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0016話 失敗(1942年8月19日)

●8月19日、「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」が失敗に終わった。


 敵に解読されている古い暗号を使い敵潜水艦を囮船団に誘き寄せ掃討しようとした作戦だが、結果は敵潜水艦1隻撃沈という戦果で終幕した。


 まさに「大山鳴動して鼠一匹」という諺を地で行くような結果だ。

 戦果が上がるようなら作戦を継続したが、これ以上続けてもそれほど戦果が上がるとは思えないので打ち切った。

 

 どうやら敵はこちらの作戦を見破っていたようだ。

 囮船団に誘き寄せられた敵潜水艦は少なかった。

 やはり古い暗号と新しい暗号を平行して使っていたのが拙かったのだろう。不自然過ぎたか。

 考えが甘すぎたようだ。


 とは言え暗号の更新時期の問題もあり、タイミング的にどうにもならなかったのも事実だ。

 重ね重ね言っているように「自分は歴史を知っている」とか「この暗号は既に敵に解読されている!」とは言えない。言ったところで何の証拠も提示できない。


 それでも敢えて言ったとしたらどうなるか。

 下手をすれば部下達に心配され「長官はお疲れのようだ」と言われて生温かい目で見られた挙句に海軍軍令部総長や海軍大臣へ内々に事の次第を報告されてしまい、最終的には病気療養という形で予備役にされるかもしれない。

 自分が部下の立場でも、やはり海軍軍令部総長と海軍大臣に「長官のご様子が……」と御注進申し上げるだろう。


 だから暗号が解読されている事を幕僚達や海軍軍令部に納得させるには、それなりの状況証拠を提示する必要がある。それも複数必要だ。

 一つでは偶然という事もあり理由として弱すぎる。


 しかし、幕僚達や海軍軍令部に納得させるだけの複数の状況証拠を積み重ねた時には、暗号の更新時期が来てしまう。

 暗号は敵に解読される事を警戒して定期的に更新されているから、短期間でそうそう都合良く証拠を積み重ねる事は難しい。

 そのため自分が暗号を解読されている可能性を指摘したのも暗号が新しい物に更新されてからになってしまった。


 ただ、あの時は連合艦隊司令長官からの要望として海軍軍令部と交渉して暗号の更新を遅らせるという手もあった。

 だが、それをすると「ミッドウェー海戦」にどう影響するか、あまりに不確定要素が多かったため史実通りに事を進めたのだ。

 特に今回は、ただでさえ「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」という一大作戦を決行しようという直前の時期に暗号の更新があった。

 もし、あそこで下手に自分が暗号の更新について口出ししていたら混乱が起こったかもしれない。

 ただでさえ連合艦隊の大半の戦力を投入するという作戦を、それも極めて短い期間で準備し決行するという時に、更に厄介な問題を上積みするのは憚られたという面もあったのだ。


 そもそも根本的に敵に解読されている暗号を使うという事自体が危険な行為だ。


 史実や今回の歴史における「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」での敵の暗号解読による情報漏洩程度ならば致命的では無いが、それ以上に解読され続ければ、事態は深刻になり得る。


 解読された暗号を全部隊で長く使い続ければ、どこまで重要な情報が敵に漏れるかわからない。

 最重要な情報、連絡事項は直接使者を出す手もあるが、それでは人と時間と手間がかかり速やかにとはいかない。それで部隊の運用や基地との連携で深刻な不具合を起こす可能性もある。

 例えそれを一時的な事と目を瞑り重要度の低い物に限って解読された暗号を使うにしても、敵が寄せ集めた情報の断片を繋ぎ合わせて重要な事を探り当てるという事もある。

 敵がどこかに弱点や好機を見出す可能性もある。

 あまりにデメリットの可能性が高いだろう。


 だから今回は暗号が更新された時に、一部の影響が少ないだろうと思われる部隊で古い暗号も並行して使うという事を行い、旧型の暗号もまだ使用しているとアメリカ軍に思わせようとしたのだが、アメリカ軍にその策は通じなかったようだ。


 やるなぁニミッツ提督! こちらの手の内を読んでいたか。


 救いなのは、この「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」が失敗してもそれほど実害は無かった事だ。

 これで味方の被害が多ければ「泣きっ面に蜂」という事になっていたろう。

 作戦に参加した艦艇と飛行機が時間と燃料を無駄にしてしまったが、まぁ対潜哨戒のいい訓練になったと思えばいいだろう。

 戦果も0ではないのだ。1隻は沈めた。0よりはましだろう。0よりは。


 それに最初からこの作戦がうまく行った場合でも、恐らく短期間でこの作戦は終わりを迎えただろう。

 どこの国でも敵の解読対策のために定期的に更新されるのが暗号というものなのに、いつまでも同じ暗号を使い続ければ、それだけで敵に怪しまれる。

 それに敵も暗号を解読しているにも関わらず損害が増せば、それで事の真相に気付くだろう。敵も愚かでは無いのだ。


 だから、元々「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」については長期間に亘る大きな戦果は期待していなかった。

 敵潜水艦1隻撃沈できただけでも上等上等。

 作戦は失敗したが、そうそう悲観するような事でもない。


「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」の囮船団に敵を誘き寄せる事に失敗したが、アメリカ軍も日本本土とミッドウェー島の補給線を黙って見過ごす気は無いようだ。

 敵潜水艦がその航路に出没している。


 本物の輸送船団が攻撃を受け、これまでに輸送船が合計で1隻が撃沈され1隻が大破、2隻が小破している。まだ損害は致命的では無いが地味に痛い。

 しかし、こちらも2隻の敵潜水艦を撃沈している。「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」以上に敵潜水艦を撃沈しているのだから嫌になる。

 まぁ相手も必死だ。こちらの思惑通りに全てが進む事なんて滅多にない。戦争なんてそんなものだろう。


「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」は失敗したが、海軍軍令部でも暗号が解読されていた事自体への確証を更に深めている。

 ミッドウェー島への直接爆撃が占領2ヵ月を経ても未だ無いからだ。

 やはりアメリカ軍は捕虜の身を案じて爆撃しないのだろうという推測が大勢を占めている。

 お蔭でミッドウェー島の防備や施設の建設は捕虜の労働もあり捗っているようだ。


 それにしても連合国側にインド洋に南雲機動部隊が向かったように見せ掛ける事にも失敗した事といい、情報戦では「我一歩及ばず」と言う状況だ。

 かと言ってこの問題を今すぐ解決する案も思い浮かばない。

 どうしたものか。頭を抱えるばかりだ。


 今の所、アメリカ軍の通商破壊戦は史実通り、この時点では大きな成果は上げていない。

 こちらの通商破壊戦は史実よりも大きな成果を上げている。

 これについては良い流れだ。


 しかし、アメリカ本土西海岸での通商破壊戦は既に陰りが見えて来ている。

 いや、陰りどころかもう作戦遂行は難しい状況だ。

 アメリカ軍も流石に黙ってやられ続けてはくれない。

 

 アメリカ軍に撃沈されたであろう未帰還の潜水艦が増えている。

 無事、帰還した潜水艦からの報告を総合的に判断すると、アメリカ軍は航空機による対潜哨戒を強めるとともに船団護衛方式を採用してきているようだ。


 史実における日本の潜水艦による通商破壊戦が低調だったのは戦艦や空母等の大型軍艦を優先目標にしていた事もあるが、太平洋では単独航行船が少なくアメリカの船団護衛方式に押さえ込まれたという理由もあるようだ。これは艦艇研究家の某氏が指摘している。ちなみにこの人は艦艇研究家とは言ってもその著書は全て軍艦について書かれたものだから軍艦研究家と言えるだろう。


 船団護衛方式の採用と航空機による沿岸警戒については、アメリカ本土東海岸でも同様の筈だ。

 

 史実において対米開戦初期にUボートはアメリカ東海岸で通商破壊戦を行い多大な戦果を上げた。

 この頃はUボートの艦長達が「アメリカの狩猟シーズン」とか「陽気な殺戮」と呼ぶほどの大戦果を上げた時期となった。

 前にも述べたが、何せ1942年は6月までの半年間でUボートの上げた戦果はアメリカ本土東海岸だけで585隻、約308万トンにもなる。トン数で言えば日本の保有する民間輸送船の約半分に近い数字だ。

 

 しかし、アメリカ軍が船舶の被害に堪りかね1942年7月からは東海岸を航行する船舶に全面的に船団護衛方式を採用し更に沿岸部での対潜警戒体制を整えた事により、その戦果を大きく減じる事になった。それは今回の歴史でも同様だろう。


 アメリカ海軍も開戦初期の頃は対潜作戦が未熟だった。

 これも以前に述べたが、アメリカ海軍がUボートを初めて撃沈したのは1942年4月になってからだ。

 護衛艦も不足していた。そのためイギリスから10隻、カナダから15隻のフラワー級護衛艦の提供をアメリカ海軍が受けたぐらいだ。


 アメリカの造船能力は巨大だが、開戦初期にはまだその力が発揮しきれていない。

 いかにアメリカが大国であろうとも開戦初期にはそうそう都合よく右から左へ何でも準備できるわけでもない。

 だから護衛艦も不足していた。


 Uボートはそのアメリカ海軍の対潜作戦が未熟な点と護衛艦の不足という弱点を突いて見事に大きな戦果を上げたのだ。

 そして今回の歴史ではそれに太平洋における日本の潜水艦隊による通商破壊戦の戦果が加わった。


 しかし、流石に時間が経てばアメリカ海軍の対潜技術も向上するし護衛艦も建造され増加する。

 史実でアメリカ本土東海岸でのUボートの通商破壊戦の成果を半年程度しか維持できなかったように、アメリカ本土西海岸でも日本の潜水艦による通商破壊作戦も限界が来たようだ。


 これまで日本の潜水艦部隊としては「第6艦隊」の「第1潜水戦隊」が専属でアメリカ本土西海岸で通商破壊戦を遂行して来たが、既に半数が失われている。


 連合艦隊司令部としては軍令部とも協議して第6艦隊司令部にアメリカ本土西海岸での通商破壊戦からは手を引かせ、アメリカ本土西海岸とハワイを結ぶ航路と、パナマ運河とハワイを結ぶ航路を集中的に狙わせる事にした。

