチェコ併合やリトアニアからのメーメル割譲を見れば一目瞭然だろう。

例えダンチヒ市とポーランド回廊への要求を呑んだとしても、それでヒトラーの要求は終わるのか? とても終わるとは思えない。一歩譲れば更に踏み込んで来るのが、これまでのヒトラー総統のやり方だ。

それを考えればポーランド政府の決断も当然だろう。





〖4月〗


◯4月7日、史実通りあのイタリア軍がアルバニアに侵攻した。

今の所、作戦は順調のようだ。信じ難いが事実であり史実通りだ。あのイタリア軍の作戦が順調なのだ。

ところで後世に書かれた第二次世界大戦の本で全2巻からなる事典がある。著者は元イギリス軍将校で第二次世界大戦での従軍経験もあり、戦後は士官学校で戦史を教えていた人物だ。

その事典は日本でも翻訳本が出版されている。

しかし、何故かその事典にイタリア軍によるアルバニア侵攻の事は書かれていない。抜け落ちている。やはりあのイタリアの事だからだろうか……



◯4月11日、史実通りスペインのフランコ将軍が終戦宣言を行った。

既にスペイン全土はフランコ政権の支配下にある。

これにて「スペイン内戦」はおしまい。めでたし、めでたし。



◯4月12日、史実通りアルバニアはあのイタリアに敗北し制圧され併合された。あのイタリアにだ!

あのイタリアが完全勝利した! 一国を倒し勝利したのだ! おぉ神よ!



◯4月27日、史実通りイギリスで徴兵制が施行された。

流石に弱腰外交のイギリスも戦争への備えをしなくちゃならないと判断したわけだ。ヒトラーとムッソリーニの動きを見れば当然の話ではある。



◯4月28日、史実通り、ドイツがポーランドとの「不可侵条約」とイギリスとの「英独海軍協約」を一方的に破棄した。

もうやる気満々だねヒトラーは。





〖5月〗


●5月12日、史実通り「ノモンハン事件」が発生した。

満州の端っこの国境紛争だから陸軍にお任せだ。まぁ国境紛争だが、以後、史実通り戦闘の規模は順次拡大していくだろう。


●史実通り中華民国政府が遷都した重慶に日本軍機が戦略爆撃を行った。

我が軍の戦略爆撃を止めたいが、一次官に過ぎない自分にはどうにもならない。このままでは史実通り事態はもっと悪化する。



〖5月の国際情勢として……〗


◯5月22日、史実通り独伊の軍事同盟「鋼鉄条約」が締結された。

あのイタリアと同盟を組みますかドイツは……ふぅーん。まぁいずれ日本も組むんだけどね。でもドイツはともかく、あのイタリアはねぇ。

まぁいいでしょう、主に足を引っ張られるのは日本じゃなくてドイツなのだから。





〖7月〗


●史実通りアメリカが「日米通商航海条約」の更新破棄を通告して来た。

中国での日本の空爆にアメリカは怒っているからね。

重慶駐在のアメリカのジョンソン駐中大使は既に66回もの空襲を体験したそうだ。それは怒りたくもなるだろう。

日本の外務省は空爆する時には十分に気を付け他国の人物や資産には被害を出さないようにと軍部に申し入れているが、前線部隊ではそうした他国への配慮が行き届いているとは言えない状況だ。

重慶への爆撃は高度5000メートルから行われる。精密爆撃なんてとてもできない高度だ。だからと言って高度を下げれば敵の対空砲火の餌食になる確率が跳ね上がる。

史実通りの話とは言え頭が痛くなる問題だ。

 




〖8月〗


●8月28日、史実通り「平沼内閣」が総辞職した。

8月23日にドイツとソ連の間で結ばれた「独ソ不可侵条約」が効いた。

平沼麒一郎内閣総理大臣の、あの有名な「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という言葉を残しての総辞職となった。

