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0019話 多数(1942年8月22日)

●8月22日、「良い知らせと悪い知らせがある」と言うセリフは現代日本で暮らしていた頃は、小説やドラマの中でお馴染みだった。

 少なくとも悪い知らせだけでなく、事の大小はどうあれ良い知らせがあるというのは、それだけで救いがあるというものだ。

 しかし、今朝の自分には救いは無かった。つまり良い知らせは無かった。

 それどころか「悪い知らせと、悪い知らせと、悪い知らせがある」という状況だ。


 まず第一に昨晩、ミッドウェー島沖に遊弋する「第1艦隊分遣隊」の戦艦「扶桑」が敵潜水艦から数発の雷撃を受け一発が命中し中破したとの報が入った。


 戦艦「扶桑」は修理のために内地に帰す必要があるとの事。


 既に時代は空母を主力とする戦いに変わったとは言え、まだまだ戦艦の存在意義は大きい。

 特に将兵の意識の上でだ。


 史実でも1944年という敗勢が色濃い中にあっても戦艦「大和」「武蔵」の存在に、日本の勝利を信じていた海軍将兵も少なからずいたという逸話がある事からもそれはわかる。


 旧式戦艦とは言え戦いもせずに損害を被り内地に戻るというのは戦力の面からも士気の面からも痛い。


 それにしても対潜警戒の強いミッドウェー島付近で敵潜水艦が戦果をあげるとは。

 これは敵潜水艦艦長の技量と勇気を讃えるべきか。


 次に、同じく昨晩、太平洋正面のウェーク島が敵潜水艦により夜間砲撃を受けた。

 不味い事に砲撃は飛行場付近に集中しており零戦5機を完全破壊し、さらに数機を損傷させた。

 ただでさえ零戦が足りていないのに、これは痛い。


 その次にやはり昨晩、インド洋の「第4機動部隊」から空母「雲鷹」が敵潜水艦から雷撃を受け3発が命中し小破したとの報が入った。


 これも痛い。とても痛い。

 小型低速の商船改造空母とは言え数の少ない貴重な空母、手痛い打撃を被った。


 それにしても3発も命中してよく沈まなかったものだと思ったら、何と全弾不発だったそうだ。

 不幸中の幸いだ。アメリカの魚雷に感謝だ。

 

 こういう複数の不発魚雷が命中したという話を聞いて思い出すのは、史実における「第三図南丸」の逸話だ。


 1943年7月24日、トラック島に向かっていたタンカー「第三図南丸」をアメリカ海軍のガトー級潜水艦「テノサ」が発見し雷撃を行った。最初に4本の魚雷を発射したが撃沈できず、更に2本発射したが撃沈できず、その後も機を見て1発ずつ計9発を発射する。合計で15発の魚雷が発射された。しかし、撃沈できなかった。

 何故なら何と15発中12発が命中したが爆発した魚雷は2本だけ。10発は不発弾だったのだ。

 正直、この話を知った時は「事実は小説より奇なり」というのはこういう事を言うのだろうと思ったものだ。


 まぁそんな話はともかく、空母「雲鷹」は修理のために戦線離脱となった。


「第4機動部隊」を指揮する山縣中将は駆逐艦2隻を護衛に付けて空母「雲鷹」をマレー半島にある海軍の拠点ペナンに向かわせたとの事。


 これで「第4機動部隊」の航空戦力は半減した。

 敵輸送船を1隻も沈める事なくだ。

 残念すぎる。


 撃沈されたわけではないとは言え、それでも戦艦と空母を各1隻損傷させるとは、敵潜水艦も魚雷に問題を抱えているのにやってくれる。

 流石はアメリカ海軍か。史実で日本に勝っている事はある、というところだろうか。


 おかげで朝一番から連合艦隊司令部は少し沈鬱だ。

 暗い。

 まぁ主力部隊に損害が出たのでは無いとは言え、朝から悪い知らせが三つも重なれば無理もない。

 さて、どうしたものか。

 ここは連合艦隊司令長官として何か一言言って暗い雰囲気を振り払おう。

 と、思っていたら、またもや悪い知らせが舞い込んだ。


 ラバウルの「第8艦隊」司令部より「第5砲艦隊」が全滅したという報告が入ったのだ。


 17日にアメリカ軍の攻撃を受け被害を出したツラギ島に、航空隊用機材と補充の人員を乗せた「第5砲艦隊」の特設砲艦2隻「日海丸」と「静海丸」が向かっていた。


 それが到着予定時刻になっても着かず、無線も通じず第8艦隊司令部とツラギ島の第84警備隊では心配していた。また、ツラギ島では昨晩、遠方に爆発音らしき音が聞こえてもいた。

 そこで、ツラギ島から早朝、爆発音らしき音がした方向へ哨戒行動を兼ねて水上偵察機を飛ばしたところボートや漂流する者達を発見する。ツラギ島から直ちに特設掃海艇を向かわせ救助したところ特設砲艦の2隻「日海丸」と「静海丸」の乗組員だったという事だ。


 救助された乗組員の話によると昨晩、暗闇の中から突如現れた複数の敵魚雷艇に襲われたらしい。

 そして敵の魚雷により瞬く間に船を沈められたという事のようだ。

「静海丸」の無電は前日から調子が悪かったそうだが、「日海丸」は確実に無電を発したが、どこも傍受していないらしい。まぁそれは連合国側にもよくある話なので、これは運が悪かった。


 しかし痛い。

 特設砲艦とは言え2隻も失うとは。

 これは史実に無かった損害だ。


「第5砲艦隊」は元々特設砲艦の3隻「京城丸」「日海丸」「静海丸」で編成されていた。

 このうち「京城丸」は史実でも今回の歴史でも6月21日にツラギ島の航空隊用機材を運んでいるところを敵潜水艦に沈められている。撃沈されたのはこれもツラギ島近海での事だ。


