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0021話 躓き (1942年8月24日) 

2017年4月15日 23時55分


えっ? 4月1日に第20話の後書きで書いてた事と違う?

投稿は嘘じゃなかったのかって?

4月1日に書いたのは「今日はエイプリルフール」と言ってただけで、投稿しないとは言ってませんがな。


●8月24日、まずい事になった。


「ラビ攻略作戦」が躓いている。

 それも酷く躓いている。


 昨日「ラビ攻略作戦」の第一段階として、ラバウル航空隊がラビ近郊にある敵飛行場への爆撃作戦に出撃した。

 だが、飛行場への爆撃は行われなかった。

 天候が悪化して全機引き返す事になったからだ。残念。

 史実でもラバウル航空隊がラビやポートモレスビーへの攻撃に出撃しても現地での天候や途中での天候が悪化して引き返す事は珍しい事ではないので、殊更ついていないとか運が無いという訳ではないが、それでも残念な事になった。


 続いて昨晩「ラビ攻略作戦」の第二段階として「第8艦隊」による「ミルン湾殴り込み作戦」が行われた。

 目的はミルン湾内にいる敵艦船の撃破及び飛行場への砲撃だ。


 参加兵力は「第8艦隊」旗艦の重巡洋艦「鳥海」

「第6戦隊」の重巡洋艦「古鷹」「加古」「衣笠」「青葉」

「第18戦隊」の 軽巡洋艦「天龍」

「第1魚雷艇隊」の魚雷艇5隻

 重巡洋艦5隻、軽巡洋艦1隻、魚雷艇5隻の全11隻だ。


「第8艦隊」の残りの艦艇は「第18戦隊」の 軽巡洋艦「龍田」

「第30駆逐隊」の駆逐艦「望月」「卯月」「睦月」「弥生」の4隻

 水上機母艦「聖川丸」

 機雷敷設艦「津軽」

「第2哨戒艇隊」の哨戒艇2号、哨戒艇31号、哨戒艇34号、哨戒艇35号、哨戒艇46号

 その他特設掃海艇、特設駆潜艇などの小艦艇だ。


 この時、「第18戦隊」の 軽巡洋艦「龍田」は機関故障でラバウルで修理していた。


「第30駆逐隊」の駆逐艦2隻「望月」「卯月」はソロモン諸島にいる。

 今月17日の敵潜水艦と奇襲部隊によるツラギ島攻撃で現地部隊にかなりの被害が出た。そのため「望月」と「卯月」は増援部隊を乗せツラギ島に急行し、その後は暫く周辺海域で対潜哨戒をしてから帰還の途についている。そのまま、途中で給油船「石廊」から燃料補給を受け「川口支隊」本隊を輸送する輸送船団に途中で合流する予定だ。


「第30駆逐隊」の残る駆逐艦2隻「睦月」と「弥生」は水上機母艦「聖川丸」と哨戒艇31号、哨戒艇34号、哨戒艇35号と共に「川口支隊」を輸送する輸送船団の護衛についている。


 機雷敷設艦「津軽」と哨戒艇2号、哨戒艇46号は「南海支隊」への補給輸送任務及び輸送船の護衛任務でラバウルとブナ、ギルワ間を往復している。


 つまり今回の「ミルン湾殴り込み作戦」は使える艦艇は全てつぎ込んだ「第8艦隊」の全力出撃に近い。

 予備兵力は殆ど0

 司令官の三川中将は出し惜しみは無しで臨んでいる。その意気やよし!


「第8艦隊」はラバウルを殆ど空にしている。

 幸い「第11航空艦隊」所属の「第34駆逐隊」の駆逐艦3隻が輸送船の護衛任務でラバウルに到着したばかりだから、一応の即応戦力はあるが。


 だが、もし、このタイミングで敵艦隊がラバウルに進攻して来ていたら……

 まぁ三川司令長官なら何とかするだろう。


 それよりも「ミルン湾殴り込み作戦」だ。

 作戦計画としては、まず、小型高速の魚雷艇で編成されている「第1魚雷艇隊」が先陣となりミルン湾内に突入し奇襲により湾内の敵艦船に雷撃を行う。

 それに続いて本隊たる巡洋艦部隊が湾内に進入し残存する敵艦船に雷撃を行いつつ、敵飛行場を砲撃する。

 最後に軽巡洋艦「天龍」が「置き土産」を置いてくる作戦だった。


 昼間は天候が悪化していたが夜には回復したらしい。それはついている。


 だが、しかし……

 作戦は最初から躓いた。

 まずは「第1魚雷艇隊」が先陣を切る事ができなかった。

「第1魚雷艇隊」はブインに配置されており、ラバウルから出撃した「第8艦隊本隊」とは別行動だった。

 ブイン方面からミルン湾までの航路において一部海域が荒れており途中で航路を誤った事と更には燃料補給に手間取りミルン湾への到着が遅れてしまったのだ。


 だが、それは小さな問題に過ぎなかった。


「第8艦隊」の「ミルン湾殴り込み艦隊」は各艦1200mの間隔を空け単縦陣で進んでいく。

 旗艦の重巡洋艦「鳥海」を先頭に、同じく重巡洋艦「古鷹」「加古」「衣笠」「青葉」が続き殿(しんがり)は軽巡洋艦「天龍」がつとめている。


 2日前の航空偵察ではミルン湾のラビ付近には輸送船12隻、巡洋艦1隻、駆逐艦6隻が確認されていた。

 だが、それ以後は天候の悪化で空からの偵察はできず、現在は敵艦船がどれほどいるかはわからない。


 ミルン湾まであと150キロという距離で旗艦「鳥海」より、搭載する水上偵察機3機全機が発進する。

 ミルン湾への艦隊の突入時に吊光弾による背景照明を行わせる為だ。それで敵艦影を浮かび上がらせる。

発進した水上偵察機はブインに帰投させる予定だ。戦闘後は艦隊がどういう状態になるかはわからないし、それでなくても夜間の回収作業は危険だ。


 他の重巡洋艦にも水上偵察機はあるが、これらの機はこれまでの航程において、ハワイから出撃したらしい敵空母を警戒し交代で索敵に出ていた。その為、今はパイロットは休憩し機体は整備中だ。


 水上偵察機が発進した後に、三川司令長官は「戦闘準備」を発令する。

 命令は無線電話により全艦に伝えられ各艦で慌ただしく準備が整えられていく。不用な可燃物は海中に投棄され、今回の戦闘では右舷からの魚雷戦が想定されている為、予備魚雷は全て右舷に移すよう指示が出された。


 ミルン湾の奥は奥行きが深く約25キロほどある。幅は約10キロ。まるで人差し指のような形だ。

 暗闇の中、そのミルン湾を目指し「ミルン湾殴り込み艦隊」は波を蹴立てて突き進む。


 そして、いよいよ艦隊が湾口に達した時、三川司令長官は「全軍突撃せよ!」と下令した。

 全艦に緊張が走る。

 旗艦「鳥海」を先頭にミルン湾北岸沿いに艦隊は一糸乱れず高速で湾内に進入していく。


 それからすぐだった。旗艦「鳥海」の見張り員が前方に敵艦を発見したのは。

 距離約13キロ前方に敵艦影を3隻発見との報告だ。全艦を更なる緊張が押し包む。


 まだ、敵は砲撃してこない。日本海軍お得意の夜戦の真価が発揮できる、と誰もが思ったその時だった。

 一足早く敵艦の砲撃が始まった。


「ミルン湾殴り込み艦隊」の周囲に大きな水柱が乱立した。

 同時に旗艦「鳥海」から「撃ち方始め!」が下令される。

 各艦から猛然と砲撃が開始された。


 先発していた水上偵察機からはミルン湾最奥に吊光弾が次々と落とされる。

 だが、その吊光弾によりミルン湾内に浮かび上がった敵は……


 巡洋艦8隻、駆逐艦3隻。

「ミルン湾殴り込み艦隊」よりも遥かに有力な敵艦隊が待ち構えていた。

 湾内に敵輸送船の姿は無い。


 どうやら敵は事前に日本艦隊がミルン湾に攻撃を仕掛けてくるのを知っていたようだ。

 そして待ち構えていた。

 暗号解読か、通信解析か、飛行機による偵察か、潜水艦による発見か、沿岸監視員による報告か。

 だが、今はそれを考えている暇はない。


 ミルン湾の最奥より6キロほどの海域にいる敵艦隊の隊形が問題だ。

 敵の艦首はミルン湾南岸方向を向いている。

 敵全艦が「ミルン湾殴り込み艦隊」に腹を見せている。

 前部砲塔も後部砲塔も既に「ミルン湾殴り込み艦隊」に向けられている。

 それは持てる火力を最も効率良く敵艦隊に浴びせられる戦法。

「T字戦法」だ。

 容易ならざる事態と言うしかない。


 敵艦隊にはレーダーを装備していた艦もあった筈だ。

 それなのに、これまで発砲してこなかったのは、恐らくは狭い湾内奥深くに誘い込むため。

「ミルン湾殴り込み艦隊」がすぐには逃げられないようにする為だろう。


「ミルン湾殴り込み艦隊」は敵の罠にはまった。


 三川司令長官は決断を下す。

 敵の待ち構えている真っ只中に飛び込んだのだ。もはや死中に活を求めるしかないと。

 できる事は一つ。一撃離脱。

 敵に一撃を与え怯ませた隙に撤退する。

 これまでに鍛えに鍛えた将兵の技量を信じ、敵の罠を喰い破る!


「ミルン湾殴り込み艦隊」はそのまま高速で直進を続け敵との距離を縮めてゆく。

 敵艦隊より照明弾が次々に発射され、湾内が煌々と明かりに照らされた中での砲撃戦となった。

 敵も味方も各艦が熾烈に砲撃戦を展開する。


 旗艦「鳥海」は先頭故に敵からの集中砲撃を受け被弾が相次いだ。

 二番砲塔は直撃を受け火災となり、艦橋下部にも数発の直撃を受けた。マストは吹き飛び舷側にも被弾している。左舷側の高角砲は全門被弾し破壊されている。カタパルトも被弾し原型をとどめていない。

 艦上では多くの将兵が負傷し戦死していた。


 他の後続艦も同様に被害を増していく。

 いや敵艦隊も同様だった。

 砲撃と砲撃の応酬で敵も味方も被弾を重ねていく。


 敵艦のうち3隻の巡洋艦から次々に魚雷が発射される。その数20本以上。

 だが敵の苛烈な砲撃を受けながらも「ミルン湾殴り込み艦隊」は右に左にと敵の魚雷を躱していく。

 それに完全に目標を外している魚雷もあった。

 この魚雷の第一派攻撃を「ミルン湾殴り込み艦隊」の各艦は見事な操艦で切り抜け一本も喰らう事はなかった。

 敵は魚雷の発射が早すぎたのだ。

 遠距離の魚雷攻撃はそうそう当たるものではない。


 史実の「スラバヤ沖海戦」でも日本の「第4水雷戦隊」を主力する部隊が敵艦隊との距離、約1万3千メートルで31本もの魚雷を発射して1本も命中しなかったという事例もある。この時は魚雷の信管が鋭敏に調整され過ぎていて波の衝撃で途中で爆発したという事例も含まれているが。

 ただし、同じ「スラバヤ沖海戦」では重巡洋艦「羽黒」が更に遠距離の2万メートルから8本の魚雷を発射しオランダの駆逐艦「コルテノール」を見事に撃沈する戦果を上げている。

 この時は8本中1本が命中した。だが、逆に言えば7本は外している。


 当たり前の事だが、遠距離で命中する事はあっても流石に100発100中とはいかないのが魚雷戦だ。

 アメリカの魚雷よりも優秀と言われた日本の魚雷でさえ遠距離では命中するより外れる事の方が遥かに多い。

 ならば遠距離からのアメリカの魚雷攻撃が外れる事など不思議でもない。

 どんな兵器でも遠距離では命中率は下がり、近距離なら上がるのが法則だ。


「ミルン湾殴り込み艦隊」は敵魚雷攻撃を躱した。

 だが、回避行動をとったが故に隊形は乱れに乱れた。

 敵の砲撃もそれで分散される。

 おかげで、これまで敵弾の集中砲火を最も浴びていた先頭の旗艦「鳥海」の被弾率は格段に下がった。

 しかし、その分、後続する各艦が被弾する回数が増え被害が増していく。

 それでも各艦は激烈な砲撃戦を展開しながらも前へ進む事はやめない。


 敵との距離が縮まって来ると主砲だけでなく高角砲での砲撃も始まった。

 それは敵艦隊も同様だ。

 主砲だけでなく小口径の砲も激烈に砲口を震わせた。

 激しく厳しい撃ち合いは乱打戦と呼ぶのに相応しい状況だ。


 2番艦「古鷹」は艦橋に直撃弾を受けた。小口径弾であった事が幸いし艦橋要員の全滅は免れ、死傷者は出たものの艦長は健在。指揮系統は生きている。左舷側後部の高角砲1門と機銃1挺が破壊され戦死者と負傷者が多数出ているが、まだ戦闘も航行も可能だ。


 3番艦「加古」は左舷側、艦橋のすぐ後ろにある高角砲とその周辺にも複数の直撃を受け、マストも破壊された。船体中央部の損傷は激しく戦死者、負傷者が出ているが、まだ戦闘も可能で航行にも支障はない。


 4番艦「衣笠」は左舷側の高角砲2門とカタパルトに直撃を受け水上偵察機も破壊された。舷側にも何発か被弾しているが戦闘も航行も可能。


 5番艦「青葉」は左舷側砲塔付近に被弾した。砲塔への直撃では無かったが、電気系統に異常が発生したらしく、第二砲塔から砲弾が発射されなくなった。だが、他の砲は健在で航行にも支障は無い。


 殿(しんがり)の軽巡洋艦「天龍」も三本煙突のうち一本に敵弾が命中し吹き飛んでいる。今や二本煙突だ。破壊され短くなった煙突からの煙が後部主砲の単装砲塔2門を砲撃しづらくしているが、戦闘は可能だ。


 各艦の左舷側に被弾が集中しているのは敵の艦列に対し完全なT字ではなく、かなり右側に寄った位置にいるため左舷側への砲撃が集中したからだろう。


 被害は出ている。だが、まだ戦える。航行できる。

 士気も衰えていない。各員、砲撃に、応急修理に、負傷者の救助にと皆ベストをつくしている。


 夥しい砲弾が飛び交う中で「ミルン湾殴り込み艦隊」が敵との距離を6000mにまで縮めたその時だった。

三川司令長官が左急速回頭を命じる。


 本来ならこの回頭はありえない。

 敵の砲撃が回頭する地点、転回点が標的になり砲火が集中するからだ。

 T字隊形をとっている敵艦隊には格好の標的であり各個撃破のチャンスだ。

 アメリカ海軍でも敵前でこれを行ってはいけないとしている。


 それを敢えて三川司令長官は行った。 

 敵前回頭のUターンが始まった。

 それに合わせて各艦より魚雷が順次発射されていく。

 この時、敵側の巡洋艦2隻も魚雷を発射する。敵の魚雷の第二派攻撃だ。

 魚雷戦の応酬だ。


 敵の砲火も熾烈で各艦への被弾も増す。

 湾内は砲声と爆発音と閃光に絶え間なく満たされた。

   

