0018話 南方(1942年8月21日)
●8月21日、インド洋方面で昨晩、「クリスマス島」沖から出撃した二式大艇2機がオーストラリア南西部の重要港フリーマントルへの夜間爆撃を行い無事に帰還した。
往復4800キロ以上の飛行距離だ。海軍の長距離爆撃作戦としては一番長い飛行距離を記録した。
ご苦労。良くやった!
僅か2機の目標確認が困難な夜間爆撃だから恐らく大した被害は与えていないだろうが、連合軍の注意を少しは引いただろう。
これで少しでも連合軍が戦闘機をオーストラリア南西部に回してくれれば有り難い。
また同じくインド洋で「第4機動部隊」がココス諸島から南下を開始した。
いよいよ本格的に通商破壊戦に乗り出すのだ。
さぁ行け「第4機動部隊」よ! 史実では発揮されなかったその真の実力を、今回の歴史では満天下に知らしめるのだ!
という事で戦果を期待しているよ、山縣中将。
太平洋では「第65駆潜隊」がマキン島に到着し、陸戦隊の増援部隊を揚陸させた。
これでマキン島は掃討戦になるだろう。
なお「第65駆潜隊」は3隻の特設からなる部隊だ。
特設捕獲網艇の「宇治丸」…約400トンの元民間小型貨物船。
特設駆潜艇の「第六京丸」と「第七京丸」…この2隻は同型艦で約300トンの元小型捕鯨船。
武装は3隻とも8センチ砲1門に対潜爆雷だ。
ところで「宇治丸」の「特設捕獲網艇」という艦種は、実際に捕獲網を使用する艦艇だ。
この「特設捕獲網艇」が使用する捕獲網というのは重要な港や航路を守る際、海中に網を張って潜水艦の侵入を防ぐというものだ。
無理に侵入すると網が絡まり潜水艦の身動きができなくなってしまう。
第一次世界大戦では実際にフランスでドイツのUボートが1隻網にかかり捕獲されている。
似たようなものに防潜網がある。
こちらも網を張り潜水艦の侵入を防ぐが、機雷がついており、潜水艦が網を強引に突破しようものなら機雷が爆発する仕掛けだ。
第一次世界大戦ではイギリス本土沿岸で5隻のドイツ軍のUボートが対潜網の機雷により沈んでいる。
「特設捕獲網艇」が積んでいた捕獲網は「十四式捕獲網」というものだ。大正十四年(1925年)に正式採用
された。
網の大きさは一つあたり横が約500メートル。高さが約35メートルで錨で海底に設置するようになっている。これを24組で1セットとして搭載された。
ちなみに、この「十四式捕獲網」と同じ年に正式採用されたものには「十四式防潜網」もある。
こちらの大きさも「十四式捕獲網」とほぼ同じだが、横50メートルごとに機雷が付くようになっている。つまり10個の機雷だ。こちらも24組で1セットとしているので機雷は240個となる。
日本海軍はこの「特設捕獲網艇」を43隻使用したが、どちらかというと駆潜艇として活用した。
残念ながら史実では日本海軍の捕獲網は敵潜水艦を捕らえる事は無かった。
まぁありていに言えば、予算の都合で捕獲網を大量に使用する事ができなかった為、その結果、戦果も上がらなかったという事のようだ。
それ故か現代において「特設捕獲網艇」や「十四式捕獲網」に関する文献は少ない。
特設艦船に焦点を当てた某文献にさえ「特設捕獲網艇」の項目は無い。
寂しい話しである。
そんな話はともかく、この日の太平洋での動きは他に陸軍の川口支隊がラバウルに到着した。
支隊長の川口少将は早速、第17軍司令部と第8艦隊司令部の合同会議で打ち合わせを行ったそうだが、その席で「ラビ攻略作戦」で「夜間舟艇機動作戦」を行いたいと強く要望してきたらしい。
あぁやっぱりそう来たか。
史実での「ガダルカナル島攻防戦」の時も、川口少将はガダルカナル島への移動に「大発」「小発」といった小型舟艇による「夜間舟艇機動作戦」を強く要望して一悶着起こしていたからね。
これから「ラビ攻略作戦」の指揮をとる人物の事でもあるし、史実において問題となった川口少将の「夜間舟艇機動作戦」について、簡単に触れておこう。
『8月23日』
トラック島において川口少将と第17軍の越次参謀、第8艦隊の神参謀などにより、ガダルカナル島への川口支隊の輸送について協議が行われる。
この時、川口少将がガダルカナル島へは途中まで輸送艦で行き、そこから「夜間舟艇機動作戦」で行く事を主張した。
既に敵は飛行場を使い航空機を飛ばしている事から速度の遅い輸送船での移動は危険であるというのがその理由だ。
ただ他に川口支隊は以前に英領ボルネオから蘭領ボルネオに進攻作戦を行った時、この「舟艇機動作戦」を行い成功させたからその作戦に自信があったようだ。
しかし、この時は川口支隊がガダルカナル島に到着する頃には制空権を確保している筈だという事で、「夜間舟艇機動作戦」の話は無しとなった。
『8月28日』
川口支隊の第124連隊の第2大隊が先遣隊として駆逐艦4隻からなる第20駆逐隊によりガダルカナル島へ輸送される途中、敵機の攻撃にあい被害を出す。
駆逐艦は3隻が損傷を受けた。第2大隊の被害は戦死62名。大砲2門と弾薬全てを喪失した。
『8月29日』
午前10時頃に第2陣として川口支隊の第124連隊の第1大隊を乗せた第11駆逐隊がガダルカナル島への出撃地であるショートランド泊地を出発した。
それと入れ替わる形で川口少将がショートランド泊地に到着する。そして第2大隊の悲劇を聞き、速度の速い駆逐艦でさえ輸送に失敗した事から、「夜間舟艇機動作戦」の実行を第17軍司令部に打電した。
ただ、第11駆逐隊はこの日の夜に無事、第1大隊をガダルカナル島に上陸させている。
この日は他に既にガダルカナル島に到着している一木支隊主力に遅れていた一木支隊の一隊が哨戒艇4隻に分乗しショートランド泊地を出発している。
『8月30日』
朝、前夜の第11駆逐隊による第1大隊の輸送成功の報を川口少将は聞いたが、それでも「夜間舟艇機動作戦」に拘り、第17軍司令部にその事をまたもや打電し、駆逐艦輸送の準備にも応じなかった。
その後、28日に被害を受けた第20駆逐隊と第2大隊がショートランド泊地に帰還したが、第2大隊から状況を聞いた川口少将は重ねて第17軍司令部に「夜間舟艇機動作戦」の必要性を打電した。
この時、打電した内容には輸送する第2水雷戦隊の田中少将も「夜間舟艇機動作戦」に賛成しているとあるから必ずしも一概に川口少将の判断が間違っていたとは言えないだろう。
本来、この日の朝10時に駆逐艦部隊に乗り川口少将と川口支隊主力はショートランド泊地を出発する予定だったが、川口少将は駆逐艦部隊への乗り込みを拒み出発を拒否した。
予定通り出発したのは、これまた一木支隊主力に遅れていた一木支隊所属の一隊だけで駆逐艦1隻に乗り込み出発している。
第17軍司令部では度重なる川口少将の意見具申について、輸送する海軍の田中少将も賛成している事も考慮して、一部の兵力ならば「夜間舟艇機動作戦」を許可するとした。
だが、しかし、川口少将は納得しなかった。再び第17軍司令部に「夜間舟艇機動作戦」については自分に一任してほしいと打電する。
第17軍司令部は重ねて「夜間舟艇機動作戦」の兵力は最小限で行うものとした。
具体的には歩兵1個中隊及び機関銃若干だ。
この日の夜、朝10時に出発した一木支隊の一隊を乗せた駆逐艦と、前日に出発した速度の遅い哨戒艇4隻に乗った一木支隊の一隊が無事にガダルカナル島に到着している。
『8月31日』
午前8時に川口少将率いる川口支隊主力は駆逐艦8隻に乗りショートランド泊地を出発した。
そして同日の、午後21時30分に無事にガダルカナル島に到着している。
『9月1日』
午前6時に「夜間舟艇機動作戦」を行う川口支隊の岡大佐の部隊が輸送船2隻に乗り込み駆逐艦2隻の護衛を受けてショートランド泊地を出発した。
兵力は千人。第17軍司令部の兵力1個中隊という命令を無視した兵数だ。
川口少将の計画では岡大佐の部隊は、まず輸送船でギゾ島まで行き、そこで舟艇に乗り換えニュージョージア島北岸を通りガッカイ島へ、そこからラッセル諸島を経てガダルカナル島のタイボ岬に到着するというもので、5日間で到着するというものだった。簡単に言えばソロモン諸島の南沿いを進むルートだ。
だが、しかし、岡大佐はその計画通りには移動しなかった。勝手に移動ルートを変えてしまう。
輸送船でロング島付近まで行き、そこで舟艇に乗り換えフィンナナ島へ進み、そこからセントジョージア島南岸側目指し、そしてガダルカナル島に到着するという計画で3日間で到着するというものだった。川口少将の計画より北寄りに進むルートだ。
『9月2日』
早朝、午前4時30分、岡大佐の「舟艇機動部隊」を乗せた輸送艦がロング島南岸沖に到着する。部隊は輸送艦から舟艇に移乗してロング島南岸に集結した。
舟艇の数は「高速艇甲」が1隻。「高速艇乙」が1隻。「大発」が28隻。「小発」が31隻。
この日の午後15時、岡大佐の「舟艇機動部隊」はロング島を出発する。
ちなみに「高速艇甲」というのは、上陸作戦の時に偵察や連絡のために使われるその名前通りの高速の小型艇だ。
何と陸軍がわざわざイギリスから魚雷艇を購入して研究し、それを元に開発した。
魚雷艇から武装を外した高速小型艇と言うべきものだ。
「高速艇乙」は、主に連絡用であり偵察任務は行わないため「高速艇甲」より低速小型だ。これも陸軍が開発した。
「大発」は主に上陸作戦に使われる小型輸送艇で約70人の兵士を乗せられる。
「小発」は「大発」より小型で約30人の兵士を乗せられる。
『9月3日』
早朝、午前4時頃に岡大佐の「舟艇機動部隊」はフィンナナ島に到着した。
この日の午後14時、岡大佐の「舟艇機動部隊」はフィンナナ島を出発する。
『9月4日』
早朝、午前4時頃に岡大佐の「舟艇機動部隊」はセントジョージア島南岸に到着した。
この日の午前9時頃、アメリカ軍の戦闘機と爆撃機の合わせて13機が飛来し、休息中であった岡大佐の「舟艇機動部隊」を攻撃する。舟艇の3割が損傷し応急修理を施す。