 それは作戦海域を考慮しての「間隙」攻撃だ。


「間隙」というのはアメリカ軍の地上発進の対潜哨戒機の行動半径の「間隙」を突くという意味だ。

 これは史実においてドイツのUボートが大西洋で行っている。


 アメリカ、カナダ、イギリス、アイスランド等から飛ぶ大型対潜哨戒機の行動半径をもってしても大西洋の全航路をカバーする事はできない。

 どうしても対潜哨戒機ではカバーできない海域が大西洋の真ん中にできる。それが「間隙」だ。文献によっては「すきま」としているものもある。


 イギリスやアメリカの沿岸海域で対潜哨戒機による警戒が厳しくなり通商破壊戦が難しくなるとUボートはその大西洋中央海域の「間隙」で輸送船団を攻撃し成果を挙げたのだ。


 そうした「間隙」はハワイとアメリカ本土西海岸の間にもある。

 何せ、ハワイとアメリカ本土西海岸のロサンゼルスとの間の距離は、大西洋で北アメリカとイギリスの最短距離となるカナダのニューファンドランド島とアイルランド島間よりも距離があり軽く4000キロを超えるのだ。

 だから当然ハワイとアメリカ西海岸の間にも大西洋同様に「間隙」ができる。


 現在は「第6艦隊」の「第2潜水戦隊」が専属でその「間隙」での通商破壊戦を行っているが、これに半減した「第1潜水戦隊」を加え「間隙」での攻撃を強化する事にした。


 ハワイとパナマ運河を結ぶ航路については「第6艦隊」の「第3潜水戦隊」をあてている。

 ともかくこれから予定されている「ハワイ攻略作戦」を成功させるためにもハワイへの海上交通路を叩きハワイへの軍備増強に打撃を与えておきたい。


 ただし、この「間隙」も護衛空母が投入されれば埋められてしまう。

 史実での大西洋がそうだった。

 ただし史実でも、この時点ではまだアメリカ軍は船団護衛に護衛空母を投入してきていない。アメリカ軍も護衛空母の数が揃っていなかったからだ。今回の歴史も同様だろう。


史実通りなら1942年8月のこの現時点で作戦行動が可能な護衛空母は「ロングアイランド」と「チャージャー」の2隻しかいない。


 2ヵ月前の6月にボーグ級の「コヒパー」が就役しているが、まだ訓練中。

 今月、ボーグ級の「ナッソー」と「サンガモン級」のサンガモンが就役するが、やはり実戦投入には数ヶ月はかかる。


 前に述べた護衛艦の事と同様で、いかにアメリカの造船能力が巨大だろうと、この時点では護衛空母の就役も徐々に増えつつあるという状況だ。


 そして史実では「チャージャー」は大西洋でパイロットの養成にあたっている。「ロングアイランド」も太平洋で飛行機の輸送とやはりパイロットの養成にあたっている。恐らく今回の歴史でも同様だろう。

特に艦載機のパイロットの養成は一朝一夕にはできない。これから就役してくる空母のためのパイロットの養成に「ロングアイランド」と「チャージャー」も今頃は大忙しだろう。


 史実ではアメリカ軍が初めて護衛空母を船団護衛に参加させたのは1943年3月で大西洋の事だ。

 そして護衛空母の数が増強され大西洋でのUボートを押さえ込んだのは1943年の後半に入ってから。

 だから大西洋では、それまでの間、Uボートが猛威を揮ったのだ。


 今回の歴史でも恐らくアメリカ軍の護衛空母が対潜作戦に投入されるのは史実通り来年になってからだろう。

 ともかく「ハワイ攻略作戦」までに1隻でも多くの敵輸送船を沈めハワイへの軍備増強を妨害しておきたい。


 2日前の敵空母のハワイ出撃の情報以後、敵空母の動向については続報が何も入ってこない。

 果たして敵の空母はどこにいるのやら。

 今の所、アメリカ軍に引っ掻き回されている感じだ。

 

 今、思うと「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」「AL作戦(アリューシャン攻略作戦)」以後の太平洋において、少し消極的過ぎたかもしれない。


 確かに今や連合艦隊の主力となった「第1機動部隊(南雲機動部隊)」の立て直しが急務であり、「ハワイ攻略作戦」の準備もあったし、「MT作戦(敵潜水艦掃討作戦)」に、敵機動部隊をミッドウェー島へ誘き寄せ叩こうという「M三号作戦」も行っている。

 インド洋へは「第3機動部隊」と「第4機動部隊」を派遣している。


 しかし、ここ1ヵ月以上、太平洋ではアメリカ軍に対し潜水艦による「通商破壊戦」以外に積極的な攻勢作戦は何も行わなかった。

「M三号作戦」も言うなれば、誘き出し作戦、あるいは単なる待ち伏せ作戦、もしくは最前線後方への予備機動兵力の配置であり、敵が出撃して来なければ来ないでそれでもいいという考えが根底にある。


 その結果、1ヵ月以上も敵に猶予を与えてしまった。

 これは失敗したか。

 暢気に給糧艦「間宮」の羊羹は美味いなんて言ってる場合じゃあなかったかもしれない。

 インド洋に注意を払いすぎたか。

 使える戦力は少なくとも、もっと積極的に攻勢作戦を行いアメリカ軍をきりきり舞いさせるべきだったか。

 太平洋では常に主導権をこちらが握っているべきだった。

 まぁいい。まだ不利になったわけでも敗勢になったわけでもない。

「ハワイ攻略作戦」の前に今度はこちらがアメリカ軍を引っ掻き回してやろう。


 現在、日本軍とアメリカ軍は太平洋上の戦線で睨み合っていると言っていい状況だ。

 

 日本軍は北からアリューシャン列島のキスカ島、ミッドウェー島、ウェーク島、マーシャル諸島、ギルバート諸島、ビスマルク諸島、パプア・ニューギニアのブナを繋ぐラインで防衛線を敷いている。

ただし南方ではビスマルク諸島より約1000キロ先のソロモン諸島のツラギ島とガダルカナル島に少数の兵力が進出している。


 アメリカ軍はアリューシャン列島のアムチトカ島、ハワイ諸島、ジョンストン島、パルミラ島、フェニックス諸島、サモア諸島、フィジー諸島、ニューヘブリジーズ諸島、ニューカレドニア島、パプア・ニューギニア東端のラビを繋ぐラインで防衛線を敷いている。


 史実では開戦初頭、真珠湾攻撃を受けた後にアメリカ軍がまず行った戦略的行動は、これらの島々に基地を設営し兵力を配置して防衛する事だった。

 ハワイ防衛線の一角たるジョンストン島などは開戦前は水上機基地しかなかったが、開戦後に急いで軍用飛行場が建設された。

 フェニックス諸島、サモア諸島、フィジー諸島なども開戦後に軍用飛行場が建設された。

 そうした防衛ラインの後方にあたるソシエテ諸島のボルボラ島には燃料補給基地が建設されている。

 

 こうした太平洋の島々で基地建設と防衛が史実通り今回の歴史でも順調に行われているかどうかは不明だ。

 そこまで詳しく偵察を行っていないし、その余裕も無かったからだ。

 こちらの通商破壊戦がうまく作用していれば、もしかすると史実より基地建設や航空機の配備などが遅れているという事も有り得るだろう。


 こうした南洋の島々とアメリカ本土、オーストラリア本土に対し潜水艦による砲撃作戦と、二式大艇による空爆をより積極的に行おう。


 マキン島やツラギ島のお返しだ。やられっぱなしは性に合わん! やられたらやり返す!

 史実でも今回の歴史でもこれまで通商破壊戦の一環として潜水艦による砲撃作戦を行ってはいる。 

 今年はこれまでに史実通り6回ほど行っている。


1月11日、「伊20号」潜水艦がサモア島を砲撃。

2月24日、「伊17号」潜水艦がアメリカ本土西海岸のカリフォルニア州のエルウッド製油所を砲撃。

6月7日、「伊24号」潜水艦がオーストラリア本土のシドニー港を砲撃。

6月8日、「伊21号」潜水艦がオーストラリア本土のニューカッスル港を砲撃。

6月21日、「伊26号」潜水艦がカナダのバンクーバー島の通信施設を砲撃。

6月22日、「伊25号」潜水艦がアメリカ本土西海岸のオレゴン州のフォート・スティーブンス基地を砲撃。


 今回の歴史ではオーストラリア方面への通商破壊戦はラバウルを拠点とする第7潜水戦隊の「呂」号型潜水艦に任せる事を基本としていたが、シドニー港とニューカッスル港への砲撃作戦はオーストラリア南東部への牽制・陽動攻撃として史実通り「伊21」「伊24」潜水艦を特に派遣して行わせている。


 通商破壊戦を行う潜水艦に作戦間か、もしくは帰途にこれまで以上に積極的に夜間砲撃作戦を行わせよう。


 更に二式大艇をこれまで行って来たオーストラリア本土への爆撃だけでなく、タラワやツラギを拠点としてニューカレドニア島、エスピリッツサント島、フェニックス諸島などへの夜間爆撃を行わせよう。


 失敗に終わった「K作戦(二式大艇による真珠湾爆撃作戦)」で、二式大艇に給油できるよう改造した潜水艦が3隻もあるのだ。その能力を活用しなければ勿体無いだろう。そうした給油潜水艦と二式大艇を組ませソシエテ諸島など敵地後方奥深くにも爆撃を行って敵の心胆を寒からしめようじゃないか。


 作戦の細かい所と各部隊への調整は黒島参謀に丸投げしとこう。「ハワイ攻略作戦」の準備で忙しいだろうが、彼の機才と活力ならばきっと短期間で良い作戦を練り上げてくれるだろう。

連合軍め、史実よりも後方地域での安全を脅かしてやる!