平沼首相、あなたは悪くないよ。運が悪かっただけだ。


●8月30日、史実通り待望の連合艦隊司令長官になった。ほっと一安心。

最初から駄目なのは分かっているが、それでも一応史実通りに戦闘機と攻撃機、各1000機の増産配備を海軍軍令部に要望した。

「承っておきます」と言われて終わりだ。

これはやはり史実通り望み薄だろう。

まぁ予算が無いから仕方がない。


また、この日は史実通り「阿部内閣」が成立した。

内閣総理大臣の阿部信行大将は予備役で、現役時代には武勲を立てる機会に恵まれず「金鵄勲章のない大将」と呼ばれた人物だ。

石川県金沢市の出身で、同じ金沢市出身の永井柳太郎や伍堂卓雄らを大臣に起用した事から「金沢内閣」との評だ。

海軍大臣は吉田善吾中将。

この吉田善吾海軍大臣は在任中に、海軍はアメリカと1年しか戦えない。戦争を始めるのは暴虎馮河の愚。陸軍に引っ張られず軍備の再検討を含め日本の今後を研究せよと海軍省と海軍軍令部に言っていた人だ。慧眼だね。

陸軍大臣は畑俊六大将。

この陸軍大臣就任は陛下のご指名という異例な人事だ。それは親独傾向にある陸軍の動きを抑えるための陛下の方策だ。

穏健な畑俊六大将を陸軍大臣に据え、また穏健な阿部信行大将を内閣総理大臣にする事で、陸軍の親独傾向を抑え更に英米協調の方向に動く事を陛下は求めた。

だが、しかし……というわけだ。



〖8月の国際情勢として……〗


◯8月21日、史実通り「独ソ経済協定」が締結された。

しかし、ドイツとソ連の結びつきはこれだけでは終わらない。



◯8月23日、史実通り「独ソ不可侵条約」が締結された。

防共、反共と言っていたドイツがソ連と条約を結んだ事に日本を始め世界が大騒ぎだ。



◯8月25日、史実通りポーランドとイギリス、フランスの間で「相互援助条約」が締結された。

「独ソ不可侵条約」への警戒がイギリスとフランスを動かした形だ。





〖9月〗


●9月1日、史実通りドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。

ついに始まったか。


●9月4日、史実通り「阿部内閣」は「欧州戦争不介入」と「支那事変解決に邁進する」と宣言した。

まぁ欧州に介入する余裕なんて日本にはないわな。



〖9月の国際情勢として……〗


◯9月2日、史実通りイギリスとフランスがドイツに最後通牒としてポーランドからの撤退を通告した。

あのヒトラー総統が従うわけないだろうに。


こ日は他にイタリアが中立を宣言した。

地続きならともかくイタリアはポーランドと接していないから、この時点で参戦しても何の旨みもないからね。



◯9月3日、史実通りイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。

ようやく宣戦布告した、だ。

開戦以来ポーランドは両国に「相互援助条約」の履行を求めたが、なかなかイギリスもフランスも腰を上げなかった。


フランスはこの日までイタリアが提案してきた、ドイツ、ポーランド、イギリス、フランス、イタリアからなる五国会議を開催して戦争を防止し調停するという案に飛びついてた。五国会議案が流れるまでずっと。

イギリスはイギリスで開戦当日は政府が「相互援助条約」の履行は時期尚早で、まずはドイツに警告する事を決めただけ。

以前にイギリスは、ドイツがポーランドを攻撃すれば即座にイギリス空軍が爆撃を開始するとポーランド側に言っていたのにだ。

だが、イギリスの政府内にも気概のある者達がいた。サイモン蔵相、ホーア陸相、アンダーソン内相、マクドナルド植民地相、モリソン・ランカスター公領尚、ドーマンスミス農漁相の6人がサイモン蔵相の部屋に立て籠もり、イギリス政府がドイツに宣戦布告するまで部屋を出ないとストライキに出たのだ。

このストライキに慌てたチェンバレン首相はフランス政府と相談してようやく宣戦布告へと動き出す。

このストライキがなかったら、まだまだ宣戦布告は遅れたかもしれない。

そして、まだごたごたはあったもののようやく宣戦布告となった。

チェンバレン首相は、ようやく戦争内閣を組織しチャーチルが海軍大臣になった。

でもストライキした6人の大臣は酒盛りもしていたらしい。酒盛りの大義名分のためにストライキしたのか、ストライキの景気付けのために酒盛りしたのか、どちらだ?