「ミルン湾殴り込み艦隊」が左回頭しUターンを開始したのに合わせて敵艦隊も先頭艦から速度を増し単縦陣のまま左回頭を開始した。


 つまり敵の狙いは同航戦。

 お互いに同じ方向に進みながら撃ち合うという戦術だ。

 この同航戦もまた前部砲塔、後部砲塔が使える戦い方だ。だがそれは敵味方両方でもある。

 しかし、敵の方が数が多い。それも大型艦が多い。有利なのはやはり敵だ。


 それにプラスして敵艦の配置もまた同航戦での戦闘を考慮しての事だろう。

 先頭から8番目の艦までが巡洋艦。その後に駆逐艦3隻が続いている。

 同航戦で火力のある艦が最も戦えるよう位置している。


 このままいけば「ミルン湾殴り込み艦隊」は敵のT字戦法に続き、不利な同航戦を強いられる事になる。


 だが、ここで状況が変化する。

 敵の中央にいた巡洋艦、先頭艦より数えて4番艦、5番艦、7番艦、8番艦の腹に次々と轟音と共に大きな水柱が屹立した。

「ミルン湾殴り込み艦隊」の放った必殺の魚雷が命中したのだ。

 敵4番艦には4本もの魚雷が命中したらしい。4本の水柱と共に轟沈した。

 5番艦も3本の水柱と共に直ぐに沈んだ。

 7番艦には2本命中したようだ。艦体を大きく震わせた後、針路を右に変えつつ沈み始める。

 8番艦には1本が命中したらしい。動きを止めた。機関部に直撃したのかもしれない。

 敵巡洋艦3隻撃沈! これは大きい! 起死回生の魚雷攻撃。


 だが、魚雷が命中したのは敵側だけではなかった。

「ミルン湾殴り込み艦隊」の2番艦「古鷹」、4番艦「衣笠」に敵魚雷が突き刺さり大きな水柱が立ち昇る。

 3番艦「加古」の艦尾にも水柱が立ったが、こちらは小さい。不発だったようだ。

 魚雷を喰らった「古鷹」と「衣笠」の2隻の艦体が震え、そして目に見えて速度を落とす。


 2番艦「古鷹」は艦首付近に被雷した。だが航行も戦闘も可能。ただし被雷の影響で速度が落ちる。


 3番艦「加古」は喰らった魚雷は不発だったものの舵が損傷したようだ。舵が効かず方向を変えられない。

 まだ回頭しきっていない時に魚雷を受けたのでミルン湾南岸方向に進んでいく事しかできない。

 それは左回頭をしている敵単縦陣の前に進んでいくという事でもあった。


 4番艦「衣笠」は船体中央に被雷した。こちらも速度は落ちたが、まだ航行可能だ。


「ミルン湾殴り込み艦隊」ボロボロになりながらも出せる限りの最大戦速で湾口を目指し脱出を開始する。

 隊列は乱れに乱れ、もはや単縦陣とはなっていない。

 隊列を維持しているのは旗艦「鳥海」の後に続く2番艦「古鷹」だけだ。


 だが、その「古鷹」も敵魚雷の被害により速度を落とし「鳥海」との距離を徐々に広げている。

 3番艦「加古」は隊列から完全に離れ敵に向かって行っている。

 4番艦「衣笠」も敵魚雷のせいで速度が出せていない。

 5番艦「青葉」と殿(しんがり)の「天龍」は速度を落とした「衣笠」との衝突をそれぞれ左右に躱す針路をとっている。


「加古」以外の各艦は敵の目を眩ませる為の煙幕を展張する。


 この時、殿(しんがり)の軽巡洋艦「天龍」は、煙幕に紛れて「置き土産」を次々と投下した。

 それは浮遊機雷。

「一号型機雷」だ。


「一号型機雷」は元々艦隊決戦用に開発されたものだ。

 軽巡洋艦や駆逐艦が前もって敵艦隊の針路にこの機雷を投下し敵に損害を与えようというものだった。

 軽巡洋艦では「天龍」型、駆逐艦では「神風」型と「睦月」型がこの機雷を搭載できるようになっている。


 だが史実では開戦前より配備されていたにも関わらず、ついぞ実戦では使う機会に恵まれなかった悲運の兵器でもある。

 その「一号型機雷」が遂に使われる時が来たのだ。この歴史において。


 本来、艦隊戦において軽巡洋艦は露払いの役割で先頭に位置するのが定石だ。

 だが、この機雷戦のために敢えて第8艦隊司令部は「天龍」を最後尾に位置させていた。


 第8艦隊司令部としては、この機雷の使用については「ミルン湾殴り込み作戦」が終わった後に行き来する 敵艦船に被害を与える事ができれば儲けものと考えていた。

 どちらかと言えば敵が機雷を発見しミルン湾を掃海する事になれば、ミルン湾内のラビへの海上補給も速やかにはいかなくなるだろうという考えだった。

 実質的な戦果よりも敵補給線への妨害目的の作戦である。


「一号型機雷」は12時間後には海底に沈んでしまう仕組みになっている。

 味方がラビ上陸作戦を行う時には、残っていたとしても既に海底に沈み無害となっている。

 だが、連合軍はそれを知る由もない。船舶の航行を一時停止し掃海を行うだろう。


 軽巡洋艦「天龍」艦長の浅野大佐は、今、戦っている敵艦に対して直ぐに効果があると思って機雷投下を命じたわけではく、当初からの作戦計画に従ったまでに過ぎなかった。



「ミルン湾殴り込み艦隊」3番艦、重巡洋艦「加古」を指揮する高橋艦長は腹をくくった。

 舵を破壊された「加古」は真っ直ぐ進んでいく事しかできない。

 自力での帰還はもはや望めない。

 だが、現状では味方の救援も望めない。

 それどころか、このままでは艦隊全滅も有り得る状況だ。


 ならば重巡洋艦「加古」は帝国海軍の軍艦として最期の一弾まで撃ち尽くし味方の撤退を援護しようと決断する。

 降伏も艦の放棄もしない。

 捨て石になる腹を決める。部下に犠牲を強いる事を決意した。


 旗艦「鳥海」に向けて打電する。

「我、操舵不能、救援ノ必要無シ、艦隊ノ武運長久ヲ祈ル」


 三川司令長官は電文を受け取り、「加古」が敵艦列に向け進んで行く姿を確認すると、その意味を理解した。

「加古」は艦隊のために犠牲になる気だと。

 胸に込み上げてくるものはあったが、今は感傷に浸っている暇は無い。

「貴艦ノ健闘ニ感謝ス」

と短い返電を送らせ、残る艦の指揮に専念する。


「加古」は目前に迫る敵巡洋艦の艦列に向けて撃てる砲を全て使い猛射した。

 腹の底から響く爆音が轟き、砲撃の閃光が煌めいては消える。

 だが、敵も強烈な砲撃を喰らわせてくる。

「加古」の艦体はその被弾する衝撃に何度も震えた。


 敵1番艦、2番艦、3番艦が「加古」の目の前を砲撃しながら通り過ぎて行く。

「加古」は滅多打ちにされた。

 一番砲塔も二番砲塔も吹き飛んだ。激しい火災が吹き上がる。

 舷側への被弾は数えきれず煙突も原型をとどめていない。カタパルトも破壊され水上偵察機も粉々に破壊されている。

 艦橋も直撃弾を受け内部は滅茶滅茶に破壊され負傷者と死者で血の海と化していた。


 それでも「加古」の砲撃は止まない。

 残った砲が、高角砲が、機銃が撃ち続ける。


「加古」の残った砲は敵3番艦後尾に砲撃を集中させた。

 既に離脱に入っている味方の後を追わせまいと、少しでも行かせまいと。

 それが直撃を受ける前の艦橋から来た最後の命令だった。


 その「加古」に敵6番艦が迫っていた。

 敵4番艦と敵5番艦は魚雷攻撃により既に沈み、その沈没を避ける形で左に針路を取った敵6番の回頭角度は、敵の1番艦から3番艦までよりも急角度だった。

 そのままでは「加古」と衝突する針路だ。


 舵が効かない「加古」には避ける事はできない。

 敵6番艦に構わず3番艦への砲撃を続行する。

 敵6番艦はそんな「加古」に猛射を浴びせた。

「加古」の艦体はもうボロボロだ。撃たれるまま。被弾するまま。それでも真っ直ぐに進み続ける。


 その「加古」を敵6番艦は左に躱す。

 そして敵6番艦は最も「加古」に接近した時を狙い、全主砲がタイミングを合わせて一斉射を行った。

 命中する砲弾。沸き起こる激しい爆発。

 致命傷だった。


 だが、その直前に「加古」より敵3番艦に向けて最後の攻撃が放たれていた。

 魚雷だ。

「加古」の魚雷発射管は次発装填装置付き。

 そうは言ってもその装置の操作には平時の訓練でも次発発射までには10分はかかるのが普通だ。

 しかし、この時の「加古」はそれを4分でやってみせた。

 

 敵からの斉射を喰らうまでの僅かの差で四連装発射管から3本の魚雷が次々と発射される。故障でもしたのか1本は発射されなかった。

 それを最後の攻撃として「加古」は大爆発を起こしミルン湾の波間に消えて行った。

 重巡洋艦「加古」はこうして沈んだ。


 だが「加古」より最後に放たれた最後の魚雷3本は暗い海中を突き進む。

 そして使命を果たす。

 轟音と共に大きな水柱がそそり立った。 

 1本の魚雷が見事に敵3番艦の艦尾に命中したのだ。

 撃沈はできなかった。

 だが、敵3番艦は行動不能に陥った。


 敵の1番艦と2番艦に対し旗艦「鳥海」と2番艦「古鷹」は不完全な同航戦に入った。

 正確には旗艦「鳥海」は先行しその右舷後方に敵1番艦が位置し敵2番艦がそれに続いている。

 2番艦「古鷹」は敵2番艦の左舷後方に位置している形だ。

 もし敵3番艦が「加古」の魚雷で行動不能に陥らなければ「古鷹」と完全な同航戦になっただろう。


 敵1番艦と2番艦は砲撃を「鳥海」に集中している。

 直撃もあれば至近に水柱を立てる砲弾もある。

 先頭を行く艦を逃がすまいとしているようだ。


 敵艦は魚雷を発射してこない。

 魚雷発射管を装備していない型なのか、それとも魚雷発射管に問題が生じたか。


 だが、こちらは発射できる。

「鳥海」と「古鷹」の魚雷発射管も次発装填装置付きだ。そして発射の準備は整っている。

 両艦から必中の思いを乗せて魚雷が次々と発射された。


 その間にも敵艦は熾烈な砲火を浴びせてくる。

「鳥海」と「古鷹」も応射するが、その砲門は敵艦に比べ少ない。これまでの戦闘で損傷を受けた砲が多すぎるのだ。

 それでも残った砲は懸命に砲撃する。


 そして時が来た。轟音と共に敵1番艦に2本の水柱が立ち昇る。

 船体が中央部からへし折られるように沈み始めた。

 巡洋艦1隻撃沈!

 だが他の魚雷は外したようだ。敵2番艦は健在で猛砲撃を加えてくる。



 敵艦隊の単縦陣において9番艦から最後の11番艦までの3隻は駆逐艦だった。

 その敵駆逐艦3隻は目前の巡洋艦4隻が次々と沈み、または行動不能に陥った事から単縦陣での艦隊行動を維持する事を中止した。

 独自の判断で急速左回頭を行い「ミルン湾殴り込み艦隊」への追撃を開始したのだ。


 だが、その追撃も途中で止まる。

 一番先頭を航行していた9番艦の艦首が突如爆発し水柱を立て吹き飛んだ。そして艦は沈み始める。

 その左後方にいた10番艦もまた艦首で爆発が生じた。完全に艦首が吹き飛び無くなっている。浸水も始まり沈むのも時間の問題だ。


 軽巡洋艦「天龍」の投下した浮遊機雷に触雷したのだ。

 日本側にとっては想定外の幸運だ。


 敵11番艦は先行していた味方駆逐艦の突然の爆発に周囲への警戒を厳重にする。

 砲撃とは明らかに違う攻撃。敵の位置は魚雷戦をできる位置でもない。

 そして見張りが発見した。海上に浮遊する物体を。機雷らしきものを。

 敵は湾内に機雷を投下していた。

 この報は11番艦より平文で全艦あてに打電された。日本側も傍受する。


 これにより敵艦隊の動きが鈍りだす。


 同航戦から追撃戦へと移行しようとしていた敵巡洋艦は明らかに速度を落としている。

 機雷を警戒してのものだろう。

 盛んに砲撃はするが、突進する事は無かった。


 だが、敵にすれば、ここで敢えて危険を冒して追撃する必要もなかったのだ。


 ミルン湾湾口より新たな艦影が現れる。

 その数6。

 駆逐艦だった。

 敵の駆逐艦が新たに6隻戦線に参加した。


 新たに現れた敵艦隊は「ミルン湾殴り込み艦隊」のミルン湾脱出を阻む針路をとっている。

「第8艦隊」の頭を抑えにかかっていた。


 ミルン湾のすぐ傍にはルイジアード諸島の島々が点在している。

 小型の駆逐艦ならば夜間に島影に潜めば発見されにくい。

 恐らくはそうした島々の陰にでも分散して潜み、挟撃の機会を最初から狙っていたのだろう。


「ミルン湾殴り込み艦隊」は完全に敵の罠に嵌められていたのだ。


「ミルン湾殴り込み艦隊」にはこの新手の駆逐艦部隊を殲滅し脱出する力はもうない。

 各艦はもうボロボロだ。

 旗艦「鳥海」は前部砲塔は全て破壊されている。

 艦橋下部にも数発の直撃を受けており酷い被害だ。マストも折れ舷側にも何発も被弾している。左舷側の 高角砲は全滅し、カタパルトも破壊されている。機関部にも被弾し速度も上らない。


 2番艦「古鷹」は艦橋に直撃弾を受け、他に前部第2砲塔と後部第3砲塔も破壊され使用不能。左舷側後部の高角砲1門と機銃1挺が破壊されている。

 船首付近に魚雷を1本喰らった為に速度も落ちている。


 3番艦「加古」は失われた。


 4番艦「衣笠」は左舷側の高角砲2門とカタパルトに直撃を受け水上偵察機も破壊された。舷側にも何発か被弾し、更に船体中央に魚雷1発が命中している。その魚雷で空いた穴の応急処置に手間取り、速度を落としている。


 5番艦「青葉」は左舷側砲塔付近に被弾した影響で電気系統に異常が生じていたが、それが更に悪化して今や第1砲塔と第2砲塔から砲弾が発射できなくなった。懸命に修理中だが、いつ回復するかは不明。

 他に右舷側の高角砲1門が直撃を受け破壊されている。


 殿(しんがり)の軽巡洋艦「天龍」も三本煙突のうち一本に敵弾が命中し吹き飛んでいる。


 このまま新手の敵駆逐艦部隊と戦えば「ミルン湾殴り込み艦隊」は全滅するだろう。

 それでも「ミルン湾殴り込み艦隊」は航行をやめない。

 脱出を諦めない。

「加古」の勇戦と最期を見届けた後では尻込みする事は許されない。


「ミルン湾殴り込み艦隊」は意地と勇気と誇りを胸に敵に突進していく。


 その時だった。


 新たに出現して来た敵駆逐艦のうち先頭を進んでいた4隻に突如、水柱が立ち轟音を発したかと思うと2隻が沈み始める。

 沈み始めたのは先頭の艦と2番目の艦だ。

 3番目の艦では酷い火災が発生している様子だ。

 4番目の艦はヨロヨロと針路を左に外したかと思うと、その艦を回避しようとした後続の5番目の艦と衝突した。

 最後尾の艦は4番艦、5番艦を回避しようと大きく舵を切ったようで、脱出を図る「ミルン湾殴り込み艦隊」とは離れる方向に進んでいる。


 味方の攻撃だ!

 遅れていた「第1魚雷艇隊」が今、到着したのだ。


「第1魚雷艇隊」がミルン湾に到着した時、直ぐに発見したのは湾外から湾内北へ向かう敵駆逐艦部隊の6隻だった。

 今回の作戦に味方駆逐艦は参加していない。だから敵味方を見間違えよう筈がない。


 湾内では既に味方が戦闘入っているようで砲戦の音が絶え間ない。

 そうした状況でのこの駆逐艦部隊の動きはどう見ても味方の退路を断つ動きだ。

 それぐらいの事は教育を受けた海軍士官なら誰でもわかる。

 このままでは非常にまずい。味方が危ない。


 そう判断した「第1魚雷艇隊」指揮官は敵駆逐艦部隊を攻撃する判断を下した。

 お誂え向きに敵は目前にいる。しかもこちらに腹を向けている。

 敵艦の注意は湾内に向けられ主砲も湾内に向けられているようだ。

 これ程、魚雷艇隊にとって奇襲作戦に向いた状況はそうそうないだろうといった好条件だ。


 アメリカの駆逐艦には既にレーダーが搭載されている艦もある。

 この駆逐艦部隊にはレーダー搭載艦が無かったか、あっても「第1魚雷艇隊」を見逃したのだろう。

 この時代のレーダーはアメリカ製でもそれほど高性能というわけではない。

 陸地に近いとレーダーの性能も低下したという話だ。沿岸を進む小型の魚雷艇なら見逃す事は充分ありえるだろう。


 だが、もしも、敵に気付かれ主砲の1発も打ち込まれれば攻撃は失敗するかもしれない。

 史実ではソロモン諸島の戦いで日本の駆逐艦がアメリカの魚雷艇数隻に主砲を発射し外したが、至近距離への着弾で発生した波と衝撃に魚雷艇数隻が転覆したという例もある。

 それだけ魚雷艇は小さく軽いのだ。

 アメリカの魚雷艇は全長約25メートルで、日本のT1型魚雷艇はそれよりも小さい全長約18メートル。

 アメリカの魚雷艇で転覆するなら日本のT1型魚雷艇が転覆する確率はなお高い。


 だが、幸いにも敵はまだこちらに気付かない。

 魚雷艇のエンジンも相当な音を出すが、幸いにも湾内から聞こえる砲声は激しく絶え間無い。

 そのためこちにらに気付かないのだろう。


「第1魚雷艇隊」の5隻は横陣形を取り、一艇一隻を割り当て攻撃態勢に入った。

 敵が1隻余るがこれは仕方がない。

 夜の海を高速で疾走する魚雷艇のその姿は軽やかだった。


 そして、いよいよ魚雷を落射するという時だった。

 ようやく敵が魚雷艇の接近に気付いたようだ。敵駆逐艦の何隻かの左舷側、つまりこちら側で慌ただしい動きが見え探照灯が照射された。だが、まだその狙いは外している。動かして目標を探している。


 魚雷艇が次々と魚雷を落射した。

 このT1型魚雷艇は魚雷発射管ではなく落射基により魚雷を海中に投下する方式をとっている。

 海中に落射された魚雷が高速で進み出す。


 全魚雷艇が魚雷を投下しUターンして撤退行動に入ったその時だった。探照灯に捉えられた。

 直ぐに敵艦の発砲が始まる。だが、幸いにもまだ機銃のみのようだ。

 主砲は湾内の艦隊に向けられているからだろう。


 魚雷艇は全速で逃げにかかる。

 段々と敵機銃の狙いのが近づいてくる。 

 魚雷艇の脇を機銃弾がかすめていく。

 魚雷艇と機銃の死を賭したレースだ。 

 今回の勝者は魚雷艇だった。

 幸いにも全魚雷艇が被弾する事無く無事に逃げおおせる事に成功した。


 そして、敵艦には落射した魚雷が迫り命中する。

 轟音と水柱が何本も敵の艦列に立ち昇った。

 2隻が沈み、2隻が大破、1隻を損傷に巻き込んだ。


 攻撃を受けた敵はどうやら混乱の中で「第1魚雷艇隊」の戦力を誤認したようだ。

 慌てている様子で「魚雷艇が20隻」「駆逐艦が7隻」という通信が飛び交っていた。

 よくある「戦場の錯誤」だろう。

 見えない筈の物を見てしまう。


 ともかく「第1魚雷艇隊」は作戦には遅れたが確固たる戦果をあげた。



 敵駆逐艦部隊が「第1魚雷艇隊」の攻撃により大きな損害を受け、混乱している状況を利用して「ミルン湾殴り込み艦隊」はミルン湾からの脱出に成功した。


 敵艦隊は追撃してこなかった。

 湾内にばら撒かれた機雷を警戒した事と、湾外の新たな日本の増援(第1魚雷艇隊)の戦力を誤認したからだろう。


 こうして「ミルン湾殴り込み艦隊」は虎口を脱した。


 だが、ミルン湾を脱出してすぐに旗艦「鳥海」の限界が来た。

 あまりに多くの砲弾を浴び、破壊された箇所が多すぎた。

 艦内のところどころで火災が発生し乗組員は消火に大わらわだ。

 機械系統もかなりの部分が駄目になっている。既に機関も限界で、高温高圧の蒸気が漏れている。

 戦死、負傷兵は数えきれない。

 ここまで持ったのが奇跡だ。

 艦長は総員退艦を命じた。


 比較的、損傷の少ない軽巡洋艦「天龍」に三川司令長官は将旗を移す。

「鳥海」の乗組員は「青葉」と「天龍」に移乗する。

 そして力尽きたかのように「鳥海」は暗い海に沈んで行った。



 こうして「ミルン湾海戦」は幕を閉じた。


 日本軍の戦果

 重巡洋艦3隻撃沈、軽巡洋艦1隻撃沈、駆逐艦4隻撃沈、重巡洋艦2隻大破、軽巡洋艦1隻大破、駆逐艦2隻大破、重巡洋艦1隻小破、駆逐艦1隻小破。


 連合軍の戦果

 重巡洋艦2隻撃沈、重巡洋艦2隻大破、重巡洋艦1隻小破、軽巡洋艦1隻中破。


 無傷の艦は日本は魚雷艇5隻。連合軍は駆逐艦2隻という激戦だった。


 日本側にとって酷い戦いだった。

 投入戦力の格差、湾内奥深くへの誘い込み、T字戦法による待ち受け、そこから同航戦への移行、そして湾内と湾外からの挟撃。

 敵に有利な態勢をとられてばかりの一戦だった。

 完全に敵にこちらの作戦を読まれていた。

 常に一手先を読まれている。


 敵もなかなかやってくれる!