 そして後方地域への防衛戦力を史実よりも増強せずにはいられないようにしてやるぞ。

くっくっくっ。


 そう思っていたら連合艦隊司令部の幕僚達が中部太平洋方面のナウル島とオーシャン島を空爆及び艦砲射撃により攻撃し、敵の航空施設と通信設備を破壊しましょうと提案して来た。

 マキン島が奇襲攻撃を受けたのもこうした島々から偵察機が飛びこちらの情報を収集し弱点を探った故だから、敵の活動を抑えるためにも限定的な攻勢作戦に出るべきだとの意見だ。


 まぁ良かろうと思い許可をした。

 この攻撃は「第4艦隊」にさせる事になった。

 命令を出すのは明日になるが「第4艦隊」については史実と同じだ。史実でも連合艦隊司令部から「第4艦隊」と「第3艦隊」宛てにナウル島とオーシャン島の攻撃命令が出ている。


 マキン島については「第4艦隊」から新たな報告が来ている。

 「第14航空隊」の九七式大艇2機が軍医を含む陸戦隊兵士50名と重機関銃5丁と軽機関銃1丁を本日、マキン島に空輸し現地残存部隊と無事、合流したそうだ。

 史実では19日は軍医を含む陸戦隊兵士15名を大艇1機で送り込んだのだが、何故か今回の歴史では微妙に送り込む人数が多い。

 と言うか、増えた35人と重機関銃5丁と軽機関銃1丁は史実では20日に送り込まれる筈だ。

 この微妙な違いは良い事なのか、悪い事なのか……

 うーーーん。わからん。

 

 

 まぁ、それはともかく、この日は他に「第1魚雷艇隊」を輸送していた輸送船がようやくラバウルに到着したという報告もあった。

 ミッドウェー島を出発してから1ヵ月以上もかかっている。到着するまで実に長かった。

 第8艦隊司令部からこの「第1魚雷艇隊」の扱いについて、ソロモン諸島のツラギ島に配備するのではなく第8艦隊直属としてニューギニア方面で使いたいとの要請があったので了承した。

有効利用してくれるなら文句はないよ。

 

 第8艦隊司令部は「第1魚雷艇隊」をニューギニア最前線のブナに配置したい意向で、「第1魚雷艇隊」を輸送している輸送船をそのままブナに向かわせる予定だ。

「第1魚雷艇隊」は完全に史実とは違う道を歩み始めているが果たしてどうなるか。

 史実では大した戦果を上げていないので、今回の歴史では願わくば少しでもいいから戦果を上げてくれれば嬉しいのだが。


 太平洋での陸軍の動きとしては、この日は第17軍の「南海支隊」主力がブナに上陸した。指揮するのは堀井少将だ。

 いよいよ本格的に陸軍の「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」が始まる。


 いや、もう始まっていたと言ってもいいだろう。

「リ号研究作戦」として先発していた「横山先遣隊」は、既にオーエン・スタンレー山脈麓のココダを占領し、更に山脈に足を踏み入れている。


 ココダという場所はゴム農園と数軒の建物と草原を利用した小さな飛行場があるだけの場所らしい。

 ブナからココダを通りオーエン・スタンレー山脈を越えてポート・モレスビーに至る道は「ココダ街道」と呼ばれている。その道沿いが戦場だ。道とは行っても車も通れないような小道らしい。

 密林と山脈、最悪な戦場だ。

 しかも道が悪く補給体制も整わないから「南海支隊」の将兵は各自20日分の食糧を背負っての進軍だ。弾薬等も含めると30キロ以上の荷物を背負うらしい。

 派遣された兵士達に同情する。自分なら直ぐに脱落してしまったろう。


 史実において第17軍司令部では「南海支隊」の最低限の必要食糧は1日3トンとはじき出している。

最低限と言うのは本来1人あたり1日6合の米が必要とされるところを4合で計算しているのだ。

 しかも、計算では3万2千人の輜重兵(補給輸送部隊)が必要と出ているのに約3千人ぐらいしか準備できなかったようだ。

 恐らく今回の歴史でも同様だろう。

 いかんよ、これは。使い古された言葉だが「腹が減っては戦はできぬ」だよ。

 飯も充分喰えん所で戦をしても碌な結果になりはしない。


 とは言え連合艦隊司令長官が現地陸軍の一部隊の補給事情について知っていたり口出しする事自体がおかしいので、直接的には自分は「南海支隊」の将兵に何もできない。


 だが直接的にはできないが、間接的にならできる事もある。

 狙いは「南海支隊」への空中補給だ。

 取り敢えずラバウルの陸上攻撃機隊の消耗が激しい事と、「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」を行う陸軍への協力の必要性を理由に、海軍軍令部と交渉して「木更津航空隊」の一式陸上攻撃機36機をラバウルに送る措置をとった。

 まさか「自分は歴史を知っている。南海支隊は補給がうまく行かず食糧難に苦しむ事になる。だから海軍の手隙の輸送機をラバウルに派遣しろ」とは命令できない。


 そもそも根本的に海軍の輸送機が少ない。現在の所、約50機程度しかなくそれが日本本土は元より広い太平洋で使用されているのだ。ラバウルに数の少ない輸送機を集中したら他が困ってしまったろう。

 しかし陸上攻撃機隊ならまだ余裕もあるし派遣するのに別の理由付けもできるというものだ。


 現在、海軍の陸上攻撃機隊は戦闘部隊として史実通り9個編成されている。この他に練習飛行隊もある。


 今回の歴史では「ミッドウェー海戦」で勝利し、「ガダルカナル島攻防戦」も起きていないので、陸上攻撃機隊の配置には史実とは違う変化が起きているし余裕もある。


 現在、アリューシャン列島及び北方海域の担当には千島列島の幌延島に展開した「美幌航空隊」の36機が当たっている。


 日本本土で太平洋東部を哨戒するとともに予備兵力として千葉の館山基地に展開しているのが「元山航空隊」の36機だ。


 南の鳥島と千葉の館山基地に分駐しているのが「三沢航空隊」の36機でこれからミッドウェー島に進出予定。

 史実では、この「三沢航空隊」は「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」で日本軍が勝利した後に、占領したミッドウェー島に進出する予定だった。それが「ミッドウェー海戦」で敗北したため取り止めとなる。次に「ガダルカナル島」の飛行場が完成したらそこに進出する予定だったが、これもアメリカ軍の占領により取り止めとなり、ラバウルに派遣され戦う事になったという経緯がある。今回の歴史では史実の当初の計画通りミッドウェー島に進出する事になったわけだ。


 内南洋で予備兵力となっているのが「木更津航空隊」の36機。


 中部太平洋を担当するのはマーシャル諸島に展開した「第1航空隊」「千歳航空隊」の計72機。


 ベンガル湾及びインド洋を担当するのは「鹿屋航空隊」の48機。


 インドネシアのスラウェシ島とティモール島に展開しオーストラリア北部に空襲作戦を行っているのが「高雄航空隊」の60機。


 そしてラバウルに展開し激戦を繰り広げているのが「第4航空隊」の48機。


 ただし、こうした機数はあくまで飛行隊に配属されている定数であり実数は違う。

 特にラバウルの第25航空戦隊指揮下の「第4航空隊」は48機のところを現在は激戦で消耗し27機にまで落ちている。殆ど半減している。

 そのラバウルに予備兵力となっている「木更津航空隊」の36機を派遣しようというわけだ。


「南海支隊」が必要とする正規の補給量は弾薬等も含めると1日に約5トン。

 一式陸上攻撃機ならば1機で1トン輸送できる。つまり1日5機飛ばせば補給量を賄える。

 だが、しかし、「南海支隊」の進撃路で内陸唯一の飛行場と言っていいオーエン・スタンレー山脈麓の ココダの飛行場は小さいから大型機は離着陸できない。一式陸上攻撃機では無理だ。

 大型機も離着陸できるよう陸軍さんが早目に拡張してくれればいいのだが。


 ココダの飛行場に着陸できないとなると、あとは空中投下という事になる。

 投下する物資が衝撃で駄目になってしまわないように投下用資材を使わなければならず、一式陸上攻撃機なら3機で1トンの空中投下という事になり輸送量はかなり減ってしまう。

 実際に史実では「ガダルカナル攻防戦」初期に3機で1トンの食糧投下を行っている。

 約5トンの物資を空中投下するとなると1日に15機が必要となる。

 流石に毎日15機もの一式陸上攻撃機を空中補給のために飛ばすのは現状では厳しい。投下用資材もそこまでは無い。

 しかし、5機ならばなんとかなるだろう。


 できれば第17軍司令部が「南海支隊」の窮状をラバウルの「第11航空艦隊」司令部に訴え空中補給の要請をするとともに現地でココダ飛行場の整備を早急にしてくれればいいのだが。

 そうなれば、史実とは大きく状況が変わって来るだろう。


 史実でも実際に「南海支隊」への空中補給は行われており、ココダに食糧が投下されていた。ただし必要量には全く届いていなかったようだ。史実では同時期に「ガダルカナル島攻防戦」をしていたから、「南海支隊」を支えるだけの空中補給はできなかったのだろう。


 だが今回の歴史ではまだ「ガダルカナル島攻防戦」は発生していないのだ。

 ともかく大事なのは「第11航空艦隊」司令部が「第17軍」司令部と連携し、うまく空輸を行う事だ。

 ただし海軍軍令部に知られたらうるさい事を言われるだろうから内密に事を進めなくては。

「第11航空艦隊」司令部が新着の「木更津航空隊」の全機を攻撃作戦に投入する事なく、できるだけ陸軍への補給作戦に協力するようにする事と、「第17軍」にココダの飛行場を早急に拡張する事を要請するため連合艦隊司令部の参謀を一人、現地視察の名目でラバウルに送り込もう。そして内密に我が意のある所をそれとなく伝えさせよう。


 海軍の連合艦隊司令長官の自分が何故、陸軍の「リ号研究作戦」「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」に拘るのかと言えば、以前にも書いたが陸軍の将兵とはいえ無駄死にさせたくないという理由のほかにもう一つ理由がある。

