0017話 牽制(1942年8月20日)
●8月20日早朝、山縣中将指揮する「第4機動部隊」がインド洋上のココス諸島を攻撃し、その周辺の制空権と制海権を掌握した。
「第4機動部隊」初の作戦行動であり実戦だ。
大した被害もなく作戦は成功し制空権と制海権を維持し続けている。めでたい。
元々ココス諸島は距離的に蘭印に近く、敵は大きな航空戦力、海軍戦力を配備していないし、オーストラリア本土からは遠くB17爆撃機でも援護は難しい距離にあるから作戦成功は当然の事と言える。
今の所、ココス諸島を占領する気は無い。
だからココス諸島にいる敵の守備隊に対しては空爆と艦砲射撃を行っただけだ。
制空権、制海権を一時的に握れればいい。
史実では陸海軍共同作戦で1943年6月に「ス号作戦」としてココス諸島を占領する計画も立てられていたが悪化する戦局に中止となっている。
今回の歴史ではどうなるだろうか。少なくとも「ス号作戦」は実行されないような気がする。
「第4機動部隊」のココス諸島攻撃に合わせて、スウェラシ島とティモール島に展開している「高雄航空隊」の陸上攻撃機隊がオーストラリア北西部の敵航空基地を集中的に攻撃した。
この「第4機動部隊」と「高雄航空隊」の攻撃は連合軍の目をインド洋北東部とオーストラリア北西部に向けさせるためのものだ。
「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」のための牽制攻撃だ。
敵航空戦力を少しでもこの方面に引き付け、ラバウル航空隊の航空消耗戦を楽にし、また「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」の援けとなるようにするのが目的だ。
ココス諸島の敵守備隊は攻撃された事を報告するだろうし、沖合に遊弋する2隻の空母についても当然報告するだろう。
これにより連合軍司令部に、オーストラリア北西部の航空基地群が攻撃されている事と合わせて、空母部隊の出現は、日本軍がオーストラリア西部への攻勢を強めるものと誤った判断をさせたい。
そしてオーストラリア西部の防衛戦力を増強させ、その分ポートモレスビー方面の敵戦力の増強を少しでも減少させたい。
その為には更にもう一手。
この日、やはり蘭印に近いインド洋上の既に日本軍の占領下にある「クリスマス島」の沖合に新鋭水上機母艦「秋津洲」が到着した。暫く後には二式大艇2機も到着した。
あの「クリスマス島」にだ。
あの赤い蟹が大量発生する事で有名な「クリスマス島」にだ。
島の内陸に数千万匹も生息すると言われている「クリスマス赤蟹」が、産卵期になると内陸から海岸を目指してワシャワシャと大移動する光景で有名なあの「クリスマス島」にだ。
現代日本で暮らしていた頃、テレビでその光景を見たけれど、あれは凄かった。
あの光景をテレビで見た日の夜は夢にまで大量の「クリスマス赤蟹」が出てきてげっそりした覚えがある。
史実では1943年12月に日本軍は「クリスマス島」から撤退する。
戦局の悪化とともに維持するのが困難になったからだが、本当にそれだけの理由だろうか。
12月は「クリスマス赤蟹」の産卵期だ。
「クリスマス赤蟹」の産卵期の集団大移動と日本軍の撤退時期が重なっているのは偶然なのか。
本当に偶然なのか。
もしや祖国から遠く遠く離れた異郷の地で、とても日本の常識からは考えられない呆れるほどに大量発生してワシャワシャとやって来る「赤い悪魔(クリスマス赤蟹)」の集団に嫌気が差して、つい撤退を決断何て事は……
いや、いや、いや、いや。栄光ある日本軍を疑ってはいけない。たかが赤い蟹に恐れをなす日本軍ではない。断じて無い! 偶然だ。産卵期と撤退の時期が重なったのは偶然に決まっている。
たぶん……
まぁそんな南の島の赤い蟹の話はともかく、「クリスマス島」に派遣した二式大艇の目的はオーストラリア南西部の重要港フリーマントルへの夜間爆撃だ。
フリーマントル港は海上交通路における重要な港であり、日本に対し通商破壊戦を行うアメリカの潜水艦の一大拠点でもある。
史実において開戦時にフィリピンに配置されていたアメリカ海軍の「アジア艦隊」に所属するアメリカ潜水艦部隊は、フィリピンが陥落し蘭印も日本に占領されるとオーストラリア西海岸のフリーマントルに退避した。
そして以後は「フリーマントル潜水艦部隊」として対日作戦を実施する。
一方、ハワイのパールハーバーにいたアメリカの潜水艦は「パールハーバー潜水艦部隊」として対日作戦を実施する。
1942年4月にはオーストラリア東海岸のブリスベーン港にS級潜水艦6隻が配備され「ブリスベーン潜水艦部隊」として対日作戦を開始する。
こうしてアメリカの潜水艦は「フリーマントル潜水艦部隊」「パールハーバー潜水艦部隊」「ブリスベーン潜水艦部隊」の三個の潜水艦部隊に配属され対日戦を戦っていく。
それは今回の歴史でも同様だろう。
フリーマントル港はそうした極めて重要な潜水艦基地であるために、史実では日によっては20隻以上のアメリカの潜水艦が在泊している事もある。
そのフリーマントル港を夜間爆撃により脅かすのだ。
水上機母艦「秋津洲」は二式大艇への補給を担当する。
新鋭の「秋津洲」は8機の飛行艇を2週間作戦させるだけの補給を提供できる。
「クリスマス島」からフリーマントル港までは約2400キロ。往復4800キロだ。
二式大艇の7000キロを超える航続距離ならば充分にフリーマントル港までの往復は可能だろう。
実はジャワ島やバリ島からでも二式大艇ならばフリーマントル港まで往復は可能だ。
バリ島からならフリーマントル港までは直線で2600キロ。往復5200キロだ。
ジャワ島からでも同程度の飛行距離となる。
風向きや風速などの気象条件による燃料消費の増大分を計算に入れたとしても充分に往復可能だろう。
ただし、それはあくまで直線距離で飛んだ場合だ。
バリ島やジャワ島から最短距離を真っ直ぐフリーマントル港まで飛ぶとなるとオーストラリア大陸の位置上、オーストラリア西部の海岸線に近い内陸部を数百キロも飛ぶ事になる。
完全な敵勢力圏内を長々と飛ぶのは危険すぎるだろう。
かといって一旦インド洋の方向へ大きく迂回させるとなると、ただでさえ長距離飛行なのに更に飛行距離が延びる事になる。
だから「クリスマス島」から二式大艇を飛ばす事にした。この島の位置からなら迂回する幅は小さくてすむし飛行距離も少しは短くてすむ。
史実では日本軍はオーストラリア北部及び北西部には度々空襲を行っている。
しかし、流石にオーストラリア南西部という遠距離にあるフリーマントル港までは空襲していない。
史実ではオーストラリア南西部への日本軍の攻撃は、1943年1月21日に「伊165号」潜水艦がポートグレゴリーに砲撃を行った程度だ。
今回の歴史ではもっとオーストラリア南西部を脅かしてやろう。
とは言っても数機の二式大艇でやる事だからその影響は限定的だろうが。
ところで先日の「第二次セイロン島沖海戦」について海軍軍令部内で不満の声があがっているらしい。
「第3機動部隊」には、まだ無傷の重巡洋艦3隻と駆逐艦6隻があったにも関わらずに退いた事を問題にしているようだ。
つまり重巡洋艦と駆逐艦で夜戦を行い敵機動部隊にとどめを刺すべきだったという事らしい。
一理あるがリスクも大きい考えだ。
敵には侮れない数の巡洋艦や駆逐艦がまだ健在だった。
それに傷付いた敵機動部隊の向かった先は恐らくセイロン島だろう。
夜戦で更に敵機動部隊にダメージを与える事ができたとしても、味方の被害が0とは限らないし下手をすると翌朝からセイロン島の敵航空部隊の攻撃を受けるという事にもなりかねない。
深追いは危険だったろう。
そもそも「第3機動部隊」の本来の任務は通商破壊戦だ。下手に夜戦で損害が嵩めば以後、「第3機動部隊」は通商破壊戦を遂行できなくなるかもしれない。
インド洋での通商破壊戦の継続は重要だ。史実と同じになってはいけない。
「山縣中将の判断に満足している」旨の事を参謀を通じて海軍軍令部にそれとなく知らせておいた。
それにしても「判断する」という事は難しいという事を改めて思う。
良かれと思って行った判断が万人から支持を受けるとは限らないのだ。
「判断ミスをした」場合は尚の事だ。
確かにミスをする事は褒められた事ではない。
ミスなんてものは無いにこしたことはない。
しかし昔からよく言われているように「人はミスする生き物」だ。
ミスをしない人間はいない。
ルネッサンス時代のフィレンツェ共和国の外交官であり偉大なる軍事思想家であるマキャベリッツはミスについて次のような言葉を残している。
「誰だって誤りを犯したいと望んで誤りを犯すわけではない」
至言だ。正しく至言だ。
だが、どこの時代にも完璧主義者という者はいるものだ。
どんな些細なミスも許さない。そんな人物もいる。
幾つかのミスや失敗にだけ焦点を当て、それまでの全ての功績までも否定する人物もいる。
現代日本でも太平洋戦争当時の海軍の提督や陸軍の将軍について色々と本が出版されたり批評されていたりする。
自分も先日、石原莞爾将軍について長々と酷評していた。
だが、まぁ人とはそういうもんだろう。
少なからぬ人が歴史上の有名人に対しとやかく言わずにはいられない。
古今東西どこの国でも遥か昔から過去の歴史の人物について人物評みたいな事は行われてきた。
これはもう人の性と言ってもいいのかもしれない。
史実の山本五十六連合艦隊司令長官にしても現代日本では色々と本が出され良く書かれたり悪く書かれたりしている。
今まで書かなかったが、この機会に史実における山本五十六連合艦隊司令長官について少し書いてみよう。
それも現代日本で巷に溢れる山本五十六連合艦隊司令長官が「凡将」だとか「愚将」だという主張に焦点を当ててみたい。
そして史実の山本五十六連合艦隊司令長官を弁護してみよう。
史実の山本五十六連合艦隊司令長官は戦死され何も反論できないのだ。
その代わりに自分が反論し弁護してみようじゃないか。
史実における山本五十六連合艦隊司令長官が「凡将」や「愚将」だと主張する人は、真珠湾攻撃で飛行隊の総隊長だった人物や旧海軍で尉官だった人物など複数いて、そうした人達から何冊もの本が出されその本の中で実に多くの点について批判が書かれている。
それに対し一つ一つ全てに反論していたら、それこそ分厚い1冊の本になってしまうだろう。
それは大変過ぎるので「凡将」や「愚将」と指摘される理由について、史実に基づき特に重要と思われる幾つかの点について時系列順にピックアップして簡単に弁護してみよう。
特に旧海軍で尉官だった生出寿氏の著書を代表的に取り上げてみようと思う。
何せこの作家さんは自分が知っているだけで3冊の山本五十六批判本を世に出している。
まず山本五十六連合艦隊司令長官を批判する著書「凡将 山本五十六」を出した。
次にアメリカ海軍のチェスター・ウィリアム・ニミッツ提督と山本五十六連合艦隊司令長官を比較して如何に山本五十六連合艦隊司令長官が「凡将」だったかという事を主張する著書「ニミッツと山本五十六」を出した。
更に日露戦争の東郷平八郎連合艦隊司令長官と山本五十六連合艦隊司令長官を比較して如何に山本五十六連合艦隊司令長官が「凡将」だったかという事を主張する著書「勝つ司令部 負ける司令部」を世に出している。
しかもその三冊の内容において重複してる部分がかなりある。
何というか実に粘着質というか、それはそれはしつこく多くの点について山本五十六連合艦隊司令長官を槍玉に挙げて批判しているのだ。
何か個人的な恨みでもあるのか? と聞きたくなるような執念深さだ。
もしこの作家さんが今もご存命だったらもっと山本五十六連合艦隊司令長官批判本を出していたかもしれない。
ともかく巷に溢れる山本五十六連合艦隊司令長官を批判する大抵の理由は、この作家さんが書いている一連の著書の内容と重複している部分が多い。
それ故にこの作家さんの山本五十六連合艦隊司令長官批判の一連の著書「凡将 山本五十六」「ニミッツと山本五十六」「勝つ司令部 負ける司令部」は、批判の事例とその理由を取り上げるには丁度よい。
それにこの作家さんは、その山本五十六連合艦隊司令長官を批判する著書の一冊「ニミッツと山本五十六」の後書きに「(峻厳なご批判をお願いしたい)」とも書いている。ただ今では批判があろうともご本人はもう読めないわけだが。
まぁ「峻厳」はともかく山本五十六連合艦隊司令長官を擁護してみようか。