 だが、それでも勝った。完全に敵の罠に嵌り込んだが、それでも罠を喰い破り勝利した。

 味方の損害に倍する敵艦を沈めたのだ。

 この勝利は大きい。


 圧倒的に不利な状況からの勝利だからこそ意味がある。

 日本海軍にとり絶対の自信を持っている夜戦での勝利は更なる自信への裏打ちとなる。

 敵の罠に陥りながらも勝利した事は、更なる自負を抱かせる事となる。

 こちらの士気は大いに上がる。


 そして敵にとっては圧倒的有利な状況での敗戦だからこそ、より事態は深刻だ。

 自信を喪失し士気が低下してもおかしくはない。

 開戦以来、日本軍に負け続けている記録が更に増えたのだ。


 ラビ周辺に配置されている陸軍も朝になって味方海軍の敗残の姿を見たならば動揺するのではないだろうか。

 いくら指揮官が仇を討つ、復讐戦をと叫んでも、これまで負け続けの戦いだ。将兵の士気が奮わなくてもおかしくはない。

 連合軍は陸軍、海軍共に士気を低下させてもおかしくはない。


 まぁ逆に士気を保つばかりか怒りの炎を燃やすかもしれないが。

 そこは油断せずに行こう。



 それにしても今回の勝利は敵より優れた酸素魚雷があったればこその勝利だろう。

 これにはアメリカ海軍が魚雷戦よりも砲戦を重視する巡洋艦運用を行っている事も幸いした。

 今回の海戦に参加していた敵巡洋艦の中には魚雷発射管を搭載していない艦もあったようだ。


 日本は巡洋艦の作戦運用について魚雷戦も重視した。そのため巡洋艦には全て魚雷発射管が装備されている。

 だが、アメリカ海軍は魚雷よりも一時期、砲戦を重視した。その為、アメリカの巡洋艦の中には魚雷発射管を持たない艦もある。


開戦前、アメリカ海軍には重巡洋艦で4つの型、軽巡洋艦で3つの型があった。


 重巡洋艦

 ペンサコーラ級2隻 1929年~1930年に就役 魚雷発射管有り

 ノーザンプトン級6隻 1930年~1931年に就役 魚雷発射管有り

 ポートランド級2隻 1932年~1933年に就役 魚雷発射管無し

 ニューオリンズ級7隻 1934年~1937年に就役 魚雷発射管無し

 ウィチタ級1隻 1939年就役 魚雷発射管無し


 軽巡洋艦

 オマハ級10隻  1923年~1925年に就役 魚雷発射管有り

 ブルックリン級9隻 1937年~1938年に就役 魚雷発射管無し

 セントルイス級2隻 1939年就役 魚雷発射管無し


 古い艦型では魚雷発射管が搭載されているが、その後に建造された型では魚雷発射管は無い。

 1930年代半ばから後半以降に就役している艦は砲戦主体だ。

 例えばノーザンプトン級重巡洋艦が魚雷発射管を2基を搭載していたが、ニューオリンズ級は魚雷発射管を搭載しない代わりにノーザンプトン級よりも127ミリ単装砲を4門多く装備していた。


 これは別に対空専門装備として127ミリ単装砲を増やしたのではなく副砲として増やしたものだ。

 1930年代の頃にはまだ航空主兵という考えはアメリカ海軍でも主流ではなく、新たに防空巡洋艦が就役してくるのは開戦後の事だ。

 太平洋戦争が始まってアメリカ海軍も航空主兵の思想に固まると巡洋艦の魚雷発射管を撤去し、その分、対空機銃を載せるという事も行われている。


 もし、アメリカ海軍が日本と同じく戦前から魚雷戦重視の姿勢で艦を整備していたら、例え日本の魚雷よりも性能は劣っていても、今回の戦いで「ミルン湾殴り込み艦隊」は全滅していたかもしれない。


 実に際どかった。

 それと「一号型機雷」と「T1型魚雷艇」だ。

 史実では活躍する事無く終わった、この二つの兵器の活躍があったからこそ、「ミルン湾殴り込み艦隊」は全滅する事なく勝利し撤退する事ができた。

「酸素魚雷」「一号型機雷」「T1型魚雷艇」どれか一つが欠けても「ミルン湾殴り込み艦隊」は全滅していただろう。

 今回の勝利は全ての兵器が上手く噛み合わさった結果であり、見事に兵器を使いこなした将兵達の働きのおかげだ。

 よくやった!


 だが、犠牲も大きかった。

 重巡洋艦「鳥海」「衣笠」を失った。

 巡洋艦で被弾していない艦は1隻も無い。

 戦死者、負傷者も大勢出た。痛ましい事だ。

 戦死者には冥福を祈る言葉を贈ろう。

 負傷者にはいたわりの言葉を贈ろう。


 しかし、残念ながら作戦本来の目的は果たせなかった。

 敵飛行場への砲撃はできなかった。

 まぁ仕方がない。

 相手あっての戦争だ。計画通りにいかない事もある。


 まぁ今は勝利を喜ぼう……と、締め括れれば嬉しいのだが、そうもいかない。



 更に悪い報告が入って来ている。

 今朝方、グットイナフ島にて川口支隊の分遣隊が敵機の空襲を受け、かなりの被害を出したらしい。


 川口支隊長の要望した舟艇機動作戦による「ラビ攻略作戦」は、結局、川口支隊長の要望がかなり通った形で実行される事になった。


 一部の部隊が舟艇機動を行い、本隊は輸送艦による移動となった。

 川口支隊全部を運ぶには小型舟艇が足りなかったからだ。

 作戦は本隊と分遣隊によるラビ挟撃作戦となった。


 まずはラバウルから輸送艦が分遣隊を乗せ、夜間にニューギニア半島東端近くのグッドイナフ島まで運ぶ。そこで分遣隊は昼間は休息し夜間に舟艇で対岸のニューギニア半島のタウロバまで移動する。

 そこから一隊は陸路でラビを目指す。

 一隊は舟艇機動によりラビを目指す。

 そして本隊と重火器が輸送船でラビを目指す事になった。


 ラビはニューギニア最東端の細長い半島の南側にあり、ミルン湾に面している。半島の北側はグッドイナフ湾だ。

 グッドイナフ湾側のタウロバに上陸した分遣隊は半島を横断しラビを側面から攻撃しようというわけだ。

 そして、それに合わせて川口支隊本隊がラビに上陸作戦を行うというものだ。

 要は「南海支隊」が行っているポートモレスビー攻略作戦の縮小版みたいな作戦だ。


 タウロバからラビは直線距離で10キロ。ただし内陸はそれほど高くはないが、スターリング山脈が連なっているので、それなりの距離はある。

 まぁポートモレスビー攻略を目指す「南海支隊」の場合は、直線距離で200キロ、オーエンスタンレー山脈越えの実際の距離約360キロに比べれば、遥かに短い距離ではある。


 それはともかく、分遣隊のグッドイナフ島までの移送はうまくいった。幸いにも輸送艦は攻撃される事もなく無事に分遣隊を送り届けた。


 だが、しかし、グッドイナフ島で昼間に休息中だった分遣隊が敵機に発見され攻撃を受け、かなりの被害を出してしまった。

 分遣隊が保有していた舟艇は「高速艇甲」1隻。「高速艇乙」1隻。「大発」30隻。「小発」32隻の計64隻。

 このうち「大発」9隻と「小発」5隻が完全に破壊され、「大発」3隻と「小発」8隻が損傷を受け、損害の合計は25隻に及んだ。39%の被害だ。約4割。これは痛い。


 実は史実の「ラビ攻略作戦」でもグッドイナフ島で海軍の舟艇部隊が大損害を受けている。

 タウロバから陸路ラビを攻撃するという作戦は、史実の海軍による「ラビ攻略作戦」でも立てられていた。

 考える事は皆同じというところか。同じ場所を同じような武器を持った軍隊が攻撃するんだから同じような作戦になってもおかしくはない。

 実際、史実ではオーストラリア軍からも日本軍がスターリング山脈を越えてラビを北方から攻撃しなかった事は驚きだという声が出ていたそうだ。敵も味方も考える事は皆同じというところか。


 史実の場合はブナから「第5特別陸戦隊」の約350人が大発7隻でタウロバに向かっている。

 ブナから沿岸沿いに航行した場合は途中にソロモン海に突き出た形で小さな半島が2つある。もし沿岸沿いに航行すればそうした半島のせいで航行距離がかなり長くなる。沿岸沿いに行けばブナからタウロバまでは約280キロ。

 しかし、波は高くなるがラビから直接、ソロモン海の洋上をグッドイナフ島に向かえば、その航行距離は約120キロとなる。そこからタウロバまでの距離は約70キロで合計約190キロの航行距離。約90キロも距離を短縮できるし当然到着時間も早くなる。


 そこで「第5特別陸戦隊」はまずはグッドイナフ島に向かった。

 そこまでは良かったが、グッドイナフ島近海で敵P40戦闘機10機に発見され攻撃を受けてしまう。

 損傷を受けた舟艇を何とか島までもたせたり、舟艇が破壊された者は島まで泳いだという話だ。

 ただし、文献によってはグッドイナフ島で休憩中に敵機の空襲にあい、大発全艇が破壊されたとしているものもある。どっちが正しいんだ?

 どちらにしろこの部隊が島から動けなくなり、ラビ攻略作戦に間に合わなくなった事は事実のようだ。


 史実では孤立したグッドイナフ島の部隊は無線機も失われたので伝令をカヌーでブナまで行かせたとか、救助に来た駆逐艦が敵機に沈められたとか、オーストラリア軍が上陸して来て激戦になったが食い止めたとか、最終的には2ヵ月後に潜水艦で救助されたとか、色々逸話があるが、それはまた別のお話。機会があったら述べる事にしよう。面倒だから述べないかもしれない。


 それにしても、なんて事だ。「歴史は繰り返す」か。

 今回の歴史でもグットイナフ島で被害を受けるとは。

 まぁ今回は無事な舟艇もかなりあるので作戦は続行される。

 グッドイナフ島とタウロバの間を舟艇が往復し兵士を輸送するそうだ。流石に舟艇の被害が多くて一度では運びきれないらしい。

 今頃、大発と小発が往復して兵士達を運んでいるかもしれない。


 実はこのグッドイナフ島とタウロバの間の輸送は「第1魚雷艇隊」の補給隊も支援している。

「第1魚雷艇隊」の行動も含めて述べておこう。


「ミルン湾殴り込み作戦」に参加を命じられた「第1魚雷艇隊」は前述したようにブナに配置されている。

では、ブナからミルン湾までの航路はと言うと、やはり前述した史実の「第5特別陸戦隊」のように、まずはグッドイナフ島に向かった方が航行距離が近くなって良いという事になる。


 ここで問題になるのが魚雷艇の航続距離だ。「第1魚雷艇隊」のT1型魚雷艇の航続距離は約390キロ。

ブナからグッドイナフ島までは約120キロ。グッドイナフ島からラビまでは、これも丁度120キロで合計240キロとなる。

 片道だけならT1型魚雷艇でも余裕で行ける。波や風の強さ等、海象条件によって航続距離は変わって来るが、それでも240キロなら余裕だ。

 だが、流石に往復まではできない。


 そこで「第1魚雷艇隊」ではグットイナフ島に補給隊を置く事にした。基地を設営する話も出たが、あまりに敵飛行場から近く、危険であるとしてその話は流れている。


 大発で燃料を運ぶ事になったが、最高38ノットを出せる「T1型魚雷艇」と8ノットしか出せない「大発」ではあまりに速度が違う。


 そこで「大発」4隻からなる「補給隊」は先発する事になり、一日早く出発してグッドイナフ島で待つ事になった。

 ただ、出発した4隻のうち途中で1隻が機関不調で引き返している。

幸いにもそれは大発用の燃料を積んだ「大発」であった為に「第1魚雷艇隊」の作戦に大きな影響は出ていない。


「T1型魚雷艇」はガソリンエンジンを積んでいる。当然、燃料はガソリンだ。

「大発」は大量に建造された為に、色々な型があるが、この時「補給隊」の使用していたのは主流のディーゼルエンジン・タイプな為に使用する燃料が魚雷艇とは違う。

 ブナとグッドイナフ島までの往復距離240キロは「大発」の航続距離では厳しいので、「補給隊」には大発用燃料を積んだ大発を1隻参加させていたのだ。


「補給隊」の航行は脱落した1隻を除いて問題なく海も穏やかだったようだ。

 だが、しかし、翌日出撃した「第1魚雷艇隊」の場合は違った。運の悪い事にブナからグッドイナフ島までの航路が少し荒れた。波が高く風も強かったようだ。

 それで一時は針路も誤ったらしい。

 どうにかこうにかグッドイナフ島の補給隊と合流できたが、予想以上に燃料補給には手間取ったようだ。

何せ当然の事ながら基地や大型艦とは違うから大型の照明設備が無い。それにそもそも照らす事が出来たとしても、あまり派手にやると、敵機に発見される可能性が高くなる。

 敵は夜間出撃もよくしているし、グッドイナフ島は敵飛行場からは近い。

 それで闇夜の中で限られた灯りの中で、桟橋があるわけでもない、波に揺れる「大発」からの給油となったものだから苦労したらしい。


 だが、幸いにもグッドイナフ島からミルン湾までは順調だったようだ。グッドナイフ湾はソロモン海側に島が幾つもありソロモン海の外洋に直接面しているブナとグッドイナフ島の間の海域とはかなり海象条件が違ったようだ。

 そして「第1魚雷艇隊」はミルン湾湾口で戦闘を行い撤退した。


 一方、その頃グッドイナフ島にいた補給隊は予期せぬ事態が発生し驚いたらしい。

 突如、近くの海岸に大型船や護衛船らしきものが現れ大勢の兵士達が上陸して来たからだ。

 恐る恐る偵察するとどうやら日本軍らしい。

 接触すると「川口支隊」の「分遣隊」だったというお話。


「第1魚雷艇隊」からは「第8艦隊」司令部にグッドイナフ島に補給隊を置くという事は連絡済みだったようだ。しかし、その頃には「川口支隊」の「分遣隊」は既にラバウルを出港しており、「第8艦隊」司令部としては、無電で連絡するほどの事でもない些末な事だろうと連絡はしなかったらしい。

 おかげで「補給隊」も「分遣隊」も他の日本兵部隊が、こんな南の小島のグッドイナフ島にいる事、来る事を知らなかったから驚いたという事になった。

 同士討ちにならなくて良かったよ。


 そして「第1魚雷艇隊」がグッドイナフ島に戻って来ると「補給隊」の他に大勢の兵士に出迎えを受けて驚いたとなるわけだ。

「分遣隊」の将兵は「第1魚雷艇隊」からミルン湾での活躍と戦果を聞き大いに士気を高めたらしい。

 何せ小さな魚雷艇が遥かに大きい駆逐艦を2隻も沈め3隻も損傷させたというのだ。

「大物喰い」というのは何時の時代、どこの兵士をも湧き立たせる。

「分遣隊」を指揮する岡大佐は「海軍に負けないよう、恥じないよう、奮闘するべし」と訓示したという話だ。


「第1魚雷艇隊」はそのままブナに引き揚げた。

 何せ、魚雷を持たない魚雷艇はただのボートだ。

 少しでも早く戦闘態勢を整えて次の出撃に備えなくてはならない。


「補給隊」は残留した。

 大発用の燃料不足は「分遣隊」に余裕があるという事で融通してくれる事になったが、グッドナイフ島とブナの間は海象条件が悪いようなので、無理をせず翌日帰還する事になったのだ。


 史実では陸軍と海軍の間は仲が悪くて有名だが、その一方で前線では結構助け合っている。問題は上層部のいがみ合いだねぇ。困ったものだよ。


 それはともかく、グッドイナフ島では朝方に不運が起こる。

 敵機の空襲で「分遣隊」の将兵と舟艇に大損害を受けたのだ。

 幸い海軍の「補給隊」は無事だったが、陸軍の窮状を見かね「第1魚雷艇隊」司令部に連絡をとり、「分遣隊」のタウロバ上陸を手伝う事になったという次第だ。


 グッドイナフ島の負傷者については「分遣隊」から「川口支隊」本隊経由で「第8艦隊」に後送する艦艇の派遣要請が出されている。

 手持ちの舟艇はタウロバへの輸送に手一杯で、それが終わった後には燃料は殆ど残らないからだ。


 そこで負傷兵の収容と大発用燃料の輸送に、今晩、ブナから戦艦「津軽」が向かう予定だ。

 いや、今頃はもう負傷者を収容し燃料を届けている頃かもしれない。


 あっ戦艦「津軽」じゃなかった。正式には機雷敷設艦「津軽」だ。


「津軽」の名前を見るとつい「戦艦津軽」と呼びたくなってしまう。そういう逸話があるのだ。

 史実でも今回の歴史でも今年の3月、日本軍はニューギニアのラエとサラモアに上陸し占領した。

 この時の上陸作戦に「津軽」も参加していた。

 その時、敵機の空襲を数度受ける。小型爆撃機による爆撃だ。この時、敵機の無電を傍受していると、どうも「津軽」を戦艦と誤認したらしく「戦艦がいるぞ」「魚雷攻撃が必用だ」「大型爆弾が必用だ」と大騒ぎしていたらしい。それで暫く経つと雷撃機やら大型機やらがやって来て雷撃するは大型爆弾の雨を降らせるはで「津軽」は大変な目にあったという話があるのだ。

