0014話 東西南北(1942年8月17日)
●8月17日、早朝、海軍軍令部から使いの者が来た。
アメリカ軍が動いたのだ。
それも複数の地点でだ。
北方のキスカ島をアメリカ艦隊が夜間砲撃した。
中部太平洋ではマキン島が夜間砲撃を受け、さらに敵の奇襲部隊が上陸したらしい。
南方のソロモン諸島でもツラギが夜間砲撃を受け、こちらも敵の奇襲部隊が上陸したらしい。
ハワイの敵空母部隊が出撃したらしいとの情報も入って来た。
先日のインド洋方面のイギリス艦隊出撃の情報も合わせると東西南北の全戦線が慌ただしくなってきた感がある。
史実でも似たような状況だったが、アメリカ軍の作戦行動の日は微妙にズレていた筈だ。
史実では連合艦隊司令部に8月2日にハワイからアメリカ艦隊が出撃するもその行方は不明との情報が入る。
8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島とツラギに上陸占領。
8月8日にアメリカ艦隊がキスカ島を砲撃。
8月12日頃にハワイから出撃したアメリカ艦隊が東京方面に来襲の公算が高いと連合艦隊司令部は判断。
同日、インド洋のアンダマン諸島方面にイギリス艦隊の来襲の公算が高いと連合艦隊司令部は判断。
この動きに対し宇垣参謀長は日誌(戦藻録)で8月12日に「今や東西南北大事なり」と書いているほどだ。
その後、更に8月17日にマキン島をアメリカ軍が奇襲攻撃する。
今回の歴史では史実と日程が同じなのはマキン島への攻撃だけ。
そして同日に北、中部、南方と動いて来た。
これは攪乱だろうな。
まぁいい。
元々この日は広島の柱島に停泊する連合艦隊旗艦「大和」に戻るつもりだったから良いタイミングと言える。
そんなわけで輸送機に乗って文字通り二重の意味で「飛んで帰った」よ。
しかし何だね。
飛行機のそれも軍用機による空の旅というのは味気ないね。
自分はね駅弁が好きなのですよ。
駅弁が好物なのですよ。
大好物なのですよ!
旅の楽しみの一つは駅弁ではないですくわぁ!
現代日本にいた頃は、駅のホームで駅弁を買い、東京駅構内の地下街で駅弁を買い、駅ビルの中でも駅弁を買い、百貨店の駅弁フェアで駅弁を買い、近所のスーパーの駅弁祭りで駅弁を買って食べて来た駅弁好きの血が、血が騒ぐのですよ!
東京に行ったなら東京駅名物「チキ◯弁当」だろ! と。
横浜に行ったなら横浜駅名物「シウマ◯弁当」だろ! と。
いや、この時代にはまだ東京駅の「日本レストランエンタプライ◯」の「チキ◯弁当」も横浜駅の「崎◯軒」の「シ◯マイ弁当」も無いですよ。
それはわかってますよ。
でもね、でもね、この時代でも既に横浜の「◯陽軒」の「◯ウマイ」は販売されているのですよ! 弁当は無いけど「シ◯マイ」だけなら販売されているのですよ!
帰りの機内での楽しみに、または自分用のお土産に買う暇が無かったのは痛恨の極み!
できれば横浜から更に大船駅まで足を延ばして「大◯軒」の「サンドイッ◯」と「鰺の押◯寿司」を買いたかった。
この「◯船軒」の「サンドイッ◯」と「鰺の押◯寿司」は戦前から現代日本の平成の時代まで販売が続いているロングセラー駅弁ですから! 現代日本で食べたあの味を再び味わいたかった……。
あと一日、アメリカ軍の動きが遅かったなら「崎◯軒」にも「大◯軒」にも寄れたのに……
許さんぞアメリカ軍!
食い物の恨みの恐しさを思い知らせてやる!
旗艦「大和」に帰還した。
オヤジギャグのつもりは無い。偶然だ! 本当だ信じてくれ!