この日の夜19時30分頃、岡大佐の「舟艇機動部隊」は最終目的地であるガダルカナル島に向けてセントジョージア島を出発する。
だが、しかし、風強く波高くそれは時間が経つごとに強くなる。
エンジン故障の舟艇が出始め、空襲で損傷した舟艇は応急修理した箇所から浸水が始まった。
そのうち方位を見失い岡大佐の「舟艇機動部隊」は暗い海の上を散り散りになってしまう。
予定では午前3時にはガダルカナル島に到着する予定だったが午前4時になっても到着できずにいた。
『9月5日』
午前4時40分頃、アメリカ軍機が岡大佐の「舟艇機動部隊」を発見し攻撃を加えて来た。
「舟艇機動部隊」は各個に対空戦闘を行いつつガダルカナル島に向かう。
岡大佐の「舟艇機動部隊」の多くはガダルカナル島に何とか辿り着きはしたが、バラバラとなって広範囲に散らばっていた。
中にはガダルカナル島ではなくサボ島に上陸してしまった舟艇や完全に方向を見失ってガダルカナル島に到着したと思ったら何と出発したセントジョージア島に戻ってしまったという舟艇もあった。
結局、岡大佐が上陸2日後の9月7日までに掌握した兵力は約650人で約3割の兵士が行方不明だった。
しかも、なお悪い事に岡大佐の「舟艇機動部隊」が上陸した場所は、アメリカ軍の占領する地域の西側だった。
当初の計画ではアメリカ軍の占領する地域の東側に上陸する筈であり、川口支隊主力もそこにいたのだ。
更に悪い事に岡大佐の部隊は進軍に手間取り、川口支隊の総攻撃の時には最も遅く攻撃を開始するという事態になっている。
と、言うのが史実における川口少将の「夜間舟艇機動作戦」の顛末であり、戦後も色々と批判を浴びる事になった。それも簡単に述べておこう。
一、第17軍司令部に何度もしつこく意見具申をして強引に「夜間舟艇機動作戦」を押し通した事。
二、既に一木支隊がガダルカナル島で敗北しており一刻も早い到着が必要だったにも関わらず、第17軍司
令部の命令に従わず8月30日の駆逐艦部隊への乗り込みを拒否し、1日の遅れを出した事。
三、同じく、一刻も早い到着が望まれるのに移動に日時のかかる「舟艇機動作戦」を実行した事。
四、8月30日に川口支隊全部隊が予定通りに出発していれば、その日に出発して無事到着した一木支隊の一部の部隊のように、川口支隊全部隊も無事到着した可能性が高い事。
五、第17軍司令部の「夜間舟艇機動作戦」の使用兵力は1個中隊という指示を無視した事。
六、小型舟艇による海上長距離移動がそもそも無理だった事。
等々、色々と言われている。
まぁ結果論的に言われている事もあるので川口少将に同情すべき点もある。
「夜間舟艇機動作戦」の最後の移動時に波や風の気象条件が悪化して部隊が散り散りになったのは不運だった。それまでの夜間海上移動は問題無かったのだし。
しかも、岡大佐が勝手に移動ルートを変えた点もある。もし、川口少将の指示通りの移動ルートを通っていれば無事に目的地に到着していた可能性も否定しきれない。まぁ、史実以上に失敗した可能性も否定しきれないが。
ただ、何というか前にも陸軍について「下剋上」の気風がある事を述べたが、この作戦にもそれが伺える。
川口少将は自案に固執し第17軍司令部の作戦兵力は1個中隊という指示を無視して大隊規模の兵力を使い、岡大佐は川口少将に無断で移動ルートを変更する。
上司も上司なら部下も部下。勝手が過ぎる。
でもまぁこういう人は現代日本にも幾らだっている。
自分の身近にもいた。
会社や学校で何か物事が会議などで決まっても実行する段階になったら我を通して従わない。
議論を蒸し返してみんなを困らせる。それで仕方なくその人物に妥協して、物事が成功すれば更に調子に乗るし、失敗しても自分のミスは認めない。
妥協しない場合は不貞腐れて協力しないし文句ばかり言って空気を悪くする。
会社の場合、先輩や上司は眉を顰め注意したり、同僚や後輩は関わるのを嫌がり、まさにみんなの鼻摘み者。
だけど、本人は自分に人望があってみんなが自分についてくるし好かれていると思ってる。
まぁそんな我儘で勘違いな人物が組織で長期間上手くやっていける筈もなく、結局は会社から退職を勧められる。
大抵こういう人物は自分を過大評価して、自分は会社に必要な筈だと信じているからショックを受けるし信じられない。しかも送別会も開いてもらえず、そこで初めて自分が同僚や後輩にどう思われていたかを知るが後の祭りだ。
まぁ自分のプライドを守るためにそんな冷たい現実には目を背け、最後まで悪いのは自分の実力を認めない会社や上司、同僚、後輩だと主張し、こんな会社は辞めて良かったと思い込む。
しかし、そんな性格では他所に行ってもうまく行く筈も無く短期間で転職を繰り返し、終いにはどこも雇ってくれなくなる。
その先は言わぬが花だろう。
あぁ何かリアルに話してしまった。反省。反省。
まぁ史実の話はともかく今回の「ラビ攻略作戦」はどうなる事やら。
ここは現地司令部の判断にお任せするしかない。
陸軍の第17軍司令部次第だが、きっと川口少将は「夜間舟艇機動作戦」の実行を押し通すだろう。
ともかく川口支隊が「ラビ攻略作戦」に取り掛かる事で、史実よりも「ポートモレスビー攻略作戦」は大きな作戦になったと言えるだろう。
だが正直なところ「ラビ攻略作戦」はともかく「ポートモレスビー攻略作戦」は成功してもそれ程、嬉しいとは思えない作戦だ。
と言うよりポートモレスビーを攻略した後の事を考えると不安を覚える。
ポートモレスビーを攻略できればラバウルは格段に安全になるだろう。
オーストラリア北部に更に圧力を掛ける事も可能となるだろう。
だが、日本の前線は更に南に延びる事になる。
ポートモレスビーを占領したからと言ってこの方面の戦いが終わる事は無い。
ラバウル対ポートモレスビーで行っていた航空消耗戦を今度はポートモレスビー対オーストラリア北部で行う事になるだろう。
オーストラリア北部のホーン岬半島とニューギニア島の間にはトレス海峡がある。
そのトレス海峡にはトレス海峡諸島の島々があるが、ここには太平洋戦争以前からオーストラリア北部防衛のための砲台が設置されていた。
後にはトレス海峡諸島のホーン島に飛行場も造られ太平洋戦争中はポートモレスビーとの重要な中継基地となっている。
そのホーン島からポートモレスビーまでの距離は約500キロ。この距離はラバウルからポートモレスビーまでの約590キロの距離よりも近い。
更にはオーストラリア本土の飛行場もある。
幸いな事に太平洋戦争当時のホーン岬半島はそれほど開発が進んでおらず、特に北部に大都市は一つも無く人口も少なく、人のいる地域は限られていた。
そうは言ってもホーン岬半島の南東部にはクックタウン港があるし、ホーン岬半島付け根付近には太平洋戦争中に連合軍の重要な拠点だったケアンズ港もあり、それぞれ飛行場も造られていた。
クックタウンからならポートモレスビーまでは約750キロ。航続距離の長いP38戦闘機なら戦闘可能な距離だろう。
ケアンズからならポートモレスビーまでは約900キロ。B17爆撃機やB25爆撃機なら活動圏内だ。
それに史実ではケアンズより更に南部のタウンズビルより発進したB17爆撃機がポートモレスビーを中継基地として、ラバウルを攻撃していた。
こうした事から鑑みるにホーン島やクックタウンを中継基地としてポートモレスビーを攻撃する事も可能だろう。
史実ではオーストラリア軍がイギリスや中東で戦っていた戦闘機パイロットを呼び戻して「第75飛行隊」をタウンズビルで編成しポートモレスビーに派遣するが、その飛行ルートはタウンズビルからクックタウンへ、クックタウンからホーン島へ、ホーン島からポートモレスビーへというルートだった。
それにオーストラリア軍はホーン岬半島の西側のカーペンタリア湾に面したウェルバやアルカンにも大戦中に飛行場を造っている。
ウェルバからポートモレスビーまでは約700キロ。アルカンからポートモレスビーまでは約800キロだから足の長い戦闘機や長距離爆撃機なら戦闘行動圏内だろう。
つまり、ホーン島の戦闘機隊、恐らくクックタウン、ウェルバ、アルカン等に配備されるであろう航続距離の長い戦闘機と爆撃機隊、ケアンズの爆撃機隊、タウンズビルの爆撃隊が、ポートモレスビーを攻撃してくる事が予想される。
それに連合軍がホーン岬半島北部に新たに飛行場を建設する可能性もあるだろう。
もし、ポートモレスビーを占領した場合、ラバウルより厳しい航空消耗戦に突入するかもしれない。
それに加えて問題なのはポートモレスビーまでの補給線だ。
太平洋上の南の島々は凡そのところ後方に向けて補給線が、海上交通路があるという形だ。
しかし、ポートモレスビーの場合は、ニューギニア島南東部にあるその位置関係から補給線は変則的なものになる。
ラバウルからブナ、ブナからラビ、ラビからポートモレスビーまでというようにニューギニア東部の沿岸線に沿った海上交通路を輸送船が航行する事になる。
つまり補給線はニューギニア北東部から南東部に向けてニューギニア半島を回り込む形になる。
ポートモレスビーから見れば輸送船は後方から来るのではなく横方向から来る形になるのだ。
特にラビからポートモレスビーまでが一番の問題で、オーストラリア本土の敵にその補給線を海上交通路を晒していると言ってよい形になる。
これは問題だ。
航空機による攻撃。潜水艦による攻撃。そして戦闘機の援護を受けた水上艦艇部隊による攻撃も可能だろう。正に三段構えの補給線攻撃が予想される。
これを撥ね退け補給線を守る事は容易な事ではないだろう。
かと言って陸路のココダ街道は自動車も走れないような小路の部分がかなりの距離を占める。
一応、ココダまでは自動車道路の建設は可能という「横山先遣隊」の報告がある。
しかし、ココダ街道を拡張、整備するような人員の手配が難しい。
しかもココダから先の地形が問題だ。
何せ太平洋戦争から数十年経った現代の時代でさえ、ココダ街道は自動車道路が開通していない。
その理由はあまりに地形が険しいからだ。