 残念ながら1発の爆弾が命中し尊い犠牲者も出してしまったが、それでも「戦艦津軽」は堂々健在だった。


「津軽」は新鋭の機雷敷設艦だ。1941年10月という開戦直前とも言える頃に就役した。基準排水量は約4000トン。

 軽巡洋艦「天龍」型の基準排水量は約3230トンで、同じく軽巡洋艦「球磨」型が約5100トンだから、「津軽」はその中間で軽巡洋艦並みだ。

 まぁ戦場でアドレナリンが出て興奮状態にある兵士が軽巡洋艦並みの艦を戦艦と見誤っても不思議じゃぁない。


 ところで、日本海軍は色々と個性的な軍艦を建造してきたが、この艦もただの機雷敷設艦ではない。

 ただ、機雷を敷設するだけでなく、給油艦として、もしくは基地補給艦としての機能も持っている。

 艦内に他の艦への補給用「重油タンク」が設けられ、他にも「航空用ガソリンタンク」が設けられていた。

 それに水上偵察機1機も搭載している。


 何せ戦前の日本海軍の予算は潤沢とは言えないのに仮想敵のアメリカ海軍の規模は日本の2倍だ。

 だから一隻に複数の任務をこなせるよう能力を付加した多目的な艦を色々と建造したのだ。

 機雷敷設艦「津軽」もその1隻だ。

 他の艦については何れ語る時が来るかもしれない。来ないかもしれない。


 ちなみに日本海軍と戦ったアメリカ海軍にも機雷敷設艦はあり「テラー」型と「チモ」型とがあるが、機雷の他は自衛用の武装があるだけで、日本の「津軽」のように給油能力を付加したり水上機を搭載する事はしていない。


 まあ、それはともかく戦艦「津軽」なら、あっいや機雷敷設艦「津軽」ならば、必ずや任務を達成してくれるだろう。フッフッフッ。



 それにしても、なんて事だ。

 今回の「ラビ攻略作戦」では、海軍によるラビへの爆撃も艦砲射撃も失敗し、陸軍の先遣隊も到着する前に既に損害を被っている。


 これで「ミルン湾海戦」で負けていたら良いところ無しの完全敗北だった。

 海戦で勝利したのが救いだ。

 それでもこれは当初の目的を達成しているとは言い難いのだから戦術的勝利、戦略的敗北と言ったところか。

 でもまぁ戦術的敗北に戦略的敗北の惨敗よりは遥かにいい戦況だろう。

 まぁいつまでも作戦の躓きを嘆いていても仕方がない。気持ちを切り替えていこう。


 それに今回の「ミルン湾海戦」では魚雷艇が活躍してくれた。

 これは良かった。軍令部に掛け合ってわざわざ配置を変えさせたかいがあったというものだ。

 連合艦隊司令部の面目も保てた、一安心だ。



「第8艦隊」司令部からは、「川口支隊」の援護は「第8艦隊」の残存艦でやる予定であり、その成功に確信を持っていると報告して来ている。

 司令官の川口中将が自信があるというのなら、ここは任せておこう。


 現地での作戦は「第8艦隊」と陸軍に任せるとして、連合艦隊司令部としては、まずは「第8艦隊」の損害の穴埋めを考えなければならない。

「第8艦隊」は今回の戦いで、その主戦力の根幹が失われたと言っていい。


 ニューギニアとソロモンの戦況を鑑みると「第8艦隊」の損害をそのままにしておく事はできない。

 戦力の穴埋めをしなくては戦線を維持できない。

 しかも「第8艦隊」の被った損害の穴を埋めるのだから、まさか商船改造の特設巡洋艦や特設砲艦を送るわけにもいかない。それなりに戦闘力があるのが望ましい。やはり巡洋艦や駆逐艦だろう。

 だが、その戦力をどこから持ってくるか……


 改めて日本海軍各艦隊の配置状況と所属艦、それも巡洋艦と駆逐艦を主に確認してみよう。


 現在、海軍は7個の艦隊と4個の機動部隊で編制されている。

 まずは外地を担当する艦隊からだ。


 中国大陸を担当するのは「支那派遣艦隊」だ。


 ただし、この艦隊は連合艦隊には属していない。別組織となっている。まぁ軍令部を通せば戦力の融通はつくが。

 この艦隊は「第1遣支艦隊」「第2遣支艦隊」と幾つか根拠地隊から成っている。

 中国大陸の大河や沿岸が主な活動域となるので、河川用砲艦が主力として配備されている。

 その為、現在は駆逐艦以上の戦闘艦は配備されていない。

 その配備されている駆逐艦もわずか3隻だけで、しかも全艦が「樅」型駆逐艦で1920年代初期に就役した老朽艦だ。


「樅」型駆逐艦は全部で21隻建造されたが、開戦前の時点で駆逐艦として任務についていたのは、やはりこの「支那方面艦隊」に配属されている3隻「栗」「栂」「蓮」だけだ。

 他の艦は老朽化に伴い除籍になったか、練習艦になったり哨戒艇に改装されている。


 まぁそんな老朽艦ではあるが「支那方面艦隊」にとっては唯一の貴重な駆逐艦戦力だ。

これは引き抜けない。



 アリューシャン方面の北方海域を担当するのは「第5艦隊」だ。


 麾下の部隊は旗艦の重巡洋艦「那智」

「第21戦隊」の軽巡洋艦「木曾」「多摩」の2隻

「第1水雷戦隊」の軽巡洋艦「阿武隈」

「第1駆逐隊」の駆逐艦4隻。「野風」「波風」「沼風」「神風」

「第3駆逐隊」の駆逐艦3隻。「汐風」「帆風」「夕風」

「第6駆逐隊」の駆逐艦4隻。「雷」「電」「響」「暁」

 水上機母艦「君川丸」

 特設巡洋艦3隻で編成された「第22戦隊」と、その他小艦艇から成る。


 実はこのうちの「第3駆逐隊」はこの時点では史実にない新たに編成した部隊だ。

 史実でも今回の歴史でも以前は「第3駆逐隊」はあったが、1942年1月に解隊されている。


 それを何故、復活させたのか?

 それは、まぁなんとなくだ。

 いやぁ駆逐艦「汐風」の名前を見掛けたら何か復活させたくなったのもので、つい。


「峯風」型駆逐艦の「汐風」は1930年代に同型艦の「夕風」と共に「第3駆逐隊」を編成していた事がある。

 しかし、連合艦隊という所はちょくちょく再編成して艦の所属をよく変える。

 それで1938年には「第3駆逐隊」は解隊となった。

 しかし、1940年に再び「汐風」と「夕風」と更に同型艦の「帆風」で「第3駆逐隊」を再編成した。

 だが、しかし、1942年1月には、またもや「第3駆逐隊」は解隊され各艦はそれぞれ新たな運命を求め旅立って行ったのである! あっ違った新たな任務だ。

 

 それで「ミッドウェー海戦」が終わった頃、「汐風」と「帆風」の2隻は、「第五艦隊」に所属していた。

「夕風」は空母「鳳翔」の直衛艦をしていた。その空母「鳳翔」は練習空母となり、もう戦いに出向く事はなくなった。


 史実では「夕風」はそのまま練習空母「鳳翔」の活動を支援していた。飛行機が空母への離着陸に失敗した時のパイロットの救助及び機体の回収だ。

 だが、それは駆逐艦でなくてもできる。


 と、言う事で今回の歴史では「夕風」を「第5艦隊」に派遣し「汐風」「帆風」「夕風」で再び「第3駆逐隊」を編成させたのだ。

 これで「汐風」は駆逐艦3隻で3度目の「第3駆逐隊」所属となる。「汐風」の「汐」はサンズイである事といい3という数字が並んでますなぁ。この三並びが何となく見たくなったのですよ。はっはっはっ。


「第5艦隊」は史実に比べかなり戦力が少ない。

 史実では「第5艦隊」には「呂」号型潜水艦7隻が所属し北太平洋の哨戒任務についていた。

 しかし、今回の歴史では荒天の多い北太平洋で視界の悪い小型の老朽化した潜水艦を哨戒に使うよりは、 通商破壊戦に使用した方が戦力として有効活用できるだろうという考えで、1隻も配備していないのだ。

「駆逐隊」も1隊少ない。

 史実とは違い現在はミッドウェー島を占領し、インド洋で通商破壊戦を行い、日本近海では水雷戦隊を丸ごと1隊、対潜掃討任務に割り当てている為、その皺寄せが来ている為だ。

 そのうち戦力を増強する必要があるだろう。



 南方資源地帯を担当するのは「南西方面艦隊」で、その麾下にはベトナム及びマレーを担当する「第1南遣艦隊」と、インドネシアを担当とする「第2南遣艦隊」と、フィリピンを担当とする「第3南遣艦隊」と、海上交通路防衛を任務とする「第1海上護衛隊」が配属されている。


 各南遣艦隊は主要な港に設置された根拠地隊を主戦力としており、配備された特設砲艦や駆潜艇、掃海艇等の小艦艇や航空隊、陸上部隊がその主力となっている。その為、正面戦力たる駆逐艦以上の軍艦の配備は少ない。


 実際「第1南遣艦隊」に配備されている駆逐艦以上の軍艦は「第5駆逐隊」の駆逐艦4隻だけだし、それも全艦が1920年代前半に就役した老朽艦であり護衛任務を専門としている。


「第2南遣艦隊」に配備されている駆逐艦以上の軍艦は重巡洋艦「足柄」と「第16戦隊」の軽巡洋艦「名取」「鬼怒」「五十鈴」の3隻だけだ。この巡洋艦部隊の配置はオーストラリア北西部から直接インドネシアへ敵艦隊が侵攻して来た場合に備えてのものだ。


「第3南遣艦隊」に配備されている駆逐艦以上の軍艦は軽巡洋艦「球磨」1隻だ。


「第1海上護衛隊」には「第13駆逐隊」「第22駆逐隊」「第32駆逐隊」等の駆逐艦部隊があり全部で11隻の駆逐艦が所属しているが、その全艦が1920年代に建造された老朽艦だ。



 南洋諸島を担当するのは「第4艦隊」で、これも「南西方面艦隊」と同様に、根拠地隊を主戦力としている。

 重要な海軍の拠点たるトラック基地のあるカロリン諸島、サイパンのあるマリアナ諸島、そして最前線たるマーシャル諸島とタラワのあるギルバート諸島を担当範囲としている。

 海上戦力として駆逐艦クラスの水上艦は「第1水雷戦隊」の「第27駆逐隊」の駆逐艦4隻。「夕暮」「白露」「時雨」「有明」を配属している。


 他には海上交通路防衛のために「第2海上護衛隊」も配属されているが、その戦力は軽巡「夕張」と「第29駆逐隊」の駆逐艦4隻「追風」「夕月」「朝凪」「夕凪」と特設砲艦「長運丸」に過ぎない。しかもその軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦4隻は全て1920年代就役の老朽艦だ。


 ただし「第4艦隊」自体の正面戦力は低いが、トラックには「第2機動部隊」が配置されている。

「第4艦隊」の各根拠地隊が楯であり、「第2機動部隊」が矛となる態勢だ。



 つまり「支那方面艦隊」「南西方面艦隊」「第4艦隊」は元々駆逐艦以上の軍艦が少ない。

 配備されている駆逐艦は主に1920年代に就役した老朽艦。

 現状では史実通りの編成と史実通りの戦力を保持しているとは言え非常に少ない戦力だ。

「第5艦隊」も戦力が充分とは言い難い。史実より少ない戦力で任務にあたっている。引き抜くどころか増強したいぐらいだ。

 これではとても外地の各艦隊から正面戦力たる巡洋艦や駆逐艦を引き抜く事はできない。


 では外地にある機動部隊や他の部隊はどうかというと。


 マーシャル諸島のクェゼリンに司令部を置く「第6艦隊」は潜水艦隊であり太平洋とインド洋で通商破壊戦に従事しているから元々別枠。



 ミッドウェー島には「第1艦隊分遣隊」が配置されている。

「第2戦隊」の戦艦「山城」と「扶桑」の2隻。

「第2艦隊」所属「第2水雷戦隊」の「第8駆逐隊」の駆逐艦2隻。「朝潮」「荒潮」

「第2艦隊」所属「第2水雷戦隊」の「第15駆逐隊」の駆逐艦2隻。「親潮」「黒潮」

「第1航空艦隊」所属の「第7駆逐隊」の駆逐艦の2隻。「曙」「漣」

「第1哨戒艇隊」の「第1号哨戒艇」「第36号哨戒艇」「第37号哨戒艇」「第38号哨戒艇」「第39号哨戒艇」

「給油隊」の給油船2隻。「鶴見」「佐多」

 その他、駆潜艇など小型艦艇が配備されている。


 ただし戦艦「扶桑」が敵潜水艦の雷撃により損傷したので内地に帰還の途上にある。

 その護衛には内地とミッドウェー島間で潜水艦掃討作戦「MT作戦」に従事していた「第4水雷戦隊」から出しているので、ミッドウェーの駆逐艦は減っていない。


 そういうわけで「第1艦隊分遣隊」は、今や戦艦1隻、駆逐艦6隻が主要な海上戦力だ。


 この「第1艦隊分遣艦隊」はアメリカの空母を誘き出して叩こうという「M三号作戦」での餌の役割であるし、トラックの「第2機動部隊」は誘き出したアメリカの空母を叩くための矛だ。


 ちなみに本来「駆逐隊」は駆逐艦4隻が定数だ。

 しかし、ミッドウェー島に配置した駆逐隊で定数を満たしている部隊は無い。

「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」「AL(アリューシャン攻略作戦)」に参加した駆逐隊のうち、これまでの戦闘で僚艦が沈んだとか、現在、僚艦が修理中で定数を維持していないとう半端な部隊を選んで配備してある。


 なお「朝潮」「荒潮」は「朝潮」型駆逐艦で1937年に就役。

「親潮」「黒潮」は「陽炎甲」型駆逐艦で1940年に就役と、この4隻は比較的新しいが「曙」「漣」は「吹雪」型駆逐艦で1931年という10年以上前に就役した艦だ。

 給油船2隻にいたっては1920年代に就役した老朽船だ。

 戦艦「扶桑」は一番古い1915年に就役した艦。

 哨戒艇の5隻も元は1920年代に就役した旧式駆逐艦を改装した老朽艦だ。


 駆逐艦の大半は比較的新しいが、それ以外は老朽船。

 更にインドネシアの油田から直接、燃料を運んでくるのも「知床型給油船」の「尻矢」「知床」といった船を敢えてあてており、これらの艦もまた1920年代に就役した老朽船だ。


 定数に見たいない部隊に老朽船。うーん。まさに寄せ集め部隊。

 でもまぁ最前線にこういう部隊が配置されるのは、よくある一種のお約束だろう。

 敵に対する囮でもあるしね。


 トラックに待機している「第2機動部隊」は空母2隻を主力としている。

「第1航空艦隊」所属の「第4航空戦隊」の空母「龍譲」と「隼鷹」

「第1艦隊」所属「第3戦隊第2小隊」の戦艦「榛名」「霧島」

「第2艦隊」所属「第4戦隊」の重巡洋艦「高雄」「摩耶」

「第2艦隊」所属「第2水雷戦隊」旗艦の軽巡洋艦「神通」

「第2艦隊」所属「第2水雷戦隊」の「第16駆逐隊」の駆逐艦4隻。「初風」「雪風」「天津風「時津風」

「第2艦隊」所属「第2水雷戦隊」の「第18駆逐隊」の駆逐艦4隻。「霞」「霰」「陽炎」「不知火」


 空母2隻、戦艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻が主要な海上戦力だ。


 ハワイを出たとの情報があったアメリカの空母の行方は未だ不明。

「第2機動部隊」はそれに備えている状況だ。

 それに「第2機動部隊」もそれほど戦力に余裕がある部隊でもない。


 先月、就役したばかりの空母「飛鷹」の訓練が完了したら「第2機動部隊」に配属して戦力を増強する予定だ。


 それにしても敵空母は一体どこに消えたのやら。17日にハワイを出撃したらしいとの一報を得てから続報が全くない。既に1週間が過ぎたが、未だに見つからないとは。うーーーーん。



 インド洋では「第3機動部隊」と「第4機動部隊」が通商破壊戦を遂行中だ。


「第3機動部隊」は空母1隻を主力としていた。

「第1艦隊」所属「第3航空戦隊」の空母「瑞鳳」と直衛駆逐艦「三日月」

「第2艦隊」所属「第7戦隊」の重巡洋艦「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」の4隻。

「第1艦隊」所属「第3水雷戦隊」の「第19駆逐隊」の駆逐艦4隻。「磯波」「浦波」「綾波」「敷波」

「第1艦隊」所属「第3水雷戦隊」の「第20駆逐隊」の駆逐艦4隻。「天霧」「朝霧」「夕霧」「白雲」

 それに給油船が2隻

 空母1隻、重巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が主要な海上戦力だった。過去形だ。


 8月18日に生じた「第二次セイロン島沖海戦」により、「第19駆逐隊」の駆逐艦2隻「磯波」「浦波」が撃沈され、空母「瑞鳳」と重巡洋艦「最上」、駆逐艦「三日月」「敷浪」が大破している。