◆1「戦闘機無用論について」
戦前1930年代中頃、海軍航空隊の中で「戦闘機無用論」というものが発生した。
この頃、大型で高速な爆撃機が登場したが、小型で低速の戦闘機はそれに追いつけず、戦闘機は無用という考えが出てくる。
この「戦闘機無用論」を押したのが山本五十六、源田実などであり、戦闘機パイロットの養成人数が減らされ、「ミッドウェー海戦」以後における戦闘機パイロットの不足の原因となり敗戦の要因となったという批判がある。
零戦エースパイロットだった坂井三郎氏は戦後に出したその著書「零戦の真実」の中で戦闘機パイロットの削減は「長期に渡って実施した」とし、1944年以後は戦闘機パイロットの数はいたものの練度は低かったとして山本五十六連合艦隊司令長官を批判している。
だが、それは果たして正しい批判だろうか。
「海軍戦闘機隊史」を始めとして、海軍航空隊の歴史について書かれた多くの書籍では「戦闘機無用論」の興隆により戦闘機パイロットの養成比率は確かに減少したものの「長期に渡って実施した」としているものは殆ど見掛けない。
1935年から戦闘機パイロットの養成比率が減少したが、中国との戦争が開始され、そこで得られた戦訓により「戦闘機無用論」は立ち消えとなったとしている。
そのため戦闘機パイロットの養成が減少したのは2年間にとどまったとする文献もある。中には1936年から戦闘機パイロットが削減されたとする本もある。
「戦闘機無用論」を持ち出して批判論を繰り広げるのは山本五十六批判か源田実批判の本が殆どだ。
現代日本において防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第95巻「海軍航空概史」には「(この論は一般には大した問題とはされなかった。そして支那事変の戦訓、航続力や攻撃力の大きな零戦の出現により、その後、立ち消えとなってしまったのである)」とある。
更に同書での「支那事変の影響」という項目には、「(航空用兵上多数の戦訓を得たが、その最たるものは戦闘機の用法と言える。特に零戦の出現はその有力な火力と長大の航続力から航空撃滅戦における最有力攻撃兵力と認められるようになった)」とある。
それを裏付けるように戦闘機の生産計画は増強されている。
1935年の戦闘機生産計画は85機だった。艦上爆撃機が60機。艦上攻撃機が49機。
1936年の戦闘機生産計画は84機だった。艦上爆撃機が81機。艦上攻撃機が65機。
1937年の戦闘機生産計画は131機だった。艦上爆撃機が57機。艦上攻撃機が71機。
「戦闘機無用論」が長期に渡って実施されたのなら、この日中戦争が発生した年における大幅に増強された戦闘機生産計画は理屈に合わない。日中戦争前は艦上爆撃機と艦上攻撃機を合わせた生産計画数は戦闘機よりも多かったが、日中戦争が始まった1937年にはそれが逆転しているのだ。
日米開戦前のに海軍が保有していた機数はどうだろうか。
戦闘機の保有数は660機だった。
艦上攻撃機、艦上爆撃機は合計330機。
陸上攻撃機、陸上爆撃機は合計240機。
この数からは「戦闘機無用論」で戦闘機が大幅に減少していたとは思えない。
また、別の面から見てみよう。
戦闘機パイロットが足りなかったのなら爆撃機や攻撃機のパイロットは足りていたり余っていたのだろうか。
実は足りてもいなければ余ってもいない。
「ミッドウェー海戦」が起こる直前の1942年5月に空母「隼鷹」が就役するが、この空母に配属された艦上爆撃機隊の搭乗員のうち、何と半数が新人で、しかも空母への離着艦を経験した事もない者達だったという逸話がある。
つまり、戦時中に不足していたのは戦闘機パイロットだけではない。
それも「ミッドウェー海戦」前の時点において既に艦上爆撃機のパイロットが足りていないのだ。
頭数だけを言えば足りている。しかし、空母への離着艦を経験していないのだから完全に訓練不足であり、第一線で戦えるパイロットが充分に足りているとは言えないだろう。
戦闘機パイロットの不足だけを問題にする事は全体が見えていないと言える。
パイロットの不足について海軍省の人事部が作成した「人的戦備より見た戦訓」という文書がある。
その内容を要約して簡単に言うと、日本のパイロット養成は少数精鋭主義であり、戦争により生じたパイロットの大量消耗に耐える事や、新たなパイロットを急速増強する体制を整える事ができなかったというものだ。
この文書内には書かれていないが、その根本的原因は予算不足にある。
だから日本は少数精鋭主義でいかざるを得なかった。
もし予算があれば山本五十六連合艦隊司令長官が戦争前に要望した零戦1000機、一式陸上攻撃機1000機の配備も、もしかしたら通ったかもしれない。
そもそも1935年、1936年の戦闘機パイロット削減を8年も後の1944年のパイロット不足に結び付けるのは無理があるだろう。戦前でさえパイロットの養成過程は1年から2年であり、その後に実戦部隊に所属となって更に腕を研くのだ。
そして1944年よりも前の時点で行われた「ガダルカナル島攻防戦」から始まる一連の航空消耗戦が、日本のパイロット養成に大きな負担と影を落としたのは明らかだ。
「ラバウル航空戦」とも呼ばれた「航空消耗戦」を無視し、戦前の「戦闘機無用論」に、大戦後半の戦闘機パイロットの不足の原因を求める事は、とても妥当な事だとは思えない。
つまり「戦闘機無用論」なんてものを持ち出して山本五十六連合艦隊司令長官や源田実参謀に大戦後半の戦闘機パイロットの不足の責任を負わそうというのは無理があるだろう。
◆2「山本五十六連合艦隊司令長官の開戦の責任と近衛首相との会話について」
日米関係が悪化する一方であった近衛内閣の時代、山本五十六連合艦隊司令長官は近衛首相と面談する機会があり、そこでアメリカと開戦した場合の見込みについて聞かれている。
史実ではこの時、山本五十六連合艦隊司令長官は、要約すると「是非やれと言われれば始めの半年や1年は暴れて見せるが、2年、3年となれば確信は無いので戦争を回避するようお願いしたい」と発言する。
この時の「半年や1年は暴れてみせるが」という発言が日本が開戦する事の後押しとなったとか、戦争を本気で止めたいのなら連合艦隊司令長官の職を辞して戦争開始を阻止するべきだったと「凡将 山本五十六」や「ニミッツと山本五十六」では批判している。
だが「半年や1年は暴れてみせるが」の後に「確信は無いので戦争を回避すようお願いしたい」とはっきり「戦争を回避」と言っているのだから、戦争について山本五十六連合艦隊司令長官がどう考えているかはわかるし、どういう見込みかもわかろうというものだ。
発言の一部分だけを取り出して強調し「開戦の後押し」何て言うのは強引過ぎる解釈だろう。
また「ニミッツと山本五十六」の中では、山本五十六連合艦隊司令長官は海軍次官時代とは反対に対米英戦に最も積極的な加担者の一人になったと批判している。
しかし、それなら何故山本五十六連合艦隊司令長官は近衛首相との会談の時にはっきりと「開戦するべきです」と言っていないのか。「積極的に加担」と言うのなら「戦争回避をお願いしたい」と近衛首相に言う筈ないではないか。
つまりはこの批判も牽強付会に過ぎないと思う。
そもそも日本が開戦を最終決定したのは1941年12月1日の「御前会議」においてでだ。
それも「東条内閣」でであり既に近衛首相の「近衛内閣」の時代ではない。
確かに1941年9月6日に近衛内閣において「帝国国策遂行要領」が決定された。これはアメリカによる全面石油禁輸を受けて、10月までにその問題の解決の目途が立たなければアメリカと開戦するという方針だ。
しかし、これには陛下が反対される。過去に明治天皇が平和を思って歌われた御歌をご披露なされ、平和外交による解決を示唆された。
この後、10月17日に「東条内閣」が成立し陛下から改めて「白紙還元の御諚」が発せられ9月6日の「帝国国策遂行要領」は白紙となる。
しかし、状況は如何ともし難く結局12月1日の「御前会議」で開戦と決定するのだ。
近衛内閣時代における近衛首相と山本五十六連合艦隊司令長官の私的な場での会話を、東条内閣での「開戦決定」に結び付ける事を自分は適切だとは思わない。
一度は白紙になっているのだ。
東条英機首相は山本五十六連合艦隊司令長官に開戦した場合の見込みについて聞いていない。
ましてや開戦を決定した「御前会議」にも山本五十六連合艦隊司令長官は参席していないのだ。
この「御前会議」は首相や閣僚の各大臣が参加している。
軍からは海軍大臣と陸軍大臣という軍政の責任者、海軍軍令部総長と陸軍参謀本部総長という軍令の責任者が出席しているが、単なる実戦部隊の長にしか過ぎない「連合艦隊司令長官」は出席していないのだ。
「連合艦隊司令長官」は海軍では上の方の地位ではある。
しかし日本軍全体の組織から言えばトップでは無い。
海軍組織においてもトップでもなければ、何でも好き勝手に決めれる立場にいるわけでもない。
史実において「真珠湾攻撃作戦」や「ミッドウェー島攻略作戦」を行うにあたって海軍軍令部総長の認可を得なければならず、勝手に作戦を行えなかった事からもそれはわかるだろう。
そんな「御前会議」に参席しないし発言もしない立場の「連合艦隊司令長官」に、「東条内閣」で決定した開戦の後押しだとか責任だのを問うのは強引過ぎるというものだろう。
また、例え山本五十六連合艦隊司令長官が職を辞したとしても開戦は止められなかっただろう。
山本五十六連合艦隊司令長官は若くはない。
同期は殆どが予備役になっている。
連合艦隊将兵の中で日露戦争を体験した軍人は山本五十六連合艦隊司令長官ただ一人という状況だ。
はっきり言って山本五十六連合艦隊司令長官は老将なのだ。正直、何時引退しても予備役になってもおかしくない年齢だ。
そもそも「連合艦隊司令長官」の任期は2年だ。アメリカとの開戦がなければ「連合艦隊司令長官」を勇退し予備役になっていただろう。
そんな山本五十六連合艦隊司令長官がその職を辞したなら、ただ単に別の提督が連合艦隊司令長官となって開戦すると言う事になっただけだろう。所詮は挿げ替えのきく実戦部隊の長に過ぎないのだ。
つまり山本五十六連合艦隊司令長官の発言をもって開戦の後押しだとか、職を辞して開戦を阻止するなどという話は適切さを非常に欠いていると思う。
「凡将 山本五十六」「ニミッツと山本五十六」「勝つ司令部 負ける司令部」では、山本五十六連合艦隊司令長官が郷里の友人にあてた手紙の内容などから郷土の人々に対する面子のために職を辞して開戦を阻止する事はしなかったと批判しているが、これは酷い曲解以外の何物でもないと思う。
山本五十六連合艦隊司令長官が友人にあてた手紙には、確かに開戦になった場合には流石は五十六さんだと言われる事を御覧にいれて見せると書いてはあるが、その一方で、事が無ければ海軍でのご奉公も終わるから世俗を離れて風流に遊ぶとも書いているのだ。それを面子がどうのこうの言うのは、これも強引過ぎる解釈でしかないと思う。
◆3「開戦反対と真珠湾攻撃作戦推進について」
山本五十六連合艦隊司令長官は開戦に反対していた。しかし、その一方で「真珠湾攻撃作戦」の計画を推進していく。
これは矛盾しているではないかとの批判がある。
「勝つ司令部 負ける司令部」では、この矛盾について山本五十六連合艦隊司令長官の事を「ジキルとハイド」のような人間だと言っている。
確かに矛盾している。
しかし、人には地位や立場がある。例え反対や意に沿わぬ事でもやらなければいけない事もある。
組織の中にいればそんな事は珍しくもない。
例えば会社の経営方針や新たな事業方針に反対であっても、それを会社の方針として進めると決まった以上は社員として従わなければならない事もある。
自分の出した企画が採用されず、とても賛同できない同僚の企画が通り、その企画に社員として力を尽くさなくてはならない事もある。
自治会役員になって、賛同もしたくなければ参加もしたくない自治会のイベントに、それも反対したけれど開催が決定したイベントに、自治会役員の務めとして協力しなくてはならない事もある。
毎年の事だが払いたくない税金を払わなくてはならない人もいるだろう。
こんな事は別に珍しい事でもないだろう。
それに旧海軍の伝統精神は戦後に源田実参謀がその著書「真珠湾作戦回顧録」に書いてる通り「(命令とあらば自信の有無を問わず全力を挙げてその遂行に邁進する)」なのだ。