そもそもそれが可能なら道路建設を得意とする連合軍の工兵隊が自動車道路を建設していたろう。
インドのアッサム州と中国の雲南を結び、蒋介石主席の中華民国軍への重要な補給ルートとなった「レド公路」を連合軍は2年の月日を掛けて完成させている。
オーストラリア大陸でも南部工業地帯と北部を結ぶ道路を整備している。
そうした道路を建設する労力を惜しまない連合軍がココダ街道では道路建設を行っていないのだ。
だからココダ街道を整備して主要補給路として使う事は難しいだろう。
空輸は輸送機が足りないので難しい。
やはり船による補給しかない。
だがそれは連合軍にとって容易に接近できる良い攻撃目標だ。
連合軍の補給線攻撃を防ぐにはラビとポートモレスビーにかなりの航空戦力を配置し、輸送船には通常 よりも多くの護衛艦を手配しなければならないだろう。
これはかなりの負担になる。
そして下手をすれば史実の「ガダルカナル島攻防戦」で起こったような航空機と艦船の多大な消耗戦の再現がポートモレスビー周辺で起こるという事になるだろう。
それは是非とも避けたい。
まぁ、それはポートモレスビーの攻略が成功した場合の話ではある。
失敗する可能性も充分にある。
というか失敗する可能性の方が高いように思う。
何故なら陸軍も海軍も投入している兵力が連合軍に比べ少ないからだ。
だが、成功する可能性も否定しきれない。
二つの点が気にかかる。
一つはこちらの戦力だ。
何せ「ガダルカナル島攻防戦」が発生していないので、史実で「ガダルカナル島攻防戦」に注ぎ込んだ兵力を全部とは言わないまでも投入できるし、実際、投入し始めている。
二つ目は敵航空戦力の圧力だ。
現在の時点で、どうもポートモレスビーからの航空機による圧力が史実よりも低いような感じを受ける。
ラバウル航空隊は消耗戦の状況になってきてはいるが、どうも消耗の度合いが史実よりも少ないようだ。
これはどうした事だろうか。
オーストラリア北西部、南西部への牽制攻撃の効果が表れたというわけではない筈だ。まだ始まったばかりなのだ。
推測に過ぎないがアメリカのオーストラリアへの戦闘機供給に問題があるのかもしれない。
「ミッドウェー海戦」で敗北し多くの航空機を失ったアメリカ軍は航空部隊の増強に躍起になっているだろう。更にはハワイ防衛のための航空部隊増強にも力を入れているのではないだろうか。
また、こちらの潜水艦部隊による通商破壊戦で飛行機を運んでいた輸送船が沈められたという事もあるかもしれない。
そうした事からオーストラリアへの飛行機供給が史実より低調なのかもしれない。
史実ではアメリカ海軍のアーネスト・キング海軍作戦部長は、戦争初期の方針として第一にハワイの防衛、第二にオーストラリアとの連絡線の維持防衛をアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に指示していた。
そのため航空機をハワイ防衛のために優先的に送っているとも考えられる。
もしくはマッカーサー将軍が有り難い事に何かやらかしてくれたのかもしれない。
何せマッカーサー将軍はその傲慢な性格故に史実でも味方の様々な人物と衝突し、連合軍内部に不協和音を齎してくれた。
日本軍が何もしてなくても勝手に連合軍の足を引っ張ってくれたのだ。こんなに嬉しい相手はいない。
そもそも開戦初頭のフィリピン戦でマッカーサー将軍の指揮振りは全くの良い所無しだ。
以前にも言ったが「カムバックした元チャンピオン・ボクサーが久しぶりのリングで戸惑う姿」と酷評されるほど酷かった。
そんな指揮振りだからアメリカ軍の兵士達にも人気は無かった。
マッカーサー将軍がフィリピンのコレヒドール要塞にいた時、後方にいてなかなか姿を見せないマッカーサー将軍を揶揄する歌が兵士達によって作られ歌われる程だ。
だが、しかし、マッカーサー将軍は上手かった。
自己宣伝がだ。
マスコミを使う事がだ。
真珠湾の悲劇で衝撃を受けていたアメリカ国民に、マスコミを使って自分を如何にも苦境にあるフィリピンで耐え忍び苦闘する悲劇のヒーローのように見せたのだ。
実際には敗北者にも関わらずマスコミを上手く使い国民に英雄としての姿を見せたマッカーサー将軍をルーズベルト大統領も半ば驚きを持って見ていたと伝えられる。
だからこそマッカーサー将軍はフィリピン失陥の責任をとる事もなくオーストラリアで再起する事になった。
フィリピンから脱出したマッカーサー将軍はオーストラリアで南西太平洋方面連合軍最高司令官に任命される。
この時、アメリカ陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍はマッカーサー将軍に対して幕僚にオーストラリア軍とオランダ軍の士官を加えるよう指示した。
アメリカ軍だけ率いるならともかく司令部はオーストラリアにありオーストラリア軍も率いるわけだし、蘭印植民地政府もオーストラリアに避難して来ているのだからジョージ・マーシャル将軍の指示は至極当然の事だろう。
だが、しかし、マッカーサー将軍はこれを拒否し司令部の幕僚はフィリピン時代からの陸軍の者で固めてしまった。
しかも、その幕僚達が極めて有能というわけではなく、マッカーサー将軍の好みに合わせたイエスマンばかりだった。
当然、オーストラリア軍やオランダ軍との協調はスムーズとは行かなくなる。
それだけでなく陸軍航空隊司令部や海軍司令部はマッカーサー将軍の司令部とは別の建物に設置された。
陸海空の協同作戦が重要な太平洋での戦いにそんな事をすればどうなるか。
マッカーサー将軍の司令部は海軍と航空部隊の密接な連絡が取れず色々と不都合が生じたのだ。
陸軍航空部隊司令官のジョージ・ブレット少将は4ヵ月間で8回しかマッカーサー将軍と会わなかったそうだ。それでは当然上手くいく筈もない。
だからマッカーサー将軍は「陸軍しか知らない総司令官」などと言われるのだ。
「珊瑚海海戦」の時など、マッカーサー将軍指揮下の陸軍航空隊のB17爆撃機隊が味方艦隊を誤爆した。
当然、誤爆を受けた海軍は抗議するとともに陸軍航空隊の識別能力向上を要請する。まぁ当然の話だ。
だが、しかし、マッカーサー将軍の司令部からは誤爆の事実は無く、そのため識別能力向上訓練もする必要無しとの返答だった。
傲慢な返答に怒った海軍は殊更この事を記録に残し、マッカーサー将軍の指揮・統率・判断力の欠如を批判する姿勢を見せ不和の種となる。まぁ当然そうなるわな。
ニューギニア戦線ではマッカーサー将軍はオーストラリア軍の功績をアメリカ軍が行ったかのようにマスコミに発表する。現地に行った記者達はアメリカ軍が占領した地域だと思っていたら実際はオーストラリア軍が占領した事を知り驚いたという話だ。
そんな事を繰り返していればどうなるか。
当然、オーストラリア軍は面白くない。
しかもオーストラリア軍から見ればアメリカ軍の士気は低く積極性に欠ける。
結局、後にはオーストラリア軍の最高指揮官たるトーマス・ブレイミー大将とマッカーサー将軍は不和になり、オーストラリア軍との関係も悪化した。
更に言えば、マッカーサー将軍の代わりにフィリピンに最後まで残りアメリカ軍を率いて戦い、降伏したウェーンライト将軍に名誉勲章を与える話が出た時もそうだ。本来なら推薦して然るべきマッカーサー将軍はアメリカ陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍が要望したにも関わらず拒み、とうとう推薦する事をしなかった。この事でマッカーサー将軍はジョージ・マーシャル将軍を怒らせている。
何せマッカーサー将軍という人物は功績は全て自分の物。部下の功績は喜ばないという人物だから仕方がない。
スチムソン陸軍長官はマッカーサー将軍について「マッカーサーはいつも不和の元だった」と語っているが全くもってその通りだ。
だが、マスコミを使うのは上手いからアメリカ本国では人気がある。
しかし実際にはマッカーサー将軍の許で戦った兵士達には人気が無い。
海軍ともオーストラリア軍とも不和。
日本軍にとってこれ程有り難い相手はいない。
そんなマッカーサー将軍だから今回の歴史で何か新しい問題を起こして連合軍内に不協和音を撒き散らしてもおかしくはなく、その影響でラバウルへの圧力が減ったとしても自分は驚かない。
正直、相手が問題のある指揮官である事は助かる。
ただでさえ国力10倍の相手と戦っている不利な状況なのだ。
ハワイにいるアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は有能だ。
この上、オーストラリアにも極めて有能な敵指揮官がいたならば味方の不利は更に酷くなるだろう。
ニューギニア戦線における連合軍の陸海空三位一体の統合作戦による成功をマッカーサー将軍の手腕によるものとする見方もある。
だが、そもそも未開発の地域が多く道路網が発達しておらず、必然的に空と海での移動が重要な役割を担うニューギニア戦線ではマッカーサー将軍でなくても、連合軍は誰が指揮しても陸海空三位一体の統合作戦となった事は明らかだ。
それにマッカーサー将軍が後方のオーストラリアにいる間、ポートモレスビーから連合軍部隊を指揮したのはオーストラリア軍のトーマス・ブレイミー大将なのだ。
現代においてアメリカの「バージニ◯軍事研究所」に所属し、マッカーサー将軍の研究で知られる軍事史専攻の某教授は、もしマッカーサー将軍が南西太平洋方面連合軍最高司令官にならなかったならば、オーストラリア軍の最高指揮官たるトーマス・ブレイミー大将がその地位に就任しただろうと推測している。
そしてトーマス・ブレイミー大将の指揮下で連合軍はニューギニアで戦う事になっただろうとしている。
当時のオーストラリアには日本軍がオーストラリア北部に上陸して来た場合、戦線を後退縮小して南のブリスベーンとアデレードを結ぶラインで防衛線を構築する案があった。