旗艦「大和」の連合艦隊司令部はアメリカ軍の動きでざわついていると思いきや落ち着いている。
泰然自若と言ったところか。
まぁ胆の太い者達ばかりだから当然か。そうでなければ連合艦隊司令部の幕僚は務まらないしね。
直ぐに会議を開き状況の確認に入った。
当然だが、こちらが空の上を飛んでいる間にも次々と情報は入っていた。
北方のキスカ島に襲来したアメリカ艦隊の規模は偵察機からの報告によると戦艦1隻、空母1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦10隻ほどと思われる。
千島列島の幌延島基地から攻撃隊が発進するも天候が悪化したためアメリカ艦隊と接触できず、敵艦隊の動向も不明。
キスカ島への砲撃だけで引き上げたものと見られる。
キスカ島守備隊の被害は軽微。
中部太平洋のマキン島に襲来したアメリカ軍は、守備隊からの報告によれば潜水艦2隻と約200人の上陸部隊。
潜水艦の砲撃とともに上陸して来たらしい。
今朝、偵察のためにマーシャルから「第14航空隊」の九七式大艇が現地に飛んたが、島内では激しく交戦中の模様。また付近には敵潜水艦は発見できずとの事だ。
そして、同方面を担当している「第4艦隊」では増援部隊を編成中との事。
南方のツラギに襲来したアメリカ軍は、守備隊からの報告によれば潜水艦3隻と約400人の上陸部隊。
潜水艦の砲撃とともに上陸して来たらしい。
どうやら水上機を狙ってきたようだ。
守備隊の抵抗によりアメリカ軍の撃退には成功したが、九七式大艇4機が破壊されたとの事。
守備隊の兵力も半数が死傷したとの報告だ。
現在、飛べる水上機を使い襲撃して来た潜水艦の捜索にあったているとの事。
同方面を担当する「第8艦隊」と「第11航空艦隊」は、ラバウルから偵察機を現地に飛ばすとともに、「第30駆逐隊」の駆逐艦「望月」「卯月」の2隻に陸戦隊を乗せる準備に入っているとの事。
ハワイを出撃したという敵空母の動向は掴めていない。
ミッドウェー島から「第14航空隊」の二式大艇が偵察に出ているが敵空母の所在は不明だ。
ハワイから出撃したという空母と、キスカ島に襲来したアメリカ艦隊の空母は日程から考えて恐らく別口だろう。
連合艦隊司令部の幕僚は全員一致でこのアメリカ軍の各島への攻撃は陽動だと判断している。
ハワイを出撃した空母の出て来る所が本命だと。
自分もそれに同意見だ。
果たしてどこに来るか……
だが、問題は情報の正確さだろう。
本当にハワイから空母が出撃して来たのか。
攻撃を受けた現地部隊の敵戦力の報告がどれだけ正しいか。
史実では仕方の無い事ではあるが情報が正確ではない場合が多かった。
今回も情報がどれだけ正しいか。
特に奇襲を受けた場合の誤情報や誤認というのは恐ろしい。
史実において情報戦では日本の上を行ったと見られるアメリカ軍でも、「真珠湾攻撃」の時にはとんでもない味方からの報告と情報に踊らされていた。
「オアフ島のバーバー岬沖に日本の輸送艦8隻が現れる」
「日本のグライダー部隊がカネオヘに降下中」
と、いう報告がアメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメル大将に届けられているほどだ。
この日の夜に空母エンタープライズを中心とする機動部隊を率いて真珠湾に帰港したウィリアム・ハルゼー提督は、太平洋艦隊司令部でそれらの情報を聞くと思わず吹き出し笑ってしまったそうだ。それをキンメル大将に咎められ「笑うとは何事だ!」と怒鳴られたそうだ。
ちなみにハルゼー提督の機動部隊は日本艦隊は真珠湾の南にいるとの情報を受け捜索していたが空振りに終わっている。
ハルゼー提督が戦後に出した回想録にそうした事が書いてあった。
まぁ、戦場では情報が錯綜するのは致し方のない事だろう。