 大破した4隻は修理のために「第19駆逐隊」の駆逐艦「綾波」と「第20駆逐隊」の駆逐艦「朝霧」の護衛に給油船1隻を連れてインド洋から撤退した。

 現在はペナンで応急修理を済ませ内地に帰還途中だ。


「第3機動部隊」を指揮する大川内中将は重巡洋艦「三隈」に旗艦を移し重巡洋艦「鈴谷」「熊野」と「第20駆逐隊」の駆逐艦3隻「天霧」「夕霧」「白雲」に給油船1隻を率いて、通商破壊戦を続行中だ。

 これにペナンまで損傷した艦を護衛していた駆逐艦2隻「綾波」と「朝霧」が戻る途中にある。

合流すれば戦力は重巡洋艦3隻、駆逐艦5隻、給油船1隻という陣容になる。



「第4機動部隊」は空母2隻を主力としていた。

 連合艦隊直属の「第6航空戦隊」の空母「大鷹」「雲鷹」

「第1艦隊」所属「第3水雷戦隊」旗艦の軽巡洋艦「川内」

「第1艦隊」所属「第3水雷戦隊」の「第11駆逐隊」の駆逐艦4隻「吹雪」「白雪」「初霜」「叢雲」

「第1艦隊」所属「第1水雷戦隊」の「第21駆逐隊」の駆逐艦3隻「初春」「初霜」「若葉」

 それに給油船が2隻

 空母2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦7隻が主要な海上戦力だった。


 ただし、残念な事に空母「大鷹」「雲鷹」は敵潜水艦の雷撃で損傷を負い「第21駆逐隊」の駆逐艦4隻の護衛を受けインド洋を撤退。現在は昭南(シンガポール)で修理中だ。

 損傷した空母を護衛していた「第21駆逐隊」は本隊に戻る途上にある。

 合流すれば軽巡洋艦1隻、駆逐艦7隻、給油船2隻となる。



 ちなみに昭南(シンガポール)には海軍工廠の工作部門がある。第101工作部だ。

 元はイギリス海軍工廠を接収しその設備を復旧して日本の艦船の修理や整備を行っている。

 第101工作部は他にぺナンやサバン、サイゴンにも分工場を開設している。

 特にサイゴンのものは旧フランス海軍工廠を接収して利用したものだ。


 こういう工作部がアジアの各地に設けられ縁の下の力持ちとして日本海軍の活動を支えた。これは史実でも今回の歴史でも変わらない。


 他の工作部は第1工作部が上海に開設されている。ここは旧中国の江南造船所の施設を接収し利用している。

 香港には第2工作部が開設されている。ここは旧イギリス海軍の工廠を接収し利用している。

 トラックには第4工作部が開設されている。ここはパラオとクェゼリンに分工場を開設している。

 ラバウルには第8工作部が開設されている。

 パラオには第30工作部が開設されている。

 ジャワ島のスラバヤ港には第102工作部が開設されている。ここは旧オランダ海軍工廠を接収し利用している。この工作部はインドネシア各地に17もの分工場を開設していた。

 フィリピンのキャビテ港には第103工作部が開設されている。ここは旧アメリカ海軍工廠を接収し利用している。

 海南島には海南工作部が開設されている。


 話を元に戻そう。

「第3機動部隊」と「第4機動部隊」も連合軍の北アフリカ戦線、ビルマ戦線、中国戦線、ソ連への補給路たるインド洋の海上交通路に打撃を与えるという重要な「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」任務についている為に、その戦力を引き抜く事はできない。


 残るは内地の「第1艦隊」「第2艦隊」「第1機動部隊」「第1航空艦隊」だが……


「第1航空艦隊」は形骸化している。

 開戦前の時点において配属されていた部隊と軍艦は「第一航空戦隊」の空母「赤城」「加賀」に直衛の駆逐艦部隊の「第7駆逐隊」の駆逐艦3隻。

「第二航空戦隊」の空母「蒼龍」「飛龍」に、直衛の駆逐艦部隊の「第23駆逐隊」の駆逐艦3隻。

「第四航空戦隊」の空母「龍譲」に、直衛の駆逐艦部隊の「第3駆逐隊」の駆逐艦2隻。

「第五航空戦隊」の空母「翔鶴」「瑞鶴」に、直衛の駆逐艦「朧」「秋雲」の2隻。

 だが、直営の駆逐艦部隊を含めて、この編成のまま戦う事はなかった。


 開戦劈頭の「真珠湾攻撃作戦」においても「第1航空艦隊」「第1艦隊」「第2艦隊」から空母部隊、戦艦部隊、巡洋艦部隊、駆逐艦部隊を引き抜いて「第1機動部隊」通称「南雲機動部隊」を編成し戦って来ている。

 これは作戦の状況によるものだ。

 開戦劈頭の「真珠湾攻撃作戦」に「第一航空戦隊」直衛の「第7駆逐隊」は参加していない。これは「第7駆逐隊」の駆逐艦が吹雪型駆逐艦だった為、吹雪型よりも航続距離の長い陽炎型駆逐艦が選ばれている。


「第1機動部隊」は「ミッドウェー海戦」時の編成で再び「ハワイ攻略作戦」を戦わせようと思っている。

 まぁ撃沈された「蒼龍」の穴は今の所開いたままの予定だが。


 現在の「第1機動部隊」は次のようになっている。

「第1航空艦隊」所属「第一航空戦隊」の空母「赤城」「加賀」

「第1航空艦隊」所属「第二航空戦隊」の空母「飛龍」

「第1航空艦隊」所属「第五航空戦隊」の空母「翔鶴」「瑞鶴」

「第1艦隊」所属「第3戦隊第2小隊」の戦艦「榛名」「霧島」

「第2艦隊」所属「第8戦隊」の重巡洋艦「利根」「筑摩」

「第1艦隊」所属「第1水雷戦隊」旗艦の軽巡洋艦「阿武隈」

「第1艦隊」所属「第1水雷戦隊」の「第17駆逐隊」の駆逐艦4隻。「浦風」「磯風」「浜風」「谷風」

「第2艦隊」所属「第4水雷戦隊」の「第4駆逐隊」の駆逐艦4隻。「野分」「嵐」「荻風」「舞風」

「第10戦隊」の軽巡洋艦「長良」

「第10駆逐隊」の駆逐艦4隻。「秋雲」「夕雲」「巻雲」「風雲」


「第1機動部隊」は空母5隻、戦艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻が主要な海上戦力だ。


 現在その「第1機動部隊」は再建中だ。

 空母「加賀」は「ミッドウェー海戦」で受けた損傷を修理中。

 空母「翔鶴」も「珊瑚海海戦」で受けた損傷を修理中。

 空母「飛龍」はオーバーホール中。

 空母「赤城」はオーバーホールを済ませ「瑞鶴」と共に飛行隊の訓練中。

「加賀」「翔鶴」「飛龍」の飛行隊と、新たに新設した飛行隊もローテーションを組んで「赤城」と「瑞鶴」を利用して訓練している。

 他の部隊も訓練と順次オーバーホールを行っている。

「第10駆逐隊」「第17駆逐隊」「第4駆逐隊」の3隊は現在、対潜掃討任務についている「第2艦隊」の「第4水雷戦隊」に交代で参加している。


 ちなみにこれらの「第4駆逐隊」「第10駆逐隊」「第17駆逐隊」に所属する駆逐艦は1940年以降に就役した「陽炎」型と「夕雲」型で新型駆逐艦だ。空母部隊の護衛からは外せない。


 なお「第1航空艦隊」の艦で機動部隊や他の艦隊に配属していない艦は1隻も無い。みんなどこかに配属されている状況だ。



「第1艦隊」は全戦艦が配属されている決戦部隊だった。

 だが、海戦は空母と飛行機を主力とする戦い方に変わった。

 その結果、戦力を引き抜かれ、今や内地に残る部隊は少ない。


 機動部隊に配属されていない内地にいる「第1艦隊」は次のとおりだ。

「第1戦隊」の戦艦「大和」「武蔵」

「第2戦隊」の戦艦「長門」「陸奥」「扶桑」「山城」

「第9戦隊」の軽巡洋艦「北上」「大井」


 他に戦艦「伊勢」「日向」があるが、この2艦は航空戦艦に改装予定となっている。


 戦艦6隻、軽巡洋艦2隻が「第1艦隊」の主要な海上戦力だ。


 ちなみに開戦前は戦艦3個戦隊、重巡洋艦1個戦隊、軽巡洋艦1個戦隊、水雷戦隊2個、航空戦隊1個からなり空母2隻、戦艦10隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦32隻からなる堂々たる一大艦隊だった。


 それが今や8隻とは寂しいものである。

 まぁそうしたのは自分だけど。



「第2艦隊」は海戦前の作戦構想では決戦前に敵艦隊を消耗させるための前哨戦を担う艦隊であり、巡洋艦が主力だった。


 機動部隊に配属されていない内地にいる「第2艦隊」は次のとおりだ。

 第2艦隊旗艦 重巡洋艦「愛宕」

「第5戦隊」の重巡洋艦「羽黒」「妙高」

 重巡洋艦3隻だ。

 ただし、現在、「第2艦隊」は「第4水雷戦隊」と、その他2個駆逐隊を麾下におき日本近海で対潜掃討作戦を行っている。


 ちなみに開戦前は重巡洋艦4個戦隊、水雷戦隊2個からなり重巡洋艦13隻、駆逐艦32隻からなる堂々たる一大艦隊だった。


 日本近海で対潜掃討作戦を行っている部隊は、失敗に終わった「MT作戦(対潜掃討作戦)」の部隊をそのままあてている。

「第2艦隊」所属「第4水雷戦隊」旗艦の軽巡洋艦「那珂」

「第2艦隊」所属「第4水雷戦隊」の「第2駆逐隊」の駆逐艦4隻。「村雨」「夕立」「春雨」「五月雨」

「第2艦隊」所属「第4水雷戦隊」の「第9駆逐隊」の駆逐艦4隻。「朝雲」「山雲」「夏雲」「峯雲」

「第2艦隊」所属「第4水雷戦隊」の「第24駆逐隊」の駆逐艦4隻。「海風」「江風」「涼風」「山風」

「第11航空戦隊」の水上機母艦「瑞穂」「千歳」と護衛駆逐艦「早潮」

 これに「第1機動部隊」の駆逐隊も交代で加わっている。



「第1艦隊」と「第2艦隊」に所属していた水雷戦隊は、現在、前述したようにバラバラだ。

 大まかに言うと水雷戦隊は「第1水雷戦隊」が北に南にと各所に分散配備されている。

「第2水雷戦隊」はトラックとミッドウェー島に二分され太平洋正面でアメリカ軍と対峙している状況だ。

「第3水雷戦隊」は「第3機動部隊」と「第4機動部隊」に配属され全艦インド洋にいる。

「第4水雷戦隊」は日本近海で対潜掃討作戦を行っている。



 この他には基地航空隊である「第11航空艦隊」に「第34駆逐隊」の駆逐艦3隻がありラバウル方面で輸送任務にあたっているが、老朽艦なので、そのうち「第4艦隊」の「第1海上護衛隊」に配属しようかと考えていた。

 しかし「ミルン湾殴り込み艦隊」の損害が大きいので、増援を送るまでの間、臨時で「第8艦隊」に所属させようと考えている。

 他には各鎮守府や警備府に何隻かの旧式駆逐艦があるだけだ。



 ところで、こうして改めて日本海軍の編成を見ると、艦隊に欠けている番号がある事に気付く。

 現在、前述したように艦隊は「第1艦隊」「第2艦隊」「第4艦隊」「第5艦隊」「第6艦隊」「第8艦隊」があるが、「第3艦隊」と「第7艦隊」は無い。欠番だ。


「第3艦隊」については日本海軍においては伝統的に臨時編成部隊の扱いだった。

 初めて編成されたのは日露戦争で戦争終了後は一旦解散される。第一次世界大戦の時も編制された。

 太平洋戦争では南方攻略作戦の為に1940年4月に編成され、南方攻略作戦終了の目途が付いた1941年3月に解散している。

 史実では、この後「ミッドウェー海戦」で出撃した空母部隊が壊滅すると「第1航空艦隊」は解散され、空母を中心とする「第3艦隊」が改めて編成されている。

 

 今回の歴史ではどうなるか……

 自分としてはあまり考えていない。このまま欠番でも別に困らないので、そのままにしておこうかと考えている。それに番号を決めるのは海軍軍令部だし、その事で注文を付ける気はない。


「第7艦隊」については、史実では1945年4月10日という大戦末期に編成されている。

 艦隊とは言ってもその規模は海防艦や特設艦船等がわずか数隻で輸送船護衛を任務とするものだった。


 太平洋戦争中、「第6艦隊」の次に「第8艦隊」が編成され、「7」の番号が抜かされた事については現代日本でも諸説あった。

「第8艦隊」を編成した当時、担当海域にいた部隊に8の付く部隊が多かったから「第8艦隊」が先にできたという説。

 潜水艦を更に増強する予定でいた為、「第6艦隊」に続き「第7艦隊」も潜水艦艦隊の予定で番号を空けていたという説等、まぁ色々だ。


 連合艦隊司令長官になったら、その理由がわかるかと思ったが未だにわからん。

 決めたのは海軍軍令部だ。今度、聞いておこうと思う。



 そんな話はともかくとして、さて、この中からどの部隊、どの艦を「第8艦隊」に送るべきか……

 まぁある部隊の2隻は最初から決まっている。

「第1艦隊」所属の「第9戦隊」の軽巡洋艦「北上」と「大井」だ。

 この2隻の軽巡洋艦には別の呼称がある「重雷装艦」だ。

 何とこの2隻はそれぞれ61㎝魚雷発射管を40門も備えている。

 他の巡洋艦はこれほどの魚雷発射管は装備していない。


 開戦の時点で、日本海軍の重巡洋艦には六つの型があり、軽巡洋艦には五つの型があり、その装備している魚雷発射管の数は次の通りだ。


 就役が古い順に重巡洋艦「古鷹」型、61㎝魚雷発射管を12門。

「青葉」型、61㎝魚雷発射管8門。

「妙高」型、61㎝魚雷発射管16門。

「高雄」型、「高雄」と「愛宕」は61㎝魚雷発射管16門。「摩耶」と「鳥海」は61㎝魚雷発射管8門。

「最上」型、61㎝魚雷発射管12門。

「利根」型、61㎝魚雷発射管12門。


 軽巡洋艦も就役が古い順に「天龍」型、53魚雷発射管6門。

「球磨」型、53魚雷発射管8門。

「長良」型、61㎝魚雷発射管8門。

「川内」型、61㎝魚雷発射管8門。

「夕張」型、61㎝魚雷発射管4門。


 練習巡洋艦「香取」型、53魚雷発射管4門。


 いかに「北上」と「大井」の魚雷発射管が多いかがわかる。

 他の軽巡洋艦は10門も装備していないのだ。

 重巡洋艦でさえ20門も装備していない。


 元々「北上」と「大井」は「球磨」型の軽巡洋艦だった。それが日米関係が非常に緊張して来た1941年中頃に「重雷装艦」への改装が始まった。

 改装前の武装は14㎝砲7門、8㎝高角砲門、53魚雷発射管8門、水上機1機だった。

 改装後は14㎝砲4門、25ミリ機銃4挺、61㎝魚雷発射管を40門となる。

 開戦直前の改装であるから、それこそ「北上」「大井」への期待は大きかった。

 そうでなければ改装などしない。

 決戦部隊であり伝統ある主力の「第1艦隊」に配属された事からもそれはわかる。


 だが、しかし……

 開戦後の戦い方は、それまで想定されていた戦い方とは大きく違う方向に踏み出し飛行機を主力とするものとなった。

 そして、もはや「重雷装艦」の活躍する余地は無いとの考えから「ミッドウェー海戦」後には「北上」と「大井」は再び改装を受け、魚雷発射管の多くを外し、高速輸送艦として運用される事になる。

 それが史実だ。


 だが、今回の歴史は違う。

 史実では活躍の見せ場もなく1年にも満たない存在だった「重雷装艦」

 その哀れな存在の「重雷装艦」の活躍する姿を見たい自分がいるからだ!

 確かに海戦の主力は空母であり飛行機だろう。


 だが、南方で発生するかもしれない局地的な海戦であれば「重雷装艦」にも活躍の場はきっとある!

 あるといいなぁ、あればいいなぁ、あってほしなぁ。

 と、言う思いから「ミッドウェー海戦」後に「第9戦隊」をミッドウェー島へ残し内地への帰還を遅らせたのだ。

 誰かが「重雷装艦」を「不用だ。改装を」と言い出しても時間を稼げるように。


 そして、今、遂に好機がやって来た!

 さぁ行け!「重雷装艦」達よ! 行って史実では発揮されなかった「重雷装艦」の真の実力を全世界に見せつけてやれ!

 ワッハハハハハ

 と、言う事で「第9戦隊」の「北上」と「大井」は決定と。


 さて、後はどの部隊、どの艦にするべきか……


 おっそうだ!

 昨日見掛けた「鳩」を送ろう!

 うん。「鳩」は美味いからね。

 現代日本での子供の頃、近所に引退した中華の料理人さんがいて、うちの両親と親しくしていてね。

 その人は狩猟が趣味で、猟銃で撃って獲って来た山鳩を調理してくれて御馳走になった事があったよ。あれは美味しかった。それ以後は鳩は食べてないなぁ。また食べたいなぁ。


 じゃなくて!

