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0013話 上京(1942年8月中旬 11日~16日)

●8月11日、海軍軍令部の情報部からアメリカの情報がかなり入って来た。


 その中には海軍独自の情報網からの情報だけでなく外務省経由の情報もかなりあるらしい。

 恐らくは「東機関」の情報も入っているのだろう。

 史実では「東機関」は外務省がスペインの協力でアメリカ国内に作り上げたスパイ機関だ。

 今回の歴史でも同様らしい。


 史実でも今回の歴史でもスペインは中立国とは言ってもファシスト国家で枢軸陣営に近い関係にあったから色々と協力してくれたのだ。

 現代日本においては「東機関」の情報は大して役に立たなかったなんていう評価が見られたりもするが、その評価は不当だろう。


 例えば史実において「東機関」からの情報に、1942年7月14日にアメリカ西海岸を出港した輸送船団が オーストラリア東方海域に8月上旬に到着するというものがあった。

 つまりガダルカナル島攻略作戦のための輸送船団だ。

 これを海軍軍令部はどう判断したか。

 ポートモレスビーへの増援部隊だと判断したのだ。

 誤判断だ。


 だが、まぁ判断を誤る事は誰にでも何にでもある。

 問題はその情報を有効利用できず、アメリカの輸送船団に被害を与える事も妨害する事もできず、みすみすガダルカナル島攻略を許した事だ。


 つまり「東機関」の情報は役に立たなかったのではない。

 日本海軍上層部が役立てられなかった事が問題なのだ。

 情報を生かすも殺すも、それを扱う「人」次第だ。

 今回の歴史では是非とも情報を殺すような事は、できるだけ避けたいと思う。


 それはともかく、今回の情報は有り難い。

 太平洋にいる大型空母は2隻だとか、ハワイへの軍需品を満載した輸送船団がサンフランシスコ港を出港する日付だとか、かなり役に立つものがあった。

 

 ハワイへの輸送船団については海軍軍令部から第6艦隊(潜水艦部隊)に情報が行っている筈だが、連合艦隊司令部からも念を押して攻撃するよう指示を出しておこう。


 アメリカ陸軍の西部防衛軍が西海岸一帯に大規模な防衛線を構築し始めたという情報もあった。

 西部防衛軍は日米戦争開始後に西部8州を防衛する目的で編成されたものだ。

 史実では、新編成部隊の訓練や海岸地帯の警戒と防衛をしている。その他にも西部に在住する日系人の強制収容と収容施設の警備などもしている。


 史実において、アメリカ陸軍では4月の「ドーリットル東京空襲」成功後に、日本側の反応について、特に報復の可能性とその能力について情報部に分析させていた。


 そのアメリカ陸軍情報部の分析によると、日本は首都空襲により面子を潰された為、その借りは返すという考えでいるとの事らしい。その報復能力については5月以降であれば空母を使用してアメリカ本土西海岸に攻撃を仕掛けて来る事が可能であるとしていた。


 また報復対象としてハワイを標的とする事は報復行動としては不十分であるから、アメリカ本土西海岸やパナマ運河を目標にする可能性が高いとしていた。


陸軍情報部の、この報告を受けてアメリカ軍上層部では日本軍による報復作戦を懸念し警戒する事となる。

 マーシャル陸軍参謀総長はアメリカ本土西海岸の防衛を担っている西部防衛軍司令官に日本軍による空襲の可能性が差し迫っていると打電した。また、実際に自分の目で西海岸の防衛体制を確かめるために5月の終わりには現地に飛んでいる。


 アメリカ海軍でもアーネスト・キング海軍作戦部長とアメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督が揃って日本海軍による「ドーリットル東京空襲」の報復攻撃がアメリカ本土西海岸に行われる可能性を懸念している。


 そうした事からアメリカ本土西海岸では「ドーリットル東京空襲」以後から防衛体制の更なる強化が図られていた。


 民兵組織によるゲリラ戦の訓練もその一環として行われている。


 だが、しかし、それらの動きは「ミッドウェー海戦」により大きく変わる。

「ミッドウェー海戦」に勝利したアメリカ軍はアメリカ本土への脅威が低下したと判断し、サンフランシスコに構築中だった要塞の建設を停止している。


 だが、今回の歴史では日本が「ミッドウェー海戦」で勝利した結果、史実とは違った流れが出て来たという事だろう。


 それにしても西海岸一帯の防衛線と言うのは、ドイツの「ヒトラーの大西洋の壁」「大西洋防壁」のアメリカ版と言う事だろうか。差し詰め「ルーズベルトの太平洋の壁」「太平洋防壁」と言ったところか。


 しかし、アメリカ軍も日本の力をやたらと過大評価してくれたものだ。

 5月になればアメリカ本土西海岸に空母が攻撃って、こちらにすれば、それは幾ら何でも無理な話だ。

「ミッドウェー海戦」で勝利し8月になった今でもそれは無理だ。

 当然、アメリカ本土西海岸への上陸作戦も無理なのだが。

 だが、まぁ相手の誤判断はこっちとしては有り難い。このままできるだけ長く過大評価してくれれば有り難いのだが。


 この過大評価を利用して「ハワイ攻略作戦」の陽動として、「日本海軍は防備の固いハワイを攻略する事を忌避し孤立させるにとどめ、アメリカ本土西海岸への上陸作戦を準備中」といった偽情報でも流しておくとしよう。


 今回入って来た情報の中には他に、アメリカ本土における空母建造に関する事もあった。

 現在アメリカの東海岸の造船所で建造中の大型空母は8隻になるそうだ。同じく東海岸で建造中の中型空母が8隻で、小型空母は3隻が建造中だそうだ。

 アメリカの西海岸では小型空母22隻が建造中との事。


 情報にある大型空母というのは「エセックス級」の事で、中型空母というのはおそらく「インディペンデンス級」軽空母の事で実際は小型空母の事だろう。そして小型空母は護衛空母の「ボーグ級」の事だろう。

 まぁ史実通りの話ではある。

 大型から小型まで28隻を建造中か。


 それに比べ日本と来たら……


 現在、実際に建造や改装に取り掛かっているのは大型空母2隻、中型空母1隻、小型空母へ改装中が2隻だ。

 合計5隻。

 28対5。

 5.6対1の比率だ。

 あれだけ空母の増強をと早くから要望して来たのに史実と全く変わらぬこの有り様。

 もう溜め息しか出ない。トホホ。


 それにしても空母建造の情報は有り難い。

 有り難いが、だが、しかし、これは連合艦隊の作戦としてはどうにもならん。


 史実におけるアメリカの大型軍艦建造の主軸は東海岸だ。

 特に「エセックス級」大型空母は全艦が東海岸で建造されている。

 史実では1942年8月の時点でバージニア州ニューポートで4隻、マサチューセッツ州クインシーで3隻、そしてニューヨーク州ニューヨークで1隻建造されている。


 残念ながら現状では流石に東海岸には連合艦隊主力の手は届かない。

 西海岸でも難しい。まだ、ハワイさえ占領していないのだ。

 せいぜい西海岸で一部の潜水艦による通商破壊戦と陸上への砲撃と、潜水艦搭載の水上偵察機による小型爆弾投下ぐらいしかできない。


 しかしなぁこのまま見過ごすのもいかがなものか。

 特にアメリカ西海岸で建造中の護衛空母22隻のうち18隻がワシントン州タコマで建造中だ。

 残り4隻はカリフォルニア州サンフランシスコで建造中だ。

 広い西海岸に散らばっているのではなく、北部のタコマというかなり狭い地域で固まって建造中なのだ。


 護衛空母を潰すために危ない橋を渡るのはいかがなものかとも思うが、もし一気にタコマの造船所群を叩く事に成功し、更にその上でパナマ運河が破壊できたのなら、アメリカの太平洋での建造能力低下と、 大西洋と太平洋間の移動の阻害により、少しは日本軍に有利な状況となる。