情報伝達システムが格段に進歩した現代の戦いにおいてさえ、情報は錯綜し同士討ちが発生する事があるのだから1940年代では誤謬を完全に防げないのも無理はない。
そう言えばマキン島の場合は史実において珍しく守備隊が敵戦力を的確に把握し情報を送って来たケースだった。
恐らく今回の歴史でもマキン島からの情報は正しいのではないだろうか。
既に連合艦隊司令部としては太平洋上前線地域に展開する各部隊には警戒をなお一層厳重にするよう命じてあるし、敵空母部隊を迎撃するための小林中将指揮する「第2機動部隊」にも警報は出してある。
後は任せて待つだけだ。
それにしても史実のようなガダルカナル島の占領ではなくツラギへの奇襲攻撃か。
やはり今のアメリカ軍にガダルカナル島方面で空母を投入しての作戦をする考えは無しか。
などと会議の行方が一段落ついたところで考えていると黒島参謀が少し悔しさを滲ませた発言をしてきた。
「潜水艦で兵を送り込むとは長官のS特の案を先取りされましたな」
まぁそう見えるわな。
「同じような兵器を使っているんだから同じような戦術を考えつくさ」
と無難な返事をしておいた。
しかしマキン島だけでなくツラギにも潜水艦を使っての奇襲上陸作戦か。
まぁ現在アメリカ海軍の使っている潜水艦の魚雷の性能の悪さと供給の悪さを考えれば、そうした任務に就けた方が潜水艦を有効利用できるかもしれない。
それに史実とは違い今回の歴史ではアメリカ軍は大型空母が減少し新造艦の投入もまだまだ時間がかかるとなれば、その間の限定的な繋ぎの作戦として潜水艦を利用したその手の奇襲作戦を多用してくるかもしれない。厄介だな。
それにしても史実通りマキン島への潜水艦を使っての奇襲上陸作戦は行われた。
と、なると、海軍軍令部で誰かがあの建造計画を提案し推進する筈だ。
そう「丁型潜水艦」だ。
「上陸作戦用潜水艦」だ。
史実では、このマキン島への攻撃があった後に、海軍軍令部内で大きな反響でもあったのか「丁型潜水艦(上陸作戦用潜水艦)」を11隻も建造する計画が立てられている。
この「丁型潜水艦(上陸作戦用潜水艦)」の能力は、当初の計画では陸戦隊員110人と水陸両用戦車に特殊上陸用舟艇2隻を積むというものだった。
ところで、この「丁型潜水艦(上陸作戦用潜水艦)」は一から設計が開始されたわけではなくて、元になったプランがあった。
1941年初頭に艦政本部(軍艦の設計や建造をする部門)から輸送用潜水艦の建造プランが提出されており、その時は却下されたが、それを元に「丁型潜水艦(上陸作戦用潜水艦)」が設計され建造される事になったのだ。
しかし、ガダルカナル島攻防戦を始まりとする戦局の推移とともに「丁型潜水艦」の「上陸作戦用潜水艦」としての建造は変更となる。物資の輸送を主任務とする「輸送用潜水艦」へと設計を変えられ建造された。
そして完成したのが「伊361型」潜水艦だ。1944年に11隻が完成している。
結局「丁型潜水艦」は呼び名はそのまま「輸送用潜水艦」となり、他にも「潜輸」と呼ばれたりした。
今回の歴史では戦局を優位に進め是非とも「丁型潜水艦」を「上陸作戦用潜水艦」として完成させたいものだ。
順調に行っても完成は2年後だから当然「ハワイ攻略作戦」には完全に間に合わないが、それでも完成すれば「S特」と組ませて作戦の幅を広げる事ができるだろう。
2年後が楽しみだ。
そんな事をつらつらと考えていたら「第4艦隊」からマキン島について悪い報告が入って来た。
マキン島守備隊より「機密書類焼却後、全員従容トシテ戦死ス」の平文電報が発せられ、以後、連絡が途絶えたとの事だ。
悪い報告だ。だが、まだだ。まだ生きている者がいる筈だ。それが史実だ。
頼むから史実通りになってくれと願うばかりだ。
夕刻に再度、「第14航空隊」の九七式大艇がマキン島へ偵察に出たところ、島内での交戦が認められた。やはり生存者はいる。よしっ!