 昨日見掛けたのは「鳩」は「鳩」でも鳥の鳩ではなく水雷艇の「鳩」だ。

 またもや一人でつまらないボケツッコミをしてる場合じゃない。

「鳩」は「鴻」型水雷艇の一隻だ。現在、呉鎮守府に所属していて、昨日、哨戒任務中なのを見掛けたのだ。


「鴻」型水雷艇は1930年に列強各国が集い結ばれた「ロンドン軍縮会議」の産物だ。

 この会議では各国が保有できる軍艦について色々と制限が設けられた。

 しかし、600トン以下の軍艦については何も制限は設けられなかった。

 そこで日本海軍は600トン以下で重武装の軍艦を建造して戦力を増す事にし、過去に駆逐艦に役割を取って代わられた「水雷艇」という艦種を復活させた。


 日本海軍は1931年から、まずは「千鳥」型水雷艇4隻を建造する。

 それに続き1934年から「鴻」型水雷艇8隻を建造した。


 ところで1934年に「千鳥」型水雷艇の3番艦「友鶴」が悪天候で転覆するという事件が発生している。

風速20メートル、波の高さが4メートルという荒天で転覆してしまったのだ。

「友鶴事件」と呼称されるこの事件では、小型の艦体に重武装をし過ぎたせいで艦の復元力が著しく低下しており、それが原因で悪天候の強風と高波に耐えられず転覆したと考えられた。まぁ後に異説も出ているようだが。


 それはともかく、事故の調査後、「千鳥」型水雷艇は改装工事を受け、武装を減らし重心を低くする等、色々と改装している。

 この改装前、砲戦能力では12.7㎝連装砲1門、12.7㎝単装砲1門を搭載していたが、改装後は12㎝単装砲3門になっている。砲門数は同じで口径が多少小さくなっただけに見えるが、連装砲塔と単装砲では、やはりかなりの重量が違い、この砲関係だけで22トンも軽くなっている。

 魚雷発射管も連装発射管が2基搭載されていたものが1基に減らされている。

 そして重心を低くするために艦底に98トンもの重りが設置された。

 その結果、改装前の基準排水量は535トンだったものが600トンになり、30ノットの速力は28ノットに低下している。


「鴻」型水雷艇は「夕鶴事件」を教訓に建造された。

 最初から一回り大きく設計され燃料搭載量も増やし、武装も砲は「千鳥」型水雷艇と変わらないが、魚雷発射管は三連装の物になっている。

 設計から改められている事もあり「鴻」型水雷艇は「千鳥」型水雷艇よりも高性能な艦となった。


 ただし当然、重量は重くなる。

 基準排水量は840トンだった。

 これは当然「ロンドン軍縮会議」違反だ。その為、公式には「基準排水量595トン」と公表されている。

 何事も建て前は大事だね。うん。


 水雷艇は駆逐艦ほどには戦闘力は無いが、それでも小型駆逐艦と言えるくらいの戦闘力はある存在だ。

 史実では「千鳥」型も「鴻」型も主に船団護衛任務についていた。


 よしっ。水雷艇を送ろう。それも水雷艇部隊を編成しよう。

「千鳥」型水雷艇の「千鳥」と「真鶴」は大阪警備府所属で商船護衛を任務としている。

 この2隻を引き抜こう。

 大阪警備府は連合艦隊に所属していないから軍令部と交渉しなければならないが、まぁ水雷艇2隻なら何とかなるだろう。

 現在は史実と違い連合艦隊の水雷戦隊を丸々1個、対潜掃討任務に当てているのだ。それくらいはいいだろう。


 同じ「千鳥」型水雷艇の「友鶴」と「初雁」は「南西方面艦隊」の「第2南遣艦隊」に所属しインドネシア方面にいる。これはそのままにしておこう。戦闘艦が少ない「第2南遣艦隊」の貴重な戦力だ。


「鳩」型水雷艇は半分の4隻が「支那方面艦隊」に配属されている。

「鴻」は「支那方面艦隊」の海南警備府所属。

「雉」も「支那方面艦隊」の青島特別根拠地隊所属。

「鵯」と「鵲」も「支那方面艦隊」の「第2遣支艦隊」所属だ。


 これらの「支那方面艦隊」配属の「鴻」型水雷艇は引き抜けん。ただでさえ旧式艦が多い「支那方面艦隊」の中で「鴻」型水雷艇は唯一といっていいくらいの比較的新しく建造された艦だ。


 尤も史実では「鵯」などはガダルカナル島の戦いが激化すると引き抜かれソロモンの海で活動している。


 それはともかく「雁」は「南西方面艦隊」の「第1南遣艦隊」の「第12特別根拠地隊」に所属しており、マレー半島に近いインド洋のアンダマン諸島及びコタバル諸島周辺で任務についている。

 つまり西の防衛ラインの最前線にいる訳で、これは引き抜けない。


 昨日、見掛けた水雷艇「鳩」は呉鎮守府所属だ。これを引き抜こう。

 やはり呉鎮守府も連合艦隊に属してはいないから、これも軍令部と交渉しなければならないが、まぁ何とかなるだろう。


 残る「隼」と「鷺」は「南西方面艦隊」の「第1海上護衛隊」だ。これも引き抜こう。


「隼」と「鷺」を引き抜くと海上交通路の防衛戦力が低下してしまう。

 しかし、今回は史実と違う要素がある。

 水上機母艦の配備場所だ。


 史実ではガダルカナルの戦いが激しさを増していく中で、現地航空戦力増強の一環として、8月29日付けで水上機母艦を集めた「R方面航空隊」が編成されソロモン諸島のショートランドに配置されている。

 この時、「南西方面艦隊」からは11機の水上機を搭載する特設水上機母艦「山陽丸」と8機の水上機を搭載する「讃岐丸」が引き抜かれ「R方面航空隊」に配属された。


「水上機母艦」の水上機は哨戒、偵察、対潜任務にと非常に役に立つわけだが、今回は「南西方面艦隊」からは引き抜かない。そのまま「南西方面艦隊」で活躍してもらおう。


 つまり史実では「南西方面艦隊」から2隻の水上機母艦をソロモン諸島に派遣したが、今回は代わりに水雷艇2隻を引き抜き派遣しようというわけだ。

 対潜能力という点では2隻の水雷艇よりも合計19機の水上機を運用する2隻の水上機母艦の方が遥かに高いだろう。

 そういうわけで対潜能力という点で言えば、「南西方面艦隊」は史実よりも強化される事になるだろう。


「南西方面艦隊」から水上機母艦を引き抜く気はないが、それでも水上機母艦をソロモン諸島には派遣しておこう。

 何せ敵潜水艦と敵魚雷艇が蠢動しているおかげでツラギ島の飛行艇と水上機は減り索敵能力が低下している。これ以上、ソロモン諸島で敵潜水艦と魚雷艇を蠢動させないためには必要だろう。


 配属する艦は違うが、史実と同じ名称の「R方面航空隊」を編成しよう。

 ちなみに「R方面航空隊」の頭文字の「R」はラバウルの意味だ。


 それにしても史実の「R方面航空隊」の活躍は戦前の水上機運用構想が見事に当たったものだろう。

 水上機ならば滑走路はいらないから急場の戦力増強に打って付けなわけで、元々日本海軍が水上機に力を入れていた理由の一つが正にそれだった。

 その通りに「R方面航空隊」は運用され活躍している。


 史実で「R方面航空隊」が配置され水上機基地を設営したショートランド島はラバウルとガダルカナル島の中間にある。

 すぐ傍にブーゲンビル島とファロウ島があり位置的に三角形を形どって、内側はショートランド湾と呼ばれる三方を島に囲まれた天然の良港だ。

 その為、ショートランド湾に出入り口は三つの水道しかなく守りやすくもある。

 一番大きいブーゲンビル島と一番小さいファロウ島の間が北口と呼ばれた。

 一番大きいブーゲンビル島と二番に大きいショートランド島の間が西口と呼ばれた。

 ファロウ島とショートランド島の間が南口と呼ばれ、ガダルカナル方面への正面出入り口となる。

 南口を通ってショートランド湾に入って正面に位置するのがブーゲンビル島のブインだ。


 史実では、このショートランド湾を拠点に日本艦隊はガダルカナル島へ出撃を繰り返した。

 1942年10月からはブインに造られた飛行場に戦闘機隊が進出し最前線基地として活用している。


 このショートランド湾内の南口のややショートランド島よりに2キロ四方の小さな島バラレがあり、ここにも飛行場が造られた活用されている。


 バラレの飛行場を造ったのは海軍の設営隊とイギリス人捕虜達だったそうだ。

 この捕虜達はシンガポールから船で運んで来たという話だが、途中で何人かが海に飛び込み逃亡したらしい。

 彼らは無事に逃げおおせたのだろうか。ちょっと興味が湧く。


 それにしてもブインとバラレか。

 ちょっと感慨深いものがある。

 史実では山本五十六連合艦隊司令長官はブインのあるブーゲンビル島で戦死しているからね。


 1943年2月、日本軍はガダルカナル島より撤退した。

 その2ヵ月後の4月、日本海軍はニューギニアとソロモン諸島で敵に対する一大航空攻勢作戦「い号作戦」を展開する。

 この作戦の前線視察と士気高揚目的で、山本五十六連合艦隊司令長官は空路、ラバウルからブインに向かっていた。バラレにも行く予定だった。


 だが、しかし、ブーゲンビル島上空で敵機の待ち伏せに合い戦死した。4月18日の事だ。

 山本五十六連合艦隊司令長官の乗った機はブーゲンビル島の密林に墜落し遺体は収容される。

 生きてブイン、バラレに赴く事はできなかった。


 バラレでは現地部隊が物資の乏しい中でも何とか山本五十六連合艦隊司令長官一行を歓待しようと、3日間かけて13匹の伊勢海老を捕まえて待っていたそうだ。


 ちなみにブーゲンビル島はボーゲンビル島とも呼ばれ、後には「ボ島」それが転じて「墓島」と呼ばれる。

 ガダルカナル島が「ガ島」転じて「飢島」と呼ばれたのと一緒だ。

 ブーゲンビル島でも多くの将兵が亡くなった事から「墓島」と呼ばれた。

 悲しい事に史実の山本五十六連合艦隊司令長官もその犠牲者の一人というわけだ。


 だが今回の歴史では自分はブーゲンビル島では死なんぞ。

 必ずや日本の自宅で大往生を遂げてやる。くっくっくっ。


 今回の歴史では、まだブインに飛行場は建設されていない。

 当然と言えば当然の話だ。

 ブインやバラレに飛行場が建設されたのは「ガダルカナル島攻防戦」の影響故だ。

 

 史実では「ガダルカナル島攻防戦」の始まる1ヵ月以上前の6月30日に、第25航空戦隊司令部が飛行艇での調査結果としてブーゲンビル島内に短期間で基地を設営するのための適地は発見できなかったと報告している。


「ガダルカナル島攻防戦」が始まった後の8月22日にも今度は第11航空艦隊司令部より連合艦隊司令部宛てに同様な報告が送られている。ただし、こちらでは更に詳細な調査を余裕ができたら行うとも報告している。 

 しかし「ガダルカナル島攻防戦」の戦況はその余裕ができたらという事態を許さなかった。

 連合艦隊司令部はブーゲンビル島の基地は絶対必要だから速やかに調査を行うよう指示をする。

 それどころか8月31日には連合艦隊司令長官からブーゲンビル島南端付近を調査して基地を造るよう命令が出された。

 調査して「適地が無いので造れません」という事は認められず「造るように」というゴリ押しにも近い指示が出されたのだ。

 その結果としてブインと後にバラレに飛行場が建設される事になる。


 もし「ガダルカナル島攻防戦」が発生しなかったならば、最初の第25航空戦隊司令部の報告のままに、ブーゲンビル島内に適地は無いとして飛行場は造られなかったかもしれない。


 そんな話はともかく、ラバウルとツラギ島の中継点として、また天然の良港としてショートランド湾は最適だ。

 史実の例に倣おう。

 ここに水上機母艦からなる「R方面航空隊」を配置しよう。


 現在の水上機母艦の数は史実と同じ11隻だ。

 だが実質的には7隻か。


 一番艦齢が古い水上機母艦「能登呂」は就役したのが1920年の老朽艦で、速度も12ノットという低速である事から現在は水上機を降ろし輸送艦としての任務についている。


 それと「日進」は水上機母艦の機能は維持しているが、特殊潜航艇の「甲標的」の母艦としての機能もある。ただし現在はどちらかというと、その輸送能力の大きさから輸送艦として運用されているのが実情だ。


 また「千代田」と「千歳」は空母への改装が決定している。


 残る7隻の水上機母艦は全て商船を改装した特設水上機母艦だ。


 水上機を8機搭載する「神川丸型」の水上機母艦が「神川丸」「君川丸」「聖川丸」「国川丸」の4隻。

 水上機を8機搭載する「相良丸型」の水上機母艦が「相良丸」「讃岐丸」の2隻。

 水上機を11機搭載する「山陽丸型」の水上機母艦が「山陽丸」の1隻だ。


 現在「山陽丸」は「第2南遣艦隊」に配属されている。

「相良丸」は「第1南遣艦隊」に配属されている。

「讃岐丸」は「第3南遣艦隊」に配属されている。

「神川丸」は「第11航空戦隊」に所属し「第4水雷戦隊」と共同で潜水艦掃討作戦を実施中だ。

「君川丸」は「第5艦隊」に配属されている。

「聖川丸」は「第8艦隊」に配属されている。

「国川丸」は実は今日、史実通り呉の海軍工廠で水上機母艦への改装が終わったばかりだ。

 そして史実では9月10日には早くもガダルカナル島方面での作戦行動に入っている。


「国川丸」を派遣しよう。

「第8艦隊」の「聖川丸」と組ませて「R方面航空隊」を編成しよう。

 それと「R方面航空隊」はラバウルとツラギ島の航空隊との連携が極めて重要なのだから、指揮系統を単純化するために「第11航空艦隊」所属にしておこうか。


 他には……

 そうだ「第1魚雷艇隊」に魚雷艇を増強しよう。

 日本は魚雷艇の研究、建造をするにあたりイタリアから「MAS501」型魚雷艇を1隻輸入している。

 それに中華民国軍から捕獲したイギリス製の「CMB型」魚雷艇も1隻ある。

 この2隻は横須賀海軍工廠で調査研究されていた。今もある筈だ。

 この2隻を「第1魚雷艇隊」に配属するよう軍令部に要請しよう。


 ついでに軍令部には今回の「ミルン湾海戦」の戦績を踏まえて魚雷艇の有効性を指摘し魚雷艇部隊の増設を働きかけよう。

 ただ、魚雷艇の生産を決定したとしても「T1型魚雷艇」の性能を超える魚雷艇はできないかもしれない。

史実ではそうなった。

 問題はエンジンとプロペラだ。


「T1型魚雷艇」のエンジンは日本オリジナルの「九四式水冷航空九百馬力エンジン」だ。

 だが、もうこのエンジンは製造していない。

 元は1936年6月に採用が決定した「九五式陸上攻撃機」用のエンジンだったが、この攻撃機自体が僅か8機の少数生産で終了しエンジンも同様に生産を終了してしまった。


 ちなみに「九五式陸上攻撃機」の生産が少数で終わったのは同じ1936年6月に採用された「九六式陸上攻撃機」の方が優秀だと判断されたからだ。


 そもそも日本海軍では太平洋でアメリカ艦隊と戦うに際し魚雷艇自体が有効かどうか疑問が持たれていた。だから戦前に実験的に少数の魚雷艇しか建造されなかった。

 それだからエンジンも航空機のエンジンを流用して間に合わせた。

「T1型魚雷艇」は建造過程において、たまたま九四式水冷航空九百馬力エンジンを搭載したに過ぎない。

 この魚雷艇の為に開発生産したというエンジンではないのだ。


 史実において、アメリカ軍の魚雷艇がソロモン諸島で活躍した事から、それに対抗して日本も魚雷艇の大量生産に踏み切ったが、そのエンジンの多くは色々な航空機用エンジンの流用だった。


 前述したように、日本は戦前に魚雷艇を研究、建造するに際して、イタリアから魚雷艇を輸入している。

 後にそのイタリア製魚雷艇のエンジンのコピー生産も行われはした。「七一号六型エンジン」だ。

 ただ、これが難物でなかなかすぐにはコピーできず大量生産も速やかにはできなかったらしい。

 だから入手できる航空機用エンジンを積んだが、なかなか思うような性能、速度が出なかった。


 史実ではアメリカの魚雷艇に対抗する為に「隼艇」という高速艇も建造されている。

 これは魚雷を搭載せず機銃のみを装備した対魚雷艇用の高速艇だ。

 だが、やはりこちらもネックになったのはエンジンで、なかなか思うような性能、速度が出なかった。


 これにはあり合わせの旧式航空機用エンジンを搭載した為、性能が良くなかった場合もあるが、航空機部門に無理を言って新型エンジンを回してもらっても駄目だった場合もあるようだ。

