#15
「待て! 待ってくれ」
何度この言葉を繰り返しただろうか。自分の声は確かに聞こえているはずなのに、白ウサギが振り返る気配はなかった。
だが、それも仕方のないことなのだ。名前を呼べば、あの人がすぐに笑顔を向けてくれたあの頃には、もうどうやっても戻ることができない。幸せだったあの日々は、自分がこの手で壊してしまったのだから。
そんなことを考えながら、ただひたすらに前を行く背中を追いかける。どれくらいの間走っていたのだろうか、不意に足を止めた白ウサギがゆっくりと振り返ったのは、木々が少し開けた広場のような場所だった。
同じように足を止め、息を整えたエースが顔を上げると、雲間から指す月光を浴びた白ウサギが底知れぬ笑みを湛えていた。光を受けた白い髪はまるで銀糸を紡いだかのように煌めき、紅い瞳が静かに瞬いている。その美しさは儚くもあり、妖しくもあった。
白ウサギが纏う侵しがたい聖域のような雰囲気にのまれないよう、エースは目に力を込めて切り出した。
「また、客人を連れてきたんだな」
「ええ。どこから嗅ぎ付けたのかは聞きませんが、もう随分と手懐けたようじゃないですか」
「手懐けているわけじゃない。ただ……俺はこれ以上、ゲームの犠牲になる者を見たくないだけなんだ」
「犠牲ですか」
苦しげなエースの言葉を意にも介さない様子で、白ウサギは飄々と言う。
「敢えて今はその言葉に乗ることにしましょう。もし、彼をこのゲームの犠牲者にしたくない、本当にそう思っているのなら」
そこまで言って、白ウサギは婉然ととろけるように微笑んだ。
「彼の傍を離れるべきではありませんでしたね」
冷たい嘲りを含んだその声音に、嫌な予感がエースの胸を覆う。
「……何が言いたい?」
心中を探るように慎重に問いかけると、白ウサギは面白い玩具でも見つけたかのように、心から楽しそうに言った。
「そのままの意味ですよ。彼には彼の願いがあり目的がある。その為にナイフを取るのも、彼の自由というものでしょう?」
その言葉を聞いた直後、エースの中で白ウサギの表情とソラのそれとが重なった。屋根の上でソラと交わした言葉が脳裏をかすめる。
――じゃあ……アリスを殺さずに差し出しさえすれば、後は何の制約もないってことか?
そう言ったとき、ソラは微かに笑っていたのだ。予想を超えるこの世界の実状に混乱していたのかもしれない。それでも確かに、ソラの口元には笑みが刻まれていたのだ。本人は気づいていなくても、彼は高揚を押さえるように、その手を堅く握りしめていた。
そんなソラだからこそ、傍にいるつもりだった。ソラが間違いを犯すことのないよう、助けられなかった者たちや、今も一人で闘うあの子のようになることのないよう。だからこそ、あの場に残るように言い置いたというのに。
――もし彼が、自分の後を追っていたとしたら。
そんなエースの心の内をすべて見透かしているかのように優雅に微笑むと、白ウサギはとどめの一言を放った。
「この森が何と呼ばれているか知っていますか?」
白ウサギがその問いの答えを口にする前に、エースは身を翻して夜の森を疾走していた。
「おやおや。……迷いの森は、彼をどこに導くのでしょうね」
森の中に消えゆく背中を見送り、誰にともなくそう呟くと、白ウサギもまた、夜の闇に溶けるように消えた。