イギリスの宣戦布告に続く形でオーストラリアとニュージーランドも宣戦布告した。

本家が動けば分家も動く。それがイギリス連邦だからね。



◯9月4日、史実通りイギリス軍機による爆撃がヘリゴランド湾に停泊するドイツ軍艦に対し行われた。

しかし、以後数か月は爆撃は行われず宣伝ビラを撒くだけとなる。

イギリスなんて信用できんね。ポーランドが可哀想だ。



◯9月5日、史実通りアメリカが中立を声明した。

だが、その声明とは裏腹にアメリカ海軍は12日から大西洋でのパトロールを強化した。

やれやれルーズベルト大統領の建て前と本音は違うってわけだ。



◯9月6日、史実通り南アフリカがドイツに宣戦布告した。

新たに戦争内閣を作っての宣戦布告だ。そんなに頑張るなよ。



◯9月7日、史実通りフランス軍がドイツとの国境ザール方面で小規模な進攻を開始した。

ドイツ軍守備隊は後方の防御ラインに撤退した。

ドイツを突くチャンスだが、フランス軍は動員を完了していない。大軍はまだ出せない。


この日は他にカナダがドイツに宣戦布告した。

イギリス連邦構成国とは言え、何も大西洋の向こう側の戦争に首を突っ込まなくてもいいのに。



◯9月15日、史実通り日本とソ連の間でノモンハン事件の停戦協定が成立した。

ヨーロッパ各国からは顧みられない戦いだった。

それはともかく、これによりソ連は西方で動き出すだろう。



◯9月16日、史実通りドイツ軍がポーランドの首都ワルシャワを包囲した。

ポーランド政府は既にワルシャワより退避している。

残留している守備隊に対しドイツ軍は降伏勧告を行ったが拒否された。

それにしても戦争開始16日で首都を包囲か、速いね。



◯9月17日、史実通りソ連がポーランドに侵攻した。

ノモンハン事件が片付くのを待って動き出したのだ。

そしてポーランドをドイツと分け合うつもりだ。

1932年にソ連とポーランドは不可侵条約を結んでいるし、その条約を1938年11月に更新している。

酷いねぇ。


この日、ポーランドではルーマニアとの国境の町カロミアに避難していたポーランド政府は他国への亡命を決定した。

ポーランド軍総司令官スミグリリズ元帥は、全部隊に対しソ連軍に対しては相手が攻撃してこない限りは戦闘は避けるよう命令を出す。

そしてポーランド政府とスミグリリズ元帥はルーマニアに入国した。ルーマニア政府からは領内の通過を保証されていた。

まぁ東西からドイツ軍とソ連軍に侵攻されイギリスとフランスはろくに助けてくれないのではね。

仕方ないね。もはや万事休すだからね。

フランスはザール地方での小規模な進攻を停止した。

もはやポーランドの見込みが無いからだ。

だがフランスがポーランドと交わした条約では動員15日目に対ドイツ攻撃を実施すると規定されているし、その当時フランス陸軍参謀総長のガムラン大将はポーランドに35個師団~38個師団を動員すると伝えていた。

まだ、ワルシャワだって陥落していない!

ヘラ半島でも戦いが続いている!

モドリン要塞も抵抗している!

まだ戦い続けている部隊がある!

ポーランド政府だって降伏していない!

それなのに条約を約束を破るのかフランスは!

フランスに信義は無いのか!

ポーランドが可哀想だ。



◯9月27日、史実通りポーランドの首都ワルシャワが陥落した。

包囲されてから2週間と経っていない。捕虜になった兵士は15万人。

まぁ仕方がない。ドイツ軍は砲爆撃で一般市民に多数の犠牲者がでているからね。

すでに水も食料も尽きているともなれば降伏もやむなしだ。



◯9月28日、史実通り「独ソ友好条約」が締結された。

これによりポーランドはドイツとソ連に分割された。

ソ連はドイツより広い地域を得た。ドイツは人口の多い地域と工業の中心地を得た。

さて、どちらがお得だったのか。



◯9月29日、史実通りソ連とバルト三国の一国エストニアとの間で「相互援助条約」が締結された。

ソ連軍の示威行動にエストニアが屈したのだ。ソ連軍がエストニアに駐留する事になる。

ソ連のバルト海支配の強化とドイツへの備えのためにバルト三国は狙われている。

残るはあと二国。



◯9月30日、史実通り「亡命ポーランド政府」がフランスのパリに樹立された。

国外に逃亡したポーランド軍兵士は8万人を超える。やる事はまずはその掌握だろう。

亡国のポーランド人の戦いはこれからだ。





〖10月の国際情勢として……〗


◯10月2日、南北アメリカ大陸の21カ国が集合、パン・アメリカ会議を開きアメリカ大陸海岸から500キロの海域を安全地帯とし、いかなる戦闘行為も南北アメリカ大陸諸国への敵対行為であると宣言した。