 それは現代日本で暮らしていた頃に読んだ「昭和天皇独白録」の中にある。

 あの本を読んで自分が一番驚いたのは、陛下が日本の勝利の見込みを失くしたのは、連合軍がパプア・ニューギニアのオーエン・スタンレー山脈を突破した時だと語っておれる事だった。


 史実において日本の勝利の見込みが潰えたのをどの時点で見定め判断するか。

 それには過去から現代に至るまで人それぞれ様々な見方や意見がある。

「最初から勝利の見込みは無かった」という人もいるし「ミッドウェー海戦の敗北」や「ガダルカナル島撤退」や「マリアナ沖海戦の敗北」という人もいるだろう。


 だが「連合軍によるオーエン・スタンレー山脈の突破」という判断はかなりの少数派ではないだろうか。

 陛下の御判断って一体……


 いや、いや、いや、いや、光輝ある帝国海軍の将たる今の自分が国家の主権者であり現人神たる陛下の御判断をとやかく言うべきではない。史実での事なのだし。

 今の自分は「連合艦隊司令長官」としての本分を尽くせばよいのだ。


 今回の歴史では「ミッドウェー海戦」で勝利したし、更に「ハワイ攻略作戦」を行う予定だから大きく史実とはかけ離れているので、例え「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」が失敗し、敵軍にオーエン・スタンレー山脈を越えられたとしても陛下が史実通りに日本の敗北を覚悟されるとは限らない。

 しかし、陛下のご心配の種はできるだけ減らしておきたい。

 それが帝国海軍の将たる者の務めだろう。

 ましてや陛下にとって意に沿わぬ戦争を行っているのだ。せめて日本軍の大きな失敗と犠牲は減らしておきたい。


 だからこそ「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」を行う「南海支隊」にはポートモレスビー攻略には失敗したとしても、せめてオーエン・スタンレー山脈の北側は確保してもらい、陛下にご心配をお掛けするような事にはならないようにしたいのだ。


 だから自分は陸軍「リ号研究作戦」「レ号作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」に注意を払っているのだ。

「南海支隊」を海軍は支えるのだ!


 それに敵軍でオーストラリアからニューギニア方面の指揮をとるマッカーサー将軍は、史実においてその回顧録の中でニューギニア北東部の日本軍の拠点ブナについて触れている。

「(ブナの戦闘に勝った後は、対日戦の勝利を疑うような事は瞬時も無かった)」

と、回顧録に記述していた。

 

 ニューギニア北東部での帝国陸海軍の重要拠点であるブナ。

 海軍としてはニューギニア方面で最前線基地たるブナ。

 陸軍の「南海支隊」の後方拠点の一つであるブナ。

 史実ではそのブナが地味に一つの焦点だったというわけだ。

 マッカーサー将軍め、今回の歴史ではそのブナを落とさせはしないぞ。

 そして必ずや「アイシャルリターン!」を阻んでやる!

 マッカーサー将軍よ。オーストラリアの地で絶望と悔恨に苛まれるがいい!

 くっくっくっくっ。あっ黒い笑みが出てしまった。


 ところで現代日本の平成時代に生きていた頃の自分にはこのような天皇陛下を非常に敬ったり「尊皇」とも言うべき考えは殆ど無かった。

 お正月と天皇誕生日恒例の一般参賀にも一度も行った事はない。テレビのニュースで見た事があるだけだ。

 そんな自分が尊皇的発言やら思考を行っているとは変われば変わるものだ。


 自分でも不思議に思う。

 これは、もしかして山本五十六さんに憑依?というか同化した副作用だろうか。

 自分では気付かないところで山本五十六さんの意識の影響を受けているのかもしれない。

 それに自分が現代日本で暮らしていた頃は、こんなに羊羹を美味い美味いと言って食べていなかった。

 現代日本ではポテトチップ◯とかエ◯せんべいみたいな塩味系統のお菓子を好んでいたわけで和菓子なんて滅多に買わないし食べなかった筈だ。

 もしかしたら、その辺りも甘党で有名だった山本五十六さんの影響が出ているのかもしれない。


 でも、まぁ甘党になったからと言って害があるわけでも無いし、「尊皇」の意識が高くてもそこは「郷に入れば郷に従え」みたいなもので、この時代にはこの時代に相応しい生き方とも言えるだろうから、まっいいか。


 それにしても、独断で第17軍による「ポートモレスビー攻略作戦」を推進した辻政信参謀は、史実でも今回の歴史でもその独断専行を咎められる事は無いようだ。

 

 何というか陸軍さんの組織というのも相変わらずだ。

 下の者が勝手な事をしても罰せられないから下剋上の気風が生まれ更に好き勝手する。

 

 そう言えば「高松宮日記」にも辻政信参謀について触れられている箇所があった。

「高松宮日記」は太平洋戦争当時、海軍の佐官だった皇族の高松宮宣仁親王殿下の日記だ。開戦時は中佐だった方だ。

 平成の時代になってその日記が発見され某出版社より本となって出版された。


 その日記の中で高松宮宣仁親王殿下は、1942年のマレー攻略戦について辻政信参謀が新聞記者に語った内容に随分とご立腹のようだ。

 特に参謀が一人で作戦を行ったかのように語り、司令官を蔑ろにし、海軍との協定や作戦内容について本来秘密にしなければならないような部分まで暴露した事についてお怒りだったようだ。

「(下剋上を是認する不純なる統率の陸軍における病)」とか「(海軍の統率より甚だしく排斥されるべき思想)」とまで書かれておられるのだから余程、目に余るとご判断されたのだろう。


 マレー攻略戦で辻政信参謀の上官であった第25軍司令官の山下泰文中将も日誌に批判的に書いている。

「(我意強く。小才に長じ、いわゆるこすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男)」

 と、かなりの低評価だ。


 辻政信参謀という人物はノモンハン、マレー、フィリピン、ガダルカナル、ビルマと激戦地に行った人だが、行った先で何かしら問題行動を起こしている。大抵は越権行為だ。


 戦後に出された元軍人の手記や戦記物にもその名前がよく出てくる。

 面白いというか何というか、そうした書物の中での辻政信参謀の評判は、凄く良く書かれたり、凄く悪く書かれたりで中道という事があまり無い。讃えられるか批判されるかで評価が極端だ。それも実際に会って一緒に任務についた事のある士官クラスの人達がそういう風に書くのだから、よっぽど癖のある人物だったのだろう。

 まぁいずれにしろ独断で何度も越権行為を行っている事は間違いない。


 史実の山本五十六連合艦隊司令長官も辻政信参謀については嫌っていたそうだ。

 そう言えば史実において山本五十六連合艦隊司令長官は辻政信参謀と面会した事もあった筈だ。

 1942年9月に辻政信参謀は「ガダルカナル島の陸軍にもっと海軍の支援を」という事でトラック島に停泊していた連合艦隊旗艦「大和」を訪問している。


 ここでちょっと興味をひくのは旗艦「大和」で食事を出された時の辻政信参謀の反応だ。

 御馳走を出されて激怒したという話がある。

 前線で兵士達が食う物もなく苦労しているのに、この御馳走は何だと怒り、接待役の海軍士官が宥めるのに苦労したという話なのだが、辻政信参謀が戦後に出した自著「ガダルカナル」を読むと、激怒したようには書かれていない。

 鯛の塩焼き、鯛の刺身、冷えたビールなどの御馳走を出され、それを全部食べ終えた後に「海軍さんは贅沢ですなぁ」と一言嫌味を言った程度と言う事になっている。

 しかも接待役の海軍士官も笑顔で「これは山本長官が……」と御馳走を出したのは山本五十六連合艦隊司令長官の辻政信参謀への特別な計らいだった事を説明し、それを聞いた辻政信参謀本人が恥じ入ったという事になっている。

 いったいどちらの話が本当なのやら。


 辻政信参謀自身が戦後に出した著書の内容については、同じ戦場にいた人達から諸々な事について事実は違うと指摘する声もあるので盲信する事は危険だ。

 しかし、だからと言って全てが事実に反するとも思わない。

 こういうものは同じ一つの物事でも、それに関わった人物の立場とか状況次第で色々と見方も変わる。


 例えば史実における「南海支隊」を率いた堀井少将にも二つの見方がある。

 堀井少将は元は「第55師団」の歩兵団長で、「第55師団」所属だった「第144歩兵連隊」を始めとする幾つかの部隊を中心に「南海支隊」を率いていた。

「南海支隊」には他に「第5師団」の「歩兵第41連隊」や、その他の部隊から配属されて来た幾つかの部隊もあった。


 作戦中、堀井少将は元の「第55師団」に所属していた部隊、所謂、元からの部下達を贔屓にしていたという批判がある。

 例えば空中投下で補給された食糧は「歩兵第144歩兵連隊」を中心に配給され、その他の部隊には配給されなかったいう話や、ポートモレスビー攻略を諦め撤退する事になった時も最終的に後衛部隊にされたのは「歩兵第41連隊」だったという事から贔屓していたという話が出たようだ。


 確かにそういう見方もできるだろう。

 しかし、贔屓とは別の見方もできる。

 空中投下された食糧が優先的に配給されたのは、その時、最前線で戦っていた部隊にであり、それが「歩兵第144連隊」だった。最終的な後衛部隊に「歩兵第41連隊」が回されたのも、それまで後衛で戦っていた「第144歩兵連隊」の戦力が限界に来ていたからだ。だから交代した。

 立場が違えば見方が変わる場合もある。

 一つの方向からだけで人物や戦いを評価したり判断する事は危険な事だ。


 まぁそうした話はともかく、陸軍において「越権行為」や「下剋上」何て事が罷り通ってしまうようになった始まりは、やはり1932年の「満州事変」ではないかと思う。


「関東軍」が中央の指示に従わずに好き勝手に動いて「満州国」を成立させた。

 しかも、その中心人物達が罰せられず栄達したともなれば、他にも国のために自分の考える作戦を勝手にやっても成功すれば文句は無いだろうと考える者が出て来てもおかしくはない。

 実際、以後の史実では「勝てば官軍」で成功すれば許されるという悪い風潮で陸軍の行動は暴走して行っている様に見える。


「満州事変」の立役者の一人である石原莞爾将軍自身もそれで自らの足元を掬われている。

 