 だが現時点では、やはりリターンに比べリスクが高すぎる。

 そもそもタコマの造船所群を叩く方法は空からしかできない。

 何せ入り組んだ入江の奥にあるのだ。海上、海中からの攻撃は難しい。

 やるなら空母部隊を投入するしかないが、現状ではとても無理だ。

 やはり指をくわえて見ているしかないか……

 やるせない気分になる。ガックシ。


 それにしてもアメリカ西海岸か……

 そう言えば史実通り、南雲機動部隊の第二航空戦隊司令官の山口多聞少将が、約半年前の2月に「所見」 という名の作戦案を宇垣参謀長に提出していた。


 その「所見」は、ハワイ攻撃作戦を成功させ、南方資源地帯の攻略が順調に進み、日本軍の当初の作戦たる「第一段作戦」が成功しつつある事から、次の「第二段作戦」と、それ以後の「第三段作戦」を提案してきたものだ。そこにアメリカ西海岸について触れている部分もあった。


 山口少将の「第二段作戦」は、かなり壮大な提案だ。要約して記述してみよう。


 1942年5月中旬にインドの「セイロン島」「カルカッタ」「ボンペイ」を攻略する。

 7月末までに「フィジー」「サモア」「ニューカレドニア」「ニュージーランド」「オーストラリア」を攻略する。可能ならオーストラリアは謀略をもって日本に味方させる。

 そこまでが「第二段作戦」だ。


「第三段作戦」は一期と二期に分けられていた。

「第三段作戦第一期」は8月から9月に「アリューシャン列島」を攻略する。

 11月または12月にハワイ外周防衛線にあたる「ミッドウェー島」「ジョンストン島」「パルミラ島」を攻略する。

 12月または1943年1月に「ハワイ」を攻略する。

 そこまでが「第三段作戦第一期」だ。


「第三段作戦第二期」はいよいよアメリカ本土を標的にしている。

 第1機動部隊と第9艦隊(新設予定の潜水艦部隊)をアメリカ西海岸に派遣する。

 ドイツと協力して北米と南米を遮断し、南米諸国を味方に引き入れる。

 南米の資源をアメリカに輸出させない。

 必要とあればドイツと共に南米に派兵する。

 必要ならばパナマ運河を破壊する。

 第1機動部隊でアメリカ西海岸重要目標を空爆。

 必要ならば西海岸に上陸作戦を行いカリフォルニア州の油田地帯を占領する。

 基地航空部隊をカリフォルニア州に進出させ北米全域の都市と軍事目標を空爆する。

「第三段作戦第二期」はそこまで書いてあった。


 この「所見」を宇垣参謀長から見せられ一読した後、宇垣参謀長と顔を見合わせ二人して「流石にこれは無理だね」と頷きあってしまった。

 まぁ宇垣参謀長に見せられるまでもなく、現代日本に生きていた当時にその内容は知っていたわけで、 いかにも今初めて読みましたと、それらしく振る舞うのには気を使ったけどね。


 それにしても、この山口少将の「所見」は正に「幕天席地」だ。

 その心意気は買うが、今の日本にはそれをするだけの戦力も後方能力もまだ無いからね。


 ところで史実では山口少将がこの「所見」を出して来た2月に、陸軍でも「大東亜共栄圏における土地処分案」なんて物が作られている。

 正式決定されたものでは無いとは言え、これがまた大きな話しだ。

 太平洋戦争に勝った後の支配体制が書かれているのだが、総督府を幾つか作って日本の支配体制化に置こうという計画のようだ。それも要約して記述してみよう。


 ハワイ諸島、タヒチ、トンガは「東太平洋総督府」の管轄下に置く。

 

 ニューギニア島、ニューカレドニア島、フィジー方面は「南太平洋総督府」の管轄下に置く。


 オーストラリアは「オーストラリア総督府」の管轄下に置く。


 ニュージーランドは「ニュージーランド総督府」の管轄下に置く。


 アラスカ州、ワシントン州、カナダ西部は「アラスカ総督府」の管轄下に置く。


 中央アメリカには「中央アメリカ総督府」の管轄下に置く。


 セイロン島は「セイロン総督府」の管轄下に置く。


 と何ともまあ先走った考えだ。

「儲けぬ前の胸算用」とか「飛ぶ鳥の献立」なんて諺が頭に浮かんだよ。

 オーストラリア総督府? ニュージーランド総督府? アラスカ総督府? 中央アメリカ総督府?

 幾ら何でもそこまで占領するのは難しいだろう。


 さらに陸軍には史実において他の話もある。

「日独イラン高原決戦」だ。

 つまりアメリカ、イギリスを敗北させた日本とドイツがイラン高原のあたりで決勝戦を行うという想定だ。そのため開戦初期に陸軍内部で実際にイランの地理の研究が為されていたというから驚きだ。

 陸軍さんも何を考えているのやら。


 この頃は、あまりに勝ちすぎて、みんな浮かれすぎていたのだろう。

 それにしても、陸軍でもやっぱりイタリアは無視なんだね。


 ともかく、史実でそんな状況だったのなら、「ミッドウェー海戦」で勝った今回の歴史ではどうなっているんだか。

 自分の知らない各所では相当な浮かれようで「捕らぬ狸の皮算用」をしているんじゃ……

 いや、これ以上、考えるのはやめとこう。

 考えたところで、知ったところでどうにもならない事だからね。

 人は色々自分の都合の良いように考えるものだ。


 それよりもだ。史実において軍人の他に「アメリカ本土進攻作戦」を考えている政治家がいたな。

「中島飛行機」の創設者の中島衆議院議員だ。

 この人は元々海軍出身で海軍大学も出ている。

 後に飛行機メーカーを立ち上げ、更には政治家となり第一次近衛内閣では大臣にもなった。

 現在は衆議院議員をする一方「中島飛行機」のオーナーでもあるという忙しい人だ。

 そして、史実で、あの長距離戦略爆撃機「富嶽(Z機)」の計画を立てた人だ。


 この人は1942年頃から独自に日本が勝利する戦略として「必勝戦策」という構想を練り上げていた。

 日本が「ミッドウェー海戦」で敗北し「ガダルカナル攻防戦」で有利ならざる状況になっている事や、アメリカが長距離戦略爆撃機を開発中という情報を知った事から、何れ日本本土はそのアメリカの長距離戦略爆撃機の爆撃に晒されると考え、それへの対抗策として「Z機(富嶽)」の計画を推進していった。


「Z機(富嶽)」と言うと「アメリカ本土爆撃計画」ばかりに話が行くが、中島議員はそれだけの目的で「Z機(富嶽)」を計画していたわけではない。「必勝戦策」を読むとそれがわかる。


「Z機(富嶽)」には爆撃機型の他に機関銃を大量に装備した「ガンシップ」とも言うべき「掃射型」や、対艦攻撃のための「魚雷搭載型」や輸送用の「輸送型」なども計画されていた事がわかる。


「掃射型」などは数百丁の機関銃を装備し、アメリカの長距離戦略爆撃機が日本本土に飛んできたら迎撃して撃ち落そうというものだ。一機の「掃射型」で敵50機編隊を叩く事ができ、10機で敵の500機編隊を撃滅できるとしている。つまり迎撃機としての活用だ。戦闘機使用と言ってもいいかもしれない。


 敵艦隊に対しては、まず「掃射型」数十機が攻撃し猛烈な弾幕攻撃で敵艦隊の対空砲火を黙らせ、その防御力を削ぐ。次に1トン爆弾20発を搭載した「爆撃型」が爆撃し、最後に1トン魚雷20発を搭載した「魚雷搭載型」が止めを刺すというものだ。


 そして「アメリカ本土進攻作戦」だが、これも全部「Z機(富嶽)」で行うというものだ。


 アメリカ本土の太平洋側にある飛行場は約700と見積もられる。

 そこでまずは「掃射型」20機、「爆撃型」40機からなる部隊を100個編成し、その部隊により600カ所の飛行場を順次破壊する。

 次に空挺隊員200人を乗せた「輸送型」50機に、護衛として「掃射型」20機、「爆撃型」40機からなる部隊を100個編成し、残る飛行場100カ所に一隊一カ所を割り当て一挙に占領させる。

 それが成功した後は、さらに「輸送型」で200万人の兵士と補給物資を送り込むというものだ。


 使用される「輸送型」は5千機との事。

 2千機の「掃射型」と4千機の「爆撃型」があればアメリカ軍の戦闘機や戦車や陣地を打ち砕くのはたやすく、短期間にアメリカ全土を攻略する事が可能というものだ。


「Z機(富嶽)」の1万機以上の生産とその実戦運用!