 何という事だ。

「第5砲艦隊」は全艦ツラギ島沖に沈んでいるじゃないか。

「第5砲艦隊」はツラギ島沖に全滅したのだ。

 まさに「第五砲艦隊ツラギ沖ニ全滅ス!」だ。


 特設砲艦は海軍が徴用した商船に武装を施したものだ。


 第5砲艦隊の「京城丸」「日海丸」「静海丸」はどれも1500トンクラスの駆逐艦並みの船で、12センチ高角砲4門に対空機銃に対潜水艦用の爆雷を積んでいた。


 史実では日本海軍は太平洋戦争でこうした特設砲艦を86隻運用している。

 特設砲艦は輸送船の護衛、重要港周辺の哨戒、物資の輸送等に運用され、まさに「縁の下の力持ち」的存在だ。


 ラバウルの「第8根拠地隊」に配属された「第5砲艦隊」もラバウル周辺の日本軍拠点への物資や人員の輸送、ラバウル周辺の哨戒、ラバウルに襲来する敵機との対空戦闘に奮闘した。


 それ以外にも史実でも今回の歴史でも1942年5月3日の「ツラギ島攻略作戦」に「日海丸」と「京城丸」は援護部隊として参加しているし、続けて第4艦隊が行った「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」にも「MO攻略部隊」の輸送船団の援護部隊として参加している。


 だが、こういう特設砲艦のような地味な艦は見過ごされてしまう事が多い。

 現代日本で出版される太平洋戦争を題材にした本や雑誌でも、その多くは戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦といった花形艦艇の活躍にばかりスポットライトが当てられる。

 

 現代のそれも平成時代に出された太平洋戦争を題材にした某書は題名に「事典」とまでついているのに、「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」で輸送船団の援護にあたった特設砲艦の存在は全く書かれていない。参加兵力として全く書かれていないのだ。特設砲艦3隻と略してさえ書かれていない。書かれているのは空母の数と艦名、巡洋艦の数と艦名、駆逐艦の数と艦名、輸送船の数だ。

 同じ作戦に参加したのに。

 何て不憫な。

 しかも、こういう扱いは他の本でもよくある事でしかない。

 何て哀れな。


 特設砲艦だけではない。

 哨戒艇、駆潜艇、掃海艇、機雷敷設艦等々、日本海軍を支えている艦種は数多くあるにも関わらず、こういった船はあまり陽の目を見る事はない。取り上げられない。


 空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等はその艦種単独での専門書や雑誌が何冊も出されている。

 しかし、哨戒艇だけを扱った専門的な本があっただろうか? いや無い。

 駆潜艇だけを扱った専門的な本があっただろうか? いや無い。

 掃海艇だけを扱った専門的な本があっただろうか? いや無い。

 機雷敷設艦だけを扱った専門的な本があっただろうか? いや無い。

 こうした艦種は一纏めに補助艦艇として扱われたり、小型艦として扱われたりして一冊の本になっている事が多い。


 太平洋戦争中に建造されたり民間船を徴用したりして隻数は多いのだが、その活躍がクローズアップされる事は、空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等に比べあまりにも少ない。


 某出版社では個人の戦争体験をよく本にしているので、こうした補助艦艇に乗って戦った人達の体験が手記の形で残されているのが、まだ救いだろう。

 だが、こうした補助艦艇よりも、もっと陽の目を見ない船がある。


 民間の漁船だ。

 そう漁船なのだ。


 日本海軍が徴用し各種任務に活用した民間の漁船は戦史の上では殆ど顧みられる事は無い。

 その日本海軍が特設特務艇として徴用した漁船は784隻にも及ぶ。

 これらは不足する駆潜艇、掃海艇を補うために特設駆潜艇として特設掃海艇として、また特設監視艇として運用された。


 1942年4月の「ドーリットル東京空襲」の際に、アメリカ軍の空母部隊を発見したのも、元は底引き網漁船の特設監視艇だ。


 開戦時、海軍はこうした特設監視艇を211隻整備し、日本の防衛監視網の一翼を担わせた。

 北はカムチャツカ半島の東から南はニューギニアまでの広大な海域を、元は漁船の特設監視艇による監視網でカバーしていたのだ。


 それも一つの監視ラインだったわけではなく、幾重にも監視ラインが構成されており、敵艦隊を見逃さないようにしていた。


「ドーリットル東京空襲」の際に、アメリカ軍の空母部隊を発見したのは、一番東、つまり最前線にあった監視ラインの特設監視艇ではなく、最前線から二番目の監視ラインを構成していた特設監視艇だ。


 史実では北海道から関東に面する太平洋の延長線上に配置された監視ラインは七段もあった。

 太平洋戦争中、あまり激しく動いたとは言えない太平洋北方方面にしても、史実ではアリューシャン方面からの敵艦隊進攻を警戒して千島列島を守るような形でカムチャツカ半島の東から4段にもなる特設監視艇による監視ラインが設置されている。


 そうした監視ラインで、最終的には407隻の元は漁船の特設監視艇が任務についている。

 こうした特設監視艇はアメリカの潜水艦や航空機に攻撃され消耗し、終戦までに約300隻が失われたと言われる。


 駆逐艦の1割程度の80トンから150トン程しかない小さな漁船が無線装置と機関銃や爆雷を装備し、いつ来るか来ないかもわからない敵の姿を発見するべく、孤独な監視任務を毎日、毎日、毎日、交代で行っているのだ。漁師の皆さんは軍属として頑張ってくれたのだ。命を賭けてくれたのだ。


 他にも特設駆潜艇として265隻、特設掃海艇として112隻の漁船が活用されている。


 日本海軍において戦前の1931年における南方海上交通路防衛の研究では、護衛艦は300隻必要とされた。

 日本海軍にそれだけの護衛艦を揃えるだけの予算は無い。

 太平洋開戦時には旧式駆逐艦13隻と海防艦3隻がその任にあたっていただけだった。


 かなり以前に述べたが、アメリカ艦隊との決戦に勝利した後に、連合艦隊の水雷戦隊を海上交通路の護衛に回す構想だった。しかし、それでも決戦での損害を考慮しなくても100隻程度にしかならない。


 その不足する護衛戦力の穴埋めをしたのが前述の特設砲艦であり、また各拠点近海で哨戒と護衛にあたった特設駆潜艇と特設掃海艇だった。


 実は、こうした特設監視艇、特設駆潜艇、特設掃海艇などの特設特務艇よりも遥かに陽の目を見ない漁船達も存在する。

 それは輸送用に徴用された漁船だ。


 現代日本において太平洋戦争が語られる時、日本と南方資源地帯を結ぶ海上交通路の防衛が一つの焦点となった事から、それに伴い撃沈された民間船の貨物船やタンカーの喪失がクローズアップされる。