源田実参謀はこの時の山本五十六連合艦隊司令長官について、その著書の中で楠正成と重ね合わせている。楠正成も足利尊氏との戦いについて、敵主力を京に引き入れて撃破するという献策をしたがそれは入れられず、命令に従って湊川の戦いに赴き一族の者と討ち死にしている。
山本五十六連合艦隊司令長官自身がその心境を親友、堀悌吉にあてた1941年10月11日付の手紙の中で書いている。
「(個人としての意見と正確に正反対の決意を固め其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也。之も命といふものか)」
職責と個人的見解が一致しない立場に置かれる事は組織で生きていれば別に珍しい事例というわけではないのだ。
山本五十六連合艦隊司令長官も開戦には反対だが、既に述べたように彼が開戦か否かを決める立場には無かった。
いざ開戦となった時、連合艦隊司令長官として最善の策をとれるよう「真珠湾攻撃作戦」の計画を推進していたのは、どう見ても明らかだろう。
矛盾しているのは確かだが、その矛盾を批判するのはとても妥当であるとは自分には思えない。
◆4「真珠湾攻撃作戦と開戦の因果関係について」
山本五十六連合艦隊司令長官による「真珠湾攻撃作戦」の計画があったからこそ海軍は開戦への道に踏み出したとの主張がある。
前に述べたが、1941年9月6日に近衛内閣において「帝国国策遂行要領」が決定された。これはアメリカによる対日石油全面禁輸を受けて、10月までにその問題の解決の目途が立たなければアメリカと開戦するという方針であり、初めてアメリカと戦う方針を決めたものだ。ただし陛下のご意思で一旦は白紙化される。
この9月6日の時点では海軍軍令部が「真珠湾攻撃作戦」に反対していた。
その反対を何とか押し切って「真珠湾攻撃作戦」を海軍軍令部総長に承認させたのは9月末の話だ。
つまり海軍軍令部としては9月6日の時点においては「真珠湾攻撃作戦」をあてにしていなかった事になる。
何せ投機的で失敗の可能性が高い危険な作戦だと思われていたのだ。
当初、海軍軍令部では「真珠湾攻撃作戦」など想定しておらず、南方攻略作戦を行おうとしていた。
そこに連合艦隊司令部より「真珠湾攻撃作戦」の話が来て驚いたとも伝えられている。
その後、11月1日に開かれた「大本営政府連絡会議」での開戦の賛否について嶋田海軍大臣は「確たる成算ありとは言えず」とか「自信無し」とか「リスクを冒して戦争を決意する。やむをえず」と発言している。
この後に保科兵備局長が嶋田海軍大臣に何故、開戦に反対しなかったのかと尋ねている。
その問いに対する嶋田海軍大臣の答えを簡単に要約すると、この段階で反対したら国内に内乱が起こる可能性が充分にあり、陸海軍反目という最悪の事態を回避するため止むを得ず開戦に賛成したとの事だ。
そこには「真珠湾攻撃作戦」があるから開戦賛成に踏み切ったというような理由は見られない。
12月1日の御前会議で最終的な開戦決定となるが、やはり「真珠湾攻撃作戦」があったから開戦になったとか、開戦の後押しになったというようには見えない。
「真珠湾攻撃作戦」が開戦の決定要因になったというような主張は牽強付会に過ぎないだろう。
◆5「真珠湾攻撃の要不要について」
山本五十六連合艦隊司令長官は真珠湾攻撃は行うべきではなかった。必要無かったという批判がある。
日本は石油が欲しかった。だから戦争を行った。
それなら石油の生産地であるオランダの植民地の蘭印を占領すればいいだけ。つまりオランダだけを相手に戦えばよかった。ハワイを攻撃する必要は無かったというわけだ。
中には石油を目当てにして戦争を開始したのに、石油の出ないハワイに何故行ったのか。何故「真珠湾攻撃作戦」を行ったかその理由がわからないなんて事を主張している本もある。
だから、ハワイを攻撃した山本五十六連合艦隊司令長官は「凡将」「愚将」だというわけだ。
インドネシアはオランダの植民地だった。当時はインドネシアではなく「オランダ領東インド」であり日本では「蘭印」と呼ばれている。その植民地の統治機構は「蘭印政府」と呼ばれ、そのトップはオランダ人の総督だ。
その「蘭印政府」は当然の事ながらオランダ本国政府に従っている。
ただし当時のヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発していてオランダ本国はドイツに占領されていた。
戦争でドイツに敗北した時に、オランダの女王を含む要人がイギリスに亡命し亡命政権を立てている。
この「オランダ亡命政府」は当然の事ながらイギリスと同盟してドイツと戦う姿勢だった。
「蘭印政府」はこの「オランダ亡命政府」に従った。これも当然の動きと言えるだろう。
だから「蘭印政府」はイギリスと同盟関係になる。
その「蘭印政府」もイギリスも日本の南下政策を警戒しており、日本軍の侵攻がある場合に備えていた。
蘭印のオランダ軍、イギリス極東軍に更にオブザーバーとしてアメリカ極東軍の幕僚も加えた合同会議が持たれ、1941年7月16日には日本軍が侵攻してきた場合の合同作戦計画が完成している。
だから日本軍が蘭印を攻撃すればイギリスが参戦してくる状況だった。
ではアメリカはどうか?
アメリカのルーズベルト大統領は戦争に参加しない事を約束して選挙に勝った大統領であり、アメリカ国民も多くが戦争を望んでいなかった事は事実だ。
だが、政治家というのは往々にして公約を破るし大衆は移ろいやすい。
日本との開戦前にルーズベルト大統領の政策は主にヨーロッパ向けの政策ではあったが、実に戦争一歩手前まで行っていた。
1940年9月3日には「米英防衛協定」を成立させている。
1941年3月11日に「武器貸与法」を成立させている。
1941年8月9日には「大西洋憲章」を成立させている。
アメリカ国民にしても以前、述べたように、1941年8月1日に対日石油全面禁輸が行われた後に行われた「アメリカは戦争の危険を冒しても日本の膨張政策に歯止めをかけるべきですか?」というアンケートでは51%の人が「イエス」と回答しているのだ。
それだけではない。
ルーズベルト大統領は1941年11月7日という開戦1ヵ月前の閣議で「日本がオランダ、イギリスに攻撃を加 場合、我々アメリカが日本に挑戦したら国民は政府を支持するだろうか」と閣僚に問い掛けている。
その時の閣僚達の返答は「国民は支持するだろうし大義名分も成立するでしょう」というものだった。
そして、それがアメリカ政府の方針となっていたのだ。
つまり、ルーズベルト大統領は日本がイギリスやオランダに手を出せば戦う気でいたのだ。
一方の日本では当初、イギリス、オランダだけを相手に戦うという構想があった。
特に陸軍は当初、イギリスとアメリカの関係は切り離せるとして「英米可分」と考えていた。
だが、海軍側の主張する状況分析は「英米不可分」であり、イギリスと戦争すれば必ずアメリカと戦争になるものと考えていた。
結局、海軍側の考えが通り「英米不可分」としてアメリカ、イギリス、オランダと戦争する事になる。
その状況分析は正しかったと言えるだろう。
つまり、オランダだけを相手にするなどという虫のよい事はできなかったのだ。
◆6「真珠湾攻撃の目的について」
「凡将 山本五十六」「ニミッツと山本五十六」「勝つ司令部 負ける司令部」では「真珠湾攻撃作戦」における「主目的」と「従目的」というものを指摘している。
その指摘では「主目的」は、山本五十六連合艦隊司令長官が1941年1月7日付けで及川海軍大臣宛てに出した手紙の中の一節「(米国海軍および米国民をして救うべからからざる程度にその士気を阻喪せしむる)」と、1941年10月24日付けで嶋田海軍大臣宛てに出した手紙の中の一節「(物心共に当分起ち難き迄の痛撃を加ふる)」としている。
つまり「主目的」はアメリカの士気を阻喪させる事だ。
そして「従目的」というのは、やはり1941年10月24日付けの嶋田海軍大臣宛てに出した手紙の中の一節「(幸いに南方作戦比較的有利に発展しつつありとも万一敵機東京大阪を急襲し一朝にして此両都府を焼尽せるが如き場合は勿論左程の損害なしとするも国論は果たして海軍に対し何といふべきか日露戦争を回想すれば想半ばに過ぐるものありと存じ候)」としている。
つまり「従目的」というのは日本本土空襲阻止だとしている。
この手紙に出て来る「日露戦争を回想すれば……」の部分については明治37年3月にロシア軍艦3隻が日本近海で商船を立て続けに沈め、これに国民が怒ってウラジオストックを制圧する任務についていた第二艦隊司令官の自宅に押しかけ投石騒ぎを起こした事だとしている。
それはいいのだが、よくわからないのは「凡将 山本五十六」では、この事について「(山本はこの事件になぜか異常とも思えるほどのショックを受けていたのである)」と書いている事だ。そんな事実はどこから出て来たのだろうか。
手紙の一節に昔の出来事が書いてあるからと言って、それに対し「異常なショック」と断言するのは行き過ぎではないだろうか。単なる憶測に過ぎないとしか思えない。
それはともかく、真珠湾攻撃作戦の構想について山本五十六連合艦隊司令長官は第11航空艦隊の大西少将に研究を命じた時に出した手紙の要旨には「第一、第二航空戦隊の全力で痛撃を与え当分の間、アメリカ艦隊の西太平洋進攻を不可能にする」とあったそうだ。
南雲機動部隊で参謀長だった草鹿龍之介中将は戦後に「連合艦隊参謀長の回想」という回想録を書いている。
その中で真珠湾攻撃作戦の目的について「(この作戦目的は南方部隊の腹背擁護にある)」と記述している。
1941年9月24日の海軍軍令部と連合艦隊司令部の合同会議では海軍軍令部の反対で未だ「真珠湾攻撃作戦」の実行は認可されなかった。この時、山本五十六連合艦隊司令長官は「ハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか」と言っていたという連合艦隊司令部の佐々木参謀の証言がある。
つまり「真珠湾攻撃作戦」には南方攻略作戦の援護という目的があった事は数々の証言から明らかだ。
それにも関わらず「真珠湾攻撃作戦」について勝手な解釈で「主目的」と「従目的」を定め、「南方攻略作戦の援護」という重要な目的を排除するのは如何なものであろうか。
そして勝手な解釈で決めた「主目的」と「従目的」を達成できなかっとし「真珠湾攻撃の目的は失敗した」と批判するのは如何なものだろうか。
自分にはとても妥当な批判だとは思えない。
ついでに山本五十六連合艦隊司令長官の和平構想について触れておこう。
前に述べた1941年1月7日付けの及川海軍大臣宛ての手紙を読むと、いかにも山本五十六連合艦隊司令長官は真珠湾攻撃の成功でアメリカ国民の士気を阻喪させ講和に持っていこうとしているようにも読める。
ただし開戦3ヵ月前の時点では旧知の某政治家に和平プランを託す話もしている。
その時の話によると和平の切っ掛けはシンガポール陥落の時であり、シンガポールが陥落すれば連鎖的にビルマとインドが動揺しイギリスにとって非常に痛い事になるので、その時が和平のチャンスだと語り「頼むよ」と某政治家に和平の動きを託したらしい。
実際、その某政治家はシンガポール陥落後に陸軍に対して働きかけを行ったが残念ながらうまくいかなかったそうだ。
また、桑原虎雄少将が1942年4月に山本五十六連合艦隊司令長官に会った時に講和についてどう考えているか聞いた事があったそうだ。
その時、山本五十六連合艦隊司令長官は、今が和平を結ぶ唯一の絶好の機会だと言い、その為には占領地全部の返還が必要だと言ったそうだ。ただ、政府が有頂天になっているからとも言っていたそうだ。
以前にも述べたが陛下もシンガポール陥落を一つの大きなターニングポイントと見ていたようで、東条英機首相に和平の事を話している。
どうやら陛下も史実の山本五十六連合艦隊司令長官も最初の和平の切っ掛けはシンガポール陥落にあると見ていたようだ。
◆7「真珠湾攻撃におけるアメリカ海軍の被害について」
真珠湾攻撃でのアメリカ軍の被害は大した事はなかったとの主張がある。
特に「凡将 山本五十六」には、沈んだ戦艦は2隻で、「あとは二、三ヶ月で修理された」とある。
いや、それは違う。
戦艦アリゾナと戦艦オクラホマは撃沈され修復不能とされた。
他に真珠湾に沈んだ戦艦は3隻。