今日はそれ以後、中部太平洋方面からの報告は何も無かった。
西方では山縣中将指揮する「第4機動部隊」がインド洋に入った。
陸軍の動きとしては、陸路よりポートモレスビー攻略を目指す陸軍の「レ号」作戦の主力部隊である南海支隊の本隊がラバウルから出港した。
現地ではツラギへの奇襲攻撃から南海支隊の出発を数日延期するという話も出たようだが、敵の機動部隊が出撃して来たというわけでもないようなので時間は遅れたが出発という事になったそうだ。
また、この日はパラオを出発した川口支隊を乗せた輸送艦がトラックに寄港した。
川口支隊か……
ミルン湾のラビ攻略に向かうわけで史実とは異なった動きなわけだが大丈夫だろうか。
史実ではラビ攻略は海軍の陸戦隊の約1900人の兵力で行われたが壊滅的被害を受けて失敗した。
宇垣参謀長の日誌(戦藻録)にはラビ攻略の失敗の原因が4つ書いてあった。
要約して簡単に書いてみよう。
1.防御力のある敵飛行場を軽装の陸戦隊で攻略しようとした事。
2.ガダルカナル、ポートモレスビー、ラビの三方面に兵力を分散し兵力の集中を欠いていた事。
3.陸戦隊の兵士は年齢が30歳~35歳の年代で、兵士として優れているとは言えなかった事。
4.降雨が多く土地は泥濘で、さらに「水虫」に蝕まれた事。
今回の歴史では陸軍がラビを攻略するわけで、陸戦隊より兵力は2倍と多く砲兵も多いし兵士達も若いだろう。
ガダルカナル島攻防戦をしていないからその分、航空支援もできる。
問題は「水虫」だ。
ニューギニアでの戦いの文献でラビ攻略戦について触れているもので、将兵が「水虫」で敵と戦う前に戦闘不能になったというような表現をしている物が複数ある。
最初「水虫」と聞いて首を捻ったものだ。「水虫」で戦闘できなくなるのか? と。
だけど防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第49巻「南東方面海軍作戦①ガ島奪回作戦開始まで」を読んで得心がいった。
そこには「水虫」か他の「細菌」かは不明だが、足が腫れて化膿して歩けなくなったと書いてあった。
いや、それもう「水虫」じゃないだろう。
南方特有の何かしらの病原菌だろう。恐いなぁ。
それにしても宇垣参謀長の日誌(戦藻録)を読むと、ラビ攻略の陸戦隊についてはかなりご不満だったようだ。
何せ日誌(戦藻録)で、ラビから撤退した翌日の9月6日に「ラビ方面の陸戦隊は全く意気地無し」と酷評している。
これは日誌(戦藻録)によると陸戦隊1800人のうち1100人もが撤退収容できた事も要因かもしれない。
何せ日誌(戦藻録)には、9月1日の時点でラビ方面の戦況は極めて不利で陸戦隊は殆ど全滅とある。
その全滅な筈の部隊が、実は6割以上の将兵が無事に撤退できましたともなれば酷評したくもなるだろう。
ただ、防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第77巻「大本営海軍部・連合艦隊③昭和18年2月まで」には、撤退収容した1318人のうち戦闘に耐えうるのは約100人で後は足傷で歩行不能となっているから陸戦隊の現状はかなり酷かったようだ。
それに戦闘状況を調べてみると意気地なしどころか凄く敢闘していた事がわかる。
ラビ攻略は最初から躓いている。
上陸地点を間違え、ラビから約10キロ東の海岸に上陸してしまった。
しかも、上陸した直後に敵機の空襲を受け、食糧等多くの補給物資に損害を受けている。
そうした状況の中、海軍陸戦隊はラビへの進撃を開始した。