ただし、これはあくまでもオーストラリア北部に日本軍が上陸して来た場合だ。
その前にオーストラリア軍はニューギニアのポートモレスビーを死守する作戦でいた。
だからマッカーサー将軍がオーストラリアに脱出してくる前に、トーマス・ブレイミー大将は既にポートモレスビーの守備兵力を増強し精鋭の航空隊を送り込んでいたという事実がある。
特にイギリスと中東から呼び戻した実戦経験豊富なオーストラリア軍パイロットによって1942年2月に急遽編成された「第75飛行隊」はポートモレスビーに配備され日本の航空隊と激戦を繰り広げる。
そして多大な犠牲を払いながらも4月30日にアメリカ陸軍の第8飛行連隊がポートモレスビーに到着し防衛を引き継ぐまで守り切ったのだ。
そもそもマッカーサー将軍がオーストラリアに脱出してくる前に、オーストラリア本土に送り込まれたアメリカ軍将兵の数は2万5千人にもなる。
トーマス・ブレイミー大将ならばオーストラリア本土への日本軍上陸を許さないためにも必死の抗戦をニューギニア戦線で行ったとしてもおかしくはない。
それに史実では、トーマス・ブレイミー大将はオーストラリア軍の戦い振りと比べてアメリカ軍の士気が低い事と積極性の無さを批判しているぐらいだ。
しかも前述の「◯ージニア軍事研究所」の某教授はトーマス・ブレイミー大将ならば好機を捉えて限定的なインドネシアへの進攻作戦を行った可能性がある事も指摘している。
もし、トーマス・ブレイミー大将が南西太平洋方面連合軍最高司令官になっていたらマッカーサー将軍よりも余程手強い相手になっていたかもしれない。
また、マッカーサー将軍はその回顧録の中で太平洋戦争においてアメリカ軍の指揮系統が統一されていなかった事に不満を述べている。
つまり海軍のニミッツ提督と陸軍のマッカーサー将軍の二つの司令部による対日戦の遂行だ。
そして中部太平洋戦域での「ニミッツ攻勢」と、南西太平洋戦域からの「マッカーサー攻勢」の二つの攻撃軸の存在だ。
これについてはマッカーサー将軍の回顧録に次のようにある。
「(不必要な結果を生み出した不都合と実害は数限りなく救われた筈の多くの人々が今では墓場に横たわっている)」
二つの攻撃軸があれば、当然これに要する部隊や艦艇、基地、物資等の面で大規模かつ長期間の準備を必要とする。
イギリスの戦史家リデル・ハートは、この連合軍の二つの攻撃軸「ニミッツ攻勢」と「マッカーサー攻勢」の準備に掛かった時間が、日本にも防衛に準備する時間を与える事になり、その分、連合軍の任務をより困難なものにしたと指摘している。
前述したように、もし、マッカーサー将軍が南西太平洋方面連合軍最高司令官にならなかったら、オーストラリア軍のトーマス・ブレイミー大将がその任についていた可能性がある。
そうしたなら、当然アメリカ軍の対日戦の主攻はアメリカ海軍の太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督が担う事になり、トーマス・ブレイミー大将指揮する南西太平洋方面連合軍は助攻となっていただろう。
アメリカが対日戦の主役をオーストラリアに委ねるとは思えないからだ。
そうなると、マッカーサー将軍の言うところの「不都合と実害」は激減し、統一された指揮の強力な攻勢が中部太平洋戦域の日本軍に向けられる事になったかもしれない。
それは日本にとって史実より不利な戦いになった恐れがある。
それを考えれば今回の歴史でもマッカーサー将軍がオーストラリア本土で健在で戦う相手というのは助かる。
なお、昔からマッカーサー将軍が対日戦に必要な人員と武器の要求を強力に繰り返し要請したからこそ、太平洋に人員と武器が送られたのであり、マッカーサー将軍がいなかったのならば、その分、人員と武器はヨーロッパに送られ太平洋には最小限の物しか送られなかったであろうという説がある。
これについては前述の「◯ージニア軍事研究所」の某教授等も指摘している事だが、アメリカ海軍のアーネスト・キング作戦部長が太平洋を重視していた事実がある。
更にはイギリスの戦史家リデル・ハートも指摘している事だが、アメリカ陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍も1942年中に英仏海峡を渡ってヨーロッパ本土へ進攻する事がイギリスの反対により無理だと判明した後は太平洋重視の姿勢を打ち出している。
そのためマッカーサー将軍がいようといまいと太平洋へ送る人員と武器の割合は、変わらなかっただろうという見方がある。
また、太平洋に送られる人員と武器が減るとしてもそれは陸軍部隊とその航空隊がメインであろうから「ニミッツ攻勢」に与える影響は少なかっただろうという見方もある。
まぁアーネスト・キング作戦部長が対日戦重視の考えだったのだから極端に太平洋への人員と武器が減らされるという事はなかっただろうと思う。
史実においては南西太平洋方面連合軍最高司令官がマッカーサー将軍だったからこそ日本は1945年8月まで戦えたのかもしれない。
南西太平洋方面連合軍における最初のアメリカ陸軍航空隊司令官であるジョージ・ブレット少将は後にジョージ・ケニー少将と交代する。
そのジョージ・ケニー少将は新たに配備が進むB29長距離戦略爆撃機を使った一つの作戦を提案する。
インドネシアの油田に対する戦略爆撃だ。
ジョージ・ケニー少将はオーストラリア北西部の飛行場からインドネシアの油田にB29長距離戦略爆撃機を飛ばす計画を立てた。
もし、この作戦が行われていたらどうなっていただろうか。
あの「超空の要塞」と言われるB29長距離戦略爆撃機は簡単に撃墜できるような機体ではない。
帝都東京が焼け野原になった事からもそれはわかるだろう。
恐らく、インドネシアの油田を日本は守り切れなかっただろう。
アメリカの潜水艦により海上交通路が遮断されるどころか、石油の根源たる油田が破壊されればどうなるかは言わずもがなだ。
もしジョージ・ケニー少将の作戦案をマッカーサー将軍が全面的に採用し本国と掛け合い実行していたらどうなった事か。
日本海軍最後の大作戦たる1944年10月の「捷号作戦」を実行する前に連合艦隊の燃料は尽きていたかもしれない。
そして本土決戦の準備も滞っただろう。史実では終戦時でも本土決戦の準備は万全とは言えなかった。 それよりも遥かに本土決戦の準備は滞っていただろう。
下手をすると1944年の終わりには日本は降伏する事になっていたかもしれない。
マッカーサー将軍がフィリピン攻略に拘り、アメリカ本国も日本本土爆撃に拘ったからこそ1945年8月の終戦となったと言えるかもしれない。
まぁ何にせよ今回の歴史でも南西太平洋方面連合軍最高司令官がマッカーサー将軍で良かった。
これは侮って言っているのではない。
油断してもいない。
慢心してもいない。
ただ事実を客観的に見て言っているのだ。
それが自分にとっての事実だ。
そんなマッカーサー将軍の話はともかく、喫緊の問題はポートモレスビーだ。
大本営で陸軍も一枚噛んでる「ポートモレスビー攻略作戦」だ。
中止に何てできないし自分にその権限も無い。
もはや願うのは「ポートモレスビー攻略作戦」が小さく失敗する事だ。
虫の良い考えで言うとできるだけ味方の損害が出ないでくれると嬉しい。
「連合艦隊司令長官」が味方の作戦の失敗を願うというのも可笑しいというか酷い話しなわけだが、実際、成功した後の見込みが難しい。
取り敢えず理想は「南海支隊」のココダ街道沿いの進攻は頓挫。ただしオーエンスタンレー山脈で防衛線を維持。
ニューギニア北東部では東端のラビの攻略に成功。
それに続く海上からのポートモレスビー付近への上陸作戦は失敗。
そしてニューギニア北東部沿岸の東から、ラビ、ブナ、ラエとオーエンスタンレー山脈麓のココダの4拠点の飛行場をラバウルの前線航空基地として整備し活用する。
ラビ、ブナ、ラエ、ココダはポートモレスビーからラバウルに来襲する敵機への盾となり、またこちらからポートモレスビーを攻撃する際の矛となる。
と、言った所を落としどころにしたいのだが、果たしてどうなる事やら。
そう言えば福留繁中将は戦後に「ガダルカナル島攻防戦」について、ラバウルを固めて敵に攻撃させて大きく出血を強いるのが上策で、川口支隊の失敗で手を引くのが中策だったという事を言っている。
今回の歴史ではそうした考えをポートモレスビーに当て嵌め実行してくれると有り難いのだが。
何はともあれ今は状況を注意深く見て行くしかないか。
軍務の合間の休憩中、宇垣参謀長と将棋を指した。
史実での山本五十六連合艦隊司令長官はあまり宇垣参謀長を重用せず、司令部内で宇垣参謀長は浮き上がった存在となっていたそうだ。
宇垣参謀長は根っからの「大艦巨砲主義」なため「航空主兵主義」の山本五十六連合艦隊司令長官に忌避されたという話もある。
まぁ考えの違いはよくある事だ。
考えが違うからといって仲間外れにするというのは自分の流儀ではない。
だから今回の歴史では、自分はそういう仲間外れのように宇垣参謀長を疎外する事はしていない。
仲良き事は美しきかな、だ。
そんなわけで宇垣参謀長とも将棋をパッチン、パッチン指している。
しかし、何だね。現代日本で暮らしていた頃、自分も将棋が結構好きだったわけで、そこは史実の山本五十六連合艦隊司令長官と同じなわけだ。
自分の将棋の腕は「下手の横好き」だったが、山本五十六連合艦隊司令長官は上手かったらしい。
その山本五十六連合艦隊司令長官に憑依だか何だかした影響だろうか、今の自分は現代日本で暮らしていた頃より確実に将棋の腕がいい。
ちょっと嬉しい。ふっふっふっ。
それはともかく、この時、周辺にいた幕僚達の間でチョコレートの話題が出ていた。
その話を持ち出したのは「ハワイ攻略作戦」の打ち合わせの件で3日前に海軍軍令部に行って、昨日帰って来たばかりの渡辺参謀のようだ。