 太平洋戦争において撃沈されたタンカーや貨物船は2568隻にも及ぶ。

 太平洋戦争は海上交通路の問題を抜きには語れない。

 そういう意味ではタンカーや貨物船にはまだ焦点が当てられていると言えるかもしれない。

 専門的な書籍もかなり出版されている。


 しかし、その民間輸送船に比べたら輸送用に徴用された漁船は殆ど顧みられる事が無い。


 太平洋戦争では、海軍は元より陸軍でも南方の島々の拠点間における人員や物資の輸送に小型船舶が必要となった。

 重要拠点の周辺には前線基地や監視所等の小さな拠点も無数に設置されるから小型船舶が重宝される。

 それで小型漁船が徴用された。

 記録に残っているだけでもその数は2050隻。

 そのうち945隻が失われた。


 記録に残っているだけでだ。

 記録が残っていないケースも多々あり、実際には徴用された漁船は6千隻になるという説もある。

 当然、正確な喪失隻数も不明という事だろう。


 漁船の徴用は各港ごとに行われ、その港に所属する漁船団が纏まって徴用、運用された。

 史実において1943年2月に日本陸軍に徴用されて、島根県から南方のラバウルに向かった漁船の船団がある。

 小さい漁船で27トン。大きな漁船で45トン。そうした漁船が15隻。

 航路は瀬戸内海から九州、台湾、フィリピン、パラオ諸島、ニューギニア北部を経てようやくラバウルに到着する。

 その航行距離は約7000キロ。航海日数は何と5ヵ月間にも及ぶ。

 しかも小型漁船に外洋の航路は厳しく、航行の途中で荒天などにより7隻が沈没するという痛ましい事態になっている。

 ラバウルに到着したのは約半数の8隻。戦後、日本に帰還出来た漁船は1隻も無く文字通り全滅した。

悲しい史実だ。


 陸海軍に徴用された小型漁船が、命じられた南方への航海の途中でどれだけ失われたのか正確な記録は残っていない。

 そして、現地に到着した小型漁船も輸送任務に奮闘するも敵機や敵艦の攻撃により沈んだものも少なくない。これもどれ程の数になるかは正確な記録は残っていない。


 しかも、その奮闘が現代日本で伝えられる事は殆ど無いのだ。

 記録さえ不完全な漁船の徴用とその犠牲……

 悲しすぎる史実だ。


 しかし、こうした事は漁船だけではない。

 民間の「機帆船」も同様だ。

「機帆船」とはエンジンと帆の両方を持つ船だ。科学の発展とともに帆に風を受けて航行する帆船から、 エンジンにより航行する船に時代は移り変わっていく。

 しかし、その過程において帆とエンジンの両方を併せ持つ船も数多くあった。


 特に日本では沿岸航路でよく小型の「機帆船」が使われていた。

 燃料費節約のために帆に風受けて走る「機帆船」の姿は昔はよく見られた姿だ。


 太平洋戦争開戦時、こうした「機帆船」は6千隻から1万隻あったようだ。正確な記録が残っていないので不確定な数字しかない。


 この「機帆船」を陸軍が好んで徴用した。

 日中戦争当時から沿岸や河川での輸送に使っており使い勝手が良かったらしい。


 陸軍ほどではないが海軍も「機帆船」を徴用している。

 陸海軍によって、かなりの数の「機帆船」が徴用されたようだ。


 これも正確な記録は残っていないが陸軍では4千隻か、またはそれ以上を徴用したとする説もある。

徴用した正確な数さえわからないとは……

 当然、正確な喪失隻数も不明だ。

 ここでも記録が不完全とは……

 あまりにも悲しい現実であり史実だ。


 ところで、この「機帆船」を好む陸軍では、何と1942年5月に「木造機帆船」の大量建造計画を立てる。

 70トンクラスから250トンクラスまでの5種類からなる「第一次戦時標準型機帆船」の建造が計画され9月から建造が開始された。

 翌年には「第二次戦時標準型機帆船」の建造が計画される。

 そして終戦までに約2700隻の「木造機帆船」が建造されたが、これも正確な喪失数は不明だ。


 一説によると、徴用した「機帆船」4千隻と「戦時標準型機帆船」として建造された2700隻を合わせた計6700隻のうち2070隻の喪失は確認されているという。しかし、それはあくまで確認できた数であり、特に徴用された「機帆船」の数さえ正確に判明していないので、やはり確実な喪失数は不明なままだ。


 徴用された漁船や機帆船の活躍無くして日本は太平洋戦争を戦えなかった。

 軍艦に乗る軍人と同様に漁船や機帆船の船員さんも命懸けで国のために働いたのだ。

 しかし、その活躍と犠牲は歴史の影に隠れ、正確な記録さえも残っていない。


 現代日本において某出版社から太平洋戦争で徴用された漁船や機帆船について書かれた専門の本が出ているが、残念ながら残されている記録があまりにも少ない事からとても充分とは言えない内容だ。著者の努力は評価に値するが。


 何れにせよ漁船や機帆船は不憫すぎる。

 国のために同じ太平洋戦争を戦った船であり船員達なのに……


 そうだ!

 ここは自分の出番じゃないか。

 史実の歴史は変えられないが、今回の歴史は少しは変えられる。


 海軍軍令部と海軍省に徴用した漁船や機帆船についての記録をきちんと残すよう公式、非公式に申し入れを行おう。

 海軍軍令部と海軍省を通じて陸軍にも記録を残すよう働きかけを行おう。

 陸軍へは表向き「総力戦体制下における漁船徴用の実績とその運用研究」とでも言っておけばいい。

 職責上「連合艦隊司令長官」が口を出すような事ではないのはわかっている。

 完全に職務違い管轄違いではある。

 だが、しかし、漁船も機帆船も海軍軍人と同じく海の男が乗る船だ。

 同じ海の男として、このまま史実と同じく、今回の歴史でもろくに記録も残されずに歴史の影に消えていくのを黙って見過ごすわけにはいかん!

