第5話
白い光に包まれたその部屋に貴女は居た。顔はぼやけてて良く分からないけど、僕には貴女だとすぐに分かった。温かい匂いがするから。
腰まである長い黒い髪を花柄のシュシュで束ねて、机に向かっている貴女は楽しそうに鼻歌まで歌っている。
「〜、これね、あの子が行きたがってたの。今度あの子と行こうと思うんだ」
僕に気付くと、そう笑う貴女の声は柔らかい。僕は貴女に名前を呼ばれるのが大好きだ。でも、肝心の僕の名前がぼやけて聞こえない。
「あの子、動物好きだから喜ぶよね、きっと」
彼女が見ているのは、どうやら有名な動物園のパンフレットらしい。動物を見て何が楽しいのか僕には理解出来ないが、貴女が楽しそうなのは理解出来る。
「それからね、とびきり美味しい、あの子の大好物を食べさせてあげるの。私の料理は悲惨だから、たまには美味しいもの食べて欲しいの」
貴女は照れ臭そうに笑う。
「あの子ったら、大好物を食べる時は小さい子供みたいなのよ。旗を立てたら、『子供じゃないもん』ってふてくされてたけど、嬉しそうだった」
そういう貴女の方が嬉しそうだよ。
「ねぇ、〜、あの子と仲良くしてあげてね。あの子、いつも寂しそうだから。私はあまり上手く接してあげられないし」
そんな悲しい顔をしないで。僕は貴女の笑顔が好きだから。貴女の笑顔が僕がここにいる意味でもあるんだから。
貴女はいつもそうやって泣いてるね。あの子の事を口にしては、喜んで、嬉しがって、楽しそうで、でも最後は泣いてしまうんだ。
僕はあの子が少し苦手だけど、貴女が喜んでくれるなら、仲良くするよ。だから、ねぇ、泣かないで。貴女は少し不器用なだけだから。
目が覚めると、カーテンの隙間から零れる日の光が、朝だということを僕に教えてくれた。
不思議な夢だったな。
僕は上体を起こした。桜井から僕に与えられた部屋は、今の隣にある和室で、およそ6畳くらい。昨日は、琳の作った料理を食べて、桜井がお酒を飲んで1人で盛り上がって、結局深夜になってみんな寝たんだっけ。そういえば、琳の作った料理の味がどれも初めてで、あまりの美味しさに感動してたら、味覚まで記憶喪失かって桜井さんに笑われたっけ。
というか、知らない人の家なのにこんなに安心しきってて良いのだろうか?まぁ、記憶が無い以上行く当てもないし、桜井の好意に甘える他ないだろうな。
僕はゆっくり上体を倒し、天井を見上げた。
貴女は、何処にいるの?
夢の中の貴女を思い出したい。いや、思い出さなきゃいけない気がする。僕は大事なことを忘れてる。とても大事な何かを。そもそも、僕は誰なんだろう。貴女は僕の名前を呼んでたけどぼやけて聞こえなかった。
あれは、僕の記憶の夢なのだろうか。
頭の中で貴女に手を伸ばすけど、貴女は泡の様に消えてしまう。貴女がいない世界は、僕に空虚を与える。でも僕はそんな存在の貴女を思い出せないんだ。
ああ、嫌になってくる。思い出してよ、僕。貴女に触れさせてよ。お願いだから。
「起きてる?」
襖の向こう側から、か細い声がした。桜井のものではない。
「・・・琳?うん。起きてるよ」
僕はそう言って起き上がり、襖を開けた。襖を開けた先には、仔猫を抱いた琳が少し恥ずかしそうに立っていた。
「どうしたの?」
「・・・優、病院で仕事だからいないの。それで、二人で朝ご飯食べてねって、用意してくれてるから、呼びに、来ました」
俯きがちな琳の声は消えてしまいそうなくらい小さい。
「そっか、ありがと。一緒に食べようか。あ、別に敬語じゃなくて良いからね」
僕がそう言うと、小さく頷き、居間へと戻って行った。僕もその後を追い、居間に入ると、テーブルの上には、ご飯と味噌汁と、焼き魚、卵焼きが2人分並んでいた。
ちゃ、ちゃんと料理出来るじゃん。僕は桜井の女子力に驚きつつ、食卓についた。
琳は僕の向かいに座ると、「頂きます」と言って、食べ始めた。僕も食べ始めたが、やはりどれも初めての味だった。魚の味だけは初めての感じがしなかったけど、味覚が記憶喪失って、あり得る話なのかなぁ。
僕は小さく溜息を吐いた。