 いや、まぁ何というか史実を知っている立場からすると、壮大な「夢」としか思えないのだけど、本人は日本のために本気でこういう計画を立てていたわけだ。


 それにしても今回の歴史では「Z機(富嶽)」の開発はどうなるんだ?

「ミッドウェー海戦」では勝利したし「ガダルカナル攻防戦」も今の所は生じていない。

 敗勢にはほど遠い。

 それでもアメリカの長距離戦略爆撃機への対抗策として中島議員は「Z機(富嶽)」の開発をスタートさせるだろうか。


 中島議員には独自の情報源でもあるようで史実では現時点で既にB29の情報を掴んでいるようだ。

「Z機(富嶽)」の開発をしてほしいなぁ。是非してほしい。

 1万機以上なんて不可能事は言わないから、数機でいいから、いや1機でもいいから造ってほしい。

 見てみたいじゃないか史実では未完に終わった「Z機(富嶽)」の飛ぶ雄姿を!

 それは男のロマンというものだよ。

 折を見て中島議員に会ってさりげなく長距離戦略爆撃機の開発について一言触れておこうか。



●8月12日、大本営海軍報道部より「連合艦隊司令長官」への取材依頼が殺到しているので、どうか受けていただけないでしょうか、というお伺いの連絡が来た。


 丁度よかった。

 今後の戦略について海軍大臣や海軍軍令部総長と話をしておきたい事もあるし、「日米交換船」の「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ号」が横浜に帰港するのを出迎えたい。


 そこで海軍報道部に新聞取材を受ける代わりという事で、その方面への調整を任せた。

 本来ならこちらの人員が動かなくてはならないのだが、「連合艦隊司令部」は現在遂行中の「インド洋通商破壊作戦」に「M三号作戦」「MT作戦」に、「ハワイ攻略作戦」の準備で忙しい。

 だから些事な事は報道部に丸投げする事にしたのだ。


「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ号」の出迎えには、近在の部隊から手隙の水兵を100人ほど駆り出してくれとも注文を付けておいた。連合艦隊司令部付きの軍楽隊も連れて行き華やかに出迎えるとも言っておいた。


「浅間丸」には開戦直前までアメリカ政府と交渉していた野村特命全権大使が乗っている。


 野村特命全権大使は予備役ではあるが海軍大将で元外務大臣まで勤めた功労者だ。

 交渉が実らなかっとは言え、いや、実らなかったからこそ、余計にその努力と働きを労いたい。


 元々、近衛内閣から派遣された事もあって本人は東条内閣になった時に二度ほど帰国の願いを出して来ていた。それを「大使の苦心は想像に余りあるが海軍としては米国にとどまり国の主張完徹のためにご尽力あらん事を切望する」と押しとどめたのは海軍大臣だ。


 戦争の方針が決まった後もアメリカ側にそれを悟られないように外交交渉を続けてもらうしかなかった。

 まぁ外務省の暗号は既にアメリカ側に解読されていたわけだが。


 しかも開戦時には肝心の日本から送られた暗号化された開戦通知の解読と翻訳に大使館員が手間取ってしまう。その結果、開戦通知をアメリカ側に手交したのは真珠湾攻撃開始後という大失態になってしまう。

 それで野村特命全権大使はハル国務長官に厳しい言葉を浴びせられる。

 結果的に野村特命全権大使には酷い仕事なってしまった

 だから、せめてもの労いに盛大に出迎えたかったのだ。


 大本営海軍報道部は快くかどうかはわからないが各方面との調整を引き受けてくれたのだが、その時に憲兵隊とひと悶着あったらしい。

 それは自分が15日に行くと言ったから。


 実は「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ号」は15日に横浜に帰港できる。

 帰港はできるが史実では帰港しない。

 何故なら沖合に数日の間、停泊させられ、その間に「横浜憲兵隊」と「神奈川県水上警察」が両船に乗り込んで帰国者の取り調べを行うからだ。


 帰国者達に申告書を書かせ尋問し敵性市民がいないかどうか調査した。

 根掘り葉掘り聞いて重箱の隅を楊枝でほじくるような事をして、どうにも冤罪ではないかと思うような遣り口で約100人ほどのマークすべき要注意人物を割り出している。


 さらには帰国者達には船を降りた後も、戦況については喋らない事だとか、外国との生活と比べて日本での生活に不満は漏らすなだとか、言動には注意せよとか指示している。

 そのため船が寄港するのは20日になってからという事になる。


 しかし、今回の歴史では、自分で言うのも何だが、「勝利の立役者」で「巷で話題」の「連合艦隊司令長官」自らが15日に「交換船」で帰って来た帰国者達を出迎えると明言しその予定を通知したのだ。

 海軍報道部としてはいい宣伝になる。


 今を時めく「連合艦隊司令長官」が情のある所を公けの場で国民の前で見せようというのだから願ってもない宣伝材料だ。国民の海軍への心象がさらに良くなる事請け合いだ。


 それで、海軍報道部が「交換船」の出迎えについて各方面に連絡を付けたところ、そこで難色を示したのが「憲兵隊」という事らしい。


「憲兵隊」は出迎えは帰国者の調査が終わった後にしてほしいと言ってきたそうだが、交渉に当たった大本営海軍報道部の士官が一歩も譲らなかったそうだ。

「お忙しい連合艦隊司令長官のご予定を変える事はできません。それで今後の作戦に響いたら憲兵隊は責任をとれるのですか」

「調査? 帰国者の名簿も乗船名簿もある。それにシンガポールから海軍の士官が乗り込み既に乗客への教育を行っている。我々、海軍士官の目は敵性市民を見抜けないほどの節穴だと言うのですか」

と、海軍の面目にかけて一歩も引かず、「憲兵隊」の方も流石に「連合艦隊司令長官」の日程をどうこう言うのは拙いと考え直したのか結局折れたらしい。


 まぁ、自分が15日に行くと言い出せば、そんな事になるのではないかと思っていた。

 そう、この件はわざとだ。

「憲兵隊」は好かんのだよ「憲兵隊」は。


 史実において戦前、陸軍が「憲兵隊」を使って海軍をスパイしていたのは有名だ。

 今回の歴史も同様だ。

 自分の海軍次官時代も護衛と称した「憲兵隊」に行き帰りに張り付かれて監視されていた。

 嫌なものだよあれは。


 そう言えば「高松宮日記」にも憲兵隊について触れられている箇所があった。

「高松宮日記」は太平洋戦争当時、海軍の佐官だった皇族の高松宮宣仁親王殿下の日記だ。開戦時は中佐だった方だ。そして天皇陛下のご実弟でもある。

 平成の時代になってその日記が発見され某出版社より本となって出版された。


 その日記の中で高松宮宣仁親王殿下は手紙が来ない事について書かれている。1940年8月の事だ。

「(手紙の返事、ちっとも来ない。まさか、憲兵隊がおさえたり、いやがらせをしてるわけでもあるまいが、何ともわからぬ。何しろ憲兵隊はデタラメにやるから)」


 皇族であり天皇陛下のご実弟である高松宮宣仁親王殿下が「(何しろ憲兵隊はデタラメにやるから)」と書かれる程の事を、それまでの憲兵隊はして来たわけだ。


 海軍最大の失敗に自前で「憲兵隊」を持たない事だっていう意見があるが同感だね。

だから陸軍に好き勝手やらせる事になるのだ。


 まぁ現場の「憲兵隊」の者も上からの命令で任務で監視しているのは理解している。

 だが、だからと言って好意的にはなれんし気分だって良くない。

 全てを許せるほど、自分は人間ができていないのだよ。

 だから、ここで「憲兵隊」の一つや二つ困らせても構わんだろうし、彼らの事情など知った事か、というか鬱憤晴らしの安易な考えで、つい予定を決めてしまったのだ。


 でも、まぁこの事で日本がアメリカ、イギリスとの戦いに不利になるわけでも無いし。

 帰国者が大々的に日本に不利な行動をするわけでも無いだろう。

 だから、まあ、たまにはこういう事もよかろうという思いだ。反省はしていない。



●8月13日、ラビ攻略を行う川口支隊の乗る輸送船がパラオを出港した。


 史実では川口支隊は16日にパラオを出発しガダルカナル島に向かうのだが、それより3日も早く動いている。

 これは良い事なのだろうか悪い事なのだろうか今一つ判断が付かない。

 気にしすぎか。



●8月15日、前日に輸送機で移動し、横浜で「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ号」が横浜に帰港するのを出迎えた。