 1936年秋、石原莞爾将軍はこの頃は大佐で参謀本部の第二課長(作戦担当)だった。

 この時、関東軍司令部がある計画をしているという情報が入る。

 内蒙古で「満州国」のような統一した国家を建設しようという内蒙古工作だ。

 石原莞爾大佐としては、今そのような事をすればソ連との関係が危うくなり「満州国」が危険にさらされると判断する。

 そこで関東軍にそのような計画は実施しないように説得するべく石原莞爾大佐は満州国の新京にある関東軍司令部に飛ぶ。そして計画を止めるよう説得した。

 だが、しかし、関東軍司令部は石原莞爾大佐の言葉を撥ね付けた。


 関東軍の参謀の一人、武藤章中佐は「自分達は石原参謀が満州事変でやられた事をお手本にしているだけです」と言い、これに石原莞爾大佐は何も反論できなかった。

 結局、石原莞爾大佐はその後、1936年11月に起きた「綏遠事件」と呼ばれる戦いを止める事はできなかった。

 これは「関東軍参謀」兼「徳化特務機関長」の田中隆吉中佐が計画したもので、「蒙古軍政府軍」を使った綏遠省への進攻作戦だ。

 この「綏遠事件」については『1942年7月』に記述したと思う。

 

 石原莞爾大佐の「身から出た錆」とも言うべき事態は翌年にも起こる。

 石原莞爾大佐は翌年1937年3月に少将に昇進し参謀本部第一部長となる。

 それから4ヵ月後の7月に「盧溝橋事件」が発生し日本軍と中国軍が衝突した。

 石原莞爾少将は当初、日本は今戦争をしている時ではなく満州を開発して日本の国力を高め強くするべきだという考えから不拡大方針をとろうとする。

 しかし、部下の参謀の中にその方針に異を唱え拡大方針をとろうという者がいた。

 そして石原莞爾少将は再び満州事変の事を持ち出され「閣下の模範に従って……」と言われ、なかなか参謀本部内を不拡大方針に統一する事ができなかった。


 そして結局は中国との戦いは拡大していく。

 石原莞爾将軍は自らの行いが正にブーメランとして跳ね返って、己の考えを通す事ができなかった。

「因果はめぐる糸車」だ。


 その石原莞爾将軍だが、当時も現代日本でも随分と持ち上げている人がいる。


 現代日本で暮らしていた頃に、陸軍の「良識派」という人達について書かれた本を読んだ事があったが、その「良識派」の中に石原莞爾将軍も入っていたのには思わず苦笑してしまった。


 その著者は石原莞爾将軍が陰謀で「満州事変」を行った事については開き直り、石原莞爾将軍の持っている歴史観、軍事観から「良識派」と主張していた。

「良識=歴史観、軍事観」と言うのは強引すぎる論理だろう。

と、いうかその著者の独自理論だろう。


 国語辞典で「良識」とは何か調べてみるといい。そこには「健全な考え方」とか「健全な判断力」と載っている筈だ。

 優れた歴史観、軍事観を持っている事と、軍人としての良識を弁えている事は別問題だろう。


 そして石原莞爾将軍が行って来た事は果たして軍人として「健全な考え方」であり「健全な判断力」と言えるものなのか?

 陛下のご命令も認可も無く勝手に謀略を仕掛け「満州事変」を起こす。

 その「満州事変」を起こした最中、陸軍参謀総長から事態の不拡大方針を命じる緊急伝が関東軍司令部に伝えられた時に石原莞爾参謀はどうしたか。

「俺は作戦主任はやめた。あとは片倉、貴様がやれっ」と片倉大尉に押し付け寝てしまった。


 日本側が仕掛けた謀略とは露知らず前線では将兵が命令に従って懸命に戦っている時に、それも石原莞爾参謀らの立てた計画に従って命懸けで戦っている時に、肝心要の参謀がそうした発言と態度をするというのは軍人としていかがなものか。

 と言うより自分の考えが通らないからと言ってそういう態度と発言をするのは「大人」として「人」としていかがなものか。子供じゃあないんだから。


 この時、指名され責任を押し付けられた片倉大尉も流石にムッとして周囲にいた者達へ「対策を考えるべきです」と言ったそうだが、一番言いたかった相手は石原莞爾参謀へではないだろうか。


 その「満州事変」から5年後の1937年9月に石原莞爾参謀は関東軍参謀副長に任じられた。

 そこで衝突したのが関東軍参謀長だった東条英機中将だ。

 東条英機関東軍参謀長と「満州国」の在り様をめぐり意見が対立する。


「満州国」を日本の傀儡国家であり植民地とする東条英機関東軍参謀長に対し、在満民衆の手による国家運営を主張し「関東軍」による満州国への政治指導を止めるべきだという石原莞爾関東軍参謀副長の進言は相容れないものだった。

 意見の対立は何にでもよくある事だろう。

 問題はその後だ。


 自分の意見を受け入れない東条英機関東軍参謀長について石原莞爾関東軍参謀副長は「高級副官程度が適任」と酷評し、更には「軍曹程度が適任」とか「上等兵が適任」と更に評価を下げた暴言を吐き、それが東条英機関東軍参謀長の耳に入る事になる。


 上官で階級が上の者に対し意見が通らないからと言って暴言を吐くとはいかがなものか。子供じゃあないんだから。階級社会なのにそれでは下の者に示しがつかんだろう。


 1938年5月に東条英機関東軍参謀長は陸軍次官に栄転し「満州国」をあとにする。

 その後に関東軍参謀長になったのは磯谷廉介中将だった。

 この磯谷廉介関東軍参謀長も石原莞爾関東軍参謀副長の「満州国」についての進言に反対する。

 前任の東条英機中将に石原莞爾関東軍参謀副長の進言は聞き入れるなと言われていたらしい。

 そこは石原莞爾関東軍参謀副長に同情すべき点はある。


 だが、しかし、全く自分の進言が受け入れられない石原莞爾関東軍参謀副長は1938年8月に「予備役願い」と「病気静養の休暇願い」を提出すると許可も取らずに勝手に帰国した。

許可も取らずに任地から勝手に帰国するのは明らかな軍規違反だ。

 軍法会議にかけるべきだという声が軍内部で上がったほどだ。当然だろう。

 ただし、文献によっては石原莞爾関東軍参謀副長は許可をとって帰国したとしているものもある。


 この時、帰国した石原莞爾少将は旧知の民間企業社長に「君は東条の軍人か。陛下の軍人か。もっと態度を慎むべきだ」と諭されている。

 民間人に「陛下の軍人」と諭されるとは軍人として如何なものか。それも少将という将官の身なのだ。 将兵の見本であらねばならない立場だろうに。

 完全に陛下の軍人としての本分を見失っているとしか思えない。


 結局、石原莞爾少将は軍法会議は免れたものの関東軍参謀副長から舞鶴要塞司令官に左遷された。

 その後、それでも石原莞爾少将は中将に昇進し更には第16師団長となる。

 これは「満州事変」当時の上官であり、この時は陸軍大臣になっていた板垣征四郎中将が石原莞爾将軍を庇い擁護し昇進を後押ししたからだ。つまり「満州事変」での陰謀仲間が助けてくれたと言える。

 だが、その後も石原莞爾将軍の「口撃」は止まない。


 東条英機中将が陸軍大臣の頃には京都帝大の講演会において日中戦争の最中なのに「敵は中国人ではない日本人だ」と言い、続けて「東条(陸軍大臣)、梅津(関東軍司令官)こそ銃殺されるべき人物である」と発言している。

 軍の規律を何だと思っているのやら。

 発言が酷すぎる。

 自分の考えが通らないのが不満なのはわかる。

 だからといって言って良い事と悪い事があるだろう。何事にも限度というものがあるだろう。

 言論の自由が保障されている現代日本だって何でも言っていいわけじゃない。

 現役の将軍がこんな事を世間に向かって言っているのだ。陸軍内の規律が乱れ「下剋上」になるのも無理はない。


 貴族院議員でジャーナリストであり歴史家でもあった徳富蘇峰氏は石原莞爾将軍について「他人に使われる事ができない人だった」と話していたそうだが、階級社会の軍人として、それは致命的過ぎだろう。


 陛下も石原莞爾将軍は好まれなかったようで、昇進や師団長任命の判子をなかなかお押しにならなかったそうだ。尤もな話だ。


 こんなにも軍の規律を蔑ろにした人物が「良識派」だと?

 こういう人物を自分は「良識派」だとは認めない。例え日本の戦史研究家全員が認めたとしても自分は認める気はない。絶対にだ!