将棋に意識を向けていたので、最初の方の話は聞きそびれてしまったが、どうやら陸軍がチョコレートの製造のために、お菓子メーカーの「森◯製菓」に「蘭印」のジャワに技術者を派遣させる計画があるらしいという話をどこからか耳に入れて来たようだ。「蘭印」は原料のカカオがとれるからね。
史実では陸軍の要請で「森◯製菓」は1942年10月に「蘭印」のジャワに社員を送り込んだ筈だ。
それにしても、よくそんな陸軍の話を聞き込んで来たな。驚いた。
それにしてもチョコレートか。
興奮作用があるから長距離飛行をするパイロットの眠気防止に役立つので海軍でも重宝してる。
まぁそれはともかくチョコレートにしろ何にしろ南方から原料を仕入れる話を聞くと、第22代連合艦隊司令長官だった高橋三吉大将が海軍大学校長だった頃に唱えた「南進論」を思い出す。
ちなみに自分は第26代連合艦隊司令長官だ。
高橋三吉大将は、日本にとって必要なのは未開発な広大な土地と豊富な資源を有する南方であり、また、アジアの盟主たる日本は南方の諸民族を悲惨な境遇から解放し救済する責任があると主張した。
そして南方の諸民族は原料を売り、日本は製品を売る互いに支え助け合う関係がアジア発展の絶対条件だと説いた。
謂わば「日本アジア盟主論」と「南方資源開発論」を統合した「南進論」だ。
日本がこの戦争に勝利し平和が訪れればそうした関係になっていくだろう。
だが現在は大本営政府連絡会議で決まっている「南方占領地行政実施要領」により南方を統治しなければならない。
この「南方占領地行政実施要領」の内容を簡単に要約すると次のようになる。
一、暫くは軍政を実施し治安を回復させる。
二、日本に必要な資源を速やかに確保する。
三、現地作戦軍は自給自足する。
四、現地作戦軍の自給自足のため、現地住民の生活に影響が出ようともこれは耐えさせる。
五、現地住民に日本に対する敬意を植え付ける。
六、現地住民による独立、建国はできるだけ遅らせる。
まぁ完全に日本の国益のために南方を利用しようという意思が露になっているわけだが、それも今は致し方ないだろう。
日本は南方諸民族のためにアメリカと開戦したわけではない。
日本が生き残るために戦争を起こしたのだ。
まずは日本が戦争に勝利する事だ。
そのためには南方の資源を用いるしか道は無い。日本の軍需生産に南方の資源は必要不可欠なのだ。
そして、戦争に勝利した後ならば南方諸民族の政治的要望を汲み取る事もできるだろう。
史実における戦後、日本軍が南方において行った占領政策について色々な意見が出ている。
特にインドネシアについては日本軍のおかげで独立できたという声が少なからずある。
インドネシアの軍政を担当した第16軍で参謀長だった岡崎清三郎中将はその著書「天国から地獄へ」の中で「(日本の犠牲なくしてこの解放は絶対に有り得る筈もない)」と書いている。
しかし同じ第16軍の参謀だった町田啓二大佐はその著書「戦う文化部隊」の中で「(インドネシアの独立は日本が教えたものだとは絶対に言わない)」「(インドネシアは自らの手で独立を勝ち取った)」と書き記している。
同じ第16軍司令部にいた者同士が正反対の見解を持っているのだ。
実に複雑だ。
現代におけるインドネシアの高校の歴史教科書を読むと、良い面もあり悪い面もあると教えているのがわかる。
日本が行ったインドネシアの占領は他の帝国主義の国々が行った事と大差なかったとしている。
日本は常に日本の文化を押し付けようとしており、その一つは太陽が昇る方向を敬う習慣であり、それは天皇が太陽神の子孫だからだったとしている。
日本が敵と戦うためにインドネシア人の活動は振り向けられたので苦しみは増すばかりだったとしている。
教育面では大きな進展があり広く教育が普及されインドネシア語が使われるようになったとしている。
何事にも良い面があれば悪い面もある。
インドネシア独立のために戦ったインドネシア人の中には、日本の行った悪行を語れば辞書になるくらい厚くなるが、その逆に善行を語ればこれも辞書のように厚くなると言う人もいる。
それが真実だろう。
史実におけるインドネシアの独立戦争については、旧日本軍の将兵が参加し独立に力を貸した事が美談として語られている。
だが、その一方で、あまり日本で語られない終戦時のインドネシア人対日本軍の戦いがあった事も忘れてはならないだろう。
日本が連合軍に降伏した後、インドネシア各地に散らばる日本軍には、武装解除をしにくる連合軍以外に武器を渡してはならないと司令部が命令した。
この時、ジャワ島のスマランに駐屯していた日本軍に、独立を望むインドネシア人達が武器の引き渡しを求めて来たが、日本軍の指揮官は司令部の命令に従いこれを拒否した。
そして戦闘になる。
五日間に渡る戦闘で一般市民も巻き込んだ戦死者はインドネシア人だけでも二千人を超えた。
終戦後の戦闘だ。それもインドネシア人と戦ったのだ。
現代のスマランには、この日本軍と戦った事を記す記念碑が今も建っている。
独立に貢献したばかりではなかったのだ。それもまた歴史の一部だ。
日本によるインドネシアの支配はオランダ以上の圧制だったというインドネシア人もいる。
実際、史実では1943年にインドネシアのシンダンとスカマナで日本軍に対する反乱が起きている。
1944年にはアチェで反乱が起こり、1945年にはブリタールで反乱が起こっている。
今回の歴史ではこのような反乱が起きなければいいのだが。
できれば自分が責任者となって可能な限り「蘭印」に善政を敷き、インドネシアの人々と上手くやりたいものだが、そうもいかない。連合艦隊司令長官という立場からは職務違いで何もできない。
残念だ。
南方は資源の宝庫だが、人的資源の宝庫でもある。
開戦1年前の1940年における「蘭印」の人口は約7千万人にもなる。
これは当時の日本の内地の人口約7300万人に近い数字だ。
ちなみに「英領マレーシア」の人口が約500万人。「米領フィリピン」が約1600万人であり、「蘭印」の人口と合わせると、この3地域の合計は9100万人にもなる。
日本の内地、朝鮮、台湾等の「大日本帝国」の領土における人口が約1億500万人であり、満州の人口4300万人を加えると約1億4800万人だった。
これに南方の9100万人が加われば大きな力となったであろうし、日本にとっても「良い市場」になっただろう。
そう南方は「良い市場」になっただろう。
戦前における日本の南方貿易を見た場合、「南方の諸民族は原料を売り、日本は製品を売る」では無く、「南方の原料を西欧人が売り、日本は製品を売る」という構造になっていた。
まぁ南方が欧米の植民地になっているのだから当然ではある。
日本にとり南方の最重要な地域「蘭印」でも当然そうした貿易になっている。
その「蘭印」への日本の輸出は第一次世界大戦から急増している。
第一次世界大戦が勃発するとUボートの跳梁などにより「蘭印」とヨーロッパの交易は速やかにはいかなくなった。
当然の事ながらヨーロッパから物が入らなくなった。
そこに進出し色々と物を売り始めたのが日本だ。
第一次世界大戦前における日本の貿易輸出額に占める「蘭印」の割合は1%にもならなかった。
しかし、第一次世界大戦中の1918年には3.5%以上にもなっている。
つまり「蘭印」への輸出が3倍以上になったわけだ。
以後、日本から「蘭印」の輸出は減少する年もあるが基本的には増加傾向にあった。
そして1933年には8%以上となっている。
同じ1933年における日本の貿易輸出額に占めるヨーロッパ全体の割合が約9%であるから、いかに「蘭印」への輸出が増加し重要になってきているかわかろうというものだ。
「蘭印」の側から言えば、輸入の約3割が日本からとなっていた。
高いオランダ製品よりも安い日本製品を望む人々も多かった。
ただし、こうした「蘭印」への日本製品の輸出増加はここで歯止めをかけられる。
貿易摩擦問題が生じたのだ。
「蘭印植民地政府」がオランダ企業保護のため日本製品の輸入に規制をかけたのだ。
何せこの時期は世界大恐慌の時代でもある。
自国のオランダ企業の製品保護のために日本製品の流入に待ったをかけるのも仕方のない事ではある。
1934年に「蘭印植民地政府」と「日本政府」の間で貿易交渉が持たれたが、規制の対象とされた物は56種類にも上る。
それだけ色々な物を日本が「蘭印」に輸出していたわけだ。
そして物によっては「蘭印」への輸入に占める日本製品の割合が非常に高い物が幾つもある。
例えば綿製品。「蘭印」に輸入される綿製品の80%が日本製だ。
他にも陶磁器の85%が日本製。ガラス器が87%。琺瑯鉄器が78%。ゴム靴が78%。自転車が70%。石油ランプが86%等々だ。
そこまで割合が高くなくてもビールは61%、金物などは34%、電球は25%を占めていた。
石鹸なども日本は「蘭印」に輸出しており、これは12%だった。
日本は「蘭印」を軽工業製品のよい輸出先としていたのだ。
「蘭印植民地政府」と「日本政府」の間で持たれた貿易交渉は、結局、日本が輸出を減らす事で纏まる。1933年の数値を目安にして20%減という事で決まった。
そのため1935年の日本の貿易輸出額に占める「蘭印」の割合は1933年の8%から6%以下に減少を余儀なくされている。
この1935年の貿易輸出額は減りはしたが、それでも日本にとって「蘭印」との貿易は黒字だった。「蘭印」への輸出額から、「蘭印」からの輸入額を差し引いた金額は約6400万円の黒字だ。
6400万円というと現代日本の金銭感覚から言えばそれぐらいの資産を持っている個人は珍しくもないが、当時は日本の国家予算が約22億円という時代だからかなりの金額だ。
1940年にはこの黒字は減少するもののそれでも約4800万円の黒字となっている。
防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第91巻「大本営海軍部・連合艦隊1・開戦まで」に、日米関係が悪化し対日経済制裁に向けて動き出していたアメリカ国務省極東局の報告書についての記述がある。