 連合艦隊司令部直属の軍楽隊の演奏に水兵100人が整列してのお出迎えだ。

 港には出迎えの一般市民も沢山いて警察が規制している。ご苦労さん。


「浅間丸」から降りて来た野村特命全権大使は、盛大な歓迎と「連合艦隊司令長官」自らが出迎えた事に驚いていたようだ。 

「君が出迎えてくれるとは…」

と声を詰まらせ、涙を滲ませていた。

 敬礼の後、野村特命全権大使に「ご苦労様でした」と自分が声を掛けて両手で固い握手をしたが、その時は記者達のカメラのシャッターを切る音が特に響いていた。

「貰ったぁ!」と思ったね。これで明日はどこの新聞一面トップもこのシーンで決まりだろ。


 きっと「演劇」でもこのシーンは見せ場の一つになるに違いないだろう。

 そう「演劇」なのだ。

 実は史実において「日米交換船」の事は、少し後に「演劇」が作られ公演されているのだ。

 アメリカで不当な人種差別に苦しめられ長い航海の末にようやく故国の日本に辿り着いた帰国者達は、皆喜びましたとさ。めでたし。めでたし。という「演劇」にされる。

 新聞でも「演劇」の宣伝がされたり、「演劇」の評論が載せられたりしており、言うなれば「愛国劇」とでもいうものにされているのだ。


 史実においては山本五十六連合艦隊司令長官が「日米交換船」と関わる事は無いので、きっと史実とは少し違う「演劇」がこの歴史では誕生するだろう。


 ちなみに史実の山本五十六連合艦隊司令長官は1942年8月17日に旗艦「大和」で呉を出港しトラック島に向かう。

 だから「日米交換船」とは海の上でのすれ違いとなっている。実際に近くですれ違ったわけではないけどね。

 ちなみに史実では以後、山本五十六連合艦隊司令長官が日本に戻る事は無かった。


 ともかく、これで国民の人気を更に得られたら嬉しい事だ。

 人気とりも時にはよかろう。

 これは将来を見据えての事だ。

 あまり自分にその気は無いけれど、いざとなったら連合艦隊司令長官を辞して政治の道を歩む事も考えている。


 実は史実において経済界の一部には、この戦争の終結の道筋を山本五十六連合艦隊司令長官に付けてもらおうと考える一派がいた。恐らく今回の歴史でもいるだろう。


 まぁ何せ現在の首相が東条さんではね……

 史実でも今回の歴史でも天皇陛下が今年の2月にシンガポール占領の見込みができたところで「戦争終結の機会を逃さないように」とお申し付けになったのに、それを無視して戦争拡大に走るような人だからね。

 こうした人が首相では、戦争の終結について経済界の人達が不安になるのも無理は無い。


 しかも、陸軍大臣兼務の東条首相の押さえとなる筈の嶋田海軍大臣は、東条首相に追従するばかりで人望を失い「東条の副官」と言われる始末だ。


 自分としては、あまり気は進まないが、あまりに東条首相と陸軍が暴走するようであれば、今の職を辞し陸に上がって止めに行かなきゃならんだろうと思っている。

 そのためには経済界の支援と国民の人気は是非とも得ておきたい。

 そのための小さな布石だ。


 史実での山本五十六という人は海軍次官時代に軍人が政治家になる事について「政治家になった軍人なんてろくな事はできん」と言い切っていた人だし、今回の歴史でもやはり同じ事を海軍次官時代言っておいたから、できる事なら前言を翻すような事はしたくないのだが。

 どうなる事やら……


 野村特命全権大使は政府が迎えに寄越した車で一足先に立ち去られた。

 自分はまだ帰国した他の人々を出迎えている。


 その中には大使の補佐官だった実松中佐がいた。自分が海軍次官時代の副官だ。

「よく無事に帰って来た」

と声を掛けたら感激していた。


 それに真珠湾でスパイをしていた吉川少尉にも同じく声を掛けた。

 真珠湾のアメリカ艦隊の動静を探り、真珠湾攻撃を成功に導いた立役者だ。


 吉川少尉には外務省の協力でハワイのホノルル領事館の職員という身分に偽装させてスパイをさせていたのだから、公けの場では声を掛けるべきではなかったかもしれない。

 しかし、別にこれから吉川少尉を工作員として再び日本から出すわけでもないから、まぁいいかと思ったのだ。

 危険な任務を達成した事について一言声を掛けておきたかったのだ。


 史実では軍令部第三部第五課の主任参謀が一人だけで吉川少尉の出迎えに来ている事を知っていたから、

 今回の歴史ではその参謀も一緒に吉川少尉を出迎えた。

「よくやってくれた」

と万感の思いをこめて言ったら吉川少尉は男泣きしていたよ。

 何せ吉川少尉には厳しい任務となったからね。


 アメリカの官憲の目を盗んでアメリカ艦隊の動向や基地の様子を探るだけでも大変だったのに、開戦後は他のホノルル領事館の職員と共に、アメリカ本土のアリゾナの収容所に送られた。

 しかも、アリゾナの収容所ではアメリカ側がスパイしていた者を探り出そうと連日の取り調べが行われる。


 そうした中で味方である筈の一緒に収容されたホノルル領事館の人から巻き添えはご免だとばかりに、スパイしていたのは自分だと名乗り出る事を考えてくれと言われたのだ。きつい話だ。


 幸い、名乗り出る前に「日米交換船」に乗るためにニューヨークに移動する事になったようだが。

 しかし、アメリカ側も既に吉川少尉がスパイしていたという確信があったようで、「日米交換船」の出るニューヨークで吉川少尉一人だけが他の者達と引き離される。

 幸い野村特命全権大使が強硬に公職員全員の帰還をアメリカ側に訴えた事から吉川少尉も最後には「日米交換船」に乗船できたという話なのだ。

 文字通り大変だったわけだ。


 こうした事は戦後に本人が「真珠湾スパイの回想」という本を出した中で語っている。

 そこでは、かなり自分の事を優秀なスパイとして書き上げている。

 ただし、他の文献によるとハワイでは任務の重圧に耐えかねたのか大酒を飲んで要らぬ事を口走ったり、酔って暴れて物を壊して警察が来る騒ぎを起こしたなどの逸話があるから、必ずしも常に冷静沈着というわけでは無かったようだ。

 だが、とにかく任務は達成した。

 そして無事に帰って来た。何よりだ。



●8月16日、霞ヶ関にある海軍軍令部で毎朝行われている「戦況説明会」に飛び入り参加した。


 この「戦況説明会」は夜間当直の参謀が前日の戦況の経過を夜の間に纏めておき、朝に海軍大臣、海軍軍令部総長、海軍次官、軍令部の部長クラス、作戦を担当している軍令部第一部の参謀達といった面々に説明するものだ。

 説明の後に、意見交換やら上の人達から指示が色々と出されたりする。


 今回、自分は甘い見通しで戦況経過を語る当直参謀に史実を知ってる強みでズバズバ鋭い突っ込みを入れ捲った。

 他の人達は皆、驚いた顔をしていた。

 そりゃあ、自分は連合艦隊司令長官になってからは、海軍内で直接的にあまり相手をやり込めるようなきつい発言や行為は慎んで来たからね。

 真珠湾攻撃作戦も「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」にしても参謀に交渉させて無理を通したわけだし。

 それがここに来て直接ズバズバ物を言えば皆驚きもするか。


 いや、でもほら、これまであまりにも海軍軍令部には自分の意見が通らない事が多いので、溜まっていたものがあったのですよ。溜まっていたものがあったのですよ。だから、つい厳しくしてしまった。