あっそうですか。


○10月5日、史実通り残存するポーランド軍最後の部隊が降伏した。これにてポーランド戦は終了だ。

ただし、まだ諦めずにポーランド国内でゲリラとなって戦う者達の戦いは続いている。


それにしても史実通りポーランドの戦いは決着がつくのが早かった。

これはイギリスとフランスには予想外の事態だ。

何せフランスの陸軍参謀総長のガムラン大将は、ポーランド軍は優秀でドイツ軍相手に6ヵ月は持ち堪えられると政府に言っていた。

イギリスの方でも、やはり陸軍参謀総長のアイアンサイド大将が開戦2ヵ月前にポーランド軍を視察しており、そのポーランド軍に関する報告は非常に有望だとしていた。

イギリス政府のハリファックス外相はポーランド軍の戦力はソ連に勝ると判断していた。

ポーランド軍80万。それに加えて250万人の訓練済みの兵士を動員できる計算だった。

しかし、戦いが始まればドイツ軍にしてやられてしまった。


ポーランド軍で忘れてはならないのは、その騎兵だろう。その数25万騎。数は多いが活躍できなかった。ドイツ軍に叩かれ終わってしまった。

このポーランド軍の騎兵重視についてイギリスの有名な戦史家であるリデル・ハートは、大戦勃発前に出したその著書「英帝国崩壊の真因-英国の防衛」の中で言及している。

それを簡単に言えば近代兵器よりも騎兵を重視しているポーランド軍上層部への危惧だ。

驚くのは何とその事についてポーランド軍首脳部から正式な抗議文がポーランド外務省を通じてリデル・ハートに届けられたという話だ。

ポーランド軍首脳は騎兵の威力を信じていたんだね。

後世、リデル・ハートはその著書「第二次世界大戦」の中で、ポーランド軍首脳の思想は80年遅れていたと言っても過言ではないとか、訪れるはずもない好機を待って騎兵の大軍を温存していたのは茶番劇だったとまで言い、厳しい評価を下している。

でもまぁそのリデル・ハートとて、その著書「英帝国崩壊の真因-英国の防衛」では一時期評判を落としているのだ。

何せその本の中ではドイツによる西部での大攻勢はありえないと論じていたのだから。

しかし、実際にはヒトラー総統は侵攻したからね。それでリデル・ハートの名声も大きく落ちたのだ。

まぁ誰しも失敗や間違いはあるという事だ。


それにしてもポーランド戦でドイツ軍第3軍団の参謀だったフォン・メレンティンが後世に出した回想録には、ポーランド騎兵部隊がサーベルを振るってドイツ装甲部隊に突撃したとある。

別の軍団では第19軍団の第3装甲師団がポーランド騎兵旅団の突撃を叩き潰している。

騎兵VS戦車の戦いか……この目で見てみたかった。


この日は9月のエストニアに続き、ソ連とバルト三国の一国ラトビアとの間で「相互援助条約」が締結された。

ソ連の勢力拡大政策は着々と進行中だ。バルト三国で残るはあと一国。



◯10月6日、史実通りヒトラー総統がドイツ国会でイギリス、フランスとの和平を望んでいると演説した。

これまで、幾つもの協定や条約を破り併合や戦争をして領土を広げているヒトラー総統の言葉をドイツ人やドイツ系の人々以外で今更信じる者がいるだろうか。いたとしたらよほどのお人好しだろう。


それにしても思う。イギリス、フランス、ドイツ、ソ連、どいつもこいつも条約をよく破る。

条約なんて気休めにもならない。これでは単なる紙切れだ。

信じられるのはやっぱり自国の力のみ。



◯10月10日、史実通りバルト三国最後の一国リトアニアが屈しソ連との間で「相互援助条約」が締結された。

これでバルト三国はソ連の傘下に降った。

小国は大変だ。特にお隣の国の指導者が野心家だと安穏としていられない。同情するよ。同情だけだけどね。



◯10月12日、史実通りソ連とフィンランドの間で国境問題に関する協議が始まった。

ただ単にソ連がフィンランドに一方的に無茶な要求を押し付け領土の割譲を求めているだけだ。

バルト三国を傘下に降した後は、今度はフィンランドと言うわけだ。

ソ連の領土欲は剥き出しだね。

協議は12日から始まったが、ソ連の要求は10月5日には提示されている。

フィンランド軍はその翌日6日には動員をかけ、この12日からは予備役も招集し国境地帯から民間人の避難も開始した。

小国でも北欧の国フィンランドは一味違うぞ。

スターリン首相よ、ポーランドやバルト三国のように簡単にいくとは思うなよ。

くっくっくっ。



◯10月14日、史実通りイギリス海軍の重要な根拠地スカバ・フローで戦艦ロイヤル・オークがUボートに撃沈された。

よしっ! 流石はドイツ海軍! 流石はUボート!