 断じていかん!

 職務違いが何だ! 管轄違いが何だ!

 知った事か!


 そもそも海軍省と陸軍省がきちんと記録を取って残さないのが悪いのだ。

 戦争に協力してくれた海の男達やその家族に報いるために、それぐらいやらなくてどうするのだ。

 よしっ要求断固貫徹だ!

 拒否するようならどやしつけてやる!


 本来なら小型漁船を南方に派遣させたくはない。

 その途中の航路でどれだけの船と人命が失われるか。また現地についてからもどれだけの犠牲を出すか。

 しかし、彼らがいなければ戦えないのも冷たい現実だ。

 忸怩たるものはある。

 せめて彼らが国のために軍属として任務を全うした事や、尊い命を捧げた事をきちんと記録に残す事にしよう。

 そして残された家族にも軍属の家族として手厚く報いれるようにしよう。


 それから漁船や機帆船に「連合艦隊司令長官」から感状を出そう。

 隻数が多いので1隻1隻は無理だが、港単位なら何とかなるだろう。

 例え漁船や機帆船と言えども、海軍に貢献したからにはその活躍は感謝され讃えられるべきなのだ。

 彼らも命を賭けたのだ。


 海軍内でこの件で鼎の軽重を問い「連合艦隊司令長官」が感状を出す事に文句を言うやつがいたら、そいつもどやしつけてやる!


 よしっ方針は決まった。

 海軍軍令部と海軍省め、首を洗って待っていろ。

 近いうちに捻じ込んでやる!


 長々と補助艦艇や漁船や機帆船に思いを馳せてしまったが、戦況分析に戻ろう。



 気になるのは「第5砲艦隊」が敵魚雷艇に沈められた事だ。

 ラバウルからツラギ島までの間のソロモン諸島の島々は、一応日本の勢力圏下にある。

 とは言っても全ての島々を占領しているわけではない。

 というか殆どの島は手付かずだ。


 ラバウルとツラギ島、ガダルカナル島を結ぶ航路を日本海軍の艦艇が航行し、日本軍の飛行機が飛んでいるに過ぎない。

 だが、それでもこれまで連合軍がラバウルからツラギ島までの間のソロモン諸島に進出する事はなかった。

 せいぜい潜水艦が出没する程度だ。


 それなのに、この航続距離の短い小型艇である敵の魚雷艇はどこから来た?

 そしてどこえ消えた?

 順当に考えればガダルカナル島より東の島々だろう。候補地は幾らでもあるが、そこに魚雷艇隊の基地を設営したのかもしれない。


 または、魚雷艇母艦を使用したか。


 下手をすれば秘密裡にラバウルとツラギ島、ガダルカナル島までの間の島々のどれかに魚雷艇隊の基地を設営したのかもしれない。補給は潜水艦を使えばいい。

 小型の魚雷艇なら島々を隠れ蓑にする事も可能だろう。


 史実において、アメリカの魚雷艇部隊は開戦当初は3隊に編成されていた。

 ハワイの第1魚雷艇隊。

 パナマ運河の第2魚雷艇隊。

 フィリピンの第3魚雷艇隊。


 このうちハワイの第1魚雷艇隊は史実でも今回の歴史でもミッドウェー島に進出する。

 そして今回の歴史では日本軍のミッドウェー島攻略時に全滅した。

 フィリピンの第3魚雷艇隊は史実でも今回の歴史でもコレヒドール要塞からマッカーサー将軍を脱出させている事で有名だ。だが、その後のフィリピンでの戦闘で全艇失われている。今回の歴史でも同様だろう。


 マッカーサー将軍は魚雷艇を随分と高く評価し、本国に魚雷艇の増強を要請している。その数なんと200隻。随分と魚雷艇に惚れ込んだものだ。

 史実において、その新たに建造され編成された魚雷艇隊がソロモン諸島に投入されるのは1942年10月になってからだ。

 ならば昨晩ツラギ島沖に出現した敵魚雷艇の所属は一つだ。

 第2魚雷艇隊で決まりだろう。

 恐らくアメリカ軍はパナマ運河防衛から第2魚雷艇隊を外しソロモン諸島に投入して来たのだろう。


 アメリカ軍としてはミッドウェー島まで日本軍の勢力圏となり、ハワイに危機が迫る中、数の減った空母を南方に投入する事は一種の賭けとなる。

 もし、南方に投入している間に日本艦隊主力がハワイに進攻すれば目も当てられないという事になる。

 だから空母は投入したくないだろう。

 かと言って代わりに航空機を大量に送り込む事も難しい状況下にあるのではないだろうか。航空機はそれこそハワイに必要だ。

 だからラバウルへの航空消耗戦での圧力が史実より低いのだと思う。

 そんな中、この方面に投入できる新規兵力という点で言えば、マッカーサー将軍が島々の多い南方での有効性を絶賛する魚雷艇しかなかったというところかもしれない。


 史実でのアメリカの魚雷艇隊はかなりの活躍をした。

 ツラギ島に南太平洋艦隊指揮下の南太平洋魚雷艇司令部が設置され、次々と部隊が配属され13の魚雷艇部隊が任務につく。

「ガダルカナル島攻防戦」を経てソロモン諸島の西に向かって戦線が動くにつれ、南西太平洋方面連合軍に魚雷艇隊が増強され、20隊240隻の魚雷艇が配属となる。

 ソロモン諸島には23もの魚雷艇基地が設置され日本軍と激闘を繰り広げる事になる。


 ニューギニア戦線でもアメリカの魚雷艇は活躍する。

 前述した輸送任務に徴用された小型漁船もこの敵魚雷艇に随分と沈められたようだ。

「大発」も小型漁船と同じく移動や補給に使われたが、やはり敵魚雷艇に狙われかなりの被害に遭っている。


 こうしたアメリカの魚雷艇の活躍に、日本海軍も遅まきながら魚雷艇の有効性に気付き、魚雷艇の大量建造に乗り出したが、高性能なエンジンを開発する事ができず、残念ながらあまり良い魚雷艇を建造する事はできなかった。