戦艦ネバダは1942年4月に引き揚げられ修理され戦線に復帰したのは1942年12月だ。
戦艦カリフォルニアは1942年3月に引き揚げられ修理され戦線に復帰したのは1944年5月だ。
戦艦ウエストバージニアは1942年5月に引き揚げられ修理され戦線に復帰したのは1944年7月だ。
沈まなかったものの修理が必要とされた戦艦は3隻。
戦艦テネシーは本土西海岸に回航され、修理と近代改装を行い戦線に復帰したのは1943年になってからだ。
戦艦ペンシルベニアは1942年4月に戦線復帰した。
戦艦メリーランドは1942年2月に戦線復帰した。
つまり「真珠湾攻撃」において確かにアメリカの戦艦は2隻が修復不能だった。
そして二、三ヶ月で修理され戦線に復帰した戦艦は1隻しかない。
甘く見て五ヶ月で戦線に復帰した戦艦1隻を加えても2隻だ。
残り4隻は戦線に復帰するまで1年以上かかっている。
それどころか2隻は戦線復帰するまでに2年以上かかっている。
「あとは二、三ヶ月で修理された」との主張はあまりにも正確ではない。
戦線に復帰した戦艦6隻のうち5隻という過半数を超える数において正確な事を記述しない事は如何なものであろうか。
更に言えば、真珠湾攻撃における被害が大した事が無いのなら、何故アメリカ太平洋艦隊は海軍上層部が1941年9月9日に認可している日本と開戦した場合の対日作戦計画「WP-46」を発動しなかったのか。
この「WP-46」計画では日本と開戦した場合、アメリカ太平洋艦隊の主力はマーシャル諸島方面に進攻する事になっていた。
真珠湾での被害が大した事がないのなら当初の計画通りに「WP-46」計画を発動した筈だろう。
実際には真珠湾攻撃によりアメリカ太平洋艦隊は当初の対日作戦計画「WP-46」を発動できなくなる程の打撃を被ったと見る方が的確な判断だろう。
なお、真珠湾にいた戦艦は旧式戦艦でありアメリカ海軍にとり必要なかったと言う主張もあるようだが、それなら何故、アメリカ海軍はわざわざ真珠湾に沈んだ戦艦を引き揚げ損傷を修復したのだろうか。
損害を受けた8隻のうち6隻が修復され戦線復帰しているのだ。
もし本当に必要無かったのならそんな無駄な事はしなかったろう。
◆8「特殊潜航艇(甲標的)の出撃について」
「真珠湾攻撃作戦」の際に特殊潜航艇5隻が出撃し1隻も帰還しなかった事について、「ニミッツと山本五十六」では成功の見込みが殆どない攻撃を認可した山本五十六連合艦隊司令長官の責任が明らかにされるべきだと批判している。
それは結果論だろう。
元々この特殊潜航艇による攻撃計画は部隊の方から上申されたものであり、連合艦隊司令部の方から命じた作戦ではない。
しかも部隊の方からの上申は三度もあった。
最初の上申では生還の望みが薄い作戦計画という事で連合艦隊司令部が却下した。
しかし、部隊の方で諦めず生還できる確率を上げるように工夫を凝らして再度上申する。
それでもまだ生還の望みが少ないとして連合艦隊司令部は再度却下した。
だが、それでも部隊の方は諦めず、更に生還できる確率を上げるように工夫を凝らしてまたもや上申する。
ここで尚一層生還できるように工夫を凝らす事と引き換えに、ようやく山本五十六連合艦隊司令長官は許可を出したのだ。
だから全くの見込みが無いというのに作戦を許可したわけでもなければ、無理に実行させたわけでもない。それどころか生還の望みを高めるよう注意しているのだ。
2度も却下しているのだ。生還の望みを高めるよう工夫を凝らすように命じているのだ。
これを批判するというのは殆ど言い掛かりに近いのではないだろうか。
◆9「真珠湾攻撃は大失敗という批判について」
確かに失敗した部分はある。
アメリカ国民の士気を阻喪させる事ができないどころか憤激させた。
敵空母は無傷だった。
こうした事は開戦通知を攻撃前に渡せなかった外務省の不手際であったり、空母がいなかったのは正にタイミングが悪かったとしか言いようがない。
だが、まぁ失敗は失敗だ。
だが、大きな成功もしている。
日本と開戦した場合のアメリカ太平洋艦隊の対日作戦計画「WP-46」を頓挫させたのだ。
もし、真珠湾攻撃が無かったら果たして南方攻略作戦は史実のように成功しただろうか。
開戦前における真珠湾攻撃をしなかった場合の見通しについては、山本五十六連合艦隊司令長官が1941年10月24日付けで嶋田海軍大臣宛てに出した手紙の中に記述がある。
それを簡単に要約すると、図上演習等によると南方攻略作戦が終わった頃には巡洋艦以下の小艦艇に相当な被害が出て、航空戦力も大きく消耗し、しかも航空戦力の補充能力が貧弱な為に補充が覚束かず、海軍は兵力の伸び切った状態となり来るべき決戦に即応する事は困難になるとしている。
そうした想定があったのだ。
また、真珠湾攻撃はアメリカ国民を憤激させたが、ハワイのアメリカ軍将兵の士気を低下させる事には成功していた事も見逃してはならないだろう。
アメリカ海兵学校歴史学部のE・B・ポッター教授は、その著書の中で、キンメル提督に代わりチェスター・ウィリアム・ニミッツ提督がアメリカ太平洋艦隊司令官になった時に最初に行ったのはアメリカ軍将兵の士気を回復させる事だったとしている。
それともう一つ言えば、真珠湾攻撃を行った事がアメリカ国民を憤激させたのであり、行わなければそこまで憤激する事やアメリカ国民が一つに纏まる事は無かったという批判もあるが、それは疑問だ。
結局、真珠湾攻撃をしなくてもフィリピンのアメリカ軍を先に攻撃するのだからアメリカ国民を怒らせるのは代わりないだろうと思う。
ところで有名な軍事理論の書である「戦略論」の著者であるイギリスの戦史家リデル・ハートは、その著書「第二次世界大戦」の中で真珠湾攻撃について日本軍に三つの大きな利点をもたらしたと書いている。
一、アメリカ太平洋艦隊は事実上行動不能になった。
二、南西太平洋における作戦行動がアメリカ海軍の干渉無しに遂行できるようになった。
三、防衛の輪を拡大して固めるだけの時間的余裕をもった。
マイナスの面についても三つの点を挙げている。
一、空母を打ちもらした。
二、重油タンク、港湾施設を手つかずに残した。
三、宣戦布告に先立つ奇襲なためアメリカ国民を憤激させた。
真珠湾攻撃では失敗した面も確かにあったが、リデル・ハートの言う通りの利点をもたらした事も事実であり、自分としては先にも述べたように南方攻略作戦の援護という目的を達成しているのだから大失敗どころか成功したと判断している。
ところで「凡将 山本五十六」では「真珠湾攻撃作戦」の可否について軍人7人の意見を紹介している。
草鹿龍之介中将、大西瀧治郎中将、中澤佑中将、松田千秋少将、黛治夫大佐、源田実大佐、サミュエル・エリオット・モリソン少将の7人だ。
こうした軍人の意見を紹介した締めに「(真珠湾の可否についていろいろの意見を紹介した)」と著書の中で書いている。
ところが、この7人のうち草鹿龍之介中将は真珠湾の可否については語っていないし、源田実大佐は成功ではあったが問題もあったとしている。そして他の5人は大失敗という意見だ。
問題なく成功だったという意見は一人もいない。
これでは「(真珠湾の可否についていろいろの意見を紹介した)」と言うよりは「真珠湾の可否について否定的な意見を紹介した」と言った方が正しいだろう。
これはもう作為的に「真珠湾攻撃作戦」は失敗だったという人の意見を集めたに過ぎないだろう。
所謂「チェリー・ピッキング」という手法だ。ある一定の集団から特定の意見を持つ者ばかりをとりあげて、いかにもそれが主流の考えであるかのように見せかけるという手段だ。
これは公平性に欠ける主張の仕方というものだろう。
◆10「真珠湾攻撃で日本の敗戦は決まったという説について」
『真珠湾攻撃によりアメリカ国民を怒らせた。
敵空母は無傷だった。
航空機で海戦を制する事ができる事をアメリカに教えてしまった。
大和を始めとする戦艦を無用の長物としてしまった』
これらの事から航空機だけで戦った真珠湾攻撃が日本の敗戦の原因となったとの批判がある。
その批判は極論に過ぎる。
真珠湾攻撃について戦術的にも戦略的にも大失敗だとしているアメリカの海軍公刊戦史の著者であるサミュエル・エリオット・モリソン少将は「ミッドウェー海戦」について次のように述べている。
「(100秒足らずの時間に起きた事実の相違で日本軍は確実にミッドウェー海戦で勝利し、太平洋戦争にも勝利したかもしれない)」
アメリカ海軍の提督が「ミッドウェー海戦」で勝てば、太平洋戦争で日本が勝てたかもしれないと言っているのだ。それも真珠湾攻撃を大失敗したと言っている人がだ。
真珠湾攻撃で日本の敗戦が決まったという批判は結果論から見た暴論に過ぎず、その後の可能性をまるで考慮していないというものだろう。
何でも単純化したり極論化したりすればいいというものではないと思う。
よく現代日本では、太平洋戦争では何をどうしようと日本に勝ち目は全く無かったと主張する人達がいる。まぁネット上では主流の意見だろう。
だが、そういう人達はあらゆる要素を充分に考究したのだろうか。
こうした主張をする人達は、大抵は日本が勝てない理由をアメリカの国力の大きさと日本の国力の小ささに求めている。
また、それにプラスして太平洋の広さ、アメリカの広大な国土、そこから導き出される首都ワシントンの占領の難しさも理由にする。
確かにそれらは戦争における重要な要素ではある。
だが絶対的な要素というわけではない。
もし国力、国土の広さ、首都の占領が難しいという理由で戦争の勝敗が決まるならば、日本は日露戦争に負けていた筈だろう。
国力の劣った国が大国との戦争に勝つという事は戦史上、古今東西珍しくもない。
また、首都の占領如何に関わらず戦争の勝敗がついたり、つかなかったりする事も珍しくもない。
ナポレオンのモスクワ占領、日中戦争における日本軍の南京占領の例を見ればわかる通り敵国の首都を占領しても勝敗が決まらない事もある。
逆に第一次世界大戦におけるドイツの敗北や太平洋戦争における日本の敗北では首都は占領されていないが降伏を余儀なくされている。
これらの例からも首都の占領が戦争で勝利する絶対条件でない事はわかる筈だ。
戦争というものは実に多くの要素が複雑に絡み合う不確実性の塊だ。
大国でも何か一つの要素に問題があったばかりに、敗北を余儀なくされる事もある。
太平洋戦争で日本がアメリカに勝てないという意見の人達は、ただアメリカの優位な点ばかりを見るあまり視野狭窄に陥っているのではないだろうか。
ただ単にアメリカという国が持つ巨大な国力の前に思考停止しているのではないだろうか。
だが、視野を狭くする前に、思考を停止する前にまずは考えてみるべきだろう。
何故、アメリカ海軍公刊戦史の著者であるサミュエル・エリオット・モリソン少将が、日本が太平洋戦争に勝利したかもしれない可能性を示唆しているのかを。
公刊戦史の著者が、海軍の将官が、その道の権威ある専門家が、何の根拠も理由も無く、日本の勝利の可能性を示唆するだろうか。
示唆するのはそれなりの根拠と理由があればこそだろう。
「日本は絶対に勝てない」と思考停止する前に、まずは、そこを考究するべきだろう。
◆11「真珠湾攻撃における実行されなかった第二次攻撃について」
真珠湾攻撃作戦における実行されなかった第二次攻撃についても触れておこう。
「凡将 山本五十六」では、真珠湾攻撃の第二次攻撃作戦が実行された場合、重油タンクや工廠を破壊したとしても3~4ヵ月不自由する程度で、タンカーで燃料を運んだり修理と整備も工作艦を使えば間に合うと指摘し、物的には決定的戦果とは成り得ないとして否定的見解を示している。
つまり、真珠湾攻撃でのアメリカ軍の被害は大した事は無いという批判と合わせて、真珠湾の戦艦を叩いた事も間違いなら、例え工廠や重油タンクを破壊してもこれも大した事は無く、真珠湾攻撃自体が間違いだったというわけだ。
そもそも物的に決定的戦果になり得ないのは当たり前の話でしかない。
アメリカの艦隊は真珠湾にいる艦艇が全てではない。
アメリカ本土西海岸や洋上行動中の艦艇もいるのだ。
史実における真珠湾攻撃当時、アメリカ本土西海岸の港には修理中の艦艇を含めて、戦艦1隻、空母1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦9隻がいた。
洋上行動中の艦艇はフィリピンの極東艦隊とミッドウェー島とウェーク島に飛行機を運んでいる2つの空母部隊を除いても、巡洋艦5隻、駆逐艦10隻、潜水艦9隻が任務や訓練で活動中だった。