そこには「(蘭印は日本商品の重要な市場であり、かつ重要原料、特に石油、錫、ゴムの最も重要な供給地である)」と、あるが頷ける分析だ。
今回の歴史で日本が勝利し平和が訪れれば「蘭印」との貿易構造は戦前とは大きく変化するだろう。
既に大東亜共栄圏という日本を中心とする経済ブロックに「蘭印」は組み込まれた。
日本からの輸出で言えば、戦前に「蘭印植民地政府」が行った規制が無くなる。
高い関税も無くなる。
日本は規制や関税に苦しめられる事なく軽工業製品の輸出を行える。
しかも戦前とは逆に今度は日本が「蘭印」への輸入について他国に対し規制や関税をかけ、他国の製品の流入を阻害し日本の製品を有利にする事ができる。
日本への輸入で言えば、これまで西欧企業から「蘭印」の資源、石油や鉱物資源を購入していたものが、日本が「蘭印」を直接支配する事によって西欧企業から買う必要が無くなった。
つまり高いお金を払わなくても資源が入手できるようになった。
これは大きい。
この点でもう一つ重要であり留意する点は史実における日本の戦後の経済復興だ。
日本は日中戦争以降、戦争での必要性から重化学工業の分野で設備投資を大幅に増加させた。
日本における戦前の銑鉄生産能力は約300万トンだった。
これが戦中には最高で約600万トンになった。
空襲などの影響もあり生産能力は低下したが、それでも敗戦時には約560万トンあった。
工作機械生産能力は戦前は2万2千台だった。
これが戦中には最高で約6万台になった。
空襲などの影響もあり生産能力は低下したが、それでも敗戦時には約5万4千台分あった。
他にもあるが、敗戦時にこうした重化学工業の分野における設備が少なからず残存していた事が日本の経済復興に一役買い、後に重化学工業が経済の中心になっていく一因にもなったのだ。
今回の歴史でも史実通り重化学工業の分野に設備投資が進んでいる筈だ。
そして重化学工業の分野に欠かせない資源に「蘭印」は恵まれている。
日本は戦前に発展させて来た軽工業の分野だけでなく、重化学工業の分野でも史実同様に発展が見込めるだろう。
そして輸出だ。石油を始めとする重要な資源を他国に輸出できる。
戦前に西欧の企業が「蘭印」の資源を他国に輸出して利益を得ていた事を、今度は日本が代わりにできるようになるだろう。
今回の歴史で日独伊三国同盟の枢軸陣営が第二次世界大戦を勝ち抜くとして、ゴムや錫などはドイツやイタリアへのよい輸出品となる筈だ。
ドイツからはその優れた工業の機械や設備を輸入したいので、日独貿易は極めて活発化するのではないだろうか。
枢軸陣営以外の中立陣営にも南方の資源は輸出できるだろうし、戦争が終わったなら連合国陣営の国々にも輸出はできるようになるだろう。
戦争をしたからと言って以後は完全に貿易を行わないという事になるわけでもない。そうした貿易を行わなくなった例もあるが、貿易を再開させる例も多いのだ。
何れは「蘭印」にも現地住民による独立政府ができるだろう。まぁ日本の傀儡政権だろうが。
そしてその独立政府に油田や鉱山を返還する事にはなるだろうが、その時は日本との合弁事業という形で利権の一部を確保できるのではないだろうか。
こうした事は「蘭印」だけでなく、大東亜共栄圏に参加する事になる他のアジアの国々にも当て嵌める事ができるだろう。
つまり大東亜共栄圏という経済ブロックの中で日本は日本製品を規制や関税に苦しめられる事なく輸出できる。
大東亜共栄圏に流入する他国の製品に規制をかけ日本製品に有利な状況にできる。
大東亜共栄圏内の資源を戦前よりも遥かに安価に入手し利用して重化学工業の分野を発展させ更に輸出できるようになる。
大東亜共栄圏内の資源を他国に輸出できるようになる。
こうした事は日本の経済にとってかなりのプラス効果になるに違いない。
マイナス面も忘れてはいけない。
今回の歴史でも戦後は国内産業の構造が大きく変わる。
史実同様に重化学工業の分野が発展するだろうが、その一方で、やはり国内繊維産業は衰退する事になるだろう。
日本の近代化に大きく貢献したのは繊維産業だ。
最初は絹が後に綿製品が主力となった。
史実において、貿易輸出額に占める繊維製品の割合は日本の工業の発展と共に低下している。
例えば1925年における貿易輸出額の70%を占めていたのは繊維製品だ。機械・金属製品の輸出は5%に過ぎない。
しかし、これが1935年になると繊維製品は51%にまで低下し、機械・金属製品の輸出は15%と3倍に増加している。
これを輸出する繊維製品の内訳で見ると1925年における絹の割合は49%であり、綿製品が27%、その他が24%となる。
しかし、これが1935年になると絹の割合は24%にまで低下し、綿製品が33%、その他が40%となる。
その他というのはパルプから造られるレーヨンや、羊毛だ。
絹の割合が低下したのはアメリカの関係によるところが大きい。
絹の約9割はアメリカに輸出されていた。絹というより正確には生糸だ。
しかし、世界恐慌の発生や満州事変による日米関係の悪化や化学繊維の普及から徐々に絹の輸出に陰りが見え、貿易輸出額に占めるアメリカの割合は低下の一途を辿る。
元々、絹は奢侈品であり市場は限られている。
史実通り、今回の歴史でも日本の絹産業は衰退していくだろう。
絹に代わり輸出の主力となった綿製品の生産にしても国内生産は落ちる筈だ。
綿製品の原料たる綿花を日本は輸入していた。
元々は日本でも綿花の生産はしていたが、コストが高く質が悪いので輸入するようになった。
その綿花の輸入先はアメリカとインドが占める割合が大きかったのだ。
1935年で言えば日本が輸入した綿花の約47%がアメリカからの物だった。そして約42%がインドからの物だった。
1936年で言えば約44%がインドで、約40%がアメリカだ。
こうした原料の輸入先というものは必ずしも恒久的に同じ国というわけでもない。
1911年頃だと日本に輸入される9割以上の綿花が中国からの物だった。
安価で質の良い原料を求め輸入先を変えるという事はよくある話でしかない。
戦前においてアメリカの綿花の価格が上昇して来た事もあり、日本は南米やアフリカから綿花を輸入する事を模索している。
しかし、太平洋戦争が勃発しその構想は流れる。
しかも戦争だから当然、アメリカとインドからの綿花の輸入は途絶した。
その対策として日本が行ったのは中国からの綿花の輸入を増やす事と、南方で現地住民に綿花を生産させる事だった。
それだけでなく繊維産業に紡績機械の南方への輸出を行わせている。
現地で綿製品を作らせるためだ。
つまり南方で綿花を栽培し、工場も造りそこで綿製品を生産させようというわけだ。
このため繊維産業の社員達が南方に派遣され現地住民の指導にあたっている。
現代日本において、企業が工場を人件費の安い東南アジアに作り日本国内での産業の空洞化が懸念された事があったが、正しく戦時中に日本は国策としてそれを行おうとしていたわけだ。
史実では「蘭印」や「フィリピン」で現地住民による綿花の栽培は行われた。
元は欧米向けのコーヒーやお茶、サトウキビを栽培していた農家に綿花や穀類を作らせようとした。
だが、それが軌道に乗る前に戦局は悪化し敗戦となったため、綿花の栽培は廃れる事となった。
ちなみに現代においてインドネシアの低所得層の村々の収入を上げ、その生活を救うプロジェクトとして、改めてNGO団体等が技術支援を行い綿花栽培をしている地域もある。
今回の歴史では上手くいけば、史実の日本の計画通り「蘭印」や「フィリピン」で綿花の栽培が行われ、更に建設された紡績工場で綿製品が生産されるだろう。
ただ、それにより日本の繊維産業は利益を得るだろうが、その分、日本国内での綿製品の生産は落ちる事が予想されるわけで、正しく産業の空洞化という事になりかねない。
日本国内で絹と綿という二大繊維産業は衰退するだろうし、それはマイナス面だ。
しかし、それ以上に他の工業分野が発展する事が予想されるので、産業構造の変化は起こっても日本経済に致命的な事になる事は無いだろう。
前述したように戦前の日本の輸出は1935年の時点で繊維製品が51%を占めた。
それはかなり落ち込むだろう。
だが、これまで南方市場でのシェアを奪えていなかった他の軽工業製品の輸出が大幅に伸びる事が予想される。
そして重化学工業の発展もある。
日本国内の繊維産業は衰退するだろうが、他の工業分野で充分に補って余りある事になり、より日本国内の経済が発展する事が予想される。
そもそも平和な時代でさえ花形産業と呼ばれる主要な産業は変化する。
史実における戦後日本の花形産業を見てみればいい。
石炭・鉄鋼産業から家電産業を経て自動車産業へ。その後は金融産業が来て、更に後にはIT産業が花形産業となった。戦後70年しか経っていないのに、日本国内でもこのように変化している。
世界的に見て、昔はアメリカがその工業力から「世界の工場」と呼ばれた。しかし、その呼び名も日本に奪われる。だが日本もその呼び名を奪われて今や「世界の工場」と呼ばれるのは中国だ。
経済は生き物であり、刻々と変化し続けるものだ。
恒久的にいつまでも同じ経済構造、同じ貿易構造を続ける事が何も正しいという事ではないし、国を繁栄させるというわけでもない。
国際情勢や各国の経済動向により輸出先や輸入先を変え、輸出品や輸入品を変える必要があるのが国際貿易というものだ。
そして、時には自国の主要産業をも変える事が経済を発展させる手段でもある。
「行雲流水」という言葉がある。
流れる雲の如く、流れる水の如く世の中は移ろいやすいという意味だが、経済もまた然り。
国の経済もそんなものだ。
史実でも今回の歴史でも、戦前の日本の貿易構造を語る上で有名なのが「三環節論」と呼ばれる貿易構造論だ。
これは日本の貿易が三つの環節から成り立っていると論じている。
第一環節は日本からアメリカへの絹の輸出。日本のアメリカからの綿花の輸入。