 それでもできる限り急いで建造された日本海軍の魚雷艇が戦場に姿を見せた時には時既に遅く、制空権は連合軍が握っている状況が多くアメリカの魚雷艇ほど活躍する事はできなかった。


 小沢治三郎中将は戦前に水雷学校校長を務めた経歴があり、その時に部下が魚雷艇の建造を提案して来た事があったそうだが採用しなかったそうで、後年、それを悔やんでいたと伝えられる。

 神ならぬ身では知る由もない。

 小沢中将を責められない。

 そもそもアメリカ海軍だって開戦当初は魚雷艇も29隻しかなかったわけで、フィリピン戦での経験から大量建造に踏み切った。

 それまで必要性を感じなかった日本海軍に先を見通せという方が無理な話だろう。


 話しを元に戻そう。


 今回の敵魚雷艇隊の狙いはラバウルとツラギ島、ガダルカナル島の海上補給路を遮断する事だろう。

 だが、もっと上の指揮官の思惑は果たしてどうだろう。海上補給路遮断だけが目的か?

 日本軍にしてみれば、ラバウルとツラギ島、ガダルカナル島の海上補給路を守るために護衛の増強と空からの哨戒を増す事になる。また、これ以上の敵魚雷艇の活動を許さないために、敵魚雷艇の基地を空から捜索するかもしれない。


 つまり、当初は偵察機がメインとなるとは言え、日本軍は今以上の航空戦力をソロモン諸島に投入する事になる可能性が高い。


 実際、第8艦隊司令部は敵魚雷艇の基地がソロモン諸島のどこかに存在する可能性が高いとして、第25航空戦隊へその捜索を要請したと報告してきている。


 ソロモン諸島への航空機の投入は「ポートモレスビー攻略作戦」に投入できる航空戦力の減少に直結するだろう。


 それが狙いか。

 ラバウルからの海上補給路を遮断する事でツラギ島とガダルカナル島の日本軍を弱体化させる。

 更にソロモン諸島へ航空機を投入させる事で、日本軍の「ポートモレスビー攻略作戦」に参加する航空戦力を減少させる。

 一石二鳥の作戦か。

 しかも、使うのは安価な魚雷艇が数隻。言い方は悪いがアメリカ軍にとって失ってもそれほど惜しくはない戦力だろう。


 それにしても敵の指揮官は誰だ?

 史実と同じように今回の歴史でもアメリカ軍が太平洋の戦域を区分しているのなら、この時期にソロモン諸島へ攻撃を仕掛けてくるのは、恐らく南太平洋艦隊のロバート・ゴームリー中将だろう。

 史実では1942年8月7日のアメリカ軍によるガダルカナル島上陸作戦から始まる対日反攻作戦「ウオッチタワー」を当初は指揮した司令官だ。


 だが、ガダルカナル島攻防戦の行方にあまりに悲観的であり、その指揮ぶりも積極的とは言えなかった事から1942年10月には更迭される。


 だが、今回はどうだろう。

 現在の戦況では恐らくアメリカ軍は対日反攻作戦「ウオッチタワー」は行わないだろう。

 アメリカ軍は日本軍主力によるハワイ進攻を警戒している筈だ。


 そしてもう一つの焦点はポートモレスビーだろう。

 ならばロバート・ゴームリー中将に与えられた今回の役割は、やはりソロモン諸島への牽制だろう。


 史実でのロバート・ゴームリー中将の評価はガダルカナル島攻防戦の件であまり高くない。

 しかし、決して無能ではない。


 1938年から1940年にかけてアメリカ合衆国艦隊司令長官だったクラウド・ブロック大将や、やはり1940年から1941年までアメリカ合衆国艦隊司令長官だったジェームズ・リチャードソン大将は、ロバート・ゴームリー中将をとても高く評価しており、将来はアメリカ合衆国艦隊司令長官になる男だと思っていたようだ。


 2人ものアメリカ合衆国艦隊司令長官が高い評価をしていたのだ。その経歴にしても順調に昇進している。そんな人物が無能とは思えない。


 どんな提督や将軍でも良い戦いをする時もあれば、失敗する時もある。良い面もあれば悪い面もある。

ロバート・ゴームリー中将も史実の「ガダルカナル島攻防戦」ではたまたま悪い面が出てしまったのかもしれない。

 だから侮る事はできない。

 油断する事はできないだろう。


 正直、ツラギ島とガダルカナル島を放棄したい。

 そうすれば、ラバウルからツラギ島、ガダルカナル島までの海上補給路を守るために戦力を注ぎ込まなくても済む。

 今ならガダルカナル島の飛行場の建設もまだ途中だ。

 史実ではガダルカナル島の飛行場建設は「第11設営隊」の1221人と「第13設営隊」の1350人が約1ヵ月掛けて行った。


 今回の歴史では「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」が成功した影響で、ガダルカナル島での飛行場の建設が開始される時期が史実より遅れている。


 それに加えて、やはり「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」が成功した影響で、史実の最初の計画通り「第11設営隊」はミッドウェー島での作業に投入されている。