更には大西洋艦隊もいる。
しかも対独戦と対日戦では主力となる艦種が違う。対独戦は対Uボート戦がメインであり護衛艦や護衛空母が主力だ。
対日戦は空母対空母の戦いがメインとなる。
アメリカ大西洋艦隊から空母を主力する部隊を引き抜き太平洋に派遣しても問題は無い。
工廠にしても真珠湾攻撃当時、戦艦コロラドがアメリカ本土西海岸のプレマートンで修理中だったり、空母サラトガもアメリカ本土西海岸のサンディエゴで修理中だった事からもわかるように西海岸の施設もある。
燃料の問題にしても西海岸のカリフォルニア州には油田があるし製油所もある。
当然、真珠湾の工廠や重油タンクを破壊しても物的に決定的戦果になる筈もない。
しかし、真珠湾の燃料タンクと工廠を破壊すれば日本軍にとってそれは一時的にでも「有利」になる。
そこが重要だ。
国家と国家の総力戦体制のぶつかり合いとなっている戦争の形態において、一度の戦いで決着が着くという事は殆ど無い。
戦果を積み重ね有利な状況を作り上げる事が必要だ。
こちらが敵国に損害を与えれば、敵国がそれに対応した措置をとるのは当然の話でしかない。
敵がこちらの動きに対応した措置をとったなら、こちらもそれに対応した措置をとる。それに対し敵が更に対応した措置をとったなら、こちらもそれに対応した措置をとる。
それが繰り返されるのが戦争であり、それ故に戦争が「シーソーゲーム」とも言われる由縁だ。
例えば第二次世界大戦でのUボートの戦いを見てみればいい。
ドイツ海軍はUボートによる通商破壊戦でイギリスを敗北させようとした。当然イギリスはそれを阻もうとする。
Uボートも最初は比較的イギリスに近い海域で通商破壊戦を行った。
しかし、イギリスの護衛艦の増加とイギリス本土からの飛行機による哨戒で戦果を上げるのが難しくなった。
そうするとUボートは大西洋の中央部の飛行機による哨戒が行き届かない海域で活動するようになる。
また、アメリカの参戦後はアメリカ沿岸でUボートは活動を開始し多大な戦果をあげた。
しかし、アメリカ沿岸での対潜防備が充実され戦果が上がらなくなると、Uボートは作戦海域をカリブ海に移した。
大西洋の中央部の海域が護衛空母によりUボートにとって危険になると、今度は作戦海域をインド洋に移した。
このように相手の出方に応じて対応するのが戦争だ。
ドイツのUボートはイギリスを敗戦に追い込む事はできなかったが、それでもイギリスのチャーチル首相に回想録で「戦争中、真に私に不安を与えたもの、それはUボートの危機だった」と言わしめている。
状況にもよるが、基本的にこちらの動きにより「有利」になるにも関わらず、それに対し敵が対応した措置をとるから無意味だとか諦めるという判断は誤りだ。
こちらの動きで一旦有利な状況を作り出したのなら、その状況を「次に」どのように「生かす」か、それが重要だ。
真珠湾の重油タンクが破壊され燃料が失われた場合はどうなるか。
以前にも言ったが史実では開戦初期、アメリカはドイツのUボートの攻勢で多数のタンカーを沈められてしまい、タンカー不足に陥っている。それも国民生活に影響が出るレベルであり、対応策としてアメリカ南部の油田地帯から北部にパイプラインを建設する事態にまでなっている。
パイプラインを建設するにしても一朝一夕にできるというものではないし、そこに巨額の資金と資材と人員と時間を注ぎ込まなくてはならないという事だ。
それはアメリカの経済のどこかに必ず皺寄せが来るという事でもある。それは軍需関係に充てられる筈の物だったかもしれない。パイプライン建設にあてられた人員と資金と時間を軍需生産に回せばどれほどの兵器を産み出せた事か。
ハワイの重油タンクを破壊炎上させる事ができれば、タンカー不足に拍車をかけ、更にアメリカの石油事情を悪化させ、経済的に悪影響を増大させて、軍需生産にまで影響を与える可能性もある。
そもそもドイツ海軍の行っている通商破壊戦は経済にダメージを与える作戦なのだ。その一助になる事は間違いないだろう。
史実では日本の国力10倍のアメリカでさえ、タンカー不足をすぐには解消できなかったのだ。アメリカにも限界はある。何でも直ぐに右から左へ動かしたり物を出せたりするわけでもない。
直接的な軍事的影響としては、アメリカ海兵学校歴史学部のE・B・ポッター教授は、その著書の中で、真珠湾の燃料が失われたらアメリカ太平洋艦隊はアメリカ本土西海岸へ後退する事になっただろうとしている。
そうなれば日本の戦略はどうなっただろうか。かなりの変化を起こしたかもしれない。
そして、一方のアメリカ太平洋艦隊にとって以後はタンカーがネックになる事は間違いないだろう。
太平洋の広さから考えてアメリカ太平洋艦隊には非常に多くのタンカーが必要となり、そのタンカーは大きな弱点となっただろう。
もし、そうなっていたら日本海軍の作戦もまた変化したかもしれない。
史実では1942年1月にアメリカ海軍は空母レキシントンを主力とする機動部隊をウェーク島攻撃に派遣した。しかしその途中で「伊72」号潜水艦にタンカーを撃沈され燃料補給が困難になった事から攻撃を中止し真珠湾に引き返している。
そのようにタンカーはアメリカ海軍にとって大きな足枷となり、日本にとって最優先で攻撃すべき弱点となったかもしれない。
そもそもアメリカ海軍の公刊戦史の著者であるサミュエル・エリオット・モリソン少将は真珠湾攻撃について戦略的にも戦術的にも失敗だとしているが、その戦術的失敗については重油タンクと港湾施設を破壊しなかった事だとしている。つまり攻撃し破壊していれば戦術的には成功という事だ。
以前にも述べたが太平洋戦争でアメリカ太平洋艦隊を率い日本に勝利したチェスター・ウィリアム・ニミッツ提督は、重油タンクを破壊されたら困った事になっていたろうと語っている。
これも以前に述べたが、リデル・ハートも重油タンクを破壊しなかった事を問題にしている。
サミュエル・エリオット・モリソン、チェスター・ウィリアム・ニミッツ、リデル・ハート、というその道では名を馳せた専門家である人達が重油タンクの破壊の有効性を認めていると言っていい発言をしているが、それは誤りなのだろうか。とても自分にはそうは思えない。
ところで生出寿氏は、二番目に山本五十六連合艦隊司令長官を批判した著書「ニミッツと山本五十六」の中では、海軍工廠や重油タンクについてはかなり見解を変えてきている。
重油タンクについては、長い事かかって蓄積した燃料は欧州との約束から考えた場合はかけがえのない物だとか、攻撃目標を戦艦にして工廠や重油タンクを外した事は見当違いだったと批判している。
最初の山本五十六連合艦隊司令長官批判本である「凡将 山本五十六」では工廠や重油タンクを破壊しても大した事は無いと主張していたのに、二番目の山本五十六連合艦隊司令長官批判本「ニミッツと山本五十六」では工廠と重油タンクを破壊しなかった事こそ間違いだと批判している。
主張が180度変わっている訳だが、その主張が変った理由については書かれていない。
ただ、どのように主張が変るにしても山本五十六連合艦隊司令長官だけは批判するという一点については変わっていない。そこだけはブレないのだね。
重油タンクと工廠への攻撃の有効性と、実際に第二次攻撃が可能だったかは別問題なので、それについても触れておこう。
史実では日本軍の第一次攻撃の第二派攻撃では、被った飛行機の損害は20機にもなり、第一派攻撃の損害の9機の倍以上であり、奇襲というよりは強襲となった。
この損害からして第二次攻撃を行ってもアメリカ軍は待ち構えているだろうから更に被害は増大する可能性があり攻撃を行っても無駄だという説もある。
現代日本において防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第10巻「ハワイ作戦」に機動部隊の指揮官であった南雲忠一中将が第二次攻撃をしなかった理由が載せられているが、正に理由の一つがそれだった。
だが、果たして本当に被害は増大したのであろうか。
第二派攻撃での損害を分析してみると、そこには偏った損害がある事がわかる。
真珠湾を攻撃した第二派の部隊は3種類の部隊に分類される。
戦闘機隊の35機、急降下爆撃隊の78機、水平爆撃隊の54機。
このうち損害が出たのは戦闘機隊の6機と急降下爆撃隊の14機で、水平爆撃隊には1機の損害も出ていないのだ。
急降下爆撃隊の被害が水平爆撃隊に比べ何故増大したのかと言えば目標の違いと状況の違いによる。
急降下爆撃隊は敵艦艇を目標にしていた。
水平爆撃隊は地上の飛行場や格納庫を目標にしていた。
そして急降下爆撃隊は、第一派の攻撃で炎上した軍艦から出る爆煙により視界が悪く、そのため一度降下して目標を確認してから上昇し、再度降下して爆撃を行った。そのため、敵艦船からの砲火に晒さられる事が通常の二倍になった。
通常なら一度の降下で爆撃するところを二度降下したのだから撃墜される確率も二倍に高まろうというものだ。
そもそも急降下爆撃隊は攻撃目標が対空射撃をしてくるという状況だった事もある。
一方、水平爆撃隊は目標だった地上の飛行場や格納庫を問題なく爆撃できている。
こうした事を鑑みれば、もし第二次攻撃を行ったとしても重油タンクや工廠の位置から考えれば、それほど煙に邪魔される事もなく、敵艦船からの距離もある程度はあるため敵砲火に撃墜される確率は艦船攻撃よりは低く爆撃を行えた可能性がある。
第一派の攻撃でも水平爆撃隊には1機の損害も出ていない。
水平爆撃をメインに第二次攻撃を行えば、それなりの損害を与える事が可能だったかもしれない。
敵戦闘機による迎撃の可能性は否定できないが、第二次攻撃隊に大きな被害を与える程の機数が迎撃に上がれるかは疑問だ。
何故なら、第一次攻撃の二派に渡る攻撃と戦闘で多くの機体が失われたからだ。
第二派の戦闘機隊の損害が増加した理由も空戦であり、日本側の損害も増加したが、アメリカ側の戦闘機も戦闘できる機体が減少し第二派攻撃が終了する頃には迎撃にあたれるアメリカ軍の戦闘機は殆どいなくなっていた。
見過ごされがちだが、真珠湾攻撃においては多数のアメリカ軍航空機が破壊された事も評価されてしかるべきだろう。
真珠湾における第一派の攻撃は7時49分に開始され第二派の攻撃が終了したのは9時45分だ。
約2時間攻撃が続いたわけで出撃できる機体は殆ど出撃しただろう。
実際、日本軍の攻撃が終わった時点で、サミュエル・エリオット・モリソン少将の著書によれば飛べる機体で武装していた機は殆ど無かったという話だ。
急いで損傷した機体の修理と整備を行ってもどれだけの機体が飛べるようになるか。
第二次攻撃隊の戦闘機隊を制圧できるだけの機体を準備するのは難しいのではないかと思う。
そういう事から第二次攻撃を行ったとしても大きな損害を負う事なく攻撃を終える可能性も否定できないのではないかと思う。
また、第二次攻撃を行う場合、第一次攻撃のように二派に分かれて攻撃した場合、第一次攻撃の第一派から続けて数えると第三派攻撃、第四派攻撃となるわけだが、第四派攻撃まで行うと母艦に帰還する頃には完全に夜間になってしまう。
しかし、第三派のみなら夜になる前に帰還できる可能性もある。
第二派が帰還したのは午前11時30分頃だが、その頃には第一派で出撃した機体は第二次攻撃の準備を終えていた。真珠湾まで片道約2時間である事から考えると夜になる前に帰還する事は不可能では無いだろう。第三派だけで充分なダメージを与える事ができるかどうかは実際にやってみなくては分からない事ではあるが、重油タンクなどは大型の固定目標であるからその可能性はあるだろう。
こうした事から第二次攻撃の実行は充分に可能性があるのではないかと思う。
◆12「航空一辺倒が敗北を齎したという説について」
「凡将 山本五十六」の中では、山本五十六連合艦隊司令長官は「戦艦無用論」「航空主兵論」主義者であり海軍を航空一辺倒に導いたと主張する。
そして「真珠湾攻撃作戦」及び「マレー海戦」での戦果が日本海軍をより一層、航空一辺倒にしたとする。
航空機ならアメリカに勝てるとして日本は航空戦にのめり込んでいくが、アメリカの大工業力があれば日本との工業力の差からアメリカに勝てなくなる事は明らかだったという批判をしている。
ならば従来の「戦艦中心主義」ならばアメリカの大工業力は関係無しに勝てる事が出来たのだろうか?