 ところで石原莞爾将軍はよっぽど東条英機大将が嫌いだったのだろう。

 1945年という大戦末期に東北軍管区の某中尉が某参謀の命令により、石原莞爾将軍の許を訪れ本土決戦の方策を尋ねた事があったそうだ。

 その時の石原莞爾将軍の回答は、

「(東条軍曹なんかに戦争ができるわけがない。わしの見透しに明らかに負けた。本土決戦なんぞと言っても、軍曹には及ばんことだ)」

と言ったそうだ。この逸話は石原莞爾将軍の友人だった山口重次氏の著書「石原莞爾・悲劇の将軍」(大湊書房)にある。

 東条英機大将は前年の7月に内閣総辞職をして総理大臣、陸軍大臣、軍需大臣を辞し、既に全ての要職から身を引いており政府も軍も率いる立場にはいない。

 それにも関わらず、まだ東条英機大将を批判するとは、もう東条憎しで目が曇っているという他はない。

これで良識があると言われてもねぇ。



 石原莞爾将軍という人は「最終戦争論」を唱えた事でも名高い。

「最終戦争論」では、やがて世界はドイツ、イタリアを中心とする「欧州」と、南北アメリカを制する「アメリカ」と、「ソ連」と、日本を中心とするアジア連合の「東亜」の四つのグループに分かれ、そして最終的には「アメリカ」と「東亜」が世界を統べる決勝戦を行うと予測している。


 また1発で何万人も死ぬ破壊兵器の登場や、地下から掘り出されるウラニウムなどで無限の動力が得られる事を指摘している。原爆や原子力発電所と言ったところだろう。

 石原莞爾将軍はドイツに留学した事もあり最先端の科学についても学んだようだ。他にも「最終戦争論」の中ではドイツで研究されていたバクテリアの話などもしている。

 そうした内容故か現代日本でも「最終戦争論」をもって石原莞爾将軍を高評価している人もいる。


 だが、「最終戦争論」を読むと必ずしも当たっている事ばかりでない事にも気付く。

 

例えば最終戦争が起こり50年以内に世界が統一されるとあるが、実際には「最終戦争論」が唱えられてから70年以上経っても世界は統一されていない。

 そもそも最終戦争自体が起こっていない。

 ソ連はスターリンが亡くなれば崩壊するとあったが、スターリンが亡くなっても崩壊しなかった。

 イギリスを落日の帝国のように評価しているのはともかく、その中でインドについては日本またはソ連の方がイギリスよりも影響力が大きいみたいな事を書いている事には首を傾げざるをえない。

 オーストラリアについても同様だ。日本の威力の前にはイギリスの力を持ってしても保持できないとしているが、史実では日本の国力の限界からオーストラリア本土侵攻はできなかった。

 無着陸で世界を何周もできる飛行機ができるとあるが、まだ登場していない。

 不老不死の妙薬が発見されるとあるがまだ発見されていない。

 まぁ誰しも未来を語れば幾つかは当たるというものだろう。

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」だ。

 当時の一般の人達の耳にさえ将来は殺人光線だの殺人電波などという兵器ができるという話が入っていたのだ。

「最終戦争論」も自分としてはその程度の話だと思っている。


 更に言えば石原莞爾将軍の提唱した「五族協和」とか「東亜連盟」構想とかは理想主義と言う前に現実が見えていないだろう。

 如何に石原莞爾将軍が「満州」について「日(日本民族)」「満(満州民族)」「鮮(朝鮮民族)」「支(支那(漢)民族)」「蒙(蒙古民族)」の「五族協和」と「日満協栄(日本と満州が協力した繁栄)」を説き、さらに中華民国を含めアジア民族の大同団結と国家的平等の「東亜連盟」構想を説こうとも、それは日本以外のアジアの人々からすれば、所詮は日本の事情であり、日本の国家戦略としてアジアの人々と資源を利用しようとしているのに過ぎないと思うだろう。

「満州国」がいい例だ。所詮は傀儡国家の「満州国」なのだ。


「東亜連盟」構想については、逆に日本内部からかなりの反発の声が上がっている。

 国家的平等は東亜(アジア)における日本の優位性や指導性を損なうものだとか、民族協和は民主主義の概念であり、朝鮮の日本からの分離思想を刺激するとかの批判の声が出ているが、この時代の声としては尤もな話だろう。

 東亜(アジア)の一体化は目指すベきものではある。

 しかし、それは日本を頂点とする支配体制でなければ意味は無いのだ。

 そして、それが政府が軍が国民の多くが考え望む理想の東亜(アジア)でもある。

 石原莞爾将軍は理想主義が高じるあまり、その現実が見えなくなってしまっていたようだ。


 それと、まだ「盧溝橋事件」が勃発する前の時点で、険悪化していく日本と中華民国の関係を修正し、両国の関係を改善しようと石原莞爾将軍が構想していたのが、「満州国」領土の一部返還、もしくは中華民国側への解放だ。

 

 これは「満州国」の「熱河省」「錦州省」から日本軍が撤退し同地を日本と中華民国で協同経済開発しようというものだ。

「満州国」が建国された当初は、中国の地域区分で「遼寧省」「吉林省」「黒龍江省」「熱河省」と「内蒙古盟旗地区」から成っていた。「満州国」の統治機構が整備されていく中で、これらは14の省に再編される。

 そのうちの「熱河省」と「錦州省」から日本は軍事的に手を引いて中華民国に譲歩すれば日中関係は改善されるだろうと石原莞爾将軍は考えていたようで、この案にかなりの自信を持っていたようだ。


 だが、しかし、日本側からすれば大幅な譲歩かもしれないが、中華民国の蒋介石主席にしてみれば、「満州」全土を日本から取り戻したいわけで、自分に言わせれば石原莞爾将軍の考えは甘いと言わざるをえない。

 中華民国からすれば日本は満州という領土を奪った侵略者に過ぎない。

 日中戦争が開始された後、何度か中華民国と日本との間で講和交渉が進められたが、日本の出した条件の一つ「満州国承認」を中華民国は決して認めなかった事からもそれはわかるだろう。


 石原莞爾将軍の考えは結局は侵略した相手に少し譲歩して待遇を良くしてやるから味方になって協力しろと言ってる様なものだ。それで相手が納得する筈ないではないか。

 だから甘いというのだ。


 ちなみに「熱河省」「錦州省」の二省返還計画は「盧溝橋事件」の勃発で頓挫している。

 そもそも石原莞爾将軍は参謀本部に勤務していた時は「満州国」の領土である「熱河省」「錦州省」を勝手に中華民国に返還だの解放だの言っておいて、その後に関東軍参謀副長に任命されたら今度は「満州国」の政治は満州人に任せ日本軍は手を引くべきだと言うのだから、石原莞爾将軍の主張は「二律背反」だろう。


 こうした「二律背反」の発言を石原莞爾将軍は2.26事件の時にも行っている。

1936年の2.26事件時、参謀本部の第二課長だった石原莞爾大佐は反乱を起こした将校の一人に「皇軍を私物化するな!」と怒鳴りつけている。

 皇軍を私物化して「満州事変」を起こしておいて、よくもそんな偉そうな事を言えたものだ。

 もし、自分がその場に居合わせたなら「お前が言うな!」とどやしつけてやったろう。


 史実では1942年7月に陸軍内で予備役の石原莞爾将軍を担ぎ出そうとする動きがあったようだ。今回の歴史ではどうなのかわからないが。

 ともかく史実では泥沼状態になった中国戦線について、蒋介石主席との和解の道を探るべく石原莞爾将軍を起用しようという考えが陸軍内にあったようだ。

 結局は交渉よりも重慶攻略作戦を行うという事で石原莞爾将軍を担ぎ出そうとする声は立ち消えとなってしまったようだ。

 例えその時点で石原莞爾将軍を担ぎ出しても中国と和解できたとは思えない。

 中華民国の蒋介石主席は戦争で中国全土を取り戻そうという意思を固めていたからだ。


 ところで史実において石原莞爾将軍と山本五十六提督は面識がある。


 陸海軍の懇親会で席が隣でちょっと会話したらしい。石原莞爾将軍が懇親会に参加している陸軍のお偉方について「陸軍はああいゆう奴らがやってるからだめなんだ」と言ったところ、山本五十六提督は「そういう事を言う奴がいるから陸軍はだめなんだ」と言ったそうだ。この返しに石原莞爾将軍は沈黙するしかなかったそうだ。

 今回の歴史でも史実通りの事があったので、史実通りの対応をしておいたよ。

 ふっふっふっ。


 自分は石原莞爾将軍を問題人物として捉えている。

 既に述べたように軍の規律を蔑ろにし、陸軍内に下剋上の要因を植え付ける原因になった人物の一人だと考えている。

 それと「満州事変」の謀略の件については、国際連盟から派遣された「リットン調査団」にすぐに見破られる程度の偽装工作しかしていないのだから手落ちが過ぎる。幾らでも偽装工作をする時間はあったろう。

 また、既に述べたように参謀本部勤務時代は部下や関東軍の動きを押さえ切れていない。

「五族協和」や「東亜連盟」構想は甘すぎる。

 だから自分としては石原莞爾将軍をそう高くは評価していない。


 そう言えば史実で太平洋戦争が始まった1941年12月8日に石原莞爾将軍は旧知の新聞記者と偶然出会い、戦争開始について「すべてはお終いだ」と言ったとか。

その後も他所で「日本は負ける」と断言していたそうだが、きっと今回の歴史でも同様の発言をしているだろう。


 いいだろう。見ていろよ石原莞爾将軍。

 その考えが間違いだという事を思い知らせてやる。

 思い上がって伸びすぎたその鼻をへし折ってやる。

 今回の歴史には自分がいるのだ。

 必ずやアメリカ相手に日本を勝利に導き吠え面をかかせてやるぞ。

 くっくっくっくっふっふっふっふっワッハハハハハ、アッ!……

 わ、笑いすぎた。あ、顎が、顎が外れそうになった。い、痛い、顎が痛い。痛たたたたたたっ。


 何か長々と石原莞爾将軍を酷評してしまったが、まぁ石原莞爾将軍にも良い部分はある。

 連隊長だった時は兵士の食事の質を良くしたり、大浴場に工夫を凝らして環境を良くしたり、訓練にも気を配り、信賞必罰で兵士の士気を高め連隊を精鋭部隊に仕立て上げている。

 師団長だった時も同様で更に将校の教育にも気を配っている。


 石原莞爾将軍という人物は参謀よりも指揮官として部隊を率いて戦場に立った方が、それこそ日本のために役立ち活躍できたのではないだろうか。

 