第二環節は日本からイギリス及びイギリス植民地への綿製品の輸出。日本のイギリス植民地からの資源の輸入。
第三環節は日本から中国への機械製品や雑貨製品の輸出。日本の中国からの食糧や原料の輸入。
ただし、必ずしもこの「三環節論」が正しいという専門家ばかりでなく、問題点を指摘する専門家もいる。
その「三環節論」の問題点は簡単に要約すると次のようになる。
一、欧州諸国との貿易関係が抜け落ちている。
二、イギリス植民地以外の東南アジア諸国との貿易関係が抜け落ちている。
三、歴史的に見れば「三環節論」での貿易の起点はアメリカへの絹の輸出と言えるかもしれないが、貿易上の起点とは言えない。
四、1930年代に日本は重工業化が進んでおり、1930年代後半におけるアメリカからの輸入は綿花よりも石油や鉄に重点が置かれていた。
自分もその「三環節論」の問題点には同感だ。
戦前の貿易構造でよく言われる事が日本はアメリカに絹を輸出し、またアメリカより綿花を輸入しており、それが貿易の大きな割合を占めるという事だ。「三環節論」の第一環節の部分だ。この関係を無くしては日本の国際貿易は成り立たないとする説もある。
確かに一理ある部分もある。
アメリカとの貿易額は国別で見ると日本にとって長期間一位を占める。
ただし、貿易輸出額全体から言えば、必ずしも日本にとって常にアメリカへの輸出額が大半を占めていたというわけではない。
第一次世界大戦終了後から日中戦争開始前までの期間における日本の貿易輸出額を見てみればそれはわかる。
第一次世界大戦が終わった翌年1919年における貿易輸出額に占める対アメリカ輸出の割合は約40%だった。
1922年には対アメリカ輸出は約45%となり最高数値を記録する。
以後も1929年までは40%代だった。
しかし、前にも述べたが世界恐慌の発生や満州事変による日米関係の悪化や化学繊維の普及から徐々にアメリカへの輸出の割合は低下の一途を辿る。
日中戦争開始前の1936年における貿易輸出額におけるアメリカの占める割合は約22%であり、最盛期の半分以下という状況だった。
逆に言えば貿易輸出額の約78%がアメリカ以外で稼がれていたという事になる。
ではアメリカ以外のどこで稼がれていたかを地域別に見てみれば約51%がアジアだ。ヨーロッパが約12%。アフリカが7%だ。
ちなみに第一次世界大戦後の1922年だと貿易輸出額に占めるアジアの割合は約41%。アフリカは1%もなく、ヨーロッパは約9%だ。
つまり日本はアメリカへの貿易依存度を低下させ、貿易の多角化を図っていたのだ。
ただし、日本のアジアにおける貿易輸出額の増大は満州という要素も見逃せない。
「満州帝国」の成立。そして満州の開発と発展によって日本から満州への輸出も飛躍的に伸びる。
1934年だと日本の貿易輸出額における満州の占める割合は約5%だが、1938年になると約12%にもなっている。1939年には約15%だ。
その1939年には日本の貿易輸出額における占めるアジアの割合は約65%にもなっている。アメリカは約18%だ。
すなわち戦前から既に「三環節論」の第一の環節はその存在意義を大きく減じていたのだ。
今回の歴史で日本が勝利した後は恐らくアメリカとの貿易は更に減るだろう。
だが新たな日本の経済構造と貿易構造はそれを容認できる事だろう。
ここで史実における戦時中のインフレにも触れておこう。
どこの国でも大抵は戦争となればインフレになる。
第二次世界大戦で戦勝国だったアメリカもイギリスもインフレになった。
軍隊に兵士をとられ労働人口が減るし、軍需品の生産優先により民需品の生産が圧迫され物不足に陥りやすいから仕方がない。
史実において日本も日本の占領した南方地帯も太平洋戦争後半には酷いインフレに見舞われた。
特に南方地帯は「ハイパーインフレ」となった。
文献により数字が違ったりするので困るが、取り敢えず経済関連の書籍「大東亜共栄圏経済史研究」には1941年12月の開戦時における物価指数を100とした場合の以後の数値が載っている。
それによると、1944年12月の時点で東京が126。上海が5700。フィリピンの首都マニラが1万4285。シンガポールが1万766。ボルネオ島のクチンが827。バダビア(現代でのインドネシアの首都ジャカルタの旧名)が1279。スマトラ島のメダンが1698となっている。
終戦時にはこの数値はもっと悪化する。
何故「ハイパーインフレ」になったかと言えば、その要因は大きく分けて四つある。
一、アメリカ軍に海上交通路を攻撃された事で物流が阻害され物不足に陥った。
二、南方地帯の日本軍が物資の大量購入を行い物不足を悪化させた。
三、日本軍が南方地帯で貨幣代わりの「軍票」を財源の裏付けも無しに大量に使用した。
四、日本軍が連合軍との戦闘で負けて行き、それが南方の人々の知る所となり日本軍の発行した「軍票」への信用度が大幅に低下した。
今回の歴史では恐らくここまで酷い「ハイパーインフレ」は起きないのではないかと思う。
何故なら、まずアメリカ軍に海上交通路を遮断させる気は毛頭無いので、物流の阻害と物不足は史実よりは状況が良くなるだろう。
次に日本軍による南方での物資購入はあるが、史実のような戦局が悪化した大戦後半にアメリカ軍の来襲に備える為に急遽、現地で大量の資材と物資を買い付けるというような事は起きないだろう。そこまで戦局を悪化させ追い詰められるつもりは毛頭無いからだ。
「軍票」についても同様で物資や資材の買い付けが史実より抑えられるなら、当然「軍票」の使用も抑えられるだろう。更に「軍票」については恐らく、財源の裏付けも為されるだろう。
そして最後に「軍票」の信用度が史実程には落ちないだろうからだ。
結局、「ハイパーインフレ」が起きる一因は通貨や国債の信用が失われる事だ。つまり国の信用そのものが落ちる事が原因だとも言える。
史実では日本軍がどこかの戦場で連合軍に負けたという情報が入るたびに「軍票」の信用度は低下し南方のインフレが進んだという事実がある。
しかし、今回の戦争では局地的には負ける事はあっても最終的には勝つつもりでいるし、敗勢に追い込まれる気も無い。そういう面からの「軍票」の信用度は史実より下がらず、その分インフレの進行についても抑えられるだろう。
だが、もしあまりにもインフレが進むようだったら史実のドイツの例に倣うという手もある。
第一次世界大戦後にドイツは「ハイパーインフレ」に見舞われた。
それを終息させたのは「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれるレンテンマルク紙幣の発行だ。
レンテンマルク紙幣はドイツの土地を担保にして発行された。これが「ハイパーインフレ」を終息させる。
土地という担保が裏付けとなり信用となって「ハイパーインフレ」を抑えた。
日本もドイツに見習って新たに手に入れた南方の土地や資源を担保にした信用紙幣を新たに発行するのも一つの手だろう。
史実では太平洋戦争後期になると経済界の中には敗戦を避けられないものとして判断し、また進行するインフレに対処するための研究を行っていた人もいた。
その時、研究対象となった実例がドイツでありレンテンマルクだったそうだ。
まぁ前例があるのだからドイツに目を向けるのは当たり前の事ではある。
日本により南方で大量発行された「軍票」と合わせ、日本の戦費を賄うために発行された「戦時国債」の財源の裏付けというのは大きな問題だ。
だが、前述したように南方の資源地帯が手に入ったのだからそれを利用すればいい。
一国の通貨の信用は何かと言うと単純化すれば徴税と国有財産を担保したものと言える。
新たに日本の物となった南方の土地と資源はそれこそ大きな財源の裏付けとなり担保となるだろう。
今回の歴史は日本が枢軸陣営が勝利するだろう。
勝利するに違いない。
勝利するといいな。
日本が勝利した後における戦後の経済構造は、史実と同じ部分では重化学工業が発展し日本の中心産業になっていく事が予想される。南方の資源が安く入手できるのだからかなりの発展が見込めるだろう。
日本国内の繊維産業は衰退するだろうが、その分以上に他の軽工業分野が発展するだろう。
だから衰退する産業の労働人口の受け皿も充分にある。
さらには南方の資源輸出による利益も見込める。
こうした事から戦時国債やインフレの問題も深刻化する事はないだろう。
つまり日本の経済の将来は明るい方向に向かう可能性が高いと言えるわけだ。
勿論、この予想が外れる可能性もあるが、その時はその都度、政府が対策をとるだろう。
昔の人は良い事を言った。「案ずるより産むが易し」だ。
心配してたら案外うまく行ったなんて事はよくあるものだ。
自分の予想以上に経済が発展するという可能性もあるのだ。
そもそも悲観論なんてものは抜け毛を促進するだけだ。
問題が発生したらその都度一つ一つ解決していけばよいのだ。
そんなわけで自分は日本の戦後に明るい未来を見ているわけだ。
平和となりインドネシアが独立して日本との貿易も盛んな時代が到来した時、高橋三吉大将と会ったら、「大将の南進論が遂に実現しましたね」と語り合う事でもしようかと思う。
ところで今回の歴史における世界大戦で枢軸陣営が勝利し平和が訪れた時、経済的に一つ嬉しい事がある。
それは日本とドイツの貿易ができる事だ。
今は「遣独潜水艦」という潜水艦を派遣する程度の事しかできないが、平和が訪れれば商船や客船もドイツに航行できる。
つまり、何れはドイツの兵器も輸入できるだろう。
できればいいな。
できてほしい。
そしてできたなら是非とも「タイガーⅠ戦車」を輸入したい。それも海軍に!
いやね。わかってますよ。
88ミリ砲搭載の重戦車なんて兵器は陸軍の管轄だって事は。
でもね。
どうせこの時代に生きたのなら一度は乗ってみたいじゃないですか「タイガーⅠ戦車」に!
それが男のロマンってもんじゃないですくぅわぁ!