 そのため、今回の歴史ではガダルカナル島には今のところ「第13設営隊」しか派遣されていない。

 他の設営隊を増援として送り込む予定でいるが輸送船の手配の関係で遅れている。

 それ故に、ガダルカナル島の飛行場の完成はまだ先になる。


 今ならツラギ島とガダルカナル島を放棄しても大したダメージではない。

 放棄するなら今だ。

 誰か参謀を一人、海軍軍令部に派遣して交渉させてみるか。



 昼食に「鯛の味噌焼き」が出た。

 美味い。

 実に美味いのではあるが「鯛の味噌焼き」ねぇ。


 史実でも今回の歴史でも1942年5月25日に旗艦大和において「ミッドウェー島攻略作戦」の最後の図上演習が行われ時の昼食にも「鯛の味噌焼き」が出された。

 この時、副官が「ミソをつけると言って、こんな時は味噌焼きなんて出すもんじゃないぞ」と配食を取り仕切っていた従兵長を叱っている。これも史実通りの話だ。

 まぁ験担ぎなわけだが、史実では実際に「ミッドウェー海戦」で敗北してしまった。

 本当にミソをつけた形になった。


 まぁ偶然だろう。自分は験担ぎなど信じない。

 実際、今回の歴史では史実と同じく「鯛の味噌焼き」が出されても「ミッドウェー海戦」に勝ったじゃないか。

 偶然だ。偶然。

 と、思っていたのだが、妙に今日はこの「鯛の味噌焼き」が気に掛かる。何故か気になる。

 いや美味いんだけどね。

 その「鯛の味噌焼き」が妙に気になった昼食後、またまた悪い知らせが入って来た。



 何と今度は「第4機動部隊」の空母「大鷹」が敵潜水艦の雷撃を受け中破したとの報だ。

 2発命中し1発は不発だったが、1発は爆発したとの事。

 残念ながら空母「大鷹」は護衛に駆逐艦2隻を付けてペナンに引き返す事になった。


 これで「第4機動部隊」には空母が1隻もいなくなった。

 と、言うか空母「大鷹」「雲鷹」は本来の目的である通商破壊戦において何ら戦果を上げる事なくインド洋を去る事になってしまった。敵輸送船の1隻も沈めずにだ!

 残念過ぎる。

 自分の立てたインド洋への商船改造空母投入作戦はこうして失敗に終わった……


 誰だ『8月18日』に『低速小型の「大鷹」「雲鷹」とて、イギリスの主力空母がインド洋上にいないのならば、恐れるものは何も無い』なんて偉そうな事を言ってた奴は! 「第4機動部隊」は壊滅的打撃を受けてるじゃないか! 責任者出て来い!

って、言ったのは自分か。

 一人でセルフ突っ込み入れてる場合じゃないね。


 いやぁ「恐れるものは何も無い」と言った時にも、実は頭の片隅に敵潜水艦の事はあったのですよ。

ココス諸島への攻撃で、わざと敵に空母の存在を知らせるのは危険ではないかという考えも頭の片隅にはあったのですよ。


 だけど、アメリカ海軍の魚雷の供給の悪さと性能の悪さから、敵潜水艦の脅威は大丈夫なんじゃないかと思ったわけでして。

 それにオーストラリアを拠点とするアメリカの潜水艦は、マッカーサー将軍がフィリピンに残存する対日ゲリラ部隊への補給支援によく利用するので、そういう面からも使用できる潜水艦の数は減っている筈だと思っていたわけでして。

 何て言って言い訳してる場合じゃない。


「第4機動部隊」を指揮する山縣中将は残存する艦艇を率いて通商破壊作戦を続行する事を打電して来た。

このあたりは先の「第二次セイロン島沖海戦」で空母「瑞鳳」が損傷し後退を余儀なくされたものの、残存艦艇でなお作戦続行を決断した「第3機動部隊」の大川内中将と同じで、敢闘精神溢れるその姿勢を連合艦隊司令部の幕僚陣も高く評価している。


 しかし、敢闘精神はいいが、実際に残っている戦力が問題だとして、連合艦隊司令部内から「第4機動部隊」全艦を撤退させるべきだという意見が出た。

 これに同調する声が少なからずあり、山縣中将の判断に任せるべきだという意見も複数あり、両意見が拮抗している。


 残存する「第4機動部隊」の戦力は軽巡洋艦「川内」と駆逐艦3隻、給油船2隻のみ。

 損傷した空母をマレーシアのペナン近海まで送り届ければ、そこからはペナンの第9特別根拠地隊の艦艇が護衛してくれる。

 そうすれば現在護衛についている駆逐艦4隻は戦線に復帰できるとは言え、それでも航空戦力無しでは厳しいだろう。


 どうしたものか。

 暫し熟考し作戦を続行させる事にした。

 山縣中将の手腕を信じる事にした。

 期待してるよ山縣中将。

 やられっぱなしは許さんぞ。


 それにしても正直な話し、全く戦果を上げる事無く空母「大鷹」と「雲鷹」が撤退する事になるとは思わなかった。

 これでは「骨折り損のくたびれ儲け」みたいなものだ。

 このまま何の成果も上げられずに終わるのも面白くない。

 そこで、「大鷹」と「雲鷹」の損傷を利用する事にしよう。


 海軍報道部にこの「第4機動部隊」の損害を大袈裟に過大に報道させるのだ。

『7月12日』に日本国内の軍需産業の動きが鈍いという話を聞いた。

 日本軍の勝利ばかりが報道されるので、このままなら戦争も直ぐに終わってしまうだろうと考える軍需産業の経営者がかなりおり、設備投資を控え、軍需物資の生産や軍艦の建造や修理にさえ影響が出ているという、あの話だ。

 その空気を払拭するために「第4機動部隊」の損害を利用する。


「第3機動部隊」の空母「瑞鳳」も損傷しているから丁度よい。使える。

 既に「第二次セイロン島沖海戦」の報道はなされたが、続報とか詳細が判明したという事にすればいいだろう。

 戦艦「扶桑」の損害も使える。

 これにツラギ島、ガダルカナル島放棄も使う。


◯「第3機動部隊」は勝利したものの大損害を被り残存戦力は僅か。

◯「第4機動部隊」は完全に敵の罠に落ち壊滅状態。

◯ミッドウェー島沖にて戦艦「扶桑」が敵の攻撃により大破。

◯敵の強力な攻撃によりツラギ島、ガダルカナル島の守備隊の被害が甚大、両島を放棄。


と、言うように事実より損害を過大にした悪い知らせを立て続けに報道すれば軍需産業の経営者や国民も危機感を募らせるだろう。

「禍を転じて福となす」といきたい。

 上手くいけば連合軍にもこちらの損害の真実を欺けるかもしれない。


 枢軸国も連合国もお互いの国内報道をスパイや第三国を通じて監視しているからね。

 そうなれば「敵を騙すにはまず味方から」にもなる。


 ただし国民から海軍への風当たりは強くなるかもしれない。

 特に実戦部隊の長たる「連合艦隊司令長官」の自分への批判と風当たりは大きなものになるかもしれない。

 だが、それは甘んじて受けよう。

 勝つためだ。


 それに今までが好調過ぎたのだ。

 問題は海軍軍令部だろう。

 ツラギ島とガダルカナル島の放棄を認めさせなくてはならない。

 更に報道の仕方もだ。

「連合艦隊司令長官」は職分が違うので報道内容には口出ししないでいただきたいとか言われそうだ。


 特に海軍軍令部の第一部長、福留繁少将が鍵となるだろう。

 福留繁少将の考えは、勝った勝ったと国民をお祭り気分にさせて戦争に協力させようという考えだ。だから史実の「ミッドウェー海戦」では敗北を隠す事を強く主張し、海軍報道部にその考えを押し通した。