 故に後悔も反省もしていない。


 それと航空消耗戦の様相を呈してきているラバウル方面の状況について、陸軍航空隊の東部ニューギニア派遣を陸軍側に要請する事を提案した。


 その場にいた一同は驚いていたが、これは必要だ。

 現在はまだラバウルの航空隊で何とかポートモレスビー方面の敵航空部隊と渡り合っているが、この先はどなるかわからない。


 確かに今回の歴史ではまだガダルカナル島にアメリカ軍は来ておらず、これから来る可能性も低いだろうが、敵がポートモレスビー方面からさらに航空攻勢を掛けて来る事は疑いようがない。


 だが、現在の日本海軍にはラバウルに大規模な航空隊の増援を送る余裕が無い。

 南雲機動部隊の航空隊を始め再建途中や新編成の部隊はまだまだ訓練が必要だ。

 史実ではラバウルに派遣された「第6航空隊」などは今回の歴史では現在ミッドウェー島に配備され防衛にあたっている。

 これから一大航空戦になると思われる「ハワイ攻略作戦」を控えている事からも、ラバウルに派遣できる航空部隊は限られている。


「ハワイ攻略作戦」と同時にラバウルで航空消耗戦をやる余裕は今の海軍には残念ながらないのだ。

 そのため、既に開始された陸路よりポートモレスビーを攻略しようという陸軍の「レ号作戦」の航空支援を建て前に早い時期に陸軍航空隊を南方に出させたいのだ。


 それに海軍の航空隊は陸軍の地上作戦を支援するようには訓練されていない。

 陸軍の航空隊は当然、地上作戦支援の任務を得意としている。

 餅は餅屋に任せるべきだ。


 そうした事を一同に説明し陸軍への要請を提案したのだ。

 永野海軍軍令部総長は賛同してくれた。

 参謀達にも反対は無いようだ。

 今、思えばもう少し早くこの提案をすれば良かったかもしれない。

 忙しさの中についつい失念していたのだ。失敗した。不覚!


 ところで史実では海軍が陸軍に南方での戦いに航空隊の派遣を要請するのは「ガダルカナル島攻防戦」が始まった後の事であり8月下旬の話だ。

 つまり、陸軍への航空隊派遣要請の時期は、今回の歴史と史実とは殆ど変りがないという事になるだろう。


 史実では海軍の陸軍航空隊派遣要請に対し陸軍側が派遣する事を渋っている。

 その理由は複数ある。


 防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第7巻「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」に書いてある理由を要約すると次のようになる。


◯「ミッドウェー海戦」で海軍が被った正確な損害を陸軍側に知る者が少なく、海軍にはまだまだ飛行機に余裕があると思っていた事。


◯陸軍機は大陸での作戦を想定した訓練をしており、海洋での作戦には不向きな事。

「ドーリットル東京空襲」以後は日本本土の防空兵力の充実に力を入れていた事。


◯満州及び日本本土の陸軍の戦闘機の大部分は、旧式の九七式戦闘機な事。


◯ビルマ、南方資源地帯など占領し拡大した勢力圏の防空に航空兵力が必要な事。


◯新型戦闘機の生産が間に合っておらず各方面の第一線部隊の損耗分の補充さえ足りていない事などだ。


 そうした理由をあげて陸軍はなかなか航空隊を出そうとはしなかった。


 しかし、陸軍内から航空隊を派遣するべきだという声が強まって来る。

 何せ東ニューギニアやガダルカナル島で苦戦中なのは陸軍部隊だ。彼らを掩護するためにも航空隊を派遣して協力するべきだという声が段々と出て来たのだ。


 最終的に陸軍は飛行隊を派遣するが、派遣を決めた時には11月になっていた。

 実際に陸軍航空隊が東部ニューギニアで戦闘を開始するのは12月下旬となる。

 海軍が最初に要請してから4ヵ月以上が経っている。


 今回はそんなに時間を掛けられては困る。

 だから軍令部の者達に陸軍側に要請する時には腹を割って話してほしいと言っておいた。

 つまり、下手に隠し立てしないで「ミッドウェー海戦」で勝利はしたが、航空隊の損害が大きくその再建に時間がかかる事。

「ハワイ攻略作戦」では一大航空決戦が予想されるので、ラバウル方面には限られた戦力しか割けない事。

 派遣してくれる陸軍航空隊はニューギニア東部のラエ基地を使用してもらい、拠点の防空と地上部隊支援に専念してもらう事。

 ラバウルの海軍航空隊が全面的に支援する事。


 こうした理由を率直に話し、特にあくまで陸軍の「レ号作戦」支援の航空隊の派遣を要請するという事を前面に押し出して交渉するように提案しておいた。

 うまくいってほしい。


 これがうまくいき陸軍が飛行隊を派遣してくれればしめたものだ。

 一度、部隊を派遣すればそうそう後には引けなくなる。

 航空隊は航空消耗戦の中で戦力を徐々にすり減らし補充と更なる援軍を要請するだろう。

 そして陸軍は次々と航空隊を南方につぎ込む事になる。

 史実と同じように。

 くっくっくっ。あっ黒い笑みが出てしまった。

 ともかく陸軍の航空戦力を引きずり出して南方で役立たせるのだ!



 それから海軍内組織の事で「潜水艦本部」の立ち上げについても一言言っておいた。


 これは史実でも今回の歴史でも同様に海軍軍令部の潜水艦担当参謀が以前より要望を出している事だ。

 それは海軍航空隊に「航空本部」があるように、潜水艦部隊にも「潜水艦本部」を作り潜水艦部隊の能力を十全に発揮できるような体制を作る事が必要という意見だ。


 現在の潜水艦担当参謀は勤勉な人物で関係各所に「潜水艦本部」設立の要望書を提出したり、機会があれば関係者に自説を説いている。

 それに海軍軍令部の潜水艦担当参謀は一人しかおらず全く手が足りていない状況でもある。


 だからその意見を後押ししようと「潜水艦本部」の立ち上げと、潜水艦担当参謀の増員には全面的に賛成だと言っておいた。


 史実では潜水艦担当参謀の増員について各所でそれなりに理解が得られてはいた。

 それでも実際に増員を要望してから実現するまでに軽く1年以上もかかったという洒落にならない実話があるのだ。ちなみに増えた人数は1人だけだ。


 海軍省と海軍軍令部は大きな組織なだけに機構が複雑で融通が効かないのだ。

 たった1人増やすだけなのに一年以上かかっている。

 いかに小回りが効かないか、わかろうというものだ。


 海軍内では制度を変えたり新たに組織を作る場合は海軍省の「軍務局」を始め、他の関係部署の了解をとる必要がある。


 史実では結局、組織の複雑さと硬直した縦割り行政故に、「潜水艦本部」は遂に実現できず、権限の制限された一段下の「潜水艦部」の立ち上げにとどまっている。

 今回の歴史では、自分の発言がどこまで効くかは不明だが援護射撃はしておいたというところだ。

期待は全くしていない。


 いやまぁ実はこの援護射撃は9割は本気、1割は下心から出たものだ。

 下心とはつまり取引材料だ。


 現在の潜水艦担当参謀は有能だ。有能なのは良い事だ。

 しかし……

 この有能な海軍軍令部の潜水艦担当参謀は史実でも今回の歴史でも潜水艦建造計画において、既に建造が計画されていた潜水空母「伊400型」の有効性に疑問を唱え、その18隻の建造計画の中止を進言したのだ。


 各部署から建造中止への反対意見もあり、潜水空母「伊400型」は全艦建造中止とはならなかったが、現時点では半分の9隻が建造中止と決定してしまった。


 潜水空母の有効性への疑問とは、これから建造しても2年はかかるであろうし、その頃にはアメリカもその巨大な国力を遺憾なく発揮し、アメリカ本土の防衛体制を整えているだろうから、こうした潜水空母での小規模な航空戦力による戦果は然程期待できないというものだ。


 限られた資源を有効利用するためにも、潜水空母を建造するよりも通商破壊戦用の潜水艦を建造する方が効果的という意見なのだ。


 正しい。

 極めて正しい。

 全く正しいよその意見は。


 史実では2年後どころか1942年7月の時点で既にアメリカ本土西海岸にはレーダー網が張り巡らされている。アメリカも開戦後に必至になってレーダー網を整備したからね。今回の歴史でも同様だろう。


 だが、だが、自分は見たいのだ潜水空母艦隊の雄姿を!

