#18
「誰だ!」
強く声をあげ反射的に振り返るも、辺りには静かな森が広がるばかりで人影は見えない。だが、空耳と言うにはその声はあまりに鮮明だった。何者かが近くにいるのは間違いないだろう。
周りを警戒しつつソラがベルトのナイフに手をかけると、頭上から「チリン」とすずやかな音が落ちてきた。直後、音につられるように視線を上げかけたソラの目の前に、突然男が降ってきた。それも頭から。
「っ!?」
驚きのあまり息をのむソラと丁度目線が合う高さで静止したその男は、ソラの様子を見てニッと口の端をつり上げた。
「やあ」
その男は、何を思ったのか逆さまで空中に静止した状態で暢気に挨拶をした。ソラの混乱ぶりなどお構いなしだ。
ソラは早鐘のように鼓動を打ちならす心臓を何とかなだめ、場違いな笑みを浮かべる男を一歩引いて眺めた。
よくよく見ると、男は鉄棒のような要領で木の枝に膝を引っかけてぶら下がっているだけで、別段空中に浮いているわけではない。そのカラクリがソラにバレたことを表情から悟ったのか、男はそのまま無造作に膝を外すと、空中で後ろ向きに一回転した後、とん、と軽い着地音とともに地面に降り立った。重力を無視したかのような身のこなしにソラが呆気にとられていると、男が改めてこちらに向き直る。
一言で言うならば、その男はつかみ所がなかった。特徴がないのではない、ありすぎてどこに注目すればよいのかわからないのだ。
年齢で言うとソラよりもいくつか年上だろうその男を見上げると、まず目に入るのが赤紫色のメガネだ。太めのフレームが囲う四角いレンズの向こうでつり気味の目が笑っている。赤みの強い茶色の髪は左右非対象になっていて、顔の右側に少し長めの髪がかかっていた。だが、印象的なのは顔の造作だけではない。首に厚手のストールを巻いた男は、様々な模様のインナーを重ね着した上からさらに丈の長いカーディガンを羽織っている。革のブーツに裾をつっこんであるズボンはピンクと黄色のストライプで、一見ちぐはぐな印象を受けるそれらを、この男はなぜかしっくりと着こなしていた。
「初めましてだね、新しいお客人」
ソラが何も言えないでいると、男の方が先に口を開いた。
「あんた……俺のことを知ってるのか?」
ソラとは初対面だというのに、その男の口調には迷いがない。明らかにソラのことを余所者だと知っている口振りを訝りつつ聞くと、男はこともなげに言ってのけた。
「知ってるよ。君は無力で非力でちっぽけな存在さ」
「なっ」
初対面の相手にこの上なく失礼なことを言っておきながら、男には何ら悪びれたところがない。思わず言葉に詰まるソラに向かってにこりと笑うと、
「僕はチェシャ猫。不思議の国の観察者だね、そう」
その男――チェシャ猫はそう名乗った。