 味方の損害を誇大に発表して危機感を煽り立てるという自分の考えとは対極に位置する考えだ。

 福留繁少将の説得には骨が折れそうだ。

 誰か参謀を派遣して海軍軍令部を説得させよう。

 大変な仕事になるが、是非成功させてもらわなくては。


 しかし、これで通商破壊を目的にインド洋に投入した空母3隻「瑞鳳」「大鷹」「雲鷹」全艦が損傷し撤退する事になった。

 まるで悪夢だ。とほほ。


 戦争とはなかなかうまくいかないものだ。

 史実を知ってる強みがあってもそれをなかなか生かせない。

 あれっ?

 と言うか、自分は失敗ばかりしてないか?


 何か成功するより失敗した数の方が多いような気がする。

 待て、待て、待て、待て。

 ここは一度、これまでに自分が行った作戦について振り返ってみよう。


 自分には南方資源地帯の攻略を史実通り成功させ、「ミッドウェー海戦」で一気に敵空母を叩きたいという構想があったため当初はそれほど動いていない。


一、戦前において外注扱いで対アメリカ情報工作を強化するという名目で工作員を海外に派遣。

現在のところ、その成否は『不明』


二、開戦前に南方資源地帯の占領後における陸軍との油田の配分について、油田の質だけでなく油田の数も確保するよう要望する。海軍軍令部と海軍省は動いてくれず『失敗』


三、真珠湾攻撃作戦後における潜水艦部隊からの要望を取り入れる形で、史実よりも潜水艦を通商破壊戦に投入。

戦果は上がっており、現在も作戦続行中で現状では『成功中』


四、「真珠湾攻撃作戦」の成功及び「マレー沖海戦」の勝利から、時代は飛行機が主役になったとして、正規空母の早期増強を海軍軍令部に要望。海軍軍令部は動かず『失敗』


五、商船「ぶらじる丸」の空母への早期改装を海軍軍令部に要望。

海軍軍令部は動かず史実通り「ぶらじる丸」はアメリカの潜水艦に撃沈され『失敗』


六、特設巡洋艦部隊の「第24戦隊」の解隊中止。

史実において特設巡洋艦部隊の「第24戦隊」は解隊され第6艦隊所属となり、通商破壊戦に従事するが、今回は「第24戦隊」をそのまま存続させ通商破壊戦に従事。

作戦上「第24戦隊」を存続させる事で際立った効果が上がるというわけではなく、これは単なる趣味だが、取り敢えず『成功』


七、南方資源地帯までの海上交通路を防衛するために機雷原の設置を海軍軍令部に提案。

海軍軍令部は採用せず『失敗』


八、大型水上飛行艇の増強と、それによる対潜哨戒部隊の設立の提案。

海軍軍令部は採用せず『失敗』


九、「K作戦(二式大艇による真珠湾夜間爆撃作戦)」の取り止めと実行。

史実で実行された第一次K作戦を取り止める事により、アメリカ軍の警戒を強化させず、史実で失敗に終わった第二次K作戦での真珠湾偵察を成功させようとしたが、アメリカ軍は警戒を史実通り強化しており、今回の「K作戦」は全くの『失敗』に終わる。


十、「ミッドウェー島攻略作戦」前の図上演習において珊瑚海海戦の戦訓を取り入れ、直衛機と索敵の強化を指示するも南雲機動部隊では実施せず『失敗』


十一、「ミッドウェー島攻略作戦」前の図上演習において、史実通りの山口少将と淵田中佐の提案を一部採用し、空母を輪形陣により防衛する事に決定。『成功』


十二、「ミッドウェー島攻略作戦」前の図上演習において、史実通りの源田参謀による「アリューシャン攻略作戦」の中止と第2機動部隊の南雲機動部隊への参加の提案を採用。『成功』


十三、「ミッドウェー島攻略作戦」開始前に慢心する将兵の気持ちを戒めるための訓示を行う。

効果無く『失敗』


十四、史実における海軍特殊部隊「S特」の創設を先取りして提案。

海軍軍令部が採用し『成功』


十五、一部中止となっていた潜水空母建造計画の全面復活の提案。

海軍軍令部の潜水艦担当参謀と交渉し潜水艦本部立ち上げの後ろ盾となる事で取り引き成立。『成功』


十六、敵に暗号を解読されている事を逆手にとって敵潜水艦を誘き寄せ掃討する「MT作戦」の実行。

敵に見破られていたのか完全に『失敗』


十七、占領したミッドウェー島を手薄にして敵空母を誘きだして叩く「M三号作戦」

現状ではまだ敵空母は現れず、作戦の成否は『不明』


十八、敵に暗号を解読されている事を逆手にとって、第4機動部隊を南雲機動部隊に見せかけマダガスカル島に向かったと連合軍に思わせる偽装作戦。連合軍に見破られていたようで『失敗』


十九、史実の実行されなかった「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」を、投入戦力を大幅に増強した「第3機動部隊」により実行。現在作戦続行中で現状では『成功中』


二十、ガダルカナル島への飛行場建設の阻止。

第11航空艦隊からのガダルカナル島に飛行場に適した土地があるとの報告書を無視し、海軍軍令部からの飛行場建設の指示についても黒島参謀を派遣して阻止しようとしたが、海軍軍令部に押し切られて『失敗』


二十一、低速小型の商船改造空母「大鷹」「雲鷹」による「第4機動部隊」の編成と、その「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」への投入。戦果を上げる事なく「大鷹」「雲鷹」が敵潜水艦の攻撃により損傷し作戦は『失敗』