 史実では僅か3隻だけが完成し、そのうち2隻が出撃しながらもギリギリで終戦となり、実戦を行う事なく消える定めとなった「伊400型」の活躍を自分は見たいのだ!


 と、言う事で、後で潜水艦担当参謀と膝を突き合わせて潜水空母18隻の建造計画の復活を「交渉」したのだ。

「潜水艦本部」の立ち上げの後ろ盾になるから潜水空母の建造計画の全面復活を宜しくと。

 潜水空母の使い方には今は話す時期ではないが「腹案」があるとも言っておいた。

 いやぁ「腹案」なんて何も無いけどね。

 でも、これから頑張って考えますから!

 だいたい潜水空母の発案者は史実でも今回の歴史でも山本五十六連合艦隊司令長官ですから!

 自分、頑張って潜水空母の有効な使い処を作りますから!

 まぁ「交渉」はうまく行ったよ。決して地位を使った圧力はかけていないよ。

「理解」が得られたのだよ。ホントだよ。


 それにしても海軍軍令部、海軍省の組織としての硬直化には困ったものだ。

「潜水艦本部」立ち上げだけの話ではない。


 組織内での各局、各部、各課がいがみ合っていると言っていいほど対立していたり、各人員の職務担当が厳格なのはいいとしても、それが行き過ぎて横の繋がり、連絡が悪すぎる状況になっている。


 例えば海軍軍令部内の第一部は作戦を担当している。情報を担当しているのは第三部だ。

 その第三部の第五課でアメリカ軍の戦力の推定もしているわけだが、第一部の作戦課でも独自にアメリカ軍の戦力の推定をしている。

 その第一部の作戦課と第三部の第五課の推定にかなりの違いが見られるのだ。

 だが作戦課は第五課の推定を全く考慮しようとしない。

 そんな事が度々ある為、第五課ではアメリカ軍の戦力の推定はするものの、作戦課には進んで情報を送る事はしなくなり推定情報は机の引き出しの中にという事が実際に起こっている。


 何せ海軍軍令部の参謀ともなるとエリート中のエリートだ。皆、己の能力に自信はあるしプライドもあるから自分の見解と違った場合、容易には相手の意見を飲まないのだ。

 せめて双方が見解を述べ合い、どちらがより合理的で的確な数値か話し合い摺り合わせが行われればいいのだが、そういう事は全く行われない。

 こんな事は氷山の一角だ。


 そう言えば、史実で山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した後に、その後任となった古賀峯一大将も海軍軍令部については良く思っていなかったようだ。

 何せ連合艦隊司令長官就任から4ヵ月ほど経った頃に、友人に出した手紙の中で、海軍軍令部の事を「無知」とか「無気力」とまで書いている。それだけ腹立たしい事があったのだろう。

 海軍軍令部には困ったものだ。


 鑑みれば実戦部隊の長であるのに連合艦隊司令長官の職を辞すと強硬な姿勢を示さなければ「真珠湾攻撃作戦」も「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」も認可されなかった。


 嶋田海軍大臣は戦艦「武蔵」の建造には反対だったが建造中止にはできなかった。

 組織の上にいる人間だからといって何事も自分の思い通りに右から左に動かせるわけでもないのが現在の日本海軍の組織というものだ。

 やれやれほんとに大変だよ。



 朝の「戦況説明会」の後は、永野軍令部総長と嶋田海軍大臣を交えて今後の展望について意見を交換した。

 ハワイ攻略が一つのターニングポイントになるだろうという事で意見の一致を見た。


 更に海軍としてはハワイ攻略が成功した場合、アメリカに講和を求める方向で東条首相に働きかけるという事で意見が一致した。


 しかし、大丈夫だろうか嶋田海軍大臣は。

 東条首相のイエスマンと化している現状では今一つ信頼に欠けるのだが。


 そもそも東条首相はハワイ攻略が成功したとして、そこで講和という事を考えるだろうか。

 

 尤もこのハワイ攻略後に講和をという話に自分は然程期待していない。

 ハワイを攻略したところでアメリカは戦争を止めないだろう。

 ルーズベルト大統領はアメリカ本土での日本軍との戦闘を想定しているのだ。

 まぁいい。

 既にアメリカを叩く一手は打ってある。



 午後からは海軍省の一室で新聞記者達の取材を受けた。


 海軍次官時代には仕事の一つに記者会見があったので、各新聞社の海軍担当記者の顔は結構知っている。とは言っても、もう数年前の話なので知っている顔があるかどうかと思っていたら、来た記者はみんな知った顔で「黒潮会」のメンバーだ。


「黒潮会」は海軍担当の新聞記者で構成されている記者クラブで海軍に好意的だ。

 恣意的な取材とも思えるが、まぁいいだろう。きっと今回も好意的な記事を書いてくれるだろうから。

 ところで、来た記者の中に、史実で「竹槍事件」の当事者となる記者の顔もあった。


 史実では1944年にこの記者は、実際に前線を取材し敗勢の色濃い現状を憂いて「竹槍よりも飛行機が必要だ」という趣旨の記事を新聞に載せた。それが東条英機首相の目にとまり怒らせる。


 そして大本営陸軍部は記事を書いた記者の処分を新聞社に求めた。

 それだけでは飽き足らず、中年で徴兵対象外の筈の記者本人に召集令状を出し徴兵しようとする。

 それに海軍が横槍を入れ色々あって記者本人は海軍の助力により一兵士としではなく、海軍報道班員として外地に出るという事態になった。それが「竹槍事件」と呼ばれる出来事だ。


 ただし、文献によっては、海軍報道班員ではなく、ただ召集が解除されたという風に記述してあるものもある。真実はどっちだ?


 まぁそれはともかく、ここで尊敬すべきなのは新聞社での記者の上司だ。

 記者の処分を求める軍からの圧力に対し、何と記者本人を庇い編集長が責任をとって辞任した。

 偉いな編集長!

 当時の日本での軍部の在り様を考えれば大したものだ。


 自分の場合、現代日本で暮らし働いていた時は、何か問題が起きても庇ってくれる上司は少なかったよ。

 それどころか、上司自身のミスを部下の責任にしたなんて人間なら幾らでも見たね。

と、言うか自分も上司のミスを押し付けられた事があったよ。

 現代日本で暮らしていたあの頃、こんな身体を張って部下を守るような上司が自分も欲しかったよ。


 ところで太平洋戦争後期、敗勢の色濃くなって来た日本は「国民義勇戦闘隊」を編成して国民を徴用し竹槍を持たせ戦闘訓練をしている。武器の数が足らないから竹槍を持たせたわけだ。

 まぁ銃や戦車、爆撃機の時代に竹槍を持たせなくてはならない程、日本は追いつめられていたというわけでもある。

 

 この竹槍については、後世、揶揄されたりもするわけだが、こういう事をしたのは何も日本だけではない。

 

 イギリスでも似たような事をしている。

 1940年、ドイツ軍の侵攻により連合軍の一角フランスはたちまち倒され降伏を余儀なくされた。

 フランスで戦っていたイギリス軍は命からがらイギリス本土に撤退するが、その時、多くの装備が失われた。

 そして次はドイツ軍がイギリス本土に上陸してくるかもしれないという状況になる。

 イギリス国内では大急ぎで武器を生産しているがとても足りない。

 そこでイギリス本土防衛軍の一部には急遽生産された槍が渡されたのだ。

 たまたま旧式の銃剣の在庫が豊富にあったので、それを細い水道管に溶接し、急造の槍が造られた。

 その数は数千本とも言われる。

 

 追い詰められた国がやる事なんて似たような事というわけだ。


 まぁそんな話はともかくとして、記者達の取材には「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」の前に全将兵を戒めるべく行った訓示と同じ様な事を言っておいた。