 エンジンの冷却に問題があったらしい。

 日本と南方とでは気温が違う。

 そのため日本では試運転で35ノットを出せても気温の高い南方ではエンジンの冷却が間に合わずフル回転させていると直ぐにエンジンが焼き付いてしまったという事らしい。

 日本では35ノットを出せても南方では、エンジンが焼き付かないように航行するのは20ノットがやっとで、前線から海軍工廠に抗議が入ったという話があるぐらいだ。


 それに加えてプロペラの問題もある。

 日本ではプロペラまわりの水流の研究が立ち遅れていた。

 高速艇の速度はエンジンだけの問題で決まるわけではない。勿論、船形も重要だ。そしてプロペラも重要だ。


 史実では1944年に「18m魚雷追躡艇」というものが3隻建造されている。

 これは特攻兵器の人間魚雷「回天」の試運転を支援する為のものだ。

 この「18m魚雷追躡艇」を製造する時、戦前に輸入されたイタリアの「MAS501」型魚雷艇をそのままコピーする事になった。

 船体もそのままコピー。エンジンもコピー生産している「七一号六型エンジン」だ。

 ただし、プロペラだけは海軍工廠オリジナルの物を取り付けた。

「MAS501」型魚雷艇は50ノットの速度が出せる。

 だが、この「18m魚雷追躡艇」は42ノットを出すのが精一杯だった。


 一概にプロペラばかりのせいには出来ないかもしれない。コピー生産された「七一号六型エンジン」も何かと問題のあるエンジンだったようだ。

 だが当時の技術者の中にはプロペラまわりの水流の研究が無かったと言う人さえいる。

 イタリアでは何枚ものプロペラを作り、その中で「MAS501」型魚雷艇に最も適したプロペラを取り付けていたという話もある。

 まぁ日本ではその方面の研究が立ち遅れていたのは間違いないだろう。


 ともかく、まずは「T1型魚雷艇」の増産を要望してみよう。

 史実では1944年に香港の第2工作部とスラバヤの第102工作部で合計15隻の「T1型魚雷艇」が建造されている。

 15隻分ぐらいの「九四式水冷航空九百馬力エンジン」は在庫があったのかもしれない。

 うまく行けばもっと早くに「T1型魚雷艇」を南方に送り込む事ができるかも。


 後は殆ど史実と変わらない状況になるかも……

 何せ、史実を変える要素が少ない。

 まぁ史実より少しは早く魚雷艇の増産が決まるとか。

 史実より南方での航空消耗戦の度合いが少々低めなので、新型の航空エンジンを回される率が高くなるとか。

 まぁそのぐらいだろう。


 今からプロペラまわりの水流の研究をと言ったところで高度な研究を一から始めて間に合うわけもない。

 南方でのエンジンの冷却問題は実際にそうした例が出ないと対処は難しいだろう。

 イタリア製のコピーエンジン「七一号六型エンジン」の早期生産をと言ったところで、技術的問題が史実よりも遥かに早く解決するとも思えない。

 まぁ高望みはしないでおこう。


 おっと、忘れていた。旧アメリカ製魚雷艇と旧オランダ製魚雷艇についても小耳に挟んだ事にして速やかな修復と完成と部隊配備も要望しておこう。


 史実では南方攻略作戦時にジャワ島で日本軍は複数のオランダ製TM4型魚雷艇を鹵獲している。

 スラバヤ港で沈んだものや、旧オランダ海軍工廠で建造途中だったものなど様々だ。

 沈んでいた魚雷艇は引き揚げられて修復され、建造途中だった魚雷艇は日本海軍の第102工作部によって完成された。そして日本海軍によって使用される。


 その数なんと19隻。


 フィリピンのキャビテ港にも沈んでいた旧アメリカ海軍の魚雷艇があり引き揚げられて修復され1943年から日本海軍で使用されている。

 催促したとして、どこまで早める事ができるかわからないが、ともかく急ぐよう軍令部から言ってもらおう。


 そう言えば、史実では今頃にはもう旧オランダの魚雷艇の1隻が使用できる状態にあり、日本に送られる筈だ。

 それも「第1魚雷艇隊」に配属するよう掛け合おう。

 オランダの魚雷艇は全てこちらに回してもらおう。


 もしこちらの希望が通れば「第1魚雷艇隊」は面白い事になる。

 早ければ、来月あたりには日本製、イタリア製、イギリス製、オランダ製の国際色豊かな魚雷艇が集う事になる。

 第二次世界大戦において、そんな複数の国で建造された魚雷艇が配備された部隊なんて他国にはないだろう。

 その光景を見てみたいものだよ。ふっふっふっ。


 それにしても魚雷艇と言うと現代で思い出すのは「舵」だ。

 船で大事なのは舵だからねぇ…って違う! 

 本物の船の舵の事じゃない。

 戦時中に発行されていた月刊雑誌の「舵」だ。

 一人でつまらないボケツッコミをしてる場合じゃない。


「舵」は「日本機動艇協会」が発行していた。

 この協会は元は「日本モーターボート協会」という名前だったが、戦争故に名称を改めたのだ。

 まぁ野球でも英語は敵性言語だからダメという事でストライクを「良し」と言っていたのと同じだ。

 モーターボートは「機動艇」と言い換えられた。


 その「日本機動艇協会」の「舵」は毎月5日に発行されていた月刊誌で、1年分を纏めて製本された合本も販売された。


 その「舵」の1943年8月号の特集が「高速魚雷艇」だ。

 この特集についてはソロモン諸島での戦いが過熱する中において、米国が多数の魚雷艇を投入している事から特集したというような事が書かれている。


 その「高速魚雷艇」の特集の中で目を見張ったのが、イギリスの魚雷艇を製造している「ブリティッシュ・パワー・ボート会社」の設計者兼経営者のスコットペイン社長の論文が掲載されていた事だ。

 まぁ論文と言うよりは魚雷艇建造までの小話と言った感じのものだが。

 しかも、その特集の1ページ目の上から三分の一ぐらいはスコットペイン社長設計の魚雷艇の白黒写真だ。 

 正直、これを見た時は驚いた。

 何せ英語を敵性言語として使用を控えるようなご時世なのだ。

 まさか敵国イギリスのそれも兵器を開発製造している社長の論文や、その敵国製魚雷艇の写真を載せているとは思わなかった。

 そういう敵国関係の物は一般人には一切禁止かと思っていたのだけど、意外と違ったのだね。


 更にはアメリカの魚雷艇の造船会社「エルコ」の工場見学記も載せてあった。

 しかも、これを読むと戦前ではなく戦時中における工場見学記というのがわかる。

 恐らくは第三国経由で収集した文献からの引用だとは思うが、そういう記事を載せている事にも驚いた。


 しかも、その工場見学記から内容を一部そのまま引用すると

「(それこそ一片の素材の集まりが、立派な魚雷艇となって、造り出されつつあるのである)」

とか書いてある。

 まぁ確かにそうだろうが、戦時中の日本で敵国の技術力を礼賛するような文章が一般人も目にする雑誌に書かれているとは思わなかった。


 現代日本で暮らしていた時、これらの記事を読んだ時は戦時中での日本のイメージが少し変わったね。


 ところで、この「高速魚雷艇」の特集の中には「各国魚雷艇明細一覧」もあった。要は性能一覧表だ。

 イギリス、ドイツ、イタリア、アメリカの魚雷艇の性能は勿論の事、フランスの魚雷艇マリンエーロとVTBの性能も載っていた。

 やるなぁ記事を書いた「日本機動艇協会技術部」!

 フランスの魚雷艇の性能なんて現代日本の文献でもあまり見ないぞ。


 それは良いとして、この「各国魚雷艇明細一覧」には何故か日本のT1型魚雷艇は載っていない。

 と、言うより、この「高速魚雷艇」の特集では日本の魚雷艇については一言も触れられていなかった。

 何故だ?

 敵国に情報が洩れるのを恐れて自主的に言及しなかったのか。

 それとも検閲で引っかかったのか。

 まさかT1型魚雷艇の存在がマイナー過ぎて、その存在を知らなかったなんて事は……

 わからん。

 問い合わせのお手紙でも「日本機動艇協会」に出してみようかな。


 おっそうだ! ついでに「舵」の購入申し込みもするかな。

 通信販売しているそうだし。

「舵」って小型艇の事ばかりでなく、色々な記事を載せているんだよね。


 1943年4月号には「水陸両用戦車」や「2万4000トンのイタリア戦艦引き揚げ作業」なんて記事も載っていた。


「水陸両用戦車」は2ページほどの短いものだったが、戦前のイギリス、ソ連、アメリカの水陸両用戦車について書かれていた。


「2万4000トンのイタリア戦艦引き揚げ作業」は、第一次世界大戦中の話だ。

 1916年8月2日に突如、謎の大爆発を起こしてターラント港内に沈んだ戦艦レオナルド・ダ・ヴィンチの引き揚げ作業に関しての話。

 2年前に就役したばかりの200万ポンド以上もかけて建造した新鋭戦艦をこのまま失うわけにはいかないと、当時のイタリアは技術者を集めて引き揚げ作業にかかったという記事だ。

 ただし、当初、多くの技術者は引き揚げは無理との判断をしたらしい。

 だけれども国の威信がかかっているという事で引き揚げ作業を断行したようだ。 

 その時にはまず戦艦レオナルド・ダ・ヴィンチの設計図を元に正確な模型を作り、その模型で色々実験して引き揚げ作業の手順を模索したという話だ。


「日本機動艇協会」も色々楽しませてくれますなぁ。


 現代日本じゃ戦時中に発行された「舵」はなかなか読めないんだよね。

 月刊誌版も1年分を纏めて製本された合本版も日本最大の収蔵数を誇る「国立国会図書館」にも全部は揃っていない。というか全然無い。

 自分の住んでいた都道府県の市立図書館や県立図書館も同様だ。

 古本の市場(しじょう)でも合本版などは滅多に出てこない。

 せっかくこの時代に生きているんだし読むにはいい機会だ。

「大和」に送ってもらうのは無理だけど、自宅に送ってもらうようにしよう。 

 楽しみだなぁ。



 何か、かなり話が脇道にそれてしまったが、ともかく、これで「第8艦隊」に派遣する艦は決まりだな。

「第9戦隊」の重雷装艦「北上」「大井」

 新設予定の「第21水雷隊」の千鳥型水雷艇「千鳥」「真鶴」

 新設予定の「第22水雷隊」の鴻型水雷艇「鳩」「隼」「鷺」

 新設予定の「R方面航空隊」の神川丸型水上機母艦「国川丸」

 横須賀海軍工廠にある筈のイタリア製魚雷艇とイギリス製魚雷艇の計2隻。

 スラバヤか既に内地に運ばれたかしているオランダ製魚雷艇1隻。


「第9戦隊」の「大井」と「北上」は準備が整っている。先行させよう。

 水上機母艦「国川丸」は準備が整い次第、水雷艇「鳩」を護衛に付けて派遣しよう。両艦とも呉にいるのだから丁度いい。

 他の水雷艇は現在の任務が終わり次第、派遣するものとしよう。

新設予定の「第21水雷隊」の千鳥型水雷艇「千鳥」「真鶴」は、現地で「R方面航空隊」の護衛部隊とするか。最高速度が28ノットでは高速の巡洋艦や駆逐艦と艦隊行動を共にするの厳しい。

だが特設水上機母艦の護衛になら充分だ。


それにしても重雷装艦に水雷艇に魚雷艇……

名前だけ見るとまるで魚雷戦特化の艦艇を集めたように見えるね。

「第8艦隊」=魚雷戦艦隊、もしくは雷装艦隊か。

なんだか海軍でも特殊な艦を集めたイロモノじみた艦隊になってきたな「第8艦隊」は。

まぁワザとだけど。

ソロモンの海では水上艦隊による魚雷戦こそよく似合う、あっいや有効な戦い方なのだよ。たぶん。

きっと活躍してくれるだろう。




ただ問題は(ラビ)で躓いているだけじゃない。

西(インド洋)でも躓いている。


現在インド洋で実行中の「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」では、遠方の東インド洋は潜水艦部隊が、日本軍の勢力圏に近い西インド洋は水上艦部隊である「第3機動部隊」と「第4機動部隊」が作戦を行っている。


東インド洋での潜水艦による通商破壊作戦は順調だ。

史実と同じく現在の連合軍は大西洋航路をドイツ海軍のUボートから守り切れておらず、インド洋までは手が回らず、護衛戦力が不足しているという状況なのだろう。


だが、西インド洋では「第3機動部隊」と「第4機動部隊」の空母が傷つき戦線を離脱した。

空母が戦線離脱した今、「第3機動部隊」も「第4機動部隊」も大幅に索敵能力と攻撃能力が落ちている。


連合国にしても日本の艦隊が出撃して来たのだから、西インド洋でいつまでも当初の海上交通路(商船航路)を使ってはいられない。インド洋での海上交通路(商船航路)を大幅に迂回させ安全を確保しているようだ。


特にイギリス本国とオーストラリア間、インドとオーストラリア間の航路は幾らでも迂回の余地がある。

元々「第二次セイロン島沖海戦」が生じたのも、その迂回している敵の海上交通路を探し求める過程で発生したものだ。

そのため「第3機動部隊」も「第4機動部隊」は思うようには戦果をあげられずにいる。


敵の迂回している海上交通路はどこにあるのか。

まぁ流石に南極近辺にまでは迂回していないだろうが、それでもかなりの迂回ルートをとっているのだろう。


 だが、それはそれで連合国に大きな負担になっている筈だ。

 迂回すればするだけ積み荷の到着は送れる事になる。船の燃料が多く消費される事になる。

 一定の必要な物資を期日までに届けるには、更に船舶を増やさなくては輸送量を確保できなくなる。

 敵の負担は増大するのだ。


 ここは一つ小規模だが新たな作戦を展開してみるか。

 現在、インド洋のクリスマス島沖には飛行艇母艦「秋津洲」と二式大艇がいて8月21日から、オーストラリア南西部の重要港フリーマントルへの夜間爆撃作戦に従事している。

 往復4800キロ以上の長距離爆撃作戦な為、パイロットの負担を考えて連日の出撃とは行かず、丁度今晩2回目の出撃予定だ。


 敵もフリーマントル方面の航空警戒を強めるだろうから、この作戦は今回をもって一旦終了とし、この二式大艇には新たに「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」に参加してもらおう。

 その長い航続距離を利用して連合国の海上交通路の迂回ルートを探し出させるのだ。


 その二式大艇の偵察任務時には雷装させてみよう。

 史実において成功しなかった日本海軍の作戦に大型飛行艇による魚雷攻撃がある。


 戦前から訓練はしていた。

 実戦でも一度だけ試みられた。南方攻略作戦時、モルッカ海においてオランダの水上機母艦ヘロンを九七式大艇3機で雷撃した事がある。しかし残念な事に魚雷は外れ1機を撃墜されてしまった。


 それ以後は「珊瑚海海戦」の時にツラギ島から九七式大艇9機が雷装して出撃したが、敵艦を発見できず引き返している。

 それ以後は大型飛行艇による雷撃は試みられていない。


 何せ大型飛行艇より小型で高速の「一式陸上攻撃機」でさえ敵の対空火力の前に大きな犠牲を払うような状況になったのだ。

 低速大型の飛行艇ならひとたまりもない。大型飛行艇による雷撃は試みられなくなった。


 だが、しかし、目標が対空火力を増す傾向にある敵軍艦ならともかく、限られた武装しかない敵輸送船ならどうか。

 低速大型の二式大艇と言えど雷撃できる可能性は充分にある!

 あるよね。あるといいな。あってほしいな。

 と、言う事で二式大艇の活躍に期待しよう。



 ところで「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」が始まる前にほんの少し期待していたタンカーの鹵獲は、「第二次セイロン島沖海戦」が始まる前に鹵獲した6000トンクラスの1隻にとどまっている。


 タンカーと言えば現在、日本に石油を輸送しているタンカーのトン数が、史実よりも3万トンほど少ない。

 史実とは違い「ミッドウェー海戦」に勝利してミッドウェー島を占領維持し、更にはインド洋で積極的な作戦を展開しているので民間から徴用したタンカーの数が増えたからだ。


 とは言え、内地ではまだ致命的なレベルで石油が不足しているという事はない。

 開戦1年目は主に備蓄に頼る計画だったからだ。

 日本が戦争を遂行していく上で1年間に必要な民需用の石油は約200万トン。

 史実では、1942年は当初の計画では南方から日本への石油の輸送量は30万トンと見積もられていたが、石油精製施設の復旧が予想よりも速やかに進み、実際には計画よりも遥かに多い約167万トンの石油が日本に運ばれている。

 そうした結果、国内の備蓄と合わせて民需に使用された石油は、これも当初の計画を超える約248万トンとなった。


 タンカーは年に10回程の航海を見込める。

 史実よりも増えた徴用分のタンカーは、7月から海軍で徴用されているので、半年分の石油輸送量が減少した事になる。つまり3万トン×5回で15万トン。これくらいならまだ国内備蓄の切り崩しで対応できる量だ。

 それに前述したように今回の歴史では鹵獲したタンカーも6000トン分増えている。


 今年はこれから「ハワイ攻略作戦」もあるが、海軍の備蓄と南方からの直接輸送で必要な燃料は確保できる計算だ。

 更に民需用タンカーを一時的に徴用するかもしれないが、戦争遂行に必要な民需用の石油200万トンは前述したように備蓄もあるので充分確保できる。


 まぁタンカーと石油の輸送量については、できるだけ民需での消費量を落とさないようにしたいとは思っている。民需での消費が低下すれば、それだけ国の生産力が落ちる。民需用の石油が多ければ、それだけ生産力も上る。


 問題は今年よりも来年以降だ。

 史実における1943年の南方における石油の生産量は順調に伸びて約743万トンにもなる。

 では、それを運ぶタンカーはと言うと、史実では開戦前の時点で約57万トン保有していた。

 これに1942年に新造したり商船を改造したり鹵獲したタンカーのトン数をプラスし、喪失したタンカーのトン数を差し引くと、1943年1月の時点では約76万トンのタンカーを保有していた事になる。

 つまり年間760万トンを運べるタンカーがあった。

 これは石油の生産量を上回るトン数だ。


 ただし、海軍は艦隊への給油、南方基地への輸送等、タンカーをかなり徴用している。史実では戦時中、陸海軍で最大時で約20万トンのタンカーを徴用していた。


 1943年も当然の事ながらタンカーの建造は続けられている。この年に建造されたタンカーは約37万トン。

 1943年1月の時点で保有していたタンカーの保有トン数と合わせると約113万トンにもなる。

 陸海軍が徴用して作戦行動しているタンカーを除いても、生産された全石油を運ぶタンカーがある事になる。陸海軍が更なる徴用をしても充分に対応できるトン数だ。


 だが、実際にはそうはならなかった。


 1943年後半よりアメリカ軍の攻撃によるタンカー喪失が相次いだからだ。

 1943年に沈められたタンカーは約39万トンにもなる。これは1943年に建造されたタンカー37万トンを上回る。

 1944年にはこの状況はもっと酷くなる。

 石油は生産されても途中でタンカーが沈められては石油は届かない。

 だからこそ日本は石油不足に陥った。


 これらの数字は終戦後に日本のあらゆる点から日本の戦争状況を調査した「米国爆撃調査団」の報告書によるもので、他の文献では沈められたタンカーのトン数がもっと低いものもある。

 だが、どちらにしろ多くのタンカーが沈められた事に変わりはない。


 この問題の解決策を言うのは簡単だ。

 敵の潜水艦を沈め捲りタンカーを守ればいい。

 タンカーを沈められなければタンカーの数は1943年には充分足りる。

 それで問題は解決。

 だが正に「言うは易く行うは難し」だ。それが簡単にできないからこそ史実の日本も苦戦を余儀なくされ石油不足に苦しんだ。


 この史実の二の舞を避ける為に自分は最初の手として機雷堰による南方航路の防衛と、更には飛行艇部隊による対潜部隊の増強を求めた。しかし、軍令部は受け入れなかった。

 次の手は4つしかない水雷戦隊のうちの1つを割いて対潜作戦に従事させている。

 そして「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」で、微かな望みとして敵タンカーを捕獲し、タンカーの増強を目論んだが、やはり予想通り成果はあまり上がらなかった。