相手はオーストラリアの2個旅団。約6000人であり3倍以上の敵だ。
その相手に海軍陸戦隊は押しまくり5キロ以上も前進している。
オーストラリア軍の中には北アフリカで砂漠の名将ロンメル将軍指揮下のドイツ・アフリカ軍団と戦った歴戦の部隊もあった。
この部隊が陸戦隊の突撃の前に敗走を余儀なくされている。
陸戦隊の兵士は30歳~35歳の年代で二流の部隊? そんな事は関係ないとばかりの奮戦ぶりだ。
若い敵兵士達相手に白兵戦でも負けずに敵陣で銃床で殴り合っての乱闘もしたという話だ。
時には見事に敵を騙したらしい。夜間の戦闘中に英語で敵兵に「撤退命令が出た」と叫び、それを味方からの命令だと信じた敵部隊が撤退したという逸話さえある。
この戦いで海軍陸戦隊は2両の「九五型ハ号軽戦車」を投入しているが、この戦車も大活躍したようだ。
夜間には強力なライトをいきなりオーストラリア軍兵士に照射して兵士の目を眩ませ怯ませた。
2両の連携も見事で1両が砲撃し終わり再装填する間にもう1両が前に出て射撃するといった具合で散々オーストラリア軍を手こずらせたらしい。
オーストラリア軍はこの2両の軽戦車を遂に撃破できなかった。
対戦車砲もあった。粘着手榴弾もあった。だが、しかし攻撃には失敗した。
だが残念な事に陸戦隊は2両とも放棄する事になった。
道路が最悪で何度も泥濘にはまっていたが、遂に2両とも抜け出せなくなったのだ。
そして海軍陸戦隊の進撃もブナまでは届かなかった。
次々に繰り出されるオーストラリア軍の新手の前に損害が嵩み進撃は止まる。
そしてオーストラリア軍の反撃が始まり日本軍は元来た道を敗走した。
ラビを攻撃した海軍陸戦隊は善戦したと言える。
しかし、このラビ攻略戦というのはガダルカナル島攻防戦の影に隠れてしまい知名度が低い。
現代日本のそれも平成の時代に出された太平洋戦争中の陸海軍の戦闘について書かれた某書なんて、題名に「事典」とまで付いているというのにこのラビ攻略戦は抜け落ちていた。その事典の参考文献の項目には「戦史叢書・全102巻」とあるのだけが。
それはともかく、さて、どうしたものか。
もし川口支隊が史実の海軍陸戦隊と同じような攻め方をするのなら、もしかしたら「水虫」によって大損害を出しラビ攻略に失敗するかもしれない。
とは言え作戦を止められないし助言もできない。
何せラビ何て恐らく日本人は誰一人行った事は無いだろう。それなのに現地の病原菌について連合艦隊 司令長官が陸軍に助言? 何故知っているのですかと問われたら答えに詰まるよ。
まぁ以前、現地を旅した人に会った事があるとか何とかこじつけはできるだろうけど、「水虫」が予防できるかどうかもわからないし。
そもそも連合艦隊司令長官が口を出すのは不自然な事柄だ。
仕方ない川口少将が史実の海軍陸戦隊とは別な作戦をとる事を祈ろう。
その代わり川口支隊には海軍のつける掩護を強力にしておくかな。
トラック島には「第2機動部隊」がいるが、その中から栗田少将の「第3戦隊」の戦艦部隊を上陸支援につけようか。
いやでもハワイから敵空母部隊が出撃したという情報があるわけだし。
海軍軍令部の第1部長の福留少将には燃料に留意すると約束したばかりだしなぁ。
ここは、涙を飲んで川口支隊への支援はそのままという事にしますか。
しかし「第3戦隊」の栗田少将か。
史実において1944年10月のレイテ沖海戦で「謎の反転」をやって戦後もあれこれ言われ続けた提督だ。