 日本には名将と呼ばれた将軍が何人もいる。

 宮崎繁三郎中将、根本博中将、今村均大将などだ。他にもいるが割愛しよう。ついでに言えばこの3人は、それこそ自分に言わせれば陸軍の「良識派」だと思う。

 もし石原莞爾将軍が前線に出ていたら、こういう将軍達と同様に名将と呼ばれていたかもしれない。


 ついでに石原莞爾将軍と散々衝突した東条英機首相についても記述しておこう。


 東条英機首相はとかく評判が悪い。

 圧政家だとか憲兵政治を行ったとか報復人事を行ったとか色々と言われる。確かにそういう面もある。


 自分もこれまで陛下のご意思を蔑ろにしていると批判した事があった。


 重用した人物にしても「三奸四愚」と呼ばれる始末だ。

「三奸四愚」の「三奸」は加藤泊治郎憲兵隊司令官、星野直樹内閣書記官長、鈴木貞一企画院総裁だ。

「四愚」は木村兵太郎陸軍次官、佐藤賢了陸軍省軍務局長、真田穣一郎参謀本部第一部長、赤松貞雄内閣秘書官だ。

 こうした「三奸四愚」と呼ばれた人達の他にも問題人物を重用している。


 陛下は東条英機首相が評判を落とした理由の一つとして、田中隆吉少将、富永恭次中将という評判の良くない者を使った事と仰られていたと「昭和天皇独白録」にはある。


 まぁこうした人物達がどう良くなかったのかは……

 何れ語る機会もあるかもしれない。無いかもしれない。

 だって9人もの人物について語るのは面倒ではないですか。面倒ではないですか。


 そんな話はともかく、東条英機首相にも悪い面ばかりでなく良い面も当然あった。

「カミソリ東条」と呼ばれたように軍務では有能な部分がある所を見せた。そうでなければ出世する筈が無い。


 デスクワークでの実務家ぶりは優秀だった。

 2.26事件の時は関東軍憲兵司令官として満州にいたが、事件の連絡を受けるやいなや反乱軍に同調しそうな者を速やかに検挙し、関東軍内部の動揺が広がるのを最小限に抑えた。

 日中戦争初期には4個旅団からなる「東条兵団」を率いて戦い、その迅速果敢ぶりを謳われた。

 部下思いで、戦地では兵と同じ食事をした。

「東条兵団」の軍規は厳正で中国人達にも好評だった。


 戦時下の首相時代の逸話として有名なものに町のゴミ箱の中まで視察した話がある。これについては揶揄したり悪く言う者もいるが、一方でゴミ箱の中を見た理由として、きちんと一般市民の家庭に配給の魚や野菜が届けられているか、届けられているのならその残飯がある筈だという事で、国民の生活の事を気にかけてゴミ箱をチェックしたという話もある。その理由が本当ならちょっと行き過ぎな気はするが、国民の事を気にかけていると言えるだろう。

「パンが無ければケーキを食べればいいでしょう」何て事を言ったどこかの国の王妃様よりは余程立派と言えるかもしれない。尤もこの「パンが無ければ……」の逸話は実際には某王妃様は言っていないという研究もあるようだが。


 ともかく東条英機首相は陛下の信任も厚かった。

 自分などは南仏印進駐に反対だった陛下のご意思を遂行しなかった事や、開戦に反対だった陛下のご意思をこれまた完遂できなかった事に加え、シンガポール陥落が見えた時点で陛下が講和について言及され早期平和を願っておいでだったにも関わらず、講和の道を求めなかった事などから陛下のご意思を蔑ろにしていると批判するわけだが、当の陛下はそうは見ておいでにならなかったようだ。

「昭和天皇独白録」からは東条首相への信頼ぶりが窺える。だからこそ東条内閣はそれなりの期間続いた。


 それにしても史実において歴史的に惜しいのは「東条メモ」が失われた事だろう。

 東条英機という人物は「メモ魔」と綽名される程、色々とメモをとったそうだ。

 同僚や部下の発言も書きとめ、後で部下や同僚が前とは違う意見を言った場合は、メモの内容と突き合わせて相手をやり込めてしまったらしい。


 最初にメモした物は後で三種類に分類して三つの手帖に書き写していたようだ。

「日付け順」の物、「項目別」の物、「重要事項」の物と三冊の手帖に書いていたというから、かなりの几帳面さだろう。細かいというべきか。


 この「東条メモ」は敗戦時に焼かれてしまったそうだが、もし残って公開されていれば歴史の陰の部分に大いに光が当てられたかもしれない。惜しい事だ。


 あれっ。今回の歴史では「東条メモ」はどうなるんだ?

 まぁ自分が気に掛けるような事じゃないか。


 ところで、東条英機首相は公人として地位を悪用して財産を蓄えるような事はしなかった。

 それどころか贈り物さえ送った相手に返送し受け取らなかったという話だ。

 戦時中に配給制が施行され少ない配給食糧を補おうと人々が闇市で食糧を購入していた時も、東条家では配給食糧だけで我慢し決して闇市を利用しなかったそうだ。


 アメリカ軍が日本を占領し政府要人の財産調査をした時、一年前までは一国の首相の座にあったにも関わらず、あまりに東条家の財産が少ない事に驚いたという話もある。

 

 そういう面では現代日本でのどこかの元政治家よりは余程清廉だったと言えるだろう。

 なんて偉そうな事を言ったが、正直に言おう。

 もし自分が権力者になったのなら諸々の誘惑に負ける自信がある!

 賄賂だの利益誘導だの不正な経費の使い込みだのの誘惑に打ち勝つ自信などない!

 いや自慢できる事じゃないけどね。

 東条英機首相にも尊敬できる点はあったのだ。

 性格的に少々堅苦しい所はあったかもしれないが、私欲に溺れるという事の少ない人であった事は確かだ。


 東条英機首相という人物はよく石原莞爾将軍と比較されるが、対極に位置するという意味では山本五十六連合艦隊司令長官の方が相応しいように思う。


 陸軍軍人と海軍軍人。


 山本五十六連合艦隊司令長官は「政治家になった軍人なんてろくな事はできん」と政治に否定的であり、政治家にはならなかった。

 東条英機首相は陸軍大臣となり更には政治家の頂点たる内閣総理大臣になった。

 

山本五十六連合艦隊司令長官は戦争の先行きに確信を持てなかった。だから近衛首相に1年や2年は暴れてみせますがという話をした。

 東条英機首相は沖縄陥落後も勝利を信じていた。


 山本五十六連合艦隊司令長官には家庭はあったが愛人もいた。

 東条英機首相は家庭を大事にし愛人を持つ事は無かった。


 両極端な二人だと思う。

 まぁ今は自分が山本五十六連合艦隊司令長官として生きているわけだが、東条英機首相については政策的に賛同できないところはあるが、私人としては嫌いになれないタイプの人間だ。


 人は誰しも良い面と悪い面を持っている。

 また、良かれと思った判断がそれこそ良い結果を生む場合もあれば、意に反したり想定外に悪い結果を生む場合もある。

 戦争の中で勝利に結び付くような良い面、良い判断が常に出ればいいのだが、そうそううまくはいかない所が難しい。


 陸軍さんについて長々と、とやかく言ったが、海軍にしても実際のところは偉そうな事は言えんのが実態だ。

 海軍内部にも問題はあったし下剋上もあった。


 特に海軍軍令部と海軍省に跨る組織「海軍国防政策委員会」の「第一委員会」の存在は問題だった。

 

 史実でも今回の歴史でもこの「第一委員会」が海軍を、いや日本を戦争に引っ張って行ったと言える。


「海軍国防政策委員会」は1940年12月12日に設置された機関だ。

 第一から第四までの委員会があり、第一が政策、第二が軍備、第三が調査、第四が情報を担当した。

 海軍省と海軍軍令部の各部署の煩雑な手続きを経て行われる各種案件をこの委員会により効率化して速やかに行おうというものだ。


 ただ、実際には、防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第91巻「大本営海軍部・連合艦隊1」に、委員会の発案者である高田利種大佐の「(陸軍の政治力に海軍も対応できるように委員会の設置を考えた)」と言う発言が載っているように多分に政治的な動機から設置されたとも言われる。


 その「第一委員会」は海軍の国防政策の実行具体案を起案し、また重要国策の殆どを審議し各部署との連絡を取り合う事を行っていた。

「第一委員会」のメンバーは海軍省軍務局の第1課長と第2課長、海軍軍令部の第1課長と第1部甲部員の4人の大佐をメインとしていた。


 言うなれば海軍の中堅クラスの実力者を集めた組織と言える。

 当然、この者達の上には各組織の局部長、海軍次官、海軍次長、軍令部総長、海軍大臣などがいるわけだが、重要な案件について「第一委員会」で審議され通過された物については、上の者は黙って了承するという状況であり、事実上、海軍の政策決定機関と言えた。


 永野海軍軍令部総長などは「今の中堅クラスが一番よく勉強してるから彼らに任せる」と言うような事を言って出された書類にただ判子を押すという状況だったらしい。


 そんな状況だから「第一委員会」のメンバーにはかなり増長した者もいたようだ。

 井上成美中将が海軍次官代行を務めていた時、「第一委員会」の一人が、あまりに次官を蔑ろにした態度をとるので叱責したという話が伝わっている。


 それはともかく、最も重要な問題点は「第一委員会」のメンバー全員が「親独対米強硬派」だったという事だろう。

 というより「第一委員会」が元々「親独対米強硬派」のための組織だったと言った方がよいだろう。

 

 事の始まりは岡敬純少将だ。この人は「親独対米強硬派」だった。

 この人が1940年10月に海軍省軍務局長に就任する。

 そこで軍務局の組織改編を行った。

 新たに政治的に陸軍対策を行う政策機関の第二課を新設する。

 

 この第二課長になったのが石川信吾大佐だ。人事局はその性格に問題有りとして第二課長にするのを渋ったが、岡敬純少将がこの人事を強引に押し切った。

 何故なら石川信吾大佐は岡敬純少将と同郷で更には「親独対米強硬派」だ。

 更に第一課長は高田利種大佐だが、この人も「親独対米強硬派」だ。

 これで軍務局は「親独対米強硬派」の牙城となった。


 ここで高田利種大佐の発案で「海軍国防政策委員会」を発足させる事になるのだが、これにより海軍軍令部内の同士と連携した。

 つまり海軍軍令部から「海軍国防政策委員会」の「第一委員会」に参加した第一課長の富岡定俊大佐は、これまた岡敬純少将、石川信吾大佐と同郷であり、更には「親独対米強硬派」だ。

 他に軍令部からは第1部甲部員の戦争指導班の大野竹二大佐が参加するが、この人も「親独対米強硬派」だ。


 こうして「海軍国防政策委員会」の委員長に岡敬純少将が就任し、その下の最も重要な「第一委員会」のメンバーに、軍務局第一課長の高田利種大佐、第二課長の石川信吾大佐、軍令部第一課長の富岡定俊大佐、第1部甲部員の戦争指導班の大野竹二大佐がなったが、全員が「親独対米強硬派」という組織になった。