「戦艦中心主義」にしても結局は日本が建艦競争に勝てない事は明らかなのだから、そうした意味では「航空主兵」であろうと「戦艦主兵」であろうと「数の戦い」という意味では敗北は免れなかったろう。
ところで太平洋戦争において「真珠湾攻撃作戦」など行わず、戦艦による決戦が行われていれば勝てた可能性があるという主張がある。
「凡将 山本五十六」でもその説を支持しているようで、その根拠に据えているのが日本の戦艦部隊の主砲の命中率がアメリカの戦艦の3倍にも及ぶという話だ。
この3倍という話は「証言録 海軍反省会」シリーズの本に載っている。
かつて「海軍反省会」という研究会があった。
戦後に旧海軍の佐官クラスの人達が集まり太平洋戦争における海軍についての反省会を行った。研究会と言ってもいいものだ。この反省会はテープで録音されてもいた。
1980年(昭和55年)から1991年(平成3年)までの間に131回行われたと言われるが、もう少し回数が多かったかもしれないとも言われている。
反省会に参加した人達が生存している間は内容は原則非公開という事であったらしい。
2009年にこの「海軍反省会」の録音テープを基にNH◯がドキュメント番組を作り放送している。
終戦記念日のある8月とか、終戦◯◯周年とかいう節目には、ケーブルテレビの「ヒストリーチャンネ◯」などで、このNH◯の制作した番組が放送されていたりする。
そして本にもなった。いや刊行中と言える。
本は2009年に第1巻が刊行され2014年12月に第7巻が刊行された。
最新の第7巻で「海軍反省会記録」の第54回~第59回の内容が載っているから、第131回まではまだ半分も来ていないし最終巻が出るまではあと数年はかかるだろう。
その「海軍反省会」の中で盛んに日本の戦艦の主砲の命中率がアメリカの戦艦の3倍あると主張していたのが、戦時中に巡洋艦「利根」の艦長や第8艦隊の参謀、砲術学校の教頭などを歴任した経歴を持つ旧海軍で大佐だった人物だ。
その趣旨はおおよそ次の3回に記録されている。
「海軍反省会記録第16回(「証言録 海軍反省会」第2巻に収蔵)」
「海軍反省会記録第25回(「証言録 海軍反省会」第3巻に収蔵)」
「海軍反省会記録第46回(「証言録 海軍反省会」第6巻に収蔵)」
その主張は簡単に言えば、戦前から日本海軍はアメリカ海軍の能力を調査しており、それによると日本の艦艇の砲撃はアメリカより2倍当たり、戦艦に限れば3倍当たるとしている。
しかも91式徹甲弾を使用すれば5倍当たるとしている。
そして訓練も実戦も命中率は変わらないと主張する。
だが、しかし、この主張には他の参加者から異を唱える声が上がっていた。
日本に都合の良いデータを使っているとか、理論と実戦は違うとか、日本を過大評価しアメリカを過少評価しているというような反論の声があった。
中でも第6艦隊の参謀だった人物は「(それならば日本の艦隊の砲戦がどうしてあんなに当たらなかったんですか)」という核心を突く疑問を大佐にぶつけている。
その回答は「(向こうの艦隊が軽業みたいに逃げるからですよ)」だった。
正直、この回答は如何なものだろうか。
結局、実戦では訓練程には当たっていないという事だろう。
なお、この3倍の命中率を主張した大佐の提唱する対米決戦構想も触れておこう。これは「海軍反省会記録第16回(「証言録 海軍反省会」第2巻に収蔵)」に載っている。
それを纏めて要約すると次のようになる。
『日本の主力艦隊はできるだけ遅くまで内海西部にいる。
適当な時期に航空兵力をフィリピンに展開する。
進攻してくるアメリカ軍相手に大規模な航空撃滅戦をやり、敵空母を叩く。
制空権を握った後、レイテ沖付近で主力艦隊同士の決戦を行う。
マーシャル、マリアナは放っとけばいい。
トラックを取られても痛痒も感じない。勿論ラバウルも取られても大した事は無い』
この決戦構想にも他の参加者から異論が出ていた。
特にマーシャル、マリアナを放っておくと言う発言に対しては、そこを利用してアメリカ軍が日本本土を空襲するという反論があったが尤もな反応だと思う。
と、言うか、あれだけB29長距離戦略爆撃機に本土を空襲をされながらも、それを無視した作戦を主張するというのはいかがなものであろうか。
そもそも「邀撃漸減作戦」というのは、行ったとして果たしてうまく行っただろうか。
史実でも例えば1943年10月中旬の事。海軍軍令部が敵の機動部隊が中部太平洋もしくは日本本土に来襲する公算が高いと連合艦隊司令部に連絡して来た。
それで敵機動部隊を殲滅すべく連合艦隊司令部はマーシャル諸島方面に機動部隊を出撃させたが敵は発見できず空振りに終わる。
この時、連合艦隊司令部の参謀長だった福留繁中将が言ったという言葉を、海軍軍令部で参謀を務めた経歴を持つ吉田俊雄氏が戦後に書いたその著書「海軍参謀」の中に記述している。
(「攻勢防御でいこうと考えていた。だが、太平洋のような広いところでは、敵がどこに来るかわからない。口ではそう言っても現実には攻勢防御はできなかった。我々がやってきた作戦計画は無駄だった」)
福留繁中将は「戦術戦略の神様」と言われていたそうだが、その人がそう言っている。
他にも1944年に日本海軍がアメリカ艦隊主力を叩こうとした「あ号作戦」にしても、多くの参謀達はアメリカ艦隊がマリアナ方面に来るとは思わず、しかも先にビアク島攻略をアメリカ軍が狙って来たため、撃退するための兵力を派遣したり、その後も状況に応じて航空戦力を動かしたため、決戦になる前に戦力を消耗するという事をしている。
結局「邀撃漸減作戦」は迎撃作戦だ。
「攻勢防御」と言ってもその本質は防御作戦だ。そのため攻めるアメリカ軍側に時と場所を選ぶ優位があり、日本側には時と場所を敵に選ばれる不利がある。
太平洋は広大であり、守るべき海域もまた広い。重要な海域は限られているとは言っても、それでもかなりの海域だ。1944年の「あ号作戦」の様相を見れば如何に敵の主攻を捉えるのが難しいかはわかろうというものだ。
それでも、もし「真珠湾攻撃作戦」をせずに「邀撃漸減作戦」を行い、うまく敵主力艦隊を捉えたとしても果たして戦艦同士の決戦が起きただろうか。
「真珠湾攻撃作戦」は行われず、アメリカ太平洋艦隊が戦艦8隻、空母2隻を中心とする主力艦隊を対日作戦計画「WP-46」の通りに、真珠湾から速やかに出撃させマーシャル諸島方面に出撃したとする。
日本側も「邀撃漸減作戦」で戦艦同士の決戦の前に潜水艦、航空機により敵艦隊の戦力を削ぐように動く。つまり、南雲機動部隊が戦艦同士の決戦前にアメリカ太平洋艦隊を叩くだろう。
恐らく空母の航空戦力の差から日本側が制空権を握り艦上攻撃機隊と艦上爆撃機隊がアメリカの主力艦隊を叩く。「真珠湾攻撃作戦」は行われていないのだから、空からの攻撃に対する教訓はまだ得られておらず、アメリカの軍艦は対空機銃の増設は当然していないという事になるだろう。
日本側は空母と戦艦を優先目標とする筈だ。
そして恐らくはアメリカの主力艦隊に大きな被害が出るのではないだろうか。
日本の保有する戦艦が10隻である事はアメリカも承知している。
もし日本軍が史実の真珠湾攻撃の約半分程度の成果でもあげて、3隻程のアメリカの戦艦を戦闘不能にしたらどうなるだろうか。
その時点で日本の保有する戦艦10隻に対しアメリカ側の戦艦は5隻という事になる。しかも制空権も握られている。
そこでアメリカ太平洋艦隊を率いるキンメル提督は状況を不利と判断し、航空戦力の威力を痛感し空母の増勢が必要であると悟り、戦艦同士の決戦が起きる前に真珠湾に撤退するという可能性も充分あるのではないかと思う。
そして、アメリカ太平洋艦隊は修理中の空母サラトガの復帰と大西洋から空母の到着を待って再び進攻してくるという事になり、戦艦対戦艦の決戦は生じずに空母対空母の戦いになっていくのではないかと思う。
つまり戦艦同士の決戦を行う「邀撃漸減作戦」は成立せずに事態は推移する可能性が充分あると思う。
「航空主兵」という考えは日本が南雲機動部隊を運用し戦う限り、結局は遅いか早いかだけで、アメリカ軍も辿り着く方針だと思う。
更に言えば、前にも述べた通り結局、「邀撃漸減作戦」の本質は待ち受けの守勢の作戦だ。
それにアメリカ太平洋艦隊を一度は破ったとしても、それで戦争が終わる筈もない。
次には大西洋艦隊から空母を回して再び進攻してくるだう。
それを再び撃破したとしてもアメリカは諦めるだろうか。
1940年7月に成立した「両用艦隊法」によりアメリカ海軍は戦前より戦力の増強に努めていた。この「両用艦隊法」が成立した時点で建造が計画されたのは主力空母11隻を含む257隻と航空機1万5千機という莫大な数だ。この1940年7月の時点でアメリカ海軍が保有していた軍艦は488隻だからいかに大きな増強を計画したかわかるだろう。
恐らく大西洋艦隊から空母を回して来たアメリカ艦隊を撃破したとしてもアメリカは諦めないと思う。
「両用艦隊法」により建造した軍艦の完成を待って新たな艦隊を編成して再び進攻してくるだろう。
その時は1943年か1944年という事になるかもしれない。
そうした年になってくると、軍艦や飛行機の数だけでなく科学技術についてもアメリカとの差が大きく出てきてしまう。特にレーダーの性能やVT信管など日本はアメリカに遅れをとる事になる。
こうした技術の発展はアメリカ海軍の戦術の幅をも広げている。
1944年2月17日から18日にかけてアメリカ海軍機動部隊が日本の重要拠点トラック島に空襲を加え大きな被害を与えた。
この時、17日夜にアメリカの空母「エンタープライズ」から12機のアベンジャー雷撃機が出撃しているが、この機はレーダー搭載で夜間攻撃を行い日本側に損害を与えている。
「凡将 山本五十六」の中では、制空権を握り昼間に戦えば日本の艦砲の命中率が3倍ある事から敵艦隊が2倍であったとしても勝てると断言しているが、時の流れと技術の発展は昼も夜も戦場となる事を示しているのだ。
ちなみに1944年2月17日夜のトラック島でアベンジャー雷撃機による夜間攻撃が行われていた頃、日本側も一式陸上攻撃機がアメリカの空母「イントレビット」に夜間雷撃を行い魚雷を命中させている。残念ながら撃沈とはならなかったが損傷させ戦線離脱を余儀なくさせている。
正に両軍、昼夜を問わず戦ったわけだ。
こうした事から「邀撃漸減作戦」を行った場合、最初はアメリカ艦隊を撃破できたとしても、新たにアメリカが建造する軍艦や製造する飛行機の莫大な数の力と、そして技術的な格差が開く事から、最終的に 日本が勝利を掴むのは難しいのではないかと思う。
日本海軍が伝統的とも言えるほどに傾注していた「漸減邀撃作戦」とは対極に位置する「新軍備計画論」にも触れておこう。
この「新軍備計画論」は井上成美中将が1941年1月30日に及川海軍大臣あてに提出したものだ。
その内容を要約して簡単に纏めてみよう。
『これからは飛行機の時代であり戦艦を主力とする艦隊決戦は起こらない。故に戦艦は不要。
日本がアメリカの首都を占領し勝利する事はできない。
アメリカとの戦いは南の島々の争奪戦が争点となるだろう。
アメリカとの戦いにおいて南の島々は不沈空母となる。空母は脆弱すぎる。
南の島々を要塞化し基地航空部隊を主力とするべき。
第一に航空兵力を充実させるべき。
第二に海上交通路を守る事が重要であるからその戦力を充実させるべき。
潜水艦は攻撃にも防御にも使える兵器だから第三に充実させるべき』
と言ったところだ。
この「新軍備計画論」で戦ったならアメリカと有利な講和を締結するまで持っていく事が可能だったとする主張もあるが、自分は懐疑的だ。
海軍軍令部で参謀を務めていた人物も戦後に書いた著書の中で否定的に書いている。
それを簡単に要約してみよう。
『戦前は金城鉄壁と信じていた太平洋諸島の飛行機基地網だった。
だが実際に戦ってみると基地と基地の間が遠すぎた。
配備した飛行機も少なすぎた。