レイテ沖海戦では他の日本艦隊が囮になり敵を引き付けている間に栗田提督指揮する主力艦隊がレイテ湾に突入しアメリカの輸送船団を撃滅してアメリカ軍のフィリピン攻略戦を頓挫させる計画だった。
囮の艦隊は見事に任務を達成したけれど、栗田提督の主力艦隊はレイテ湾突入まであと少しというところで反転してしまい任務を完遂しなかったという問題だ。
この事について現代日本で言われている不思議な事は、この「謎の反転」について栗田提督は戦後亡くなるまで一言も話さなかったという説がある事だ。
いや、栗田提督は「謎の反転」について戦後に語っている。
栗田提督と中学の同窓生で戦後に何冊もの軍事関係の本を出している某戦史家に「謎の反転」について聞かれ答えているのだ。
その事は1956年に出版された「連合艦隊の最後」に書かれている。
その栗田提督の話している「謎の反転」についての核心部分を簡潔に書いてみよう。
(「命令を守らなかったのは軍人として悪かったというほかはない」)
(「要するに敵の機動部隊がすぐ近所にいると信じたのが間違いだった」)
(「それを捕捉できると思ったのが、つまり判断の間違いなんだ」)
つまり栗田提督は近くに敵機動部隊がいると判断し、それを撃滅するために反転した。
そして、その判断は間違いだった事を栗田提督自らが戦後に認めている。
それだけの話だ。
その事が1956年に出版された本の中に書いてある。60年以上も前の話だ。
それが何故か平成の時代になっても栗田提督は沈黙を守ったとかいう俗説が流れているのだから可笑しな話だ。
一つの推測だが、こうした説が流れる事の一因となったのは「戦史叢書」にも問題があるのではないかと思う。
防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」は太平洋戦争について研究したり、本を書く上で基本となる文献だ。太平洋戦争について書かれた本で信頼性の高い本の参考文献には大抵「戦史叢書」の名前が記述されている。
その「戦史叢書」でレイテ沖海戦について書かれているのは第56巻「海軍捷号作戦②フィリピン沖海戦」であり1972年に刊行された。
だが、その中に栗田提督の「謎の反転」についての発言は載せられていないのだ。
「反転」した事については当然の如く触れられている。
大谷作戦参謀がレイテ湾への突入を中止して北方の敵機動部隊に向かう事を進言し、それが切っ掛けとなって栗田艦隊は反転したというものだ。
だが栗田提督の直接の言葉は無い。
栗田提督も戦後は直ぐに「謎の反転」については語らなかった。
後に語ったが「戦史叢書」にはその言葉は載せられなかった。
語った事が載った本は特にベストセラーになったというわけでもなく数多ある戦記物の本の中に埋もれてしまう。
ましてや昔は今のようにインターネットが無かった時代だ。情報の拡散、共有という事が限られていた。
そうした結果、栗田提督は亡くなるまで「謎の反転」について語らなかったという俗説が生まれたのではないだろうか。
もし「戦史叢書」という戦史を研究する上で基本となる文献に栗田提督の言葉が載せられていたら、このような俗説が平成の時代にまで流れる事は無かったかもしれない。
……何て事を長々と考究してしまった。
まぁ今回の歴史ではレイテ沖海戦を生じさせるような状況にまで日本が追い込まれるような事態には断じてさせる気はない。
だから「謎の反転」も起きず、その後の歴史で「謎の反転」の理由について取り沙汰されるような事も起きないだろう。
それにしてもアメリカ軍め。
来るなら来い。叩きのめしてやる。
くっくっくっ。