 要は「親独対米強硬派」が海軍で自分達の意見と政策を押し通すために「海軍国防政策委員会」を組織したと言っても過言ではないのだ。


 ヨーロッパでのドイツの成功と勢いを目の当たりにし、そのドイツの力を信じるようになった者達は日本もドイツに同調しその力を利用して日本の国益にプラスになるよう動くべきだという考えを持つ。

 そうした「親独対米強硬派」が海軍の政策を左右をする立場になった。

 だから当然、以後、海軍の政策は親独対米強硬派路線であり強硬な南進論になっていったのだ。


 その「第一委員会」で中心的動きをしたのが石川信吾大佐だ。


「第一委員会」ができる前は、海軍も強硬的な南進論には消極的だった。

 1940年4月20付けの海軍軍令部が纏めた「蘭印問題処理ニ関スル根本方針」では蘭印との関係を緊密にする事で英米を牽制する必要はあるが、対英米戦を誘発するような行動は慎む事が肝要だという事が示されている。


 1941年6月5日に大本営政府連絡懇談会が開かれ「対南方施策要綱」が決定されるが、これは日本が南方に必要とする資源については平和的手段により獲得していくという方針だ。

 元々、4月にはこの「対南方施策要綱」の要旨は決まっていたが、変化する国際情勢を見極めるため、大本営政府連絡懇談会の議題に上げられるのが遅れていた。


 こうした消極的な南進論の方針に反対する「第一委員会」が同じ6月5日に纏めたのが「現情勢下ニ於イテ帝国海軍ノ執ルベキ態度」という報告書だ。

 この報告書には、蘭印が恐れるのは日本の武力行使であるからその姿勢を見せる事が最も効果的であり、速やかにタイと仏印に軍事的進出を行い、もしもそれを英米が阻むなら戦争も辞せずというものだ。そして戦争の決意を明確にするべきだともしており、かなりの強硬姿勢だ。


 結局、海軍は政府内の政策方針決定について、この「現情勢下ニ於イテ帝国海軍ノ執ルベキ態度」の要旨の通りに動いて行く。


 6月25日に大本営政府連絡会議で決定された「南方施策促進ニ関スル件」では英米蘭が妨害に出る場合は武力行使も厭わないという事になった。

 7月2日の御前会議で決定された「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」でも、目的達成の為には対英米戦も辞せずという事になる。

 そして日本はアメリカを決定的に怒らせる南仏印進駐へと歩み出す。


 史実の山本五十六連合艦隊司令長官は南仏印進駐を促進させようと働きかけを行っていた石川信吾大佐の動きを知り、及川海軍大臣に石川信吾大佐を辞めさせるよう提言したそうだ。ただし、その提言は通らなかった。


 ちなみに石川信吾大佐の方では山本五十六連合艦隊司令長官の事について用兵家としては一つも及第点をつけられないと言っていたそうだ。


「大本営海軍部、大東亜戦争開戦経緯に対する所見」に開戦の経緯について、蓮沼侍従武官長の興味深い発言が載っている。

「(6月には陸海軍共に不戦なりしに海軍省某課長の反対にて一夜に変じ、次いで七月、九月の御前会議となり、此の態度に導きたるは海軍なりと考えられたり)」

 この海軍省某課長というのは石川信吾大佐だ。

「一夜に変じ」というのが凄い。

 そんな影響力を自分も持ってみたいものだ。


 それはともかく、どうやら「第一委員会」では南仏印進駐をしてもアメリカとの戦争には発展しないと考えていたようだ。

 陸軍の手前、英米が対抗して来たら戦うという事を言いはしても、決定的なところまではいかいないと判断していたところ、思いの外、アメリカの態度は強硬だったらしいと言う人もいる。


 まぁ南仏印進駐の件は「第一委員会」だけが読みを外したというわけではない。

 海軍軍令部の情報部である第三部部長の前田稔少将や大本営海軍仏印派遣委員長の中堂大佐なども、南仏印に進駐しても英米と戦争になる事は無いと判断していた。


 ただし、この時アメリカにいた者達は別だった。

駐米海軍武官の横山一郎大佐は日本に向け、南仏印進駐は対日全面経済断交は必至と電報を送り、野村特命全権大使も反対した。


 日本からアメリカの態度を見極めた者と、実際にアメリカにいてアメリカ政府の態度を肌で感じた者の差というのが、ここに出たのかもしれない。

とは言え、日本にいた海軍上層部の軍人全員が南仏印進駐の危険性を理解していなかったわけではない。

 その代表が、永野海軍軍令部総長だろう。

 永野海軍軍令部総長は南仏印進駐計画の決済書類に判子を押す時、「これで戦争になるなぁ」と呟いたと言われる。

 総長、分かってたなら判子は押さないで下さい。


 よく「陸軍悪玉論」なんて言われ、太平洋戦争に突入して行ったのも陸軍の強引さによるものという見方があったりする。

 逆に海軍は一時は日独伊三国同盟に反対した事などから「海軍善玉論」なんて言われ、陸軍に引きづられて太平洋戦争を戦ったという見方があったりする。

 だが、実際には当初、陸軍はドイツがソ連に侵攻した事もあり、その目を北に向け南進には消極的だった。

 それが海軍の南進積極策に引きづられた。南仏印進駐までは海軍が引っ張り、南仏印進駐で対英米関係が決定的に悪化すると、今度は陸軍が積極的になり開戦への道を歩み出したと言っていい。

 開戦の責任を陸軍に押し付け「陸軍悪玉論」「海軍善玉論」と論じるのは正しいとは言えないだろう。


 話を「第一委員会」に戻そう。

 井上成美中将は「第一委員会」について「百害あって一利無しだった」と言っている。


 ただ「第一委員会」のメンバーの中には自分達の役割について否定的に話す者もいる。

 戦後に岡敬純少将は「大した意味をもっていなかった」と語り、大野竹二大佐は「単に形式的なもの」と語っている。


 その一方で、高田利種大佐は「この委員会発足後の海軍の政策は殆どこの委員会によって動いたと見てよい」と話している。

 石川信吾大佐が「この戦争を始めたのは俺だよ」と語っていたのを部下だった人が耳にしている話もある。

 実際、調べれば調べるほど「第一委員会」にはかなりの影響力があったと判断せざるを得ないのは確かだ。


 戦後において「第一委員会」を批判する声はかなりあるようだ。

 それも旧海軍軍人の中からそうした声が上がっている。

 だが逆に庇う声もある。


 しかし「第一委員会」を批判すれば事が済むというものでもないだろう。

 海軍軍令部の参謀だった者の中には、稟議制に毒され部下の起案を鵜呑みにした上司がいた事や、部下を甘やかす上司がいたと批判している人もいる。

 まずは上層部の者が「第一委員会」の手綱を締めなかった事が問題だろう。

「第一委員会」の政策や判断に問題があるようだったら書類に判子を押さなければいいのだ。


 決済書類に判子を押さなかった実例としては、1933年に井上成美大佐の例がある。

 井上成美中将が海軍省軍務局第一課の課長で大佐だった時に軍令部の条例改正案が提出された。

 これは簡単に言えば海軍省の管轄になっている権限について、その一部を軍令部に移し、軍令部の権限をもっと拡大しようというものだ。

 これに賛成できなかった井上成美第一課長は頑として決済書類に判子を押さなかった。

 上司に言われても自分が正しくないと思う書類には判子は押せないと突っ撥ねた。

 結局、それが原因で井上成美大佐は他所へ飛ばされてしまう事になったが。

 そういう骨のある軍人が上層部におらず「第一委員会」の専横を許し言い成りになってしまった所に問題があったと言える。


 それに開戦の決断をしたのは政府閣僚なのだから最終的な開戦の責任は政府にあると言っていい筈だ。

「第一委員会」にばかり開戦の責任を負わすのは公平とは言えないだろう。


 ただし、自分が重要なポストにいるからと言って階級が上の上司を蔑ろにするというのは別問題だ。

 階級社会の軍隊において、規律が重要な軍隊においては、あってはならない事だろう。

 それは許されるべきではない。

 まぁ「第一委員会」の全員がそうだったというわけでもないようだが。


 史実では「第一委員会」は開戦前における政策については重要な役割を負ったが、開戦後はその影響力を失う事になる。


 何れにせよ、この自分が連合艦隊司令長官である限りは、少なくとも連合艦隊内部だけは下剋上など許さん! 絶対にだ! 

 海軍省や海軍軍令部が「第一委員会」に専横を許したような事は、連合艦隊内部では一切認めん!

 自分の目の黒いうちは断じて許さん!

 もし、そんな奴がいたら容赦はせん。軍法会議にかけて更に鮫の餌にくれてやる。

 自分は永野海軍軍令部総長や嶋田海軍大臣のように甘くはないぞ!

 って、い、いかん何かクラッときた。眩暈がする。頭に血が上り過ぎたか。

 血圧上り過ぎたかな。

 自分も歳だからなぁ。

 も、もう寝よ。

 は、早く寝よ。

 あ、

 ……あれっ?

 ………………。

 …………………………。













〖 『勝利の栄光を大日本帝国に』【完】

 短い間でしたが、ご愛読有り難うございました。

 作者の次回作にご期待下さい。 〗













●『8月19日、深夜』

 ……。

 …………。

 ハッ!

 な、何だ。

 あ、あれっ。

 何時の間にか寝てたのか。

 確か……

 そうだ。気を失うようにベットに倒れ込んだような。

 それで寝ちゃってたのか。

 何か嫌な汗をかいてるなぁ。

 でも身体は何ともなさそうだ。良かった。

 あぁそれにしても何か変な夢を見たような気がしたが。

 何か頭の中をテロップみたいなのが流れたような気がしたけど。

 うーーーーーん。思い出せない。

 何か凄く疲れてるな。

 今、何時だ。

 午前3時か。

 まだ、一眠りできる時間だ。

 寝よ。


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