奇襲を受けいつも一方的に大損害を出した。
アメリカ軍の数と速度に対応出来ず敗北した。
井上成美中将は近代戦の速度までは理解していなかったのではないか』
と、いう見解だ。
結局、太平洋の島々を要塞化するとは言っても重要なのは航空戦力であり、一つ一つの島に大規模な航空戦力を置く事は日本の航空機生産能力とパイロット養成システムからすれば難しいものがある。
それに比べて時と共に増大するアメリカ軍の海空戦力は圧倒的だ。
その数の力で優位にあるアメリカ軍が攻撃の利点である時と場所を選ぶのだから、日本の島々の防衛線が容易く破られるのも致し方ないというものだろう。
「邀撃漸減作戦」も「新軍備計画論」も守勢の戦略だ。
開戦初期にはアメリカ軍相手に個々の戦闘で勝利する事もあるだろう。
しかし、最終的にはアメリカ軍の数の力と日本より発展する軍事技術の前に、日本は敗北を喫する事になる確率が極めて高いと思う。
ところで前に触れた「海軍反省会」だが、その中で誰が「連合艦隊司令長官」となり、誰が「海軍軍令部総長」になったとしても日本の敗戦は免れなかったという意見があった。
「海軍反省会記録第21回(「証言録 海軍反省会」第3巻に収蔵)」に載っている。
その理由は三つあるとしていた。
一、暗号の問題。
二、レーダーの問題。
三、航空基地造成能力。
正直、これを読んだ時は少し驚いた。自分なんかは、まず「数の力」を第一に上げる。
戦いは必ずしも数で全てが決まるわけでは無いとは言え、アメリカの「数の力」は強力だ。
しかし、アメリカと実際に戦った日本の軍人の中には敗戦の理由で「数の力」よりも他の要素を重要視する人もいたのだね。
◆13「南方攻略作戦への南雲機動部隊投入について」
「真珠湾攻撃作戦」後に南雲機動部隊は南方攻略作戦に投入された。
結果的に大した敵がいなかった事もあり、山本五十六連合艦隊司令長官は南雲機動部隊をこのような作戦に投入するべきではなく、ハワイ方面で更にアメリカ艦隊を叩く作戦を行うべきだったとの批判がある。
その代表は真珠湾攻撃で飛行隊を率いた淵田美津雄氏だろう。「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」にその主張がある。
一理ある批判だ。
一理あるが「連合艦隊司令部」にも事情があった。
簡単な話、「真珠湾攻撃作戦」を認める代わりに、「真珠湾攻撃作戦」後に南雲機動部隊は南方攻略作戦に協力するという事を海軍軍令部に約束させられたのだ。
この南雲機動部隊を南方攻略作戦に協力させるという条件を最初に出したのは海軍軍令部第一部の富岡定俊第一課長で連合艦隊司令部の黒島参謀との間でこの交換条件が遣り取りされた。
前々から指摘しているように「連合艦隊司令長官」と言えど、勝手に何でも決められるわけではない。
そういう訳で「南方攻略作戦」に南雲機動部隊の投入を批判するなら山本五十六連合艦隊司令長官ではなく、そういう条件を出して来た海軍軍令部を批判するべきだろう。
◆14「マレー沖海戦での賭け事について」
「マレー沖海戦」で日本軍はイギリス海軍の戦艦2隻レナウンとレパルスを撃沈した。
この時に山本五十六連合艦隊司令長官が幕僚の一人、三和義男参謀と賭けをした逸話がある。
出撃して来たイギリスの戦艦2隻について航空部隊が2隻とも撃沈できるかどうかビールを賭けたという話だ。
この賭けの逸話については山本五十六連合艦隊司令長官と実際に賭けをした三和義勇参謀がその時の事を手記に残している。その手記は三和義勇参謀の家族が戦後に出した「海軍の家族 山本五十六元帥と父三和義勇と私たち」に収録されている。
このビールを賭けた話について将兵の必死の戦いを賭けの対象にするのは不謹慎だとする批判がある。
「凡将 山本五十六」「ニミッツと山本五十六」「勝つ司令部 負ける司令部」でもこの逸話に触れ批判的に書いている。
一理ある批判だ。
一理ある批判だが、こうした批判をする人は大抵この逸話の「全て」を読者に伝えていない事が多い。
「凡将 山本五十六」「ニミッツと山本五十六」「勝つ司令部 負ける司令部」でも手記の次の部分には触れられていない。
「(長官がこの賭けを挑まれるのは、好きというよりは、相手のその事に対する自信確度を試す手に使われるのである。従って常に自分の予想、考えと反対に出て、しかもとてつもない大きな賭けを言われる)」
この後も文章は続くが、ともかく三和義勇参謀の見解によると山本五十六連合艦隊司令長官は賭けが好きというよりも相手を試すために賭けをしていた事があったようだ。
この件で山本五十六連合艦隊司令長官を批判する人は、こうした三和義勇参謀の手記を読みながらも、山本五十六連合艦隊司令長官は賭けが好きだから「マレー沖海戦」でも賭けをしていたという方向に話を持って行って批判する。
そして読者には、山本五十六連合艦隊司令長官が相手を試すために賭けをしたという三和義勇参謀の見解は伝えないようにしている。実際の賭けの相手であった三和義勇参謀の見解を伝えないというのは、如何なものであろうか。
こうした情報の隠蔽じみたやり方による批判は果たして公平と言えるだろうか。
ところで「ニミッツと山本五十六」には「マレー沖海戦」で山本五十六連合艦隊司令長官が「(長い間主張して来た航空主兵・戦艦無用論がこの戦闘によって明らかに実証されたと確信し生涯最良の日と感じたようである)」とある。
山本五十六連合艦隊司令長官が生涯最良の日と感じたとは、どのような根拠を基に言っているのだろうか。根拠が書かれていないからよくわからない。嬉しそうな顔していたという事からだろうか。だからと言って「生涯最良」とまで言うのは如何なものか。それはあまりに根拠薄弱だろう。誰かが山本五十六連合艦隊司令長官がそういう事を言ったのを聞いたというのならともかく、そうした事もないのでは、これは結局、勝手な憶測になるのではないだろうか。
序でに言うと1942年2月にラバウルから出撃した陸上攻撃機隊がアメリカ空母部隊を攻撃し15機も撃墜された事についても「ニミッツと山本五十六」の中で山本五十六連合艦隊司令長官の内心について触れている。
「(航空主兵に対する山本五十六連合艦隊司令長官の絶対の自信を打ち砕くほど不吉な事実であった)」
と書いているのだが、これも何を根拠にそう言っているのかよくわからない。大きな損害が出たからだろうか。
しかし、航空主兵に対する自信が失われたのなら、その後の「インド洋作戦」「珊瑚海海戦」「ミッドウェー海戦」で何故、航空主兵で戦ったのだろうか。結局、これも勝手な憶測に過ぎないのではないだろうか。
何かしら山本五十六連合艦隊司令長官が実際にそういう事を語ったとか、何かそういう事を書き残しているのなら納得もいくのだが、実際にその場にいたわけでもない人が、根拠薄弱で山本五十六連合艦隊司令長官の内心を決めつけたところで、そうそう信じるわけにはいかない。
似たような事は現代日本で暮らしていた時にもよくあった。
本人は自分が洞察力に優れているから他人の心の内を読むのが上手く、相手の考えている事や感じている事を理解しているとか、察する事ができると思っているのだが、実は勘違いしていたなんていうケースは結構よくあるパターンだ。
自分も学校とか会社でそういう人に勝手に思っている事を決めつけられ辟易した事がある。
こういう人には違うと否定したり真実を語っても無駄だっりする場合が多い。こういう人は自分が正しく間違っているとは考えないからだ。
困ったものだ。
◆15「ミッドウェー海戦における戦艦の遊兵化について」
「ミッドウェー海戦」において日本の戦艦部隊は全く役立つ事なく遊兵化していたという批判がある。
以前にも述べたが「戦史叢書」の第43巻「ミッドウェー海戦」に載っている敗北の原因の一つは、戦艦部隊が後方遠くにいて何ら戦いに寄与できなかったとされている。
尤もな批判だ。
だが、ここで、ちょっとアメリカ側に目を移そう。
「ミッドウェー海戦」時にアメリカの戦艦部隊はどこにいたのか?
アメリカ軍も戦艦7隻(コロラド、メリーランド、ペンシルベニア、テネシー、ミシシッピ、アイダホ、ニューメキシコ)を中心とする部隊を出撃させている。
この戦艦部隊は日本艦隊がアメリカ西海岸本土を攻撃する場合に備えてハワイとアメリカ西海岸本土との中間に位置していた。
そして「ミッドウェー海戦」に何ら寄与する事なく貢献する事なく遊兵化して終わるのだ。
後方にいて活躍する事なく終わったのは日本の戦艦部隊と全くの一緒だ。
つまりアメリカ海軍とて戦艦を有効に生かせていない。
イギリス海軍も同様だ。「ミッドウェー海戦」の2ヵ月前に生じた「セイロン島沖海戦」では、イギリス海軍の戦艦部隊も遊兵化している。
アメリカ海軍も日本海軍も戦前は作戦の中心に戦艦部隊を据え、空母部隊を中心とはしていなかった。それが太平洋開戦劈頭の真珠湾攻撃で戦いの様相が変わった。
アメリカ海軍も日本海軍も「ミッドウェー海戦」の頃は空母を中心とする作戦については「試行錯誤」の状態であり実戦で学ぶ事も多い状況だったのだ。
確かに「ミッドウェー海戦」で日本艦隊は戦艦を有効に利用できなかった。しかし、この頃はアメリカ海軍もイギリス海軍も戦艦を有効活用できていなかった事を鑑みれば、殊更、日本海軍だけが批判される事でもないと思う。
◆16「山本五十六連合艦隊司令長官が暗号を軽視していたという批判について」
「凡将 山本五十六」の中に「(海軍では海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官とも暗号を軽視していたので、暗号担当将校は、兵学校の成績が中ぐらいの者が任命されることが多かった。山本も暗号を軽視していた)」とある。
暗号担当将校をどう選びどう育てるかは人事の問題であるから海軍省の管轄であり、最終的に組織のトップとして海軍大臣への責任論を展開するのはまだわかる。
味方の暗号の運用について取り仕切り、更に敵の暗号の解読に努めるのは海軍軍令部だから海軍の「暗号戦」に問題がある場合、その責任を負うのは当然、海軍軍令部であり、最終的に組織のトップとして海軍軍令部総長への責任論を展開するのもまだわかる。
だが、「連合艦隊司令長官」の指揮する「連合艦隊」は海軍軍令部より配布された暗号を使うだけであり、敵の暗号解読にもタッチしていない。
それなのに、連合艦隊司令長官が暗号を軽視していたとするのは果たして妥当だろうか。
しかも山本五十六連合艦隊司令長官が暗号を軽視していたとの指摘、批判についても実際にどう軽視していたのか具体例や証言が何一つなくただ「暗号を軽視していた」としているのだ。
何かしら暗号について山本五十六連合艦隊司令長官が蔑ろにしていたとする例や証言があるならともかく、職制上、味方の暗号の作成にも運用にも、ましてや敵の暗号解読にもタッチしない立場の山本五十六連合艦隊司令長官を批判する事を自分は妥当だとは思わない。
◆17「ミッドウェー海戦時における将棋について」
「ミッドウェー海戦」で南雲機動部隊の空母が敵の攻撃に晒され沈められていた頃、その報告に接した山本五十六連合艦隊司令長官は部下と将棋をしていた。味方の空母が次々と沈められる報告に接しても将棋をやめなかったという逸話がある。
これについて「凡将 山本五十六」では連合艦隊司令長官の態度ではないとか、そのような行為が部下に伝染すればどういう事になるかと批判する。
一理ある批判だ。
だが、山本五十六連合艦隊司令長官には戦死したパイロットの名前を手帖に書き奉じていたという逸話も伝わる人だ。「情の人」と言われるくらい情に脆かったと言われている。そのような人が味方の被害に何も思わず、ただ将棋を指していたのだろうか。
自分がこの「ミッドウェー海戦」での将棋の逸話を知った時、一番最初に思い浮かんだのは中国の「謝安」の故事だ。
中国の五胡十六国の時代に「東晋」と「前秦」の二国が全面衝突する「淝水の戦い」が起こった。