史実では陸軍が戦時中に「タイガーⅠ戦車」を1両購入してるんですよ。
1943年7月に製造された製造番号250455の「タイガーⅠ戦車」を購入しちゃってるのですよ。
しかし、悪化する戦局に日本に運ぶ事は叶わずドイツ軍に接収されて使用されて失われるのですよ。
きっと今回の歴史でも「タイガーⅠ戦車」を1両購入する事になるんじゃないかと。
そして無事に日本に運ばれるんじゃないかと思うのです。
しかし、それを入手するのは陸軍なのですよ。陸軍なのですよ。
「連合艦隊司令長官」ともあろうものが、まさか陸軍さんにドイツの戦車に乗せてくれとは立場的に言えませんがな。
そこでなのです。
海軍には「特別陸戦隊」という陸戦部隊があるわけです。しかも「九五式軽戦車」を使用しているわけなのです。
戦車を配備し使用しているのが日本海軍なのです。
戦車を配備し使用しているのが日本海軍なのです。
戦車を配備し使用しているのが日本海軍なのです。
とても大事な事だから3回言いました。
で、ありますからですね、ここは一つ「特別陸戦隊」の研究用としてですね、重戦車の活用及び対重戦車戦術の研究用としてですね、「タイガーⅠ戦車」を海軍に輸入できたらよろしいのではないかと愚考するのでありますよ。
そもそもですよ。前に述べましたが陸軍も戦う船を購入してるのです。
陸軍さんだってイギリスから魚雷艇を購入しているのです。
陸軍さんだってイギリスから魚雷艇を購入しているのです。
陸軍さんだってイギリスから魚雷艇を購入しているのです。
とても大事な事だから3回言いました。
そのイギリスの魚雷艇を研究して陸軍は「高速艇甲」を建造してるわけですよ。
それなら海軍だって他国から戦車を購入して何が悪いというのですくぅわぁ!
そして「タイガーⅠ戦車」は1両とは言わず3両ぐらい欲しいですな。
支払いはドイツの欲しがるゴムや錫の現物払いでも宜しいのでは。
「タイガーⅠ戦車」を3両ぐらい輸入したらですな、これはもう「海軍特別独立重戦車小隊」という部隊でも編成してですね、こう運用したらよろしいのではないかと。
いやぁ胸が躍りますなぁ。
日本海軍が運用する「タイガーⅠ戦車」部隊!
日本海軍が運用する重戦車部隊!
その名も「海軍特別独立重戦車小隊」! 素晴らしい!
ついでに「4号戦車」も欲しいなぁ。
長砲身型ならG型でもH型でもJ型でもいいから。ただしサイドスカート付きで!
サイドスカート付きの4号戦車は芸術品なのですよ。芸術品なのですよ。
いっその事G型、H型、J型を各1両づつ輸入して「海軍特別独立戦車小隊」とするのもいいですなぁ。
それから突撃砲も欲しいなぁ。
「3号突撃砲G型」のサイドスカート付きを3両くらい輸入して「海軍特別独立突撃砲小隊」とするのもいいですなぁ。
駆逐戦車も欲しいなぁ。
「ヘッツァー」を是非3両ほど! それで「海軍特別独立駆逐戦車小隊」を編成するのもいいですなぁ。
まぁ本当は「キングタイガー」とか「パンター」とか「ヤークトパンター」なんかも欲しいのですが、流石にそれはドイツも売ってくれないでしょうしねぇ。
まぁ正直、史実で日本が「タイガーⅠ戦車」を買えただけでも驚きですからねぇ。
「4号戦車」なら史実でもスペインやトルコに輸出されてましたから、まぁドイツも日本に「4号戦車」以下の物なら売ってくれるとは思うのですよ。
おぉそうだ。ついでにハーフトラックなんかも買ったりなんかして。
これはもう、全部まとめて「海軍特別機甲部隊」を編成するしかありませんなぁ。
いいですなぁ海軍の持つ機甲部隊!
歴史上では海軍が戦車部隊を持つという事は珍しくないわけなのです。
例えば冷戦の1980年代。
各国は軍備に力を入れていたわけです。
その中で東側のソ連などは海軍に「海軍歩兵部隊」があったわけです。
所謂アメリカの海兵隊と同じものですが、アメリカの場合、海兵隊は陸軍、海軍、空軍と同列で独立した軍種なわけです。
ソ連の「海軍歩兵部隊」はアメリカの海兵隊とは違い完全に海軍組織の一部隊なわけです。
その「海軍歩兵部隊」の1個師団をソ連は極東に配備していましたが、その師団の編成の中には1個「戦車連隊」が含まれており「T54戦車」と「T55戦車」を装備していたのですよ。
あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
第二次世界大戦後において戦車の中で一番生産されたという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
第二次世界大戦後において最も配備・運用した国が多いという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
第二次世界大戦後に発生した戦争に一番参加したという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
第二次世界大戦後に出現した戦車の中で他国に最もコピー生産されたという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
第二次世界大戦後に出現した戦車の中で最も改良型の数が多いという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
20XX年になってもまだ現役で運用している国が二桁を超えるという、あの「T54戦車」と「T55戦車」ですよ。
あの素晴らしい主力戦車である「T54戦車」と「T55戦車」をソ連の「海軍歩兵部隊」は装備していたのですよ! 80年代では旧式になってましたが、それでも区分は主力戦車なのです。
西側でもスペインなどはやはり海軍内の一組織に海兵隊があり6個連隊8500人で編成されていたわけですが、アメリカ製のM48E戦車を18両装備していたのですよ。これも80年代の話ですがね。
それを鑑みれば帝国海軍が戦車部隊を持って何が悪い! ってなもんです。
ちょっと時代を先取りしてるだけです。
「海軍特別機甲部隊」を是非とも編成しなくては。
決めた。決めたぞぉ!
この戦争が終わったら自分は年齢からいっても確実に退役。
その退役前の一仕事。最後のお仕事として、是非ともドイツから戦車を輸入し「海軍特別機甲部隊」を編成してみせる!
職務違い、管轄違いは覚悟の上だ。
無理やり、横やり、入れ捲り、断固貫徹!
第26代連合艦隊司令長官の最後の仕事として、最後の我儘として何としてでも達成してみせる!
ウワッハハハハハハハハハハハハハハハ!
あっついでにイタリアからも戦車を輸入しよう。
一応イタリアも同盟国だからね。少しは儲けさせてあげないと。
ドイツからばかり買っているとムッソリーニ総統が拗ねたり臍を曲げるかもしれない。
まぁ戦後にイタリアから輸入するとなると、やはり第一候補はムッソリーニ総統が直接開発命令を出したイタリア初の重戦車、75ミリ砲搭載の「カルロ・アルマートP26/40重戦車」になるんだろうけど、それでは当たり前過ぎて面白くない。
ここは一つ史実で150両が発注されながらも試作車すら完成しなかったという「カルロ・アルマートP43重戦車」と、その派生型の「カルロ・アルマートP43bis重戦車」を購入するのもいいんではないかなと。
きっと今回の歴史では日本とドイツの「おまけ」で「棚から牡丹餅」で『イタリアも勝者』になるだろうし、「カルロ・アルマートP43重戦車」と「カルロ・アルマートP43bis重戦車」も完成するだろう。
それを購入してみよう。
それから「カルロ・アルマート・セレラサハリアーノ中戦車」もって、長い! 名前が長いよ! この戦車。
もしかして歴史上、最も長い名前の戦車なんじゃないの。
全く困ったものだよイタリアは。名前が長けりゃ良いってもんでもないだろうに。
こうなったら名前の長さが性能の良さを保証するわけではない事を自分が証明してやろう! って証明したらまずいのか。
ともかく、この長い名前の「カルロ・アルマート・セレラサハリアーノ中戦車」はイギリスのクルセイダー戦車のコピー版とも言うべき戦車で最初から砂漠での戦闘を考慮して開発されたらしい。75ミリ砲搭載との事。
1943年には試作車が完成したようだけど、連合軍に北アフリカから追い出されてしまったイタリア軍にはもはや不必要とキャンセルされてしまったそうだ。
だけど今回の歴史ではきっと生産されるだろう。
この長い名前の戦車も購入しよう。
いや、ほら何か「砂漠戦専用」っていうところがですね。何かこう魅かれるものがあるのですよ。
兵器における「◯◯専用」って何かロマンを感じるのですよ!
兵器にロマンを求めず何を求めろと!
あっ性能か。
まぁ現時点で実戦で性能が証明されたわけでもないので、購入するにはリスクはありますよ。
でも、イタリアの戦車なんてどれもこれも元々そんなものでしょう。
何であれイタリアとのお付き合いはリスクがあって至極当然なのですよ。
それがイタリアなのですよ。
イタリアとのお付き合いにはリスクがあるものなのです。
イタリアとのお付き合いにはリスクがあるものなのです。
イタリアとのお付き合いにはリスクがあるものなのです。
とても大事な事だから3回言いました。
でも大事な同盟国なのです。時々忘れちゃうけど。
共に戦う同盟軍なのです。いない方がいい時もあるけど。
枢軸陣営三強の一角なのです。信じられないけど。
その大事な大事なお味方のイタリアだからある程度の損は許容しなきゃね。
交際費と思って割り切りましょう。
人間諦めが肝心なのですよ。
特に相手があのイタリアならば尚更なのです。
正直、イタリアの戦車を購入するのに日本の国民の皆様の血税を使うというのなら二の足を踏むけど、南方資源のゴムや錫で代金が充当されるのなら、まぁいいんでないかな。
まっイタリア戦車は色物担当という事で、本命はドイツの戦車という事で一つよろしくなのですよ。
あぁ、それにしても目を瞑れば瞼に浮かぶ
帝国海軍の「タイガーⅠ戦車」の88ミリ砲が火を吹き、「4号戦車」が敵陣地を蹂躙し、「3号突撃砲G型」が突撃していくその姿が。見える! 自分にははっきり見えるぞ!
白昼夢だけどはっきりと見えるぞぉ!!!
ハァッハァッハァッ。いかん。興奮し過ぎた。
何か「連合艦隊司令長官」なのに戦車について長々と話してたけど、まぁ脇道にそれるのはいつも事だから、まっいいか。
それにしても何でこんな話に。
あぁそうか、始めはチョコレートの話だったのか。
随分と脇道にそれ捲ったなぁ。
まぁチョコレートが日本国内で子供達にも安く買える日が早く来る事を念じて、今日はもう寝ますか。
その前に「羊羹」食べよう。ふっふっふっ。