二十二、史実より少し早く陸軍航空隊のニューギニア派遣を海軍軍令部を通じて要請。

現状では陸軍の方針決定はまだ『不明』


二十三、「木更津航空隊」の一式陸上攻撃機隊をラバウルに派遣しての「南海支隊」への空中補給支援。

補給作戦はまだこれからで、その効果は現状では『不明』


二十四、オーストラリアへの牽制作戦。

「高雄航空隊」によるオーストラリア北西部への空襲。二式大艇によるフリーマントル港への夜間爆撃。「第4機動部隊」によるココス諸島攻撃。この三作戦により敵航空兵力のオーストラリア西部への誘引を狙うが、現状ではその効果は『不明』


二十五、ミッドウェー島に配備された「第1魚雷艇隊」をラバウルに移し、第8艦隊に配属してニューギニア及びソロモン諸島で役立たせようとする作戦構想。現状ではその効果は『不明』


二十六、敵後背地への潜水艦による夜間砲撃作戦及び二式大艇による夜間爆撃の強化作戦。

現在準備中につき現状ではその効果は『不明』


 つまり「26」個の件で自分が動いたわけだ。

 その「26件」のうち、成功が7、失敗が12、不明が7。

 成功が7、失敗が12、不明が7……

 成功が7、失敗が12、不明が7…………


 何という事だ。

 何という事だぁ。

 何という事だぁぁ!


 二桁も失敗してる。成功より失敗の方が遥かに多い。

 そもそも成功が7って言うけど、「第24戦隊の解隊取り止め」なんて趣味の問題で、本来の任務に殆ど影響無しだろう。

 実質の成功は6だよ6。

 成功の倍も失敗してる。

 とほほ。


 自分が今回の歴史でおこなって来た、所謂SF風に言うところの「歴史の改編」のための作戦は大きく分けて三つのカテゴリーに分類されるだろう。


一、物事が終わった後から良い案を出す事を「後思案」と言うが、正にその言葉通りに史実の時点において提案や実行されていなかった事を今回の歴史で自分が提案した「後思案作戦」


二、史実において実行されたのが遅すぎたために効果が上がらなかった事を、今回の歴史では自分が先取りして行おうとした「先取り作戦」


三、史実において物事を決める前に提案はされていたが採用されなかった、または実行されなかった事を、今回の歴史では自分が採用した「選択肢作戦」


 この三つだ。

 このうち既に結果が出ているものは18件。

 その中で「後思案作戦」に該当するのは12件。

「先取り作戦」に該当するのは3件。

「選択肢作戦」に該当するのは3件。


 その「後思案作戦」で成功したのは二つだけだ。

 6番「第24戦隊解隊取り止め案」

 15番「潜水空母復活案」

 しかも、この二つって現在の戦況に役立ってないよ、これ。


 それに比べ「後思案作戦」における失敗は

 2番「陸海軍での油田の配分の件」

 4番「空母の早期増強の件」

 5番「ぶらじる丸の空母への早期改装の件」

 9番「K作戦における二式大艇を使ったハワイ方面への偵察作戦」

 10番「ミッドウェー海戦での直衛機と索敵の強化」

 13番「ミッドウェー海戦前の訓示による将兵の慢心への戒め」

 16番「MT作戦(敵の暗号解読を逆手にとっての敵潜水艦掃討作戦)」

 18番「第4機動部隊による南雲機動部隊の偽装と偽のマダガスカル救援作戦」

 20番「ガダルカナル島への飛行場建設阻止」

 21番「空母「大鷹」「雲鷹」の第4機動部隊によるインド洋での通商破壊戦」

 と10件で失敗している。


「先取り作戦」では、成功は14番の「S特の創設」一つだけ。

 失敗は

 7番「機雷原による海上交通路の防衛」

 8番「大型飛行艇による海上交通路の防衛」

 と2件で失敗している。


「選択肢作戦」では失敗は無し。

 3番「潜水艦による大々的な通商破壊戦」

 11番「ミッドウェー海戦における輪形陣の採用」

 12番「ミッドウェー海戦における第2機動部隊の南雲機動部隊への編入」

 と3件で成功している。


 何という事だ。「後思案作戦」が完全に失敗している。

 実際に成功していると言えるのは「選択肢作戦」のみじゃないか。

 酷い結果だ。


 史実を知ってる強みはどうした? と自分を責めたくなる。

 しかも12件の失敗のうち、敵の行動により失敗となったのは4件だけ。あとは味方の問題だ。

 しかも6件の失敗は海軍軍令部に原因がある。失敗の半分だ。

 やれやれ。


 何か嘆きたくなって来た。

『どうせおいらはダメ人間。失敗ばかりの人生さ』

と節を付けて歌い嘆きたくなる。

 残り少ない髪を掻き毟りたくなる。

「ムン◯の叫び」をしたくなる。


 あぁーーーーーっ落ち込む。

 だが、しかし、落ち込んでいる暇は無い。

 現在も戦いは続いているのだ。


 そもそも戦争は相手が有っての戦いだ。

 全てが味方の思惑通りに行く筈も無い。


 味方同士の中でさえ勝つための方策で衝突がある。

 敵も味方も勝つために必死なのだ。

 

 ここは我慢だ。

 ぐっと我慢だ。

 じっと我慢だ。


 待てば海路の日和あり、だ。


 ともかく今日は酷い1日だった。

 悪い知らせしか無かった。

 明日こそは朗報が入る事を期待しよう。


 

 ふむっ。

 自分は験を担ぐ事はしないが、今ここに戦には縁起の良い食べ物がある。

「川通り餅」だ。

 今日、広島市長が陣中見舞いに来られた時のお土産としていただいた。


 この「川通り餅」というのは戦国武将の毛利元春に由来があるそうだ。

 毛利元就の八代前の毛利家当主、毛利元春は戦に行く途中で川を渡るが、その時、馬の鐙の中に川の石が入り込んだそうだ。

 そのままその石を持って戦ったら戦に勝利したのだとか。

 戦の後で毛利元春はその石を神社に奉納して祀ったのだとか。

 それ以後、その石に見立てた餅を食べる風習が出来たのだとか何とか。

 まぁ広島限定のご当地和菓子だが、戦の験担ぎにはいいのかもしれない。


 今日はこれをいただいて寝る事にしますか。

 ……あっけっこう美味いよ。これ。

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