 つまり「今川義元になるべからず」だ。

 戦国時代、大軍を擁しながらも油断し織田軍の奇襲を受けて桶狭間に敗れた今川義元のようになってはいかん。「勝って兜の緒を締めよ、ですよ」と言っておいた。



 新聞記者達の取材の後、海軍軍令部第一部長の福留少将と話をした。

 というか福留少将の要請だ。

 海軍の備蓄燃料がかなり減少したため今後の作戦に配慮を求むとの事。

「長官が何故、油田の確保に拘っておられたのか、お恥ずかしながら今ようやく痛感致しました」

と言ってしおれている。

「それみた事か!」

とは言わないでおいであげたよ。武士の情けだ。


 それに実際にはまだ燃料はある筈だ。

 史実では開戦前に海軍が備蓄していた燃料の重油は約650万トンだ。

 そして1942年末までに消費した燃料は483万トンだ。

 つまり1943年初めには開戦前からの備蓄が167万トンあり、それにプラスして南方油田地帯から送られて来た燃料がある。


 だから史実において1943年までは海軍も深刻な燃料不足には見舞われなかったのだ。

 実際、防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第88巻「海軍軍戦備②開戦以後」には1942年、1943年の2年間は殆ど燃料に顧慮する事なく作戦遂行が可能だったという事が書かれている。


 現在の正確な燃料の備蓄量は知らないが、そうした史実を鑑みれば1942年8月のこの時点では、それほど切羽詰まった状況ではないだろう。


 だが、福留少将の心配もわかる。

 開戦前の想定では開戦1年目に消費される燃料は300万トン程度であり、この他に一大海戦が生じるとして、それには50万トンの燃料を使うというものだった。


 史実でも今回でも「MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)」では約60万トンの燃料を消費しているし、全体的に燃料の消費量は開戦前の想定を超えているだろう。


 燃料の備蓄に不安になるのもわかる。

 戦争が来年終わるというのならまだしも、それ以後も戦争は続くだろう。

 燃料にも配慮が必要だ。

「何とか抑える方向でやってみるよ」と福留少将には言っておいた。

 福留少将は恐縮していたね。


 それにしても南方の油田地帯から順調に重油が運ばれたとしても、このままでは何れ海軍に燃料不足の状態が起きるだろう。


 油田地帯は今年占領したばかりで現在懸命に生産体制を整えつつある。

 そこは順調に行っており問題は無い。


 問題はやはり海軍が握っている油田が少なすぎるのだ。

 史実では1943年に海軍が消費した石油量は約428万トンだ。

 しかし、同じ年に海軍管轄の油田で生産された石油は約121万トンなのだ。

 開戦前からの備蓄が無かったらどうなっていた事か。


 その同じ1943年に陸軍と民需で消費された石油量は約234万トンだ。

 つまり1943年は海軍、陸軍、民需の合計で約662万トンが消費された。


 ここで、問題なのは陸軍管轄の油田だ。

 1943年の陸軍管轄の油田で生産された石油量は約622万トンにもなるのだ。

 つまり、1943年に海軍と陸軍が南方の油田地帯で生産した石油量は合計で約743万トンにもなり、1943年に日本が消費した662万トンを軽く上回っている。


 そもそも陸軍は1943年消費した石油量は約81万トンに過ぎない。

 海軍、陸軍、民需の中で、一番、石油を消費しない陸軍が最も多くの油田を押さえているという構図なのだ。


 1943年で言えば陸軍は自らが消費する量の7倍以上を生産する油田を押さえている。そして海軍は消費する量の約35%程度の石油しか生産できていない。

 この辺りは今回の歴史でも同様な事になるだろう。

 頭の痛い問題だ。


 今はまだ開戦前からの備蓄があるからいいが、あとどれぐらいしたら燃料問題が深刻化するか。溜め息がでそうだ。

 海軍は不足する燃料の分を陸軍に頭を下げてもらいに行かなきゃいけない。

 海軍と陸軍の確執を思えば、海軍軍令部や海軍省の中には燃料のために陸軍に頭を下げるのを嫌がる者もいるだろう。


 史実ではわざと陸軍が海軍に燃料を渡さずにいたから日本は戦争に負けたと主張する海軍軍人もいたな。

 まぁいざとなったら自分が陸軍に頭を下げてもいい。

 面子に拘って戦争に負けるよりはましだ。

 まぁ連合艦隊司令長官に頭を下げさせるなんてできませんと海軍士官達が騒ぎそうだけど。


 油田の不足は時間はかかるが解決策も無いわけじゃあ無い。

 福留少将には今後、南方で発見される新たな油田は何としても海軍が押さえて欲しいと言っておいた。

 福留少将はハッとしたような顔していたね。


 新たな油田を発見してそれを海軍管轄にできれば、その分、陸軍に頭を下げなくてすむだろう。

 本当は海軍と陸軍が一致団結して戦争しなければならないんだけどね。

 それがなかなか難しいから困る。


 自分一人だけなら幾らでも陸軍と協調したり妥協したりできるが、連合艦隊司令長官としてはできる事には限りがあるからね。

 連合艦隊司令長官とは言っても所詮は組織の歯車の一つでしかない。海軍と陸軍の仲を良くするなんて手に余るよ。


 ともかく史実では終戦の約一年前の1944年9月に日本の石油調査隊がインドネシア最大の油田となるミナス油田を発見していたりする。

 そうした新たな油田を海軍管轄下に置ければ数年後においては少しは海軍の燃料問題も解決に向かうだろう。


 それまで燃料問題が深刻化しなければいいが無理だろうな。

 これから燃料を大量に消費するだろう「ハワイ攻略作戦」だってあるのに、燃料にも気を配らなきゃいけないとは難儀な戦いだ。


「第3機動部隊」の「B作戦(インド洋通商破壊作戦)」で石油タンカーを複数隻鹵獲してくれないかなぁ。そうすれば少しは楽になるんだけどなぁ。これも無理かなぁ。

 頭の痛い問題ばかりだよ。



 頭の痛い問題はさておき、夜は料亭の一室を借り切って「浅間丸」で帰国した海軍武官達を招いて慰労会兼報告会を開いた。

 帰国した海軍武官達はこの日、海軍省で報告を行い、その後は暫く休暇となる予定だ。

 休暇に入る前に是非、アメリカの話を聞きたかったし、それまでの苦労を労いたかっのだ。

 いい酒をたっぷり飲ませてやったよ。ふっふっふっ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


2016年8月25日 午前3時30分


おはようございますでおじゃりまする。またはこんにちわでおじゃりまする。またはこんばんわでおじゃりまする。

もう言い訳はしないでおじゃりまする。<(_ _)>

「宮様、頑張る(陸軍編)」の第3話を書いたでおじゃりまする。<(_ _)>


どうぞ、お読み下さいでおじゃりまする。<(_ _)>



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



  【宮様、頑張る】(陸軍編)


第003話『とある教授達の喜び』



1938年◯月◯◯日

『閑院宮邸』


閑院宮邸の一室に三人の男が集まっていた。

一人は屋敷の主、閑院宮載仁親王であり陸軍参謀総長の地位にいる。

もう一人は東京帝国大学の白鳥庫吉教授であり、昭和天皇の皇太子時代に、その教育に携わった人でもある。

残る一人は邪馬台国の比定地について発表した学説が注目される笠井新也教授である。


皇太子の御教育にも携わった事のある白鳥教授は閑院宮総長を前にしても動じていないが、初めて皇族と会う笠井教授は緊張の色を隠せなかった。

だが、そんな事には気にも留めず閑院宮総長は話し始める。


「白鳥教授、あなたと内藤湖南教授の邪馬台国論争は実に興味深いものがあった。四年前に内藤教授が亡くなったのは実に惜しい事だ」

「わたくしもそう思っております閣下。良き好敵手を失ったかのような気持ちにさせられました」


(説明するでおじゃる。

明治時代後半頃、邪馬台国がどこにあったかという問題について東京帝国大学(現在の東京大学)の白鳥庫吉教授が九州説を提唱、片や京都帝国大学(現在の京都大学)の内藤湖南教授が畿内説を提唱し一大論争を巻き起こしたでおじゃる。

この論争は二人の間だけにとどまらず、東京帝国大学の学者は九州説を押し、京都帝国大学の学者は畿内説を押し、東大(九州説) VS 京大(畿内説)という形が形成されたでおじゃる。

以後も東京大学出身の学者は九州説を提唱する者が多く、京都大学出身の学者は畿内説を提唱する者が多いという傾向になるのでおじゃる)