 あまりうまくいっていない。困ったもんだ。ここは、もう水雷戦隊の対潜作戦に期待するしかない。

 もう一つ根本的な手が……いや、これは今、語るべきものではないだろう。


 ともかく、連合艦隊司令長官としては打てる手は打ってアメリカの潜水艦の跳梁を抑えにかかっている。

 今は1隻でも多くの敵潜水艦を沈める事だ。タンカーの喪失を抑えるために。


 だが、石油については、それとは別の問題もある。

 以前にも話したように陸海軍による油田の配分問題だ。海軍の押さえている油田の生産量では海軍の消費する量に足りなくなる。

 史実では一応、海軍省と陸軍省との間で「石油委員会」が設けられ石油の配分では協力する体制にはなっていたが、それがうまく機能したとは言えない。まるで逆だ。いがみ合っていた感さえある。

 だから前にも言ったが、海軍内に陸軍がわざと石油を渡さなかったという声すら出たのだ。


 この石油の配分にいては、取り敢えずの解決策は陸軍トップとの直談判しかないだろう。

 つまり東条英機首相に話を通す。

 以前にも言ったが東条英機首相については、圧政だとか報復人事を行ったとか芳しくない評価もある。

 だが正しいと思えば異論を封じてそれを押し通す事もある。


 例えば「オトポール事件」だ。

 1938年にドイツで迫害を受けたユダヤ人がソ連へと逃がれ、紆余曲折を経て満州国を経由して上海に行こうとした。だが、満州国からは入国の許可が下りずシベリア鉄道の国境の町オトポールで立ち往生してしまう。

 当時、関東軍のハルピン特務機関長だった樋口季一郎少将がユダヤ人難民に同情して便宜を図り救援列車を差し向けた。そしてユダヤ人難民は救われる。


 だが、しかし、これに不満だったのがユダヤ人を迫害したドイツで外務省を通して樋口季一郎少将の処分を求めて来た。

 当時、ドイツと日本とそれにイタリアは「日独伊防共協定」を結び対ソ連の同盟を結んでいると言ってよい関係だった。

 そのため日本陸軍内部にもドイツとの関係を考慮して樋口季一郎少将の責任を問う声が大きく上がったのだ。


 そして樋口季一郎少将は関東軍の東条英機参謀長に事情聴取を受ける事になる。

 この時、樋口季一郎少将は正論を述べる。

 今回のユダヤ人難民についてはドイツ国内の事ならともかく国外の出来事。

 ドイツとの友好は望むが日本はドイツの属国ではない。

 人道的見地から難民を助けたまでの事。

 この言い分を聞いた東条英機参謀長は樋口季一郎少将に理がある事を認め、この問題について陸軍中央に不問にするよう働きかけた。


 東条英機首相も話せばわかる時もある……たぶん。

 これはもう嶋田海軍大臣に東条英機首相への交渉を頼むしかないだろう。

 何なら自分も東条英機首相との交渉に参加して頭を下げてもいい。


 それで駄目なら鮫島具重中将と城英一郎大佐に手紙を書くしかない。

 彼らは現在、陛下の侍従武官をしている。

 この二人から石油の配分について陛下から陸軍に海軍に配慮するよう仰っていただくしかない。

 鮫島具重中将と城英一郎大佐は有能だ。

 そうでなければ陛下の侍従武官はつとまらない。

 ましてや陸軍からも侍従武官は派遣されている。

 海軍の侍従武官が無能だったら陸軍に都合の良い事ばかりを陛下に吹き込まれてしまう恐れもある。

 その為の有能な人物の配置でもあるのだ。

 ともかく、彼らならうまく取り計らってくれる筈だ。


 ちなみに史実でも今回の歴史でも、この自分、山本五十六という人物は飛行機を重視し自身でも飛行機を操縦できるようになったが、その飛行機の操縦を教えてくれたのが、この城英一郎大佐だ。もう20年近く前の事で、当時の自分はまだ大佐で彼は大尉だった。懐かしい思い出だ。


 鮫島具重中将とも旧知だが、義理堅い人物だ。

 史実では鮫島具重中将は侍従武官をつとめた後に南方最前線の第8艦隊司令長官となっている。

 1944年4月、戦局は悪化の一途を辿り既にラバウルからは航空隊が撤退し、ソロモン諸島に残存する各部隊は殆ど孤立していた。

 この時、第8艦隊司令部はブーゲンビル島のブインにあり、名称は艦隊でも殆ど陸戦隊司令部と言った状況だった。

 既にアメリカ軍はブーゲンビル島南側中央付近のタロキナに上陸しており、守備する日本軍が攻撃をしたが失敗に終わり敗退している。

 そんな4月18日、史実の山本五十六連合艦隊司令長官の一周忌にあたる日の事だ。

 鮫島具重中将は敵軍とブインの中間に位置する山本五十六連合艦隊司令長官の戦死した場所に赴き弔いをして合掌している。密林の中に入って行ってだ。

 指揮官として忙しかっただろうに、前線に近付く危険をおかして弔いに赴くとは情の厚い人だ。頭が下がる。


 特に真似できないと感心した逸話が鮫島具重中将にはある。

 まだ鮫島具重中将が大佐で重巡洋艦「青葉」の艦長だった頃の話だ。

 部下の少尉に殴られたが不問に付した事があった。


 それは1935年の事。

 演習を終えた「青葉」が東京湾の芝浦に入港し朝から乗組員に上陸が許された。

 夕刻まで自由時間が与えられ、帰りは桟橋に17時までに行けばよい事になる。


 帰艦の時刻に遅れた者は罰せられるのが海軍の規則だ。

 まぁその辺は軍隊に限らず、時間厳守は民間会社だって学校だって、どんな組織でも当たり前の話だろう。

 ところが、海軍では実際に罰せられるのは下士官と兵のみで、艦長や士官は遅れても罰せられる事はなく見逃されていた。


 この日も鮫島具重艦長は一時間遅れて夫人や他の見送りの人を連れて桟橋に姿を見せた。

 ここで「青葉」に任官したての板倉光馬少尉がカッとなり艦長を殴り倒してしまったのだ。


 元々、板倉光馬少尉は艦長や士官が規則を守らないのを苦々しく思っていたらしい。

 しかも、この日はそうとう酒を飲んで酔っていた。

 酔った勢いでついやってしまった、という感じだ。まぁ夜の繁華街ではよくある話だ。


 板倉光馬少尉は同僚の士官達に取り押さえられ「青葉」の自室で謹慎となる。

 翌日、艦長に呼び出され殴った理由を聞かれ正直に話したそうだ。

 この時、艦長の左頬は腫れあがって氷で冷やしていたというから相当酷く殴ったのだろう。


 鮫島具重艦長は板倉光馬少尉の行為を不問にして懲罰は与えず、軍令部に海軍士官への綱紀粛清の意見書を提出する。


 いやぁできたお人だ。

 妻や部下の目の前で、翌日になっても腫れているほど強烈に殴られたのに、それを不問にするとは。

 正直に言おう。自分なら真似できん。


 自分が鮫島具重艦長の立場だったら、まぁ遅刻したという非がこちらにもある事だし、任官したての青年士官である事も考慮して軍法会議にはかけないが、ある程度の処罰はしただろう。

 鮫島具重艦長は器量の大きな人だ。


 板倉光馬少尉は軍法会議も覚悟していたらしいが、こうして鮫島具重艦長の温情に救われる。

 後に板倉光馬少尉は出世し潜水艦の艦長にまでなる。


 海軍士官は大勢いるが誰もが艦長になれるわけではない。なれるのはごく少数だ。

 鮫島具重艦長の若者の芽を潰さなかった判断は正しかったわけだ。

 そしてやり直すチャンスを貰えた板倉光馬少尉はその期待に応えたわけだ。

 いい話だ。


 だが、この話にはまだ続きがある。

 前述したように1944年にはブーゲンビル島は敵中に孤立しており鮫島具重中将もそこにいた。

 その孤立したブーゲンビル島に危険を冒して食糧と弾薬を運んだのが板倉光馬艦長指揮する「伊41号」潜水艦だ。


 この時のブーゲンビル島は敵が機雷原を作るは、哨戒機が頻繁に飛ぶは、魚雷艇が出没するはで、潜水艦でさえ危険な状況だった。実際「伊41号」潜水艦の前に補給を試みた「呂100号」潜水艦は撃沈されている。

 しかし、板倉光馬艦長は見事に任務をやり遂げブーゲンビル島に到着した。


 この時、板倉光馬艦長は来艦した士官に鮫島具重中将宛てへの手紙と自前で買ったウイスキーと煙草を贈り物として託している。

 手紙には9年前に長官を殴った少尉がブインに来ました。当時を思い起こし感慨無量です。というような事を書いたらしい。


 その後、戦争は終わり日本は敗北したが、鮫島具重中将も板倉光馬艦長も無事生き残った。

 戦後の日本で、後に病に倒れた鮫島具重中将を板倉光馬艦長は見舞った事があるそうだが、その時、側にはウイスキーの瓶に一輪の花が飾ってあったそうだ。

 そのウイスキーの瓶こそブーゲンビル島で板倉光馬艦長が鮫島具重中将に贈った瓶だったそうだ。


 死線を潜り抜けた部下と上司の絆……いい話だ。


 あれっ。ちょっと待てよ。

 今回の歴史ではソロモン諸島に深入りして部隊を孤立させる気は無い。

 そうなると、鮫島具重中将と板倉光馬艦長のいい話は……


 いや、いや、いや、いや、きっと今回の歴史では鮫島具重中将と板倉光馬艦長の間にまた別のいい逸話ができるに違いない。うん。そうに違いない。

 ……たぶん。


 まぁそういう話はともかく取り敢えず明後日にでも誰か人を東京に派遣しよう。

 用件が多すぎる。電話じゃ埒が明かない事もあるだろう。


 まずは嶋田海軍大臣宛てに、石油の配分については東条英機首相と直談判して解決するしかないとする手紙を届けてもらおう。


 ただし、それで問題が解決できればいいが、例え陛下のお言葉を貰ったとしてもうまくいかない可能性もある。何故なら軍の中堅幹部にも問題があるからだ。

 特に陸軍では中堅幹部が恣意的に動き上の言う事を聞かないという場合が少なからず見受けられる。


 これについては、東条英機首相も嘆く言葉を漏らしているぐらいだ。

 トップで話がついても下でごたつきうまくいかないというのが史実での日本軍だ。


 そうなった場合……

 どうにもうまい手が思い付かない。

 最悪の場合、1943年半ばからは燃料不足という要素を込みで戦略を推し進めていくしかないだろう。

 やれやれだな。


「第8艦隊」増援の件では連合艦隊麾下の部隊で所属を移動させるし、連合艦隊の指揮下に無い艦艇も送り込みたいので、軍令部との交渉が必用だ。


 魚雷艇の新規建造と部隊の増設の提案もある。


 それかからツラギ島とガダルカナル島からの撤退についてもう一度交渉してもらおう。


 それと、以前から考えていた案も提案しなければ。

 これまでに被った「第3機動部隊」「第4機動部隊」「戦艦扶桑」の被害と、できればツラギ島とガダルカナル島の撤退という事を大本営報道部から発表させて、経済界や国民の危機感を煽り、鈍りがちな軍需への投資や遅れがちな艦艇の修理の促進を図るという策だ。

 これに今回の「第8艦隊」の被害も入れて提案させよう。


 何か大変な交渉になりそうだ。

 誰を派遣するかな。明日、宇垣参謀長と相談して、いや立候補を募ろうか。



 それにしても今日はミルン湾方面の戦況や、その他の事について随分と細かい所まで記述した。

今日だけじゃないか。

 これまでにも色々と細かい状況を書いたり数字を出したりもしている。


 連合艦隊司令長官という立場で入る情報は大局的なもので細かい情報は限られている。

 現代日本で暮らしていた頃に記憶した事も限られている。


 その限られた情報しか知らない筈の自分が、何故ここまで細かい状況を知っていたり、他にも色々と記述できるのかは……

 まぁそれは最期に明かされる事になるだろう。

 今日はまだ1942年の8月24日だ。その日が来るのは、まだまだ先だ。


 さぁ今日は嶋田海軍大臣宛ての手紙を書いて終わりとしよう。

 その前に甘い物が欲しいな。


 おっとそう言えば「塩○」の饅頭があった。

 呉鎮守府司令官の豊田副武大将からお裾分けでもらったのだ。

 何でもかつての部下が移動で呉に配属になり挨拶に来た時、手土産に持ってきたらしい。

 今日ちょっと呉鎮守府に行ったらそれを帰りにお裾分けでくれたのだ。

 みんな自分が甘党なのは知っているからね。


 まぁ貰える物は遠慮なく貰うよ。特に「塩○」の饅頭なら。

 何せ日本の饅頭の歴史は「◯瀬」に始まると言われる歴史と伝統のある饅頭だ。


 何でも「塩○」の初代は中国から渡って来た人で、当時の中国で肉の入っている食べ物だった饅頭を元にして餡子の入っている饅頭を日本で初めて作り出したらしい。

「塩○」の饅頭は朝廷は元より足利将軍家にも愛され、徳川将軍家御用達だった歴史もある。今も当然、皇室御用達のお店だ。


 その約600年の歴史を誇る「◯瀬」の饅頭……

 うーーーん。美味い。

 上品な甘みが舌でとろけるよ。

 舌触りも咽喉越しもすばらしい。

 うん。美味いよこれは。美味。美味。

2017年4月15日 23時55分


史実において活躍できなかった悲運の兵器を活躍させるのも楽しいでおじゃりますな。



【これからの投稿予定作品とその他】


①「栄光の勝利を大日本帝国に」

(現在、第21話まで投稿完了。第22話は近日中に投稿予定。しかし完結までは、まだまだ先は長い)


②「栄光の勝利をヘタ・・・じゃなくてイタリア王国に」

(現在、第11話まで投稿完了。第13話と第14話は半年前に完成しているけれど、第12話に躓き中。もう少しで第12話も完成する予定。しかし完結までは、まだまだ先は長い)


③「栄光の勝利をドイツ第三帝国に」・・・執筆予定は未定。

(「栄光の勝利を」シリーズの日独伊三部作のラストを飾る作品。

しかし、日本とイタリアに比べればドイツ第三帝国を勝たすのは楽すぎると広言する筆者は執筆意欲が全然わかず、いつ取り掛かるか不明)


④「栄光の勝利をR」・・・「栄光の勝利を大日本帝国に」が完結した後に執筆開始予定。

(「栄光の勝利を大日本帝国に」の中で語られながらも実行されなかった作戦をメイン作戦として実行した場合のIF戦記)


⑤「栄光の勝利をW・・・今月中に第1話を投稿予定。

(「栄光の勝利を大日本帝国に」の後書きに書いていた「宮様頑張る」シリーズの2人の宮様総長が遂に本編として登場!! 2人がタッグを組んで対米戦を戦うお話)


⑥「栄光の勝利をJU」・・・今月中に第1話を投稿予定。

(○○ VS ○○というお話。既に第2話まで完成)


⑦「総長戦記(栄光の勝利をD)」・・・今月中に第1話を投稿予定。

(「宮様頑張る」の閑院宮総長が暗黒面に落ち、ろくでもない戦略を遂行していくお話)


⑧「栄光の勝利をN」・・・没作品。

(「栄光の勝利を大日本帝国に」が地味で荒唐無稽な作戦は一切しないお話しなので、その対極を描こうとした作品。

奇想天外荒唐無稽な戦争話の予定でアイデアを温めていたが、一番の核となる部分について既に他の作家さんが同じようなアイデアを使用し数年前に小説を書いていた事を今年の1月に知る。orz

流石に核となる部分が同じのままに書いて盗作とかアイデアを盗んだと思われるのは嫌なので泣く泣く没にする事に( ノД`)シクシク…)


⑨「栄光の勝利をI」・・・執筆予定は未定

(「栄光の勝利を大日本帝国に」が地味で荒唐無稽な作戦は一切しないお話しなので、その対極を描こうとした作品の第2弾。

奇想天外荒唐無稽な戦争話の予定でアイデアを温めていたが、使おうと思っていたアイデアについて最近、ちょっとだけ調べてみるとかなり無理がある事が判明。

幾ら荒唐無稽とは言っても、それらしい設定と論理の構築はしないとね。

しかし、没にするにはまだ早い、と諦めておらず、他の作品の執筆の合間に、無理を何とか可能にできないものかと、たまに調べている今日この頃)


⑩「栄光の勝利をOC」・・・今月中に第1話を投稿予定

(「栄光の勝利を」シリーズとは一線を画したウルトラ・スーパー・デリーシャス・ビューティフル・ファンタスティック・ドラマティック・ロマンティック・サディスティック・エキゾチック・トンデモ架空戦記。

「栄光の勝利を」シリーズは基本的に架空兵器の類を出さず戦略の変更により歴史を引っ繰り返すのがコンセプト。しかし、この作品は初っ端からトンデモ架空兵器を出しまくる異色作。

三段ロケットブースターを装着して右斜め上に打ち上げたかのような作品。)


⑪「栄光の勝利をL」・・・執筆予定は未定。

(「栄光の勝利をD」に登場する閑院宮総長が暗黒面に落ち過ぎ、使えなくなった案があるので、それらの案を使うために考えたお話。

伏見宮総長も登場予定。もしかしたら伏見宮総長をメインの話とするかもしれないお話。ニュー八八艦隊が登場予定。

「栄光の勝利をOC」ほどではないけれど、架空兵器が出る予定)


⑫「流れ行く昏き虎」・・・今月中に第1話を投稿予定。

(「栄光の勝利を」シリーズとは一線を画した異色の戦国時代劇物)


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