〖11月〗


●11月15日、史実通り海軍大将に昇進した。給料が上がる、めでたい。



〖11月の国際情勢として……〗


◯11月7日、史実通りオランダのウィルヘミナ女王とベルギーのレオポルド国王が共同で平和を求めるアピールを発表した。

気持ちはわかるがもう遅い。



◯11月15日、開戦後、通商破壊作戦を大西洋で行い暴れ回っていたドイツのポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号がインド洋のマダガスカル南方海域に現れ輸送船を撃沈した。

インド洋にまで来ましたか。史実通りとは言え、やりますなぁドイツ海軍は。



◯11月28日、史実通りソ連がフィンランドと結んでいた「不可侵条約」を一方的に破棄した。

これまで続けられていたソ連とフィンランドの協議は物別れに終わっている。

翌日の29日にはソ連はフィンランドとの外交関係も断絶した。

戦争は時間の問題だ、というか明日だろう。



◯11月30日、史実通りソ連軍がフィンランドに侵攻を開始した。「第一次ソ・フィン戦争」「冬戦争」とも呼ばれる戦争の始まりだ。


フィンランド軍は常備兵力は歩兵3個師団と1個旅団の3万3千人だ。

予備役を招集して9個師団。動員可能な兵力を根こそぎかき集めても、その数は40万人。

それ対して侵攻するソ連軍は160万人。

数の上ではソ連軍が圧倒的に勝っている。

だがなぁソ連よ。

フィンランドは他の小国とは違うのだよ、他の小国とは。

フィンランド人の団結力は伊達じゃない! 並みじゃない! 普通じゃない!

それを思い知るがいい!

さぁフィンランド軍よ、侵略者にお前の強さを見せてやれ!





〖12月〗


●史実通り日本軍機が再び重慶に戦略爆撃を行った。

それに対する制裁処置でアメリカが日本への航空機関係の対日輸出禁止措置に出た。

これは痛い。痛いがチャンスでもある。

この更に悪化したアメリカとの関係を理由に、万一の場合の対アメリカ戦略を上に承認させるいい機会だ。

そこで海軍大臣と海軍軍令部総長と自分の三者会談の場を設けてもらい、自分が考案したアメリカとの戦争になった場合における限定的な一つの作戦を披露した。

この時点では真珠湾攻撃作戦については話していない。それは史実通りに進めるつもりだ。

ともかく自分の作戦案は二人に了承され正式にスタートする事になった。

よし!

だが、海軍大臣と海軍軍令部総長に話したのは作戦全体の半分でしかない。

秘密を知る人間は少ないに限る。たとえそれが味方であっても。



〖12月の国際情勢として……〗


◯12月2日、史実通りフィンランド政府は国際連盟にソ連との戦争について提訴した。

国際連盟に提訴したのはいいけれど、その国際連盟が会合を開き検討しだしたのは一週間後の9日になってから。遅いわな。



◯12月13日、史実通り「ラプラタ沖海戦」が発生した。

通商破壊作戦を行っていたドイツのポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号は、イギリスのハーウッド提督指揮する巡洋艦3隻の部隊と遭遇し戦闘となった。

どちらも被害は出たものの沈んだ艦はない。

損傷を受けたポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号は南米の中立国ウルグアイの首都でラプラタ河口にあるモンテビデオ港に逃げ込んだ。

損傷個所を修理するにはかなりの時間が必要だ。

だが、しかし、時間が経てばイギリス艦隊の増援がやってくる。

国際法の取り決めによって中立国の港に停泊できる時間も限られている。

危うしポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号! ピンチだ。



◯12月14日、史実通りソ連が国際連盟から除名された。

ソ連がフィンランドとの戦争における提訴を拒否したため国際連盟が断固たる処置をとったのだ。

だが、実質的な意味は無い。日本やイタリアの例を見ればわかるだろう。自分から国際連盟を脱退してもやっていけているのだ。

これでは戦争が止まる筈もない。

やはり国際連盟は無力だ。



◯12月17日、史実通りドイツのポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号がモンテビデオ港沖で自沈した。