「うむ。だが内藤教授は亡くなっても、ここにいる笠井教授のように畿内説を唱える者はまだまだいる。

邪馬台国論争は九州説にしても、畿内説にしても、どちらにも頷ける部分がある。

だからこそ、それぞれ支持する者達がおり未だ終わる事のない論争になっているのだろう」


「仰る通りです」

「真に」


「そこでだ。

昔から言うだろう『論より証拠』と。

どちらの説にも足りない物は物証だ。

邪馬台国がそこにあった事を示す明確な物証だ。

それが足りないからこそ論争が果てしなく続くのだ」


「仰るとおりです閣下。物証という点については些か弱いと言わざるをえません」

「ですが、それには中々に難しいものがありまして……」


「わかっておる。

特に近畿説からすれば、有力な物証が出土するかもしれない古墳の管理は宮内省が行っており発掘調査などできまい。

それにできたとしても発掘には費用がかかる」


「仰る通りです」

「真に」


「笠井教授、君の説では卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命と同一人物であり、その倭迹迹日百襲姫命の墓とされる奈良の箸墓古墳こそが卑弥呼の墓であるとしていたな?」


「その通りでございます閣下」


「うむ。

既に宮内省は黙らせ、あっいや、儂自らが宮内省と交渉し箸墓古墳の発掘許可を出させた。

箸墓古墳だけではないぞ。

箸墓古墳と同じ纒向遺跡を構成するホケノ山古墳、纒向勝山古墳も発掘許可を出させた」


「なんと!」

「それは!」


「発掘費用は全額、この閑院宮が出す。京都帝国大学にも儂から話して発掘に協力させよう。笠井教授、君が中心となって発掘調査をするのだ」


「は、は、はい閣下、光栄であります」


「白鳥教授、あなたの説では九州の肥後山門(熊本県)に邪馬台国があったとしていたな?」


「はい閣下、その通りでございます」


「うむ。では白鳥教授には肥後山門での大々的な発掘調査をお願いする。こちらも発掘費用は全額、この閑院宮が出す。ただし、九州での発掘は肥後山門以外にもやっていただこう」


「と、申しますと?」


「筑後山門(福岡県)だ。

かの新井白石が晩年に書き綴っていた外国之事調書で、邪馬台国があったとしている場所だ。

この地を邪馬台国の比定地と考えている他の学者も少なくなかろう。

他にも九州には邪馬台国の比定地と考えられている地域が幾つもあったな。

東京帝国大学には全面的に協力するよう儂からも圧力、あっいや要請をする。

白鳥教授の教え子達を九州各地に派遣し根こそぎ調査するのだ」



(余談でおじゃる。

新井白石も1716年に著した「古史通或問」の中では邪馬台国は近畿にあったとしているでおじゃるよ。

しかし、晩年にはその考えも変わったようでおじゃる。

それに白鳥庫吉教授も戦前は肥後山門(熊本県)に邪馬台国があると主張していたでおじゃるが、戦後は自説を改め、新井白石の晩年の考えと同じく筑後山門(福岡県)に邪馬台国があったとしているでおじゃるよ)



「そ、それは大変な事になりますな閣下」


「だが、やらねばならん。

邪馬台国も日本の歴史の一部だ。

それを国の位置が分かりません。学者達が論争中です、ではお粗末すぎる。

そんな近代国家がどこにある。

ましてや皇紀2600年は間近ぞ。日本国中で盛大に祝う行事が予定されている。

2600年の歴史を誇っておいて過去にあった国一つの位置がわからないとは、物笑いの種ぞ!

やるのだ!

我々の手で!

見つけ出すのだ失われた邪馬台国を!

既に陛下にもこの事はお話してある」


「なんと!」

「真にございますか」


「うむ。陛下も日本の歴史に不明瞭な部分があってはならんとお考えだ。

我々日本人の歴史なのだからな。

だからこそ宮内省も黙らせ、あっいや協力させたのだ。

頼むぞ二人とも。

必ずや邪馬台国を見つけるのだ!」


「必ずや見つけ出してご覧にいれます」

「全力を尽くします!」


こうして平成世界でも未だに、その決着がついていない邪馬台国論争について、この歴史では昭和30年代にして大きく動き出す事になったのである。


閑院宮総長はほくそ笑んでいた。

心弾み内心で叫んでいた。


さぁ邪馬台国の謎を解き明かしてやる!

平成の時代になってさえ、未だ決着がつかない邪馬台国の地。この儂が見つけ出してやるわ!

ぐわっはははははははははははははははははははははは。


だがなぁ。

箸墓古墳や肥後山門から何かしらの物証が出ればいいが、出なかった場合や、邪馬台国が別の場所にあった場合が厄介だな。

九州説だけ見てもやたらと色々な説があるからな。


(説明するでおじゃる。

60年代から70年代にかけて、本として出版されている邪馬台国の比定地だけでも…


1966年、至文堂から出版された「邪馬台国」の中で榎一雄氏は筑後御井(福岡県久留米市)に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1967年、筑摩書房から出版された「邪馬台国への道」の中で安本美典氏は福岡県朝倉郡に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1967年、講談社から出版された「まぼろしの邪馬臺国」の中で宮崎康平氏は長崎県諫早湾沿岸に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1969年、白陵社から出版された「邪馬台国の研究」の中で重松明久氏は福岡県豊前京都郡に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1970年、雄山閣から出版された「邪馬台国物語」の中で野津清氏は長崎県の大村湾東岸に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1971年、朝日新聞社から出版された「邪馬台国はなかった」の中で古田武彦氏は博多湾沿岸に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1973年、光文社から出版された「邪馬台国の秘密」の中で高木彬光氏は大分県宇佐市に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1973年、北方文芸刊行会から出版された「邪馬台の女王の神神」の中で横堀福次郎氏は大分県中津市に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1975年、光文社から出版された「邪馬台国は沈んだ」の中で大羽弘道氏は福岡県の周防灘に地震で沈んだ島があり、そこが邪馬台国の聖地があったとし福岡県行橋市に邪馬台国の首都があったと主張しているでおじゃる。


1976年、五稜出版社から出版された「真説邪馬台国」の中で恋塚春雄氏は長崎県佐世保に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1978年、原書房から出版された「現地調査 邪馬台国」の中で中堂観恵氏は福岡県八女郡に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


1979年、サンケイ出版から出版された「隠された邪馬台国」の中で佐藤鉄章氏は福岡県太宰府に邪馬台国があったと主張しているでおじゃる。


これらは代表例に過ぎず、まだまだあるでおじゃるよ。それに雑誌等でも発表された説を含めれば更に数は増すでおじゃる。

鹿児島県の霧島説や高千穂説、宮崎県の西都原説や延岡説、熊本県の熊本市説や人吉説や八代説や佐俣説や山鹿説等々。

これに2010年代までに出された説を含めればどれだけの数があるか……

もう九州は邪馬台国があったと言われない土地は無いんじゃないかと思うくらいでおじゃるよ。


九州だけでもかなりの数でおじゃる。

これで日本全土まで含めればどうなるか……


近畿説にしても有力と言われている箸墓古墳の奈良盆地以外にも京都山城説、大阪和泉説、滋賀県野洲市説、奈良県吉野説などがあったりするでおじゃる。


中国地方も出雲説や吉備説があるでおじゃるし、四国では松山説、川之江説、阿波説、土佐説があるでおじゃる。


他にも信州や関東の説もあるでおじゃる。


全部書き出したらとんでもない数になるでおじゃるね。


というわけで、長い解説は終わるでおじゃる)



箸墓古墳や筑後山門、肥後山門で成果が出ない場合は虱潰しに調査していくしかないか。

まぁそれもいいだろう。


ともかく今回の人生では邪馬台国を必ずや見つけてやる!

ぐわっはははははははははははははははははははははは。




〖果たして邪馬台国が発見される日は来るのだろうか……

私の生きている間に発見してほしいものである。

ところで、これはIF戦記なのだろうか? 謎である〗                                   



【つづく】






<次回予告>

◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯。

◯◯◯◯◯◯◯◯。

◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯……


次回「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」

ご期待しないで下さい。

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