「東晋軍」は7万。「前秦軍」は100万。「東晋軍」は圧倒的に劣勢で戦う事になる。
この戦いが起こなわれている頃、「東晋」の宰相「謝安」は自宅でお客と囲碁をしていたそうだ。
それは人々に動揺を見せないようにするためだったとか。
国の上層部の偉い人が動揺する姿を見せれば、下位の役人や民衆はそれを見てどう思うだろうか。それこそ民衆は動揺しパニックが起きたりかなりの混乱が起きるかもしれない。
しかし、国の上層部の人が泰然自若と余裕を見せていれば下位の役人も民衆も落ち着くだろう。
山本五十六連合艦隊司令長官も将棋を止めなかったのは「東晋の謝安」同様に泰然自若として普段と変わらぬ姿を見せる事で、幕僚達の動揺や焦りを静めようとしたとは考えられないだろうか。
◆18「ミッドウェー海戦における敗戦責任について」
「ミッドウェー海戦」の敗北について連合艦隊では誰も責任を取らなかったとの批判がある。
「凡将 山本五十六」でもその事について批判しているし、「勝つ司令部 負ける司令部」では山本五十六連合艦隊司令長官を始めとする主要な者を名指しで責任をとるべきだったと批判している。
一理ある批判だ。
だが、昔から「勝敗は時の運」とよく言われるように戦争には人知の及ばぬ不確定要素が大きな要因として介在するものだし、どこの国でも必ず敗軍の将が責任を取るわけでも無い。
アメリカ陸軍のマッカーサー将軍はそのいい例だろう。
太平洋戦争開戦初期におけるフィリピン戦では「カムバックした元チャンピオンが久しぶりのリングに戸惑う姿のようだ」と酷評されるほど、その指揮は酷く全く良いところが無くフィリピンを失陥する事になった。
しかし、それでも罷免される事は無く、後には南西太平洋方面連合軍最高司令官として太平洋戦争を戦い抜き勝者となった。
アメリカ海軍でも「第一次ソロモン海戦」などがそうだ。
アメリカ海軍公刊戦史の著者であるサミュエル・エリオット・モリソン少将は「第一次ソロモン海戦」についてアメリカ海軍の最悪の敗北の一つと述べている。
しかし、艦隊を直接指揮していたクラッチレー提督は処分を受ける事は無かった。
この戦いでは海戦発生前にフレッチャー提督が、その指揮する空母部隊を独断で早々に後退させた事が敗因の一つとして後々指摘される事になるが、何ら処分は受けていない。
まぁクラッチレー提督はイギリス海軍の提督であるからアメリカ海軍の人間とは言えないが、それでも当時、クラッチレー提督の上官だったリッチモンド・ターナー提督や、更にその上の南太平洋艦司令官のロバート・ゴームリー提督はアメリカ海軍軍人だが両者とも処分は受けていない。
せいぜい艦長クラスが処分を受けただけだ。
ドイツ軍では「砂漠のキツネ」と呼ばれたエルウィン・ロンメル将軍は北アフリカ戦線で名を馳せ、敵であるイギリスのチャーチル首相にまで讃えられる程だったが、決して勝ってばかりではなかった。
北アフリカ戦線はシーソーゲームのような戦いと言われる事もあるように、ロンメル将軍も負けて大きく後退を余儀なくされた事も幾度かあったが一度の敗北で罷免される事は無かった。
敗戦の責任の取り方として自ら辞めたり、辞めさせられたりする事は当然あるが、その一方で古来より「敗北を勝利で償う」とか「復仇の機会を与える」という責任の取り方も往々にして行われて来た。
実際、南雲機動部隊の草鹿龍之介参謀長は敗北後に山本五十六連合艦隊司令長官に、おめおめ生きて還れる身ではないが、ただ復讐の一念に駆られて生還したと語り復讐戦の機会を与えてくれるよう頼んでいる。
そして山本五十六連合艦隊司令長官はそれを飲んだ。
山本五十六連合艦隊司令長官の考えには、失敗しても簡単には見捨てない切らないという哲学があったようだ。
嶋田海軍大臣に「下手なところがあったらもう一度使え。そうすれば必ず立派になしとげるだろう」という事を言った事があるそうだ。
「ミッドウェー海戦」の敗北については、山本五十六連合艦隊司令長官自身の責任も勿論あるが、それは永野海軍軍令部総長と嶋田海軍海軍大臣が責任を問うべきものだったろう。
◆19「ミッドウェー海戦についての大本営発表について」
山本五十六連合艦隊司令長官が報道のあり方について1942年春に言及した事がある。
連合艦隊司令部の幕僚達と四方山話をしていた時の事だ。
その内容を要約して書いてみよう。
『報道は静かに真相を伝えればいい。
報道は絶対に嘘を言ってはいけない。
嘘を言うようになったら戦争に負ける。
今の報道部の考え方は間違っている』
こうした事を言っていながら山本五十六連合艦隊司令長官は、後の「ミッドウェー海戦」の敗北を糊塗する大本営発表については口を閉ざしていたという批判がある。
「凡将 山本五十六」でも山本五十六連合艦隊司令長官は大本営発表に対し口をつぐんだと批判している。
だが、大本営発表の仕方について山本五十六連合艦隊司令長官が「ミッドウェー海戦」前からそのやり方に不満があったとは言っても、それを口したのはあくまで内輪での話であり、報道の仕方について公式に抗議したわけでも表明したわけでもない。
そもそも「ミッドウェー海戦」についての大本営発表は海軍報道部と海軍軍令部の作戦部の協議の上、発表内容が決められたものだ。
そして「連合艦隊司令長官」の職務には大本営発表に携わる事が含まれているわけでもない。
しかも「ミッドウェー海戦」について被害を隠蔽した偽りの大本営発表があったのは6月10日。
連合艦隊旗艦の「大和」が柱島に帰って来たのは6月14日と大本営発表から4日も後の事だ。
つまり山本五十六連合艦隊司令長官がまだ海の上にいる時に大本営発表が出された。しかも職制上、大本営発表の内容については連合艦隊司令長官がタッチする立場にない。
そんな大本営発表の内容について携わる立場になく、しかも発表された時は海の上だった山本五十六連合艦隊司令長官なのにも関わらず、如何にも大本営発表に関わる事ができ、その発表内容を操作する事が可能だったかのように批判するのは如何なものだろうか。正当な批判と言えるだろうか。とても自分にはそうは思えない。
◆20「ガダルカナル島攻防戦について」
「ガダルカナル島攻防戦」において多数の飛行機と艦船と将兵を失い敗北した事について山本五十六連合艦隊司令長官を批判する声がある。
「凡将 山本五十六」でもその点について批判している。
一理ある批判だ。
だが一概に全ての責任を山本五十六連合艦隊司令長官に負わせるというのも公平では無いように思う。
「ガダルカナル島攻防戦」では最初から陸軍兵力が投入されている事からもわかる通り陸海軍共同作戦であり大本営も関わっている。
陸軍の作戦については連合艦隊司令長官にどうこう言う立場にはない。
そもそも当初、ガダルカナル島の作戦は第11航空艦隊、第8艦隊、陸軍第17軍が担当していた。
その緒戦において第11航空艦隊や第8艦隊が自軍の上げた戦果を過大評価したり、敵軍を過小評価するなどの誤謬を犯している。これは大本営でも同様な誤謬を犯した。
そして最初の躓きが後々まで大きく響いた。
「ガダルカナル島攻防戦」の緒戦以後についても連合艦隊司令部だけでなく、大本営も大きく関わり、そして誤謬を犯している以上、山本五十六連合艦隊司令長官だけに責任を負わせるのは酷というものだろう。
◆21「将兵への訓示と愛人への手紙について」
「凡将 山本五十六」では、山本五十六連合艦隊司令長官が将兵に訓示した内容と、愛人に宛てた手紙の中で書いている事に、あまりに隔たりがあるという事を批判している。
こんな批判は論外だ。
話にならん。
連合艦隊司令長官として公人の立場として将兵に訓示する内容と、私人として愛人に書く手紙の内容の論調が違ったからといって、それは当たり前の話だろう。
現代日本でも会社で厳格な上司が家庭では良き夫、良き父親である事なんて珍しくもない。
人は立場と状況により幾つもの顔を持つ。
会社での顔と家庭での顔が違ったとしても何も可笑しくはない。
山本五十六連合艦隊司令長官も同様だったという事に過ぎないだろう。
そもそも他人のプライベートな部分を穿り返して晒し者にするなと言いたい。
愛人に宛てた手紙の内容を本に載せるなんて事は、あまりに故人のプライバシーを侵害し過ぎていると思う。
これはもう「重箱の隅を楊枝でほじくる」を超えた露骨な個人攻撃だろう。
自分に言わせれば、愛人宛ての手紙の内容なんてものは、山本五十六連合艦隊司令長官が「凡将」かどうかなんて事に根本的に関係の無い話だ。
◆他にも山本五十六連合艦隊司令長官への批判はあるがこの辺にしておこう。
とかく山本五十六連合艦隊司令長官を批判している人の主張で目に付く事は、「連合艦隊司令長官」はあらゆる事柄に関して決定権を持っていたかのように判断している事だ。
職務上の権限外の事まで山本五十六連合艦隊司令長官に決定権があり責任があったかのように批判する。
だが、実際は違う。
職務上、「連合艦隊司令長官」という地位と立場には出来る事と出来ない事があり、全く関われない事柄にまでその責任を問い批判する事は適切ではないと自分は思う。
また、山本五十六連合艦隊司令長官について事実に基づき批判するのは結構だ。
自分も山本五十六連合艦隊司令長官には欠点もミスも無かったとは言わない。
それどころか以前に自分も指摘している。
潜水艦部隊が実戦を経てその経験から要望するに至った通商破壊戦を実行する提言を聞き入れなかった事。
珊瑚海海戦で兵力の集中を欠いた事。
同じく珊瑚海海戦の戦訓を全く取り入れなかった事を批判している。
それに「ミッドウェー島攻略作戦」において事前に連合艦隊に蔓延する慢心を戒めきれなかった事や、「アリューシャン攻略作戦」を行い兵力の分散をした事は大きな失敗だろう。
今回これらの事を弁護していないのは、弁護のしようもない程の問題点だと思っているからだ。
ただし、これには山本五十六連合艦隊司令長官一人だけでなく「連合艦隊司令部」全体の問題であるとも思っている。まぁ最終的には「連合艦隊司令部」のトップである山本五十六連合艦隊司令長官に責任がありはするが。
それはともかく繰り返すが事実を基に批判するのなら納得できる。
だが、これまで書いて来たようにそうでない批判もまた多い。
正確な情報を書かない場合や、恣意的に一部の情報を読者に知らせなかったり、更に証拠も提示しなかったり、憶測で悪い方向に決めつけを行ったり、更にはいかにも山本五十六連合艦隊司令長官にはとかく問題があるかのように読者に印象付けようとしている批判もある。あまりに酷い。
歴史上のどんな名将であろうと欠点があったりミスをしたり敗北したという事があったりする。
山本五十六連合艦隊司令長官も同様だ。
ミスもすれば欠点もある。
願わくば批判するならば、史実に基づき事実を歪め捻じ曲げずに行ってほしいものだ。
それが倫理感ある人の行いというものだろう。
そろそろ現在の戦況に戻ろう。
海軍軍令部の情報部よりヨーロッパの戦況について情報が入って来た。
昨日、8月19日に連合軍がフランスのディエップに大規模な上陸進攻作戦を行ったもののドイツ軍守備隊に撃退されたそうだ。同盟国の勝利だ、めでたい。
史実における連合軍の「ディエップ上陸作戦」ではカナダ軍の第2師団を中心とする約6000人が上陸した。
しかし、ドイツ軍の反撃に遭い、カナダ軍は4961人中、3363人の死傷者を出した。実に約7割の損害だ。
イギリス軍の損害を含めると死傷者は約4200人。
これに対しドイツ軍の損害は約600人。
連合軍の損害は7倍だ。
連合軍の手痛い敗北なわけだが、どうした事かイギリスのチャーチル首相の回想録には、この戦いについて一言も触れられていない。
チャーチル首相にとっては、触れる程の事も無い小さな戦いだったというわけだろうか。
あれっ今日の海外情報はこれだけ?
そうか、ならもう今日の仕事はお終いにして寝よう。
自己弁護、所謂、史実の山本五十六連合艦隊司令長官の弁護で今日は疲れた。
でも寝る前に「きんつば」食べよう。ふっふっふっ。