ポケット戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号を指揮するラングスドルフ艦長には不利な状況だった。

艦の損傷は酷く修理に2週間はかかるとみられるところを国際法の規定により入港から92時間の停泊しかウルグアイ政府に認められなかった。

ドイツ大使館からイギリスの巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルが急行していると情報が入った。

ドイツ大使館がチャーターした飛行機にラプラタ沖を偵察させたとろろ4隻の巡洋艦を発見した。

見張りの兵士が沖合に戦艦らしきもの1隻、空母らしきもの1隻、駆逐艦を2隻から3隻を視認したと報告してきた。

これらの事からラングスドルフ艦長は包囲網を破って脱出する事は困難と判断し自沈する事にしたのだ。

戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号は日没の時間に合わせて自爆した。無駄に演出に凝ってるね。だが、いいねぇ。そういうのは好きだよ。

戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号の乗組員全員は艦長も含めて親独傾向の強いアルゼンチンの船に乗り翌日にはブエノスアイレスに到着している。


ところで、実際にラプラタ沖でポケット戦艦を待ち構えていたイギリス艦隊は、まだハーウッド提督指揮する3隻の巡洋艦のみだった。

巡洋戦艦レナウン、空母アーク・ロイヤル、巡洋艦ネプチューンは19日に到着予定だった。

巡洋艦ドーセットシャーが21日に到着予定だった。

つまりドイツ側はイギリス艦隊の戦力を誤認したわけだ。

この時イギリスは増援艦隊が現地に到着するまでポケット戦艦を足止めするために、色々と情報工作を行っている。

既にラプラタ沖には強力なイギリス艦隊が展開していると見せかけ、真実とは逆にイギリス艦隊は早くポケット戦艦に出て来てほしいと思っているとドイツ側に思わせようとしていた。

ドイツはそうした情報工作にしてやられた一面もある。

とは言えラングスドルフ艦長からすればドイツ大使館からの情報だし、更に部下の兵士が敵艦隊を視認しましたと言ってくれば、そりゃ信じますがな。


ブエノスアイレスに移ったラングスドルフ艦長は新聞を見て驚いたそうだ。

どの新聞も自沈について「海の男の恥」とか「臆病」と書き立てていたらしい。近辺諸国の人達は所詮は他人事だから派手な戦いが起こる事を期待していたんだね。やれやれ。

ラングスドルフ艦長はその後、自沈した責任は全て自分一人にあると遺書を書いて自決している。


ラングスドルフ艦長はブエノスアイレスに行く前に、ドイツ大使館のオットー・ラングマン大使宛に手紙を書いている。

それにはウルグアイ政府がハーグ条約を守らず正当な修理に要するする時間が与えられなかった事への批判が書かれている。

オットー・ラングマン大使はこの手紙を元にウルグアイ政府は中立を厳正に守っていなかったと抗議を行っている。

だが、しかし、この手紙が曲者で、実はラングスドルフ艦長が書いた物ではないという説がある。

ドイツに有利な宣伝のために誰かが書いたものだと言うのたが……

当のラングスドルフ艦長は亡くなっているので事の真偽は不明だ。

この手紙を本当に書いたのは誰なのか。

今となっては真実は闇の中だ。


ところでイギリス艦隊を率いていたハーウッド提督はポケット戦艦が脱出を試みた場合、阻止できる確率は3割だと部下達に話していたそうだ。

ドイツにとっては惜しい事をした。



◯12月23日、史実通りイギリスに最初のカナダ軍応援部隊が到着した。

カナダも律儀だねぇ。


この日は他に、史実通りパン・アメリカ会議が「ラプラタ沖海戦」は海岸から500キロ以内の安全地帯で行われたと批難声明を出した。

あっそうですか。



◯12月28日、史実通りイギリスで食肉の配給制度が始まった。

もう始めるのか。

【いずれ消すかもしれない後書きをあなたへ】2016年1月30日


な、なぜだ!

なぜ加筆訂正した日の第6話の読者が増えてるんだ?

活動報告には書いてないし。

ツイッターやブログで外部に宣伝することもしてないのに。

それなのに何故、一部の読者さんは気づいて読んでるんだ?

話別アクセス見て驚いたよ。

これは、あれか? 認識力の拡大か?

ニュータイ●か?

それともゼロの領●か?

もしくは電脳戦のプロか?

ともかく恐ぇ。読者さんの目が恐ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